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  アリィ 作者:慧子
アリィという人物

始業、三分前。

靴箱から教室までの道のりを、私は重たいカバンに遊ばれながらよろよろと走る。

くりくり頭の猿みたいな男子が、すばしっこく足を回転させて私を追い越していった。

必死さは変わらないはずなのに、この足はどうして彼のように動いてくれないのだろう。

背中から「あといっぷーん」と叫ぶ先生の声が聞こえてきた……正確には、あと二分半であるのだが。

私は、毎朝こんな感じで登校している。

余裕を持って登校すると、朝の閑散とした教室の中、顔だけは知っているが親しくない、
まったくしゃべったこともない人間と二人きりになって気まずい空気を持て余すことになりかねない。

なにより、朝の低血圧な体でみんなのハイテンションなおしゃべりに付き合わされるなんて耐えられない……とくに、『あいつ』のおしゃべりは。

校門で生活指導の先生に発破をかけられようがなんだろうが、自分を守るためにはギリギリで登校するのが一番なのだ。

やっとたどり着いた教室、後方の半分開いた扉へ息を切らしてすべりこむ。

セーフ。

私は窓側、前から四番目の席へ向かう。

背中が丸くなってしまうのは、教室内を蒸し器にしている若い熱気に当てられているせいだけではない。

逃げられないと分かっていても、できるだけ『あいつ』から隠れたいのだ。

机の上にカバンをおろすと、どくどくと波打つ心臓を落ち着かせるために深呼吸した。

空気を瞬間冷却する始業のチャイムが鳴る。

買ったばかりのヘアピンを自慢していた子も、昨日のバラエティ番組のギャグを真似して笑いをとっていた子も、教卓の横でプロレスごっこをしていた子も、自由な時間が終わったことを知ってモザイクが晴れていくように、わらわらと席につく。

そんななか、黒い学ランと紺のセーラー服の波をかいくぐって、一人の女子が私の右隣の席に腰をおろした。

「ゆっぴー、おはよ」

私を『ゆっぴー』などと呼ぶそいつは、もとから細い目をますます細めて笑っている。

「おはよう、アリィ」

私は嫌悪感に顔の筋肉を引きつらせながら、なんとか口角を持ち上げて挨拶を返した。

「ねえねえ、ゆっぴーってば、毎朝どうしてギリギリにしか来ないの?」

「あ、ごめん……早く起きられなくて」

「ええー、アリィいつもゆっぴーのこと待ってるんだよ。
明日から早く来て、おしゃべりしようよ」

人の気も知らないで、この女はいつも容赦ない。


こいつは有田 淑子、通称アリィ。

私が世界で一番嫌いな人間だ。


あれは、去年の四月。

入学式直後のホームルームでのこと。

中学生になったばかりの緊張と照れ臭さに満ちた教室。

慣例のごとく行われていた自己紹介の、そのどれもが没個性的で、無難なものだったのは言うまでもない。

……たった一人を除いて。


「はじめまして、有田 淑子です。みんな絶対にアリィって呼んでください。
アリィの好きなものはイチゴとプリンセスグッズです。よろしくお願いしまあす」


肩口の髪に指をからめながら、上目使いで、媚びるような猫なで声で、語尾を不必要に伸ばし、自分で自分をニックネームで呼び、しまいにはぴょこん、とばかりにその場で飛んでみせた……要するにその『ぶりっこ』に教室中が凍てついた。

だって、そいつはどこからどう見たって可愛くないのだ。

というか、見事なまでの不細工なのだ。

それなのに本人は可愛い気まんまんで、しかも「これでクラス中の男子の恋心はつかめたわ」と言わんばかりの自信が表情からあふれていて、私は鳥肌を立てて震え、おののき、他のクラスメート達も明らかに不快を隠せない様子だった。

どうやったらその顔でそこまでの僭越な意識が持てるようになるのか、その過程が不思議でならない。

当然のごとく、アリィはクラスで浮いた存在になり、以後形成されていったどの仲良しグループからもはじき出されることとなった。

「ねえねえ、ゆっぴー。昨日のドラマ見た?」

今日も始まった。

アリィに限ったことではないが、この教室内で交わされる会話の内容といったら、テレビか、好きな男子のことか、誰かの悪口しかない。

私にはまったく興味のないことばかりだ。

「私は……見てない」

「あのね、昨日のドラマなんだけど、ヒロイン役の女優の演技がすごい下手で。
だからストーリーとか全然楽しめなかったの」

見てないと言っているのに話を続けるなよ。

こんなのにいちいち付き合っていられない、無視だ無視。

私は話を聞くふりをして、廊下を眺めていることにした。

もう朝のホームルームが始まる時間なのに、まだ先生が来ない。

チャイムによって一瞬静まった教室も、再び騒がしさを取り戻している。

「アリィ思うんだけど、最近の芸能界のレベルって低くない?
才能のない奴がどうしてあんなに売り出してもらえたりするのかなあ」

職員会議が長引いているのだろうか。

先生、早く扉を開けてください。

「あのドラマの女優って、きっと裏でヤラシイことやってるんだよ。
だって、あれくらいの演技なら絶対アリィのほうが上手にできるもん」

「……」

意識をそらしていたって、やはり耳に障るものは障る。

批判ばかりのあんたより、実際に行動して、そういう舞台に立つまでの行程を踏んできたその女優さんのほうが数倍立派だと思うんだけど、

そんなセリフを腹の底に漂わせていると、アリィは急に私の肩を叩きながら笑いだした。

「やだ、ゆっぴー、そんな難しい顔しないでよ。冗談だって、冗談」

冗談だって?

あんたの冗談は笑えやしないどころか、ただただ不愉快でしかない。

だいたい、ケラケラ笑いながら、どうしてそんなに強く私の肩を叩く必要があるんだ。

頭にくる。

頭にくるけれど、怒鳴るほど我を忘れることもできない。

「あはは。やめてよアリィ、痛いって」

つくろう気のない極めて完成度の低い作り笑いで制止すると、アリィは照れたようにワザとらしく肩をすくめて叩くのをやめた。

ああ、だから爪の先ほども可愛くないってのに、どうしてそんなにぶりっこができるんだ。

怒りを通り越して虚しさが胸の中で幅をきかせはじめたとき、待ちに待った扉を開く音がした。

「ごめんなさい、会議が、長引いてしまって……」

入室してきたのは、息を切らして頬を上気させた若い女性教師。

「いいよー、気にしないで」と調子のいい男子生徒がちゃちゃを入れ、笑いが起こる。

女性教師は、照れたようにはにかんだ。

今年初めてクラスを受け持つことになった新米教師の麻生 華先生は、生徒から『はなちゃん』と呼ばれ親しまれている。

背は高くないが均整のとれたスタイルに、小動物のような黒目がちな瞳が愛らしく、なにより若い。

麻生先生は、この学校のマドンナ的存在なのだ……マドンナと呼ぶには、おっとりしすぎている気もするけれど。

教師というだけで目の敵にしたくなる年頃の生徒たちも、麻生先生だけは特別。

私も、不器用ながら何事にも健気な彼女のことを慕う生徒の中の一人である。

私は、人より大人の女性を知らないと思う。

その陶器の肌や凛とした眉、つややかな潤いをはらんだ唇……子供の知らない手段を使って彼女たちが手に入れている隙のない美しさ。

浮き出た鎖骨のなめらかさ、柔らかくしなやかな腰のライン。

母親が、身近に女性がいれば免疫ができて当然のことに思えるのかもしれないそれに、私はいまだに戸惑ってしまう。

そして、憧れる。

麻生先生は、その憧れの真ん中にいる人物なのだ。

けれど、こいつは違う。


「なにあれ。教師のクセに、今日も胸の開いた服着てるし、髪型はお水っぽいし。
生徒に媚び売ってぶりっこするし、気持ち悪ーい」


校区内で痴漢が出たから気をつけて、と訴えている麻生先生に蔑んだ視線を送りながら、アリィは私にこっそり耳打ちしてきた。

くだらない。

これは単なる嫉妬。

念のため言っておくと、麻生先生の身なりはアリィが言うような恥知らずなものではなく、働く女性としてごくごく適当なもの。

アリィは可愛い、美しい同性なら誰だって嫌いなのだ。

自分が敵いようもない相手をどうにかしてけなすことで、自分が一番だと思いこみたいだけ。

その行為自体が自分をますますおとしめていることに気づきもしないで、まったく愚か。

だいたい、ぶりっこなのはアリィのほうだ。

私は何の反応もせずに、麻生先生の揺れる自然な栗色の髪の毛を眺めていた。

すると、アリィは何も言わなくなった。

……これは。

ちら、と視線だけで様子をうかがうと案の定、しゃくれているあごをさらに突き出して唇をとがらせた横顔があった。

三日月みたい。

でも、ちっとも美しくないので、そんなふうに言ったら三日月に失礼になるだろう。

どうせ休み時間になれば今の感情なんて忘れているに違いないので、放っておくことにした。

「……連絡は以上です。一時間目は、えっと、数学ですね。みんな頑張ってください!」

起立、礼、をすると着席の号令を待たずに麻生先生は慌ただしく教室を出て行った。

そんなに急がずともいいのだろうに、それでも必死な彼女の姿は微笑ましい。

私もあんなふうに、何をしても愛嬌がある女性に生まれたかったな。

騒がしく遠ざかっていく足音に入れ代って、数学の先生が姿を現した。

「若い人は元気ですな」

定年間近のおじいちゃん先生は、隙間だらけの黒ずんだ歯列をのぞかせてニカッと笑った。……


アリィは休み時間の度にトイレに行くので、私もいちいちそれについて行かなければならない。

用があるのは便器ではなく、そこにしかない大きな鏡だ。

高い位置で結んだご自慢のポニーテールに乱れはないか、肌が皮脂でテカってはいないか、唇はツヤツヤに潤っているか。

美しくもない顔を熱心にチェックして、校則に引っかからない程度に最大限のオシャレを心がけているようだ。

私はいつも突っ立ってその様子を眺めているのだが、この時間が結構いたたまれない。

しおらしくコームで前髪をとかすアリィに並んで、今日は私もぎこちなく鏡をのぞいてみた。

ひどい顔。

アリィを美しくないとけなしている私自身、美しさとはかけ離れた顔をしている。

重たい奥二重、団子鼻、上下の厚みのバランスが不格好な唇……顔立ちのひどさも去ることながら、髪を低い位置で結んでいるため老けて貧相に見えるし、肌は乾燥する季節でもないのにカサカサで、頬からは白い粉が吹き出している。

私は蛇口をひねり、手を洗うふりをして濡らした手で髪の毛をなでつけ、頬の粉を払い落した。

今朝見つけた眉間のニキビは大きくなっている。

美しくないならないなりに、もう少し身なりに気をつかうべきなのかもしれない。……

一人で現実と向き合っていたら、アリィに肩をつつかれた。

「ねえ、教室に戻ろう?」

私の制服の裾を引っぱって、しきりにトイレの入り口を気にしている。

振り返ってみると、やたらと派手な格好をした三人組がこちらを見ていた。

私たちの隣のクラスで、この学年一の権力を持ち恐れられている、カナエ、ミオ、ノアだ。

「ゴメーン、うちらも鏡見たいんだけどお」

リーダー格のカナエが「どけ」と言わんばかりの迫力で私たちを睨みつけ、その後ろで残りの二人が校則違反の茶髪をいじっている。

「カナエちゃん、ごめんね」

普段の倍は甘たれた声を出したアリィから、腕を思いっきりひっぱられた。

私もこの重苦しい雰囲気から解放されたくて、二人で走ってトイレを後にした。


「ああ、恐かった」

教室へ帰ると、アリィは胸に手を当ててため息をついた。

たしかに私も恐かった。

カナエたちは中学生のくせに髪を染めて化粧もしているし、制服を改造してスカート丈もぐんと短いし、いつも近所の高校生とつるんで遊びまわっている。

まだ幼さは残っているけれど、同じ学年の子と比べたら数段大人びていて、しかも三人ともそれなりに整った顔立ちをしているから迫力がある。

絵に描いたようないじめっ子集団。

悔しいけれど、敵に回せばどんなことをされるか分からない、と感じさせられてしまう。

「あの傲慢な態度、すごく嫌」

私はいつだって脳内に悪意を渦巻かせてはいても悪口はめったに言わないが、このときは黙っていられずに思わず口にしてしまった。

カナエたちなど嫌われて当然のものだと決めつけていたから、もちろん同意されるものと思って。

しかし、アリィは首をかしげた。

「……そうかなあ」

「え、どうして」

悪口大好きのアリィが乗ってこないなんて、ありえない。

明日あたり槍でも降ってくるのではないか。

動揺している私をよそに、アリィはぽつぽつとしゃべり始めた。

「だってやっぱり、髪染めたり、スカート短くしたり、メイクしたり、してみたいでしょ?
だから、それを堂々とやってるカナエちゃんたちって、うらやましくない?
女子高生みたいで、カッコイイっていうか……」

いつになく歯切れ悪く話すその姿を見て、これがアリィの真剣な想いであることを悟る。

いつも考えなしにしゃべるアリィには、思いやりや遠慮がない。

それが、私の様子をうかがいながら意見している、人の目を気にしているということは、これは、めずらしくいろいろと考えを巡らせた結果の、きっとひそかな真意に違いない。

やめてよ!と頭ごなしに否定したかった。

めったに使わない頭を使ったかと思えば、なんて馬鹿らしいことを。

悪ぶって何になる。

反抗するのなど子供じみていて格好悪いだけじゃないか。

たしかに、私だって女の子だから化粧やオシャレに憧れを抱かないわけじゃない。

でもまだ実行するには早いと思う。

年相応をわきまえることは大切だ。

それに、私みたいに家庭が完璧でない子供が非行に走ったりすれば、「ああ、親がいないから寂しいのね」なんて具合で同情されるか、「親がいないからって特別扱いしてもらえると甘ったれているんだ」と白い目で見られるか、どちらかだ。

きっと目立てば目立つほど惨めになるだけ。

だからあくまで『地味』に徹しようと決めている私が、『派手』の模範例のようなカナエたちをどうして肯定できようか。

「……そんなの、高校に行ってからすればいいじゃない」

怒鳴らないようにと精一杯我を抑えた結果、想像以上に低くなった声でつぶやくと、アリィは「そうだけど……」と、口ごもった。

普段はあんなにわがままなくせに、いざとなるとこいつはヘタレになるらしい。

面倒な人間。

それでもやはりアリィはアリィ、しつこく食い下がってきた。

「でも、カナエちゃんたちのことうらやましい気持ち、ゆっぴーも少しは分かってくれるでしょ?」

憧れは相当強いらしい。

ここで首を横に振れば話は厄介になるだけだと判断した私は、不本意ながらもうなずくしかなかった。

私の胸の内など知らないアリィは、理解してもらえたと勘違いして満足そうに笑った。


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