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冗長だなぁと書いてて思う
武器を毀つ獣
 銀獅子、もとい、多成獣(キマイラ)と言う生物について話しておかねばならない。

 キマイラ。つまりは、我々がギリシャと呼ぶ国の神話伝承に登場する、複数の動物の因が融合した生命体(かいぶつ)の事である。
最も有名なキマイラは、ガイアの息子である台風の怪物テュフォンと、女性の上体と蛇の下半身を持ったエキドナとの間に生まれた、獅子と山羊と毒蛇の因子を持って生まれたキマイラであろう。
ホメロスのイリアスやヘシオドスの神統記等の著名な書物に登場し、絵画や彫刻など多くの芸術のモチーフとなったこの生物は、混沌の寓意として我々に知られている。

 話を我々の世界から、デュアール王国と言う国が存在する、アロイス達の世界に戻す。
デュアール王国からずっと東の国々ではマンティコア、其処よりも更に東の国々では(ぬえ)と呼ばれるこの多成獣も、我々の世界と同じような扱いである。
複数の生命体の因子が混在し、それが目に見える形で表れている動物。この重要な骨子は、共有されていた。

 何故、彼ら多成獣(キマイラ)がこの世に生を受けるのか、それは未だ解明されていない。 
母体、ないし遺伝子の提供者である雄体に何らかの異常があるという説もあれば、摂取栄養の偏りと言う説、果ては子を生んだ土地が生物の『因』を狂わせる魔の地だと言う説もある。
生れる理由は定かではないが、それでも世界には多くの多成獣(キマイラ)が確認されて来た。
鳥の翼を生やした全長数mの大蜥蜴だったり、同じく、蝙蝠状の翼を生やした黒色の象。馬の体に蛇の頭を持った不気味な生物や、猫の身体に蛙の頭と言うグロテスクな生物も過去確認されている。
多成獣(キマイラ)は決して奇形ではなかった。そう言った、その生物が有する当たり前のフォルムから逸脱した生物は総じて短命に終わる傾向が強いが、多成獣(キマイラ)は短くて十年、長寿の種となると数世紀近く生きるものもある。
加えてその生命力も、戦闘本能も逞しい。ベースとなった生物の何十倍、いや、百倍近くも強い事だってあるのだ。奇形、短命に終わる自然界の弱者では彼らはありえなかった。

 ――此処で一つ、問題提起をしてみよう。
複数の生物の因子が混ざり合った生物が多成獣(キマイラ)の定義ならば、銀獅子は果たして本当に『多成獣(キマイラ)と呼べるのか』。
銀獅子……伝聞が人々に語る所によると、銀色の毛並みと並外れた体躯を持ったライオンであると言う。目撃者は総じて、異なる生物の要素が兼ね合わさっているには思えない、そう口を揃えている。
結論を述べれば、普通のライオンの毛色を変え、サイズを大きくさせたようにしか見えないこの生命体も、実は、立派な多成獣(キマイラ)なのである。
何故ならアロイスが住まうこの世界で多成獣(キマイラ)と呼ばれる生物は、複数の動物の要素が組み合わされた怪物だけを言わず、『何らかの原因で突然変異を起こした生物』の事も指すからだ。
此度の銀獅子のように、通常の大きさと通常の毛並みから逸脱した野生動物も、この世界の基準では立派な多成獣(キマイラ)なのだ。
つまり『多成獣(キマイラ)』とは、実際にはかなり広い意味で使われる言葉である。複数の因子が混ざり合ったカオスの象徴のような生物も指せば、変異的に肉体が大きくなったりする動物をも内包する。
銀獅子とは恐らく、突然変異的に肉体に何らかの、異常と言う名の聖痕を刻まれた動物なのであろう。

 アロイス・ウリエルは、馬に騎乗した彼を隠せる程の高さにまで成長した茂みに隠れて、様子を窺っていた。
口腔と肺を絶妙に動かして、アロイスは呼吸をしていた。小さな呼吸の音である。雪が地に落ちるようにその音は静かで、彼の近くで聞いても恐らくその呼吸は察する事は出来ないであろう。
そんな静かな息の音とは裏腹に、彼の表情は決然としていた。瞳は並々ならぬ鬼気に満ち、親を殺した仇でも見るように、視線の先にいる多成獣(キマイラ)を睨んでいる。
彼の目線の先三十m程に、それはいた。銀獅子、デュアール王国を騒がせる、悪しき魔獣である。

 銀、と言う色名を冠してはいるが、その体毛はどちらかと言うと銀と言うよりは加工されて間もない鋼と言った印象で、確かに陽の光を受けて力強く輝いてはいるが、純銀の持つ高貴さは見られない。
(たてがみ)がある事から、この多成獣(キマイラ)は恐らく雄なのだろう。胴体に生えている獣毛は研磨した鋼のような色味だが、鬣の方はその名に違わぬ見事な銀色で、高貴さと、野生の荒々しさに照り輝いている。
磨いた黒檀のように艶やかに光る、鉤爪状の爪を持ち、アロイスが懐に忍ばせているナイフよりもずっと鋭そうだ。成程、鎧を身に纏った兵士を切断したと言う報告も、嘘ではない、そう信じ込ませてしまう凄みがあった。
所々に、目撃者の報告と今実際に目で見た現実とに多少の相違は見られるが、一つだけ、確かな事がある。
デカい。アロイスが実際に銀獅子を見ている距離も遠く、銀獅子自体の現在の体勢がある為実際の大きさは図りかねるが、体高二m、全長五mと言う報告は、決して誇張でも何でもない事実であった。

 あのオークが指示した方角にずっと進んで見ると、彼の言った通り、確かに銀獅子は其処にいた。しかも休息状態なのか、この多成獣(キマイラ)は眠っている。アロイスになど気にもかけない。
銀獅子のねぐらは、クラニオの森の中でも異彩を放っていた。先ず、このねぐらだけとても陽がよく当たる。と言うのも、日照を遮る枝や葉っぱが頭上に存在しないからだ。
これは何故かと言ったら、そもそも枝や葉々以前に、それを携えた樹木が存在していない。いや、存在しないと言う言い方も実は正確ではなく、実際には『存在してたがなくなった』と言う方が正鵠を射ている。
今アロイスが銀獅子の動向を観察しているこの区域はモミの木の生えるエリアであるのだが、銀獅子を中心とした直径二十m周囲にまともな形を保持しているモミが一切存在しない。
その範囲内に生えていたモミの木は全て、幹の根元近くから不細工な破断面を残して圧し折られて倒されていたからだ。木々が倒されていれば、成程葉や枝が頭上に存在する訳がない。
モミの木の多くは倒されたまま放置されているが、内何本かは、銀獅子自身の手によって、細かい木片として砕かれ、彼の敷布団代わりとなっている。存外、賢い多成獣(キマイラ)である。

 ――気持ちよく眠りおって……――

 アロイスは銀獅子のふてぶてしさに、切歯扼腕している。
果たして何百人の人間を、あの鋭い爪で原形すら解らぬ程の肉片にして来たのだろう。果たして何百人の人間を、恐らく鋭い牙が生え揃っているであろう大口で噛み砕き、その血肉を咀嚼して来たのだろう。
そしてその牙は、果たして何千人もの人間の希望や夢、未来を呑み込んで、その残滓を糞として排泄して来たのだろう。野生の世界に生きる無辜のライオンの姿をしているが、あれはまさしく悪魔(ディアボロス)なのだ。
誅戮せねばならない。デュアール王国の存在基盤を破壊するであろう、危険な魔獣として。

 死んだように静かな空間であった。
銀獅子のねぐらには、凡そ生物の気配が欠片として感じる事が出来ない。何時もなら森を我が物顔で闊歩する亜人達や妖精種は愚か、小動物の気配もない。もしかすると、虫一匹すら此処にいないのかもしれない。
あの多成獣(キマイラ)が原因である事は明らかであった。皆が皆、あの魔獣に恐れをなしている。下手に近付けば、餌にされるのだから。
暴君の如きふてぶてしさで眠り、寝息を立てる銀獅子はまさに、このクラニオの森の王者であった。

 幾度となく、あの銀獅子の強さ、そしてその悪しき所業をアロイスは耳にしている。
その事を聞く度聞かされる度に強い怒りが芽吹いたものであるが、実際に本物の銀獅子を見た時に彼が抱く気持ちは、やはり怒り。そして。もう一つ。微かな物怖じであった。
やはり現実として其処に銀獅子がいると、恐怖の念も抱くと言うもの。あの身体と爪、そして牙が、無辜の国民の命を奪って来たのだ。
その怒りによる熱が、脳蓋の中で火を吹いて燃え上がり、恐怖を焼き尽くした。恐れを抱いてはならない、何故ならアロイスは、あれに引導を渡すべく、此処へとやって来たのだから。

 覚悟を決めて、軍馬に騎乗したアロイスは茂みに隠れるのを止め、そのまま姿を現す。現したとは言え、依然として銀獅子は木片のマットの上で眠っており、此方に対して全く気を払っていない。
これ幸いと言わんばかりに、ゆっくりと彼は銀獅子に近付いて行く。音を立てずに、慎重に。地面の土と蹄が触れ合う音も葉っぱの擦れ合う音も、意識しないで聞き耳を立てぬ限りは聞こえなかった。高い乗馬技術がこれを可能とする。
アロイスのこの行動は、傍から見れば及び腰の行動か何かかと思われそうであるが、これは、銀獅子に極限まで行動を悟られたくないと言う意思が強く出た行為なのである。
相手は人間ではなく、多成獣(キマイラ)である。当然人間の騎士道及び、正々堂々と言った概念は一切通用しないし、そもそも卑怯な事をしようにも目撃者は誰もいない。
不意打ちもこの際許容の範囲だとアロイスは割り切っている。つまりこの静かな接近は、一撃で相手を屠る為の、下準備なのだ。

 銀獅子との距離が十二mを切った、瞬間。
アロイスは手綱を駆使して、軍馬に指示を出す。全力で走れ、と。その命令を受けて、風のように馬が滑り出す。
蹄が地面を抉る音が連続的に鳴り響く。流石にこの音に気付かぬ程銀獅子も愚鈍ではない。煩わしそうに瞳を開けて、起床。彼らの方向に目線を送る。
寝起きでまだ状況が今一掴めていないらしく、瞳が茫洋としている。そうこうしている間に、アロイスと銀獅子との距離が五mを切った。馬の加速は既に時速四十㎞に達し、人体に馬体をぶちかませば即死は免れない勢いへとなっている。

「いやああぁあああぁぁあああぁぁぁあぁぁぁっ!!」

 銅鑼を打ち叩いた音の如き、凄まじい気魄を口から迸らせ、軍馬に騎乗したアロイスは銀獅子目掛けて突進。
銀獅子との距離が8mを切った所で、彼は騎槍(ランス)を持つ右腕を引いていた。突進の勢いを借りて、彼は全力で銀獅子の首に刺突を叩き込む。
十字の穂先は、針金のような硬さの鬣を貫き、根元まで銀獅子の首に突き刺さった。刺さりきったその瞬間に、アロイスは右手を槍の柄からパッと離し、両手で軍馬の手綱を握る。
軍馬は銀獅子の左横を通り過ぎ、彼はそのまま馬を全力で走らせ、銀獅子から距離を取った。

「――!!」

 岩雪崩が轟く様な、銀獅子の咆哮が爆発した。
吼え声によって生じた大気の津波が銀獅子の周囲で巻き起こり、その影響で、木片のマットを十m程も舞い上がらせ、頭上を覆うモミの枝についた葉を大量に吹き飛ばす。

 ――効いている!!――

 それは、目に見えて明らかだった。効いてなければおかしいのだ。首、人間に限らず、哺乳類動物の普遍的な急所の一つである。
――人体を基準として考えるならであるが――損傷されれば大量の出血を齎す大動脈が通っており、加えて気管すらも通っている。
更に、重大な神経が数多く配列されており、そして何よりも、大脳へと通じる唯一の経絡であるのだ。首に損傷を負って、凡そ無事である哺乳類は先ず存在しない。
槍の穂先の根元まで、ずっぷりと突き刺さる。これはもう、人間であれば文句の付けようがなく即死する。

「勝った!!」

 アロイスは叫んだ。確信している。あの一撃で、自分は銀獅子を葬ったと。あの魔獣の咆哮は、断末魔。そう頭から決め込んでいた。
だが、現実は甘くなかった。あの多成獣(キマイラ)は、六百人からなる武装した人間の一斉突撃すら生き残った怪物なのだ。
首に一突き入れられた位で死ぬ輩なら、当の昔に腐乱死体となっている。

 地の底から響いて来るような低い唸り声を上げて、銀獅子がアロイス達の咆哮を睨めつけていた。
瞳は既に瞋恚に燃えており、琥珀を思わせる透き通った目が此方に殺意の籠った目線を送り付ける。寝惚けていた先程の様子は、最早見受ける事は出来ない。
首には現在進行形で槍が深々と突き刺さっており、今の所、――俄かに信じがたい事ではあるが――死ぬ様子は見受けられない。
泉みたいに湧き上がってくる憤怒の感情と殺意の前に、痛み諸々を忘れているとしか、到底思えない光景である。

 ――拙いな……――

 冷たい物が、アロイスの頬を伝った。まさか、殺せなかったとは。

 銀獅子を葬る決定打に槍を選んだのは、適当な選択では断じてない。槍が一番適任だったからである。先ずアロイスは、剣じゃ銀獅子は倒せない確率が高いと考えていた。
何故なら針金の如き獣毛と、岩のように頑強な肉体のせいで、斬る攻撃も突く攻撃も恐らく本来の威力の半分も発揮出来ないかもしれない、と言う推察があったのである。
そう言った攻撃が効果を成すには、彼がミノタウロスと言った力強い亜人並の膂力と、その膂力に耐えうる剣が必要になるのだが、そもそも膂力の時点で不可能である。前提から無理ならこの仮定は最初から成立しない。
だから槍なのである。選んだ理由は二つ。遠心力を用いて一撃を相手に当てれば、膂力の問題はクリア出来る事が選んだ理由の一つ。
次の二つ目が、槍であるから当然距離を取って戦う事になると言う事。つまり、銀獅子相手に接近戦を行う事を回避出来るのだ。
特に大きいのが一つ目の理由であるのだが、アロイスは遠心力の力だけじゃ屠りきれないと考えた。だから、軍馬に騎乗したのだ。
馬の突進の勢いと言うのは、強い。それはそうだろう、百kg超の重量が時速三十~四十㎞以上のスピードでぶつかるのだから、人間など一溜りも無く即死する。
この運動エネルギーに、彼は賭けた。馬の突進する力に、槍を突き出す力を加え、その一撃を急所に打ち込む。大型の野生動物は愚か、ミノタウロスやオーガすら屠れるであろう一発であった。

 悪くはない目算だった。寧ろよく考えられているとすら言えよう。
しかしどんなによく練られた計画でも、相手を倒せねば意味がない。現実として其処で生きている銀獅子を見るがいい。
あの多成獣(キマイラ)は、薪をくべにくべた大火の如く琥珀色の目から憤怒を横溢させ、アロイスを睨みつけている。
魔獣は完全に覚醒し、此方を殺そうとしていた。熾火のような執念であった。

 睨み合いが続く。その間、実に十数秒程。
アロイスは銀獅子が今生きているのは強がっているからで、時が経てば出血や神経に損傷が行ったショックで死ぬものと考えていたが、見たところそれはなさそうだ。
つまり、自らの手で今度こそ引導を渡さねばならない、と言う事である。

 二の手がない訳ではない。否、用意しているのが当然である。相手はあの銀獅子、そう簡単に勝利を拾える相手ではないのだ。
最初から軍馬の突進を利用した一撃で決着がつくと考える程、アロイスも楽観的じゃない。仕留め損じた場合の腹案も、ちゃんと考えているのだ。
最大の武器は馬である。先程も言ったように、馬の突進と言うのは計り知れない威力を秘めている。この馬の突進を使う。
出せる限りのスピードで馬を激突させ、銀獅子に大きなダメージを与える。無論軍馬の方もただでは済まないだろうが、問題ない。これで銀獅子が殺せれば、軍馬一頭育てるのに掛かった金なぞ塵と思える程の富と名声が手に入るのだから。
だがもし、馬の衝突ですら仕留める事が出来なかったら? その時は覚悟を決めて、懐の長剣(ロングソード)で戦うしか道はない。

「……よし」

 静かに呼吸をし終えた後、アロイスが呟いた。覚悟を決めたのだ。
銀獅子は確実に死に近付いている。でなければおかしいのだ、首に槍が突き刺さっているのだぞ? 平穏無事でいられる筈が無い。彼は諭すようにそう言い聞かせ、自らを奮い立たせた。

 その碧眼に怖い位の光を宿して、アロイスは軍馬の手綱を鞭の様に打ち付ける。
それを合図に、馬は森のしじまを引き裂く様な猛々しい嘶きを響かせてから、銀獅子の方向へと全力で駆け出した。彼は鬨を上げていない、突進すると言う前動作を悟らせない為であった。完全な不意打ちである。
重輓に適した重苦しい巨体かつ、アロイスを上に乗せ、しかも鎧を身に纏っているにも関わらず、軍馬は風のように地を滑り、数秒と経たぬ程の短い時間で銀獅子との距離を詰めてしまう。
魔獣は、突如として此方に邁進して来るアロイス達を、忘我たる面持ちで見つめていた。唐突な行動に面食らってか、皮膚が裂けんばかりに横溢させていた憤懣が煙のように掻き消えている。
獣の心は解らないが、その間抜け面からは「何をしているのだこいつらは」と言った言葉が楽に見て取れる。

 衝突まで一秒半程、と言う所まで差しかかった、その時。アロイスは、軍馬の鐙を蹴って、『後ろに跳躍』した。
軽業師の如き身軽さを以って宙を舞い、後方宙返りをする事三回。二回転目が終わった時には、ドンッ、と言う臓腑に響く様な重低音が身体を叩いていた。
着地。地に足着いたその瞬間、流れるような動作を以って、左腰の鞘から、長剣を引き抜く。
ブゥンッ、と言う風切音を鼓膜が捉えた。鞘から剣を引き抜いた音ではない。銀獅子が丸太のような右足を振り抜いているのをアロイスは確認。銀獅子のこの動作が生み出した音であった。
腕を振り抜いたであろう瞬間と同時に、何かが放物線を描いて此方側へと飛んで来て、アロイスの右脇数m先に落下した。落下の際の音には、渇きと湿りが同居している。
落ちたものは、先程まで彼が乗っていた軍馬の首だった。面甲(シャフロン)を装着して顔つきは窺えず目だけしか確認出来ないが、それだけで十分。
目は衝突した際の激痛と驚愕に、零れ落ちんばかり見開かれていた。きっと、銀獅子に体当たりを行いぶち当たった際の苦しみの表情を浮かべているに違いない。自分自身が殺された事にすら、この馬は気付けなかったのでは?

 目線を急いで胴体から分離した馬の首から、銀獅子の方向に向け直す。
馬は立ったまま死んでおり、切断された首からは案の定、際限などないのではないかと言う程大量の血潮が滾っていた。この事象に関しては問題ない。
問題は、金属で拵えられた馬鎧の首甲(クリネット)で防護された軍馬の首を、爪で切断したと言う事実だった。
成程、銀獅子の恐ろしさを物語るエピソードの一つ、『馬鎧を着用した軍馬を爪で切断した』と言う逸話に、嘘偽りはないらしい。この目でしかと見たのだから、間違いない。
此処から、アロイスが鎧を着用していようが関係なく、一撃貰えば死が待ち受けていると言う残酷な結論が演繹出来るのであった。

 首を撥ねられかつ四本足による支えも不安定である、死んだ軍馬がとうとう(くずお)れようとした、その瞬間だった。
ダンッ、と言う、鈍く響く音がアロイスの耳朶を打った。その音が生じた瞬間を彼は目にしていた為に、彼はその音自体には驚かなかった。但し、その音の原因となった現象については、目を瞠る程に驚愕しているのだが。
音の原因は、銀獅子がその太い左前足で、軍馬の胴体を馬鎧の上からぶっ叩いたからであった。馬は、この多成獣(キマイラ)の真正面に佇んでいた。
それ故に、「邪魔だから退け」と言った風に死体を払った、とアロイスは解釈している。本人からしてみれば、小虫を手で軽く払う位の力しか出していないのだろうが、その程度の力の解放で、馬が宙を舞っていた。
重輓に適した巨体、しかも、重さ四十kgは確実に達しているであろう馬鎧を装備した馬が、丸めた紙を投げるみたいに、アーチを描いて吹っ飛ばされているのだ。げに恐るべき、銀獅子の力よ。

 赤黒い鮮血を撒き散らしながら舞い飛ぶ馬体が、地に凄い勢いで落下した。落ちた先は、アロイスから見て左方十二~十三m程の所。
その重量故に、ズゥン、と地面が緩い揺れを以って応えたような錯覚を、アロイスは覚える。死んだ馬に目線を送りたい所だが、固い意思でその欲望を滅却し、巌とした目つきで銀獅子を睨む。

 相手からは、一切目線を外さない。外さないままアロイスは、まるで演舞を踊るみたいに腕をゆっくりと動かし、構えを取った。
上体をやや後ろに引き、両手で握った長剣の切っ先を銀獅子の顔面に突きつけながら、腕を前方に伸ばす、と言う体勢。
これは突き構えと言い、その名が仄めかす通り、突きに移行するのに適した構えである。多成獣(キマイラ)である銀獅子に対しては、対人間を想定して形作られた実戦剣術はあまり役に立たない。
にも関わらず、アロイスが対人戦を想定した構えの一つである突き構えを選んだのには、やはり訳がある。
先ず一つに、剣を相手に突き付けられると言うのがある。人間に対してもそうだが、剣先を相手に突き付けると言う行為は牽制になるのである。
銀獅子は、鋼で拵えられたこの長剣を武器として恐らく認識している。つまり突き構えは、『威嚇』としてあの多成獣(キマイラ)に成立するのだ。
またもう一つの理由には、相手に得物の長さを悟らせにくいと言う利点がこの構えにある、と言うもの。つまり視覚的錯覚を引き起こし、相手を混乱させるのである。
目の錯覚に乗じて、ジリジリと相手に向ってにじり寄る。一対一の戦いではかなりよく使われる戦法である。これが野の獣に対して通用するのかは定かではないが、少なくともアロイスは今、この戦法を実践に移していた。

 冷や汗が、体中の毛穴と言う毛穴から噴き出ていた。ハーフメイルの下に着込んでいる鎧下は、既に冷たい汗を吸い、水を浴びた様にびしょ濡れであった。
アロイスの尋常ならざる緊張を語る、これ以上とない証拠である。現に彼は、心臓が喉元までせり上がって来るのではないかと言う程怯え、緊張しているのだ。
それでも、接近を止めてはならない。音をまるで立てず、暗殺者の如き静かな足運びを以って、ゆっくりと、ゆっくりと。銀獅子との距離を着実に詰めて行く。

 アロイスの持つ長剣は身幅三cmで、刃渡り八十cm。刀身の形状は断面図として見ると菱形をしており、この形状は斬撃と刺突双方に優れる。
だが銀獅子の針金の如き毛並みでは、斬ると言う攻撃法は余り効果を発揮しない。突き、刺突が真価を発揮する。が、この攻撃も、銀獅子の身体の箇所次第では覿面(てきめん)どころか、効果半減以下にまで落ち込むだろう。
だから、急所を狙うのだ。多くの生命体はその急所を当たり前のように有しており、そして何より、その部位がどんなに頑張っても鍛えて硬くしようがない事もアロイスは知っている。
『目』である。目を、彼は刺突する。否、目ですらも通過点に過ぎない。目の先、『大脳』を刺突で破壊する算段で彼はいた。
脳を破壊されれば、相手が例え多成獣(キマイラ)であろうと死に至る事は自明の理。これを狙わぬ手立てはなかった。では、これすらも失敗したのならば?
その時は、首に刺さった槍を引き抜く。そして、槍で戦う。アロイスは緊張に身体と心を強張らせながらも、此処まで考えていたのだ。

「――」

 アロイスと銀獅子との距離が、かなり狭まって来た。
初め八~九m程であった間合いが、今は四m程にまで縮まっている。この距離で、かつ、彼の体術であれば、一気に距離を縮めて一撃を叩き込む事も出来なくはない、がそれは相手が人ならばの話。
相手は多成獣(キマイラ)、いや、野生の獣である。反射神経は圧倒的に相手に分がある。確実に攻撃を叩き込むには、もっと近づかねばならない。
流石に銀獅子も彼が近付いて来ている事に気付き、かなりゆっくりとした動きで、低い前傾体勢を取り出した。これは、肉食獣特有の、背後からシマウマ等の草食獣を狙う際に見せるポーズだ。

 狭まって行く。三m、二m半、二m、一m半――刹那。
腕を引いてから、アロイスは一気に踏み込み、銀獅子の琥珀色の右目に全身全霊の力と気魄を込めた中段突きを放った。
射られた矢よりも尚速く、長剣の剣尖が魔獣の目に殺到。このまま眼球を潰し、大脳を引き裂くかと思われた、瞬間であった。
何と銀獅子は頭、と言うより額から、彼の長剣の剣先とぶつかって来たのだ。これは、明らかに作為的行動、つまり、『わざと』である。
剣に頭突きをかますと言うこの暴挙、しかして、それが全く暴挙では無い事を、今アロイスは思い知っている。

 ――何と言う硬さだ!!――

 額は頭の中でも特に硬い部位である。硬い訳は単純で、頭には頭蓋骨と言う骨の下でも最も堅牢な骨格があるからだ。
しかし、銀獅子の額と言うのはこの堅固な頭蓋骨だけでなく、巌の如しと評される程の硬さをした筋肉も纏わりついている。皮一枚で頭蓋骨と隔てた人間の頭とは、防御力が段違いなのだ。
その額に剣の切っ先を打ち当てたアロイスの感想が、これである。まるで分厚い鋼の板に、全霊を込めて刺突を放ったような物だ。
攻撃した筈の彼の腕が、痺れている。しゃんとした体勢で刺突したから良かったものの、姿勢が少し変だったならば、多分腕が肘から折れていたかもしれない。
彼は、刀身が折れたのではないかと一瞬だけ慌てたが、それはなかったので、ほんの一厘だけ彼は安心した。が、全く安堵出来ぬ状況に立たされていると、彼は気付いた。

 銀獅子が、右前足を振り上げている。両足から伸びる、ピアノの黒鍵の如く艶やかな黒色をした鉤爪で引き裂くのか、それともそのまま叩き潰しに来るのか。
それは解らないが、今の状況は予断を許さぬ絶体絶命のそれだ。狼狽を隠しもしない表情で、アロイスは銀獅子から見て左の方向に踏み込んで行った。
銀獅子から見て左方、つまり、『騎槍』が首に突き刺さっているのが確認出来る方角である。
魔獣の右前脚が、物凄い加速と勢いを伴って、嘗てアロイスのいた場所に衝突する。ドガォ、と言う恐ろしげな音が響き渡ると同時に、土で出来た硬い筈の地面が、トランポリン見たいに揺れた。
銀獅子の叩き潰しの影響で、激震が生まれたのだ。またその余りの叩く強さに、地面が半径二m程の浅い擂鉢状に陥没していた。そしてその擂鉢の範囲内で、地面に亀裂が走っている。震駭すべき威力だった。
アロイスは、この肺腑すらも震え上がらせるに足る破壊の様相を、見ない事にしていた。見たら、心が折れる。無意識の内に、そう思っているのだ。

 アロイスは銀獅子の首から伸びる、樫で出来た槍の柄を左手で掴もうとする。魔獣の首から伸びるこの細い木の柄は、今の彼にとってはなくてはならない希望である。
先程、鋼の如き銀獅子の額に刺突を打ちこんだ影響で、未だ痺れの抜けぬ左腕。腕をムカデに似た多足の気持ち悪い虫が這っているような、おぞましい感覚。
これらに必死に耐えながら、懸命に柄に手を伸ばし――掴んだ!! 

「よしっ」

 小声でそう呟き、アロイスは槍を銀獅子の首から引き抜こうと、力の限り身体と腕を後ろに引いた。
クッ、と。騎槍は思いの外簡単に抜けた。その事が、彼に大きな衝撃を与えた。
槍の穂先が筋肉に完全に沈むと、引き抜く事は容易ではない。それを経験上知っているからこそ、彼も力一杯引き抜いたのだ。
だが実際には槍の穂はいとも簡単に引き抜く事が出来てしまった。これが意味する所は、ただ一つ。穂先は、実は根元まで突き刺さってなかったと言う事だ。
甘めに見積もっても、半分程しか刺さっていなかったに相違ない。でなければ、此処まで容易に穂先を引き抜ける訳に説明がつかない。
貫通した深さに対する考察の決定的な裏付けが、銀獅子の左首からの出血量である。血液の紅が銀獅子の鬣を、吸い取り紙みたいにじわじわと染めて行っているのだが、穂先まで突き刺さっていたならばこの染まるペースはもっと早い筈である。

 つまり、アロイスはそもそも、銀獅子に初手を打ちこんだその時点から決定的な勘違いをしていたと言う事になる。
致命傷を与えたという万斛の手応えを感じた初撃、実はその初撃は致命傷でも何でもなかったのだ。
馬の突進を力を借りて一突き入れたのに、何たる理不尽!! だが冷静に考えれば、あにはからんや、と言う事でもないのかも知れない。
何故なら相手はデュアール王国に根を張る悪しき魔獣、銀獅子だ。六百人もの兵卒を真っ向から血祭りに上げた凶獣なのだ、馬の突進で死ぬようなら今まで生きてこれた筈がない。

 更に悪い事には、アロイスのそんな自惚れにも近い思い違いの報い、とでも言うのだろうか。今彼には、最大の危機が訪れていた。

「――!?」

 思っていたよりも遥かに浅くしか突き刺さっていなかった槍を、強い力で引き抜いてしまった、と言う加減の見誤り。
この為に、今アロイスの身体はよろめいているのだ。このよろめきが他ならぬ、自らのミスによって引き起こされたと言うのだから、全く以って笑えない冗談であった。
戦う前の、絶対的とも言えよう自信に満ちた表情は何処へやら。今や完全に、彼の表情と心は焦燥のみに支配されていた。

 銀獅子が、琥珀色の瞳だけを動かして、此方に目線を送った、その瞬間だった。
旋風の如き勢いで、アロイスの方向へ身体を向き直らせる。それと同時に、この多成獣(キマイラ)は左脚を軽く持ち上げ、黒檀の如き色味の爪を用いて、横薙ぎに一閃。
彼の身体を胸の辺りから真っ二つに寸断しようとする。彼は、民草に憧れ慕われる、華麗なる騎士と言う体裁をかなぐり捨てて、不様に地面に這い蹲って、確実な死を与える銀獅子の一撃を回避した。
少し回避が遅れて、彼の癖毛の金髪が何本か、はらと彼の身体と地面に落下して行く。

 何時までも、春の陽を受けて暖かな地面に腹這いになる訳にも行かない。
弾かれたようにアロイスは立ち上がり、後ろに飛び退き距離を取る。着地。銀獅子から一m八~九十cm程離れた間合いである。この間合いは、騎槍の一撃をクリティカルさせられる、一番適切な間合いだった。
長剣を、鞘に水が流れるように滑らかに納剣してから、両手で樫の柄を力強く握り、槍を振り上げる。
大上段から、銀獅子の脳天に叩き下ろす算段だった。既に腕の痺れは抜けており、銀獅子も攻撃の体勢をまだ作ってない。勝利の女神なるものがいるなら、今だけは彼に微笑んでいるに違いあるまい。
ブゥンッ、と言う風切音を伴って槍が振り落とされた。そのスピードたるや、例え武術の手練れでも見切る事は不可能と思われそうなもので、第三者が傍からこの攻撃を見れば、銀色の穂先が極細の流線と化して見えなくなる程であった。
凄まじい加速と勢いを従えて、穂先が銀獅子の脳天に直撃する。生の人間が喰らえば、肉は裂かれ骨は砂塊みたいに砕き崩されて即死する程の威力だ。
金属板の全身鎧(フルプレート)の上からでも、ただでは済まぬ衝撃を与えるに相違ないこの一撃。脳天目掛けて放たれた渾身の一撃を、この魔獣は耐えていた。
逆に、槍の方が、耐えられてなかった。

 アロイスの表情は、万人が想起出来るであろう程に典型的な絶望のそれへと転じていた。
堅い樫の木で出来た槍の柄の中頃が、ベキィ、と言う不吉な音を立てて圧し折れたのだ。余りに相手を強く打ち叩いたせいで、柄の靱性の限界を超えて折れてしまった、と言う所だろう。
切り札一つ犠牲にした裂帛の一撃であったと言うに、銀獅子は死ぬ気配どころか、よろめく気配すら見せなかった。
多成獣(キマイラ)は低い唸り声を上げて、此方を睨んでいる。琥珀色の瞳からは、ギラリと優れた刀剣のように敵意が光っている。
臆病者が浴びれば泡を吹いて卒倒しそうな程濃い密度の殺気が、身体からは惜しげもなく放出されていた。今にも獣毛の一本一本から、その殺意が雫となって滴り落ちそうだ。

 怒っている。子供でも下せそうな程度の低い判断であったが、事実この判断に勝る分析は存在しない。
首に騎槍を突き刺し、馬で胴体に衝突し、額に刺突を叩き込み、脳天に槍を振り落とす。これだけやられて、激昂しない訳がない。
銀獅子は最早、氷水に身体全身使っても頭が冷めそうにない程の怒りで満ちている。アロイスをズタズタにして殺さない限り、この憤怒が収まる事はないであろう。

 低い低い前傾姿勢と取った、刹那。皮膚の下で蠢動する怒りの念と殺意に突き動かされるように、銀獅子がアロイスの方向へと発条の如く飛び掛かって来た。
口羊皮紙じみた白色をした鋭い牙の生え揃う大口が開かれており、その牙で彼を噛み砕くつもりなのだろう。冗談ではない、牙の一本一本が、子供の二の腕程の太さがあり、その鋭さは槍の穂先に引けを取らない。
あんな凶悪な牙が生えた口で噛み砕かれる苦痛たるや、まさに地獄(インフェルノ)の責め苦そのものだろう。
銀獅子が向かい来る軌道上から逃げるように、アロイスは左方向にステップを刻み、着地。一m半程の距離を離した。
ガチンッ、と言う血管や筋肉が凍て付いて機能を止めてしまいそうな、恐ろしげな音が響いた。それは、銀獅子の牙と牙が勢いよく噛み合わさった音である。
彼の身体が、震えた。武者震いだとか言う勇ましいそれではない。死の恐怖に由来する、抗い難い生理反応であった。

 ――絶対に、逃げ切れない!!――

 馬を殺された以上、人の足でこの多成獣(キマイラ)から逃れるなど不可能だ。
いや、アロイスは考えを改めた。逃げる、と言う弱気極まりない考えを彼は捨てた。自分は何の為に此処に来た? 銀獅子を屠り、斜陽のウリエル家の家名を高める為に単身乗り込んだのではなかったか。
当初の目的を思い出し、大脳と筋肉が燃え上がった。相手に背を見せ倒けつ転びつ、おめおめ逃げるなど彼の騎士道に反する。彼の表情が、忽ち赤一色に染め上った。
ヒステリックさすら感じられる挙動で、両手で握り持っていた槍の柄の残滓を地面に叩き付けるアロイス。彼もまた、銀獅子と同じく、我が身の怒りに突き動かされるように、長剣を鞘から引き抜いた。

 攻撃する箇所は、やはり急所と決めていた。
其処以外に、攻撃の通用する部分が考えられなかったからだ。針のような強度の獣毛と岩石みたいな硬さ筋肉とに覆われた銀獅子の頑強さを、アロイスはその身を以って体験している。
癪に障る話だが、今の彼の膂力では急所以外の部位に攻撃しても意味が絶無なのだ。では、どの急所を狙うのかと言うのが問題になる。その、攻撃すべき急所の考察に、必死に彼は時間を消費していた。
眼球は厳しい。目を狙った攻撃が先程失敗していると言うのもあるのだが、実はもう一つ。
目潰しと言う攻撃に言える事であるが、目と言うのは極めて狙い難い急所である。的自体が小さいからだ。それに加えて、相手は少し身体を動かすだけで狙いが大きくズレてしまう。
目は確かに傷付くと重大な支障を来たすパーツなのではあるが、その実狙って攻撃するとなると高い技量を要する、難しいパーツでもあった。よって、目潰しは選択肢から排斥。
口腔を狙う、と言う選択肢も考えた。だが相手はアロイスの、眼球を狙った不意打ち気味の刺突を無力化させる程の反射神経を持っている。
よしんば銀獅子が大口を開けて此方に迫り来て、かつ彼にその内部を攻撃する機会があったとしても、長剣の剣身を牙で噛み砕かれる恐れがある。そうなったらいよいよ、成す術はない。死が確約する。

 ――攻撃する箇所を、決めた。その刹那、アロイスは野兎の如き軽捷さを以って、銀獅子の後ろに回った。

 その箇所とは、雌雄問わず、いや、性差を持った動物であれば誰もが有し、また、誰もが急所とするポイント。
人の武術体系に於いては、警戒しておくのが当たり前となって居る程普遍的、かつ、攻撃されれば命に関わる部位である。しかしその癖、人以外の多くの亜人種や動物は警戒を殆ど払う事のない急所。
股間である。無数の神経が通っているこの部分は、人間を基準にして考えるなら、攻撃されれば気絶や昏倒、最悪の場合は後遺症すら残る程の大ダメージ或いは死亡すら免れない場所なのだ。
この多成獣(キマイラ)に対して、人間のこの法則が適用されるのかは定かではないが、何れにせよ試す価値は存分にある。

 アロイスの視界は、銀獅子の急所を克明に映していた。
この多成獣(キマイラ)の股間からは、宛ら大蛇を連想させるような、太く長く、黒々とした陰茎が伸びて揺れていた。雄であったらしい。アロイスの『もの』の五倍以上はある。
多成獣(キマイラ)の中には陰部を体内に収納し、弱点を隠してしまうものも珍しくないのだが、この魔獣は露出しっぱなしであるようだ。
これならば、好都合。しかも銀獅子は此方に注意を全く払っていない。攻撃してくれ、と言っているようなものだった。

 長剣を持つ右腕を引き、刺突の構えをアロイスは取った。
狙いは銀獅子の睾丸と、陰茎。この二つの部位を、同時に切り落とす算段だ。だが、この時彼は気付けなかった。
青銅(ブロンズ)にも似た色味と光沢を持った、長さ三m程はあろうかと言う魔獣の尻尾が、鞭みたいに撓りながら、ハーフメイルで鎧われた彼の胴体へと殺到したのを!!
バァンッ、と言う火薬を炸裂させたような破裂音が大気を切り裂いた。その音は、銀獅子の尾が凄まじい加速度を以って、アロイスの胴体にぶち当たった音である。

「ぐぬぅっ――!?」

 堪らず呻き声を上げて、アロイスの身体が吹っ飛んだ。
果たして誰が、我が目を疑わずにこの光景を見れたであろう。六十八kgにもなる体重の男が、ボールでも投げたような放物線を描いて、宙を舞っているのだ。
たかが尾っぽの一打ち、この何でもない一撃で、アロイス・ウリエルは高度三m程を仰向けの体勢でぶっ飛んでいる。俄かに、信じ難い。
銀獅子から十二m左後ろの地点に、どたっ、と言う野暮ったい音を立てて彼は背面から地面に落ちた。受け身を取り損ねてしまったらしく、頭を強かに打ってしまい、視界がクラクラする。
何たる一撃であろう。銀獅子と言う多成獣(キマイラ)は、尻尾までもが凶器であったのだ。
革の鞭みたいな靱性としなやかさを持つ一方で、その硬さは鉄と比較して間違いない程。それが矢みたいなスピードで振るわれるのだ。これでは、安易に背後に回れない。

 アロイスの視界が水辺に住まう原始的かつ下等な原生生物みたいにドロドロになって来ている。
これは拙いと、彼は喝を入れて立ち上がろうとする。膝立ちになったその時、ズキリ、と胴体が尋常ではない程の痛みを訴えかけていた。
余りの痛みに、彼はその状態から前のめりに倒れてしまいそうになる。この痛みは何事だ、そう思い彼は胴体に目線を下ろす。
鋼製のハーフメイルが、パン生地みたく凹んでしまっている。その凹みの形は、銀獅子の尾の形である所から、何が原因でそうなったかは推理するまでもない。

 ――肋骨が……!!――

 折れている。この不自然過ぎる激痛の原因は、十中八九そう考えて誤謬はない。
状況は最悪、いや寧ろ、幸いと考えた方が良いのか。銀獅子の一撃は鎧を着こんでも、文字通りの必殺。しかし尾による一撃なら、大して筋力が乗らない為に、威力も下がる。
しかも尾による一撃は頭等に向かって来るならばまだしも、何とアロイスが丁度鎧を装備している箇所に向かって放たれた。幸運が、二度も重なった。それだけ運勢が味方しても、肋骨の骨折は避けられぬとは。
やはり、銀獅子と言う生命体は、凡そ理不尽と言う概念の極致に住まう生命体であったらしい。

「おおおおおぉぉぉぉぉ!!」

 声を途中で裏返させて叫びながら、アロイスが痛みを滅却して立ち上がった。
此処で痛みに屈していると、本当に殺される。あの多成獣(キマイラ)には降参は通用しない、動かなくなれば身体は牙で咀嚼され、胃の中で溶かされて栄養分になるだけだ。
それだけは、断固として避けねばならない。アロイス・ウリエルは、生きる為、家名を上げる為、死んだ方がマシとも思える程の激痛を必死に抑えながら直立。右手に握った長剣を、中段に構えた。
この長剣だけは、尻尾の一撃を受けても手放す事はなかった。その事を内心で賞賛しながら銀獅子を睨みつけていると、魔獣が、此方を振り向いた。
肋骨が圧し折られた今、動き回って攪乱すると言う戦い方は不可能である。一撃で決めねば、本当に命がない。

 ――銀獅子が突風染みた勢いで此方へと向かって来た。
十二~三m程の距離があっと言う間に縮まり、銀獅子の攻撃の射程距離に突入する。巨体に余りにも見合わぬ速度で多成獣(キマイラ)が向かって来た為に、アロイスは反応が遅れてしまった。
彼がハッとした表情で銀獅子の接近に気付いたのは、魔獣が右前足を軽く持ち上げてからだった。魔獣は、牙を見せて顔を歪めた。獰猛な笑みを浮かべているようだと、彼は他人事のように感じてしまう。
彼は長剣の剣先を上に向けて、身体の右側をカバーするように剣身を持って行ってから、左方向に力の限りステップを踏んだ。地面から両足が離れる際に、例えようもない程の鋭痛が彼の胴体から生まれた。
しかし、こうしないと拙い。恐らく銀獅子は右脚で右から左に薙ぎ払うつもりだ。剣は攻撃が肉体に直に当たらない為の防御手段であるが、左方向に飛び退いた訳は至って簡単。
攻撃が向かって来る方向に身体ごと移動させる事で、本来の威力を大幅に削ぐつもりなのだ。相手の勢いに逆らうのではなく、その勢いに乗って防御する、と言う事である。
骨折した今のアロイスの状態では突っ立って受けるなど自殺行為だし、そもそも五体満足の上体でも出来るか解らない。これが最善策なのだ。
ブゥンッ、と、デカい斧を力の限り奮えば生じそうな程大きな風音を従わせて、銀獅子が右前足を横なぎに振るった。爪による攻撃ではないが、真っ当に喰らえば全身の骨が砕け散ってクラゲになるのではないかと言う凄みを秘めている。
剣と足が、ぶつかった――瞬間!! まだ着地出来ておらず宙を浮いていた彼は、グン、と加速。銀獅子の攻撃の勢いを、宙を飛んでいる最中モロに貰った為だ。
それは幻じみた光景であると言わざるを得なかった。六十五kgを超える体重を持った青年が、『地面とほぼ平行』に、カタパルトから放たれた石のような速度と勢いで素っ飛んでいるのだ。
常識からは考えられぬその光景。それは、銀獅子の悪魔的な膂力があって初めて成しえるシーンであった。

 結局アロイスは、銀獅子から二十六~七mも離れた地点まで吹っ飛ばされてしまった。
肋骨が折れた痛みから、上手く着地し損ねてしまい、彼は仰向けに倒れ込んでしまう。今回は幸いにも頭を打ちつけずに済んだ。視界もまだ明瞭であった。
急いで立ち上がろうとするも、右の首筋が、尋常ではない痛みを発していた。「ぐがっ!?」、と濁った呻きを彼は上げる。
それ程までの痛みだった。僧帽筋に、切っ先を下に向けて短剣を突き刺したような、恐ろしいまでの激痛。長剣を握っていない左手で、彼は痛みを発している所を摩ってみた。
――余りの悪夢に、彼の表情が血の色を失い、青くなる。右鎖骨が折れて、断層みたいにズレているのだ。
先程銀獅子の攻撃を防御した影響である事は炳乎としていた。無理な体勢、力の入らぬ状態で防御してしまった為に、こうなったのだろう。

 依然として胴体を蝕む、肋骨の痛み。そして真新しい、鎖骨の痛み。
肋骨が折れたせいで動く事が困難になり、かつ、鎖骨が折れたせいで、長剣を振るう事も出来なくなった。
アロイスは己の脳裏に、『チェックメイト』と言う言葉が光のように過ったのを感じた。逆転の芽が萌える事は、最早なかった。

「た、立たねば……立たねば!!」

 芋虫の如くモゾモゾと身体をくねらせて、何とか上体だけを起き上がらせるアロイス。
必死の表情であった。身体中の毛穴と言う毛穴から、蛞蝓みたいに粘ついた、それでいて冷たい汗が噴出している。
死の予感、そしてそれに対する恐怖を、彼の髪一本から爪先に至るまでが感じ取っているのだ。
だが、立った所で何になる。馬を失い、肋骨も鎖骨も折られた今の彼に、もうこの状況を切り抜ける術など、ないと言うに。

 亡霊ですら恐れ戦くであろう咆哮を、魔獣が上げた。大気が大波を立てて震え、モミの葉がざわざわと喧しい音を立てる。
銀獅子の殺意は、消えるどころか、未だ衰える気配すら見られない。相手をズタズタに引き裂き、咀嚼するまで絶対に許さない、と言う気概が獣毛から、琥珀色の瞳から、横溢しているのが遠目からでも理解出来る。
羊皮紙が如き色の牙を見せて、銀獅子が微笑んだ。腹を食いちぎられ贓物がゾロリと垂れた、死に掛けのシマウマを見るライオンの表情も、あんなものなのだろうか?
臓腑に霜が張り付かんばかりの、獰猛かつ凄絶な笑み。その笑みのまま、銀獅子が地を蹴った。全長五mを超す怪物が、鎧も何も纏わぬ裸の馬の全力疾走にも並ぶであろう速度で此方に迫り来る。

「ひ、ひいいぃいいぃいいぃいぃいぃい!!」

 接近に伴い、見る見る内に大きさを増して行く銀獅子を見て、アロイスが笛のように甲高い悲鳴を上げる。
尻餅を突いたまま、後ろに後ずさる彼は、恐怖の余り、括約筋が緩んでしまう。そしてその事に、彼は気付けなかった。
緩んだ尿道括約筋から、蓄えられていた尿が押し留める術なく尿道を滑って行き、彼の『もの』から壊れたように溢れ出す。恐慌が極まって、失禁してしまったのだ。
排泄されたばかりの尿の影響で、股間周りが嫌な温かさを帯びる。鎧下に染み込み、鎧下の浸透量の限界を超えて、地面にすら浸み出してしまう程の量であった。
果たして、この不様極まれりと言った風情の醜態を晒す男が、誰が果たしてあのアロイス・ウリエルだと思おうか。
先程全身甲冑で身を鎧ったオークに対して、威勢の良い啖呵を切ったあの男と、この憐みすら感じさせる程の怯えきった表情で失禁するこの男は、同一人物なのだ。
彼は、銀獅子と言う多成獣(キマイラ)を甘く見ていた。一人で倒せる、と言う思い上がり。その報いを今、死を以って清算されようとしていた。

 彼我の距離が七mを切った所で、銀獅子が跳躍。アロイス目掛けて、助走の勢いをそのままに躍り掛かって来た。
魔獣の口は顎の限界一杯まで開かれており、光を当てればギラと光るのではないかと言う程の鋭さの牙がこれ以上と無い自己主張をしている。
宇宙へと繋がっているのではないかと勘繰らずにはいられない程の暗黒が、銀獅子の喉の先に広がっていた。あの先は事実、本当の死の宇宙なのだろう。
何人の人間が、あの恐るべき牙で微塵とされ、その宇宙に飲み込まれたのか。

 死の予感を感じずにはいられない。だが、目を瞑る事が出来なかった。これから我が身に降りかかるであろう凄まじい惨劇の予感故に、瞬きすらも忘れている。
銀獅子の動きが、やけに遅く見えた。いや、この多成獣(キマイラ)だけではない。アロイスが近くしている限りの空間内で生じている全ての運動が、遅い。
走馬灯。それに類するものなのであろうか。死が確約されてしまった故に、アロイス・ウリエルの大脳が、これ以上とない集中力を発揮してしまっているとでも?
尤も、今の彼にとってそれは、生綿で首を絞める以外の如何なる意味も持ち合わせていないのだが。

 ――誰か、助けてくれ!!――

 騎士道や騎士の正義と言った虚飾が卵の殻が如く剥がれて、剥き出しとなったアロイスの心が、恥も外聞も無くそう願った。
助けなど来る筈がないと、果たして彼は理解しているのだろうか。奇跡でも起きない限りは、何があってもこの死は覆らない。

 ――その奇跡が、本当に起こってしまった。

「――!?」

 アロイスを頭から咥えて噛み砕いてしまうまで、あと一mと半と言った所で、銀獅子が混乱の雄叫びを上げた。
魔獣が此方へ向かって来る所を劈頭から見ていた彼は、何が何だか解らないと言った様子で、怯えと疑問の混淆した表情を浮かべる。
意味が解らなかった。気付いたら銀獅子が琥珀色の瞳を殺意溢れるそれから、強い困惑の宿るそれへと変化させて、彼から見て左方向に、ブーメランみたいな緩い『く』の字状に胴体を折り曲げてぶっ飛んだ。
跳躍していた為に吹っ飛びやすかったとは言え、これは信じ難い現象であった。体高二m超、全長五mを超す銀獅子の体重は、低めに見積もって三百kg、最悪半tを超えるやもしれぬのだ。
それだけの質量を持った生命体を飛ばしてしまうなど、どれだけの力であると言うのか。

 銀獅子が四本の足で見事に着地。アロイスから四m左方に離れた所だった。自分が吹き飛ばされた方向に、殺意の籠った鋭い目線を投げかけた。
其処には、身の丈二mを超えるであろう見事なまでの偉丈夫がいた。アロイスの瞳にも、その魁偉は映っている。
その魁偉は、板鋼を組み合わせた、芸術性の欠片も無い全身鎧(フルプレートアーマー)でその身を鎧い、肩の辺りから青灰色のマントを靡かせていた。
バルビュータと呼ばれる、顔面部をT字に開けた頭部を覆うタイプの兜を被り、左手には直径一m半の円形盾(ラウンドシールド)、右手にはアロイスの身長程も有るバルディッシュが握られている。
何処がどの角度から見ても、この偉丈夫は歴戦の戦士にも見えるであろう。そうとしか思えない……その顔が見える角度以外から見たならば。
簡単な話だ、この魁偉の顔は、醜悪極まりない、豚の顔をしていたからだ。彼は、オークだったのである。

「良かった。命を散らさずには済んだらしい」

 失禁したアロイスの方にその豚の顔を向けて、オークが言った。
余りにも自分の理解を越えた光景に、アロイスは痴呆然とした表情を浮かべていた。彼が漸く我を取り戻したのは、排泄してしまった尿がすっかり冷えて、腰を冷やしてしまってからだった。
銀獅子に飛び掛かられた時、死の恐怖で身体を震駭させていたアロイスは気付かなかっただろう。
銀獅子が木の葉のように吹っ飛んだのは、このオークが時速三十一㎞のスピードで全力疾走し、あの魔獣の横腹にタックルをぶちかましたからだった。


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