チュンチュン……というスズメの声で、和宏は目を覚ました。
薄手のオレンジ色のカーテンを通して、朝の陽光がうっすらと部屋に差し込んでいる。
窓を開けて外を確認するまでもなく今日は快晴だろう……そう確信できるような清々しい朝。
パチリと目を開けた和宏は、ベッドの上に上半身を起こして目をこすった。
(なんで……ベッド?)
まだボンヤリとしたままの和宏の頭が、最初に抱えた疑問はそれだった。
何故なら、いつも和宏は布団で寝ているからだ。
ちなみに言うなら、今までベッドで一晩を明かした経験などゼロである。
和宏は、普段と違う様子の周りを見渡した。
それは、一瞬にして意識が覚醒してしまう程の摩訶不思議な光景だった。
(ここ……どこだ?)
今、自分が寝ているベッドも。
部屋の出入り口と思われるドアも。
見慣れない白い洋服タンスも。
小奇麗に片付いた勉強机も。
ちょっとおしゃれなピンクのカーペットも。
目に見える全てのものが、自分の部屋とは似ても似つかぬ光景。
息を呑んだ和宏は、何だ、コリャ……と呟いた。いや、正確には“呟いたつもり”だった。
(あれ? 声が……出ない?)
全く声が出ないという訳ではなく、いつもどおりの声が出しにくい……と感じたのだ。
和宏は、右手をノドに当てながら、もう一度声を出そうとした。
そのノドの感触の“違和感”……ノドボトケがない、柔らかいノド。
(……っ?)
ノドの違和感から始まり、頭のてっぺんからつま先まで、まるで自分の身体じゃないような強烈な違和感が和宏を包み込んだ。
自分の身体に起こった変化を見届けるために、和宏は慌ててベッドから跳ね起きた。
だが、次の瞬間、ぶち当たったのは次の違和感だった。
(頭が重っ!)
その原因は、異常に長い髪の毛。
腰まであるロングヘアは、先端が赤いゴムで束ねられている。
和宏は、恐る恐る“それ”を触ってみたが、軽く引っ張る度に髪の生え際の頭皮までが引っ張られるような感触があった。
それはもちろん、この髪がカツラなどではなく“自毛”である証左に他ならない。
(なんだよ……これ?)
野球部員である和宏のヘアスタイルは、選択の余地なく丸坊主だ。
当然のことながら、こんなロングヘアなどありえない。
だが、動揺する和宏が自分の身体を見下ろして見た光景は、さらにありえないものだった。
妙に白くて、妙に小さくて、妙にスラリとした手足。
全く見覚えのない、可愛らしい花柄のパジャマ。
そして、そのパジャマの胸の部分を押し上げているモノ。
“それ”が何なのか……和宏は知っている。
しかし、“それ”が“男”である自分の胸にあるはずはない……と思い込んでみても、今、目の前にある“それ”が一体何かと問われると、その答えは一つしかありえなかった。
和宏は、その解を得るため、恐る恐る“それ”を触った。
(ホ、ホンモノ……だ)
結果は、まさに問答無用。
軽く触れてみただけで、掌にも……しかも胸の方にも感触があった。
おまけにブラジャーの感触まで。
事ここに至っては、もう和宏も認めざるを得なかった。
“自分の身体が女性の身体になっている”ということを。
そこまで認識が進んだところで、和宏の中に一つの疑問が発生した。
(でも、なんでこんなことに?)
常識で考える限り、ありえないこと。
だが、今、確かに“こんなこと”になっている。
いくら考えても、和宏には“こうなった原因”に思い当たるフシがなかった。
いつも英語と数学の授業は熟睡している、とか。
基本的に学校の掃除当番はサボっている、とか。
たま~に親父のウイスキーを失敬して晩酌している、とか。
パッと頭の中に浮かぶのは、せいぜいその程度だ。
そのいずれも“こんなこと”を招くような悪事とは思えない。
(まさか、それくらいでバチが当たったとか……そんなセコい事しませんよね、神様?)
和宏は、そんなことを天井に向かって呟いてみた。
当然、返事などあるはずもなかった。
そうこうしているうちにも、朝、跳ね起きてから随分と時間が経ってしまったような感覚が和宏を蝕んでいく。
だが、実際には大して時間は進んでいない。
あまりに非現実的な現実を目の当たりにして、和宏の感覚がマヒしかかっているのだ。
「どうすりゃいいんだ……これから」
そう呟きながら、和宏はピンと気付いた。
(声っ!? 声が出てるっ!?)
まるで大発見でもしたように、一気に意識が高揚した。
自分の……つまり“瀬乃江和宏”の地声とは似ても似つかぬほど美しい天女のような声。
和宏は、もう一度ベッドに座り込み、ノドに手を当てつつ声を出す練習をしてみた。
「あ゛あ゛~」
和宏の思ったとおり、男のような低い声ではなく、あえて高い声を意識すると声が出しやすかった。
仮にも女性の身体である。むしろ、それが当然だろう。
咳払いを一つしてから、和宏は声の出しやすいキーをつかんでしゃべってみた。
「あ~、おはようございます♪」
可愛い、美しい、綺麗。
ありとあらゆる形容詞を用いても、決して褒め過ぎとは思えない透明感溢れる美声。
きっと“透き通るような声”とは、こういう声のことをいうのだ……と和宏は思った。
自分の出した声に、上気した顔でぼーっと酔いしれる和宏。
だが、次の瞬間、そんな和宏を戒めるように、目覚まし時計がけたたましく鳴り出した。
ベッドの枕元に置かれた小さな目覚まし時計の仕業である。
不意を突かれ、思わず声にならない悲鳴を上げた和宏は、慌てて目覚まし時計を止めた。
再び静まり返った部屋の中。
心臓の鼓動は、まだバクバクと激しい音を立てていた。
(あー、びっくりした……)
そう呟きながら、和宏は目覚まし時計の針を見た。
目覚まし時計の示す現在時刻は、午前七時ちょうど。
偶然にも、普段の和宏の起床時間と同じだ。
いつもならば、起きた後はすぐに一階に下りていくところだが、今の状態ではそれは覚束ない。
どうしたものか……と思案に暮れた和宏は、何気なしに勉強机に視線を向けた。
勉強机の上に置いてある、大きめの卓上ミラー。
その鏡に映っている顔を見た和宏は、大きく目を見開いて素っ頓狂な声を上げていた。
「誰ぇ!?」
鏡の中の顔も「誰ぇ!?」って感じで驚いている。
その顔は、和宏とは似ても似つかない女の子の顔だった。
和宏の認識は、まだ「自分が何故か他人の家に寝てしまっている」かつ「自分の身体が女の身体になってしまっている」という程度のものだった。
だが、鏡の中にある“和宏とは似ても似つかない女の子の顔”は、その認識を根底から覆してしまう。
今ここにあるのは“瀬乃江和宏の精神”のみ。
ならば“瀬乃江和宏の身体”は今何処に……?
まるで、答えの出ない禅問答。
しかし、幸か不幸か、和宏は学校の成績がかなり悪いにもかかわらず、それをあまり気にかけないナイスガイだ。
大概のことは『まぁいいや』の一言で済ませてしまうことができる特殊スキルの持ち主でもあった。
(まぁいいや。でも、よく見ると……マジで美人だな~)
そのスキルが、たった今発動された。
ちなみに、このスキルの発動条件は意外にユルく、“考えても答えが出ない時”“自動的に”である。
故に、このスキルの持ち主は例外なく学校の成績が悪かった。
和宏は、卓上ミラーを手に持って、さまざまな角度から“その顔”を眺めた。
客観的に見ても、間違いなく美人だった。
見事な二重のパッチリした瞳。
よく通った鼻筋。
心持ちピンク色の形の良い唇。
そして、透き通るような柔らかそうな肌。
口を動かすと、“その顔”も真似をするように表情を変える。
自分の顔ではない見慣れない顔が、鏡の中で自分の思い通りに動いている感覚は、和宏にとって未体験の異質なものだった。
和宏は、ベッドの上に腰掛けたまま、改めて考え込んだ。
そして、思い至ったのは救いようのない問いだった。
(一体……どうすれば元に戻るんだ?)
最も肝心と思われるこの問いに対する答えを和宏は持たない。
見知らぬ誰かの身体に憑依しているかのような状態。
そうなった原因もまたわからない。
わからないことだらけの中で、和宏はある一つの“おかしなこと”に気づいた。
――和宏の頭の中にある、和宏のものじゃない記憶。
なんなんだ、これは? ……と思う間もなく、階下から能天気そうな女性の声が響いた。
「りん~! いい加減起きなさ~い。遅刻するわよぉ!」
これは、朝の平穏な時間帯に終わりを告げる声であり、これから始まるラッシュアワーのような朝の繁忙を告げる声でもある。
モタモタしていようものなら、この少女の母親である彼女は、容赦なくこの部屋に乗り込んでくるだろう。
一気に緊迫の度合いを深めた緊急事態。
ヤベェ……と、和宏は顔面蒼白となりながら呟いた。
――TO BE CONTINUED
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。