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山本太郞の天皇直訴問題 - 五つの視点から考察する
山本太郞の問題について考察する。(1)「天皇の政治利用」になるかどうか、(2)「ルール違反」かどうか、(3)マスコミ批判の問題、(4)両陛下の心労の問題、(5)政治的効果の問題、、等々について検討したい。昨日(11/4)のTWでこう書いた。「テレビの撮影が集中した園遊会の場で、国会議員が、天皇陛下に政治的な内容を含む請願の書面を手渡したら、それは『天皇の政治利用』の行為になります。『天皇の政治利用』にはならないという主張は、どれほど論理を細工しても詭弁です。安倍晋三による同じ行為との違いは、悪質か良質かの違いです」。それに対して、宮内庁が、「山本太郎の行為は非常識だが、『政治利用』とまでは言えない」とコメントしているという反論が返ってきた。ネットを見ると、山本太郞を擁護する者たちが、この一節をしきりにTWで拡散し、反駁と正当化の武器にして活用している。この一節は、毎日の記事から切り取ったものだが、巧妙に文章を細工して、意味を変えていることに気づく。原文は、「同庁幹部は『陛下の意見を求めたりしているわけではないので<政治利用>とまでは言えないかもしれないが、皇室の行事を利用して自らの主張を広めようとする非常識な行為だ』と話す」である。宮内庁は「『政治利用』とまでは言えない」と断定しているわけではない。「『政治利用』とまでは言えないかもしれないが、」と言っていて、「非常識」にアクセントが置かれている。意味が違う。


この宮内庁の幹部の発言には注目する必要がある。誰がこの言葉を発し、マスコミに書かせたかという点だ。答えは、天皇陛下である。両陛下の配慮の反映だ。こうして、山本太郞へのバッシングが高揚したとき、両陛下が山本太郞を守るべく、敢えてこの「『政治利用』とまでは言えないかもしれないが、」の一言を挿入させ、攻撃世論の沈静化を図ったのだろう。まさに「大御心」の発動である。山本太郞の窮地を救うべく「大御心」の所在を暗示した政治だと観察できる。天皇の意向や判断を無視して、宮内庁の幹部が勝手にマスコミに発言することなどできない。この宮内庁幹部の発言は、そう読み解くのが適当だろう。しかし、だからと言って、山本太郞の行為が「天皇の政治利用」に該当しないかと言えば、決してそのようなことはなく、宮内庁幹部がマスコミに漏らした見解は免罪符にはならない。今回の行為が「天皇の政治利用」にはならないという解釈で決着したなら、国会議員は誰でも自由に天皇に請願の文書を手渡して構わないということになる。園遊会は陳情と嘆願と示威の場になる。マスコミ報道にあるように、実際には、国民からの両陛下への手紙は、日々、侍従が受け取って目を通し、スクリーニングされて両陛下に届けられている。山本太郞が私的に手紙を天皇に渡したければ、他と同じく郵送の方法を選べばよかった。それをせず、マスコミのカメラが集中する中で敢行したことは、まさしく政治的示威に他ならない。

騒動に発展することは事前に予測できたはずで、意図的に「事件」を起こしたのであって、福島の原発労働者や子どもたちの健康と環境の問題に光が当たるように、そこに世間の関心が向くように、敢えて禁忌を犯して直訴の行動に出たのである。「事件」を起こして、原発労働者や福島の子どもたちへの行政の対応が改善されるよう、政策が変更されることを求めて動いたのだ。これは、まぎれもなく国会議員の政治行動であり、政治目的のパフォーマンスである。「政治的行為ではない」とか、「直訴の内容に政治性はない」という主張は当たらない。手紙の中身が、例えば、「病気の母をお救い下さい」という私的な嘆願とか、「雅子妃と仲良くして下さい」という要望なら、まだ、その行為の政治性は稀釈されるだろうが、原発事故対策という国の政策を直截に問題にしている以上、その行為の政治性を否定することは無理だ。園遊会は皇室が主催して天皇が来客を歓待する場であり、そこで国会議員が政治目的の行動に及べば、それは当然ながら「天皇の政治利用」になる。そこから、天皇が内々に動いて内閣に水面下の働きかけがあるにせよ、マスコミと野党が原発労働者問題にフォーカスして事態が動くにせよ、それは山本太郞が期待した政治的果実が達成され、意図と目的が実現されるという図であり、すなわち、天皇は山本太郞に政治的に利用されたことになる。憲法はこのことを禁じている。思惑を持った政治家や政治勢力が皇室に接触し、天皇を動かして国政を動かすことを禁じている。

ルール違反になる。憲法違反の行為である。憲法第4条に違反する。山本太郞を擁護する一部の弁護士などが、法律論を細工して「違法行為ではない」と言い張っているけれど、理屈を捏ねて無理にクロをシロにしているだけで、法の不備を衝いて解釈と詭弁で窮屈に法的正当性の余地を見出しているだけだ。こうした立論で今回の行為を合法化しようとすれば、逆に、政府の側は、それなら請願法を厳密に改正しようとか、園遊会法を制定しようとかという逆襲の動きに出るだろう。そうなれば、反動を強めるだけで、天皇を国民から遠ざけて国家権力のカーテンの中に閉じ込めるだけであり、国民にとって何の意味も利益もない。また、擁護論の中には、そこに政治目的があるにせよないにせよ、天皇に国民が手紙を渡す直訴の何が悪いという主張もある。どんどんやれという意見であり、タブー破りを歓迎する一部の海外の視線とも思想的に重なる立場だ。この主張は、煎じ詰めれば天皇制解体論に行き着く見方であり、象徴天皇制を認め置く現行憲法を否定する立場に繋がるものだ。共和制を志向するラディカルな議論で、ネット上では多く散見される。が、この極論が国民多数の支持を得られるとは私は思えない。こうした直訴解禁論・積極容認論の乱発は、むしろ、保守派が圧倒的な一般の政治意識の現状において、山本太郞に対する「非常識」の印象を強め、異端の表象性の度を濃くし、レッテル攻撃の効果を高める作用をもたらすだろう。

次に、マスコミへの批判の仕方について、山本太郞とその同調者に同意できない点がある。報道されたり、ネット情報で流れている山本太郞の発言を見ると、山本太郞がマスコミ一般と敵対し、「今回の問題が『天皇の政治利用』になったのは、マスコミが騒いだ結果だ」と反論している姿勢が窺われる。私が問題にするのは、このときの山本太郞の「マスコミ」の言葉遣いだ。指摘しておきたい重要なポイントとして、朝日と毎日の報道は、決して山本太郞に対して全面的な批判論調ではない。朝日は11/2(土)の紙面でこの問題を取り上げているが、山口二郎のコメントを載せ、山本太郞だけを叩くのは公平でなく、主権回復式典の天皇出席や五輪招致への皇族派遣こそが「天皇の政治利用」として重大な問題だと言わせている。政府の方を批判している。毎日の記事は、上に説明したように、「『政治利用』とまでは言えないかもしれないが、」と留保を語った宮内庁幹部の発言を載せている。実は、これは宮内庁の公式見解ではなく、あくまで一人の幹部の個人的発言だ。朝日の記事には、「明らかな政治利用だ」と断じている別の宮内庁幹部の発言が載っている。つまり、宮内庁は意見一致していない。基本的には、役所として「明らかな政治利用だ」の立場だが(朝日)、両陛下の心情の暗黙の伝達として、それと対立する発言を別の幹部の口から出させているのだろう(毎日)。いずれにせよ、朝日と毎日の記事の論調は、産経とは全く異なるもので、山本太郞に正当性の余地を残し、マスコミ全体が袋叩きする構図になることを避けている。

すなわち、山本太郞を弁護する者は、マスコミ全部が敵で四面楚歌だという認識を捨てなくてはいけない。「山本太郞vsマスコミ」という図式を掲げて安易な政治戦に挑んではいけない。もっと具体的に指南すれば、山本太郞とその陣営は、「マスコミは」という言葉遣いで抗弁するのではなく、「一部のマスコミは」という言い方を慎重に選ぶ必要がある。山本太郞を敵視して猛然と叩いているのは、「全部のマスコミ」ではなく「一部のマスコミ」であり、もっと細かく観察すれば、産経とフジだけなのだ。山本太郞を政界から抹殺すべく全力でバッシングしているのは、政権と右翼マスコミと右翼ネットであり、早い話が右翼勢力なのである。その事実を冷静に見極めなくてはならない。そして、粗っぽくマスコミ全般を敵に回して好戦的になる態度と口調をやめなくてはいけない。この点を忠告する。マスコミの中にも味方はいて、宮内庁の中にも味方はいる。何より、両陛下が心情的にサポートの立場を堅持している。さて、その両陛下の心労の問題だが、持病のある80歳の高齢で、水俣に行き、園遊会に出て、叙勲式をこなし、激務で疲労困憊の両陛下に、これ以上の心労の負担をかけ迷惑をかけるのは、それは問題ではないかと率直に感じる。山本太郞が園遊会であの行動に出れば、そこから政局を揺るがす騒動が広がり、両陛下が収拾を案じて心を砕くことは目に見えている。詰まった行事日程の中で、情報を集め、侍従の意見を聞き、どうすべきか悩むだろう。煩わされる。体調に支障を及ぼすかもしれない。そのことを憂慮する。

国民は、この件で天皇陛下がどう対処するか、周囲にどう指示を出すか、注目してじっと見守っている。言葉が欲しいと思い、福島の子どもたちや原発労働者の健康問題に改善の徴候が出ることを期待している。両陛下は、「天皇の政治利用」の禁止と、(福島原発問題での)国民の熱い期待と視線の中で緊張し、神経を磨り減らすことだろう。来月下旬には天皇誕生日があり、そこで言葉を発さなくてはいけない。山本太郞の直訴問題を文面からスルーしてしまうと、それは国民の期待を裏切ることになり、憲法第1条の前提を崩すことに繋がる。なぜかと言えば、天皇の地位は、主権者である国民の総意に基づくものだから、天皇は常に国民の信頼と尊敬を集める存在でなければならないのだ。山本太郞とその同調者は、天皇は国民の象徴なのだから、国民が困っていることは知らなくてはいけない公的立場であって、福島の原発労働者や20msv環境下の子どもたちの健康被害について、真面目に向き合うのは当然だという言い方をしている。一つの正論に違いない。だが、そこには「天皇の政治利用」禁止という憲法の原則があり、そして両陛下自身の健康と体調の問題がある。機械的には正論はワークしない。「天皇だから責務として当然だ」という発想と前提は、あまりに原理主義的で、乱暴で無遠慮ではないかと私には思える。病身の高齢者への身体への配慮がなく、そこに棘のある底意が、すなわち天皇制廃絶論を肯定する意識が見え隠れしているように感じられてならない。そこから、山本太郞が本気であの直訴に及んだのかという疑念が私には生じる。

山本太郞は、本気で結果を出そうと思ったのか。結果を出せると踏んだのか。政治を動かせると計算したのか。宮内庁と政権としては、「天皇の政治利用」の前例を作ってはならないというのが立場だから、山本太郞の行動の結果、何か改善の動きが発生したという既成事実ができないよう、逆に福島の現状を凍結し固定させる(=事態を改善させない)方向に動く可能性が高い。そうなれば逆効果だ。もし、福島の現状を1ミリも動かすことができず、この騒動によって秘密保護法反対の気運が減衰し、さらに天皇を国民から遠ざける皇室立法が措置されたとしたら、山本太郞の短慮と軽率がもたらした政治的過失はどれほど大きかったかということになる。


by thessalonike5 | 2013-11-04 23:30 | Trackback | Comments(0)
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