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にほんてぃる(第二部)
第十一話 「どちらが嘘つき、その名は――」
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昔から天国とか極楽は高い所にあると言うが、そんなのは嘘っぱちだ。
高度七千メートルの世界は、とてもじゃないが楽園とは程遠い。
まぁ、あの世に近いって所だけは同意しといてやってもいいな。
11月12日。
陸軍大臣であるエイの指令でマーレ作戦を行う第二十五軍に参加する事になった俺は、陸軍の偵察機でマーレ半島のイポって場所に向かってる。
複座式の偵察機、後部座席に座る俺はミチの用意してくれた例のカラスみたいな軍服を着ているが、それでも寒い。かーなーり、寒い。頭にはスピーカーの付いた皮帽子、口にはマイク付きの酸素マスクをつけてるが、これがまた窮屈で仕方ない。
冷蔵庫みたいな寒さもそうだが、酷いのは頭痛だ。多分気圧のせいだろう。頭の中に虫歯が出来たみたにズキズキ痛んでしょうがない。それでも俺は、初めて乗る本物の航空機に胸が躍っていたから、実際はそれ程酷く感じなかった。運動会の最中に怪我をしてもあまり痛くないみたいな。そんな感じだ。勿論、俺の胸の中にあるのは楽しい気分だけじゃなかったが。
「今更だけど、スターズやブリテンの戦闘機に見つかったりしないよな」
酸素マスクの奥に張り付いたマイクに向かって呟く。新本の飛行場を飛び立って数時間。俺が向かってるマーレって場所は、現在進行形でブリテンの植民地になってる。
当然そこにはブリテンの軍事施設、飛行場なんかがあって、マーレ作戦遂行中の第二十五軍とドンパチをやってるわけだ。そんな中に護衛もなしでのこのこ飛んでいって落とされやしないか。ハウイ作戦を経験した俺は、その事が心配でびびっていた。
「多分大丈夫ですよ」
帽子に内臓されたスピーカーからひび割れた声が返ってくる。答えたのは前部座席に座る猫耳の飛行気乗りだ。
「多分かよ」
「そりゃ。空に絶対はありませんから。って、それを言ったら海や陸もですけど」
「そりゃそうだろうけどよ」
その通りとしかいいようがない。それ以上を求めるのは無理難題の贅沢なんだが、俺としてもう少しだけ安心が欲しかった。軍艦に乗ってる時だって状況は似たようなもんだったが、気持ちの面じゃ大違いだ。
軍艦には、顔見知りの仲間が何百何千も乗ってる。そこにはある種の連帯感があって、安心感があった。これが海に浮かぶ棺桶だって事を忘れさせてくれる絆みたいな物が確かにあった。航空機にはそれがない。
解き放たれた自由。どこまでも翔けて行けるような無限大の自由や開放感と引き換えに、広すぎる中空にポツンと浮かぶ心もとなさ、不安と孤独を背負わないといけない。まったく、飛行気乗りってのは大した連中だ。
同じ棺桶でも、千人乗りと二人乗りじゃ不安の大きさがまるで違う。俺はハウイ作戦の時に送り出した飛行気乗り達の事を思い出し、少しだけナーバスになった。
「心配ないですよ。一帯の制空権はこっちの物ですから。南方作戦は上手くいってるみたいです。じゃなけりゃ、大事な軍神様を乗せたりしませんって」
猫耳の飛行気乗りは気楽に言ってくれる。お陰で俺の不安は半減した。なくなりはしないが、この程度なら抱えて飛べる。怖いのは誰だって同じだ。
「それに、万が一見つかっても、逃げ切ってみせますよ。あたしの命に代えても――」
頼もしい一言の直後、突然機体が揺れた。激しく、大きく。まるで何か巨大な塊が体当たりしてきたみたいに。銃撃か!? お気楽な気分は一瞬で消し飛び、俺は冷や汗を浮かべながら辺りを見回した。
「ご心配なく。ただの風です」
「今のが風!?」
「えぇ。季節風って言うらしいですよ。この時期のこの辺は大風が吹くんだとか。空程じゃないですけど、陸も結構凄いらしくて。開戦の時は上陸部隊が心配してましたよ。風のせいで上手く揚陸出来ないんじゃないかって――あ、見えてきましたね」
彼女の言葉に下界を見下ろす。大気の層で白ずんだ視界の端、青い海原の上に広がる苔のような緑色を視認した。
「あれがマーレ半島か・・・・・・」
新しい俺の戦場。海ではなく陸。俺にとって始めての陸戦だ。
そこで何が待ちうけ、どんな事が起こるのか、正直な所想像もつかない。
いつも通り、おっかなびっくり顔を突っ込むだけだ。
「いえ。あれはピルビンです」
「え、そうなのか」
いい感じで締めに入ったってのに。早とちりかよ!
「イポまでは少し燃料が足りないんで。中佐にはあそこのアリパって飛行場で別の機に乗り換えて貰います」
「そりゃ残念だ。次の操縦士もあんたみたいに腕利きならいいんだが」
「はは、光栄です。軍神相馬様にお墨付きを貰ったって隊のみんなに自慢しなくちゃ」
名も知らぬ飛行気乗りの無邪気な笑いは、これが戦争で、彼女が軍人なんだという事を忘れさせた。そういうもんなんだろう。誰だって、四六時中戦争をしているわけにはいかない。戦争だからって、その一瞬で人間が根っから変わっちまうわけじゃないんだ。
「・・・・・・あじぃ」
1月13日。アリパ飛行場で一泊した俺は、そっから飛行機を乗り継ぎ、イポの飛行場に降り立った。南方作戦の最重要目標であるネーシア。その前に横たわる二つの障害の一つ、マーレ半島にたどり着いたわけだ。
開戦直後、新本陸軍はマーレと地続きのシャムって国に上陸し、そっから国境を越えてマーレ半島に乗り込んだらしい。以来、破竹の勢いで南に進軍し続け、開戦37日目にして、マーレ半島約一千キロの半分を走破しちまったという。
イポってのはマーレの丁度真ん中少し北辺りに位置する街だった。
極寒の空とはうってかわり、陸は熱帯の土地だった。一月だってのに、太陽は容赦ない熱戦を浴びせかけ、湿った風がじっとりと肌に絡みつく。
移動用に厚着をしてた俺は、既に玉のような汗を浮かべていた。
これでも一年の内じゃ涼しい方だってんだから、外国ってのは分からない。俺の体内時計は一発でいかれちまって、奇妙な不快感を訴えている。
「ややややや。あなた様がお噂の、勝利の軍神天明相馬様でございますか?」
目を細めて憎い太陽を睨んでいると、飄々とした女の声が俺を呼んだ。
「そうだけど。あんたは?」
どうやらそいつは、陸軍の将校らしかった。病弱そうな痩せ型に、三つ編みの髪、カーキ色の軍服の襟をきっちり閉じた様は、神経質で几帳面な感じに映る。けれど容姿はハツラツで、鼻の先にちょこんと乗せた小さな丸眼鏡の向こうには、ぱっちりと開いた大きな瞳が何かの感情で爛々と輝いて見えた。茶色い丸耳と細長い尻尾は、恐らく猿のものだろう。
真夏にクーラーの効いた部屋から外に出た時、外の熱気が固まりになって襲いかかって来る感覚。あれに似た物を俺は感じた。それは錯覚で、実際は風一つ吹いてやしなかったが、何か強烈なエネルギーの波、覇気と呼べるような波動を感じたような気がする。
まさかこいつが?
「はじめまして。あちしは第二十五軍作戦主任参謀の辻政信(つじ まさのぶ)中佐でございます。お気軽に、マサノとお呼びくだされば」
やはりだ。こいつがエイの言っていた要注意人物の片割れ。辻政信だった。
「はて? あちしの顔に何か?」
「い、いや。なんでもない。熱くてぼぅっとしちまっただけだ。悪いな。わざわざ出迎えに来てくれたのか?」
俺は名前だけの軍神様、偽りの参謀だが、役なしのエキストラってわけじゃない。俺には俺の役目がある。ミチやエイ達の目となり耳となり、この世界の、そして軍隊の部外者として違和感を感じ取り、察する役目がある。そうして見える物、感じた事があったなら、俺は何かをやらなくちゃならない。
その何かはその時が来るまで分からないが、とにかく今は、こいつに不審感を持たせるわけにはいかない。エイの不安が的中しているの誤解なのか、それも含めて、先入観は捨てないとな。
「いえいえとんでもない。勝利の軍神天明相馬様がいらっしゃるんです。出迎えるのは当然でしょう? それにですよ。生憎と司令部は今朝方、拠点をイポからクアンプルに移した所で。そういう訳で、僭越ながらあちしが相馬様を出迎える大役を仰せつかったわけでして」
大きな目をまん丸に見開いたまま、ニコニコ顔でマサノは言う。そこに邪気や悪意は感じられない。むしろ丁寧で好感すら持てる。エイは随分脅してくれたけど、今の所は悪い奴には見えないな。
「長旅の所申し訳ないのですが、早速クアンプルに移動しましょう。お車はあちらに。ととととと、そういえば相馬様は、ハウイ作戦の功績が認められ、先日中佐になられたとか。当然といえば当然というか、むしろ天下の軍神様ですから、そんな階級に縛られるのもおかしな話ではありますが、何はともあれこの度はおめでとうございます。いやいや、本当にめでたい事ですよ」
迎えの車に案内しながらマサノが言う。
「あ、あぁ。ありがとう。つっても、俺は階級だなんだってのはどうでもいいんだ。興味もないが、なきゃならない物らしいから貰ってるだけさ」
「素晴らしい! 流石は軍神相馬様。至言にして名言、格言にして金言です。全くその通り、仰る通りでございます」
パンと手を鳴らし、さも感服したって感じでマサノ。
「な、何がだ?」
そんな大層な事を言ったつもりはないから、俺はただただ困惑する。
「ご自覚がない? それはますます良い。それでこそ神の座に座るお方だ。叶う事なら、相馬様の爪の垢を煎じて各軍将校のボンクラどもに飲ませてやりたいくらいで。いやいや本当、軍隊というのは不条理な所で。適材適所という言葉を知らないのです。無能な人間が有能な人間をこき使い、有能な人間の英知を無能な人間が台無しにする。あちしはそういった不公平が大嫌いで。常々階級制度には大いなる疑念を持っている次第でございます」
「あぁ。そういうのは小耳に挟んだ。どうかと思うぜ、俺も」
俺の頭を掠めたのは、イッチやナルミの顔だった。それぞれが得意な分野を持ちながら、それを生かせない場所に送り込まれている、事情は色々あるんだろうが、それにしてもあんまりだろう。
「ささ、こちらに」
用意されてたのは、愛嬌のある顔をした縦長の六輪車だった。後部座席に乗り込むと、隣にマサノが座った。
「さぁさぁ、出してくれたまえ。軍神様がお乗りだ。くれぐれも丁重に運転するように」
運転手が答え、車が走り出す。
「なぁ、マサノ――」
「軍神様はやめてくれと仰るのでしょう?」
ぐるりと首を回し、下から覗き込むようにしてマサノが言った。
「あ、あぁ。そうだ。堅苦しいのは嫌いなんだ」
「では相馬様でご勘弁を。天下の軍神様をさん付けで呼ぶなど、あちしには恐れ多くてとてもとても」
「・・・・・・まぁ、それでもいいけど」
なんだろう。マサノには有無を言わせぬ何かがある。迫力とか凄みとか、そういう分かりやすい威圧感とはちょっと違う。むしろ、知らず知らず従っちまう説得力みたいなもんがある気がする。
「なんだか想像してるのと違ったな」
窓の外を眺めながら呟く。
「戦争という感じがあまりしない?」
「それもあるな。イポの街の人達は普通に生活してたし」
街には露天が出てたり、営業している店も多少はあった。街自体も、戦闘の痕跡はほとんど見られない。多少閑散とした感は否めないが、ただそれだけだ。もっとも、俺は元のイポを知らないから、開戦前後でこの街がどう変わったのか知りようもないが。
「そりゃそうです。戦争をしてるのはあちし等とブリテンで、彼らじゃない。彼らには彼らの生活があって、生活していかなきゃいけないんですから」
「そういうもんか」
「あとは、マーレ人は新本軍に好意的ですからね。彼らからすれば、あちし等はブリテンの殖民支配から開放してくれる同じ肌の色の仲間といった所でしょう。彼らの為にも、是非ともそうなりたいもんですね」
「そうだな・・・・・・・」
この戦争における新本の勝利条件が、トーア一帯の共同体の確立だって言うんなら、それが支配でなく共栄である事を俺は願う。そこに進む道標になれる自信は、今の所全くないんだが。
「他には何か? クアンプルまではそれなりに距離がありますからね。参謀職に就く者として、相馬様のお話を拝聴したい所です。勿論、ご迷惑でなければですが」
「迷惑じゃないさ。俺はおしゃべりでね。話すのは嫌いじゃない」
「奇遇ですね。あちしもです」
目を見開いたまま、独特の笑顔をマサノは浮かべた。
「なんなんだろうな。もっとこう、酷いジャングルみたいな場所だと思ってたぜ。普通に車が走ってるから、多分それが意外なんだろうな」
「ブリテンの植民地ですからね。ブリテンやスターズの植民地となった土地の道は、大体このように舗装されているのです。とはいえ、それもごく一部の話。マーレ半島を南北に貫通するこの道と、そこから別れる幾つかの道だけですよ。他はおっしゃる通りご想像の通り、いえ、きっとご想像以上のジャングルです。あれを突破するというのは、中々簡単ではありません。ブリテン兵と戦うより、そちらの方が余程危険で難しい」
「そうなのか?」
「そうですよ。一度ジャングルに入ってしまえば、右も左も分からない。頼りになるのはコンパスだけ。足元はぬかるんだ湿地で、川にはワニやらヒルやら、竹やぶやゴム林には虎までいます。他にもマラリアの媒介となる蚊なんかも。それに比べれば、ブリテン兵なんて可愛いものですよ」
くっくっく。マサノは愉快そうに笑いをかみ殺した。
「いやいや本当、可愛いものです。赤子のようだ。第二十五軍がこれほど早く進軍出来たのは、何を隠そう彼らのお陰です。ブリテン兵が何を考えているのか知りませんが、彼らはあちし等が攻めていくと大した抵抗もせずすぐに撤退してしまう。おかしなものですよ、本当」
「確かに、それはおかしな話だな」
「全くです。奇妙を越えて怪奇ですらある。ですがですが、戦争とは往々にしてそういう不思議な事が起こるものです。けれどけれど、本当に不思議ですね。確かに事前の調べでは、シュガーホール要塞は海側の守りは強固ですが、北側、つまりマーレ半島と接続する陸の守りは甘いという見積もりでした。でもでも、ブリテンだって馬鹿じゃありません。ここに至るまで、幾つかは強固な防衛線が敷かれていました。例えば例えば、ジラート・ラインという物がありまして、鉄条網や対戦車地雷、無数の砲が設置され、六千以上の兵が投入された要所でした。実際ジラートでは大規模な戦闘が起こり、ここを突破するのはかなりの困難に思えました。こちらの兵は五百名、向こうは六千。その部隊は斥候の勘違いで本隊から突出し過ぎていたのですが、引くにも引けず、決死の覚悟で攻撃を仕掛けたのです。ですが、強固な防衛拠点に立てこもる相手を攻略するのは容易ではありません。どう考えても、孤立した一部隊の手に終える代物ではない。なのになのに、彼らは勝ってしまった。何を思ったか、ブリテン兵は十五時間の戦闘の後、忽然とその場から退却してしまったのです。あとには投降したイント人兵士千人と百以上の大砲や機関銃、二百以上車両と、山のように詰まれた弾丸、砲弾、ガソリン、各種缶詰や煙草などの趣向品の山、山、山、というわけです。兵達の間では、ブリテンからの贈り物、チャーチル給与などと呼ばれていますよ」
「・・・・・・それ、作り話じゃなくてか?」
「あちしは誠実さだけが取り柄でして。天地神命に誓って嘘は申しません。本当も本当、紛れもない事実。しかも、そんな事がここマーレでは、あちらこちらで起きています。ブリテンの拠点を占領してみれば、そこにはどう考えてもこちらより強大な戦力が存在した名残がある。普通に戦えば、苦戦するのはこちらが必須。なのになぜか、彼らは尽く逃出してしまう。そんな有様では、ブリテン兵恐れるに足らずと言われても仕方ありますまい」
「そりゃ、まぁ、そうだろうけど」
本当にそんな事があったのか? 俺にはどうも信じられない。なんだか、狐か狸に騙されてる気分だ。
まぁ、それを言うならこの世界に来てから、信じられないような事ばかりだけど。
戦争ってのは、俺が思っていたものと随分違う。
俺を乗せて車は進む。マサノが言う通り、道は平坦に舗装されてるが、慣れ親しんだアスファルトの道に比べると見劣りする。小刻みにガタガタと揺れる様は、安いマッサージ椅子みたいだ。道幅はそう広くない。せいぜい、車が二、三台並んで進めるかどうか。道の両脇は植物のごった煮みたいなジャングルが薄暗く広がってる。
所々では、戦闘の後だろう。道路にでこぼこの穴が穿たれていたり、黒く煤けていたりする。中には、木々が根こそぎ吹き飛んでいる場所があったり、焼け焦げた戦車の残骸が無残な側面を晒している場面にも出くわした。
そういうのを目の当たりにすると、やはりここは戦場なんだろうなと実感する。
と、思っていた矢先だ。
「・・・・・・ありゃなんだ?」
奇妙なものを見つけて尋ねた。
「馬の事ですか?」
特に不思議でもなさそうにマサノが答える。
マサノの言う通り、それは馬だった。陸軍の兵隊を乗せた馬が六頭ばかり、解体された大砲の部品みたいなのを載せた荷車を引いている。
「馬ですがって、ここは戦場だろ?」
「これはこれは。軍神様も存外に世間知らずのようで。おっと失礼。失言でした。ですが、何も珍しい事はありません。最近は機械化部隊も増えましたが、それでも車両を使うのはごく一部。今でも移動や輸送は馬に頼る事が多いですね」
「そうなのか・・・・・・」
どうやら、こいつらの感覚じゃ、それは不思議でもなんでもない事らしかった。
「じゃあ、あれもか?」
俺が指差す先には、三十人程の兵士が自転車に乗っては走っている。
「あぁ。あれは少し珍しいですかね」
と、今度は少し、面白そうな含みをもってマサノが答えた。
「自転車機械化部隊。通称、銀輪部隊と呼ばれています。先程も言った通り、我が軍にはまだまだ車両が少ないもので。馬は中々有用ですが、移動に使うには不便も多く、その点自転車は輸送も楽で小回りも効き、このように舗装された道がある場所ではすこぶる便利なのです。ここマーレは、あちらこちらに川が走っていて、撤退の際ブリテン軍は尽く橋を爆破していくのですが、そうなると橋を直すまで車両は通れません。ですが自転車なら、背に担いで渡れない事もない。他にも、新本の自転車は以前から他国の物より安くて頑丈という事で、ここマーレにも多数輸出されておりました。万一故障しても、代えや部品が手に入りやすいというわけで。自転車は、マーレ半島における大進撃の立役者といっても過言ではありません」
「マジかよ・・・・・・」
そんな言葉しか出てこない。戦場で自転車。確かに便利なんだろうが、大勢の兵隊が自転車を漕いでる様は、何処となくコミカルに映ってしまう。
「相馬様。よろしければ、彼らに一つ手を振って貰えると」
「そりゃまぁ、別にかまわないが」
「ありがとうございます。では――」
と、マサノは窓を開け、
「お前達! ついに我が軍に勝利の軍神相馬様がいらしたぞ!」
すれ違う兵隊達に向かって叫んだ。
兵士達はギョッとして、次の瞬間、アイドルを前にした追っかけみたいに狂喜した。うおぉー! 相馬様ー! 野太い歓声が上がる。恥ずかしさでいっぱいになりながら手を振ると、兵士達は心底嬉しそうにはにかんで見せた。
「申し訳ありません。ですが、これで彼らの心にも、一輪の勇気の花が咲いた事でしょう」
「これくらい、お安い御用さ」
前線から遠い事もあって、車内はお気楽な雰囲気になっていた。やがて空が暗くなり、ぽつぽつと大きな水滴がフロントガラスを叩く。雨はすぐに、バケツをひっくり返したような大雨に変わった。
「スコールです。この地ではよくある事ですが、前線の兵にはたまったものではありませんね。視覚、聴覚、嗅覚に加え、体温まで奪われる」
「確かに。急に涼しくなってきがやった」
本当に凄い雨だ。窓の外は水のカーテンに遮られて酷くぼやけて見える。激しい雨音に包まれて、逆に車内は静かに感じられた。
「第二十五軍ってのは、どんな所なんだ?」
涼しくなったせいか、薄暗くなったせいか、雨のせいか。その全てかもしれない。どことなく薄気味の悪い雰囲気が立ち込めるなか、俺はマサノに尋ねた。
「どんな、とは?」
分厚い雨雲のが生み出した灰色の影の中、やはりマサノの瞳は、力強い輝きを宿していた。
「色々さ。どんな人間がいるかとか。聞かせてくれよ」
チカチカと雲間に青白い筋が瞬き、直後、落雷の轟音が響いた。
「ここだけの話、山下中将には気をつけたほうがいい。世間じゃマーレの虎なんて呼ばれてるそうですがね。とんでもないとんでもない。彼女は蛇ですよ。腹の底で何を考えてるのか分かりゃしない。相馬様はご存知ないと思いますが、彼女は皇道派の人間でして。危険な一派ですよ。己が思想を実現させる為、皇王様を利用し、若い将校を焚きつけて邪魔者を一層しようとしたんです」
「知ってる。と言っても、少しだけだけど。エイから聞いたんだ」
「東條閣下から? でしたら話が早い。あちしもね、一応司令官という事で従ってますが、内心じゃ思う所が色々とありまして。相馬様も、彼女に利用されないよう気をつけた方がいい。困った事があったら、迷わずあちしを頼って下さい。微力ながら、マサノは相馬様の為に骨身を砕く覚悟が御座いますから」
「・・・・・・覚えとくよ」
それから一時間程走り、俺達を乗せた車はクアンプルに到着した。
クアンプル。マーレ半島のほぼ中央に位置する都市だ。案内されたのは、第二十五軍戦闘指令所。どうやら元はブリテン人の金持ちの家らしいが、家主はとうに逃げ出していないそうだ。
「ようこそ。あたしは第二十五軍司令官、山下泰文(やました ともゆき)、ユキと呼んでください。相馬殿、二十五軍を代表し、心から歓迎する」
「・・・・・・こちらこそ、暫く世話になる」
差し出された手を握る。小さな掌に反して、彼女の握手は熱く、力強かった。
こいつがエイの言う要注意人物の一人。陸軍中将、山下泰文。
マサノと交わした車内での会話を思い出し、俺は少し緊張していた。
「辻中佐も、ご苦労」
マサノに言う。ぼんやりとした、眠たげな目は、けれどナルミのそれとは違い、瞳の奥に巨木のような力強さを宿していた。
「いえいえ。あちしが希望した事ですから。噂の軍神様と僅かながらでもお話が出来て、大変勉強になりました。これも山下閣下のご配慮のお陰です」
「お世辞はいい。それより、中佐にはそろそろシュガーホール攻略の作戦を練ってもらいたい」
「それでしたらやはり奇襲が――」
「奇襲はなし。奇策もいらない。ユキは正々堂々ジョール海峡を渡ってブキマで投降を呼びかけたい。向こうが応じなければそれまで。ブリテン軍が降参するまで、全力で殲滅戦を行う。いい?」
「・・・・・・仰せのままに」
一瞬、マサノが浮かべた表情は見間違いだったろうか。それは灼熱の温度を持つ怒り、屈辱に対する憎悪のように思えてならない。
マサノが退出し、部屋には俺とユキの二人になった。
「・・・・・・あんたがマーレの虎か。思ってたのと、随分印象が違うんだな」
マーレの虎。大仰な異名から、俺は恰幅のいい強面の大女を想像していた。けど実際は違う。全く違う。全然違う。いや本当、可愛い虎がいたもんだ。
ユキは小さい。物凄く小さい。かーなーり、小さい。こりゃミチといい勝負だ。
マーレの虎ってより、手乗りタイガーって感じだ。なんてのは、口が裂けてもいえないけど。華奢で、小さくて、見た感じはツンとしたお澄まし姫って感じだ。ぼぅっとした目は、確かに何を考えてるのか分からない。だけど、頼りない感じはしない。むしろ逆で、飲み込まれそうな力強さがある。肩にかかった紺色の髪の中から飛び出すのは、黄色に茶の虎耳。あるのかないのか不安になるほど小さな尻から生えるのは、やっぱり縞々の虎の尻尾。これだけ揃えば、マーレの虎と呼ばれるのも納得ってもんだ。
「相馬殿。その呼び方は嫌いだからやめて欲しい」
舌足らずな、それでいて放り投げるような物言い。ぶっきら棒だけど真っ直ぐな言葉が俺のもとに転がり込む。
「なんでだ? お似合いだと思うが」
「本気でそう思っているなら、酷い侮辱」
「な、なんでだよ。カッコいいだろ、虎!」
しょっぱなから意味不明な事を言われ、俺は混乱する。
「虎がカッコいいなんて報道や創作が作った幻想。本物の虎は臆病な卑怯者。奴らは竹林に潜んで弱った相手しか襲わない。そんなのと一緒にされたくない」
「そ、そうなのか?」
「そう。だから、訂正して欲しい」
怒っているわけじゃない。声を荒げるわけでもない。真っ直ぐ過ぎる言い方は誤解を生みそうだが、それは単に真っ直ぐというだけで、それ以上でも以下でもない。そう思ったから、別に不愉快な気はしなかった。
「悪かった。マーレの虎は訂正する」
「ありがとう。相馬殿は誠実だ」
「褒められるような事じゃないだろう」
ユキは小さく首を振って否定した。
「ユキにとっては大事なこと。でも、大体の人は面倒な顔をする。適当に誤魔化して一々訂正したりしない。それが出来る人は、誠実と言っていい」
大真面目な顔でユキ。
「なんだ? もしかして、俺を試したのか?」
「故意じゃない。でも、そう。試した。気を悪くしたなら謝る。すまなかった」
ぺこりと、ユキは頭のてっぺんを俺に晒した。
「よしてくれ。別になんとも思っちゃいない。だから顔あげてくれよ」
「ん」
平然と顔を上げるユキ。なるほど、確かに何を考えてるのか分からない奴だ。いや、逆かもな。何を考えてるか、分かりすぎる奴だ。掛け値なしの言葉通り。それ以上でも以下でもない。だけど、そんな真っ直ぐさを信じるのは難しい。人間ってのはなんでも、裏があるんじゃないかって邪推しちまうもんだ。
「面白い奴だな、お前。大体の奴はみんな、俺の事を神様だなんだって大げさに扱うのに」
「ユキも、相馬殿には敬意を払っている。でも、神にも色々いる。特に、新本の神は」
「あぁ、そういやそうか」
八百万(やおよろず)の神だっけ。
「そんな事言われたのは初めてだ」
なんだかおかしくて、俺は笑ってしまう。
と、いけねぇいけねぇ。こんな程度で惑わされてちゃいけないな。単純なのが俺の悪い所だ。確かにこいつは見た所悪い奴じゃない。俺の直感がそう告げてるが、勘は勘だ。事実とは関係ない。一応こいつは、エイやマサノにヤバイ奴って思われてるんだ。そこん所を確認しないと、足元をすくわれかねない。
「殿はいらねぇ。相馬でいいよ。何処でもそう言ってる。敬語も不要だ。一応俺は軍人で参謀って事になってるが、俺自身はそんなの気にしてない。まぁ、嫌だってんなら無理強いはしねぇけど」
「じゃあ相馬」
「順応はやっ!?」
「ん?」
首を四十五度に傾けるユキ。ふざけてるってわけじゃないようだが。真面目に見える分、なんだがちぐはぐに感じちまう。
「いや、いいんだけどよ」
「長旅で疲れてるはず。風呂の用意をしてある。今日はゆっくり休むといい」
「そいつはありがたいが、後回しにさせて貰うぜ」
「折角の風呂が冷める」
「いや、だから――」
「用意した兵は軍神様の為にと張り切っていた。好意を無駄にして欲しくない」
「・・・・・・分かったよ。じゃあ、その後で来るから――」
「分かった。ユキはここで書類を整理している。いつでも来るといい」
というわけで、俺はひとっ風呂あびてくる事にした。
という事で、浴びてきた。いい風呂だったぜ。本当、久しぶりのバスタブとシャワーだ。
着流しに着替えた俺は、その足でユキのいる書斎へと向かった。
「邪魔するぜ――って、うおぉぉぉぉ!?」
ドアを開けた格好で固まる。
「大声を出すな。驚く」
「お、お前は、なんて格好してんだよ!」
後ろを向いたままユキに告げる。
「何が」
平然と聞いてくる。忘れてた。この世界の女は、そういう所の感性が俺らと違うんだった!
「薄着過ぎるだろ! 何か着ろ! 一枚でいいから隠せ!」
机に向かってペンを走らせるユキは、薄っぺらいタンクトップ、いや、ランニング一枚って酷い格好だった。
「暑い。ユキは汗かきだから。この方が楽でいい」
「俺が困るんだよ!」
「仕方ない」
渋々といった感じで承諾し、ユキは軍服の上を羽織った。とは言え、羽織ってるだけだから、よれよれの首元から色々見えそうになってる。ユキは小さいからなおさらだ。
「それで。用件はなに」
「お前がヤバイ奴なんじゃないかって噂を聞いたから確かめに来た」
俺は率直に言った。こういうのは、単刀直入が一番だ。そりゃ、お前はヤバイ奴かと言われてはいそうですと答える馬鹿はいない。けど、やましい事を抱えてる奴は、叩いてみれば何かしらボロを出すもんだ。
「そう」
「・・・・・・そうって、それだけか?」
「ん?」
不思議そうに四十五度。本気だとしたら、大した役者だ。
「ん? じゃなくて。俺はお前を疑ってるんだぞ!」
「そう思うならそう思えばいい」
「いや、そうじゃなくて・・・・・・なにかこう、弁解とかないのかよ!」
「ない。言い訳は嫌い。例えそれが根も葉もない事でも、他人がそう思うなら、それがユキの評価。反論は口じゃなく、行動で示す」
きっぱりと言い切って、ユキは書類に向かった。
「・・・・・・ご立派な考えだけどよ。なんつーか、それだと俺が困るっていうか」
参ったぜ。こりゃ、ユキの方が一枚も二枚も上手だ。俺からしたら、本気でそう言ってるのか開き直ってるのかわかりゃしない。
「東條閣下。それか辻の入れ知恵」
ペンを動かしながら、ポツリとユキが呟く。
「そ、それは・・・・・・言えねぇ」
「言ってるのと同じ。相馬は嘘が下手」
「うぐ・・・・・・」
俺とした事が、とんだ墓穴を掘っちまった。
「想像と違うと言うなら、相馬もそう。思ってたより単純。そんなんじゃ、簡単に騙される。軍隊は、そんなに甘くない。注意したほうがいい」
「あ、ありがとう・・・・・・って、俺の事はいいんだよ! 俺はお前の事を聞きにだな――」
「どうせ皇道派の話。あれは誤解」
「誤解? 何をどう誤解してるってんだよ」
「言い訳は嫌い」
そう言って、ユキは暫くペンを走らせる。けど、その内に小さくため息をついて顔を上げた。
「でも、時と場合による」
どうやら、やっと話す気になったらしい。ペンを脇に置くと、俺の目を真っ直ぐ見据え、ユキは言った。
「皇道派なんて存在しない。あんなのは、周りの人間の思い込み。ユキがマーレの虎と呼ばれてるのと同じ。マーレ作戦はユキじゃなくても上手くいった。でも、周りはそんな事と関係なしにユキを猛将に祭り上げる。そういう事」
「そういう事って言われても。俺にはさっぱりわからねぇぜ」
「神様なのに?」
「うぐ・・・・・・神様が万能だと思うなよ!」
てか、神様じゃねーし・・・・・・
「そうかも。じゃあ、もう少し説明する。ある所に、仲のいい将校達がいた。彼らは軍部や政治の腐敗について愚痴をいう事があった。彼らの大言壮語を本気にした青年将校達がクーデターを起こした。これに関わった将校が皇道派と言われてる。ユキもその一人。そういう意味では皇道派。でも、外野が言うような皇王様至上主義を唱えた事はない。その将校達と仲が良かったわけでもない。ユキは青年将校達と親しかった。青年将校達は貧しい農村の実態を知ってる。ユキよりずっと足元が見えてる。だから、危機感も強かった。そういう大事な事を教えてくれる可愛い後輩達。でも、純粋すぎた。若すぎて、物事の理を知らな過ぎた。クーデターなんか起こして、何にもならないのに。新本を良くしたい。ただそれだけを思って行動したのに、処分された。それが不憫で、ユキは庇った。正しい心から生まれても、間違った行為は裁かれないといけない。それは分かっていても、ユキは庇ってしまった。だからユキは皇道派と呼ばれてる。それが事実。でも、ユキは皇道派じゃない。それは周りが勝手に張った名札。不本意だけど、それはユキの罪だから、甘んじて受け入れる。皇王様に嫌われたのは辛いけど、仕方ない事。ユキは、青年将校達の暴走を止められたはずだし、止めなきゃならなかった。あの日に戻れるなら、ユキはあやまちを正したい・・・・・・」
後半は俯いて、声はか細く震えていた。それは間違いなく、懺悔の響きを伴っていた。
「東條閣下は皇王様を崇拝してるから、皇王様の意に背いたユキを嫌ってる。辻は、単純にユキが気に入らないからそんな事を言ってる。あれはそういう奴。ずるくて狡猾で油断ならない。陰口は嫌いだけど、相馬が騙されるといけないから」
ずる、ずるずる、ぐし、ぐしぐし。俯いたまま、ユキは両手で顔を擦った。顔を上げた時、ユキの顔には涙の痕跡はなかった。今まで通りの堂々とした佇まいだ。もっとも目の周りは隠しようのないくらい真っ赤に腫れていたけれど。
「これがユキに言える事の全部。信じるも信じないも相馬の自由。ユキが怪しいと思ったら、いつでも報告すればいい。後ろから撃たれても構わない。ユキはただ、与えられた軍務を全うするだけ。だって、ユキは軍人だから」
それだけ言うと、ユキはまた、書類仕事を再開した。黙々と、淡々と、静かに。
「話は分かった」
俺に言えるのはそれだけだった。
書斎を出て、用意されてた客室に向かう。
疲れた体に、ふかふかのベッドがありがたい。
だけど俺は、どうにも眠れる気がしなかった。
マサノとユキ。
二人の話が交錯する。
エイは二人が危険な人物だと言っていた。
確かに二人とも、一癖も二癖もある変わり者に見える。
だけど、今日の所は取り立てておかしな所はなかった。
むしろ二人は、それぞれがそれぞれ、違った意味で魅力的な人間に見えた。
そしてその二人が、お互いがお互いを注意すべき人物だと言っている。
おれはどちらの言葉を信じればいいのか。
どちらかが嘘をついている? それとも、どちらも本当の事を言っている?
わからない。何を信じて、どう動けばいいのか。
スコールの晴れた夜空を眺めても、マーレの青白い月が答えを教えてくれたりはしない。
五分と五分。疑念の天秤は水平のまま静止している。
答えを見つけるには、勘でもいいから山を張る必要がありそうだった。
どちらかが危険人物だとして、それはどちらだ?
俺はここで、ユキとマサノ、どちらを見張るべきだ?
一度に二人は見張れない。
疑いを晴らす意味でも、隠された闇を解き明かす意味でも、俺はどちらか一方に眼を光らせる必要がある。
それは――
→ マサノだ。
→ ユキだ。
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七星十々 著
イラスト ゆく
企画 こたつねこ
配信 みらい図書館/ゆるヲタ.jp
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この物語はフィクションであり、実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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