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クライアントNo.2 ドメスティック (蓮田奈央)

 祇園精舎の鐘の聲 諸行無常の響あり
 娑羅雙樹の花の色 盛者必衰の理をあらはす
 驕れる人も久しからず ただ春の夜の夢の如し
 猛き者もつひには滅びぬ 偏に風の前の塵に同じ
                 平家物語巻第一『祇園精舎』

 
「不思議なや鳬鐘を鳴らし法事をなして まどろむ隙もなきところに 敦盛の来たり給うぞや さては夢にてあるやらん」
「何しに夢にてあるべきぞ 現の因果を晴らさんために これまで現れ来たりたり」
                        修羅物『敦盛』

  *

 ケータイが鳴った。
 蓮田奈央は教科書を閉じ、ポーチの中に手を伸ばした。
 明日美からのメールだった。

 お誕生日 おめでとぉ
 またひとつ オバハンになったね(笑)

 奈央は返信する必要もないかと思い、クリアボタンを押した。
 ステンドグラス風のアリスの待受画面に、6/21(sun.)18:11と表示されていた。
 奈央にとって、誕生日など特別な日ではなかった。
 朝食のとき母に
「今日は誕生日ね」
と言われ、
「うん」
と答える。
 ケーキが食べられる日でもプレゼントが貰える日でもない。ただ年齢が一つ増える、それだけの日だ。
 奈央の家では、そもそも行事らしい行事をしたことがなかった。墓がない蓮田家にお盆などないし、大晦日も正月も普段と同じ夕食を食べた。小学校に入るまでクリスマスの存在すら知らなかった。
 クラスメイトに
「かわいそう、そんなのつまらないよ」
と言われ、初めて自分の家が変わっているということを知った。
 不自由に思ったことはなかったが、ウチだけ他と違うといわれれば気にもなる。一度だけ父に聞いてみたことがあった。
「どうしてウチは、ケーキとか食べないの」
「奈央はケーキが食べたいのか」
「うん、食べたい」
 次の日、父はずいぶん高級そうな洋菓子店の袋をさげて帰宅した。当然、誕生日でもクリスマスでもなかった。奈央は幼心に納得したのを覚えている。
 それは良いことでも悪いことでもない。そういうものなのだ。

 玄関のドアが開く音がした。父が帰ってきたのだろう。奈央はケータイと教科書を机に置いたまま、部屋を出た。
 階段を降りた先に、ちょうど父の姿があった。
 なぜか全身を濡らしていた。
 髪から雫が落ち、服も水をすって変色している。
「おかえり。どうしたのそれ」
 父が口を開く前に、キッチンにいた母が答えた。
「奈央からも言ってやってよ。また傘置いてきたんだって」
「なんで雨降ってるのに忘れるのさ」
 父は、濡れた靴下を脱ぎながらへらへらと笑っていた。
「うっかりだよ、うっかり」
 そう言って、脱衣所へと消えた。なにかあったのだろうか、今日は機嫌がいいようだ。
 いつもと変わらない夕食のあと、席を立ちかけた奈央を制止し、父は語りだした。
「奈央も今日で十五歳か。あと数ヶ月で中学も終わる。もう高校生だ。これはもう大人だ。未成年という特権はほとんど効かなくなる。義務教育が終われば社会に出たのと同じことなんだ。高校なんて行こうが行くまいがお前の自由。だが、それでお前がどうなろうが誰も助けちゃくれない。そのとき一番重要なのは自分の判断力なんだ」
 父の教訓は相変わらず退屈だ。
 ためにはなるのだろうし、気を使ってくれているのは奈央にもわかる。だが、こういう空気にはあまりなれていない。
 奈央はわざとなげやりに答えた。
「いま自分がすべきことを考えろってことでしょ。わかってるよ」
「違う。すべきことを考えるのは今日で終わりだ。これから考えなきゃいけないのは物事の因果だ。何をしたらどうなるのか。こうするには何をすればいいのか。行動と結果のバリエーションを想像するんだ」
「どう違うのかわかんない」
 奈央は正直に答えた。
 父と小難しい話を続けるのは嫌だったが、どう答えればいいのかわからなかった。
 父の代わりに、コーヒーを淹れていた母が言った。「損得勘定をしなさいってことよ」
 なんだ、そんなことか。父の言い方はいつも回りくどい。
 奈央は、今日の話は長くなると直感的に悟った。
「そうだ。今までは父さんもうるさく言ってきただろ。勉強しろ、本を読め、遊んでばかりいるな、早く帰ってこいって」
「そうでもないよ。他の子のトコなんか、もっと束縛してる親多いし」
 これも奈央の正直な気持ちだった。クラスの子から両親の愚痴を聞くたび、我が家は幸運だったと思った。多少変わってはいるが、別に毛嫌いしたこともない。
 コーヒーを父に渡しながら、母は言った。
「奈央がいうとおりにしてくれたからね。反抗期もなくて楽だったわ」
 それは単に受け取り方の問題だ、と奈央は思った。確かに徹底したギャルや不良ではないが、ずっと真面目だったわけでもない。
 小五の夏休み、クラスの仲良し四人で金髪にしたことがあった。
 強力ブリーチを一人二本、計八本買い込み、共働きの明日美の家に集まった。染めたことすらない無垢な黒髪を、一気に真っ黄色にした。ムラの残る仕上がりに一喜一憂し、鏡に映る変身した自分たちの姿に全員が興奮した。
 その異様なテンションは、奈央たちを扉の外へと導いた。日光を浴びた髪がキラキラと輝く。すれ違ったサラリーマン風の男性が、怪訝な顔でこちらを振り返る。いつものハンバーガー屋の店員も、いぶかしむようにこっちを見ている。
 皆が自分を見ている。
 そんな気がした。
 彼らの白い眼は、自分たちを特別な存在だと証明しているようでうれしかった。いつもの景色が違って見えるとはこういうことかと実感し、一時のアバンチュールを楽しんだ。
 みんなと別れた帰り道。一人になると、急に自分の異様な容姿が恥ずかしくなった。父はどう思うだろうか。何度もためらいながら自宅のドアを開けた。出迎えた母の表情は、ハンバーガー屋の顔と同じだった。
「お父さんに怒られるわよ」
 深くは追及しない母が、余計に奈央を怯えさせた。
 母との二人の時間はとても長く感じた。
 この気まずい空気を早く終わらせたいが、自分の恥ずかしい姿を見られたくはない。今こうしている時間は早く過ぎてほしいが、想像する未来はずっと来ないでほしい。矛盾した願望に空間が歪み、奈央は吐き気をおぼえた。
 帰宅した父の反応は、あまりに淡白だった。
「おお。結構似合ってるじゃないか」
 次の日、他の三人の髪は黒く戻されていた。話を聞くと相当な修羅場だったらしい。
「ナオちゃんちはいいね。親がうるさくなくて」
 奈央は休みのあいだ中、いい気になって金髪少女を貫いた。始業式の前日に黒髪戻しを使ったが、そのときも父は、
「なんだ、戻しちゃったのか」
と、冗談ぽく言った。
 父のそんないい加減なところは、結構好きだったりする。
 だからこそ、父と今日のような真面目な話をするのは苦手だ。
「まあそうだな。父さんも奈央が娘でよかったと思うよ」
 父はそう言うと、コーヒーを一口含んだ。
 これで解放されるかと思ったが、さっきの勘は外れていなかった。マグカップを置くと少し思案するそぶりを見せ、父はまた喋りだした。
「中学まではそれでいい。言われたことをちゃんとやれば良い子。やらなければ悪い子。つまり行動自体に善悪があったわけだな。だけど大人の社会にそんなものはない。何をやろうがそいつの勝手だ。その分何が起こるがはわからない。責任なんて言葉を使う人もいるが、それだとすこし違う。例えば」
 父はあからさまに姿勢を正し、アナウンサーのような口調で続けた。
「奈央の友達にAさんとBさんがいます。Aさんは一日五分しか勉強しないで、あとは友達と遊びまわっています。Bさんは一日五時間勉強して、テレビも漫画もゲームもカラオケも、一切興味がありません。遊び人のAさんと、がり勉Bさん。どっちがエラいでしょう」
「遊び人ってなによ。大岡越前?」
 奈央は、いつもの父の顔が見れて少し気がゆるんだ。
「さあどっちだ」
「まいいや、答えはがり勉のBさん。友達にはしたくないけど」
「半分正解ってとこかな。答えは、どっちもエラくはない」
「なにそれ、アホくさ」
「だから言ってるじゃないか。行動自体には善悪はないんだよ。じゃあ、第二問。今年の入試問題は意外と簡単で、AさんもBさんも同じ高校に合格しました。どっちがエラいでしょう」
 奈央は話の展開が読めた気がした。
 ようはウサギとカメの話だ。たとえ両方合格でも、最後には努力家のBさんが勝つのだろう。
 奈央は反発するように答えた。
「両方えらいんでしょ。結果が同じなんだから」
「違う。えらいのは遊び人のAさんだ。勉強に関してはAさんもBさんも結果は同じ。まあ勉強は受験のためだけじゃないが、今は関係ない。二人の行動が入試結果として表れたんだ。両方合格。同じ結果だ。だが結果は他の所にも出ているぞ。Aさんには遊びまわる友達がいるが、Bさんはどうだ。一人ぼっちだ。さっき奈央にも友達の縁を切られてしまった」
 父の言った半分正解の意味がようやくわかった。
 強引な説明だが、話の内容は意外だった。
「いいか、どんなにがんばったって結果が同じなら、その価値も同じだ。だけど結果はひとつじゃない。行動のすべてが何かしらの結果を生むんだ。何気ない行動から出た結果が、案外生活に響いたりする。ただ勉強だけしてればいいとおもったら大間違いだ。結果がどんなものか、想像しろ。起こりうるすべてを想像するんだ。これからは何をしてもいいと言ったな。失敗してもいいし、大損してもいい。取り返しのつかないことをしてもいい。ただし後悔と反省だけは絶対にするな。こんな結果になるとは思いませんでした、なんて言葉は通用しないんだ」
 奈央は何も言えなかった。自分の感情がうまく形容できない。
 きっと担任や生徒指導部長なんかに同じ話をされたら、適当に聞き流していたはずだ。オッサンがJCに媚売ってら、くらいにしか思わない。つまらない訓示だ。
 だけど何かが違う。
 話のどこかに引っ掛かったのだが、どこだかわからない。
 とにかく不安だった。
 助け船のつもりだろうか、黙って聞いていた母が口を開いた。
「だからね。これからは、お父さんもお母さんも何も言わないから。自分で判断しなさいってこと」
 これで話は終わりのはずだ。
 わかったとか、はいがんばりますとか。
 何でもいい。返事をすればそれで終わる。
 ただ奈央の心理は、引っ掛かった何かをたしかめずにはいられなかった。
「普通さあ、受験生の親がそんなこと言うかな。ワタシ勉強しなくなっちゃうよ」
「好きにしろ、それも自由だ。ただし、結果を想像するのを怠るな。ヒントとして教えておくが、私立なんか入ったら学費は出さないぞ」
「じゃあどうしろっていうの」
「それを想像するんだよ。今勉強して公立に入るのがいいか、バイトしながら私立に通う方がいいのか。他にも選択肢はあるだろうが」
「だったら高校なんか行かない」
「それでもいい。だけどそんなプー太郎をタダで家に置いておくと思うかい。タダで飯を食わせると思うかい」
「思わない」
「正解だ。家を出た後フリーターになろうが、風俗嬢になろうが、好きにすればいい。もしそれが嫌なら、そうならないようにどうしたらいいか、考えるんだ」
「お父さんはそれでもいいの。ワタシが風俗で働いても、なんとも思わないの」
「奈央がなりたければ反対はしない」
「なりたくないよ。嫌にきまってるでしょ」
「それでも人間は動物と違って、生きているだけで金がかかる。高校に入れば衣食住には不自由させない。これは約束する。もし行かないのなら、この家では暮らさせない。金もない。どうにかして稼がないと生活できないだろ」
「でも、身体を売るなんて、いけないことでしょ」
「何度も言うが、行動に善悪はないんだって。やっちゃいけないことはない。やらなきゃいけないこともない。社会にそんなルールは存在しないんだ」
「何言ってんの。じゃあ法律は何なの。六法全書とかにそのルールがびっしり書いてあるんでしょ」
「お前の周りに、法律を破ったことが一度もない大人なんて一人もいないぞ。みんな隠してるか、忘れてるか、自覚してないだけなんだよ」
「ならお父さんも犯罪者なの」
「住居侵入、器物破損、銃刀法違反、道路交通法違反。まあどれも大した罪じゃないが、立派な犯罪者だ。それでも父さんは、こうして善良な一般市民として暮らしている。同じ犯罪者でも、懲役を喰らって一生社会不適合者として虐げられ続ける人もいる。これが社会だ。わかるか。犯罪者が悪人なのは、犯罪という行為が悪いんじゃない。結果が悪いだけだ。悪い結果が付随した人間だから悪人なんだ。裁判沙汰とか有罪とか懲役とか、自分に不利益だと思う結果を想像、回避できなかったのが悪いんだ」
「じゃあ、ワタシが犯罪者になってもいいんだ」
 空気を察したように母が口を挟んだ。
「奈央にはちょっと早かったかしらね。まあ難しい話だから」
「いや、奈央くらいの年頃が一番危ないんだ。今のうちから集団の仕組みをある程度知っておくべきだろう。モラルだ優しさだ個性だ、なんて因循姑息なこと言ってたら、商業社会に丸ごと喰われちまうぞ。どんなに残酷でも真実を見つめ、自分で考え、起こりうる結果を想像し決断する。その判断を奈央に委ねてやることこそ、本当の民主主義なんじゃないのか。家族という一国家の中で、奈央の幸せという大義名分のもと教育と称した強制や干渉を繰り返していたのではいけない。支配する側の望む姿にとらわれることなく、奈央自身の価値観を、奈央自身で体現していくためには――」
 ワタシなんか、どうなってもいいんだ。
 ワタシのことなんか、どうでもいいんだ。
「これくらいにしましょ、ね。今日は奈央の誕生日なんだし」
 奈央は席を立った。
 椅子がフローリングに擦れる音が、警告音のようにはっきりと響いた。
 まとわりつく空気を払い除けるように自分の部屋へ向かった。階段を登る間、呼び止める声は上がらなかった。
 部屋に入ると、内開きのドアに背もたれて腰をおろした。
 雨の破裂音が部屋の周囲を取り囲んだ。
 奈央は泣いてもいないし、混乱しているわけでもない。
 ただ、へえそうなんだ、と思っただけ。
 ワタシのことなんか、どうでもいいんだ。
 それがお父さんの理想なんだ。
 それがミンシュシュギなんだ。
 ミンシュシュギって、そういうものなんだ。
 奈央は、この感情の名前をぼんやり考えていた。
 悲しい、悔しい、苦しい、寂しい。
 怖い、痛い、つまらない、辛い。
 いくつか候補は浮かぶものの、自分の胸に合った語感ではなかった。
 もっと透明で、寒くて、味気なくて、スーッとしてて。
 ふと、一つの単語が浮かんだ。
 奈央は立ち上がってケータイを手にとった。
 返信モードからメール作成画面へ移り、単語を打ち込んだ。

 むなしい
 虚しい
 空しい
 ムナシイ

「ソラ、しい」
 奈央は決定を押した。
 その一言は、自分のすべてを正確に描写している気がした。元々の正しい意味など知らないし、そんな読み方をしないことは、承知している。それでもいい。
だってワタシは空しいのだから。
 奈央は、改行して遺書代わりの短文を打ち込み、メールを保存した。
 背中越し。ドアの向こうから、両親の微かな話し声が聞こえた。
「なんか、間違ったこと言ったかな」
「真実なんて、人に見られるような姿をしてないものよ」
 遠く聞こえるその声は、奈央の中の父への思いが崩れ落ちる響きであった。

  *

 二十一日午後九時ごろ、神戸市須磨区のマンションで、同所、市立中学三年森尾明日美さん(一五)が倒れているのを帰宅した母親に発見され、病院に運ばれた。森尾さんは頭部に外傷を受け、未だ意識は回復していない。須磨署の調べによると現場に荒らされた形跡はなく、玄関は無施錠だった。捜査を続けている。


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