第9話 6.フルブリーチ
6.フルブリーチ
近くで誰かが語りかけてくる。
肩を揺すられ瞼を開くと、視界いっぱいに黄金と橙を溶け合わせた眩しさが広がった。
「ケン、コーヒーが入ったわよ」
逆光の中で女性が微笑んでいるのがぼんやりと映る。
「ターバンをチェックしてから来てね」
ケンは一瞬何のことかわからなかったが、頭の中で寝ぼけている意識をたたき起こして、自分がクルーザーにいること、発信機の電波を遮断するためアルミホイルのターバンをしていることを思い出した。
空は東から濃い橙に染まり、たなびく雲を割って赤い太陽が顔をのぞかせ、海面には黄金の光が乱舞している。
デッキの手すりにホーライ博士とカノンとジュリが並んでもたれていた。
ケンはジュリの隣に並んで「おはよう」と声をかける。
「ケン、おはよう」
「眠れた?」
「ええ、ぐっすり。ケンは?」
「最初、寝つけなかったけど、後はぐっすりさ」
ジュリは肩をすくめてふふっと笑った。
「おじさん、カノンね、ホーライ博士の集めたテレパシー能力開発の文献を読んで、人間相手のテレパシーのコツを練習を始めたんだよ!」
「へえー、よかったな。
でも、人の心が読めるようになっても、俺の心はデリケートだから勝手に読まないでくれ」
「うん、つまんなさそうだしね」
「こいつう、口が減らないな」
その時、ホーライ博士が叫んだ。
「鯨だよ!」
博士の指さす海面に黒い影がよぎった。
次の瞬間、十五メートルほど先にホーッと音を立て噴水が上がり、霧のように広がる。
「潮を吹いた!」
ケンが騒ぐとホーライ博士は「グッモーニン」と鯨に挨拶する。
「おはよう」
「おはよう」
ケンとジュリも博士に続けて鯨に挨拶を送った。
鯨はしばらく海面に浮かぶと、全身を沈めかかり、姿を消すと思われた瞬間、海上に垂直に尾びれを立てる。
「あの鯨、昨夜の鯨かな?」
博士はその光景を眺めたまま答える。
「うむ、その可能性もあるね」
鯨はカクテルグラスのように優雅なシルエットの尾びれを僕たちに見せつけると静かに水中に沈んだ。
「鯨の尾びれの形や、裏側の白紋は人間の指紋みたいに一頭一頭違うんだ。
それでハワイ大学には二千頭の尾びれの写真を写した台帳がコンピューターに登録されているんだよ」
「鯨の住民台帳ですか?」
「うん、おかげで鯨の群れの移動の様子はだいぶ解明されている。
今、潜ったから、フルブリーチングもしばらくおあずけだな」
「フルブリーチって?」
カノンが尋ねると、ホーライ博士は掌を水平にして、続いて手首を上下にそらせて説明してくれた。
「鯨がこうして海中で尾を振って、水を蹴り反動で頭を海上に突き出す。
そして、さらに伸び上がって、背泳ぎのスタートみたいな姿勢で反り返り、背中で海面を叩く特殊な行動なんだ。その時……、」
博士の掌がひっくりかえった。
「体重七十トンの巨大な鯨でも全身が、一瞬、宙に浮くんだ。
それはもうもの凄いよ。
私が初めてフルブリーチを見たのは、今から二十七年も前だが、鯨の力強さと、全身を空中で眺めた感動には鳥肌が立った」
ホーライ博士の瞳は眼鏡の奥で子供のようにきらめいた。
ケンはうなづいてカノンとジュリを振り返る。
「カノンちゃん、面白そうね」
「うん、楽しみ」
ケンはカノンに言った。
「明け方、ちょっとマックスの夢を見たよ、僕の手首に噛みついてきてさ、そのあと鯨に変身して海に潜ってしまったんだけど、でも僕にメッセージをくれた」
そう言うとカノンは「わあ、すごい」と声を上げた。
「おじさん、それはテレパシーの初まりだよ。
私も最初は夢のなかでマックスに会って言葉を聞いたんだもの」
ホーライ博士も興味深そうに尋ねる。
「で、なんてメッセージだい?」
「全部は覚えてないんですが。
もうすぐ、みんなでわかり合える。
みんなで仲良く生きようねって」
ケンがメッセージを伝えると、ホーライ博士とカノンとジュリは微笑を浮かべた。
「なんか、わくわくするメッセージじゃない」
「うん、面白いじゃないか」
ケンは明るさを増してくる空を眺めた。
ジュリがホーライ博士に質問する。
「鯨は何のためにブリーチングなんてことをするんですか?」
「まだ学会でも定説はないんだ。体にこびりついた貝殻を振り落とすためとか、水面を叩いて、その音で仲間とコミュニケーションするんだとか、諸説ふんぷんてところだな」
「ホーライ博士はどんな説なんです?」
「私は遊び説だね」
ホーライ博士があっさりと答えると、ケンは思わず聞き返した。
「遊びですか?」
博士はにやにやと笑った。
「うん、人間だって深い意味がなくても、単に走ったり、ダンスをしたり、泳いだりしたくなるじゃないか。
その目的を真剣に聞かれても困るんだな。
そうしたいから、楽しそうだからする。
鯨だってそんな好奇心を持っていると私は思うんだ」
ケンはちょっとはぐらかされたような気分だったが、ジュリは「そうかもしれませんね」
と微笑んだ。
「どう、ブリーチングは見えた?」
突然のエリザベスの声にケンはびくっとして振り向く。
「一頭が尾びれを見せたがブリーチングはまだだ」
博士が落ち着いた声で言ったのに続けてケンが挨拶した。
「おはよう、エリザベス」
「おはよう、ケン。よく眠れたようね」
黄色い帯布をヘヤーバンド風に結んでカーディガンをはおったエリザベスはケンにいたずらっぽい笑みを送ると、博士の隣に寄り添って肘に手をまわした。
「そろそろ来そうね」
エリザベスの言葉に博士が苦笑して言った。
「ケン、彼女の勘は不思議なほど当たるんだ。
どうも、こういう勘の世界では我々男は女性に勝ち目はなさそうだよ」
まもなく二十メートルほど先の海上にまた鯨の影が現れた。
二頭目の鯨は海面からやや深いところでとどまっている。
と思われた次の瞬間、ザーと海面が盛り上がり、続いて鯨の頭が八十度くらいの角度で海上に突き出してきた。
ホーライ博士が叫ぶ。
「ヘイ、カモン!」
鯨は五メートルも頭を宙に持ち上げると、さらに伸びながら上体を後ろに反らした。 鯨の体が雄大に回転してゆくさまを、ケンはスローモーションでも眺めるように瞳に焼き付けた。
鯨は殆ど宙に浮かんで、そのまま反らした背中全体で海面を叩く。
ドバァーンと爆発のような音が響く。
大きな波しぶきが鯨を包むと、彼は海の中へと消えた。
海面に残された波がどんどん広がってゆき、クルーザーを大きく揺らしている。
ケンは感動を噛みしめた。
この星で最も巨大な生き物が、その巨大さゆえに増す重力の下へ下へと引き落とす力を振り切って、宙に飛び出てきて回転したのだ。
それはどこか胸を熱くする光景でケンもジュリもしばらく声が出なかった。
「フルブリーチを見た感想は?」
エリザベスに問われて、三人はようやく口を開いた。
「素晴らしかったです」
「すごく単純な動きなのに、とっても感動しました」
「どうしてなんだろ、不思議な感動です」
エリザベスはにっこりとしてうなづいた。
「私も、二十三年前、初めて、ブリーチングを見た時はあなたたちと同じようにすごく感動したわ」
エリザベスが思い出すように言うと、博士は手すりをつかんで喋りはじめる。
「大学二年の夏、僕は、カリフォルニア、メキシコと旅行してね、その時、ザトウ鯨に出会い、フルブリーチを見た瞬間、こりゃなんてすごいんだって感激してしまったんだよ。
あの巨大な鯨が宙に浮くってことは人間が宇宙遊泳するよりも大変なことかもしれない。
そしてこの感動を追求してゆくことには深い意義があると直感したね。
そこでそれまで専攻していた経営学をやめて、生物学部に入り直し、鯨、そしてイルカの研究を始めたわけだ。
鯨目は、進化の系統樹をさかのぼれば、人間と共通の祖先が陸に上がった後、また海に戻った兄弟であり、水中で最も進化した知的生物なんだから……、
と、最初は彼らの知性に惹かれた」
博士はケンたちを振り向いた。
「しかし、私たちが鯨やイルカに感動し、親近感を持つ理由を鯨やイルカが知性の高い動物だからと考えるのは何か違うと気づいた」
ケンはなんだか意外な感じがして博士を見つめ返した。博士はまた海を見つめる。
「私にも環境保護運動家が近づいてくるんだが、ほとんどが偽善家なんだ。
生命全体への深い洞察なしに、ただ鯨を守れと叫んで、野菜だけを食べて正義漢ぶっている連中だね。
今、人間のために危機に直面しているのは人類と自然の全体であって鯨だけではないのだよ。
なのに彼らは鯨だけに興味があるんだ。
聖書に鯨が出ているためかもしれないが、では他の宗教で聖なる牛は食べていいのか?
キリスト教が正しいとしても他の宗教が間違っていることにはならない筈だからね。
私に言わせれば連中の主食の野菜だって神の意志を受けた完璧な生命なんだ。
自分も生命連鎖の犠牲の上に生きていることをもっと厳粛に認めるべきだね。
結局、彼らの主張は思い上がりだと気づいたんだ。
イルカや鯨を特別視する発想、知性のない生物は支配するという発想、自分たちが知性を認めない生物は支配していいという発想、そして自分と肌の色や宗教の違う人間は差別し支配してもいいという発想は、みんな愚かで野蛮な発想ということでつながっているんだ」
ケンはうなづいて言った。
「最近はゲリラ活動する保護活動家までいるようですね」
「そういう連中は自分が間違っていることに気づいてないんだな。
私が鯨に惹かれるのは、彼らは人類と別の進化の道を選んだ、コミュニケーション能力にもすぐれている兄弟であり、我々の狭い心を開いてくれると感じてなんだ。
我々人類は陸に残り、道具を使い自然を支配し、塀を立てて自分の領域を他人と区別し、所有することを強調する物質文明を選んだね。
そのために今も世界のあちらこちらで愚かな戦争を繰り返している。
それに対して鯨たちは海に入り、道具を使わず、共同体の子供はみんなで協力して育て、仲間とコミュニケートして自然と生きてゆく調和文明に進んだ。
陸上の文明が行き詰まってきた現在、我々は鯨たちの文明をもっと学び、人間の心の中に潜む『我こそ地球の支配者である』というせせこましい思い上がりを捨てるべきじゃないのかね。
そして、大きな自然の中に生きているんだ、すべての生命と一緒に生きているんだという、単純な事実に気づくべきじゃないかね。
私は初めて鯨に出会った時の感動をそう捉え直しているんだが、どうだろう?」
ケン、カノン、ジュリはホーライ博士の言葉を胸に刻みつけるように深くうなづいた。
「あ、もう一度、フルブリーチをするみたい」
カノンが言うと、まもなく、クルーザーの下をよぎったおぼろげな紺色の影が次第に輪郭をはっきりさせて、クルーザーの十数メートル先で一挙に頭を突き出した。
そして背中から豪快に海面を叩く。
ドッバァーン。
その激しい音は、意識の深い底で忘れられていた扉をノックし、眩ゆい光の世界が開かれてゆくようだ。
余波に揺れるクルーザーの中で、不意にパチパチと拍手が起きる。
振り向いたケンとホーライ夫妻は、瞳を潤ませてさかんに手を打っているカノンとジュリにうなづき、合わせるように拍手を始めた。
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