「美衣ー」
「なに、お姉ちゃ……って、どうしたのその格好?」
妹の名を呼びながらリビングに入ると、ソファーでテレビを見ていた美衣が振り返り、目を丸くした。そんなに驚くことだろうかと見下ろした先に見えたのは、体に巻き付けたピンク色のバスタオルと、それを申し訳ない程度に押し返す胸の膨らみ。ほんの二日前に男から女の子になってしまったボクの真っ白な肌は、お風呂上がりのせいでほんのり朱色に染まっていた。
「お風呂から出たら服がなくなってたんだよ。着るものないからとりあえずタオルを巻いてみた」
雫がポタポタと落ちてくる前髪を掻き上げる。髪が水分を吸っているせいで頭が重い。もっと念入りに拭けば良かった。
「もう、お姉ちゃんは女の子なんだよ? 前みたいにタオルを巻いただけでウロウロしちゃダメだって」
「家の中なんだから別にいいじゃないか。誰かに見られるわけでもないし」
「そういうことじゃないのっ。たとえ家族でもそんなに堂々と肌を見せちゃいけないの」
「肌って言っても、ちゃんと大事なところは隠してるだろ?」
努の頃だったら、タオルを腰に巻いただけだ。今は女の子ということを配慮して胸の上あたりから巻き付けている。鏡でその姿を見たときはあまりにも女の子女の子していて頭痛がしたが、胸を見られる恥ずかしさよりはマシだった。変なことだが、胸や腰のくびれや……そ、その……な、何もないアソコを見られるのは、女装しているところを見られているような気がして、ボクの羞恥心を煽るのだ。顔を見るのは幾分慣れても、そっちの方はまだ少し時間がかかりそうだ。
「はあ……とにかく早く服を着て」
「できたらボクもそうしてるっての」
「あ、そっか。服がなくなってたんだっけ。服って朝に来てたティーシャツとジャージのことだよね。お母さんが洗濯したんじゃない?」
「そういえば洗濯機がゴウンゴウン言ってた。まったく、着られる服が少ないというのに勝手に洗わないで欲しいなあ」
今と努だった頃のボクとでは体格が全然違い、以前着ていた服はどれもブカブカになってしまったので、今は美衣から貰ったティーシャツとジャージを着ていた。だから着られる服という物がその一組しかなく、それが洗濯されてしまうと、ストンと抜け落ちてしまうティーシャツやら、何度も何度も裾を折り返さないと足が出てこないジーパンやらを穿かなくてはいけなくなってしまう。あれはあまりにもサイズが違いすぎて、否応にも自分の置かれた境遇を再認識させられる。出来れば着たくはないのだ。
……まあ、一応お母さんから貰った今の体にピッタリな服もあるにはあるのだが……論外だ。少女趣味過ぎるから。
「仕方ない。部屋に戻って中学の頃の体操服でも――」
「その必要はないわ!」
威勢のいい声に振り返ると、バタンと大きな音を立てて開いたドアからお母さんが現われた。すでに鼻から鮮血がダバァと垂れ流しているのは無視しよう。
「司ダメよ! いかに美味しく見えようとも、この血を飲んではいけないわ!」
めざとくボクの視線に気付いたお母さんが鼻を手で覆う。
「ないない」
「飲みたいならお母さんの首に噛みつきなさい。さあ!」
「両手を広げられてウェルカムされても行かないって」
僕が言うと、何故かお母さんは目をクワッと見開き、両手をワナワナと振るわせ始めた。
「な、なんてこと……」
そんなに驚かれても困る。単純に飲みたくないんだから。
「で、必要ってどういう意味?」
今にも床に座り込んで親の
敵のようにハンカチに噛みつきそうだったから、先に話を進めることにする。
「部屋に服を取りに行く必要はないわ。司には今日これを着てもらうのよ!」
呆れるほどにすぐ立ち直ったお母さんが手にしていた服を眼前に突き出した。それは一昨日ボクが着ていた、美衣が中学の頃に着させようと思ってそのままだった白のワンピースだ。
「い、いやだよ。一昨日も言っただろ。スカートは嫌だって」
「ダメよ。あなたは女の子なんだから、スカートくらい普通に穿けなくちゃ。練習よ、練習。今日はこれを着て、お母さんと一緒にお出かけよ」
「絶対イヤだ! そんな格好で外へ出るなんて――」
「冷蔵庫に入ってるプレミアムゴージャスなめらかプリンを食べてもいいわよ」
「――この際格好はいいとしよう」
「お、お姉ちゃん……」
美衣が憐れむような視線を向けてくる。い、いいじゃないか。プリンの誘惑には勝てません。それが入手困難なプレミアムでゴージャスななめらかプリンだとなおさらだ。
「ボクも今じゃ女の子だ。そういう格好をするのも仕方ないと思ってる。分かってる」
「さっきまでと言ってることが違う」
美衣うるさい。静かにしてろ。
「ええ、そうよ、そうなのよ。女の子は可愛くなるために生まれてきたの。もちろん司も例外じゃないわ。だから――!」
「でも、そうだとしても、すんごい譲歩してスカートは良しとしても!」
突き出された服をガシッと受け取りつつも、顔を輝かせるお母さんに告げる。
「赤目と青目は目立つから外出なんてイヤだ!」
「……たしかに」
真面目な顔をして頷く美衣。
「だからお姉ちゃん、ずっと外に出ずに引きこもってたんだ」
「引きこもりとは人聞きの悪い。ニート予備軍と言いなさい」
「そっちの方が余計に悪いと思う」
今のボクの目は黒目から赤と青のオッドアイに変化し、銀髪同様とてもとても人目に付きやすいものになってしまった。銀髪は帽子を被ったりして隠せるとしても、目はそうはいかない。サングラスをかけるという方法もあるが、小柄な女の子が帽子を被りサングラスをかけた姿は、なんというか……怪しすぎる。オッドアイが隠せたとしても、今度は怪しさの方で注目を浴びてしまうだろう。本末転倒だ。
「そ、そんなぁ~……」
ガクリと膝をつき項垂れるお母さん。しかし、
「分かったわ!」
「ぬわっ!?」
すぐに声を上げて立ち上がる。そしてビシッとワンピースを指さして、
「お母さんはこれから眼鏡屋さんに出掛けてきます。司は一緒に来なくてもいいから、約束通りそれを着ておくように。いいわね?」
「う、うん」
頷くボクを見てから、お母さんはダイニングテーブルに置いてあった財布を手にリビングを出て玄関へと足早に向かった。ガチャンと玄関のドアが開閉した音を聞いて、本当に出掛けてしまったのだと理解する。
「……何しに行ったんだ?」
「さあ……」
美衣が首を傾げる。まあどうでもいいか。お母さんの奇行はいつものことだし。
「とりあえず着替えるか」
「そんなにあのプリン食べたいんだ……って、だからどうしてここで着替えるの?」
「んー?」
水分を吸ったバスタオルをドサリと落とし、ワンピースに頭だけを通したところで美衣に目を向ける。パンツ丸見えのままでは格好がつかない、というかパンツ姿は恥ずかしいので、「ちょっと待て」と目で訴えてワンピースに体を通す。ちなみにパンツはお母さんが買ってきたらしい女物のヤツだ。男物はゴワゴワして穿き心地が悪かったから渋々こっちを穿いている。ブラはしてない、というよりボクのは必要のない大きさだと思う。コンパクトでなによりだ。
「わざわざ脱衣所に戻って着替えることもないだろ」
そう言いつつ、裾が捲れていないか確認する。案外スカートというのは捲れているかどうかが分かりづらい。一昨日もご飯を食べて立ち上がったとき、背中の方の裾がパンツにひっかかっているのに気付かずそのままでいたら、後ろからは丸見えでお母さんと美衣に笑われたのだ。
「だからそういうところを面倒がらずに……」
「あーもうはいはい分かった。プリン食べよっと」
軽く美衣をあしらって、ボクはウキウキと軽い足取りで冷蔵庫へと向かった。
◇◆◇◆
「三種の神器と言えば、
八咫鏡、
天叢雲剣、
八尺瓊勾玉の3つであり、また電化製品で言えば、白黒テレビ、洗濯機、冷蔵庫、もしくはカラーテレビ、クーラー、自動車なわけですが」
「お姉ちゃんって結構歴史強いんだね」
褒めているのか貶しているのか分からない言葉と共にジト目を向けてくる美衣。その視線の先はボクの手元だ。
「ここにボクは新たな三種の神器を提唱したい。それは、プリン、しょうゆ、スプーンであるっ」
「絶対広まらないと思う」
冷静なツッコミに、ゴロンとカーペットに寝転んでクッションを胸の下に敷き、右手にスプーン、左手にプリン、そして傍らにしょうゆを置いたボクはその体勢のままソファーに座る美衣を見上げた。
「そんなに物欲しそうに見つめても、プリンはあげないぞ」
「黒く染まったプリンなんていらないよ」
「プレミアムゴージャスなめらかウニプリンと言いなさい」
「しょうゆのせいでプレミアム感もゴージャス感も消え失せちゃってるよ……」
はあ、と大きくため息をつかれてしまった。たしかに美衣の言うとおり、しょうゆを絡ませるためにグチャグチャにしたプレミアムゴージャスなめらかウニプリンの見た目はお世辞にもよろしくない。しかし、見た目と味は別。きっと美衣も一口食べればやみつきになること間違い無しだ。あげないけど。
「ふふ~ん、ふ~ん」
あまりにも美味しくて鼻歌なんぞも自然と出て来る。足をパタパタとしてしまうのも仕方のないことだろう。
「完全に女の子だ……」
美衣がぼそっと呟いたが、ボクの鼻歌に掻き消されて聞こえてなかった。
「んーっ。さっすがプレミアムゴージャスなめらかプリン。しょうゆとの相性バッチリだなっ」
「お姉ちゃんはプリン製造業の方々に謝るべきだと思う」
「あ、美衣、テレビのチャンネル変えて。たしかそろそろドラマの再放送が始まるから」
「はいはい」
テレビが最近毎日見ている再放送のドラマに変わる。数年前に放送されたらしい青春恋愛ドラマだ。特に面白いというわけでもないが、春休み特番で毎日放送しているため、なんとなく続きを見てしまうのだ。熱で寝込んでいる間はテレビだけがボクの暇つぶしになっていたから、1話から全て視聴している。内容はよくあるタイプのもので、主人公の女子高生のクラスに転校生してきた少年が実は幼い頃一緒に遊んだ男の子であり、次第に二人は惹かれ合い、いろいろと困難を乗り越えた末にやがて恋人同士となる王道ストーリーだ。
「こういうの見ると、もう一度高校生やりたいなあって思うよなぁ~」
「そうなの?」
「結局誰とも付き合わなかったから余計にそう思うのかも。颯や茜、沙紀とばかり遊んでたし」
「お姉ちゃん、颯先輩と仲良かったもんね」
「親友だからな」
卒業してから振り返る高校生活はそれなりに充実していたが、それでもやはりやり残したことがあるような気がして、もう一度、と思ってしまう。もう試験、受験勉強はコリゴリだが。
「もしも、もう一度高校に行けたら、今度は誰かと付き合ってみるのも悪くないなあ。まっ、そんなことありえないんだけど」
人生は一度きり、もう一度なんてことはないのだ。お、なんか今のかっこよかったかも。
「……ところでお姉ちゃん」
「んー?」
スプーンを咥えたまま見上げる。
「足をばたつかせたせいで、パンツ見えてるよ」
「……えっ」
慌てて右手を腰のあたりに持っていく。……いつの間にかワンピースの裾が腰まで上がっていた。かわいらしい水玉模様のパンツをご開帳していたらしい。
「……」
無言で裾を直す。「ほら言わんこっちゃない」と言いたげな美衣の視線が痛い。
……べっ、別に見られても恥ずかしくないもん!