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お待たせ致しました。今回は「新選組の剣術を考える【2】」です。

記事/歳三

幕末期の京都で血生臭い暗殺劇を繰り返していた倒幕過激派志士にすらも恐れられた新選組。土佐の勤王志士で陸援隊々長・田中光顕にして「新選組は怖かった。中でも土方が怖かった。彼らが隊士を連れて都大路を歩いてくると我々は路地から路地に身を隠したものだ」と言わしめたのは有名な話です。一口に「新選組は強かった」という話はどこでも聞かれるのですが、具体的にどう強かったのか、今回はその辺りに触れたいと思います。
浪人や町人、農民といった様々な出身の者が集まって出来上がった新選組は烏合(うごう)の衆の寄せ集め集団でした。武士団ではない彼らに必要だったものは武士をも超える比類なき戦闘力とそれを統率する鉄の組織力であり、この二つが新選組最強のキーワードです。

 

田中光顕(たなか・みつあき) (1843〜1939)
幕末期の土佐勤王党を経て中岡慎太郎の陸援隊に参加、薩長同盟の実現に尽力する。中岡の死後は陸援隊々長として活躍し、明治新政府の参事院議官、貴族院議員、学習院院長、宮内大臣を歴任した。


1.局長を頂点とした軍隊組織

女の子画像 新選組の最上級指揮官は局長であり、その下に参謀、総長という戦略ブレーンを置き、全体の組織は10の小隊と潜入捜査隊の監察、勘定方に分かれており、各小隊の幹部・組長は別名・副長助勤とも呼ばれ、副長の直属下に置かれていました。さらに各小隊は3〜4人一組の分隊になって常に行動し、しかもその全体の指揮系統の実権は常に局長と副長が握っており、参謀と総長は直接指揮権を持たなかったといいます。これは今で言う軍隊の組織と全く同じであり、当時の江戸時代において、近代化軍隊組織を模倣したという点は新選組が並外れた組織力で運営されていた事を現しています。

局長    近藤勇
参謀    伊東甲子太郎
総長    山南敬助
副長    土方歳三
一番隊組長 沖田総司
二番隊組長 永倉新八
三番隊組長 斎藤一
四番隊組長 松原忠司
五番隊組長 武田観柳斎
六番隊組長 井上源三郎
七番隊組長 谷三十郎
八番隊組長 藤堂平助
九番隊組長 三木三郎
十番隊組長 原田左之助
諸士調役兼監察 山崎烝

 
新選組組織図
新選組の慶応元年六月頃のもの。総長は山南敬助が切腹した後、廃止。
九番隊の組長・三木三郎は鈴木三樹三郎のこと(同一人物)。               

この鉄の組織を更に強固にしたのが「局中法度」「軍中法度」という軍律でした。

【1】軍律其の一・「局中法度」
新選組の鉄の軍律として有名なのが「局中法度」であり、これに違反した隊士はたとえ幹部であろうとも例外なく切腹させられるという、史上前例を見ない過酷な掟でした。総長・山南敬助を始め多くの隊士がその犠牲になったと言われています。しかし、新選組のような出身や流派もバラバラな烏合の寄せ集め集団を統率するには例外なき厳格な軍律が絶対不可欠だったのです。

一、士道ニ背キ間敷事

一、局ヲ脱スルヲ不許

一、勝手ニ金策致不可

一、勝手ニ訴訟取扱不可

一、私ノ闘争ヲ不許

右条々相ヒ背候者ハ切腹申シ付クベク候也。

この五箇条が所謂、「局中法度」なのですが、実はこの内容を最初に書き記したのは子母澤寛の著書『新選組始末記』で、永倉新八が書いたとされる『新撰組顛末記』によれば「禁令」となっており、新選組の規律として記されています。

「第一士道に背くこと、第二局を脱すること、第三かってに金策いたすこと、第四かってに訴訟を取り扱うこと、この四箇条をそむくときは切腹をもうしつくること。また、この宣告は同志の面前で申し渡すというのであった」

史実では「局中法度」という記録や内容が明確に確認されていないのが現状ですが、概ねこれらの内容に近い隊内の軍律があった事は確かです。
ただし、脱退禁止の条項については隊士は有無も言わせず処罰されたのか、というと決してそうではなかったようです。新選組ではしかるべき理由があれば、除隊も許されたといいます。近藤や土方は決して理不尽な指揮官ではなく、きちんとした見識も備えていました。

【2】軍律其のニ・「軍中法度」
池田屋事件の1ヶ月後の元治元年(1864)7月、武装蜂起した長州藩とこれを鎮圧しようとする会津藩を始めとする幕府側が御所で衝突した「禁門の変」に出動する際、戦場における隊士の心得として定められた軍律といわれています
。その内容たるや、隊士の行動に対して事細かに規律が取り決められていました。

一、役所を堅くあい守り、式法を乱すべからず、進退組頭の下知に従うべき事。

一、敵味方強弱の批判いっさい停止の事。

一、食物いっさい美味禁制の事。

一、昼夜に限らず、急変有之候とも決して騒動致すべからず、

  心静かに身を堅め下知を待つべき事。

一、私の遺恨ありとも陣中に於いて喧嘩口論仕り間敷き事。

一、出勢前に兵糧を食ひ、鎧一縮し槍太刀の目釘心付べき事。

一、敵間の利害、見受之あるに於いては遠慮及ばず申出るべく、過失を咎めざる事。

一、組頭討死候時、その組衆、その場において死戦を遂ぐべし。

  もし臆病をかまえその虎口逃来る輩有之に於いては、斬罪微罪その品に随って

  申し渡すべきの候、予て覚悟、未練の働無之様あい嗜むべき事。

一、烈しき虎口において組頭の他、死骸を引き退くこと無用、

  その場を逃げず忠義をぬきんずべき事。

一、合戦勝利後乱取り禁制なり。その御下知あり之に於いては定式の如く御法を

  守るべき事。

  右之条々堅固にあい守るべし。この旨執達件のごとし。

これが「軍中法度(戦陣における隊士の心得)」であり、正式に公布されたのは元治元年(1864)11月頃とも言われています。「局中法度」に比較して、戦場での行動規範となる軍律なので当然その項目は多くなります。中でも驚かされるのが、

「組頭(組長)が討死にしたら、その配下も討死にすべし」

とする条文で、かつての旧日本軍の「玉砕(ぎょくさい)」辺りを連想してしまいます・・・。
これにより新選組隊士は戦場で常に一命を投げ捨てる覚悟で玉砕も辞さない捨て身の勢いで戦いに臨んだ訳ですから、敵側にしてみればこんなに厄介な相手はないと思います。現に「鳥羽伏見の戦い」では長州の精鋭小銃部隊「奇兵隊」を相手に捨て身の白兵戦を何度も挑んだといわれ、さすがの長州藩士も恐れを成したとか。

これら二本柱の冷徹なる鉄の軍律が新選組の強い組織力を維持し続けました。


2.新選組・最強の理由

 錚々たる剣術流派の出身者らが集まって出来上がった新選組はそれぞれの流派の長所を生かしながら、実戦経験を基にして全く独自の戦術と剣術を編み出していました。

【1】最強の理由其の一・死番制
各隊の隊士は3〜4人一組になって分隊を組織していましたが、市中警備の取り締まりや斬り込みの際に常に先頭に立つ者を日替わり交代の当番制で決めていました。これを「死番」と呼び、その日の任務は覚悟を決めて臨んだので、躊躇することなく危険な任務を遂行できたといいます。

【2】最強の理由其のニ・必殺剣
本来、各流派の剣術は1対1の個々で行われるものでしたが、新選組の剣術は3〜4人一組で一人の敵に対する集団攻撃を基本とし、2人一組の場合や単独の時にもそれぞれ「臨機応変」に攻撃できるように工夫が凝らされていました。

@山攻撃破剣(さんこうげきはけん)・・・最初の先鋒を死番の隊士が敵に斬りかかり、その間に全員で敵を取り囲むと最後は全員で一斉に斬りかかるという集団殺法。四方から山の頂上を目指すように攻撃する事からこれを「山攻撃破剣」という。

  

A草攻剣(そうこうけん)・・・死番の者から順番に間髪入れず次々と斬りかかる集団殺法。敵は最初の隊士の太刀をかわしたとしても、体勢を立て直す間もなく次の隊士の太刀を受けることになり、どんな達人でも全てをかわすのは至難の技という。草原の草の葉の如く絶え間ない攻撃からこれを「草攻剣」という。

  

B双龍剣(そうりゅうけん)・・・2人一組で敵の前後を挟み撃ちにして、同時に敵の胴を攻撃する殺法。一度に同じ胴を前後から攻撃されたらどんな者でもよけきるのは難しいという。「双龍」とは二つの頭を持つ龍の事で、胴体は一つ、ということに擬えている。

C向請反撃剣(むこううけはんげきけん)・・・一人で敵数人に囲まれた時、敵に背後を見せながら狭い路地におびき寄せ、追ってくるのを確認すると急激に反転して低い姿勢から敵の足を攻撃し、突然の攻撃に怯んだスキを突いて他の敵を一気に斬り伏せるという剣法。複数の敵に遭遇した際に上手に分断し、不利な状況を打開する時に用いたという。

 

D龍尾剣(りゅうびけん)・・・1対1の際に敵の最初の太刀の切先(先端部)を刀の根元の鍔元部で受け止め、そのまますり上げざまに斬りつけ、更に返す刀で致命傷を与えるという電光石火の荒技。受身から転じて瞬時に攻撃するには相応の技量を伴わなければならず、かなり正確な太刀裁きが要求される。近藤が最も得意とした技だといわれており、池田屋事件では多勢を相手に戦った彼の強さの秘密はここにあると言える。刀の鍔元部を龍の尾に擬えて「龍尾剣」と呼んだ。

  

E向抜撃剣(むこうぬきうちけん)・・・1対1の際に相手との間合いを計りながら詰め寄る時、敵が刀を抜き放つ一瞬の間を捉えて抜刀と同時に敵の左胴を斬り上げるという抜き打ち技をいう。一瞬の見切りが勝負の分かれ目となるため、技量もさることながら相手の一瞬の動きに対して反応できる洞察力と判断能力も大きな要素となる。抜き打ちで繰り出される太刀は鞘から離れ振り放たれる瞬間に最も慣性重力がかかり威力を増すのだという。土方はこの抜き打ち技が得意だったとも言われている。

 

F三段突き(さんだんづき)・・・沖田が得意としたという技。対峙する敵に対し小手を打つ様に見せかける事で相手が下段の構えを取った瞬間に相手の右胸部付近を突くという電光石火のフェイント技。これは北辰一刀流の「剣術六拾八手」に属する技とも言われているが、そもそも突きは一度繰出すと仕損じた場合、動きを失い一瞬止まってしまう事から「死太刀」と教える流派も多く、余程に仕損じない自信と技量がないと使いこなせない技だという。しかし、当時の京都は狭い路地や家屋が多く、突きは有効な攻撃である事は間違いない。

 

G秘剣・流星(ひけん・りゅうせい)・・・さらに倒幕過激派志士に最も恐れられた必殺剣に「流星」と呼ばれた突き技がある。これは1対1だけでなく集団戦でも使われたらしく、敵と二・三打ち合って隙が見えるのを待ち、敵が隙を見せた瞬間、一斉に突撃しながら連続突きを入れる必殺剣だという。集団でこんな突き技を一斉に繰り出されたら、どんな剣の遣い手でも一たまりも無い。その突きの様子がさながら流星群の如くに見える事からこの名で呼ばれていた。

【3】最強の理由其の三・実戦訓練
新選組では日常の訓練に竹刀を使わず真剣を使ったと言われています。これは実戦で刀同士の斬り合いを想定して真剣に慣れるためであり、さらに隊士の切腹時の介錯(首斬り役)を新入隊士にやらせるなど、真剣で相手を斬るための度胸を鍛錬させました。加えて夜に取り締まりや斬り込みをする事が多いため、暗闇での戦闘にも慣れるため真剣を使った夜間訓練も行っていたと言われています。

また、新選組では他の流派の特徴をよく研究し、攻撃の対処法などもマニュアル化していたと言います。新選組が一番恐れた流派は薩摩藩の「示現流(じげんりゅう)」だと言われていますが、示現流の極意は重い太刀を電光石火に打ち込む早さに達することであり、これを極めた者は目にも止まらぬ早さで打ち込んで来るため他の流派からも恐れられていました。さらに示現流では「一ノ太刀を疑わず、二ノ太刀は負け」と説くほど最初の一刀に全精神を込めて振り下ろす一撃必殺剣を得意としていたので、これに対し近藤勇は隊士達に「薩摩の初太刀をかわせ!」と教え込んでいたといいます。

上記の様に、新選組は烏合の寄せ集め集団から鉄の軍律を以って統率された強固な組織力を背景に洗練された戦闘力を結集し、幕末史上最強の剣客集団へと変貌したのです。新選組の集団攻撃に対しては

「何か卑怯だな」

と思う方もいるでしょうが、幕末の京都の巷を震撼させた倒幕過激派志士の暗殺劇の殆どは一人を数人で闇討ちするというもので、犠牲者の中には刀を持たない公家や町人も含まれていましたから、そこはすでに剣術云々などという生易しい論理が通用しない世界であり、新選組だけが卑怯と言うのは適切ではありません。

これだけの戦術と組織力を駆使した新選組は「池田屋事件」を機に京都では一躍有名になり、暗殺を繰り返していた倒幕過激派志士達を一様に震撼させました。新選組はあくまでも京都の治安維持が目的の特別機動隊であり、そこには尊皇攘夷(朝廷中心の国家を目指す)とか公武合体(朝廷と幕府の協調を進める)などと言う政治的意図や論理は一切ありませんでした。近藤と土方の考えるもの、それは

「雇われた主家のために忠節を尽くす」

という「サムライの信義=士道」があるだけだったのです。

 

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