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昨夜(10/31)、官邸前の秘密保護法反対のデモに出た。官邸前の抗議行動に参加するのは久しぶりで、昨年8月以来になる。このデモで一躍有名になった火炎瓶テツの主催で、TWで情報が流れていて、ショート・ノーティスだったが見逃さなかった。動機は、ブログで散々「デモをやれ、デモに出ろ」と喚いているのに、自分自身がデモに出ないのは具合が悪いからである。3日前(10/29)、日比谷の野音で雨の中を2800人の集会があり、それに続くデモなので、気運が盛り上がって人数も増えるのではないかという期待もあった。ところが、豈図らんや、天気もいい秋の夜なのに官邸前は閑散として、集まった人数はわずか百数十人という惨状だった。意気込んで駆けつけた者としては、落胆させられる現実の結果だ。いくら何でも少なすぎる。情勢は切羽詰まっていて、11/7にも審議入りされ、スピード採決という厳しい見方までされているのに、この重大なこの局面で、平日とはいえ官邸前にこの人数は少ない。絶句させられた。秘密保護法への危機感というのは、この程度のものなのだろうかと、うなだれ絶望的な気分になる。デモは18時半開始で、1時間前の17時半に官邸前に到着したのだけれど、そこには人影がなかった。警察官が3人立っているだけで、ただの薄暗い空間があるだけだった。昨年の反原発の際に見慣れた光景の、あの青い警察車両だけは、路上に4-5台縦列駐車して睨みを利かせている。 More
秘密保護法案について。この政治戦は期間が限られている。日程が決まっている。短期決戦であり、残り1か月の時間しかない。1か月後には結果は出ている。衆参で可決成立か、それとも継続審議で先送りか、二つに一つだ。前者なら敗北、後者なら勝利。前者の場合は、今、マスコミやネットで言われている悪夢が現実のものになる。時間がない。そろそろ、秘密保護法とは何かを喋々するばかりでなく、これを阻止するにはどうすればよいのか、政治の具体策を論じ合おうではないか。ネットの議論を見ると、秘密保護法に反対する者の意見は、法案の中身や目的がどういうものかという解説ばかりが無闇に多い。無論、それは必要だ。各自が議論を積み重ねることは重要で、検証が進めば進むほど反対世論が多くなるという事実は確かにある。しかし、内容の説明や矛盾の指摘については、マスコミ報道(東京・毎日・朝日)が活発にやっている。情報の質も量も、説得力も十分と言っていい。ネットの市民言論は、むしろ、この法案を政治的にどうやって葬り去るか、その具体的図式を明らかにし、戦術論を喚起し追求しなくてはいけないのではないか。どうすれば、どうなれば、秘密保護法案を継続審議に持ち込むことができるのか、この政治戦に勝てるのか、それが知りたい。この1か月、われわれはどう動くべきなのか、時間とエネルギーをどう効率的に使えばよいのか。作戦計画こそが必要だ。 More
先週末(10/25)、遂に秘密保護法案が閣議決定され、国会に提出された。が、週末のマスコミ報道は、この法案に反対する論調のものが並び、成立阻止への期待と気運を盛り上げる3日間(10/25-10/27)となった。まず、10/25の夜、報ステで特集的な報道が用意され、孫崎享と原田宏二が映像で登場して問題点を論じていた。非常に秀逸な内容で、これまでのマスコミの秘密保護法に関する報道の中で最も本質に迫ったものと評価できる。そこで説明されたキーワードは二つ、戦争と監視。戦争について、米軍とのインターオペラビリティを担保する法的措置を2+2で要請された件を孫崎享が担当した。これが秘密保護法の発端であり、直接的契機である。続いて、元北海道警の原田宏二が登場し、公安警察が法律を拡大解釈し、法的に正式な捜査でもないのに国民を監視し、恣意的に濫用する危険性を指摘した。二人の説明は、「秘密保護法とは何か」だが、二人は違うことを言っている。違うことを言っているが、この二つは秘密保護法の本質の両面であり、どちらも欠くことができない。TWを見ていると、二つのうち一点のみを強調している議論が多い。それは片手落ちの認識だ。そしてまた、秘密保護法の実体を複雑にし、批判の要点を混乱させている原因でもある。その点で、報ステのスタッフは非常に優秀と言える。戦争と監視、この二つを言わなくてはいけない。 More
最新の情勢から。大手マスコミでは無視されて報道されないが、秘密保護法に対する反対の動きが活発になっている。奥平康弘など憲法学者24名が近く反対声明を発表する。東京新聞(中日)が、昨日(10/23)の社説で「戦前を取り戻すのか」と書き、反対の姿勢を明確にして世論に訴えた。同じく、10/23の高知新聞も「国会提出は見送るべきだ」と社説で主張、地方紙で反対の論陣を張るところが出始めている。毎日が10/21の社説で反対の旗幟を鮮明にして以降、反対意見を掲げる地方紙の論調が徐々に先鋭になっている。これまでは「知る権利」について危惧を述べる程度の慎重論だったが、反対論の立場を堂々と唱える社説が出てきた。朗報だ。道新や信濃毎日が続き、地方からの反対世論を盛り上げるだろう。期待したい。また、昨日(10/23)、人権団体のアムネスティ・インターナショナル日本が、「表現の自由の侵害に対する深刻な懸念」を表明、法案を厳しく批判した。さらに、田島泰彦が呼びかけた抗議行動が官邸前で始まり、10/22から10/25まで4日間連続して行われ、初日(10/22)は400人が参加している。10/25(金曜)の人数が注目されるが、例の反原連が占拠しているため、夜20時からの開始とある。ナンセンスな話だ。金曜官邸前デモはオープンイシューにするべきだと、1年以上前から提言しているが、このセクト集団は耳を貸さず、私物にして専有したまま特権を手離さない。 More
昨日(10/22)の新聞の1面記事は、「武器輸出三原則見直し」だった。今日の紙面には、「秘密保護法案を与党会議が了承」の記事が4面に載っている。毎日毎日、怒涛の勢いで戦争に近づいている情勢がマスコミ報道で知らされる。「ローザ・ルクセンブルク」の映画と重なり、凄然とした気分にさせられる。きっと、戦前の一時期、きっと誰かがこんなことを日記に書いていた。そういう作家がいたような気がする。さて、「戦前」とは、いつからいつまでを言うのだろう。定義は定かでない。「戦中」は日中戦争(1937年)からだろうか、それとも太平洋戦争(1941年)からだろうか。ずっと昔は、「戦前」の通念は後者だった。私が中学2年のときの社会科(歴史)の教科書では、それは日中戦争ではなく日華事変であり、事変は戦争ではないという判別からか、1930年代は「戦前」として認識していたように記憶する。私の中の「戦前」のイメージは、向田邦子のドラマが描く社会空間である。黒柳徹子がナレーションし、加藤治子が母親役で出演し、少女の妹役が主人公で、そして必ず、物語の中にハンチング帽をかぶった特高が不気味に登場する、あの向田邦子のドラマの風景だ。ところが、1970年代後半あたりから「15年戦争」という言葉が言われ始め、日中戦争の語が定着し、それに伴って「戦前」の観念ももっと前に遡るようになった。が、どうやら、よく考えれば、その時代区分(歴史認識)も少しおかしいことに気づく。 More
映画『ローザ・ルクセンブルク』を見た。今週末から話題作の『ハンナ・アーレント』が岩波ホールで公開予定で、マルガレーテ・フォン・トロッタ監督・脚本、バルバラ・スコヴァ主演の、同じコンビによる旧作が前座として一週間だけ上映される興行になった。26年前の1987年、同じ岩波ホールで公開され、そのとき見に行ったので、これが二回目になる。予想したとおり、観客はとても多くて、座席はほぼ満席の状態だった。ほとんどの客が私と同じく二度目の観賞で、この映画との再会を待機していたような雰囲気を感じた。新作『ハンナ・アーレント』を見るとなれば、やはり26年前の旧作に心が向かう。この特別企画は事業として正解だ。中高年で埋まった劇場内を見渡しながら、この人たち一人一人の26年前はどうだったのだろうと思い、26年間はどうだったのだろうと考えた。ネットを検索するかぎり、DVDが一般に売られている形跡がない。TUTAYAの宅配レンタルで探すと、「現在、この作品のレンタル用作品は取り扱いがございません」とレスポンスが出る。ホールが満席だったのは、そういう事情もあるのかもしれない。カンヌ映画祭で主演女優賞を取っているくらいだから、それなりに名作のはずなのだが、どうも市場的には芳しくないようだ。一言で言えば、この映画は、一度見た者には忘れられない衝撃的な感銘を残し、ずっと心に尾を引いて残るのだが、見たことのない者には価値を説明しにくい作品なのである。 More
伊豆大島は、ずっと昔、一度だけ訪れたことがある。熱海から船に乗って行った。現在は高速ジェット船で45分だが、当時は2時間位かかった記憶がある。波が荒くて船室が揺れ、船酔いする乗客もいた。元町港に着き、泊まった民宿もその周辺だっただろう。それっきり足を踏み入れてないが、伊豆大島は私には近しい存在で、いつも空の上から見ている。帰省先から東京に帰るとき、大島上空の付近で「当機は間もなく着陸態勢に入ります」のアナウンスが流れる。「シートベルトをしっかりお締めの上、」の案内と共に減速降下が始まる。機体が大きく左に傾いて旋回を始め、左に眺望していた富士山が消え、窓いっぱいに相模灘の海が広がり、その下奧からピーナッツのような形の黒い伊豆大島が視界に入ってくるのだ。飛行機の操縦士は、伊豆大島を羽田への航空路の中継目標点としていて、それを目視で捉え、言わば左の主翼を伊豆大島に突き立て、左翼をコンパスの軸のようにして左旋回する。そして東京湾に侵入する。あるいは房総半島へ迂回する。西から東へ直線で向かっていた飛行機は、伊豆大島上空で左90度に針路を変え、北に向かって降下する。着陸モードになる。そのとき、三原山がくっきり見え、波浮港がきれいに見える。島の海岸線に立つ白波が見える。だから、伊豆大島は毎度の旅のなじみであり、東海道中の長旅を江戸に帰ってきた者の多摩川みたいなものなのだ。 More
伊豆大島の集中豪雨の被害は、死者・行方不明合わせて50人という大惨事になった。伊豆大島の人口は8000人。50人は全人口の0.63%に該当する。東日本大震災での宮城県の死者・行方不明者数は、県全体の人口の0.46%。小さな共同体である伊豆大島は、今、島の歴史が始まって以来の大きな悲劇に直面している。昨日(10/16)からずっとTWで乱打しているが、これは単なる自然災害による不運な犠牲ではなく、明らかに人災であり、不作為による業務上過失致死の刑事事件だ。避難勧告が事前に発せられていれば、また、特別警報が(早い時刻に)出されていれば、このような未曾有の惨劇が起きることはなかった。行政は住民の生命と安全を守る義務がある。災害から住民の命を守るために、防災行政の法令と制度があり、責任当局が税金を使って運用している。今回のケースで言えば、島の住民が就寝する午後11時前に、避難勧告(町役場)なり、特別警報(気象庁)が出されていれば、多くの住民が命を落とすことはなかっただろう。過失責任の所在は否めない。昨夜、マスコミはどんな具合に責任のなすりつけをするだろうと興味津々でテレビ報道を注目したが、案の定、NHKも、テレ朝も、大島町長の川島理史を槍玉に上げ、責任追及して糾弾する姿勢に徹していた。予想どおりの図だ。しかし、これは気象庁とマスコミ自身の責任を隠し、スケープゴートに責任転嫁する狡猾な政治である。 More
映画「標的の村」を見た。高江の問題について描かれたドキュメンタリー作品である。高江の問題について、テレビや新聞ではほとんど情報に接することがない。マスコミは高江を報道しない。一度、マコーマックがダワーと対談したNHKの番組の中で、現地を訪れて少し触れたことがあるだけだ。辺野古や普天間については紹介されるが、高江はマスコミではタブーの扱いになっている。高江を出さない。高江という言葉を言わない。だから、高江の問題について全体が整理されたドキュメンタリーを見たいと思っていた。この映画は、実にそのニーズにミートして過不足ない情報上の満足を提供してくれる作品だ。「全体が整理された」とは、空間的かつ時間的な概括という意味だが、その両方でこの作品は説得的で、高江について無知な人間を啓蒙してくれる。まず、空間的説明が重要だ。これまで、高江を上空から撮影した映像を見たことがなかった。高江地区は、広大な北部演習場に囲まれた森の中の場所にある。いわゆる米軍北部演習場は、北の国頭村と南の東村にまたがって広大な領域を占めているが、特に東村は、村の面積の半分に及ぶ北東部のやんばるの森をすっぽり演習場に割かれている。東村を北東部と南西部の二つに分割して、半分の面積の北東部がそのまま米軍演習場になっている。高江地区は、その北東部の演習場の中に、まさに陸の孤島の状態で存在している。 More
米国の債務上限問題は厄介で、それほど容易に打開できる問題ではない。日本のマスコミ報道やネット政談では、デフォルトを回避することは確実で、その暗黙の前提の上でオバマと共和党が政争を演じているという見方が大勢だ。これは来年の中間選挙を睨んだ両者のパフォーマンスであり、駆け引きの政局バトルゲームだから、眉間に皺を寄せて大騒ぎするほどの問題ではないという認識で軽く傍観している。経済誌も全く注意を払っていない。週刊エコノミストも、週刊東洋経済も、今週号でこの問題を記事にしておらず、無関心を決め込んでいる。私には、この過小評価と不感症こそが異常で、不気味に感じられて仕方がない。きっと、恐慌(パニック)はこんな具合に、誰もが今日と同じ明日が続くと思い、正常性バイアスの海に浸かって平穏な日常を謳歌しているときに、ある日突然起きるものなのだろう。直近の報道であるように、10/17のタイムリミットを迎える前に、4-6週間分、交渉協議の時間を確保すべく、債務上限を暫定的に引き上げるという展開もある。だが、それはあくまでモラトリアムであって、デフォルトの危機を克服する問題解決ではない。両者が衝突している争点はオバマケアの導入であり、法律どおり新年度から施行するか、1年先延ばしにするかである。その選択をめぐって二者が政治対立し、デフォルトを人質にチキンレースを演じている。 More
昨夜(10/7)のNHKは、7時のニュースも、NW9も、TPP交渉での「5品目自由化」の問題を一切報道しなかった。安倍政権が「5品目自由化」に踏み切った暴挙にも驚かされるが、それ以上に衝撃だったのは、この重大な事実をNHKがニュースの放送から外したことだ。信じられないとしか言いようがない。この問題は一昨日(10/6)の深夜に発生したもので、バリ島ヌサドアビーチのTPP閣僚会合に付き添いで来ている自民党の西川公也(党TPP対策委員長)が、同行取材中の現地の日本のマスコミ記者団に語ったものである。このリゾート地はバブルの頃に日本人に人気があり、AB-ROAD誌上で旅行会社がよく宣伝していた。西川公也は翌日(10/7)の朝のトップニュースに出して、アドバルーンを上げ、既成事実化の地均しを図ろうと企んだのだろう。朝からYahooトップのトピックスにはこの情報が踊り、示し合わせたように甘利明が西川公也の爆弾発言をフォロー、政府として歓迎の意のコメントを発していた。さらに午後になり、石破茂が「5品目」の加工品を関税撤廃の対象にするという具体論まで示唆するに及び、この政治が計画的で用意周到なものであることを窺わせた。こうなると、当然、夜のNHKでその中身を詳しく解説という進行になる。農業関係者に対して既成事実化工作を固め、ついでに言い訳や気休めの台詞を言って宥める役割が、こうした政治でのNHKニュースの分担である。 More
昨日(10/6)のTBSサンデーモーニングの「風をよむ」で、山崎豊子の訃報と追悼がテーマに取り上げられていた。このことは、ほぼ事前に予想できたことで、2007年の「華麗なる一族」、2012年の「運命の人」と、TBSは山崎豊子のお世話になっている。加えて、山崎豊子は毎日大阪の元記者だ。この1週間のニュースを睨んで、「風をよむ」でこの企画を組まれるのは自然の成り行きに見えた。そこで発されたメッセージは、山崎豊子は現代史の真実を教えてくれたという総括で、佐藤忠男が登場し、山崎豊子の偉業と功績が讃えられた。最近の作家は、面白ければそれでいいという、時代の風潮に乗った安易な作風に流れていて、今こそ山崎豊子的な作家が登場しなくてはいけないと訴えていた。関口宏も、スタジオのコメンテーターも、その一般論に軽く頷き、山崎豊子的な「社会派」の作品が必要だと声を揃えた。田中優子は、そうした「社会派」を市場が需要していて、出現すれば消費者が積極的に支えるはずだと語っていた。見ながら、多くの視聴者はこの「風をよむ」の議論に共感し、納得したことだろう。けれども、私には違和感と抵抗感が残った。軽薄すぎる。1週間前に記事で指摘したような問題意識は、この「風をよむ」の中には微塵もない。「山崎豊子は社会派だった。社会派の作家が今いない。今こそ社会派が必要で、出れば必ず市場で売れる」。そういう認識と発想でいいのだろうか。違う。根本的に現状を見誤っている。 More
安倍晋三が10/1に消費税の8%増税を発表して、その夜と次の朝、マスコミと官僚は増税決定を祝賀する儀式で狂喜乱舞し、画面と紙面の<ビールかけパーティー>で盛り上がったが、それが終わった途端、増税(8%)や経済対策(5兆円)やインフレ(+4%)の問題を一言も報道で触れなくなった。10/1の閣議決定と官邸発表が、長年、増税実現のために動いてきた官僚とマスコミにとって特別な日であり、最後の締めくくりの日であり、勝利宣言を轟かせて暴れて騒ぐ日であり、つまりは打ち上げの祝宴日だったことを、このことは示している。われわれ国民は敗者であり、勝者たる官僚とマスコミと財界の前で、無力感に打ちひしがれ、うなだれ俯いて歯噛みする役回りなのである。早速、マスコミ各社が10/1の増税決定について世論調査を上げている。しつこく念入りに画面と紙面で「説得」したものだから、国民も物わかりよく「納得」したらしく、共同通信では、増税に賛成が53.3%で、反対の42.9%を上回った。無論、これも官邸とマスコミが予め周到に仕組んだ細工で、この「数字」でなければ4月から安んじて増税ができない。反対多数の世論が露わになってしまうと、10月中旬からの国会が面倒になり、半年間の増税移行の事務に支障が生じる恐れがある。1年半後にはまた引き上げなくはならず、マスコミは、ここで正直に正しい世論を見せるわけにはいかないのだ。マスコミが消費税増税の推進主体なのだから。 More
昨夜(10/2)のNHK-NW9は、冒頭から30分間、ずっと伊勢神宮の「遷御の儀」を中継して特集した。井上あさひが現地に飛び、宇治橋の前でカメラの前に立つという熱の入れようで、20年に一度の式年遷宮の行事を長々と映像で説明し、まるで「歴史秘話ヒストリア」を見ているような気分だった。朴槿惠による慰安婦問題に関する発言など、重大なニュースは多くあったが、「遷御の儀」の意義と神秘を視聴者に説教し、伊勢神宮への崇敬を誘起し演出するだけで時間を潰した。20年前(1993年)も式年遷宮はあり、テレビ報道で紹介された記憶がある。が、こんなに詳しく念入りに、トップ扱いの放送はなかった。今回はNHKだけでなく、テレ朝の報ステまで整列右倣えして、NHKと同じ「遷御の儀」の奉祝報道を賑々しく盛り上げている。呆気にとられてしまった。これは異常だ、何かおかしいと思ったら、案の定、安倍晋三と麻生太郞がこの暗闇の秘儀に正装で参列していた。NHKは、首相と副首相の訪問と出席を、言祝いだ論調の原稿のまま当然のことのように報道した。この行為が、憲法20条の政教分離の原則に違反する恐れがあるという懸念を含み、すでに当日昼、菅義偉の記者会見で質疑があったにもかかわらず、大越健介はその点に全く触れなかった。そのことも恐ろしいけれど、もっと慄然とするのは、朝日系列の報ステで、安倍晋三が参列した事実が語られなかったことだ。報ステは安倍晋三の参列を捨象した。 More
昨夜(10/1)のテレビと今日(10/2)の新聞は、消費税増税8%のニュースでびっしりだ。NHK-NW9のスタジオに安倍晋三が出張り、増税と5兆円対策の宣伝をやっていた。夕方の会見を全放送局に中継させ、さらに夜9時からテレビ出演して念を押すしつこさに、テレビの前で拷問の責め苦を受けているように感じた。1年半経ったら、また同じことが繰り返される。そう思うと、さらに憂鬱が重くなる。この1-2週間ほど、マスコミは、汚染水問題も放ったらかして、消費税8%引き上げ時の経済対策がどうのこうのという、官邸が撒くネタを嬉しそうに流し、画面と紙面を埋めていた。今日の朝日は、1、2、3、4、6、7、8、16、17、39面と、10面使って賑々しく消費税増税の奉祝報道を特集している。6、7面の「解説」は、官僚から予め提供されていた記事の体裁で、ほとんど政府公報の広告紙面と同じ編集だ。消費税増税の法案が国会で可決成立したときもそうだった。「暮らしがこう変わる」などと、大ハシャギの紙面構成だった。6年ほど前から消費税増税賛成に立場を切り換え、政府の代理で国民の洗脳工作に励んできたマスコミは、こうして長年の悲願が叶い、嬉しくてたまらず、迸るように歓喜を爆発させ、奉祝報道の「ビールかけ」騒ぎに興じているのである。少数エリートによる高尚な意思が、多数の愚衆どもの怠惰(NMBY)を制し、「国家を慮った」政策を実現できたことで、朝日は嬉しくてたまらないのだ。腐ったエリートの喜悦。 More
昨日(10/1)、山崎豊子の死が報じられ、報ステで紹介された仲代達矢の言葉が印象に残った。一言一句を暗記してはいないが、こんなコメントが流れた。「最近は、山崎さんのような社会を描いた作品が少なく、社会をテーマにした映画が少ない」。この意味のことを言った。ネットで言葉を拾おうと試みたが、よく確認することができない。仲代達矢は舞台の上映のため能登演劇堂に滞在していて、そこでマスコミの取材を受けている。能登演劇堂は七尾にある。東京から遠く離れ、金沢からでも1時間かかる場所だ。マスコミの取材は電話によるものであり、報ステのコメントの画面は最近撮られた映像に音声を被せて編集されていた。仲代達矢は山崎豊子のお気に入りの役者で、「不毛地帯」、「華麗なる一族」、「大地の子」の重要なキャストで抜擢されている。仲代達矢の他のコメントを探すと、スポーツ報知の記事が最も分量が多い。「どんな小さなことでも徹底的にお調べになって書かれた。その姿勢が骨太で堂々とした男性も書けない反体制の作品を生み出したんだと思います。残念で寂しいです」とある。朝日の記事では、「今、あんな人がほかにいますか? 本当に惜しい方を亡くしました」と語っている。朝日の記事での言葉が、報ステで流れた発言に近い。山崎豊子のような作家が「今いない」、「他にいない」ということを強調していた。 More
昨日(9/25)、「のりこえねっと」が発足し、都内で記者会見したが、マスコミの扱いはきわめて小さい。夜のニュース番組ではどこの局も報道がなかった。新聞を開いても、社会面に記事を確認できない。昨日、朝日は社説でこの問題を取り上げ、反ヘイトスピーチの動きを支持すると言っておきながら、本格的な市民運動の団体が立ち上がった事実を大きく報じてない。奇妙な感じがする。9/25の社説の趣旨は、ほとんど9/22のNHKの論調と同じだ。こう言うと、また誹謗中毒のネット雀から「陰謀論」の誹りが飛んできそうだが、これはどう考えても一つの政治であり、韓国に向けた戦略的メッセージの発信である。マスコミ外交。NHKと朝日新聞、この2社は、堕落し粗悪化する日々刻々の変容と付き合っているわれわれと違い、韓国社会では未だ若干のブランド力をキープしている。往年の信用の財産がある。朝日は社説の中で安倍昭恵の親韓パフォーマンスを賞賛し、NHKと同じように「東京大行進」と「日韓おまつり交流」をバインドして論評を構成した。二つをパッケージにしてポジティブに紹介し、何か急に、官民挙げて日韓友好の方向に日本社会が動き始めたようなイメージを作り上げている。この社説を読んだ韓国の官民は、好印象を受けて気分を緩ませたことだろう。この2社が、官邸と外務官僚の下請となって雪解けムードを演出し、韓国を誑し込んでいるのだ。狙いは日韓首脳会談である。 More
岩波から「哲学・思想事典」という大きな分厚い本が出ている。定価14.700円。我ながら、こんな高価な本をよく平気で購入したものだと思う。ブログの読者の皆様と同じく、昔は生活に多少の余裕があった。出版されたのは1998年。編集者は、廣松渉、子安宣邦、三島憲一ら碩学の重鎮が7人。刊行から15年間、改訂されずに今でも販売している。買おうかどうか悩んでいる人は、今回の記事が参考になるかもしれない。先に意地悪を言うと、Wikipediaが繁盛する理由と事情がよく頷ける。料金の負担とか、重くて嵩張る本を部屋に置くスペースの問題もあるが、ネット検索の方が新しい情報に素早くリーチできるのである。私自身も、最近はこの事典を捲る機会が少ない。久しぶりに頁を開いたのは、次の単語が記載されているかどうか確認したかったからである。レイシズム、ヘイトスピーチ、ヘイトクライム。結果を言うと、案の定、一つも登録されてなかった。だから、9/22の「東京大行進」や9/25の「のりこえネット」の政治と思想について考察を加え、意味を検討しようとするとき、14.700円で入手した岩波の「哲学・思想事典」は役に立たない。使えない。これら諸語の定義や概念に接近するには、リスクを覚悟してネットを使う作業に挑まねばならないことになる。ネット情報の海からこれら諸語の正しい意味を探り当てるということは、一人の人間にとって知的精神的に容易ならざる難業と思われる。類似したものとして、理解に煩瑣と労苦と混迷を伴う語のカテゴリーに、ジェンダーとかマイノリティがある。 More
9/22の「東京大行進」の件、翌日の朝日の社会面(38面)にも記事が載っている。「1200人が参加した」とある。ただ、扱いは大きくなく、この種のこの規模のデモならこの程度だろうというサイズになっている。見落とすほど小さくはないが、さほど重要性を高くランクした報道ではない。敢えて言えば、ちょうど適度の扱いという感じだろうか。NHKの7時のニュースを見るまでは、このようなイベントを全く知らなかった人は多いだろう。私もその一人で、NHKがあまりに大きな放送枠を組み、しかも、報道の編集と立場が全面的な支持賛同のスタンスだったので驚かされた。この集会は政治的な主張がくっきりした運動であり、対立する強力な勢力が一方にある。また、ネットの匿名掲示板やTWなどでは、むしろ在特会支持が多数の形勢にあるようにすら見える。通常、こうした政治的にクリティカルな政治集会の場合は、よほど規模が大きくなければ、NHKは7時のニュースで放送しないし、取り上げたとしても、天気予報の直前にベタ扱いで何本か纏めて流して、ほんの数十秒ほどカットを入れるだけだ。この日の「東京大行進」の報道は異例のものだった。この報道には仕掛けがあった。全体で6分間のニュースの後半は、日比谷公園で開かれている「日韓交流おまつり」が紹介され、高円宮久子が参加して場を盛り上げている様子が映し出されていた。つまり、ニュースは二つのイベントをバインドしている。 More
安倍晋三は、9/8のブエノスアイレスのIOC総会で、「汚染水は港湾内で完全にブロックされている」と断言した。IOC委員たちは、買収工作が効いていたのか、この騙し戦略に乗って東京を選んだが、この説明が嘘だということは世界中が確信していることだ。IOC総会を前にして、世界は福島の汚染水の恐怖に震撼し、日本がどう対処するか息を詰めて注目した。安倍晋三が壇上でしれっと嘘を吐き、出来レースを感じさせる「質疑応答」の演出の後、東京が五輪招致を掠奪したのを目の当たりにして、欧州の市民たちは歯痒く苛立つ思いだっただろう。世界の耳目が集まったIOC総会の決定は、「コントロールできている」「完全にブロックしている」という安倍晋三の言葉に国際社会が頷き、お墨付きを与えた結果になる。日本政府の説明と対応を是とし、不安の払拭を認め、安全性をオーソライズしたという政治的意味になる。それに不満を覚えた者は多かったはずで、この欺瞞劇によって、福島の汚染水のクライシスがうやむやになる事態を懸念したに違いない。例えば、昨日(9/18)の日刊ゲンダイの記事では、ドイツの公共放送ZDFの東アジア総局が福一を訪れ、「安倍首相は嘘をついている」と批判、現地リポートした件が紹介されている。少なくとも、放射能汚染にナーバスな欧州の反応はこうだ。 More
9/15のTBSサンデーモーニングの中で、汚染水の問題でコメントの番が回ってきたとき、金子勝が面白い指摘をしていて、今は、東電の方が必死に情報を出していると言っていた。私も、この説明に同感だ。無論、全て隠さず本当の情報を出しているかどうかは疑問だが、少なくとも、国(経産省・規制庁)よりは、汚染水に関して東電の方が国民に対して前向きな対応をしている気配がする。現在、東電は経営に窮していて、一刻も早く福一を切り離したいのだ。汚染水対策も、廃炉計画も、東電の肩の荷からおろして、国の責任と管理に移して欲しいのである。福一の重苦から解放されたいのだ。そのため、もう我々の手には負えません、ギブアップですと泣いて訴え、国民に納得してもらおうと、汚染水の情報開示に積極的になっているのである。情報面での積もり積もった国民の不信を和らげ、少しでも国民に理解される存在になろうと、言わば「良い子」を演じている。先週(9/13)、フェローの山下和彦が、民主党との郡山の会議の場で、「今の状態はコントロールできていないと考えている」と発言したのは、こうした状況と背景を端的に示すものだろう。なるべく国民の印象を良くし、国民的な憎まれ役の存在から脱皮しようと動き始めている。ところが、金子勝が正しく指摘していたが、政府の方は、ずっと東電を、国民から袋叩きにされる悪役の存在に据え置きたいのである。「悪い子」のままにするのだ。 More
シリアの化学兵器問題について、ジュネーブでの3日間の協議の末、9/14、米国とロシアとの間で合意がされた。画期的な出来事であり、米国の軍事介入が回避されたことを歓迎したい。今回は、プーチンとロシアがよく外交努力した。果敢に国連憲章を守る外交に尽力した。9/15のTBSサンデーモーニングでは、米国の一極主義が後退し、国連主導の協調外交が前面に出たものとして意味づける報道がされていた。同感であり、世界の多くの人たちが、9.11同時テロ以前の世界に戻った感覚を抱いただろう。私は、1985年のゴルバチョフとレーガンのジュネーブ会談を思い出し、翌1986年のレイキャビク会談の感動が甦った。あの当時、20世紀、世界は一極ではなかったから、何かあれば、パリやジュネーブを舞台にして、当事者たちが妥協と解決と合意を求めて卓を囲んだ。真剣な交渉をした。息詰まる外交のドラマが消え、ホワイトハウスが全てを仕切るようになり、それが当然のルールになって、もう10年以上が経つ。今回の米露合意は、過去の世界を知る私のような年寄りには、とても懐かしく、そして新鮮な絵に見えるものだ。「紛争は武力ではなく話し合い(外交)で解決する」。対立する各国代表がこの精神に則って奮闘する姿は、いつ見ても素晴らしく、共感と興奮を覚える。憲法9条の理念が生きる現場は、いつ立ち合っても心躍らされる。そこで救われるのは、多くの貧しい弱者の人間の命だ。 More
9/8のブエノスアイレスのIOC総会で、東京がイスタンブールに敗れて五輪招致に失敗していれば、その原因は福島の汚染水問題だということになり、マスコミが厳しく報道攻勢をかけ、国家を挙げた汚染水対策の取り組みに向かっただろう。直ちに国会が召集されて議論され、海外の専門家を交えた本格的な対策本部の設置をという世論が高まり、福島の現地に国のプロジェクト機関が発足して、そこにIAEAからの派遣団も常駐するという図になったかもしれない。雑誌「ネイチャー」の社説で日本の対応を批判した記者が来日し、NHKのインタビューに出たり、国会の参考人招致で問題提起するという場面もあったと思われる。世界の深刻な問題である福島の放射能汚染水漏れは、こうして国際社会の監視の中に入り、世界中の叡智を集めて対策を検討する態勢となっただろう。だから、2020年の五輪は他の都市に決まった方がよかった。東京に決まったため、安倍晋三が汚染水問題の現状と対応を正しく説明し、それがIOC(国際社会)に認められたという意味づけに逆転してしまった。9/8からのマスコミの狂乱の奉祝報道は、安倍晋三と猪瀬直樹を英雄にし、招致団メンバーを凱旋軍団の殊勲者にして賑々しく祭り上げ、結局のところ、汚染水問題の政府対策を正当化している。東京招致は神話化されようとしている。きっと年末から正月にかけて、ずっと神話の刷り込みが続くだろう。 More
マスコミは東京五輪の奉祝報道で一色だ。休刊日の次の今日(9/10)の新聞もひどい。朝日まで、国民的祭典を呼び込んでくれたとして、安倍晋三や猪瀬直樹を絶賛している。「チームジャパン」を賛美して祝賀の記事で紙面を埋めている。汚染水の問題は、隅に押し退けられて小さな扱いだ。NHKと全く同じか、もっと政府寄りの醜悪な報道がびっしり。せめて朝日は良識で小さな抵抗を示しているかと期待したが、今日は記事を読むのをやめた。9/8早朝(日本時間)にIOC総会の決定があった後、マスコミの議論の中では、唯一、大宅映子のコメントだけに共感できた。大宅映子は、開催地がトルコのイスタンブールに選ばれるのが順当だという意味の発言をした。1964年の東京五輪の意味について、「(戦争に負けた日本が)ようやく世界の国々をお迎えすることができるようになった」と感慨を述べていた。イスタンブールの選択を当然視する発想と、この1964年の東京五輪の回顧と意義づけとは、大宅映子の中で一つの認識になっているもので、分かりやすく説得的だ。ここに、狭矮なナショナリズムを超えて、広く世界全体を見渡して自らを考える視角がある。先進国が二度も三度も欲張って五輪開催することよりも、新興国が初めて五輪を開催することの方がはるかに意味が重いのであり、彼らにこそチャンスを与えなければいけない。トルコの国民の到達と歓びを見ることが、世界の市民にとって感動なのである。 More
昨日(9/8)のサンデーモーニングで、2020年の東京五輪が決まった件について、寺島実郎が、「これで戦争のできない国になった」と感想を述べていた。7年後に五輪開催を控えた立場になったから、近隣国との軍事衝突は起こさないだろうという、五輪安全ブレーキ論の見方だったが、あまりに発想が楽観的すぎるように思われる。1980年のモスクワ五輪の経験がある。1979年のアフガン侵攻を踏み止まらせる拘束装置として機能しなかった。2020年の東京五輪が、戦争のためにボイコットを受ける事態は十分考えられる。仮に中国と交戦状態に入っていたとき、戦闘が尖閣周辺で限定される状況であれば、ボイコットは中国と北朝鮮の2国に止まり、多くてもそれにアフリカの数か国が加わる程度だろう(台湾と韓国は不確実要素だが)。今から7年後を考えると、日本は改憲の壁を突き破っている蓋然性が高く、今よりももっと極右の全体主義国家になっている。五輪は、寺島実郎的な平和の方向へ誘導するのではなく、むしろ、五輪が日本のファシズム化を推進させる梃子となるのではないか。つまり、私の中の2020年の東京五輪は、かぎりなく1936年のベルリン五輪に近いイメージで、ファシズム国家が国威発揚と戦意鼓吹のために催行する狂気の政治祭典が目に浮かぶ。7年後に開催される東京五輪の看板は、この国の右翼ナショナリズムをエンカレッジさせ、さらに獰猛に増幅させるに違いない。 More
昨日(9/6)、午後2時から行われた宮崎駿の引退会見、14か国から600人の報道陣が集結した盛況なものだった。雰囲気はとてもよかった。官僚や政治家の記者会見とまるで違い、宮崎駿の人柄がよく出ていて、中身の吟味は別に、見ながら楽しさを感じるやり取りが進行する映像だった。特に、会場に馳せ参じた外国の記者が、それぞれ日本語が堪能で、同時にかなり熱心な宮崎作品のファンで、自国の国民に向けて宮崎駿から特別なメッセージを取るべく、精力的に質問する姿が印象的だった。台湾、ロシア、イタリア、フランス。どの記者たちも、この重大な現場に立ち合って、宮崎駿と自国のファンとの間を仲介する大役に栄誉を感じ、その使命に興奮している様子だった。外国人記者たちの声は弾んでいて、そこには、質疑以前に、「宮崎先生、大好きです」という、自らの宮崎駿への率直な尊敬と愛着の気持ちが溢れていた。また、その態度は、決して、近寄りがたい哲人から言葉を拝聴するという、緊張や萎縮が漂うものではなく、昔からの親友に接するように、フランクリーに、無邪気に、遠慮なく、対等に接するものだった。カメラは質問する外国人記者を撮らなかったが、彼らが目を輝かせていたことは想像に難くない。記者たちは満足したに違いなく、テレビを見ている私も気分がよかった。外国人記者が日本人の会見の席を囲んで、こんなに楽しい空間ができるのは初めてか、久しぶりの光景だ。 More
前回の記事で、映画「風立ちぬ」が、特にヨーロッパの観客を意識して製作された作品で、もっと率直に言えば、ベネチア映画祭での賞取りを狙ったものだということを指摘した。それに関連して、このアニメの声優の問題がある。堀越二郎の声の役に庵野秀明を当てた件だ。非常に評判が悪い。あまりに素人丸出しで下手糞なので、耳障りで、物語の世界に入り込めないという苦情を言う感想が多い。これは同感だ。映画を見ながら、「この台詞はNGで録り直しだな」と思った場面が何か所もあった。9/1に引退の一報があった後、テレビに加藤登紀子が出てきて、「紅の豚」で同じ台詞を20回も録り直しさせられたという逸話の披露があった。「ハウルの動く城」では、噴水の音のリアリティに拘ったために、わざわざレマン湖まで収録に行ったという自慢話もあった。同じ宮崎駿が監督したとは思えないほど、庵野秀明の声優演技はお粗末で、ドラマの感動を盛り上げる重要な場面をぶち壊しにしている。巨匠監督による意表をついた素人の大胆な起用が、斬新な演出効果となって成功する例もないわけではない。黒澤明の「影武者」がそうだろう。巨匠になると、常識破りの手品で世間を驚かせたくなるものだ。だが、今回の庵野秀明の抜擢は明らかに失敗で、「巨匠最後の作品」に泥を塗る結果となった点は否めない。悪ふざけにしか思えない、尋常でない放逸な声優のキャスティング。ここには作為がある。 More
宮崎駿が引退するというニュースがあり、映画「風立ちぬ」を見に行った。宮崎駿について何か論じたい気分になり、新作の映画を見ずにそれを書くのは不具合に感じたので、実際に目で確かめることにした。本当は、封切られてすぐ映画館に足を運ぶつもりだった。今夏の一つの楽しみにもしていたのだけれど、それが、ここまで遅延になったのは理由がある。8月に入って原爆を考えさせられる季節となり、8月15日が近づくほど、やけに宮崎駿がマスコミに露出する機会が増え、映画の宣伝情報でテレビが埋め尽くされ、それへの食傷と反発というか、そういう気分が自然と芽生えて広がった。また、NHKの対談で喋る宮崎駿の行動や言葉に、正直に言って、ひどく胡散臭さと抵抗感を覚え、そのことも映画館から足を遠のかせた要因となった。さらに、時折ネットで目に入るところの、今回の作品へのネガティブな評判も影響したかもしれない。今回は、レンタルビデオかテレビ放映を待機することになりそうだと、そう思っていたとき、9/1の引退発表の報道があり、マスコミやネットの反応があり、それに触発され、実際に作品を見ることになった。従来の宮崎作品と違って、今回は評価が二分されていると恵村順一郎が報ステで発言していて、それも気になって確認をしたかった。感想を言えば、事前の期待が低かったので、予想したよりはずっと佳作だったという採点になる。 More
週末、テレビを見ていたら、水口章が民放局をハシゴして、オバマのシリア軍事介入を正当化するプロパガンダを撒きまくっていた。TBSも、テレ朝も、シリア情勢のスタジオ・コメンテーターに水口章を呼んでいる。この男は、10年前のイラク戦争のときも、「専門家」の顔をして、ブッシュの軍事侵攻をテレビで擁護する役割を果たしたが、こういうときは必ず出番が回ってくるらしい。宮家邦彦がレギュラーで右翼路線で固めているテレ朝の方は頷けるが、TBSの関口宏の番組に出てきたのには驚いた。9/1のサンデーモーニングでは、ニュース・トピックスの冒頭でシリア問題を取り上げたけれど、岸井成格がコメントを吐く場面はなかった。岸井成格の代わりに水口章に「解説」をさせている。つまり、局(TBS)として、番組として、水口章の話が公式見解なのだ。民放テレビは、露骨に偏向した水口章の主張を標準の「解説」に据え、シリア報道のキーメッセージをデリバリーした。いつものこととは思いつつ、あまりの毒々しさに神経衰弱にさせられる。半年ほど前だったか、竹島と尖閣がらみで、官邸に対外問題のマスコミ報道を監視・干渉する部局が置かれ、「国益を守る」報道をするよう各局各紙を指導することになったという情報があった。おそらく、今回、その政治が発動され機能したのだろう。安倍晋三と世耕弘成が裏で指示を出し、水口章の「休日出勤」を受け入れさせている。 More
日本時間の今日(8/30)未明、英政府がシリアへの軍事行動に関する動議を議会下院に提出、採決の結果、反対多数で否決された。報道によると、当初、キャメロンは即軍事介入に踏み切る動議で勝負に出ようとしたものの、野党の反発で譲歩、国連調査団の報告を待って、再度の採決を経た上で軍事行動という動議に切り換えた。しかし、この戦術でも失敗。野党労働党だけでなく、与党保守党の中にも慎重論が相次いだとある。キャメロンが政治戦の博打に出て失敗、英国の軍事介入は断念に追い込まれた。反対多数の世論が議員を動かした結果だ。この動きは、昨夜(8/30)、報ステが説明したとおりの進行で、まさにドンピシャ。今回の「シリア戦争」をめぐる情勢報道は、国内では報ステ(古館伊知郎)の独壇場だ。DCの新堀仁子の解説では、オバマはあくまで多国籍軍の形式に拘っていて、英議会の承認が不調に終われば、軍事介入を断念するだろうと言っていた。一部には、米仏軍で攻撃開始とか、米軍単独でも決行という情報も流れているが、果たして新堀仁子の予想どおりになるだろうか。余談ながら、このワシントン支局長も2世貴族で、こちらの父親はまずまずの報道人だった。親父は放送法の理念に忠実な仕事人だったが、娘は従米媚米のバイアスがくっきりで、ジャーナリストと呼べる一般像からは程遠い。DC支局長だから無理もないとも言える。NHKも民放も、どちらの父と娘にも、時代の変化が投影されていて溜息が出る。 More
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