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【コラム】歴史は歴史、外交は外交だ

 壬辰倭乱(文禄・慶長の役、1592-98年)が終わった直後の歴史について考えると「朝鮮はなぜ戦後7年で日本との国交を再開したのだろうか」という疑問がわいてくる。「朝鮮王朝実録」では当時の日本を「同じ空の下で暮らすことなど考えられない敵」と表現している。国土を血の海にしただけでは飽きたらず、王陵まで掘り起こして遺体を燃やしたのだから、その憎悪たるや察するに余りある。国交再開の理由について実録の編さん者は「倭奴(日本人に対する卑称)は9代にわたり敵を討つべき相手だ。天上の歴代君主の魂が嘆き悲しんでいらっしゃるではないか」と憤った。

 日本の国書を頻繁に偽造した対馬のたくらみに朝鮮はだまされたという。通商ができなければ餓死するしかなかった対馬では偽の国書を献上し、詐欺劇を繰り広げた。それだけではない。軽犯罪者たちを「犯陵賊(王陵を壊した犯人)」として送還する「ショー」も行っていた。

 朝鮮は愚かだったのだろうか。実録には「国書は偽物のようだ」という朝鮮第14代王・宣祖の言葉が記録されている。すると、臣下たちは「本物であれ偽物であれ放っておくだけです」と答えたという。犯人が偽物だということが分かったときも騒ぎ立てなかった。王は「真犯人でなくても、対馬の倭人(日本人の卑称)で敵でない者がいるだろうか」と語った。当時の朝鮮は愚かなのではなく、無力だったのだ。

 だまされてやるべきか、否か。王は臣下に尋ねた。「敵と和解するくらいならいっそのこと神を殺せ(=神を殺すことがあり得ないように、敵と和解することは絶対あり得ない)」と言っても不思議はないが、実際は違った。領議政(現在の首相)の柳永慶(ユ・ヨンギョン)は「脅されて許すよりも、先にうまく策を立てた方が良い」と言い、右議政の沈喜寿(シム・ヒス)は「通好は国民のための策」と主張した。王は日本との修交を決意し「過去の王は(日本の)過ちに目をつぶり、我慢し、許すことで手足を縛り付け、私たちに乱暴なことができないようにするだけだった」と語った。

鮮于鉦(ソンウ・ジョン)週末ニュース部長
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