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第一章 こうしてボクは変わった
その6 「お姉ちゃん」
「おはようお姉ちゃん」

「ん、んん……」

「ってまだ寝てるのか。お姉ちゃーん、おーい」

「……落ち着け美衣。さすがにウニを殻ごとバリバリはいけないぞ……ほら、口の中血だらけじゃないか」

「お姉ちゃん、なに寝言言ってるの? もう朝だよー」

「待て。ウニを投げるなら先に中身を食べてから……イ、イクラ、だと……?」

「また変な夢見て……ねぇ、起きてよー」

「う、うぅ……んにゃ」

 重い瞼を持ち上げる。歪んだ視界に人影を見つけて、目を擦る。

「美衣か。おはよう。今何時?」

「やっと起きた。おはよう。さっき九時過ぎたところ。そろそろ起きないとお母さんに怒られるよ?」

「ふぁ……はふ。日曜日くらいゆっくり寝かせてくれてもいいのに」

 ベッドから体を剥がして伸びをする。肩にかかった髪がはらりと滑り落ちて、ボクをくすぐる。少しだけ目から涙が零れ、それを指で拭う。目を擦りながら顔を上げると、美衣と目が合った。

「ん、どうした?」

「え? な、なんでもない。そ、そうだお姉ちゃん。朝ご飯食べる?」

「んー。じゃあ軽く」

「分かった。パンとサラダ用意して待ってるから、早く降りてきてね」

 美衣は慌てた様子で部屋を出て行った。顔が赤かった気もするが、きっと見間違いだろう。ベッドから立ち上がり、カーテンを開ける。空は真っ青で、燦々と輝く太陽に目を細める。今日もいい天気だ。

 花粉症の人を除けば、花が咲き、温度もちょうど良く過ごしやすい春は、一年の中でも人気の高い季節じゃないだろうか。新年度の始まりで、新しい学校、新しいクラス、新しい職場と、人によっては憂鬱な季節でもあるけど。

 幸いボクは花粉症でもなく、新しい大学も憂鬱どころか楽しみにしている。早く入学式を迎えたいぐらいだ。いやー春っていいですねー。

 ……でも、真面目に考えて、今のボクは大学へいけるんだろうか。女になってしまったのに。それ以前に戸籍はどうなってるんだろう。もしかして努のままとか? お母さんにその当たりのことを何度も聞いたのだが、毎回「お母さんに任せなさい」というだけで、何も教えてはくれなかった。嫌な予感しかしない。

 ……まあ、なんとかなるだろう。ならなかったらなるようになるしかない。壁にぶち当たりそうなときは、ぶち当たってからどうするか考える。ボクはそういう人間だ。はいそこ、「それって嫌なことを先延ばししてるだけじゃ?」とか言わない。まったくその通りだから。

 ボクが女の子になってから三日。ボクの周りの世界は、見た目は至って平和だった。……ずっと家に引きこもってるけど。

 ◇◆◇◆

 部屋を出て脱衣所へと向かう。脱衣所にある洗面台の鏡に自分を映し、洗顔をしてから寝癖を直す。そして洗面台に置いたレンズケースからコンタクトレンズを取り出し、左目に入れる。

 これは昨日「オッドアイは目立ちすぎて外を歩きづらい」と、なんとはなしに言ったボクの言葉を聞いたお母さんが、その足で即眼鏡屋に行って買ってきてくれたものだ。瞳の部分が右目と同じ青色をしていて、これを左目に入れることで両目を青色にすることが出来る。

 視力が良かったので、コンタクトなんて入れたことがなかったボクは、これを入れるのに結構時間がかかってしまう。上手い人は鏡なんてなくてもサッと入れてしまうらしいけど、ボクにはできなさそうだ。

 目を赤くしながらもなんとかコンタクトを入れ終える。うん。どっちの目も同じ青色だ。最後にもう一度髪がはねていないかチェックして、脱衣所を出た。

「お父さん、おはよう」

「ああ、おはよう」

 リビングに行くと、お父さんがダイニングテーブルに座ってコーヒーを飲んでいた。手には新聞。テレビドラマなどでもよく見る光景だ。ニュースなんてネットでお手軽に見られるのに。やっぱり活字の方がいいのだろうか。

 お父さんの対面に座ると、美衣がパンとサラダを出してくれた。焼きたてのパンにマーガリンを塗って齧り付く。テーブルには他にもイチゴジャムやらブルーベリーのジャムやら置いてあるが、ボクとしてはパンはやっぱりマーガリンだと思う。バターでも可。

「調子はどうだ?」

「まあぼちぼち」

「それなら良かった」

 お父さんは女になったボクを見ても、なにも変わらずいつも通りだった。たまに『シャルロット』の時のように、お母さんの暴走に乗っかるときがあるけど、それでもボクが困っているようであれば、すぐにお母さんをたしなめ、ボクを助けてくれた。美衣はお母さんを支持しているようなので、お父さんという存在はボクにとって、とても有り難かった。

 ……まあ、お父さんも大変だよな。この間まで男女比二対二でなんとか均衡を保っていたのに、ボクが女になったことでそれが三対一となり、一夜にして劣勢に。ボクを自分の側に置いておかないと、自分の居場所がなくなる。そう内心焦っているのかもしれない。

 ちなみに昨日、お母さんが勝手にクレジットカードを使っていたことをこっそり教えると、酷く落ち込んでいた。聞くと、あの一件以来カード払いするときでも、現金は常に持つことにしているらしい。月々のお小遣いなんて、ボクや美衣とそれほど変わらないって言うのに……泣ける話だ。

「お姉ちゃん。今日もその格好で過ごすつもり?」

 カリカリとパンを囓りながら視線を上げる。寝間着やジャージではない、パーカーにスカートとそのまま外に出てもおかしくはない格好をした美衣がいた。

「前に着てたヤツは全部サイズが合わないんだよ。このジャージとシャツだって、美衣から貰ったものだろ?」

 女になったことが体が小さくなり、今まで普通に着られていた服がブカブカになってしまったのだ。ちなみに美衣からもらったこの服も少し大きかったりする。美衣には絶対言わないけど。

「お母さんから貰った服は?」

「……あれを着ろと?」

 お母さんがボクにくれたものは、美衣が小学校高学年から中学校の間に着せようと思って買った服で、どれもがレースやらリボンやらフリルやらがふんだんにあしらわれた少女ちっくなデザインだった。男なら定番のズボンはそこにはなく、女であれば定番のワンピースやらスカートが並んでいた。服は大抵上下セットで着るよう揃えられていて、服に合わせたカチューシャやらネックレスなどの小物もある。中には男っぽい服もあるのだが、男というよりは女の子が着る男の子っぽい服という、いわゆるボーイッシュという部類で、やっぱりそれも少女らしさを強調するようなものだった。総じてどれも着たくない。

「お姉ちゃんなら似合うよ?」

「似合うとかそういうのは二の次でだな……美衣、分かって言ってるだろ?」

「うん」

「清々しいほどに言い切ったな」

「先延ばししてもいつか着なきゃいけないんだから、着ようよ~」

 しつこそうなので無視して、さっさと朝ご飯を食べる。ご馳走様と食器を持って立ち上がり、流しに置いてリビングのソファーに腰を下ろす。テレビを付けると、時代劇の再放送をしていた。刀で人を切って、なんであんな甲高い音が出るんだろう。おかしいだろ普通に考えて。

「誰かちょっときてー!」

 ぼーっとテレビを眺めていると、玄関の方からお母さんの声が聞こえた。美衣は洗い物。お父さんは新聞を読んでいる。まあ、ボクだよな。「はーい」と返事して玄関へと向かう。

 玄関にはお母さんと、そして大量のゴミ袋があった。半透明で中身はよく見えないが、触るとふわふわとしたので布のようだ。

「これをあそこのトラックに載せてちょうだい」

「うん。分かった」

 開け放たれた玄関の外には、青色のトラックが止まっていて、近くに初老のおじいさんが立っている。ちり紙交換や電化製品の回収屋みたいなものだろうか。おじいさんに頭を下げ、トラックの荷台にゴミ袋を載せていく。

 運んでいるときに「外国の方ですか?」と尋ねられたので「いえ、日本人です」と返すと、おじいさんはとても驚いていた。ついでに「見た目はこんなですが、英語は喋れません」と言うと、ふぉっふぉっふぉっと笑ってくれた。どっかの宇宙怪獣のようだ。

 全てのゴミ袋を積み終えると、お母さんとおじいさんは二言三言交わし、お互い頭を下げた。トラックに乗ったおじいさんを見送って、家の中へ戻る。

「あんなにたくさんのゴミ袋。一体何を捨てたの?」

 聞いたのは単純な好奇心だった。別に他意はなかった。それなのに、

「何を捨てたと思う?」

 何故かにやりと気持ち悪い笑みを顔に浮かべて、お母さんがもったいぶる。嫌な予感しかしない。

「ヒント。毎日使うものです」

 毎日使うもので、ふわふわとした布みたいなものと言えば……

「ふ、服?」

「正解。もう後は言わなくても分かるわよね?」

 ……まさか。慌てて玄関を上がり、廊下を走る。後ろでインターホンが鳴った気がするけど、お母さんが対応してくれるだろう。階段を上り自分の部屋へ。クローゼットの前に立ち、取っ手を掴んで勢いよく開いた。

「……いつの間に」

 クローゼットの中はものの見事に空だった。いや、正確にはお母さんからもらったワンピースやスカートその他女物の服が数着と、一昨日に間に合わせとしてコンビニで買ってきて貰ったパンツと靴下が何枚か残っている。

 見事に男物の服と下着の全てが消えていた。今頃はトラックの荷台の上、ということだろう。

「わー、服が全部なくなってる」

 振り返ると美衣がドアの近くに立っていた。

「お母さんが業者に全部渡したよ……」

 知らずに渡したのはボクだけど。

「さっきのはそれだったんだ。でも良かったんじゃない? どうせサイズ合わなくて着られなかったんでしょ?」

「それはそうだけど、男だった頃の物がなくなるというのは……って、そこの二人、なにしてるの?」

 美衣の背後を通ってお母さんとお父さんがダンボールを抱えて部屋に入ってきた。

「なにって、今届いた物を持ってきてあげたのよ」

 クローゼットの前にダンボールを置きながらお母さんが言う。お父さんはダンボールを置くとそそくさと部屋を出て行った。ダンボールの側面を見ると、人が笑った時の口のようなロゴが印刷されていた。有名なネットショッピング会社のロゴだ。

「ボクは何も注文してないよ?」

「そりゃそうでしょ。お母さんが注文したんだから」

「なっ!?」

 お母さんがダンボールを開く。中から出てきたのは女物の服だ。

「たくさんあるから美衣も手伝って。どうせ司に任せると箱のまま放置して、せっかくの洋服に折り目が付いちゃうから」

「はーい」

 呆然とするボクの目の前で、美衣とお母さんが手際よく服をクローゼットに収めていく。その間にもお父さんがダンボールを次から次へと運んでくる。一体どれだけ買ったんだ?

「ま、まさかこれ全部服!?」

「そうよ。けっこう高かったんだから。あ、でもこの靴下は三足千円で結構安かったのよ」

「そんなお得自慢いいから! というか、なに勝手に人の服を買ってるんだよ!」

「いいじゃない。別にお小遣いから差っ引こうなんて思ってないから。着る服がなくて困ってたんでしょ。美衣のもサイズが合ってないし」

「え、いや、まあ、そうだけど……」

 サイズが合ってないのばれてたのか……。

「お母さん、ブラはどこ?」

「そのタンスの二段目よ」

「は!? ブ、ブラ!?」

 そんなものまで買ったのか!? って、ちょっと待てよ。ブラというものはサイズ計ってないとダメなんじゃなかったのか? 服だってそうだ。

「そ、それサイズは合ってるの?」

「もちろん。きちんと司のサイズに合わせてあるわよ」

「合わせてって、いつボクを計ったんだよ?」

「脱衣所で倒れた時よ」

「初日!?」

 ソファーで起きたときにはもう採寸されていたってことなのか……。手が早い。

「司はブラを付けたことがないでしょ? だからブラの付け方はお母さんが手取り足取り胸取り教えたいところだけど……」

 お母さんが視線を送ってくる。

「絶対嫌だ」

「でしょう? それに、司の裸なんて見たら、興奮しすぎて失血死しそうだから」

 我が子相手に興奮するなこの変態。

「それで、ネットで参考になりそうなページをブックマークしてあるから、付け方に困ったら見てみなさい。一応付けやすいフロントホックのものを買ってあるから、そんなに苦労はしないと思うけど」

「お、お心遣いどーも……」

 まさか母親と下着のつけ方について話すなんて思いもしなかった。なんか恥ずかしい。ただ、今日まで一度もブラなんて付けてこなかったけど、別段困るようなことはなかった。ボクの胸は小さいし、必要ないと思う。

「まあ、当分使わないとおも――」

「だめよ。小さくてもちゃんとつけること。形が崩れちゃうわよ?」

 ズイッと顔を寄せてきたお母さんに気圧されてしまう。

「そ、そういうものなんですか……」

「そういうものなんです」

 そう言い切り、お母さんは作業に戻った。視線を美衣へと移す。美衣はブラを持ち上げてじーっと眺めていた。あんなものを毎日付けるのか。肩が凝りそうだ。そんなことを考えていると、ふいに美衣はブラを自分の胸に当てた。

「小さい」

 服の上からなので分かりづらいが、たしかに美衣には小さすぎるようだ。

「でも、Bもあれば充分だよ。お姉ちゃん小柄だし!」

「B言うな!」

 自分のサイズを言われて自然と頬が熱くなる。肉体的特徴を言われると、男でも女でも恥ずかしいらしい。

「お母さん。これで最後だ」

「ありがとう、お父さん。ああ、そうだわ。宅配便のなかに書類があったでしょ? それを司に渡して」

 お父さんから茶色い封筒を受け取る。封筒の表を見ると、数週間前に卒業した蓮池高校の校章が描かれていた。なんだろう。大学へ渡す書類か何かだろうか。はさみで封を開け、中身を取り出す。中からは入学案内の手引きやら、シラバス、カードタイプの生徒証が出てきた。

「ん? これ美衣宛じゃないの?」

「生徒証を見てみなさい」

 裏返っている生徒証を表に向ける。

『私立蓮池高等学校 一年 吉名司』

 そう書かれていた。目を凝らしても、目を擦っても、カードを近づけても、カードの表面を触っても、『一年 吉名司』と書かれていた。一年。高校一年。ふぁーすといやーはいすくーる。美衣が二年だから、ボクの方が1学年下ということになる。

 ゆっくりと美衣に目を向ける。いつの間にか隣にいた美衣は生徒証を見て驚いていた。でもどことなく嬉しそうなのは何故だろう。

「お母さん達の一族は吸血鬼だったということは話したと思うけど、大昔のご先祖さんは生活する上でいろいろと苦労したらしいの。そこで、何かあったときはみんなで助け合ってきたのよ」

「……それとこれにどういう意味が?」

「今の司が大学生っていうのは、ちょっと無理な話でしょ? しかも努のまま合格した大学に通うわけにも行かない。だから」

 お母さんが満面の笑みでポンとボクの肩を叩き、A4サイズの紙を一枚手渡した。それは住民票だった。世帯主であるお父さんの名前が上に大きく書かれ、そこから下にお母さん、美衣、そしてボクの順で名前が並んでいる。そのボクの欄には、『吉名 司 よしな つかさ』とふりがな付きで名前が書かれ、『十五歳 女』と、間違いなくそう書かれていた。

「戸籍を少しいじってもらったの。これのおかげで司はまた高校生になれたのよ」

「こ、高校生!? また三年間通えっての!?」

「そうよ。さすがに三年、二年への編入はできなかったわ。でもこれで良かったでしょ? 今の見た目だと美衣の方がお姉さんっぽいし」

「い、いや見た目とかどうでも。それに美衣がどう思って――」

 美衣を見る。やばい。凄い目がキラキラしている。

「美衣もこれでいいでしょ?」

「うん! 私お兄ちゃんも良かったけど、妹もほしかったんだー」

「妹!?」

「うん、妹」

 ボクが自分を指差す。美衣がボクを指差す。

「まあ、家の中じゃ今まで通りでもいいけど、せめて他の人がいる前でくらいは、司は美衣のことを『お姉ちゃん』、美衣は司のことを『司』って呼ぶようにしなさい。分かった?」

「うんっ」

 元気よく返事する美衣。さっそくボクを見て期待している。いやここ家の中だから。周りに知らない人いないから。

「つーかさっ」

 うわもう言ってきたよ。のりのりだよ。どうしよう。凄く言いたくない。拒否反応が凄い。そりゃそうだ。ずっとボクは美衣の兄だったんだから。というかまた高校生か。憂鬱だ。せっかく苦労して大学に合格したというのに。

「つーかさ」

 ニコニコしながらもう一度ボクの名前を呼ぶ。助けを求めてお母さん、そしてお父さんに視線を送る。お母さんには「呼んであげなさい」と、お父さんには「無理」とジェスチャーされる。なるほど、これが四面楚歌か。見上げた先には笑顔の美衣。出口は美衣の後ろだから逃げられない。

 …………仕方ない。筋肉が引きつるのを感じながら、笑ってみせる。口角の辺りがひくひくして「無理無理」と訴えている。悪いがもう少しだけ我慢してくれ。ごくっと喉を鳴らし、覚悟を決めて口を開く。

「お、お姉ちゃん」

 次の瞬間、美衣に強く抱きしめられていた。身動きできないボクの耳元で「お姉ちゃんかわいい!」と連呼している。

 妹、妹かあ……。

 これからのこと、そして泡と消え去った大学生活を遠くに思いながら、ボクは深くため息をついた。


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