クライアントNo.3 パーソナル (森尾明日美)
二十二日正午ごろ、神戸市須磨区の住宅で、住人の男性会社員(四二)と妻(三九)が、首や腹部、腕など数箇所を刃物で切られ死亡しているのが見つかった。男性が出勤しないのを不審に思った会社の関係者らが訪れて発見した。男性は妻と中学三年の長女(一五)の三人で暮らしていた。発見時付近に長女の姿はなく、兵庫県警は事件との関係を追及するとともに、長女の行方を捜索している。
*
空の隙間から、抱えきれなくなった雨がじわりじわりと漏れ出している。それでも空は、増え続ける水分を落とすまいと必死になっていた。どす黒く変色した雲の重みに一人で耐え続ける空の顔に、昼間の陽気な面影は微塵も無かった。梅雨の空は、見る者の心までずぶ濡れにさせる。
いっそ手を離しちゃえばいいのに。
天の神様は強情だ。
事件から一週間。
森尾明日美はまだ、この窓から青空を見ていない。
先程まで、明日美の病室には二人の警察が訪れていた。白髪の目立つ初老の男と、アラサーくらいの背の低い女で、女の方はこれで四度目の訪問だった。やることはいつも同じだ。事件当日の詳細を何度も確認し、何か変わった事はなかったかという漠然とした問いを投げ掛ける。そして最後に
「他に思い出したことがあったら、連絡してください」と言って、病室を出ていく。十分ほどの短い面接だ。それでも、女の厄介そうな目つきと、優しく笑う口元のギャップに毎度疲弊させられた。
今朝二人の刑事が入ってきたときも、いつもの確認作業だと思っていた。
明日美は気だるい笑顔で二人を迎えた。
そして、奈央の死を聞かされた。
女は遺体発見時の様子を詳細には語らなかったが、どうやら自殺だったらしい。
「蓮田さんの携帯電話の中に、未送信のメールが保存されていました。あなた宛になってたんだけど、どういう意味なのかしら」
女は一枚の用紙を手渡した。メールの画面を複写したもののコピーだろう。
本文の内容は、明日美にも何のことかわからない。
ただ文字の羅列にしか見えなかった。
明日美が首を横に振ると、女は落胆を隠しきれない顔で言った。
「今回のことは、あなたにとって単純に悲しいだけじゃないだろうし、混乱するのも無理はないと思う。でも、このままだと真実がわからないまま事件が終わってしまうの。落ち着いてからでいいから、教えてください。まだなにか隠していることとか」
女は唐突に言葉を切った。後ろの初老の刑事に背中を小突かれたようだ。
「まだ傷も癒えていないのに何度もごめんなさい。今度ゆっくり聞かせて下さい」
そう言って、二人は足早に出ていった。
隠していることなどなにもなかった。
明日美にも、奈央がなんでこんなことをしたのかわからない。
あの日はちょうど、奈央の誕生日だった。
日曜の夕方、七時過ぎ。明日美は英語の予習をやりながら、奈央からの返信を待っていた。予習といっても、教科書の英文の上に単語の意味をメモるだけの、単純な作業だ。真面目なやつらは、英文をノートに写して、自然な和訳に直し、新出の文法を抜き出し、意味と例文を調べて、と、ずいぶんマメなことをしている。明日美には彼らの非効率な勉強法は合わなかった。そんな無駄なことをして退屈じゃないのだろうかと、つくづく思う。
予習を早々に切り上げ、明日美は台所へ向かった。冷蔵庫を開け、飲みかけのオレンジジュースをラッパ飲みしながら、他に何かないか見回した。卵と飲み物類と、瓶詰めの佃煮だのキムチだのが何個かあるだけだった。朝食くらいしか家で食事などしない我が家にはこれで充分だ。朝食だって食べないことのほうが多い。別に問題はない。
ただこんな雨の日は、外に出るのが億劫に思う。
料理自体は好きな母である。家政婦のパートを始めたばかりの頃は、夕食を用意してくれていた。二人分のおかずがラップして冷蔵庫に入っていた。徐々に残り物で済ませる回数が増え、レトルトに頼り始め、最終的に千円札一枚になった。
飲み終えたペットボトルを流しに置き、財布を取りに部屋に戻った。ついでに携帯を確認したが、新着メールはなかった。明日美は部屋着のまま、コンビニへと向かった。
外は雨がかなり強く、むき出しのふくらはぎを濡らした。サンダルに水が入って気持ちが悪い。
途中、赤いまだらのシャツを着た、妙な女性とすれ違った。傘もささずに歩いてくる彼女は、時折空を見上げは立ち止まり、またふわふわと歩き始めた。
だから雨は嫌いだ。さっさと夕食を買って、さっさと帰ろう。明日美は自然と歩をはやめた。
ビニール袋をさげ家に帰ると、マンションの入り口の前に件の女性が座っていた。電灯の下でよくよく見ると、それはずぶ濡れの奈央だった。
「アスミ、どうしよう。ワタシ犯罪者になっちゃった」
奈央の顔は青白い影を落としていた。いくら奈央が小心者でも、ここまで怯えきった表情は見せたことがなかった。
とりあえず家に上げ、ダイニングの椅子に座らせた。父も母もまだ帰ってきていなかった。
明日美も向かい合って座り、話を聞く体勢になったが、何を聞けばいいのかわからなかった。奈央も自分からは喋ろうとはしない。
無言の時間が過ぎて言った。奈央は飼い主の帰りを待つ順応なシベリアンハスキーのように、大人しく座っていた。
明日美はこういう無駄な時間に耐えられないタイプだ。できれば何か話してほしかった。相談に乗れるかどうかはわからない。話せば楽になる、とも思わない。ただ、奈央を家に上げた以上ほっておくわけにもいかない。明日美には、奈央が喋ってくれるまで待つことしかできなかった。
家の電話がなった。
明日美は内心ほっとした。奈央には悪いと思ったが、正直限界だった。
奈央は首を横に振っている。
「大丈夫だよ。たぶんお母さんだから」
自分でも何が大丈夫なのかわからないが、とにかく廊下に出て受話器をとった。
「あ、お母さん。今ね、ナオちゃんが来てて――」
明日美の記憶はそこで途切れた。
右肩と頭部、顔面の打撲により、明日美の入院生活が始まった。
ナオちゃん、冗談きついよ。
明日美は、被害者の一人となった自分の状況を、辛いとは思っていなかった。病院での生活はたしかに退屈ではあるが、寝たきりというわけではない。後遺症は少し厄介だが、奈央を恨んでいないことは確かだ。
医者は、頭部の打撲は軽く、脳や神経に異常は見られないという。心的要因も有り得るなどとほざいているが、明日美には心の傷などない。奈央に殴られた。それだけのことだ。
ただ少しだけ、ほんの少しだけ、度が過ぎただけだ。
一通りの検査を受け、ようやく一段落した木曜の午後。その日は警察の他に、ふた組の訪問者があった。ひと組は担任と校長で、何か励ましの言葉を垂れていた。明日美は黙って聞き流した。相づちを打つ面倒がない分、病人という特権は有効だった。
もうひとりは、奈央の伯父だという五十近い男性だった。大人が土下座をするのを、この時はじめて見た。
「この度は大変ご迷惑をかけまして本当に申し訳ございません。大切なお顔に怪我まで負わせてしまって、なんとお詫びしていいのか」
男性はそこまで一気に言うと、ちらりと頭を上げた。明日美と眼が合い、また額を床につけた。
相手に非のない謝罪ほど、不快なものはない。
する側も、される側も。
明日美はぼんやりとした頭で、四年前みんなで金髪にしたときのことを思い出していた。
明日美の金髪に対しては、
「また馬鹿なことをして」
と呆れる程度だった母も、大量のブリーチの空箱を発見して急に怒りだした。明日美がどれほど説明しても、他の子の家に謝りに行くといってきかなかった。母の脳内では、明日美が他の子を悪い遊びに巻き込んだのだという図式ができあがっていたらしい。
大人たちに騒がれると逆にみんなに迷惑がかかると説得し、明日美が黒髪に戻すことでなんとかその場を治めた。
そのとき謝りにいっていたら、きっとこんな感じなんだろうな。
明日美は哀れな男性の後頭部を見ながらそう思った。
その後、新聞や警察の話を聞くうちに、徐々に事の次第を理解していった。奈央の両親が亡くなり、奈央が行方不明で、警察は奈央を疑っている。
そして、奈央が自殺した。
明日美は常に平常心を貫くつもりでいた。言うべきことは言う。やるべきことはやる。それでも言えないことはあるし、やれないことはやれない。結果、災難が起こってしまっても、仕方がないことだ。何が起きようが、それが私の人生なんだ。自分の不幸をひけらかすような人間にはなりたくない。そしてそれ以上に、単純こそが明日美の精神の基壇だった。
しかし、奈央は死んでしまった。
あの女刑事が言ったように、明日美はまだ混乱しているのかもしれない。
当事者である自分にも、わからないことが多すぎる。それらは、わからなくてもいいことのようにも思う。考えても仕方がないのはわかっているが、あまりに感情の座りが悪い。
いっそ奈央を恨んでしまえば楽なのかもしれない。親を殺すような凶悪な人間に、自分も被害にあったのだ。そんな奴は死んで当然だ、すべては奈央がいけないんだ、と。
それは、けして間違いじゃない。間違いじゃないが、納得できない。
明日美は奈央を恨んでなんかいない。きっと亡くなった奈央の両親もそうだろう。
それならば奈央の罪とはなんなのだろうか。
奈央はどうして死ぬ必要があったのだろうか。
ナオちゃん、教えてよ。
あのメールはなんなの。
何が言いたかったの。
何で私は病院にいるの。
何で私は声が出ないの。
何で私は怪物みたいな顔なの。
窓の外では、空が雨を解放する時を窺っていた。
明日美は、長い間思案の海に沈んでいた。
気がつくと、ベッドの傍らに一人の男性がたっていた。
さっきの刑事が戻ってきたのかと思ったが、そうではなかった。
どこかで見たような顔だったが、思い出せない。
夢のような、幻のような、ぼんやりとした印象の人だ。
いつまでも黙っている彼に、明日美は刑事が置いていった用紙を渡した。
なんとなく、そうしたほうがいい気がした。
これを読んで彼がどう思うかなど、明日美は承知していない。
*
date|06/21 19:11
to |明日美
sub |Re:
――――――――――――――――――――――――
空しい
ミンシュシュギトハ、ナンナノカ
ソレハ、ナゼヨイコトナノカ
お疲れ様でした。
こんなわけのわからん小説を読んでくださったあなた様を尊敬いたします。
ディスプレイの前で
「死ね。つまんねー」
と呟くあなた様のお顔が目に浮かびます。
……次は、もうちょい普通の小説にしようかな。
まあ、無理だろうけど。
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