永遠の盲い
蝉がジンジンと鳴いていた。何十、いや、何百匹鳴いているのか。天地が鳴動しているかの如き大音声である。
夏の盛りの抜けるような晴天であると言うのに、ウリエル領の屋敷に住まう私の家族を始め、屋敷に使える使用人達1人残らず、真冬の曇天の日を過ごしているかのように沈んだ気持ちで動いていた。
心なしか、肌で感じる気温も下がったような気がしてならない。実際にはそんな事はないのに。今も私の身体を湿気を孕んだ蒸し暑い暖気が、水飴の如くねっとりと包み込んでいるのだから。
不快な蒸し暑さを忘れる程、私は悲しんでいるのかもしれない。一か月までは心底この暑さには辟易していたのに、今はまるで気にもならない。
――ナタリア・ウリエルが帰らぬ人となった。彼女は私、エイワス・ウリエルの母に当たる女性である。目を瞑ると、水車を回す様に母との思い出が、次々と思い描かれてくる。
美しい人だった。それこそ私の、年端も行かない男の子供心に、自慢して回りたかった程に。
麗しいと言うよりも、優婉で愛くるしい美貌の持ち主で、その顔だちと佇まいを体現する様に、性格の方も柔和で心優しかった。
加えて母は、魔術の方にも造詣が深かった。メイジ等が用いる、攻撃専門の魔術は一切使えないが、代わり、補助、即ち回復の術法を得意としていた。
爵位を賜った貴族の子弟、しかもその長男坊にあるまじきやんちゃな子供時代を私は過ごしていた物だが、そんな母が私を咎めるでもなく、やんちゃが行き過ぎ怪我をした私を回復の術で治癒してくれた事が懐かしい。
本当に、良い母親だったとつくづく思う。……ある一点を除けば、であるが。
母、ナタリアは光を失っていた。彼女は盲人である。
彼女自身に何時頃盲目になったのかと訊ねても、母性に満ちた笑みではぐらかされるだけであったが、私の父、アロイス・ウリエルによると、彼が出会った時には既に彼女は闇の世界の住人であったそうだ。
加えて彼女は、身体が弱かった。病気がちで、常人なら十分に栄養を取って三日も寝れば治る様な風邪も、一週間近く長引くなどよく見られた事だ。
医者の診断によると、彼女の命を奪った病気は肺炎であるらしい。医者に曰く彼女ぐらいの年になると、免疫も弱まって完治する見込みが薄くなるらしいが、元々虚弱体質だった彼女の場合輪を掛けて完治する見込みがなかったそうだ。
享年、五十七歳。彼女の身体の薄弱さから考えれば、長く生きた方である。
あれだけ身体の弱かった母が、この王国に住まう女性の平均寿命と同じくらい生きられ、加えて、七人もの子を産む事が出来た。
これはひょっとしたら、神が彼女を憐れんで奇跡を起こされていたのかもしれない、と。彼女がいなくなって私は感じ入るのだった。
ナタリア・ウリエルは死んだ。悲しい事である。
常々母は言っていた。「子供の顔が見れないのが、私には一番悲しい」、と。子供の頃は彼女の悲しみは漠然としか理解出来なかったが、三児の父となった今の私には、その気持ちがよく理解出来る。
父親である私ですら、愛する子供の顔が拝めなければ、気が狂ってしまいそうになる。それが自らの胎を傷めて子を成した母親であれば、猶更であろう。
母が死んだ事は悲しい。悲しいが、悔いはない。先の文脈から理解出来ると思うが、私には三人の子供がいる。男が二人、女が一人だ。ナタリアからしてみれば、孫が出来たと言う事になる。
盲いた母に、孫の声を聞かせ、その手で直に孫を抱かせる。考えうる中で一番の親孝行を成したつもりだと、私は自負している。だから、悔いはない。
今、私は自室にいた。立て鏡の前で身だしなみを自分で整え、その横で、ウリエル家の若い女中が最後のチェックと言わんばかりに、私の服に埃やシワがないか注視している。
白いものが混じりながらも、若い奴には負けない輝きを保つ自慢の金髪は櫛で整えられ、ここ数年から伸ばし始めた髭もキチンと体裁を保っている。
墨のように黒いモーニングコートにも皺は無く、襟元にもフケは落ちていない。身だしなみの方は、私から見れば不備はない。
「エイワス様、御見苦しい点は私の目には映ってないように思われます」
「そのようだな」
私は肯定した。女中から見ても、そう思うらしい。
私は素知らぬふりをしていたが、気付いていた。弾いた後のハープの弦のように、彼女の声が震えていた事にである。
ナタリアの死を、甚く思っている。その事が女中の声色からも、察する事は容易であった。
母、ナタリアは我々実の子供だけでなく、屋敷に奉公する使用人達や、領民達にすら気を配れる人だった。
貴族多しと言っても、使用人一人一人の名前は愚か、自分の所の領地に住まう領民全員の名前を覚えられ、分け隔てなく接する事の出来る貴族の女性は、我が母ぐらいのものであろう。
彼女自身元々平民の出であったと言うから、同情心などもあったのかもしれないが、実の子供としては、やはり生来からの性格であったと信じたい。
そんな聖人のような性格の持ち主だ。彼女の訃報を聞いた時、凡そウリエル領に住まう全ての人間が、彼女の死を悼み、我ら家族の悲しみに追従したものである。
今私の身だしなみを確認していた女中とて例外ではない。目元が朱でも塗った様に真っ赤なのだ。泣き腫らしていた事ぐらい、子供でも推察出来よう。
「(あらゆる人に、大事に思われていたのだな……)」
ナタリアが天に召されたのは三日前の夜半の事である。それ以前から肺炎に罹患し、危険な兆候を見せてはいたが、峠を迎えたのは三日前だった。
実際に亡くなるその日以前からも、家族を筆頭とした多くの人間が、彼女の無事を祈っていたが、結局神にその祈りは届かなかったらしい。奇跡のストックは、使い果たしたと言う事なのか。
多くの人々の祈りの様子を見て、母がどれだけ我々やそれに連なる家族、そして血の繋がりを持たない者達にすら大事に思われていたのかを再認した。
母は、触れれば忽ち幻のように消えてしまいそうな、美しくも脆い彫刻のように、丁重に扱われていたのだ。
遺族として、感に堪えぬ、と言わざるを得ない。故人にこれだけ思いを馳せられれば、我々としても冥利に尽きると言うもの。私は、満足である。
「私は先に行っている。到着した他の貴族方にも、挨拶に行かねばならない」
女中にそう告げ、私は早足で部屋を出ようとした。彼女の返事は、2秒程遅れていた。
罪を犯した者を除く全ての領民は、死ねばある儀式を享受する権利がある。
葬式である。母ナタリアは生涯で何の罪も犯していないし、何よりも侯爵家夫人だ。葬式を催さない訳がない。
屋敷を覆う沈んだ冷たい雰囲気の正体とは、まさしくこの葬式に起因するものであった
三日前に亡くなった母の葬式を、その翌日に行わなかったのには訳がある。簡単な話で、このデュアール王国中に散り散りになった私の兄弟姉妹を呼びに行ってたのだ。
兄弟構成は私を含めて男が四人、女が三人。私エイワスは長男であるが故にウリエル領を継いでいるが、他の兄弟達はそれぞれ自分の領地を経営し、女達は他の貴族の所に嫁いだか、或いは出家して修道院に行っている。
つまりは、この屋敷に住まうナタリアの実の子供は私一人と言う事だ。私一人だけが葬儀に参加する訳にはいかない、兄弟達を呼び戻すのに時間が掛かったと言うのが、事の顛末である。
七人兄弟がいて、葬儀に参加した兄弟は、全員。これも母の人徳の成せる業か。
今回の葬儀は家族と、極近しい親戚筋だけで行うと言う密葬ではない。先にも言ったが、私の姉妹――厳密には皆私より後に生まれたので妹達と言うべきなのだが――三人は、嫁ぎ遅れて修道院に出家した者以外は皆貴族と結ばれている。
そう、夫である貴族も付き添いで来ていると言う事になる。私個人としては彼らが随伴する義務はないと思っているのだが、律儀にも彼らはやって来た。
まぁ当然なのかもしれない。自慢ではないが、ウリエル家はデュアール王国の中でも屈指の貴族である。
妹達の夫の貴族には悪い言い方になるが、彼らに対して王国民が抱く一般的な評価は、ウリエル家よりも家格が劣る、と言う所だ。葬式に出たくないと表明する訳にも行くまい。
ちなみに母の死に際して、王国中の様々な貴族達が葬列に参加したいと言う旨を表明して来たが、私とその父、アロイス・ウリエルはそれを断った。
故人の望む所ではないと私も父も思っていたし、何よりも、母の死を機に侯爵家とナシを付けたいと言う下心が透けて見えたからだ。そう言った小物には、御引き取り願った。
落ち着きのある臙脂色の絨毯の敷かれた廊下を私は歩いていた。
弟達と、妹達、彼女らの夫、そして父アロイスの兄弟達と葬式の手筈を話し終え、大聖堂から私が寄越した高名な枢機卿が到着するまでの一時間半を、我々はこれから屋敷で過ごす事になる。
この一時間半が過ぎれば、母との今生の別れとなる。ナタリアの遺品はこの三日の間に凡そ整理し終えている。慌ただしくなるであろう事は速めに済ませたのだ。
私室で瞑想しながら、彼女との思い出を回顧しようか。そう思っていた時だった。
私の前方数m程先にある扉が、不意に開かれた。扉は私から見て左側の、窓が建て付けられていない方の壁側にあった。
扉自体は、硬質そうな木に純金による彫金と、猛々しいライオンと騎士甲冑を鎧った人間の躍動感ある戦いを繰り広げている一場面を模した彫刻とが成されている、と言うデザインである。これは我がウリエル家の家紋である。
屋敷に奉公する使用人達の私室へと繋がる、彫金は当然として彫刻すら成されてない木扉と比べると、一線を画す位の絢爛さである。
ウリエル領の領主は名目内実共に私ではあるが、その私の自室に繋がる扉ですら、今開かれた扉程豪華ではない。
しかし、あの扉の先にいるであろう人物の事を考えれば、その絢爛たるデザインは妥当な事だった。私は、あの扉の先に住まう人物を、知っている。
アロイス・ウリエル。私の実の父親、故人ナタリアの夫、今日のウリエル家の繁栄を築き上げた聖祖である。
「エイワスか、こんな所で何をしている」
疑惑の光を湛えた父の碧眼が、私を捉えた。
父は鋭い眼光の持ち主だった。胆力の無い他人が直に見ようものなら、まるで肉眼で太陽を見てしまった時のように目を逸らしてしまうのであるが、家族である私は慣れたもの。臆さずに答えるのだった。
「葬儀の参列者に今日の手筈を話しておりました。大聖堂からアーカス猊下が来るまで一時間以上の間があるので、自室で待機していようかと」
と。
「そうか。猊下が来るまで一時間以上はあるのだな。ならば良い、俺も準備が整わせる事が出来る」
「? 準備……とは?」
父からそんな事を聞かされるのは、これが初耳である。
「ナタリアの棺桶に入れる代物の事だ。お前は決めたのか」
「えぇ、私の方はもう」
母は盲目だった為、奢侈品の類には一切の興味を示さない人だった。
代わりによく愛でていたのは花である。色彩を目で楽しむ事は出来なかったが、そうでなくとも花は匂いを香らせる。
花壇の前にテーブルと椅子を置き、香りを楽しんでいた光景は私も覚えている。私は彼女の棺桶に、彼女が生前特に好んでいた薔薇の花束を入れるつもりであった。
「父上は何を入れるおつもりで?」
「追って教える」
アロイスは短くそう言った。「そうですか」、と私は言葉を返し、それ以上の事を言うつもりはなかった。
五十七歳で死んだ母は、老いと言う影から逃れられなかったか、顔と身体つきから、往年の美しさが全く見受けられなくなっていた。
しかしこの男は、アロイス・ウリエルは何時になっても老いを感じさせない、と言うのが私の印象であった。
とは言え彼も六十一歳だ。若い頃は大層な美形で評判だった顔にはノミを当てた様な浅い皺が刻まれ、癖のあるブロンドの髪には白い物が半分程も混じっている。
だが、私が彼から感じる老いはそれだけだ。恐らくアロイスを初めて見る者は、確実に実年齢より十歳以上若く見誤ってしまうだろう。四十代と言っても、通用するやもしれなかった。
それ程までに動きも矍鑠としているし、背骨も曲がっておらず姿勢もシャンとしている。目もよく見え、耳もまるで遠くない。
身体つきの方も、年を取るとありがちな、背の縮小も見当たらず、私と同じモーニングコートを着用した上からでも鍛え上げられた筋肉がよく解る。
白髪が混じったと言っても、残りの金髪は若い時分から未だ色褪せぬ輝きを放っているし、白髪の方も、白と言うよりも銀に近い色味を示している。老いは彼の髪から色味だけは奪い去る事は出来たが、活力だけは簒奪する事は出来なかったらしい。
若い頃より髪量がまるで変わっていないし、何よりも、その碧眼である。老人特有の呆けた、節穴のように活力のない瞳とはまるで違う、10代の時の如き生命力に溢れ出ている。彼の瞳だけは、私の幼い頃から何の変化も無かった。
「(母とは随分と違うな……)」
今更ながら私はそう感じ入る。
父は何故こんなにも若々しいのか。私が思うにそれは、彼が身体をよく動かしているからだろう。
歳ゆえに一線を退いてはいるが、父は昔騎士であった。戦時に備えて身体を鍛えている光景を、幼少の頃から常に目にしている。
今父が老いを感じさせないのは、その頃の鍛錬の賜物であろう。若い時分にバランスよく栄養を取り、身体を動かす。これが結果として、不自由のない老後を約束しているのだろう。
それに父は、剣を握らせれば今もウリエル家の中で最強と言われるぐらいに強いのだ。六十にもなった男が、ウリエルの血を引く十~二十代の男共よりも、である。
情けない話であるが、私も彼に組み手で勝利した事がない。ウリエル家の男性はアロイスの代以降、戦時に備えてデュアール王国中のどの貴族よりも訓練をさせる。
私だって昔も、そして今も。鍛錬を怠っていない。なのに、勝てないのである。昔に比べれば私も大分武術にも兵法にも通じている筈であるのに。
アロイスは、戦いの神に愛されているとでも言うのだろうか?
「どうした、エイワス。何を呆けている」
「……あ、いえ。何でもありません」
母が亡くなってしまい、残った親である父アロイスに対して変な考察を巡らせてしまった。
何も言葉を発さずに、父の顔を見ていた私に対して、彼は訝しげな表情を浮かべている。
「……ナタリアの死が悲しいのは解るが、お前も三人の子の親だろう。感極まって、泣いてくれるなよ」
「父上は、悲しくないのですかな?」
自分でも少し意地悪な質問をしてしまったか、と自責の念に一瞬は駆られたが、直に忘れる事にした。
アロイスの言い方に少しカチンと来たと言うのもあるが、父は、ナタリアが息を引き取ったその瞬間を私と一緒に目にしたにもかかわらず、悲しむ素振りを一分たりとも見せはしなかった。
私はそれを、否定的に受け取った。父が泣いている場面を、私は一生で一度たりとも見た事が無い。武人は涙を見せてはいけない、とでも言うのだろうか。
確かに賛同は出来るが、最愛の妻が亡くなったのなら、涙を見せても、神罰は下らないのではとも思うのだ。現に私は母が亡くなったその時、悲しみから、一筋ではあるが双眸から涙を流してしまった。
もしかすると私は、間接的に父を責めているのかもしれない。この冷血漢、と。
「悲しくない、と言えば嘘になる。俺も悲しいさ。ただ」
「ただ?」
「エイワス、お前程は悲しんでいない」
「私程、悲しんでいない……?」
「そうだ」
思わず痴呆めいた鸚鵡返しを私はしてしまった。
「それはどう言う意味でしょうか」
「ナタリアの魂は在るべき者の懐へと還ったのだ。俺と一緒にいるよりも、ずっと幸せだろう。ナタリアは、漸く本当の幸せを掴んだのさ」
「私には、理解しかねますが……」
難解な宗教の問答みたいな、父の煙に巻く言い方に、今度は私の方が訝しげな顔を浮かべてしまった。
だが父は、何処か皮肉気な薄笑いを浮かべて、かぶりを振るうだけであった。
「それも追って話す。エイワス、お前は部屋で休んでいろ。俺はさっきも言ったが、ナタリアの棺桶に入れる物を用意せねばならない。これが中々準備に手間取る代物だからな。今の内に準備して余裕を作っておかねばならない」
「ではな」、そう言ってアロイスはスタスタと早歩きで私とすれ違い、後方へと消えて行く。
絨毯を踏む父の足音が七~九歩程私の耳が捉えた所で、今更私は父の方を振り向いた。私は再度、彼の言っていた事の意味を問い質そうとしたが、止めた。
父の背中は語っていた。今はお前に語る事はしない、と。父は言葉で語らなくとも背中で物を語れる男だ。四十年以上もの付き合いだ、彼の背中が何を語っているのか私には解る。
父がこれ以上何も言うなと暗に言っているから、私が質問を投げかけなかった、と言うのもある。しかしこれは正しくない。
正確には、父、アロイス・ウリエルに対して私は頭が上がらないのだ。いや、私だけではない。およそ、ウリエル家の全人間は、彼に対して面と向かって文句の言う事は出来ないだろう。確信をもって、私は言える。
今でこそ俄かに信じがたい事であるが、ウリエル家は四十年以上前はデュアール王国の日陰物の貴族で、爵位も今のように侯爵ではなく子爵であったらしい。
領地も今の半分以下、いや、十分の一程度しかなく、何時財政が行き詰まってもおかしくない貧乏貴族だった。そんな苦しい時代からウリエル家を脱却させ、道を拓いたのが、アロイス・ウリエルなのだ。
彼は当時デュアール王国を騒がせていた、騎馬兵が百人束になっても討伐出来ないと言われたキマイラを、単身で討ち取ったのだ。
叙事詩の中の主人公めいた偉業を本当に成し遂げた彼は、一躍王国中で脚光を浴びた。彼の働きに甚く感動を覚えた当時のデュアール国王は、ウリエル家に多額の報奨金と封土を与えたと言う。
更に凄いのはここからだった。当然、突如として人気を得るに至ったアロイスに対し、妬み嫉みを抱く貴族達もいた。世の道理だ。彼はそれすらも跳ね除けた。
彼は積極的に、自ら危険な任務へとその身を投じたのだ。蛮族の撃退討伐、盗賊や職を失い荒くれ者の集団と化した傭兵達の撃滅、極め付けには、領土争いや継承争いの末の戦争の最前線への自己志願。
そしてその全てに尽く生き残り、成果を上げた。指揮官としてでなく一兵卒として武勲を上げて行き、その果てに貴族・民草達から賜った綽名が『デュアール王国の鬼神』である。
誰が呼んだか知らないこの名が王国中に広がり渡る頃には、誰も『鬼神』に文句を言う貴族などおらず、率先して裏工作をしていた貴族ですら畏敬の瞳で父を見ていた程であった。
もうこれ以上言葉を重ねる余地も無かろうかと思われるが、今日のウリエル家の栄耀栄華は、アロイス・ウリエルたった1人の手によって成し遂げられた、と言っても全く過言ではない。
であるが故に、誰も彼に対して真正面から意見出来ない。彼こそがウリエル家にとっての聖祖であるからだ。
正味の話、先程のあの鸚鵡返しと、その次の意味確認ですら、食い下がった方なのだ。傍から見れば、あれでか? と思われてしまうやもしれないが、だ。
「……」
遠ざかって行く父の背中を、私は見つめていた。
未だに、先程アロイスの言った、意味深な言葉の意味を考えていたが、考察する為の材料が余りにも不足し過ぎていた為に、止した。
それより私は、亡くなった母、ナタリアとその夫である彼を結び付けて、考える事にした。
何処かちぐはぐで、奇妙な夫婦であった。
アロイスが貴族で、ナタリアが平民の出であったからだったか? 違う。そう言った婚姻のケース自体珍しくはあるが、ない訳ではない。
それとも夫婦仲がか? これも違う。寧ろ私の父母程、夫婦仲の良い貴族と言うのもないであろう。盲目の母を率先してエスコートしていたのは、他ならぬ父であった。
父は、何処か母に対して他人行儀な面が多く見られたのだ。結婚してから年数が経っていないなら兎も角、十年、二十年以上連れ添っているにも関わらず、何時までも余所余所しい接し方と言うのもどうかと思う。
鬼神として、デュアール王国全土にその名を轟かせる英雄は、妻の機嫌と顔色を窺うような態度を常に見せていた。
ナタリアは恐妻と言うイメージからこの星と月程もかけ離れた女性だ、何をそんな怯えて機嫌を取る必要があろうか。妻を娶ってからは私は、もう少し尊大な態度でも罰は当たらないだろうと思ったくらいである。
母へのこの接し方は、ついに彼女が死ぬまで改善される事は無かった。だが先程も述べたように、――私から見た話ではあるが――夫婦仲は全く悪いとは思えなかった。
何年も連れ添った妻を持つ身からの見識である。決して彼ら2人の関係は、摩耗していなかった。これだけは、断言が出来る。
であるが故に、不自然。結婚の秘蹟を行ったとは言え、アロイスは貴族でナタリアは平民。彼の方が彼女を取り繕うのは、全くの謎であった。
父なりの、夫婦仲を冷え切らせない方法かとも考えたが、自分で考えてその線はどうも薄いだろうと考え直す。
――母は何か父の弱みでも握っていたのか?――
「まさかな……」
小声で呟きながら、私は自嘲気な笑みを浮かべてかぶりを振るった。
ありえない。母が権謀術数に長けていたなど……。そんなイメージ、欠片も抱かせない人だったではないか。
葬儀の後、その事を問い質してみよう。私は心に決めた。
何十年来の謎を、私は知りたいのだ。先程会話を交わして、確信した。父は謎が多すぎる。そしてその謎は、我々に説明される権利がある。
知らぬ存ぜぬを通されるやもしれないが、構わない。私も今回ばかりは強く出るつもりだ。逆上も、あるかもしれない。それでも私は強気を貫く。
実の子供に説明出来ない事柄をその腹に秘めた父親など、なにが父か。待っていろ、アロイス・ウリエル。デュアール王国の鬼神よ。
遠ざかって行くアロイスの父親から、私は漸く目線を外し、身体を元の方向へと戻した。
そして、自らの部屋へと足を運んで行く。その心に、父に本当の事を話させると言う決意を刻み込んで。
その事は、母の葬式で不覚にも泣くかもしれない、と言う事よりも恐らく難しいであろう
ナタリアは、ウリエル家の屋敷の中庭に埋葬される事となっていた。
これは故人ナタリアの意思決定ではない。遺族、特に我々母の子供達の決定である。しかも、満場一致だ。
中庭は彼女が好んでいた花々で咲き誇っていたし、生前中庭でよくお茶をし、度々お気に入りの場所と零していたと言う事実が、理由としては一番大きい。
今の夏の季節にこの中庭で咲く花は向日葵と、東方から仕入れた睡蓮と言う、水面に咲く淡いピンク色の花弁をもった花であった。高雅な香りが、熱い大気に溶けて甘い。
中庭には既に私を含めた遺族達が、埋葬する予定の地点を輪のように取り巻いていた。
母譲りの銀髪をした次男のジョージも、私と同じ髪色をした三男のクロードも、嫁ぎ遅れて修道院の修道院長となった長女のジャンヌも三十代になっても未だ若さを失わない次女のティファーヌも。
母の子供達は、皆沈痛そうな顔持ちである。これがナタリアの孫に当たる者達ともなると感情を抑え切れておらず、べそをかく物も少なくない。
かく言う私の背後に控える三人の子供達も、同じ状態だ。泣いていないのは長男のロイぐらいのものだ。
親戚達、即ち父アロイスの兄弟達も参席しているが、彼らもまた我々と同じように深沈とした表情をしている。私の妹の夫達も同様だ。
だが私は彼らは決して心の底からは悲しんでおらず、悲しみの仮面を被っているだけだと即座に看破した。が、その事に目くじらを立てる私ではない。縁の無い人間の葬式に参加する心境など、大方彼らのようなものだ。
ちなみに、ナタリアの親戚筋は一人たりとも参加していない。父に曰く、彼女は天涯孤独であったそうだ。
また我々血縁者や親戚達の他に、ウリエル家の屋敷の使用人達もこの場に参席している。但し全員を収容する程の広さは無い為、使用人の中でも重鎮古株のみの列席となっている。
「棺桶の方はまだですかな?」
低いが、しかし、よく通る声で誰かが訊ねた。初老を越えた男の声である。
その声質故に、この場にいる全員に聞いているようにも思われるが、その声の主は私の方に顔を向けている為、私に向かって言ったと判断するのが妥当であった。
「今屋敷の使用人に運ばせております。直に到着するかと」
私の言葉を受けて、「左様ですか」、と男は言葉を返した。言葉数の少ない男だが、私も、この場にいる遺族達も皆、彼のこの性格は既知である。
緋色の法衣を着た、年の頃六十は超えていると思われる男であった。
服装からも推察が出来る通り、彼は聖職者、それも高位聖職者である。枢機卿、即ち教皇の直下に位置する位の男だ。
彼こそが、母ナタリアの葬儀を執り行うアーカス猊下である。一般的な領民の場合には、末端の教会の神父や修道院で修行中の僧侶等が葬儀を執り行うのだが、侯爵家、しかも鬼神とまで謳われる程の英雄夫人が死んだのだ。
高位聖職者である枢機卿が飛んで来ても、つり合いが取れると言う物だろう。アーカス猊下は枢機卿、つまり下手な伯爵・侯爵家を凌ぐ程の財力を持った聖職者にもかかわらず、衣服に飾り気の類もなく、後ろめたい噂もない。
その証拠に彼のこの服装だ。緋色と言うのは枢機卿を象徴する色であるが、伊達者はこれに金刺繍を施したり、目に痛い程の光を放つ宝石や貴金属の装飾品を身に付けたり、と。聖職者であろうと言うに自らを虚飾しようとする。
その点を考えると、アーカス猊下は禁欲家である。先程も言ったように、私は彼に対する不穏な噂をこれまで一度も耳にした事が無い。聞くのは彼の厳格な性格と、死後は聖人として列せられそうな聖職者の鑑のようなエピソードばかりだ。
今回我々ウリエル家の葬儀に馳せ参じて来たのも、アロイスの要請あってと言う事もあるのだが、もう一つ。平民の女性を娶った父の騎士道精神に昔から感心していた、と言うのもあったらしい。早い話、父に敬意を払っていると言う事だ。
深い皺の刻まれたその顔付きは、彼のストイックな性格を映し出したように厳格そうで、瞳にも炯々とした鋭い光が星のように煌めいている。
彼もまた、私の父と同じく、年を感じさせない男であった。
――父。
アロイス・ウリエルは未だ中庭にやって来ていなかった。遺族の中でこの場にいないのは、父だけである。
これは異様な事である。何せ、喪主が不在の状態と言う事なのだから。しかしこの場にいる全員は、父がこの場にいないその訳を知っている。
――ナタリアが入った棺桶が運ばれる様子を見届けたい――
アロイスのこの意向を遺族達に伝えたのは、ウリエル家に仕えて長い老執事、アルフォンスであった。
この言葉に皆は何の矛盾も抱かず納得した。かく言う私もそうだった。あの夫婦が何処か不自然な面が見受けられたとしても、父がナタリアを愛していたのはれっきとした事実だ。
今生の別れとなるなら、せめて出来るだけ長く死に顔を見てやりたい、と言うのも人情であろう。そして、この事情をアーカス猊下は知らない。だから先程私にその事を訊ねて来たのだ。
――この中庭へと通ずる、樫の木で出来た差し渡し五m程にもなる観音開きの扉が、コンコンと硬質な音を立てた。
扉の向こう側のノッカーで、扉を叩く音であった。遂に、やって来た。「入れ」、私は簡潔にそう命令した。
私の言葉を受けて、扉は開かれる。完全に開け放たれた扉のほぼ中央に、表面を金属板で覆った木材を長方形に整えた棺桶が見えた。
金属によるコーティングの訳は、そのまま木を埋めてしまえば棺桶が腐敗してしまう為である。金属の分が重い為に人力で運ぶ訳には行かず、小さな車輪付きの鉄製台に乗せ、男の使用人2人掛かりで運んでいた。
運んでいるものが運んでいるものの為、使用人達は慎重に台を転がして行く。車輪が、中庭の芝生の上に接地し、自重の僅かに沈む。しかし運ぶ側もそう言った事態は心得ている為、特に慌てるでもなく此方に棺桶を運んで行く。
棺桶が運ばれてくるのは当たり前である為に、私は何も疑問には思わない。問題は、棺桶と同じ様に何かを運ぶ音が、二重に聞こえると言う事である。
その音は、棺桶の後ろから聞こえて来るようだった。棺桶を運ぶ車が完全に中庭に乗り出すや、その後ろの車は棺桶の右側へと回り込み、並行して目的の物を此方へと運び出す。
運ぶ車は棺桶を乗せたそれとは違い、極めて原始的な構造をした台車と言った風情で、その上にはある物が乗せられていた。此方は屈強な男使用人一人が、辛そうに運んでいた。
それは鎧兜であった。私はウリエル領を継いだれっきとした領主であるが、同時に戦時には最前線で戦闘する事を誇りとする騎士である。当然剣や鎧、兜の類には造詣が深い。
私は運ばれた兜と鎧を直に鑑定する。この場にいる遺族の中で、私と同じ事を行ったのは、アロイスの血を引いた次男ジョージと三男クロード、四男ギョームだけであった。
鎧と兜共に、無骨な鋼色。先ず兜の方は、バルビュータと呼ばれるタイプの兜だと、私は即座に看破した。
バルビュータとは頭部をスッポリと覆うタイプの兜であり、多くの場合視界の確保の為顔面部をT字型に開けている傾向が強い。この兜は正にその、オーソドックスなタイプである。
問題は、鎧の方である。青灰色のマントが取り付けられた全身鎧だが、この全身鎧と言うのが問題なのだ。
全身鎧と言うのはその名が表すように全身を覆う板金鎧である為に、矢や剣、棍棒やメイスに対して絶大な防御力を誇る。速い話、人間の膂力で振るわれた武器で殺される事は先ずなくなる。
しかし、この全身鎧には唯一にして最大の欠点があった。上記の長所を帳消しにして余りある、だ。
『重い』のである。それはそうだろう、体全部を板金で覆うのだから、当然その重量は半端な物では無い。その重量は二十五kgあればまだ良い方で、下手な物だと五十kgを超える物もある。
戦場では常に激しく動きまわる必要がある。この鎧を装備して戦うと言う事は、子供一人、いや場合によっては成人した女性一人背負って戦うのと同義だ。
斯様な状態で、戦える訳が無い。機動力を削がれた兵士は、複数の兵士に袋叩きにされるのが宿命である。その為に普通の騎士や傭兵は、ハーフメイル、或いは軽い鎖帷子を装備するのが普通である。
そんな、装備しているだけで、奇異の目線に晒される全身鎧。だが、この運ばれたこの全身鎧は更におかしかった。
大きいのだ。爪先から首筋まで、二m程もある。当然これだけの大きさだ、重量も半端な物ではない事は子供でも理解出来る。概算ではあるが、私はこの鎧の重さは七十五kg程はあろうかと推測した。
ありえない。私の率直な感想である。
兜と鎧を合わせて推理するに、この鎧兜の装備者は身の丈二m三十cmを超える魁偉の持ち主と言う事になる。先ず其処からして怪しいのだ。そんな巨躯の持ち主、果たしてこの世界にいるのか?
加えて、その存在したか如何かすら疑わしい人間が、この装備を身に纏って、そもそも動けたのか如何かすら怪しい。断言してもいいが、私は運ばれたこの装備を身に纏って動く事すら出来ないだろう。
この全身鎧と兜とはそれ程の品だ。私は当初、インテリアの類が運ばれて来たのかとも思ったが、徐々に近づいて来る鎧兜を見て考えを改めた。
鎧と兜に付いている大小無数の擦過跡と凹み跡は、実戦で使われた何よりの証。つまり、いたのだ。この鎧兜を装着して実際に戦った鬼神が。
「お待たせして申し訳なかった」
並行して此方へと運ばれる車2つの後ろから、老いた男の声が聞こえて来る。
冬至の夜闇のように黒いモーニングコートを着用した、下手な中年よりも生気に満ちた六十男。我がウリエル家の聖祖、アロイス・ウリエルだった。
「妻ナタリアの棺桶の中にどうしても入れねばならない品を運んでいて遅れてしまってな……アーカス猊下、面目ない」
「……あ、いえ」
アロイスは運ばれる鎧兜に目線をやってから、猊下の目に視線を合わせ謝罪した。猊下の方は鎧兜の異様に目を奪われ、返事が遅れてしまったらしい。
我々は衝撃を受けていた。特に私が受けたそれは他の者の比ではない。
何と父の言う、母の棺桶の中にどうしても入れねばならない代物であるらしい。あの鎧兜が、だ。
誰がどの角度から見ても使い古されたと言う事が一目で解る、草臥れた鋼色の鎧兜。機能一点のみを重視し、見た目の華麗さと言う『華』がない鎧兜。
父は、あれを入れてやりたかったと言うのか? 何故だ。
鎧兜だけに目を奪われていたが、よくよく見ると、棺桶の方も奇妙だ。大きい。縦長五m程もある。母の身長は一m五十cm程であるから、この大きさは度を越している。
だがこサイズは、あの鎧兜を入れる事を前提として父が事前に、ウリエル領の大工に拵えさせたのだろう。つくづく抜け目がない。
それに、これだけ大きければ、花が溢れ出る事もあるまい。――腑に落ちないが――私は良い方向に物を考える事にした。
棺桶を運ぶ使用人二人が、それを乗せた台の高さ調節レバーを回し、キリキリと徐々に高度を落とさせて行く。
これで、皆が献花しやすい高さになった。背の低い子供も不自由しないだろうし、埋める時にも苦労はしない。
私は、母を見下ろした。目を瞑り、眠っているように死んでいる。今にも寝息すら聞えそうである、だが現実にそれはありえない。此処にいるのは、ナタリア・ウリエルの亡骸なのだ。
心臓が最早鐘を打つ事もないし、血が体中を廻る事も無い。身体の全ての機能を停止させ、永遠の休止に彼女は入ったのだ。
これが最後の別れとなると、感慨深い物が有る。彼女は白いドレスを着用していた。屋敷にいる時は、平民時代の癖が抜けないのか簡素な服装で過ごす癖が消えなかった事を思い出す。今彼女が着ているのは、死出の晴れ着。死に装束だった。
「おい、お前達」
思い出を走馬灯のように思い出させていた私であったが、アロイスの言葉で現実に戻される。
父の言葉を受けて、棺桶を運んでいた二人と、鎧兜を運んでいた一人が協力して、棺桶の中に鎧兜を入れて行く。双方共に、ナタリアの足元に置かれている。
「では、猊下。経文の方を」
「解りました」
アーカス猊下はコクと頷き、懐から聖句が記されているであろう分厚い書物を取り出し、咳払いの後、低い韻律で、経を唱え始めた。
死者を慰め、天の国へと安心して逝ける事を死者に約束する為の物であったと、私は記憶している。
猊下の卓越した経を音響に、我々は献花を始めた。先ずは私の方が、茨を丹念に抜き取った薔薇を、ナタリアの顔の近くに安置させる。
手の甲と、彼女の頬が少し触れた。血の熱を失った彼女の身体は、夏の暑さを忘れ去らせてしまう程に、冷たかった。氷室に安置された氷を触る思いであった。
「(母上……父は、何を隠しておられるのです……)」
心の中で、魂と一緒に心すら死の国へと旅だってしまった、母の抜殻に私は語りかける。
返事が返るべくもなく。瞑目し、私は心に決めたのだった。父に、改めて過去に何があったのか。
棺桶から私は手を離す。右手の甲には、死の冷たさが未だに残っているのだった。
父の部屋へと繋がる扉のノッカーを、私は叩いた。
逸る気持ちが抑えられなかったかも知れない。音が少々乱暴であると、ノックしてから気付いた。
「入りなさい」
それに対して怒るでもなく、父は入室の旨を私に告げた。
「失礼します」、扉を開けてから私は父に挨拶し、中へと入る。父の部屋は十平方mと侯爵家の一員、それも聖祖として崇められている男としては異例の狭さであり、調度品の類も極少数。
恰好を整える為の立て鏡と、人一人眠れるのがやっとの大きさのベッド、執務机、そして、床に敷かれた赤絨毯だけであった。
高価な物に拘りを見せない、父の質素な性格が一目で理解出来る。そんな部屋だ。
父は私に背を向けていた。マホガニーの執務机の向こう側の壁、其処は長方形の大窓があった。
この部屋は正午から陽が沈む時に掛けて、アロイスが身体の前面を向けている大窓から一番日光が入る部屋だ。今は太陽は最頂点から少し沈んだ位置にある。日が暮れるまで、あと5時間以上もあろうか。
「聞きたい事があります」
扉を閉めてから、私は単刀直入に訊ねた。
「解っている」
父が振り向いた。
「何時かは話しておかねばならぬと、思っていた。最早、この事を知るのは世に俺だけだからな。墓場に持っていくのは、余りに卑怯だ。全て話す」
私は生唾を飲んだ。私の耳にその音はよく響いた。父もきっと、その音を聞いたであろう。
「あの鎧はな、俺の戦友が身に纏っていた形見なのだ」
「では、あの鎧兜を身に着けていた者は……」
「いた。強かった。恐らくは……俺よりも。そして、誰よりも信頼出来る男だった。俺が安心して背を任せられる程に」
頭を棍棒で叩かれた様な衝撃を私は覚えた。立て鏡に映った私の表情は、何ともはや間抜けなものよ。
あの父が、他人の強さを認める事が殆どない程頑固で、そして事実強い父が、あっさりと認めてしまったのだ。
今は土の下に母と共に埋められてしまった、あの鎧兜の装着者は、強いと。そして恐らくと言う言葉が伴っているが、自分より強いのではとも、認めたのだ。
「何年前に、その騎士は亡くなられたのですか?」
話の流れから、その男は既に過去の人間である事を私は理解していた
「四十年前。俺が、あの銀獅子を倒した年だ」
銀獅子。私はこの獣の名前を幾度も乳母から、そして父の親戚から聞かされて来た。
この獣こそ、父が華々しい栄耀栄華を切る事となった出発点。つまり、父が単身で討伐したキマイラであった。
「今だから言おう。エイワスよく聞け。俺は今でこそあの銀獅子を一人で倒したと言うのがデュアール王国の常識となっているが、それは違う。本当は、協力者がいた。その協力者こそが――」
「あの鎧の……」
「その通り」
再び、脳天に強い打撃が走った。だがこの打撃は、先程のそれよりも衝撃的だった。
子供の頃から、一片の疑いもなく信じて来た事が打ち砕かれた衝撃だった。父は、一人であのキマイラを倒していなかった。
父の伝説的な英雄譚は、その初っ端からして既に嘘であったのだ。
「父よ……何故その事を、皆知らないのですか? 協力者がいたとは言え、たった2人であの銀獅子を倒しただけでも十分な栄光は約束されていた筈。父よ、そのもう一人の英雄は、何処の家の男なのです」
侮蔑を込めて、私は詰問した。許しがたい罪を犯した者を詰る、脅しにも似た声。父は、瞳に哀しげな色を宿して、口を開いた。
「……先ず第一に、その男は銀獅子との戦いの最中に、命を落とした」
「それでも、残された家族に恩賞は約束される筈」
「家族が居れば、俺は確かに正直にその事を打ち明けた。だが、その男は家族がいなかった。没落した騎士の家柄でな、その男は家族は愚か、使用人一人残らず失った騎士なのだよ」
「なんと……」
今度は私の声色が、悲哀を帯びる番だった。
「『華』を咲かせんが為に、俺の銀獅子退治に手を貸してくれてな……その結果、命を落とした。奴……『ヘスリヒ』の家系は、其処で絶えた。
俺も当時の国王にその事を言おうとしたのだが……その時は銀獅子を討伐するのに俺も当時のウリエル家の財力を殆ど費やしてな。如何しても、奴の分の恩賞が必要だった……」
「……その男と母の関係は?」
其処である。『ヘスリヒ』と言う男が、父にとって掛け替えのない友人であった事は理解出来た。
しかし、それと母の関係が掴めない。その形見を他ならぬ棺桶の中に入れる程なのだ。かなり親密な関係であった事は、誰にだって理解が出来る事だ。
「フィアンセだ」
父は素早く答えた。近くで稲妻が落ちたような驚きに、私は己の双眸が瞠若するのが解る。
「ヘスリヒと当時のナタリアは恋に落ちていた。ナタリアも銀獅子に家族を殺された家亡き子でな……互いに同情心があったのだろうよ。其処から、恋に落ちたのだろう。
奴が銀獅子討伐に協力したのはナタリアの為でな。ナタリアはその当時から既に盲目だった。当然、盲目であの薄弱な女が生きて行ける程世の中は甘くない。……ヘスリヒは、彼女を守りたかったのだろう。
その為には何としても、銀獅子討伐の末の恩賞が必要だった」
「……だがその騎士の鑑は、その最中に死んだ」
「そうだ。これでナタリアは、再び天涯孤独となった。俺にはそれが哀れで哀れでしょうがなかった、と言うのもあるのだが……、彼女に俺は、恋をしていた」
「それが……結婚の経緯ですか……」
茫洋とした口調で、私は父に聞いた。
父は目を瞑り、数度の呼吸の後、臓腑の痛みを堪えるような様子で口を開いた。
「……如何なる遁辞も俺は言わない。俺は、……親友の許嫁を、寝取ったのだ。親友が受け取るべき富を、強奪したのだ。己の欲望と、ウリエル家の存続の為に」
「……最低な男だ」、最後に父、アロイス・ウリエルはそう締めくくった。
四十年と言う長い年月の間、ずっと秘され、厳重にフタをされていた真実が、これであった。
父は一人で銀獅子を倒していなかった。其処には彼と同じ位強いヘスリヒと言う鬼神がいた。父はその鬼神が受け取るべき当然の富を奪い、ウリエル家の名を高めるのに利用した。
そして、父は、その鬼神が最も愛していたであろう許嫁ナタリアを自分の物とした。成程、だから父は、今までナタリアに対して何処か怯えたような態度を見せていたのか。
私の四十年来の謎が、夏の陽に当てられた氷のように潮解して行くのを感じた。
「父上……貴方が如何なる思いでこの事を隠されていたのか、私には察するに余りある」
数往復かぶりを振るった後、私は真っ直ぐ父の方を見て言葉を紡いでいた。
父は私から顔を背けていた。あの、「人と話す時は真っ直ぐ目を見ろ」と厳しく子供達に躾けて来た父が、である。
「当初は軽蔑もした……だが、今なら私の気持ちを貴方に表明出来る。……貴方はやはり、後世に伝説として語られて然るべき騎士の鑑であった。
無念にも志半ばで倒れてしまった、ヘスリヒ殿にも貴方は勝るであろう。貴方の子供としての贔屓もありますが……私は、世界中のだれに対してもそう宣言出来る」
淀みなく、私は父に己の思いを馬鹿正直に告げた。
父は、懊悩していた。苦悶していた。己一人が富を独占してしまったと言う強欲さに。親友の女を奪ってしまったと言う後ろめたさに。
実は一人で銀獅子など倒していなかったと言う、自らが築き上げてきた英雄としてのイマージュが崩れかねない事に、彼は誰よりも怯えていた。
私はそんな事はないと、父を本心から慰撫した。例え父が斯様な自己嫌悪を抱いていたとしても、私は父の教育のおかげで立派な男に成れたのだし、父の築いた財のおかげで何不自由なく生活している。
そして父は誰よりも母を愛していた。それは子供達の目から見ても明らかな事実だったではないか。だから私は、彼を慰めた。それが、血を分けた子供の勤めであろうと、私は固く信じていた。
――父は泣いていた。初めて私に見せる、欷泣の様相だった。
――感極まったか……――
私は、そう思っていた。……だが、それは違っていた。アロイスが泣き始めてから数秒後の後に開かれた口から出た言葉が、その証拠だった。
「……やめろ、やめ……てくれ。お、俺は……最低な……、男なんだ……この世界で誰よりも卑怯な……男なんだ……」
子供のように泣きじゃくるアロイスを見て、私は困惑する他無かった。
父が見せた涙は、感動から来るものでは無かった。それは、先程よりも強い自己嫌悪の発露だった。
父は結局、そのまま十分間も泣き続けたのであった。
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