こんにちは、今回は近衛文麿の書いた近衛上奏文と、現在の日本のオーナーが目指す、ネオ満州国計画について書きます。
近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。「大東亜戦争」は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること、一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること、「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものもでてきていること、近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている旨を述べた。
と、なっていますが、これは自分のことを書いているのです。
近衛文麿自身の計画を天皇に書いたといっても良いでしょう。
事実、近衛は自分の息子をスターリンのところに弟子入りさせていました。
共産化した日本の将来を担わせようとしたのでしょう。
結果的に、日本はまんまと戦争を拡大し、大東亜戦争まで引きづり込まれるのです。
それは日本が満州国をつくり、ソビエト、中国、朝鮮半島に共産主義による広大な千年王国を作ることが目的だったからです。
そして台湾、フィリピン、インドネシアといった東南アジア諸国も統一することが目的だった。
大東亜共栄圏というのは、言い換えれば、千年王国=NWOだったと考えてみてください。
いやに納得がいくでしょう?
ヘッセンはですね、特に明治維新以降、日本の中枢になったんです。
元々イスラエル族、エフライム族、ユダ族による国、日本にイエズス会、フリーメーソンが繋がって、共産主義が入り込む。
全部ヘッセン陣営じゃないですか?
近衛文麿は最初からその目的でコミンテルンとして動いていた。
ただ、ここで大きな疑問が浮かびます。
近衛文麿はそんなことを成し遂げるほど偉かったのか?
天皇よりも偉かったのか?
答えは、天皇よりも偉かったのです。
そして、今でも偉いのです。
とっくの昔に天皇家など、飾り物にすぎない存在になった。
つまり、天皇を操ることができる存在が現れたのです。
それが皇室を操る為に出来た摂関政治です。
この摂政、関白になれる資格を持った家柄を公家と呼びます。
別名、摂家、摂関家です。
5摂家が昔から設定されています。
これを利用して秀吉が、養子縁組によって、この資格を取得。
その後、江戸時代で完璧に、武家が公家、皇室を操れる様、禁中並公家諸法度を作った。
そして、明治維新で、更にその制度が華族、公爵になった。
で、近衛家はその摂家のひとつなんです。
下記、Wikipediaの文章を貼っておきます。
摂家
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の5家がある。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。
五摂家の成立[編集]
藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立。
さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、その弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この3流のうち、松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった。その結果摂関家として近衛・九条の両流が残った。ただし、近衛流が殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握し、九条流は天皇の外戚としての血縁関係と鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ、反対に藤原師長(頼長流)や松殿忠房(師家の弟)も摂関就任の可能性があったにも関わらず就任することが出来ず摂関家としての地位を確立できなかったことなど、流動的な状況が長く続いた[1]。
のち、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立した。建長4年(1252年)に鷹司兼平が関白に就任、文永10年(1273年)には政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる。

摂家以外からの摂政・関白就任[編集]
五摂家成立以後は、摂政・関白にはこの5家の者のみが任じられ、摂家たる5家は摂政・関白職を独占した。そのため、関白就任を目論んだ羽柴秀吉(豊臣秀吉。当時は平朝臣を称していた)は、1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たした。
翌年、秀吉は豊臣に改姓し、豊臣朝臣秀吉として関白に残留した。秀吉は豊臣氏を新たな摂関家とし、豊臣秀吉の養子である豊臣秀次は「豊臣朝臣秀次」として関白に任じられている。しかし秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになった。
江戸幕府と摂家[編集]
江戸幕府が成立すると、幕府は禁中並公家諸法度を制定して、摂政・関白は幕府の推薦なくして任命できない仕組みとなった。その一方で、幕府は摂政・関白並びに摂家を通じた朝廷統制を進めるために彼らに対する公然・非公然の支援を行った。
* 摂家の昇進は他の公家とは別格とされていた。すなわち、7歳前後で元服を行い、正五位下もしくは従五位上に叙任されて近衛権少将を初任官[2]とし、近衛権中将 → (参議を経ず) 権中納言 → 権大納言兼近衛大将から大臣を経ることとなっており、この間三位までは越階による叙任が、官職においては摂家の任命が優先されて権中納言・権大納言・大臣の定員がない場合には清華家以下の公家から1名を更迭してその後任とした。
* 禁中並公家諸法度では宮中席次は摂関・三公・宮家・その他公卿となっていたが、前述のように摂家が三公就任の優先的地位を有していたため、結果的に清華家以下はもちろんのこと皇族である宮家より人臣である摂家の上座がほぼ保障されていた。さらに官位勅問[3]は原則として摂家のみが承り、かつ日参義務のない現職摂関以外の4家に対しては天皇の方から参内を求めることなく反対に摂家の私邸に勅使を派遣する[4]こと、さらには清華家以下の特定の公家を「門流」と称して半ば家臣扱いすることなど、多くの待遇が認められていた。
* 摂家が断絶した場合の後継の養子には必ず皇族か同じ摂家からの養子しか認められなくなり、太政大臣の任官要件に摂政・関白・征夷大将軍の経験者という暗黙の規定が追加された。これにより清華家以下の公家は朝廷中枢から排除された。
* 天皇の正式な配偶者と呼ぶべき中宮・皇后は皇室および将軍家を例外とすれば摂家のみから出され、天皇との婚姻関係においても優位に立った。仮に摂家以外の女性が次期天皇を生んだとしても中宮・皇后の実子とされ、生んだ女性は母親とは認められない場合もあった(たとえば、明治天皇を生んだのは中山慶子であるが、実の母親は孝明天皇の准后であった九条夙子〈のちの英照皇太后〉であった)。
この結果、寛永年間以後は摂関政治の時代ですら建前上決定に参与できなかった朝議を摂政・関白が主宰し、清華家以下非摂家の公家は大臣であっても参加権・発言権が剥奪されるようになった[5]。 よって、江戸時代の朝廷は五摂家の当主の合意のみでの運営が可能となり、天皇と言えどもそれに抗うことは困難となった。その一方で五摂家の当主ですら幕府が摂政・関白の任命権を事実上掌握している以上、幕府の意向に反することはできず、これにより 幕府→摂家・武家伝奏[6]→天皇および諸公家、という幕府にとっては非常に効率の良い朝廷統制の仕組みが完成した。
もっとも、天皇や摂家以外の公家もこれに素直に従うことはなく、機会を捉えて抵抗を続けた。その不満が後水尾・霊元両上皇による院政や宝暦事件・尊号一件・廷臣八十八卿列参事件などの形で噴出することになる。
なお、政治的な特権以外にも、摂家は江戸幕府が公家に義務付けた小番勤務を免除され、また、経済的にも慶応元年の段階で近衛家2862.8石、九条・一条両家が2044石[7]、二条家1708.8石、鷹司家は1500石の家領・家禄が与えられ、他の堂上家よりも経済的に厚遇を受けていた(なお、100石以下の堂上家は羽林家で15、名家10、半家7であった)。
明治維新後[編集]
明治維新後は、各々の家の当主は公爵に叙せられた。また明治新政権が太政官制を敷いた(後に内閣制度を導入)ため、摂家から摂政および関白に任じられることはなくなった。したがって明治以降の5家については、「旧摂家」あるいは「旧摂関家」など「旧」を冠して呼称することが多い。
戦前の旧皇室典範に於いては皇族男子との結婚資格は皇族と華族に与えられていたが、将来の皇后たるべき皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)となるべき者は、皇族もしくは旧摂家の女子に限るという不文律が存在した。
藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。
「長者」とは、古代・中世における貴族の「氏」を束ねる代表者のことである。藤氏長者は、藤原氏の代表者として、氏の政治・財務・宗教など全般に関わる。藤氏長者の職掌を大きく分けると、政治的な藤原氏の存立基盤整備、氏領としての荘園や動産の管理、氏寺興福寺や氏社春日社・大原野社などの管理があげられる。
起源
初代の長者としては、氏族としての藤原氏の基礎を築いた藤原不比等をもって初代とする説(『尊卑分脈』)、藤原緒嗣を初代とする説(『二中歴』)、藤原良世を初代とする説(『公卿補任』)などがあるが、今日の学界では藤原冬嗣・良房・基経の3代いずれかに起源を求める説が強い。政治的活動としては、氏爵として多くの氏人を廟堂に送り込むことが求められ、藤氏長者自身の政治的地位を高めるため、皇族との婚姻は欠かせないものであった。
その活動[編集]
藤氏長者はまた、廟堂における氏の地位を保全するため、時に氏人の意見を廟堂に提出する義務がある。藤原頼通や教通と皇族との対立は有名だが、これはまさに氏人の代表者として、藤原氏の勢力を抑制しようとする皇族との対決色を明らかにしたものだった。
また、藤原忠実は嫡男の忠通に関白・藤氏長者を譲った後に、その弟の頼長を寵愛して関白と藤氏長者の地位を忠通から取り上げようとしたところ、院政を執っていた鳥羽法皇より、藤氏長者はともかく関白を勝手に交代させることは出来ないと命じられたため、忠実・頼長は武士に命じて氏長者の印たる朱器台盤を剥奪して頼長が藤氏長者であることを宣言した。これが保元の乱の一因となった。
朱器・台盤[編集]
歴代天皇が継承する三種の神器、歴代東宮が継承する壺切御剣のように、代々の藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器がある。
* 長者の官の渡荘券 - 殿下渡領と呼ばれる摂関家所領の証券
* 朱器 - 朱漆塗りの食器
* 台盤 - 食膳用の皿(朱器とともに「朱器台盤」と称される)
* 権衡 - 革製の秤(「芻斤(まぐさのはかり)」とも称される芻用の秤[1])
上記のうち朱器台盤を1つとして代わりに氏長者印を加えて4つとする場合がある。をまた、勧学院の維持管理も藤氏長者の掌握するところであった。
その後[編集]
一般に古代における氏は、平安期における家の成立で分散していく(ただし、氏が解体して家に変わった訳ではない)。藤氏長者は五摂家のなかでも執柄(しっぺい:摂関の唐名)にある家が継承するが、だからといってこの家が氏人を保護する職掌を得ていたのではない。藤氏長者の役割は宗教的な色彩を強めていくとともに興福寺や春日社などに分散することになる。
藤氏長者は明治維新の際に九条道孝を最後としてその役割を終える事になる。
藤氏長者
平安時代
(藤原内麻呂) | 藤原冬嗣 812-826 | 藤原良房 826-872 | 藤原基経 872-891 | 藤原良世 891-897 | 藤原時平 897-909 | 藤原忠平 909-949 | 藤原実頼 949-970 |藤原伊尹 970-972 | 藤原頼忠 972-974 | 藤原兼通 974-977 | 藤原頼忠 977-986 | 藤原兼家 986-990 | 藤原道隆 990-995 | 藤原道兼 995 | 藤原道長 995-1017 |藤原頼通 1017-1064 | 藤原教通 1064-1075 | 藤原師実 1075-1094 | 藤原師通 1094-1098 | 藤原忠実 1098-1121 | 藤原忠通 1121-1150 | 藤原頼長 1150-1156 |藤原忠通 1156-1158 | 近衛基実 1158-1166 | 松殿基房 1166-1179 | 近衛基通 1179-1183 | 松殿師家 1183-1184 | 近衛基通 1184-1186
鎌倉時代
九条兼実 1186-1196 | 近衛基通 1196-1202 | 九条良経 1202-1206 | 近衛家実 1206-1221 | 九条道家 1221 | 近衛家実 1221-1228 | 九条道家 1228-1231 |九条教実 1231-1235 | 九条道家 1235-1237 | 近衛兼経 1237-1242 | 二条良実 1242-1246 | 一条実経 1246-1247 | 近衛兼経 1247-1252 | 鷹司兼平 1252-1261 |二条良実 1261-1265 | 一条実経 1265-1267 | 近衛基平 1267-1268 | 鷹司基忠 1268-1273 | 九条忠家 1273-1274 | 一条家経 1274-1275 | 鷹司兼平 1275-1287 |二条師忠 1287-1289 | 近衛家基 1289-1291 | 九条忠教 1291-1293 | 近衛家基 1293-1296 | 鷹司兼忠 1296-1299 | 二条兼基 1299-1305 | 九条師教 1305-1308 |鷹司冬平 1308-1313 | 近衛家平 1313-1315 | 鷹司冬平 1315-1316 | 二条道平 1316-1318 | 一条内経 1318-1323 | 九条房実 1323-1324 | 鷹司冬平 1324-1327 |二条道平 1327-1330 | 近衛経忠 1330 | 鷹司冬教 1330-1333
南北朝時代
二条道平 1333-1334 | 近衛経忠 1334-1337 | 近衛基嗣 1337-1338 | 一条経通 1338-1342 | 九条道教 1342 | 鷹司師平 1342-1346 | 二条良基 1346-1358 |九条経教 1358-1361 | 近衛道嗣 1361-1363 | 二条良基 1363-1367 | 鷹司冬通 1367-1369 | 二条師良 1369-1375 | 九条忠基 1375-1379 | 二条師嗣 1379-1382 |二条良基 1382-1387 | 近衛兼嗣 1387-1388 | 二条良基 1388 | 二条師嗣 1388-1394
室町時代
一条経嗣 1394-1398 | 二条師嗣 1398-1399 | 一条経嗣 1399-1408 | 近衛忠嗣 1408-1409 | 二条満基 1409-1410 | 一条経嗣 1410-1418 | 九条満家 1418-1424 |二条持基 1424-1432 | 一条兼良 1432 | 二条持基 1432-1445 | 近衛房嗣 1445-1447 | 一条兼良 1447-1453 | 鷹司房平 1454-1455 | 二条持通 1455-1458 |一条教房 1458-1463 | 二条持通 1463-1467 | 一条兼良 1467-1470 | 二条政嗣 1470-1476 | 九条政基 1476-1479 | 近衛政家 1479-1483 | 鷹司政平 1483-1487 |九条政忠 1487-1488 | 一条冬良 1488-1493 | 近衛尚通 1493-1497
戦国時代
二条尚基 1497 | 一条冬良 1497-1501 | 九条尚経 1501-1513 | 近衛尚通 1513-1514 | 鷹司兼輔 1514-1518 | 二条尹房 1518-1525 | 近衛稙家 1525-1533 |九条稙通 1533-1534 | 二条尹房 1534-1536 | 近衛稙家 1536-1542 | 鷹司忠冬 1542-1545 | 一条房通 1545-1548 | 二条晴良 1548-1553 | 一条兼冬 1553-1554 |近衛前久 1554-1568
安土桃山時代
二条晴良 1568-1578 | 九条兼孝 1578-1581 | 一条内基 1581-1584 | 二条昭実 1584-1585
江戸時代
九条兼孝 1600-1604 | 近衛信尹 1605-1606 | 鷹司信房 1606-1608 | 九条忠栄 1608-1612 | 鷹司信尚 1612-1615 | 二条昭実 1615-1619 | 九条忠栄 1619-1623 |近衛信尋 1623-1629 | 一条兼遐 1629-1635 | 二条康道 1635-1647 | 九条道房 1647 | 一条昭良 1647-1651 | 近衛尚嗣 1651-1653 | 二条光平 1653-1664 |鷹司房輔 1664-1682 | 一条冬経 1682-1690 | 近衛基熙 1690-1703 | 鷹司兼熙 1703-1707 | 近衛家熙 1707-1711 | 九条輔実 1711-1722 | 二条綱平 1722-1726 |近衛家久 1726-1736 | 二条吉忠 1736-1737 | 一条兼香 1737-1746 | 一条道香 1746-1757 | 近衛内前 1757-1778 | 九条尚実 1778-1787 | 鷹司輔平 1787-1791 |一条輝良 1791-1795 | 鷹司政煕 1795-1814 | 一条忠良 1814-1823 | 鷹司政通 1823-1856 | 九条尚忠 1856-1862 | 近衛忠煕 1862-1863 | 鷹司輔煕 1863 |二条斉敬 1864-1867 | 九条道孝 1868-1871
近衛、九条、一条、鷹司、二条という家系が占めていますね。
そして、藤氏長者は明治維新の際に九条道孝を最後としてその役割を終える事になる。
とあります。
本当なんでしょうか?
ここまで脈々と千年以上受け継いで来た近衛、九条、一条、鷹司、二条が、明治維新で廃止されちゃったんでしょうかね?
じゃあ、なんで近衛文麿が総理大臣として昭和に現れたのですかね?
そして近衛文麿の外孫は元内閣総理大臣細川護熙ですね。
民主党はヘッセン陣営の最たるものですが、今でも同じ目的で動いているんです。
ですから、鳩山の東アジア共同体構想が出るのです。
あれがまさに千年王国の先駆けで、ネオ満州国の計画なのですね。
そしていま、自民党の安倍さんまでもが、意味もわからずモンゴルと接近しています。
北朝鮮の拉致問題なんて作り話です。
モンゴルまで含めたら、広大な国土の国ができちゃいますよね?
我々の日本国は、皇室という、封建制度が存在しました。これを皇室奉公衆と呼びます。
そしてそれを崩した、武家社会も、より強固な封建制度を作ることになってしまった。これを公家奉公衆と呼びます。
そして、明治維新で武家社会という封建制度を崩した後に、まだしつこく華族制度に変化し、
第二次世界大戦で敗戦し、今度こそはとおもいきや、裏では違う封建制度が存在しているのです。
そして上のWikipediaの文章中にある藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器を持つものが日本のボスです。
* 長者の官の渡荘券 - 殿下渡領と呼ばれる摂関家所領の証券
* 朱器 - 朱漆塗りの食器
* 台盤 - 食膳用の皿(朱器とともに「朱器台盤」と称される)
* 権衡 - 革製の秤(「芻斤(まぐさのはかり)」とも称される芻用の秤[1])
殿下渡領(でんかわたりりょう)とは、藤原氏の氏長者である藤氏長者の地位に付随して伝領される所領のこと。摂籙渡荘(せつろくわたりしょう)とも。
概要
「殿下」とは、摂関に対する敬称で一部例外を除いて藤原北家御堂流に属する摂政関白が藤氏長者を兼ねる慣例が確立していたことによる。「渡領」とは特定の地位に付属して伝領される所領である(皇室の後院渡領や太政官の官務渡領・局務渡領なども同様である)。
寛仁元年(1017年)、藤原道長が嫡男の藤原頼通に摂政及び藤氏長者の地位を譲った際にともに与えられた大和国佐保殿・備前国鹿田荘・越前国片上荘・河内国楠葉牧の4荘園が殿下渡領の基盤であり、藤氏長者の交替時に氏長者印・朱器台盤とともに殿下渡領に関する権利の譲渡を記した「渡文」(庄々送文・庄園渡文)の継受が行われた。この4荘園は代々他の荘園とは違う体制のもとで管理され、佐保殿は執事家司、鹿田荘・片上荘は執事家司または年預家司、楠葉牧は御厩別当が知行することが定められていた。
後に藤氏長者の管理下にあった氏院である勧学院と御堂流ゆかりの3寺院(法成寺・東北院・平等院)の所領(氏院寺領)も藤氏長者の伝領とされ、「長者の摂する所の荘園」として扱われて殿下渡領に准じる扱いを受けた。広義においては、これらの氏院寺領も殿下渡領として扱われる。ただし、渡文や定まった管理体制が存在しないことなど上記の4荘園の扱いとは異なる。14世紀に作成されて九条家に伝えられた資料に基づけば、勧学院領34箇所・法成寺領18箇所及び19末寺・東北院領34箇所・平等院領18箇所11末寺から構成されていたことが知られている。
その後も御堂流摂関家の家領は増加していくことになるが、文治2年(1186年)に九条兼実が摂政・藤氏長者に任ぜられた際、後白河院の院宣によって殿下渡領・氏院寺領のみが兼実に継承され、その他の家領は嫡流とされた近衛家が引き続き所有することになった。これ以後、殿下渡領・氏院寺領と近衛・九条両家の家領は完全に分離され、殿下渡領・氏院寺領は藤氏長者の交代とともに伝領され、それ以外の所領はそれぞれの摂関家固有の家領として子孫に伝領されることとなった。
実権は上記の例でも、朝廷支配、武家支配から、既に移っていたことがわかります。
そして、その後更に一段階実権掌握の仕組みは変化しています
ネットで議論されているのは一昔も、二昔も前の情勢です。
確かにカラスやサンカは日本国内では非常に高い位置にいます。
しかし国際的には日本の主流とは捉えられておらず、実はそれらとはまったく別の括りが出来上がっていて、そちらが本当の日本の主流というのが、国際人脈の認識なんです。
以後、このブログでは、この国際的にも日本の真の主を3トップと呼ぶ事にします。
それでは