第一章 こうしてボクは変わった
その3 「鬱になりそう」
ボクは商店街を歩いていた。頬を緩ませて、それはとてもとても嬉しそうに。隣にはボクより少し背の低い、白のワンピースに茶色の上着を羽織った、胸の大きい女の子がいる。帽子を被っているせいで顔は良く見えないけれど、なぜかその女の子がとても可愛い子だということをボクは知っていた。
商店街を抜けて近くの公園へ。湖の周りを散策する。湖はとても綺麗で、その水面には青空を見事に写していた。もっと近くで見ようということになって、湖に設けられた桟橋の先端へと向かった。女の子は嬉しそうにしゃがんで、湖にそっと手を浸した。
冷たくて気持ちいいよ、と女の子が言う。ボクは微笑みで応える。……そうか。やっと分かった。この子はボクの彼女。そして今はデートの最中。そういうことかっ。なんとも大学生らしい日常だ!
でも、どうしてか彼女の名前が浮かばない。思い出そうと頭を捻っても、とっかかりすら出てこない。自分の彼女なのに名前を忘れてしまうなんて、なんて酷いヤツなんだ、ボクはっ。
と、頭を抱えてクネクネしていたとき、
「お兄ちゃーん!」
どこからともなく美衣の声が聞こえてきた。周囲を見回し、こちらに向かって走ってくる美衣を見つける。
「お兄ちゃん危なーい!」
そう叫びながら、美衣は彼女に全速力からのドロップキックをぶちかました。彼女は大きな水柱をあげて湖に落ち、ブクブクと沈んでいった。
「お、おい美衣、お前何してんだ!?」
「ふぅ。あやうくウニの賞味期限が切れるところだった。はい、お兄ちゃん。産地直送、バフンウニだよ」
キラキラと光輝く額の汗を拭いながら、美衣がカゴを差し出す。受け取って中を覗くと、大量のバフンウニが入っていた。
「お早めに召し上がってね。それじゃっ」
そう言い残して、美衣は彼女の後を追うようにして湖へと飛び込んだ。頭からの見事な入水だった。
……産地直送ってどこ産だよこれ。函館? いやいやそうじゃなくて、なんで美衣はウニなんて持ってきた? むしろ持っていた? それにしてもこれは美味しそうな……って違う。今は浮かんでこない彼女のことが心配で……ウニ……じゅるり。い、一個くらい食べてもいいよな? 別に彼女のことが心配じゃないなんてことはないぞ? ただ、戻ってきた彼女にちゃんと美味しいウニを食べさせてあげられるかどうかの味見をだね……。
理屈をこねて、カゴの中へと手を伸ばした。
「はいそこのお兄ちゃんストップ!」
「なっ、美衣!?」
飛び込んだはずの美衣が現われた。何故か体は光っていて、微妙に水面から浮いていた。そしてその傍らには、さっき湖に落ちた彼女に似た女の子が二人立っていた。
「いいえ、私は美衣ではありません。湖の妖精です。クリオネ的なアレです」
「クリオネって妖精じゃなく天使だったような……。まあそれはどうでもいいとして、さっきボクのことお兄ちゃんって――」
「空耳です。オゥニーチャーンとは神々の言葉で『幸薄そうな少年』的な意味なんです。気にしないでください」
「おいまて幸薄いってどういうことだ」
「じゃあ『少年』でいいです」
凄い投げ槍だ。目も泳いでるし。一体なにがしたいんだか。こほんと咳払いをして、妖精が話し出した。
「あなたが湖に落としたのは、この金のボインですか? それとも銀のボインですか?」
イソップ? なんで胸の大きさを強調するのか不思議だが、付き合ってやるか。付き合わないと話が進まなそうだし。
「金髪でも銀髪でもなく、黒髪なんだけど……しかも落としたのはボクじゃなくて美――」
「あなたはとても正直者ですね。感動しました」
「いやボクの話を最後まで――」
「特別にこの銀のナインを差し上げましょう」
聞く耳持たずか。妖精が「えいっ」と手を振ると、金髪と銀髪の女の子が消え、代わりに銀髪オッドアイの、胸の慎ましやかな少女が現われた。
……で、ボクの彼女は?
「しかも今回は出血大サービス。お兄ちゃんをその女の子にしてあげましょう!」
「は!? いやそれは結構――」
「まあまあそう遠慮なさらずに。そーうれぇー」
「ちょ、おま、やめ、うわ、うわあぁぁーーー……」
◇◆◇◆
まあ、夢オチですよね。途中から分かってました。……嘘です。今さっき気づきました。はぁ、ボクの彼女が……。
「あら、司起きた?」
少し遠くからお母さんの声が聞こえた。うちは共働きなのでお母さんも朝から夜まで仕事に出ている。そのお母さんの声が聞こえるということは、もう夜なのか?
ボクはリビングのソファーに寝かされていた。誰かが運んでくれたようだ。美衣かお母さんだろうけど、二人にはそんな力はないはず。わざわざ二人がかりで運んだのだろうか。寝ていたせいか、それとも気を失ったときに打ち付けたのか、少し頭痛のする頭を押さえながら、体を起こす。
胸の辺りに重みを感じて見下ろすと、白いティーシャツを押し返す小さな膨らみが目に入った。数瞬の思考の停止を経て、自分が女になったことを思い出す。なるほど、これから美衣だけでもボクを運べそうだ。ひょろりとしたこの腕も、男として見れば完全なもやしだが、女として見れば、これぐらいがちょうどいいのだろうか。それにしても、夢では最後に女になっていたし、夢から覚めても女のままとは……。いっそのこと、どっちも夢だったら良かったのに。
……あ、一瞬気が遠くなった。どうも心が現実逃避したがっているらしい。しかし、もう気絶するわけにはいかない。なんとなく、今寝たらさっきの夢の続きを見てしまいそうな気がするから。
「司。ちょっと、司!」
お母さんが誰かを呼んでいる。つかさって誰だ? 親戚やお母さんの知り合いにそんな人いたっけ?
「お母さん、それじゃ分からないよ。お兄ちゃん起きた? もう大丈夫?」
「ん、美衣か。ああ、体の方は大丈夫」
「精神的には?」
「鬱になりそう」
「どんまいっ」
「コイツ、他人事だと思って……」
ソファーから立ち上がる。美衣とお母さんはダイニングテーブルに座っていた。『司』とやらを呼んでいたお母さんも、美衣と同様にボクを見ている。
壁に掛けられた時計を見ると、時刻は午前十一時を少し回ったところ。なんだ、あれから三時間くらいしか経って……って、三時間も気絶してたのか!? そりゃ夢も見るわけだ。
「珍しいね。お母さんがこんな時間にいるなんて」
「美衣から連絡を受けて、会社を早退したのよ。それより、話は美衣から聞いたわ。大変だったわね……」
そう言いながら、お母さんは優しく微笑んだ。
え? だれこれ? お母さん、だよね? なにこの慈愛に充ち満ちた表情は。これが我が子を変態的に愛でるボクのお母さん? そんなばかな。まるで別人のようだ。しかし、目の前にいるのはたしかにお母さんであり、優しげながらも心配そうにボクを見つめるその表情は、数ヶ月前、大学入試の合格発表を一緒に見に行ったときのそれと同じだった。実際今回もボクのために会社を早退してくれているし……ちょっと嬉しいかも。気分も楽になった気がする。
「でも、どうしてさっきは返事してくれなかったの?」
「だから司って言っても分からないって。ねぇ、お兄ちゃん」
「ん? うん……って、司ってボクのこと!?」
お母さんと美衣が同時に頷く。ということは、お母さんはさっきからずっとボクのことを呼んでいたのか。
「なんで司なんだよ。ボクは努だろ?」
美衣の隣に座り、対面のお母さんに抗議する。
「司と努って似てるわよね」
「どこが!?」
一文字しか合っていない。
「それに努じゃ女の子らしくないでしょ? 司なら、ほら」
何が「ほら」だ。勝手に人の名前を変えるなんてたまったもんじゃない。なんか、途端にさっきまで輝いていたお母さんがいつも通りに見えてきた。
「お父さんと美衣との話合いで決めたのよ。ちなみに司を提案したのはお母さんよ」
「私も考えたんだけど……司の方がお兄ちゃんぽいかなって」
「本人がいないところで勝手に……。あれ? お父さん帰ってきてるの?」
「いいえ。帰ってきてはいないけど、これで連絡を取ったのよ」
お母さんがノートパソコンをテーブルの上に置いた。デスクトップ上にはチャットソフトが起動していて、文字入力での会話をした跡が見て取れる。
「今は外回り中らしいから、早退は無理でもこれならできるそうよ」
「仕事しろよ……」
思わずパソコンに向かってつっこんでしまった。
「ちなみに他にもいくつか候補はあったのだけど、聞きたい?」
すでに過去形になっている。完全にボクは司で決定らしい。他にも候補……。嫌な予感しかしないが、聞くだけならいいだろう。
「例えば?」
「シャルロッテ」
「外国人的な名前!? いくら見た目がそうだからっておかしいだろ?」
「お母さんのひいお婆ちゃんがシャルロッテだったのよ。今の司と同じ銀色の髪をしていてね、それはそれは綺麗だったらしいわ」
「だからって、そんな名前……」
「ちなみにこの案はお父さんからよ」
お母さんがノートパソコンを操作し、チャットソフトの会話表示部をスクロールさせた。
「ほら、ここ読んで」
指差した先の文を読む。
『はいはい! お父さんはシャルロッテがいいと思います! シャルロッテ! シャルロッテ!』
……この父親、ノリノリである。ご丁寧に勢いよく腕を上下させるアスキーアートまで添えてある。イラッとしたので、スイッチを長押しして電源を落としてやった。真面目に仕事してろ。
「そして美衣は」
「綺羅羅。どう? いいでしょ」
「……どのあたりが?」
「キラキラ光ってる感じがして可愛いところ」
「光ってるとか可愛いはともかく、そんな名前で就職活動はしたくないな」
名前というものは、子供の頃だけのものではなく、死ぬまで一生涯付きまとうものだということをちゃんと理解しているのだろうか。
「えー、そう? 可愛くていいと思うけど」
「じゃあ美衣にそれやるよ」
「嫌だよ恥ずかしい」
「おいちょっとまて」
美衣のやつ、真面目に考えてないな……? はぁとため息をついてお母さんに目を向ける。凄い自慢げな顔をしている。はいはい、もう司でいいですよ。無理に変えようとすると、綺羅羅だかシャルロッテだかと、変な名前を付けられかねないし。まあ、司も悪くはないと思う。
「そんなことよりお母さん」
「はいはい。なにかしら?」
「美衣はあんなに驚いたのに、お母さんはあまり動揺していないように見えるけど……もしかして、ボクがこんな姿になった理由を知ってるんじゃ?」
「ええ。知ってるわよ」
「うん。そうだよね。知らないよね。一応聞いてみただけだから気にしないで。別に落ち込んでなんかなえぇぇぇぇっ!?」
ガタッと椅子から立ち上がり後ずさる。驚愕に顔の筋肉を引きつらせるボクに対し、お母さんは何事もないようにニコニコとしている。
えっ、えっ? なんで知ってんの? はっ、そういえば高熱にうなされていた時も、不安げに慌てふためく美衣やお父さん達とは対照的に、お母さんだけがやけに冷静だったような……。あの時は単純に肝がすわっているくらいにしか思わなかったけど。
「それについては、司がシャワー浴びてからね。汗でベタベタのままでしょ? お昼ご飯も作っておくから、いってらっしゃい」
「う、うん。分かった」
早く話を聞きたかったが、体がベタついて気持ち悪いのも事実。別にお母さんは逃げるわけでもないし、すっきりしてからちゃんと聞こう。
「あ、お兄ちゃん」
「ん?」
ドアノブに手をかけて振り返る。美衣はボクを見て目を輝かせていた。
「一緒に入って、AかBか確認してもいい?」
「A? ……あっ。だ、だめだ!」
「えー、いいでしょ?」
「だめなものはだめ! いいか? 絶対入ってくんな!!」
頬が熱くなるのを感じながら、捨て台詞を残して勢い良くドアを閉めた。
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