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国際
【鼓動】ソ連体制下で隠蔽され続けた「ウラルの核惨事」 住民汚染は黙殺 ロシア
次々に製造施設が建てられ、科学者や技術者が送り込まれた。マヤークのある現在のオジョルスク市は「チェリャビンスク40」という暗号名がつく。
1949年夏、ソ連は原爆実験に成功。爆弾の材料を製造したのが、マヤークにあったソ連初のプルトニウム生産工場だった。
ところがソ連は核兵器製造を急ぐあまり、放射能除去を行う施設の建設を後回しにし、安全性はないがしろにされた。高い放射能を帯びた廃液がテチャ川に垂れ流された。
57年9月には、再処理施設の冷却系統が故障し、爆発事故が起こった。200万キュリー相当の放射性物質が上空1千メートルの高さにまで舞い上がり、周囲約2万平方キロの地域に放出された。
汚染はこれだけに止まらない。67年には廃棄物を貯蔵していた湖が干上がり、放射性物質の付着した土埃が飛散してしまった。
ソ連政府は事実を隠蔽した。爆発事故の際には、作業にあたった兵士に危険性について一切説明せず、情報を漏洩(ろうえい)した際には、刑罰を与えることさえした。
76年、亡命した反体制派の露生物学者が英国で事態を告発した。しかし、英国でも当初、原発開発に対する恐怖心をあおりたくないという心理が働き、告発はなかなか受け入れてもらえなかったと生物学者自身が述懐している。
そして、91年のソ連崩壊。事態の全貌が白日の下にさらされた。
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