キーボードか。
タワレコからそのまま帰宅して、ベッドに倒れこんだ。何日も干していない、汗っぽいシーツの匂いがした。
俺はキーボードとなにか因縁があるのだろうか。高校生のとき、初恋をしたのもキーボードをやっていた先輩だった。郁太郎先輩。音楽のジャンルは違うけれど。
あの日のライブ以降も時々軽音部には顔を出して、先輩と会話をしたものだった。まあ大抵は楽器雑誌を読んでいる先輩の隣で、彼の機材に対する独り言と鼻歌を聞いているだけだったのだが。
そもそもあれが初恋だったのだろうか。ひょろりと背の高い郁太郎先輩がふらふら歩いているところを眺めるのが楽しかったな。毎日どこかしら寝癖が立っていた。そう思えば、俺が美容師の道を選んだきっかけは先輩だったかもしれない。いやしかし、これはあまりにも純粋すぎないか。先輩に憧れるなんてきっとよくあることだ。
専門に入って、女の子とは2人付き合った。普通にかわいい子に惚れて、告白したりされたり。デートだって楽しかったし一通りのことはした。ただ、2人とも「優しいけど、たまに何考えてるか分からなくなって寂しい」とよくわからない理由を押し付けて去っていった。俺にはそれらの別れが寂しいとは思えなかった。そんな鈍さに寂しくなったのだろうな、と今になって反省している。
そして昨日の、川窪さん。郁太郎先輩のあの横顔を見た瞬間と同じ感覚に陥った。これは恋なのか。また会いたいし話したい。それなら惚れた、と言っても間違いはないだろう。でも、客だしな。いや、それ以前に相手は男だ。なにも起こるはずがない。
「俺だって何考えてるのか自分がわかんねーよ」
寂しい1Rの部屋には、どうしようもない独り言に応えてくれる人はいない。
あぁ、飯つくらなきゃ。川窪さんの笑顔を思い出しながら、ゆっくり立ちあがる。
華やかなイメージをとらわれがちだけど、美容師は地味な仕事も多いし忙しい。朝のミーティングに閉店後の講習会、月曜日の休みもないようなものだ。特に俺のようなアシスタント上がりの奴なんかは雑務だらけだ。スタイリストになって、余計やらないといけない仕事が増えた。毎日朝から晩まで立ち仕事で、帰ってテレビを観ながら寝るだけ。そんな生活になって、川窪さんのことなんてすぐに考えなくなってしまった。恋なんて、な。
スタイリストデビューしてから3ヶ月くらいだろうか、ある日俺指名でパーマとカットのお客さんが来た。
ロングの髪をアッシュブラウンで軽く染めてある。まだ幼さの残っている顔立ちだ。ソファで待っている彼女は、細い足を組んで誰かを探しているように視線を泳がせていた。
岩越るみこ。カルテを見ると、これが4度目の来店らしい。ずっと担当は違う人だったのに、なんで俺に。
「はじめまして、飯野です。今回はどのように?」
「肩にかかるくらいまでバッサリ切って、軽くパーマをかけたいなあって思うんだけど、飯野さんはどんな感じが似合うと思いますか?」
そうですねえ、と髪型カタログを取ってくると、何を思ったのか、にこりと笑顔を向けてきた。
「川窪先輩が言う通り、おもしろい美容師さんですね」
え、と俺は反応に困った。
今までの担当を蹴って、俺を指名してきたのは、川窪さん繋がりで?
「先輩のご紹介ですか、嬉しいです」
「はい、部活の先輩なんですけど、ちょっと前に急にイメチェンしちゃって。似合ってるけど雰囲気変わってびっくりした。それで、話を聞いたらここの飯野って美容師さんが提案してくれたって」
3ヶ月前まで記憶を辿って、川窪さん、会話の中ですがお久しぶりですね、と心の中で呟いた。俺の思いつきひとつがこんなに影響力を持つなんて、こっちがびっくりする。
「あはは、川窪さん元気ですか? 3年以上ずっと昔の髪型で通していたって言うから、カラー入れるなんて相当な冒険だったと思うんですけど」
「最初のうちはちょっと恥ずかしがってましたけどね。今じゃしっかり髪セットして大学来てます」
飯野さんの宣伝までするしね、と付け加えて、俺を見た。あんまりいい気分ではないタイプの視線だ。
「その期待に添えられればいいんですけどね。あ、こんな風なのはどうですか」
カタログのミディアムのページから、彼女の髪質と顔立ちから考えて一つ選んでみた。このモデルさんは結構短いほうだから、もう少し後ろ髪残しましょうか。そうですね。
なんだか腹が痛い。疲れてるのかな。わき腹を軽くさすって、るみこさんをシャワー台に誘導する。
るみこさんは川窪さんと同じ大学の軽音部で、1年生。小中学とピアノを習っていたのでキーボードとボーカルを担当しているそうだ。
またキーボードか。どこまでキーボードと運命付いてるんだよ。苦笑をこらえきれない。
散髪台の椅子に腰掛けたるみこさんの髪を指で梳く。細くてやわらかい。毛先も傷んでいないし、20センチも切ってしまうなんてもったいないな。
「兄と一緒にピアノ教室通ってたんですよ。でも恥ずかしいからって、中学に入ってからは兄は教室辞めちゃったんです」
そのくせ合唱祭の伴奏やったりバンドやったり、意味わからないですよね。そう言って、るみこさんはオーバーにはしゃいでみせた。その笑顔を鏡越しに見て、あ、これは、と櫛を取る手が緊張で固まった。
岩越なんて苗字は五万といると思って、何も考えないようにしていた。しかしこれは、大変な偶然なんじゃないだろうか。
「あの、もしかして地元は神奈川ですか」
「はい、××市です。飯野さんも?」
「そうです、高校までは××市で暮らしてたんですよ。専門学校に入学するときに上京して」
「すごーい、おもしろい偶然ですね。大学でも地元が一緒の友達なんてなかなか見つからないのに」
「俺も上京して初めてですよ、こんなの」
だめだ、くらくらする。
「もしかしたら、お兄さんのバンド見たことあるかもしれないです。お兄さん、お名前は」
髪を櫛で梳く途中で手を止めた俺を、鏡越しにるみこさんが怪訝そうに見ている。
「郁太郎ですけど」
岩越郁太郎。部室の隅でギターを抱えながらキーボードに向かっている姿がフラッシュバックする。800円のチケット。ライブハウスのステージ。コーラの泡がはじける。
これは大変だ。
「俺の先輩ですよ。軽音部の。今、先輩何してるんですか」
「都内の音楽の専門を出て、地元で就職しました。ライブハウスの音響やってるみたいですよ」
ああ、まだ音楽を続けてくれたのか。バンドはどうしたんだろう。まだキーボードは弾き続けてくれているだろうか。急に色んな思いが込み上げてきて、ちょっとすみません、と手で顔を覆った。七年前の思い出が頭の中で溢れ返る。目頭が熱くなる。
「兄にこんないい後輩がいたなんて知らなかった。学校のことはほとんど喋ってくれないから」
るみこさんが慌ててフォローを入れるように、語りかける。
「俺には音楽のこと以外、ほとんど喋ってくれませんでした」
もう、泣き笑いだ。るみこさんの髪を、触ることさえできなかった郁太郎先輩の髪を思い出しながら、丁寧にカットした。パーマもきれいにかけた。地元に帰ったときは先輩に俺の話をしてください。宣伝なんかじゃなくていい。俺は、ここにいます。
元を辿れば、こんな奇跡を起こしたのは川窪さんだ。俺のデビュー作第一号。3ヶ月も経てば髪も数センチ伸びて、傷んだ部分を整えなければならないだろう。きっと、そろそろ、また来店してくれるはずだ。
代金を支払う際、あ、とるみこさんは声を上げた。
「11月に、うちの学祭があるんです。川窪先輩のところのバンドも、私のバンドもライブやるから、時間があればぜひ来てくださいね」
日付と大学への行き方を教えてくれた。やるのは、サークルとは違ってこぢんまりとした教室みたいです。と付け足して。
「るみこさんはUKロックですか?」
え? と一瞬、質問の意味がわからなかったんだろう、るみこさんの表情が止まった。
「私のはキーボードとアコギで、アコースティックデュオですよ」
そのほほえみには、確かに郁太郎先輩の面影があった。
そのまさに数日後、日曜日の午後に川窪さんはやってきた。
「お久しぶりです。髪、ちょっと伸びましたね」
「そりゃあ、その分切ってもらいに来たんだから」
今度は何色にしますか。金髪メッシュはどうかな。川窪さん冒険しまくりですね。そんなたわいもない会話が楽しかった。
「飯野君に切ってもらって、周りの反応がおもしろかったよ。その美容師は天才に違いない! ってさ」
「本当に髪型に無頓着だったんですね。先日岩越さんが来て、彼女もびっくりしたって言ってましたから」
あー。るみこちゃん本当に飯野君に切ってもらったんだ。今週顔合わさなかったからなぁ。記憶を辿るように、目をおさえながら川窪さんはぶつぶつ喋った。
結局イエローオレンジを前髪の毛先にハイライトとして入れることにした。
「どんどん髪の色が明るくなっていきますねえ」
「川窪さんは黒髪よりも明るい色のほうが映えますよ」
まったく他意のない発言をしておいて、やってしまった、と思った。
初めて彼がこの店に入ってきたその瞬間から俺はそう思っていた。が、今そのことを口に出すと別の感情が入り混じっているように聞こえてしまう。恥ずかしい。
恋心、かぁ。
毛先に梳きバサミを通して、長さがまちまちな襟足の毛を揃えていく。
前回よりも全体のボリュームを減らしてみることにした。いいですか? と聞くと、川窪さんは、おまかせします。と答えた。
「そういえば、学祭の話を岩越さんに聞きましたよ」
「ああ、うん。店休めるなら来てください」
「努力します」
実際、彼が演奏しているところを観てみたかった。好きな人の演奏なら、どんなものでも世界一の音楽だ。
「あ、そうだそれで」
あのライブハウスの思い出がふっと頭をよぎったが、川窪さんが大きな声を出したので我に返った。意外と声がでかい。
「ど、どうしたんですか」
「CDつくるんです。俺のバンドの」
厳密に言えば、部活の有志が集まって学園祭用に作るコンピCDらしい。1バンド1曲。5バンドで200円で売る。
「いいじゃないですか。これもプチデビューですよ」
「ですよねえ」
彼の顔がほころんだ。バンドの話をしていると、本当に楽しそうな顔をする人だ。ブリーチ剤を用意しがなら、にこにこしている川窪さんを眺める。
そして、あ、と今度は俺が大声を出す番だった。
「俺の知り合い、というかなんというか、今神奈川の俺の地元のライブハウスで働いてる人がいるんです。やってるのは音響だけど、CD渡せば音楽の人脈でなにか起こるかもしれない」
すこし早口に、少々ためらいの気持ちもあったけれど、一気にまくしたてた。
CDを渡すということは、数年ぶりに郁太郎先輩に会うということを意味している。別に、るみこさん経由でも渡せるじゃないか、ということはその時思いつかなかった。
一瞬ぽかんと口を開け、すぐにどういう意味か把握してにやりと笑う。
「そりゃあ、面白いな」
予想通りの反応が返ってきた。
「というかそんな知り合いがいる飯野君が面白いよ。音楽はそんなに詳しくないんじゃなかったっけ」
「ああ、高1のとき少しだけ、軽音部に通ってて。結局楽器はやらなかったんですけどね」
苦し紛れの言い訳をつくって、ははは、と笑った。
「こりゃ面白くなってきた。何かが起こる」
川窪さんにはもう何かが見えはじめたのだろう。鏡越しに見るその表情は、いたずらを企む小学生のような、純粋に輝く笑顔を湛えていた。
やっぱり、俺はこの人を好きになってしまったんだ。その姿を見ていて胸が熱くなる。好きな人の髪の毛に触れるなんて幸運だ。俺は、川窪さんを世界一かっこいい男にする。彼が世界一のミュージシャンになるために。
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。