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第一部第一節 INVISIBLEの謎とグラウンド・ゼロにまつわる物語
第1節 第44話 神血の合成と白髪のV系学生
「レディラム=アンリニア、梶 奎吾、織図 継嗣の三柱の神々は生物階での任務、大儀であった」
 主神の労いの言葉に、三柱の神々は立ち上がってこたえる。
 恒はただ上を見上げて父親の言葉に耳を傾けた。織図は着席する際に下を見下ろして、恒が傍聴席に座っていることを確認する。恒が小さく手をふると、織図は遠くから茶化すように微笑んだ。恒の隣に座っていた清楚な身なりの二種公務員の女神が織図とのアイコンタクトに気付き、小声で話し掛けてきた。

「織図様とお知り合いで」
「親しくさせていただいてます」
 彼女は枢軸神と懇意にしているという恒に一目おいたようで、感心して口をつぐんだ。
 織図はこの会議で恒を神々に紹介するつもりはなかったし、ユージーンが明かしてくれた真実を織図の口から告げるつもりもなかった。恒が極陽の息子だということは尚更だ。極陽と恒の関係を明るみに出したところで、恒には何ひとつメリットがないからだ。神体検査の結果と恒が陽階神として登録されたという事実、更にユージーンと師弟契約を結んだという事はすぐにGL‐ネットワークに掲載され、検査結果をもって間接的に自己紹介をすることになる。有史以来生物階から初めて発見された神として神々は驚きをもって迎えるだろうが、極陽の息子だという事は内密にしてユージーンが風岳村から見つけてきた弟子として対外的に説明する方が恒にとってはよかった。そうでなければ彼は陽階神としての正当性を疑われてしまう。極陽の模造生命が果たして陽階神として認められるのかというと微妙なところだ。極陽も恒との関係を取り沙汰されない方が有り難いだろう。

「……ということでありまして、目下、かの病原体の感染は指数関数的に拡大を続けております。現在の推定感染者数は399千人にも上っております。24時間後には更に……」

 極陽から感染のシミュレーションを依頼されていた陽階10位 数学神 ファティナ=マセマティカが、緊張で頬を赤く染めながら暗い議場内に立体的に浮かび上がるデータをレーザーポインタで示している。
 3Dホログラムで開示されたデータを見て、神々は事の深刻さをまざまざと思い知った。この予測だと2週間後には世界中の人間が感染者となるだろうというのだ。陽階神の端くれの恒も末席で、ファティナの開示したデータにくまなく目を通す。これらの詳細な分析はGL-ネットワークの公共ネットワークには決してアップロードされないデータだ。全体会議を生で傍聴して収穫は大きかった、と恒は思う。

 議題は当然、生物階に侵入した解階の住民達のことにも及ぶ。その話題のなかで神々の同意もなく独自の判断で生物階に治癒血の組成を発表した比企の行為も問題となった。

 比企の行為は法を違えてはいたが、緊急時においては間違いのない判断だ。律儀な比企は生物階に治癒血の組成を発表するに至った事情を説明をする。レディラムの持ち帰った解階の住民の感染した体細胞とユージーンの治癒血を反応させると顕著な効果があったこと。他の神々の治癒血とともに同じ試験を行ったが、ユージーンの治癒血のみが感染症を癒したこと。他の治癒血を持つ神々との組成を比較し、ユージーンだけの持ちえる特効成分をピックアップして新聞社に発表したのだということ。生物階に神の治癒血の成分を明らかにする事は立法神としての職務を逸脱しており、その行為は罪深いことだと。

 極陽派の神々や陰階神は比企を鋭く弾劾する姿勢を見せていたが、極陽は彼等の心無い野次をたしなめた。
 極陽は次席に座る比企を見据えてきっぱり断言した。

「比企の為した行為は罪だ。だが誰も比企を非難することはできまい」
「しかし、罪は罪でございましょう」
「この現状を見よ! 比企を咎めておる場合か!」

 ヴィブレ=スミスは苛立たしげに声を荒げ、議場は水を打ったように静まり返る。
 滅多に感情を露にすることのない主神のいらだった様子に、神妙に発言を控えていた比企は、思わず極陽を振り仰いだ。ヴィブレ=スミスは比企を庇っているのではない、優先すべきもの、守るべきものを見失わずにあろうとしているだけだ。

「記事を拝読させていただいたが、あれでは誰も信じんだろう。著者の名も明かさずエビデンスもない」
 こう言うのは緑の髪の毛と瞳を持つ遺伝子を司る神、陰階神 第9位 アマデュ=パズトーリ(岡崎 宿耀)だ。彼は比企を非難するつもりはないようだったが、生物学に明るく研究者肌なためか、記事に鋭い指摘を入れてくる。 織図は岡崎の発言が終わると、高校生クイズの解答ボタンを連打するように発言ボタンを連打して発言を求める。
 発言者が手元のボタンを押すと、電光掲示板に発言待機者が表示される。

 天井の電光掲示板にネガティブ-8 ダグラス=ニーヴァーの表示が現れ、極陽が手元のパネルで発言待機者の中から選択すると、マイクのスイッチが入り発言が許される。早押しクイズのように早くボタンを押さなければ、一度に10名の待機者しか表示されない電光掲示板に表示すらしてもらえないというわけだ。基本的に喋りたがりで目立ちたがりの陽階神は、一刻も早くボタンを押そうと思い思いのフォームで発言ボタンにかじりついている。陽階神の発言待機者の中で唯一の陰階神として表示されていた織図が次の発言者として選ばれた。

「それが、たった一箇所だけ信じている組織がある。日本の大坂大学の錯体研だ。彼等は治癒血の成分を合成しようとしている」
 上島は大坂大学の錯体研にユージーンの血液を譲渡していたこと、彼等は治癒血の効能を信じて解析を行っていたという事、そして今回の新聞記事を見て合成の段階に入ろうとしている事を、織図に話していたのだ。

「たった一つの機関で、何ができよう。合成に成功しても量産出来なければ意味がないというのに」
 発言の権利を得られなかった陽階神が、陰階神である織図に野次を飛ばしたり揚げ足を取っている。外野の野次は文化のようなもので、基本的に陰階神が発言をしていると陽階神からの野次が飛ぶ。陽階神が発言するとまた然りで、陰階神の野次が飛ぶ。

「そもそもその治癒血を持つユージーンは何故会議に出席してこんのだ。枢軸神としての自覚に欠ける」
「では誰のおかげで特効薬のめどが立つと思っているんだ。非難するだけして、何も出来ぬではないか。無能な者ほどよく吠える」
「何を!」
 陰階神は口が悪いし、陽階神は頑固で融通がきかない。全体会議が開催される事は滅多にないが、陰陽階で合同会議をするといつもこれだ。そんないがみ合いをしている場合ではないというのに、織図は神々の緊張感のなさと身勝手さにいい加減腹が立つ。

「静粛に!」
 副議長が木槌を高らかに鳴らしてざわついてきた場内を諫めた。
 次に極陽に発言を許されておずおずと立ち上がったのは、黒髪をタイトに巻き髪にしてまとめた小柄な女神、現代の薬神、 陰階神第85位 清水 梢(しみず こずえ)だ。発言権は階級の高低に関わらず平等に与えられているが、清水は恐縮して枢軸神達にぺこぺこと頭を下げた。

「一つよろしいでしょうか。今朝、比企様の記事を拝読いたしまして同じ手技を用いて先日誕生したレイア=メーテールの血液サンプルでも試行を行いました。その結果、レイア=メーテールは治癒血と思しき血液成分を有しており、それをユージーン様の治癒血と照らし合わせて比較したところ、13種類の化合物に絞り込む事ができました」
 内気な彼女はくりくりとしたつぶらな黒い瞳を上目遣いにして、比企を見上げる。
 比企は冷たい眼差しで遥か下方にいる彼女を見下ろす。神体検査では治癒血を持っているか否かは明らかにならない、神体検査の後に詳細な血液検査を行い、その含有成分を同定するのは薬神の仕事であり比企ではない。ともあれ、清水の機転で更に化合物の種類が絞り込まれ、合成までの時間が短縮できる。

「手柄だ。よくやった」
「お恥ずかしい。追試にございます」
 鉄面皮の比企は眉ひとつ動かさず、清水の功績をたたえる。
 清水は比企の後任の薬神として即位してこのかた、何かにつけ優秀だった彼と常に比較されて肩身の狭い思いをしてきた。かといって比企が何か大きな業績を出していたわけではない。彼女は昼夜を問わず働いてコンスタントに業績を出している。それなのに位申戦となると相手を打ち負かす事が不得手で、いつまでも底辺をうろついたままで昇進ができずにいた。彼女はいつか比企に、薬神としての資質を認めてもらいたいと思っていたようだ。比企の言葉は社交辞令でしかないのだろうが、彼女は比企に初めて目にかけられ嬉しそうな表情を隠し切れない。

「しかし比企様」
「わかっておる。己の書いたスキーム(化学合成経路)は理論上のものに過ぎない。生物階であのスキームと全く同様に合成を行ったとしても完成はすまい。中間体の合成状況を適宜観察しつつ改変を加えてゆかねばならん。そしてそれは人の手に余る」
 比企の説明は、釈然とせず神々の間に疑問のしこりを残している。神階で合成できないものが、生物階で合成できるようになるものとは思えなかったからだ。
「何故神階で合成できぬものが生物階で合成できると考えておるのか。治癒血の合成は神階で一度も成功してはおらんのだろう」

 極陽は信頼を込めた眼差しで最も高い位置から比企を見下ろす。それを、極陽の左隣に座する極陰は大げさに目を丸くして観察していた。比企と極陽は神階を二分するほどに大々的に反目していたからだ。しかし極陽はこのたびの比企の行動を支持しており、比企の支援をすべきだと考えていた。比企と極陽の間には深い軋轢があるが、生物階を守りたいという認識は共通している。今回に関しては利害関係が一致しているため、比企と極陽が今いがみ合う必要はない。極陽はもともと極位に固執をしているわけではないし、比企も極陽個神の性格に対して不満を持っているわけではない。ただ比企は極陽の生物階不可侵の政策に限界を感じて極位を獲得しようとしているだけだった。

「治癒血の全成分を再現しようとしているのではない。治癒血の中のたった13の成分を合成するだけでよいのだ。その13の化合物は治癒血の効能を持ちはしないがこの感染症を癒す特効成分であり、現時点では一刻も早くそれを合成する事が望まれている」
「神階の恒常的な環境は有機合成には適さないのです。生物階は神階に存在するより多くの物理学法則が存在します、より変化に富んだ環境で行った方が有利なのです」
 清水が比企の説明に補足説明をつけた。
 彼女は神階で何度も治癒血の合成を試みてきたが、一度も成功した事がなかった。神階の環境は化学実験には向かないと気付き、それを立証する論文を書いた事もまた清水の業績ではあった。
「己は生物階に降下し、織図が挙げた大坂大学の研究チームと合成の手がかりを探ろうと考えておる」

「私もお共いたします!」
 現代の薬神としての立場を主張するかのように、清水も負けじと生物階降下を申し出る。極陽はニ柱の生物階降下を認めてから、残りの神々の協力を求めた。
「他に有機合成に明るい者はないか。生物階の研究機関と共に分担し化合物を合成しろ。支援を惜しむな。合成経路を特定すれば、ただちに量産体制に入る準備はある」
「量産が可能なのか? 神階にある薬神下使徒階の製薬工場では、合成できないのでは?」
 位神とは違って自由な発言権を持つ極陰が、隣の極陽にもっともな疑問を投げかける。さすがの彼女も今日は露出を控えて儀式用の白衣を着て肌を隠していた。極陰は生物階での権限を持たず、生物階の問題に関する案件は極陽に主権を譲っている。

「私は生物階で製薬会社を経営している」
 殆どの位神達は初耳だったが、織図と恒は知っていた。
 極陽は株式会社REIMEIの代表取締役なのだ、会社の名義で志帆梨に2000万近くもの慰謝料を支払っていた。
 代表取締役として株を転がして道楽をしているだけかと思えば、意外に役立つ場面もある。恒は父親が、恒や志帆梨を守るつもりは毛頭なくとも、生物階を全力で守ろうとしていたと見せ付けられた思いだ。今はそれを憂いている状況ではない、恒も陽階神の一柱として、暫定的に手を組んだ主神と比企の計画を支援しなければならないと思った。



 昼を過ぎ、藤堂家に電話をかけた朱音は落ち着かなかった。
 全国的に外出差し控え令が出ているというのに、恒が家を留守にしていると分かったからだ。夏休みの算数の宿題がわからない、という口実で電話をかけた。実際、最後のページの応用問題は難しい問題ではあったが恒ならば簡単に解いているだろうと思ったからだ。恒は留守だった。彼は親戚の家に泊まりに行ったのだと志帆梨はいうが、本当はそうではない事ぐらい彼女にも分かった。

 彼は最近、何やら慌しい様子だ。
 遊びの誘いの電話をかけても、忙しくて遊べないの一点張りだ。毎日のように遊んでいた村の子供達と遊ぶ機会も殆どなくなってしまった。親友の巧もとうとう、最近は恒が何を考えているのかわからないと言い出した。巧は近々ソフトボールの県大会にピッチャーとして出場するが、恒は親友の晴れ舞台の応援に来るつもりがあるのだろうか。親友である恒が応援に来なければ、巧もさぞかし残念に思うだろう。恒を悩ませる新たな問題は何なのか……心配になってくる。
 またひとりでつっ走っていなければいいのだが。

 恒と一緒に遊んでいた時には気付かなかった、離れてはじめてかみ締める彼への気持ち。折角真新しい水着を買ってもらって、楽しみにしていた海水浴が予想外の病原体の流行によって台なしになってしまった。そして朱音は5回目の告白の機会を失った。彼女はバレンタインデーのたびに義理チョコじみたものを男子に配って、本命チョコはいつも渡せずに持って帰って自分で食べた。告白のきっかけばかり待っていて、結局勇気が出なかったのは自分だったな、と朱音は振り返る。

 もう何かの力をあてにしたくはない、今度こそ意気地のない自分に負けずに伝えたい気持ちがある。
「恒君が家に戻って来たら外に呼び出して、もう言ってしまおう」

 彼女は遂にそう決意した。
 恒と付き合いたいというのではなく、ただもやもやとした胸の内を恒に伝えたい、それだけだった。
 何と返事してもそれで終わりにしようと、彼女は思う。そして答えは多分、Noだ。彼は何度親友と呼んでくれてもそれ以上には見てくれなかった。同じく親友であり朱音に思いを寄せる巧に遠慮して、朱音との距離をわざと取っているのではないと、賢い彼女は分かっていた。彼女は俯いて、また毎日のように見ている写真立てを取りあげた。

 恒を中心に十数名の村の子供達がふざけあいながら桜の木の下に並んで映っている。幼なじみの(さと)が転校していった時に、村を忘れないでねと怜にあげるために撮った写真だ。彼はまるでがき大将で子供達に慕われていたし、誰よりも仲間思いだった。しかしがき大将だった彼も自分も、大人になってゆくのだ。

 いつまでもこの関係は続かない、あと五年もすれば高校のない風岳村の子供達は村を離れなければならない。
 恒は飛び抜けて優秀だし、中学受験をするかもしれないのだ。

「恒君は、私の事を好きだなんて言ってくれないんだろうな……」
 彼女は頬杖をついて、写真立てのフレームを指の腹でなぞって、静かに机の上に戻した。



 感染症対策の指針がまとまって会議が終わるなり、神々は蜘蛛の子を散らしたように退席していった。
 極陽の退場までは神々は退席しないので、結果的にヴィブレ=スミスが真っ先に議場から出てゆく。非位神である恒と極陽は別の階に隔てられていてどちらにしてもこの会場で直接会う事はないのだが、恒は極陽が一度も恒のいる傍聴席を振り返らなかった事を少しだけ残念に思った。面と向かって話をしたいという気持ちはどこかにはあった、だが同時に父親に対して込み上げてくる怒りの感情を、どう向けてよいのか分からない。

 相手は主神だ、そこに如何な事情があろうとも、主神に拳を向ければ陰陽階神法の処罰適用となり神階を追放される。対面して感情を抑えていられる自信がない。今は会えない立場に居る事が、自分を救っていると恒は思う事にした。恒が極陽に抱く気持ちは複雑だ、命を与えてくれてありがとうという感謝の気持ちと、志帆梨と自分を苦しめ続けてきた事に対する憎しみが混ざり合って混沌としている。恒もようやく傍聴席から立ち上がって、外で待ってくれている以御と合流しようとした。そそくさと退席しようとしていた織図を、比企が呼びとめた。
「少し待て」
「何すか」
「看破させてもらった」
 織図はあちゃー、と額を押さえた。比企のマインドギャップは10層で、織図は5層だ。精神力に5層も差があればマインドブレイクをかけられてしまう。あれだけ議論の中心にいたというのに、ちょっとした隙にマインドブレイクをかけて織図の知りえた知識の全てを看破してしまった。織図と比企の議席にはかなりの距離があったので織図は油断していたのだが、遠隔心層看破は比企の得意とするところだ。
「読んだのはあんただけですか。両極位は?」

「議席が遠すぎた。それに己には両極位のマインドブレイクの形跡は見えなんだ」
「抜目ねぇなぁ。さすがは荻号さんの弟子だ」

「……」

 比企は灰色の眼差しを遠くに向けながらも、いつものように反論も否定もしなかった。
 織図へのマインドブレイクによってアルティメイト・オブ・ノーボディの真意を知った彼は、創世者と交流を持った一時期があったという事実を受け入れ回顧せざるをえなかった。頑なに封印していた荻号と過ごした時間の記憶が、堰を切ったように取り戻されてくる。比企は鮮やかな光の滝に打たれるように尊い記憶が沸々と蘇ってくるのを感じていた。

 遠い目をしてカタルシスに浸っているのかと思いきや、彼は傍聴席から立ち上がって退場しようとしていた恒を見ていた。

「あの子供は藤堂というのか」
「今日神階に入ったばかりなもんで。パワハラは勘弁してやってください」
「挨拶は今度にしよう。今は時間がないのでな、だが……不憫なことだ」
「あいつはあんたが思うほどには、弱くはないようだぜ。あと、味方も多い」

 織図は自信を持ってそう断言する。
 恒には彼を支える多くの味方がいる。ユージーンに、ノーボディ、彼の母親に、彼の担任、彼のかけがえのない親友達、そして勿論、織図もそうでありたいと思っている。

”あ、比企さんがこっち見てる!”

 うわ、何かやばそうな第二位神と目があっちゃったよ。恒は少し離れた場所から恒に視線を投げかけてきた比企を見て、蛇に睨まれた蛙のように立ちすくんだ。
 比企は7層のマインドギャップで鎧のように心を閉ざしている少年を驚きをもって見つめ、ややあって無言で去っていった。



 全学休学となった大坂大学の構内は閑散として、どうしても実験のため研究室に入らなければならない学生や教官を除いては学生の姿は見当たらない。売店も臨時休業となっていて、相模原と松林、築地、長瀬の四人は近くのコンビニに行くための横断歩道をビートルズのアルバムのジャケットのような恰好で渡っている。合成の得意な長瀬も休日返上で呼び出された。長瀬が熱愛中の彼氏シゲルはカンガルーの生態研究のためオーストラリアに行っている時に、出入国禁止令が発令され日本に帰れなくなっているのだそうだ。病原体の特定が行われていないので検疫も全く機能していない、感染症の流行が収まらない限り出入国禁止令は解除されないだろう。

 長瀬は彼氏に会いたい一心で、出入国禁止令を解除してもらうべく新規化合物の合成を手伝う気になったらしい。 午後になれば相模原研のほかの大学院生もやってきてもう少し人手が増えるそうだ。相模原は意味ありげに海外組を召集すると言っていたが、錯体研を出て現在では世界的に活躍している教え子数人に連絡を取って事情を説明し、24種類の化合物の合成を分担することにしたようだ。大坂大学錯体研に割り当てられた化合物は8つ。記事に記載された合成スキームを手がかりに、合成に取り掛かるしかない。
 長瀬は燦燦と降り注ぐ陽光を背に、陽炎の立ち昇る横断歩道の向こう側から歩いてくる男に気がついて築地を小突いた。

「あれ、あれ見て。うちの学生だよねぇ! すっごいV系!」
「うわー、やってもうとる! さすがに白はないな。グレーか何かのカラコン入れとるし」
 男は真夏だというのにグレーのレザージャケットを汗ひとつかかず着こなして、ヴィンテージもののジーンズを履いている。
 そして彼の髪の毛は雪のように白い。ビジュアル系バンドに勧誘されそうなほど派手な男は、涼しい顔をして大坂大学の敷地内に入っていった。

「あはは、さすがにツッチーも負けたぁ」
「あいつ絶対ヅラやで、あんなに真っ白に染まらへんもん。どこの学部やろあのアホは」
 目立ちたがりの築地は若かりしころピンクの頭にした事があったが、さすがに白くしたことはない。
 純白にするにはかなりのブリーチをかけなくてはならない。それでも染め上がりは黄ばんだりして色みが残る。築地は歳をとって禿げたらどうしようと、やってみたいとは思えど白にはできなかった。

 長瀬は長瀬で、サイケデリックで派手な服を着ているが、築地のようにとにかく目立てばそれでいい、というスタンスではなく髪の毛は奇抜な色にしない。ビジュアル系学生のネタで盛り上がりつつ、コンビニで昼食の買い物を終えた四人はぶらぶらと研究室にもどってきた。すると暗い廊下の先に、先ほどのビジュアル系男子学生が教授室の前に立っているではないか。築地と長瀬はげっ、と顔を見合わせた。彼は美術科の学生かロック研に違いないという議論を、彼の姿を目撃する直前まで熱く戦わせていたところだった。彼の耳に入ってしまっただろうか、と長瀬は口を押さえた。学生風の男に気付いた相模原は、少し離れた場所から彼に呼び掛けた。

「何か用かね」
「相模原教授か、待っていた」
 彼は風貌通り教授にタメ口をきくようだ。学部の一、ニ年生がどんな色に髪をそめてどんな格好でやってきてもそれは教授の関知するところではないが、風貌だけではなく相模原は彼が妙な雰囲気を持っている事が気になった。

「いかにもそうだが」
「あなたの助力を仰ぎたい」
 相模原教授はこの学生と面識がないし、ゼミなどで担当をした覚えもない。
 教養の講義で教えた学生が髪を染めてやってきたのだろうか、ぐらいにしか思えない。相模原はコンビニで買ってきた冷やしそうめんを教授室の前の棚に無造作に置き、ゼミ室の鍵を開けた。学生風の男は微動だにせず、やや高い視線から教授を見下ろしている。カラーコンタクトをしているせいか、ひどく冷たい印象を受ける。松林はその感情のこもらない視線にぞっとした。
「ところで、君はどこの学生だね」
「学生ではない。先日の新聞の一面記事の著者だ」
「それは面白い。だが記事には著者名がなかったぞ、ん? まあ入りたまえ」

 彼は冷房のきかない、むせ返ったゼミ室に通された。締め切っていたゼミ室の独特のにおいが、ゼミ室から廊下にあふれ出してくる。
「確かに記事には著者名がなかった。信じがたい、か」
 彼は誰も要求していないのに、爪先で手の甲を傷つけて血を流した。
 切り傷からは赤いインクのように透明な液体がじわりと染み出してくる。血の嫌いな長瀬が築地の影に隠れた。生ぬるい空気の立ち込めたゼミ室が、一気に凍りつきそうな緊張に包まれた。

「こんな色をした液体に見覚えはないか」
 教授は老眼鏡を取り出し、思わず彼の手を取り上げて観察する。見間違いなどではないようだ。教授は未知との邂逅に鳥肌がたつ。しかしそれは同時に武者震いでもあるような気がした。
「比企という。己と共にこの病に立ち向かって欲しい」
「一つご確認を。つまりあなたは、人間ではないって事ですよね?」
 松林の鋭い言葉を、彼は否定しない。比企は松林の問いかけに答えないままパソコンをケースから出して立ち上げ、データを見せると言った。相模原は比企がパソコンを立ち上げている間にちょっとトイレ、と言いながら退席して、向いの教授室の内線からこそこそと上島医院に電話をかけた。

 3コール目で上島は電話口に出た。
「上島君! 遂に例の血を持つ神様がこちらに出向いてくれたぞ」

『? どういう意味だね』
「とぼけおって! 若い白髪の神様がいらしたぞ、上島君が派遣したのだろう?」

 若い白髪の神だと? ユージーンは確かに若そうに見えるが、金髪のはずだ……興奮した様子の相模原とは温度差のある上島は、一体誰が来たんだ? と首をかしげた。
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