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【真の日本のオーナー”3トップ”近衛上奏文とネオ満州国】


こんにちは、今回は近衛文麿の書いた近衛上奏文と、現在の日本のオーナーが目指す、ネオ満州国計画について書きます。

近衛上奏文(このえじょうそうぶん)とは、大東亜戦争末期の1945年(昭和20年)2月14日に、近衛文麿が昭和天皇に対して出した上奏文である。近衛は昭和天皇に対して、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」で始まる「近衛上奏文」を奏上し、英米の世論は天皇制廃止にまでは至っていないとの情勢判断の下、いわゆる「国体護持」には敗戦それ自体よりも敗戦の混乱に伴う共産革命を恐れるべきであるとの問題意識を示した。「大東亜戦争」は日本の革新を目的とする軍の一味の計画によるものであること、一味の目的は共産革命とは断言できないが、共産革命を目的とした官僚や民間有志がこれを支援していること、「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞であること、米英撃滅の論が出てきている反面、一部の陸軍将校にはソ連軍や中国共産党と手を組むことを考えるものもでてきていること、近衛は陸軍内に共産主義者が存在し、敗戦を利用して共産革命を行おうとしている旨を述べた。

と、なっていますが、これは自分のことを書いているのです。

近衛文麿自身の計画を天皇に書いたといっても良いでしょう。

事実、近衛は自分の息子をスターリンのところに弟子入りさせていました。

共産化した日本の将来を担わせようとしたのでしょう。

結果的に、日本はまんまと戦争を拡大し、大東亜戦争まで引きづり込まれるのです。

それは日本が満州国をつくり、ソビエト、中国、朝鮮半島に共産主義による広大な千年王国を作ることが目的だったからです。

そして台湾、フィリピン、インドネシアといった東南アジア諸国も統一することが目的だった。

大東亜共栄圏というのは、言い換えれば、千年王国=NWOだったと考えてみてください。

いやに納得がいくでしょう?

ヘッセンはですね、特に明治維新以降、日本の中枢になったんです。

元々イスラエル族、エフライム族、ユダ族による国、日本にイエズス会、フリーメーソンが繋がって、共産主義が入り込む。

全部ヘッセン陣営じゃないですか?

近衛文麿は最初からその目的でコミンテルンとして動いていた。

ただ、ここで大きな疑問が浮かびます。

近衛文麿はそんなことを成し遂げるほど偉かったのか?

天皇よりも偉かったのか?

答えは、天皇よりも偉かったのです。

そして、今でも偉いのです。

とっくの昔に天皇家など、飾り物にすぎない存在になった。

つまり、天皇を操ることができる存在が現れたのです。

それが皇室を操る為に出来た摂関政治です。

この摂政、関白になれる資格を持った家柄を公家と呼びます。

別名、摂家、摂関家です。

5摂家が昔から設定されています。

これを利用して秀吉が、養子縁組によって、この資格を取得。

その後、江戸時代で完璧に、武家が公家、皇室を操れる様、禁中並公家諸法度を作った。

そして、明治維新で、更にその制度が華族、公爵になった。

で、近衛家はその摂家のひとつなんです。

下記、Wikipediaの文章を貼っておきます。

摂家

摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家の5家がある。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。

五摂家の成立[編集]

藤原北家の良房が人臣初の摂政に任官して以後、その子孫の諸流の間で摂政・関白の地位が継承されたが、のちに道長の嫡流子孫である御堂流(みどうりゅう)がその地位を独占するようになった。平安時代末期、藤原忠通の嫡男である基実が急死すると、その子基通がまだ幼少であったことから、弟の基房が摂関の地位を継いだために、摂関家は近衛流と松殿流に分立。

さらに、平安末期の戦乱によって基房・基通ともに失脚し、その弟である兼実が関白となったことで、九条流摂関家が成立した。この3流のうち、松殿流の松殿家は松殿師家が摂政になって以降、結果的には摂政・関白を出すことなく何度も断絶を繰り返して没落し、摂家には数えられなかった。その結果摂関家として近衛・九条の両流が残った。ただし、近衛流が殿下渡領以外の摂関家領のほとんどを掌握し、九条流は天皇の外戚としての血縁関係と鎌倉幕府との良好な関係によってもたらされた摂関就任の実績によってようやく摂関家としての地位を安定化させ、反対に藤原師長(頼長流)や松殿忠房(師家の弟)も摂関就任の可能性があったにも関わらず就任することが出来ず摂関家としての地位を確立できなかったことなど、流動的な状況が長く続いた[1]。

のち、近衛流摂関家からは嫡流の近衛家並びに、兼平により鷹司家が成立。さらに九条流摂関家からは、道家の子実経および教実・良実により、それぞれ一条家および九条家・二条家が成立した。建長4年(1252年)に鷹司兼平が関白に就任、文永10年(1273年)には政変によって一度は失脚した九条忠家(教実の遺児)も関白に就任してその摂家の地位が確認されたことで、「五摂家」体制が確立されることになる。

スクリーンショット 2013-10-30

摂家以外からの摂政・関白就任[編集]

五摂家成立以後は、摂政・関白にはこの5家の者のみが任じられ、摂家たる5家は摂政・関白職を独占した。そのため、関白就任を目論んだ羽柴秀吉(豊臣秀吉。当時は平朝臣を称していた)は、1585年(天正13年)に近衛前久の猶子となり、藤原朝臣秀吉(近衛秀吉)として関白就任を果たした。

翌年、秀吉は豊臣に改姓し、豊臣朝臣秀吉として関白に残留した。秀吉は豊臣氏を新たな摂関家とし、豊臣秀吉の養子である豊臣秀次は「豊臣朝臣秀次」として関白に任じられている。しかし秀次以降は再び五摂家が摂関の座を独占するようになった。

江戸幕府と摂家[編集]

江戸幕府が成立すると、幕府は禁中並公家諸法度を制定して、摂政・関白は幕府の推薦なくして任命できない仕組みとなった。その一方で、幕府は摂政・関白並びに摂家を通じた朝廷統制を進めるために彼らに対する公然・非公然の支援を行った。

* 摂家の昇進は他の公家とは別格とされていた。すなわち、7歳前後で元服を行い、正五位下もしくは従五位上に叙任されて近衛権少将を初任官[2]とし、近衛権中将 → (参議を経ず) 権中納言 → 権大納言兼近衛大将から大臣を経ることとなっており、この間三位までは越階による叙任が、官職においては摂家の任命が優先されて権中納言・権大納言・大臣の定員がない場合には清華家以下の公家から1名を更迭してその後任とした。
* 禁中並公家諸法度では宮中席次は摂関・三公・宮家・その他公卿となっていたが、前述のように摂家が三公就任の優先的地位を有していたため、結果的に清華家以下はもちろんのこと皇族である宮家より人臣である摂家の上座がほぼ保障されていた。さらに官位勅問[3]は原則として摂家のみが承り、かつ日参義務のない現職摂関以外の4家に対しては天皇の方から参内を求めることなく反対に摂家の私邸に勅使を派遣する[4]こと、さらには清華家以下の特定の公家を「門流」と称して半ば家臣扱いすることなど、多くの待遇が認められていた。
* 摂家が断絶した場合の後継の養子には必ず皇族か同じ摂家からの養子しか認められなくなり、太政大臣の任官要件に摂政・関白・征夷大将軍の経験者という暗黙の規定が追加された。これにより清華家以下の公家は朝廷中枢から排除された。
* 天皇の正式な配偶者と呼ぶべき中宮・皇后は皇室および将軍家を例外とすれば摂家のみから出され、天皇との婚姻関係においても優位に立った。仮に摂家以外の女性が次期天皇を生んだとしても中宮・皇后の実子とされ、生んだ女性は母親とは認められない場合もあった(たとえば、明治天皇を生んだのは中山慶子であるが、実の母親は孝明天皇の准后であった九条夙子〈のちの英照皇太后〉であった)。

この結果、寛永年間以後は摂関政治の時代ですら建前上決定に参与できなかった朝議を摂政・関白が主宰し、清華家以下非摂家の公家は大臣であっても参加権・発言権が剥奪されるようになった[5]。 よって、江戸時代の朝廷は五摂家の当主の合意のみでの運営が可能となり、天皇と言えどもそれに抗うことは困難となった。その一方で五摂家の当主ですら幕府が摂政・関白の任命権を事実上掌握している以上、幕府の意向に反することはできず、これにより 幕府→摂家・武家伝奏[6]→天皇および諸公家、という幕府にとっては非常に効率の良い朝廷統制の仕組みが完成した。

もっとも、天皇や摂家以外の公家もこれに素直に従うことはなく、機会を捉えて抵抗を続けた。その不満が後水尾・霊元両上皇による院政や宝暦事件・尊号一件・廷臣八十八卿列参事件などの形で噴出することになる。

なお、政治的な特権以外にも、摂家は江戸幕府が公家に義務付けた小番勤務を免除され、また、経済的にも慶応元年の段階で近衛家2862.8石、九条・一条両家が2044石[7]、二条家1708.8石、鷹司家は1500石の家領・家禄が与えられ、他の堂上家よりも経済的に厚遇を受けていた(なお、100石以下の堂上家は羽林家で15、名家10、半家7であった)。

明治維新後[編集]

明治維新後は、各々の家の当主は公爵に叙せられた。また明治新政権が太政官制を敷いた(後に内閣制度を導入)ため、摂家から摂政および関白に任じられることはなくなった。したがって明治以降の5家については、「旧摂家」あるいは「旧摂関家」など「旧」を冠して呼称することが多い。

戦前の旧皇室典範に於いては皇族男子との結婚資格は皇族と華族に与えられていたが、将来の皇后たるべき皇室嫡流の正室(すなわち皇太子妃)となるべき者は、皇族もしくは旧摂家の女子に限るという不文律が存在した。



藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。


「長者」とは、古代・中世における貴族の「氏」を束ねる代表者のことである。藤氏長者は、藤原氏の代表者として、氏の政治・財務・宗教など全般に関わる。藤氏長者の職掌を大きく分けると、政治的な藤原氏の存立基盤整備、氏領としての荘園や動産の管理、氏寺興福寺や氏社春日社・大原野社などの管理があげられる。


起源



初代の長者としては、氏族としての藤原氏の基礎を築いた藤原不比等をもって初代とする説(『尊卑分脈』)、藤原緒嗣を初代とする説(『二中歴』)、藤原良世を初代とする説(『公卿補任』)などがあるが、今日の学界では藤原冬嗣・良房・基経の3代いずれかに起源を求める説が強い。政治的活動としては、氏爵として多くの氏人を廟堂に送り込むことが求められ、藤氏長者自身の政治的地位を高めるため、皇族との婚姻は欠かせないものであった。


その活動[編集]


藤氏長者はまた、廟堂における氏の地位を保全するため、時に氏人の意見を廟堂に提出する義務がある。藤原頼通や教通と皇族との対立は有名だが、これはまさに氏人の代表者として、藤原氏の勢力を抑制しようとする皇族との対決色を明らかにしたものだった。


また、藤原忠実は嫡男の忠通に関白・藤氏長者を譲った後に、その弟の頼長を寵愛して関白と藤氏長者の地位を忠通から取り上げようとしたところ、院政を執っていた鳥羽法皇より、藤氏長者はともかく関白を勝手に交代させることは出来ないと命じられたため、忠実・頼長は武士に命じて氏長者の印たる朱器台盤を剥奪して頼長が藤氏長者であることを宣言した。これが保元の乱の一因となった。


朱器・台盤[編集]


歴代天皇が継承する三種の神器、歴代東宮が継承する壺切御剣のように、代々の藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器がある。

* 長者の官の渡荘券 - 殿下渡領と呼ばれる摂関家所領の証券
* 朱器 - 朱漆塗りの食器
* 台盤 - 食膳用の皿(朱器とともに「朱器台盤」と称される)
* 権衡 - 革製の秤(「芻斤(まぐさのはかり)」とも称される芻用の秤[1])

上記のうち朱器台盤を1つとして代わりに氏長者印を加えて4つとする場合がある。をまた、勧学院の維持管理も藤氏長者の掌握するところであった。


その後[編集]


一般に古代における氏は、平安期における家の成立で分散していく(ただし、氏が解体して家に変わった訳ではない)。藤氏長者は五摂家のなかでも執柄(しっぺい:摂関の唐名)にある家が継承するが、だからといってこの家が氏人を保護する職掌を得ていたのではない。藤氏長者の役割は宗教的な色彩を強めていくとともに興福寺や春日社などに分散することになる。


藤氏長者は明治維新の際に九条道孝を最後としてその役割を終える事になる。

藤氏長者


平安時代


(藤原内麻呂) | 藤原冬嗣 812-826 | 藤原良房 826-872 | 藤原基経 872-891 | 藤原良世 891-897 | 藤原時平 897-909 | 藤原忠平 909-949 | 藤原実頼 949-970 |藤原伊尹 970-972 | 藤原頼忠 972-974 | 藤原兼通 974-977 | 藤原頼忠 977-986 | 藤原兼家 986-990 | 藤原道隆 990-995 | 藤原道兼 995 | 藤原道長 995-1017 |藤原頼通 1017-1064 | 藤原教通 1064-1075 | 藤原師実 1075-1094 | 藤原師通 1094-1098 | 藤原忠実 1098-1121 | 藤原忠通 1121-1150 | 藤原頼長 1150-1156 |藤原忠通 1156-1158 | 近衛基実 1158-1166 | 松殿基房 1166-1179 | 近衛基通 1179-1183 | 松殿師家 1183-1184 | 近衛基通 1184-1186


鎌倉時代


九条兼実 1186-1196 | 近衛基通 1196-1202 | 九条良経 1202-1206 | 近衛家実 1206-1221 | 九条道家 1221 | 近衛家実 1221-1228 | 九条道家 1228-1231 |九条教実 1231-1235 | 九条道家 1235-1237 | 近衛兼経 1237-1242 | 二条良実 1242-1246 | 一条実経 1246-1247 | 近衛兼経 1247-1252 | 鷹司兼平 1252-1261 |二条良実 1261-1265 | 一条実経 1265-1267 | 近衛基平 1267-1268 | 鷹司基忠 1268-1273 | 九条忠家 1273-1274 | 一条家経 1274-1275 | 鷹司兼平 1275-1287 |二条師忠 1287-1289 | 近衛家基 1289-1291 | 九条忠教 1291-1293 | 近衛家基 1293-1296 | 鷹司兼忠 1296-1299 | 二条兼基 1299-1305 | 九条師教 1305-1308 |鷹司冬平 1308-1313 | 近衛家平 1313-1315 | 鷹司冬平 1315-1316 | 二条道平 1316-1318 | 一条内経 1318-1323 | 九条房実 1323-1324 | 鷹司冬平 1324-1327 |二条道平 1327-1330 | 近衛経忠 1330 | 鷹司冬教 1330-1333


南北朝時代


二条道平 1333-1334 | 近衛経忠 1334-1337 | 近衛基嗣 1337-1338 | 一条経通 1338-1342 | 九条道教 1342 | 鷹司師平 1342-1346 | 二条良基 1346-1358 |九条経教 1358-1361 | 近衛道嗣 1361-1363 | 二条良基 1363-1367 | 鷹司冬通 1367-1369 | 二条師良 1369-1375 | 九条忠基 1375-1379 | 二条師嗣 1379-1382 |二条良基 1382-1387 | 近衛兼嗣 1387-1388 | 二条良基 1388 | 二条師嗣 1388-1394


室町時代


一条経嗣 1394-1398 | 二条師嗣 1398-1399 | 一条経嗣 1399-1408 | 近衛忠嗣 1408-1409 | 二条満基 1409-1410 | 一条経嗣 1410-1418 | 九条満家 1418-1424 |二条持基 1424-1432 | 一条兼良 1432 | 二条持基 1432-1445 | 近衛房嗣 1445-1447 | 一条兼良 1447-1453 | 鷹司房平 1454-1455 | 二条持通 1455-1458 |一条教房 1458-1463 | 二条持通 1463-1467 | 一条兼良 1467-1470 | 二条政嗣 1470-1476 | 九条政基 1476-1479 | 近衛政家 1479-1483 | 鷹司政平 1483-1487 |九条政忠 1487-1488 | 一条冬良 1488-1493 | 近衛尚通 1493-1497


戦国時代


二条尚基 1497 | 一条冬良 1497-1501 | 九条尚経 1501-1513 | 近衛尚通 1513-1514 | 鷹司兼輔 1514-1518 | 二条尹房 1518-1525 | 近衛稙家 1525-1533 |九条稙通 1533-1534 | 二条尹房 1534-1536 | 近衛稙家 1536-1542 | 鷹司忠冬 1542-1545 | 一条房通 1545-1548 | 二条晴良 1548-1553 | 一条兼冬 1553-1554 |近衛前久 1554-1568


安土桃山時代


二条晴良 1568-1578 | 九条兼孝 1578-1581 | 一条内基 1581-1584 | 二条昭実 1584-1585


江戸時代


九条兼孝 1600-1604 | 近衛信尹 1605-1606 | 鷹司信房 1606-1608 | 九条忠栄 1608-1612 | 鷹司信尚 1612-1615 | 二条昭実 1615-1619 | 九条忠栄 1619-1623 |近衛信尋 1623-1629 | 一条兼遐 1629-1635 | 二条康道 1635-1647 | 九条道房 1647 | 一条昭良 1647-1651 | 近衛尚嗣 1651-1653 | 二条光平 1653-1664 |鷹司房輔 1664-1682 | 一条冬経 1682-1690 | 近衛基熙 1690-1703 | 鷹司兼熙 1703-1707 | 近衛家熙 1707-1711 | 九条輔実 1711-1722 | 二条綱平 1722-1726 |近衛家久 1726-1736 | 二条吉忠 1736-1737 | 一条兼香 1737-1746 | 一条道香 1746-1757 | 近衛内前 1757-1778 | 九条尚実 1778-1787 | 鷹司輔平 1787-1791 |一条輝良 1791-1795 | 鷹司政煕 1795-1814 | 一条忠良 1814-1823 | 鷹司政通 1823-1856 | 九条尚忠 1856-1862 | 近衛忠煕 1862-1863 | 鷹司輔煕 1863 |二条斉敬 1864-1867 | 九条道孝 1868-1871


近衛、九条、一条、鷹司、二条という家系が占めていますね。


そして、藤氏長者は明治維新の際に九条道孝を最後としてその役割を終える事になる。


とあります。

本当なんでしょうか?

ここまで脈々と千年以上受け継いで来た近衛、九条、一条、鷹司、二条が、明治維新で廃止されちゃったんでしょうかね?

じゃあ、なんで近衛文麿が総理大臣として昭和に現れたのですかね?

そして近衛文麿の外孫は元内閣総理大臣細川護熙ですね。

民主党はヘッセン陣営の最たるものですが、今でも同じ目的で動いているんです。

ですから、鳩山の東アジア共同体構想が出るのです。

あれがまさに千年王国の先駆けで、ネオ満州国の計画なのですね。

そしていま、自民党の安倍さんまでもが、意味もわからずモンゴルと接近しています。

北朝鮮の拉致問題なんて作り話です。

モンゴルまで含めたら、広大な国土の国ができちゃいますよね?

我々の日本国は、皇室という、封建制度が存在しました。これを皇室奉公衆と呼びます。

そしてそれを崩した、武家社会も、より強固な封建制度を作ることになってしまった。これを公家奉公衆と呼びます。

そして、明治維新で武家社会という封建制度を崩した後に、まだしつこく華族制度に変化し、

第二次世界大戦で敗戦し、今度こそはとおもいきや、裏では違う封建制度が存在しているのです。

そして上のWikipediaの文章中にある藤氏長者が受け継ぐ4つの伝家の宝器を持つものが日本のボスです。

* 長者の官の渡荘券 - 殿下渡領と呼ばれる摂関家所領の証券


* 朱器 - 朱漆塗りの食器


* 台盤 - 食膳用の皿(朱器とともに「朱器台盤」と称される)


* 権衡 - 革製の秤(「芻斤(まぐさのはかり)」とも称される芻用の秤[1])

殿下渡領(でんかわたりりょう)とは、藤原氏の氏長者である藤氏長者の地位に付随して伝領される所領のこと。摂籙渡荘(せつろくわたりしょう)とも。


概要


「殿下」とは、摂関に対する敬称で一部例外を除いて藤原北家御堂流に属する摂政関白が藤氏長者を兼ねる慣例が確立していたことによる。「渡領」とは特定の地位に付属して伝領される所領である(皇室の後院渡領や太政官の官務渡領・局務渡領なども同様である)。


寛仁元年(1017年)、藤原道長が嫡男の藤原頼通に摂政及び藤氏長者の地位を譲った際にともに与えられた大和国佐保殿・備前国鹿田荘・越前国片上荘・河内国楠葉牧の4荘園が殿下渡領の基盤であり、藤氏長者の交替時に氏長者印・朱器台盤とともに殿下渡領に関する権利の譲渡を記した「渡文」(庄々送文・庄園渡文)の継受が行われた。この4荘園は代々他の荘園とは違う体制のもとで管理され、佐保殿は執事家司、鹿田荘・片上荘は執事家司または年預家司、楠葉牧は御厩別当が知行することが定められていた。


後に藤氏長者の管理下にあった氏院である勧学院と御堂流ゆかりの3寺院(法成寺・東北院・平等院)の所領(氏院寺領)も藤氏長者の伝領とされ、「長者の摂する所の荘園」として扱われて殿下渡領に准じる扱いを受けた。広義においては、これらの氏院寺領も殿下渡領として扱われる。ただし、渡文や定まった管理体制が存在しないことなど上記の4荘園の扱いとは異なる。14世紀に作成されて九条家に伝えられた資料に基づけば、勧学院領34箇所・法成寺領18箇所及び19末寺・東北院領34箇所・平等院領18箇所11末寺から構成されていたことが知られている。


その後も御堂流摂関家の家領は増加していくことになるが、文治2年(1186年)に九条兼実が摂政・藤氏長者に任ぜられた際、後白河院の院宣によって殿下渡領・氏院寺領のみが兼実に継承され、その他の家領は嫡流とされた近衛家が引き続き所有することになった。これ以後、殿下渡領・氏院寺領と近衛・九条両家の家領は完全に分離され、殿下渡領・氏院寺領は藤氏長者の交代とともに伝領され、それ以外の所領はそれぞれの摂関家固有の家領として子孫に伝領されることとなった。


実権は上記の例でも、朝廷支配、武家支配から、既に移っていたことがわかります。

そして、その後更に一段階実権掌握の仕組みは変化しています

ネットで議論されているのは一昔も、二昔も前の情勢です。

確かにカラスやサンカは日本国内では非常に高い位置にいます。

しかし国際的には日本の主流とは捉えられておらず、実はそれらとはまったく別の括りが出来上がっていて、そちらが本当の日本の主流というのが、国際人脈の認識なんです。


以後、このブログでは、この国際的にも日本の真の主を3トップと呼ぶ事にします。


それでは

【ヘッセンの血に流れる古代イスラエル王国全盛期の記憶 果てしない夢】


こんにちは、今回はそもそも千年王国という発想はどこから来たのか?について書きます。

ヘッセン陣営の本質的な部分ですので、数回に渡り、書こうと思いましたが、概略を今回書きます。

ヘッセンだけでなく、ヴェルフとか、メディチにももっと触れなくてはいけないのでメディチで書きはじめます。

時代はメディチ家全盛のヨーロッパ。

Medici-coat-of-arms.png


メディチの家系を遡ると、カロリング朝の勇敢な騎士であったとか、医者であったとかいうことがわかりますが、貴族ではなかったようです。

逆にメディチは虐げられていたユダヤ人です。

彼らの基礎はカバラ、錬金術。錬金術と言っても、実際にゴールドを作れる訳もなく、カネ貸しの術ですね。

ここで、ローマ教皇庁とのつながりを深めることにより、当時禁止されていた金利で儲け、ロンドンとの両替で儲け、共通通貨を作ったのがメディチ家です。

当時、ヨーロッパ共通の通貨は無かったのですが、メディチ家の作った信用のある通貨フローリンは、今で言うユーロみたいなものになったのです。

メディチ家は、ジョヴァンニ・ディ・ビッチ(1360年 - 1429年)の代に銀行業で大きな成功を収める。メディチ銀行はローマやヴェネツィアへ支店網を広げ、1410年にはローマ教皇庁会計院の財務管理者となり教皇庁の金融業務で優位な立場を得て、莫大な収益を手にすることに成功した。これは教会大分裂(シスマ)の続くキリスト教界の対立に介入し、バルダッサレ・コッサなる醜聞に包まれた人物を支援し、対立教皇ヨハネス23世として即位させた賜物であった。1422年、ローマ教皇マルティヌス5世はモンテ・ヴェルデの伯爵位を授けようとしたが、ジョヴァンニは政治的な配慮から辞退し、一市民の立場に留まった。

現在では、日本にメディチの法人があります(笑)。

http://www.medici.ne.jp/news/index.html

●商号 メディチ・ワールド・アソシエーション株式会社(Medici World Association Co.,Ltd.)

●設立 2007年7月

●代表者 代表取締役 鈴木 直人 (有限会社レブル代表取締役)

 名誉理事  コスタンツァ・デ・メディチ (ご挨拶)

●所在地・連絡先・本社:横浜市西区浅間町5-386-6 LE-REBELLEビル602 TEL(045)314-2111

●主要取引銀行 みずほ銀行 横浜駅前支店

■主な事業内容

1. メディチブランドを活用した商品化展開
2. メディチ化粧品シリーズの開発・販売
3. イタリア・スペシャルツアーの企画
4. その他メディチ家とタイアップした事業企画の提案
5. メディチ家関連の日本での芸術文化展、講演等の企画事業
(美術展、演奏会、講演会など)


1. 日本の伝統芸術、文化継承を支援するための各種活動(コスタンツァ・デ・メディチ賞授与※注1)
2. クラブメディチ会員サービス
3. メディチ氏を介した各種案件(事業、資産等)の提案、協力企業の募集
4. 上記に付随するイベント企画・運営、プロモーション事業など


メディチ家の功績で有名なのは、ヘレニズム文化の復興。

今でも芸術、文化方面で活動中なんですね(笑)。

ヘレニズム(Hellenism)とは、ギリシア人(ヘレネス)の祖、ヘレーンに由来する語。その用法は様々であり、アレクサンドロスの東方遠征によって生じた古代オリエントとギリシアの文化が融合した「ギリシア風」の文化を指すこともあれば、時代区分としてアレクサンドロス3世(大王)(在位前336年 - 前323年)の治世からプトレマイオス朝エジプトが滅亡するまでの約300年間を指すこともある。また、ヨーロッパ文明の源流となる2つの要素として、ヘブライズムと対置してヘレニズムが示される場合もある。この場合のヘレニズムは古典古代の文化(ギリシア・ローマの文化)におけるギリシア的要素を指す。

ヘレニズム文化の復興=薔薇十字思想=ユダヤの支配する世界です。

薔薇十字思想とは、ユダヤ人のギルドネットワークを駆使した自作自演、情勢操作、マインドコントロールに長けた悪魔崇拝秘密主義の思想です。

では何故、ギリシャ文化の復興なのか?

ユダヤ人の恨み、憎しみ、怨念、執念はどこから来ているのか?

イスラエル王国の成立から分裂までの時代に彼らの求める理想が有ります。

そして、その後のギリシャ文化が有り、ローマ帝国からの迫害があるのです。

エジプトでの迫害から始まり、古代イスラエル王国を建国するも崩壊し、以来、

古代イスラエル


イスラエル人の出自

イスラエル人たちが始祖とするアブラハムは、旧約聖書によればバビロニアのウルからカナンの地へ移住してきたことになっている。旧来、この記述は紀元前2000年頃に古バビロニアのハムラビ王がウルを滅ぼした後の紀元前1800年頃の出来事と解釈され、旧約聖書を文化基盤の一つとしてきた欧米では未だに根強い説だが、おそらくは自民族の古さと筋の良さを誇るために作られた故事来歴の類である[要出典]。ヨルダン川東岸山岳地帯の居住者達が、外部からやってきた遊牧民の子孫である可能性はあるが、南部メソポタミアからの移住は考えにくくメソポタミア北西部からの移住だと考えられている[7]。

彼らの出自としてはこの他にも、カナン諸都市の周辺部に居た半遊牧民達が山地に逃れて定住したとする説、カナンの諸都市の奴隷や下層民が都市を逃れて定住したとする説、アラム地方から移住してきたとする説など様々である。おそらくは多様な出自を持つ人々であり、この中からヤハウェ神信仰を共有する部族がまとまってイスラエル部族連合が形成されたのであろうと考えられている[8]。 また、イスラエルという語源はヘブライ語で「秘密+神」を意味し、前1200年前後のエジプト文書においてエジプトに属する一地方の民とされていることから、イスラエル人はエジプト人の一部で、移住後もエジプトであり、民族としての共同体はあっても国家はなかったとする説もある[要出典]。

3代の族長[編集]

旧約聖書の「創世記」には、アブラハムの子のイサク、イサクの子ヤコブが後の古代イスラエル人の祖先であるとしている(ヤコブの別名がイスラエル)。しかし、この3代の族長は、元々は別の部族が保持していた族長伝説が合わせられたと考えられている。アブラハムとイサクの記述には圧倒的に南部ユダ地方に置かれた聖所との関わりが記されているし、ヤコブの記述にはサマリア地方やヨルダン川東岸の聖所が言及されていることから、アブラハムとイサクが南部のユダヤ系、ヤコブが北部やヨルダン川東岸系の部族の族長であったことが推測されるのである[9]。イスラエル部族連合がその結びつきを強固にして、祭祀・伝承・神話を共有していく中で三代の族長の物語が形成されていったのだろうと考えられる。

出エジプト[編集]

旧約聖書の中でも大事件として扱われるのが、モーセのエジプト脱走である。それによれば、ヤコブの子のヨセフの時代にイスラエル人はエジプトに移住し、エジプト王の厚遇を得て栄えたが、王朝が代わって迫害が始まり、イスラエル人たちはモーセに率いられてエジプトを脱走し、40年間荒野を放浪して約束の地であるカナンに辿りついたというものである。この放浪中のシナイ山でイスラエル人たちは神と契約を結んで十戒を授かるなど、ユダヤ教の中でも極めて重要なエピソードであり、仮庵の祭りなどの形で現代のユダヤ教にも継承されている伝承である。

旧来の解釈によれば、イスラエル人たちを厚遇した王朝は紀元前1730年頃から紀元前1580年のヒクソス(よその土地の王の意)であり、ユダヤ人を迫害したのはイアフメス1世が建国した第18王朝、モーセのエジプト脱走は諸説あるものの、前13世紀の第19王朝ラムセス2世(在位前1279-1213)の時代である。しかし、文書資料が豊富なエジプト側には一切の記録が無いことから、旧約聖書にあるような壮年男子だけで60万人という大規模な脱走事件が起きた(出エジプト12:37、民数記1:46)という訳ではなく、ごく少数者の脱走事件であったのだろうと推定する学者もいる[10]。が、エジプトが自身の不利益な記録を残していないことが多いため、エジプト側の記録がないだけで否定されるものではない。前述のイスラエル部族連合の中に「カリスマ的指導者に率いられてエジプトから脱出してきた」という伝承をもつ部族があって、その伝承が部族連合全体に広がって共有されていったのだろう[11][12]。さらにエジプト脱出の伝承に、シナイ山における神の顕現に関する伝承が結び付けられて、シナイ山での契約の物語が成立したものと考えられている。


カナン侵攻

紀元前12世紀頃からイスラエル人たちは山岳地帯からカナン地方に進出した。これを描いたのが旧約聖書のヨシュア記と士師記である。この進出が敵対的侵攻だったのか平和的な定住だったのかについては諸説あるが、預言者的かつ軍事的指導者である「士師」が相次いで現れてイスラエル人全体を導いたとする旧約聖書の記述などからは敵対的侵攻が多く含まれていたことは確かである。ただし、旧約聖書の描く士師は、神の意志を伝えるシャーマン的な女性、特定地域で住民同士の様々な問題の仲裁に当たった小士師、一部部族の軍事的指導者たる大士師など様々である。旧約聖書の編纂期に、これらの人々が「イスラエル全体を裁き導くカリスマ的軍事指導者」の系列としてまとめられたとみる必要がある。

ヨシュアはエフライム族です。

このヨシュアが全カナンを制圧した後にレビ族を除くイスラエルの十二族にくじびきによって分配。

その後、同じエフライム族の預言者サムエルが、民の中から王を求める声が大きくなっていたので、王を作る事によるデメリットを説明したが、民衆は聞き入れなかったので、見てくれの良い、ベンヤミン族のサウルを最初のイスラエル王国の王にした。


サムエル記によると、紀元前1080年ごろペリシテ人が北部のガリラヤを制圧し、その地域のイスラエル人が奴隷となると、最後の士師で預言者でもあったサムエルは、サウルをはじめてのイスラエルの王として任じた。この王はペリシテ人との戦いの必要からでた軍事的な指導者であった。

サウル王の死後、サムエルに見出されたダビデは南部のユダ族をまとめて王となり、都ヘブロンを中心とした王国を建てる。これに対して北部イスラエルの11部族はサウルの死後、その子イシュバールを王とし、都マハナイムを中心に王国を建てた(サムエル下2:9-11)。これら二王国の内紛は7年以上続くが、イシュバールの死後、両国はダビデを王として認めることで和解した。

紀元前995年頃、ダビデは両王国の中心に位置するエルサレムのエブス人を倒し、以後、ここを拠点にペリシテ人らを退け、イスラエル王国(統一王国)を築いた。

ダビデの死後、紀元前963年にその子の一人ソロモンが国王を継ぐ。ソロモンは引き続き国の体制を整え諸外国との交易を盛んにし、またエルサレムに大きな神殿(エルサレム神殿)を建てた。この神殿は後世、第一神殿と呼ばれることになる。

ソロモンの死後、部族間の抗争により統一体制は崩れ、やがて10部族がイスラエル王国(北王国)として独立し、南のエルサレムを中心とするユダ王国(南王国)と分離することになる。以後両国は盛んに争ったが、この戦争によって国力が衰えた。

北王国の首都サマリアは紀元前721年にはアッシリアによって陥落した。アッシリアのサルゴン2世はサマリアのイスラエル人指導層などを奴隷として連れ去りまたは追放して、その土地にメソポタミアなどからの異民族を移住させた。ここにイスラエル王国は滅亡する。このとき故地から引き離されたイスラエル人たちは後に「失われた十部族」と呼ばれている。またサマリアにはアッシリア支配下の各地からの移民が移り住み、イスラエル王国の故地に残ったイスラエル人と移民との間に生まれた人々がサマリア人と呼ばれるようになった。サマリア人は、混血したことや移民たちの信仰をユダヤ教に混交させたことから後に差別される存在となった。

貢納国としてのユダ王国[編集]

一方の南部のユダ王国はアッシリアの貢納国として独立を保った。ヒゼキヤ(前715?-686年)が王のときにアッシリアとの間に戦争を起こすが、前701年にはエルサレムが包囲され陥落されそうになり、和議を結んで再び貢納国として独立を保った。 前612年にアッシリアが新バビロニアに滅ぼされたため、旧北王国の領土が解放された。これを受けてヨシヤ(前647-609年)は国内の宗教改革に取りかかった。前622年に祭壇から発見されたとする「申命記」の記述に従って、国内の祭儀と司祭制度を中央集権化した(申命記改革)。

前597年、新バビロニアのネブカドネザルがエルサレムに侵攻し、ヨヤキン王を含めた1万ほどのイスラエル人をバビロンに連れ去り捕虜とした。これは第一回の捕囚と呼ばれる。その後ユダ王国は新バビロニアの貢納国となったが、10年後にゼデキア王が完全独立を試みる。だが紀元前586年にはネブカドネザルによってエルサレム城壁が崩され神殿は破壊された。ここにユダ王国は滅亡。このときもバビロンに多くが捕虜とされて連れて行かれたが、これは第二回の捕囚と呼ばれる。捕囚されたユダヤ人たちのバビロンでの生活はかなり自由であった。

ユダヤ人のエルサレム帰還[編集]

新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝(ペルシア)のキュロス2世(前600年頃-前529年)は、紀元前538年にイスラエル人を解放する。だがバビロニアでの生活を捨ててエルサレムに帰還したユダヤ人は2~3割と言われている。それ以外の多くは自由意志でバビロニアに残留した。 ペルシア王ダレイオス1世治下の紀元前515年、ゼルバベルの指導でエルサレム神殿が再建された。これは第二神殿と呼ばれている。紀元前458年にエズラの指導のもとで二度目の集団帰還が行われた。またネヘミヤとエズラとがこの時期、国の整備とユダヤ教の形式とを固め、これが現代のユダヤ教またはユダヤ文化へ直接に影響している。ユダヤ人の民族外結婚を禁じたのもこの時であり、これによってユダヤ民族の独自性が今日にまで保たれている。

ヘレニズム時代[編集]

アレクサンドロス大王[編集]

紀元前333年にマケドニア王国のアレクサンドロス3世(アレクサンドロス大王)がペルシアのダレイオス3世を打倒すると、ユダヤ地方もギリシアの支配下に入った。ヘレニズム国家支配時代の始まりである(ヘレニスト)。

ヘレニズム国家による支配は紀元前143年まで続くが、ギリシアの自由政策のもとユダヤ人による自治と宗教の自由は守られ国内の商業も盛んとなった。同時にユダヤ地方がギリシャ風のヘレニズム文化の影響を受けていくことになる。

プトレマイオス朝の支配[編集]

アレクサンドロス大王が逝去すると、その領土は将軍たち(ディアドコイ)によって分割され、その支配をめぐる争いがおきた(ディアドコイ戦争)。ユダヤを含むシリア地方南部ははじめエジプトを領したプトレマイオス朝の支配を受けたが、この地方に食指を伸ばすセレウコス朝(シリア)との間で何度も戦いが繰り返された。

この時代、紀元前3世紀の中ごろ、エジプトのアレクサンドリアにおいて聖書がギリシャ語に翻訳された。これを「七十人訳聖書」という。

七十人訳聖書(しちじゅうにんやくせいしょ、羅:Septuaginta, 「70」の意。LXXと略す)は、現存する最古の旧約聖書の 翻訳の一つである。ファラオの命でヘブライ人の経典(旧約聖書)をギリシア語に翻訳した聖書であると伝えられ、紀元前3世紀中頃から前1世紀間に、徐々に翻訳・改訂された集成の総称を言う。ラテン語読みであるセプトゥアギンタとも呼ばれる。Septuaginta の由来については諸説あるが、旧約偽典のアリステアスの手紙の伝える、エジプトのファラオ・プトレマイオス2世フィラデルフォスの命で、72の訳者が72日間で「律法」(モーセ五書)の翻訳をなしたという伝説によるという説が有力である(その構成については旧約聖書の項を参照のこと)。伝統的に七十人訳とされているものには、ヘブライ語並びにアラム語で書かれた旧約聖書のギリシャ語訳のみならず、旧約聖書からは除外された文書で、これも同じくユダヤ人によって著作された文書で紀元前2世紀から紀元1世紀の間に完成した、経外書、外典、偽典などの名で知られる文書群も含まれる。この中にも原文はヘブライ語あるいはアラム語で著作された、と考えられ、その存在はギリシャ語、シリア語、ラテン語、エチオピヤ語などでしか伝わっていなかったものもある。その一部は、例えば、トビト書などのようにアラム語の形で死海文書の中に出て来たものもある。そのほか、第2、第3、第4マカベア書などのように、当初からギリシャ語で著作されたと考えられるものも同様に七十人訳の一部を成す。

セレウコス朝の支配[編集]

セレウコス朝は数次にわたる戦いのすえ、ついに紀元前198年にユダヤ地方を含む地域の支配権を獲得した。

紀元前175年にはセレウコス朝のアンティオコス4世エピファネスがプトレマイオス朝を圧迫し、アレクサンドリアも陥落寸前となった。ここにおいて急速に勢力を伸ばしていた共和政ローマが中東における巨大勢力の誕生を危惧して、中東情勢に介入したため、プトレマイオス朝は滅亡を免れた。このアンティオコス4世はユダヤにおいてもヘレニズム化政策を強引に押し進め、エルサレム神殿での異教崇拝などを強要したため、ユダヤ人の反感は高まっていった。

ハスモン朝、ヘロデ朝とローマ支配時代[編集]

マカバイ戦争とハスモン朝[編集]

詳細は「マカバイ戦争」および「ハスモン朝」を参照

紀元前167年になると祭司マタティアとその息子たち(マカバイ家)をリーダーとする反乱が勃発した。マタティアがなくなると息子のユダ・マカバイ(ユダス・マカバイオス)をリーダーとして戦闘が継続され、紀元前164年にエルサレム神殿を奪回した。ユダの死後は兄弟のヨナタンが指揮をとった。

この一連の戦いをマカバイ戦争といい、この戦争のユダヤ人側の観点による記録が「マカバイ記」である。ヨナタンとその兄弟シモンは諸勢力との合従連衡をたくみに繰り返し、紀元前143年にはセレウコス朝の影響を脱してマカバイ家による支配を確立させた。ここに実に数百年ぶりにユダヤ人による独立国家が回復した。

この国家は紀元前130年ごろ、セレウコス朝の支配力の増大によって、一度は独立を失ったが、セレウコス朝の内紛によって再び独立を獲得した。シモンの息子ヨハネ・ヒルカノス1世は父の死後、父の保持していた大祭司にして首長というユダヤ神権政治の権威を世襲した。このマカバイ家の世襲支配によるユダヤ独立国家を、祭司マタティアの曽祖父ハスモンの名からハスモン朝という。

ヨハネ・ヒルカノス1世は軍事的才能と傭兵の力によって支配領土を拡大することに成功した。ハスモン朝のやり方は伝統的なユダヤ人の反感を買うこともあった。この時期にユダヤ教敬虔主義からエッセネ派、ファリサイ派、サドカイ派が起こり、特にエルサレム神殿祭司層を中心としたサドカイ派と在家で民間基盤のファリサイ派の対立が激しくなる。

ハスモン朝の内紛とヘロデ朝の成立[編集]

詳細は「ヘロデ朝」を参照


ヘロデ(ヘブライ語: הורדוס、英語: Herod、紀元前73年頃 - 紀元前4年)は、共和政ローマ末期からローマ帝国初期にユダヤ地区を統治したユダヤ人の王(在位:紀元前37年 - 紀元前4年)である。イスラエルレビ族が祭司王として統治したハスモン朝を破って、ユダヤ人ヘロデが統治するヘロデ朝を創設、ローマとの協調関係を構築した。エルサレム神殿の大改築を含む多くの建築物を残した。だが、猜疑心が強く身内を含む多くの人間を殺害した。息子たちと区別してヘロデ大王とも言われる[1]。


紀元前89年頃の東地中海およびオリエント

ヨハネの子で親サドカイ派のアリストブロス1世がはじめて「王」の称号を名乗った。以後、弟アレクサンドロス・ヤンナイオス、さらにその死後、親ファリサイ派の妻サロメ・アレクサンドラは息子ヨハネ・ヒルカノス2世を大祭司にたてて統治した。

サロメが死ぬと、ヨハネ・ヒルカノス2世が王位を継いだが、弟アリストブロス2世は武力にものを言わせてこれを奪取。王位についた。

紀元前63年にはローマのポンペイウスが中東へ遠征してきてセレウコス朝を滅ぼした。当時のハスモン朝はヨハネ・ヒルカノス2世とアリストブロス2世の争いが続いていた。両勢力はローマへの接近を図るが、ローマは無能なヒルカノス2世のほうが傀儡にふさわしいと考え、支援したため、アリストブロス2世は死に追い込まれた。

ユダヤはこうしてある程度の自治を認められながら、ローマのシリア属州の一部となった。この時期、ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でエドム人系のアンティパトロスであり、ユリウス・カエサルからも地区統治の委任された。紀元前43年にアンティパトロスが暗殺され、息子ファサエロスとヘロデが後継となってからも親ローマ路線を取った。カエサル暗殺後はガイウス・カッシウス・ロンギヌスへ味方し、フィリッピの戦いでカッシウスらが敗北した後はマルクス・アントニウス、アクティウムの海戦でアントニウスが敗北した後はアウグストゥスへ従った。

紀元前40年、先の王アリストブロス2世の息子アンティゴノスが隙に乗じてヒルカノス2世とパサエロスを捕らえると、ヘロデは辛くも脱出。ローマにわたって支援を要請した。

ヘロデはユダヤの王という称号を認められ、エルサレムに帰還してアンティゴノスを撃破。紀元前37年に捕虜となったアンティゴノスが処刑されハスモン朝が滅亡し、ヘロデが開祖となるヘロデ朝が成立した。大王と称されたヘロデは純粋なユダヤ人でなかったので、ヒルカノス2世の孫マリアンメ1世を妻にするなどハスモン朝の血統を利用しながら、自らの正当性を確立していった。そして不要となるとハスモン朝の血を引く人々をすべて殺害していった。

猜疑心にとりつかれたヘロデが紀元前4年に血にまみれた生涯を終えると、その息子たちによってユダヤは分割統治された。ローマはユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、ユダヤ、エルサレム、サマリアをヘロデ・アルケラオスが、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパスが、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリッポスがそれぞれ統治した。結局アルケラオスの失政のため、ユダヤはローマの総督による直轄支配となった。

古代エジプトの最後の300年間を統治していたギリシャのプトレマイオス朝の時代を取り戻そうとしたのがルネッサンスです。

アレクサンドロス3世(古希: Ἀλέξανδρος Γ'、紀元前356年7月? - 紀元前323年6月10日、在位紀元前336年 - 紀元前323年)、通称アレクサンドロス大王(古希: Ἀλέξανδρος ὁ Μέγας)は、アルゲアデス朝のマケドニア王、ヘラス同盟(英語版)(コリント同盟)の盟主、エジプトのファラオを兼ねた人物である。ギリシア語ではアレクサンドロス大王であるが、この場合は英語風に読んでアレクサンダー大王またはアレキサンダー大王とすることも多い。

ハンニバル[1]、カエサル[2]、ナポレオン[3]などの著名な歴史上の人物たちから大英雄とみなされていた。旧約聖書やコーラン、シャー・ナーメ、ゾロアスター教など多様な民族の教典にも登場する。現代でもアレクサンドロスの名に関する名をつける人は多い。1941年からギリシャで発行されていた旧1000ドラクマ紙幣や、1926年 からアルバニアで発行された旧1レク紙幣などの肖像に使用されていた。

アレキサンダー大王がファラオに即位する為にアモン神殿に向かう途中道に迷いますが、3本足のカラスの導きで無事たどり着きます。

神武東征でも3本足のカラスの導きで畿内に上陸して、後初代天皇に即位しています。

この、アレキサンダー大王の物語と神武天皇の物語が酷似している話は有名ですね?

これは単に、日本に来た渡来人の話が古事記の元になったからです。

そして、約300年後に登場するクレオパトラ7世。

クレオパトラの先祖はマケドニアの将軍アンティパトロスです。

アンティパトロスはアレクサンドロス3世、つまりアレキサンダー大王に仕えていた将軍です。

アンティパトロス(希:Αντίπατρος、ラテン文字転記:Antipatros、英:Antripater、紀元前397年-紀元前319年)はピリッポス2世とアレクサンドロス3世に仕えたマケドニアの将軍である。

紀元前336年にピリッポスが暗殺され、その息子のアレクサンドロス3世が王位に就くと、アンティパトロスは20歳の若い王を支えた。アレクサンドロスの東征の際、アンティパトロスはマケドニア本国に残り、王国の統治、反乱の種のくすぶっていたギリシアを任された。

アンティパトロスはアレクサンドロスの母オリュンピアス(英語版)とは当初は友好的な関係で、アレクサンドロスは実は彼の子だという噂が流れるほどであったが、この気の強い王母との関係は徐々に悪化した。現に、東征の間、アンティパトロスとオリュンピアスはアレクサンドロスへと互いを中傷する手紙を書き送っている。

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クレオパトラはジュリアス・シーザーの愛人であった事も有名です(政治的な目的の説有り)。

その前は同じくローマの軍人、グナエウス・ポンペイウス・ミノル(小ポンペイウス)と密接な関係に有ったと言われています。

グナエウス・ポンペイウス(・マグヌス)(ラテン語: Gnaeus Pompeius (Magnus)、 紀元前75年頃 - 紀元前45年4月12日)は、共和政ローマ末期の軍人。同名の父グナエウス・ポンペイウス(以下、大ポンペイウスと表記)と区別するため小ポンペイウス、ラテン語では(グナエウス・)ポンペイウス(・マグヌス)・ミノル((Gnaeus) Pompeius (Magnus) minor)とも称される。母は父の3番目の妻・ムキアで、セクストゥス・ポンペイウスの兄。

紀元前49年、父がガイウス・ユリウス・カエサルとの内戦に突入すると、小ポンペイウスも父に従ってエジプトへ渡り、艦隊を率いた。また、エジプトではクレオパトラ7世と親密な関係にあったとされる(プルタルコス「英雄伝」アントニウス26)。紀元前49年8月、ファルサルスの戦いで父が率いる元老院派が敗退した後は、父と別れてアフリカ属州の州都ウティカへと逃れた。

さらに、彼女はシーザーの死後、同じくシーザーの部下であったアントニウスと結婚。激しく愛し合い、自殺しています。

マルクス・アントニウス(ラテン語: Marcus Antonius、紀元前83年1月14日? - 紀元前30年8月1日)は共和政ローマの政治家・軍人。第二回三頭政治の一頭として権力を握ったが、その後はガイウス・ユリウス・カエサルの姪の息子オクタウィアヌス(後の初代ローマ皇帝アウグストゥス)に敗北した。ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『アントニーとクレオパトラ』でも知られている。

アントニウス死後のアントニウス家[編集]

アントニウスの死から約10日後にクレオパトラも自殺した。クレオパトラは生前にアントニウスと同じ墓に入れるよう遺言していたが、オクタウィアヌスはそれを認めた。



対ローマ戦争 [編集]

詳細は「ユダヤ戦争」、「キトス戦争」、および「バル・コクバの乱」を参照

ローマ帝国はユダヤでサンヘドリン(最高法院)に宗教的権威を認めながらも政治的権威を与えなかった。ユダヤは総督の支配におかれたが、総督たちがユダヤ文化を軽蔑し、失政を繰り返したこともユダヤ人の反感を募らせた(そもそもユダヤ人にはローマ帝国の国是である政教分離の概念が無かった)。その間、ヘロデ大王の孫アグリッパ1世がユダヤの統治をしたこともあったが、死後はまた総督直轄に戻された。

66年、ついにユダヤ人の不満が爆発し、ここに独立を目指してユダヤ戦争(第1次ユダヤ戦争)が勃発。しかし70年にはローマ軍が半年にわたってエルサレムを包囲し兵糧攻めにしてついに陥落、神殿も破られた。(この間の事情はフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』にくわしい。)。

115年からはキトス戦争が起き、132年にはバル・コクバに率いられた反乱(バル・コクバの乱)がおきた。バル・コクバはユダヤの独立を達成し、キリスト教徒を除く全ユダヤ人からメシアであると承認された。彼はエルサレムで二年半の間イスラエルの大公(ナーシー)として統治した。彼の公国は135年にローマ帝国によって征服された。

大きな反乱が続発し、ユダヤ人の統治の困難さに手を焼いたローマ人はユダヤ地方からユダヤ色を一掃しようと考え、ユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人の名前をとり、この地方をパレスチナと名づけた。ユダヤ人たちはこれ以前にもすでに広くローマ帝国内や各地に離散していたが、ここに再び多くのユダヤ人が離散を余儀なくされ、長いディアスポラの時代が始まった。ローマによるエルサレム神殿破壊の結果、神殿祭儀中心の古代ユダヤ教は終焉し、以後ユダヤ教の学問の中心はガリラヤ地方に移り、ファリサイ派の伝統を下地に、今日の現代ユダヤ教にまで発展するユダヤ教の原型ができた。


いかがでしょうか?

パレスチナの由来がユダヤ人が忌み嫌っていたペリシテ人だったんですね。

まとめると、カナンの地に王国を築き、ダビデ、ソロモンといった王が君臨した黄金の時代。

これがBC1000頃だったので、これを千年王国と呼ぶ。

その後、イスラエル王国とユダ王国とに分裂。

イスラエル王国は衰退。

ユダ王国は独立を保ったが、結局はバビロン捕囚、アッシリア捕囚等を経ます。

そしてギリシア、エジプト等に散っていったユダヤ人は、ヘレニズム文化の影響を受けます。

その中で死海文書が作られたり、サドカイ派とバリサイ派の争い等がありました。

その後、エジプトがギリシャに、吸収され、クレオパトラ等の時代が有りました。

クレオパトラが利用したのがローマ帝国のシーザーやポンペイウス、アントニウスで、

逆にシーザーやポンペイウスもクレオパトラを利用したといえるでしょう。

そしてギリシャがローマに吸収されると、ローマ帝国の中枢に潜り込んだ勢力いました。

ローマに取り入ってユダヤの実権を握ったのはヒルカノス2世の武将でエドム人系のアンティパトロス。

上のクレオパトラの先祖ではないですよ。もう一人のアンティパトロスです。

その息子がヘロデ。

ヘロデはローマの傀儡となりユダヤの王になる。

また、キリストがエッセネ派から出て来たといわれています。

ここでキリストの系図を書きますと、

エッサイーダビデーソロモンーレハブアムーアビアーアサーヨシャファトーヨラムーウジヤーヨタムーアハズーヒゼキアーマナセーアモスーヨシヤーエンコヤーシャルティエルーゼルバベルーアビウドーエリアキムーアゾルーサドクーアキムーエリウドーエレアザルーマタンーヤコブーヨセフーイエス

となるわけで、エッサイーダビデーソロモンから出ている訳です。

このイスラエル王国のダビデ王、ソロモン王の繁栄を、ずっと、ずっと、再現しようとしているのが、ヘッセン陣営のカラスとか、NWOを目指している人間達の思想なんです。

本当なんですよ!!

それでは


追記:この記事を書いている時に、タイムリーに名無し先生のコメントが入りましたので、勝手に転載させていただきます。

(転載開始)

先週から上海に集まり、良からぬ計画を立てている連中が居るようです。この会議に出席し本日帰国した本人が2時間も電話で話してくれました。リーマンショックから、それほど年月も経過していないのに、今度は中国政府からゴーストタウンをタダ同然で払い下げさせ、ネオ満州国を作りユダヤ人を入植させるつもりのようですね・・・
この客家人系、日本裏皇室の下部組織は、4Cから6Cにかけ中原から南下しアジアを中心に世界各地に散ったと自称する者たちです。
彼らの計画通りに事が進めば、WW3後にイスラエルはネオ満州国に移ることになります。勿論、結果だけを見た世界の人々は、ユダヤ人が今度はアジアを乗っ取ったとネットで噂するのでしょう。客家人が安価で払い下げられた「鬼城」をユダヤ人が高額で買い取り、そこに新たなイスラエルが出現する為の準備作業が、中国内でも富裕層が多い、独立意思を有する海岸部=上海で進められているのです。

(転載終わり)

私も実際に中国のヤバさを日常的に聞かされています。日本企業は絶賛撤退準備中ですよ。

中国にはこのようなゴーストタウンがいっぱいあります。


【怨念は続くよ何処までも エッサイ → ダビデ → ソロモン → イエス・・・・→ マウントバッテン】


こんにちは、最近ブログを更新出来ないのは、ある家系を遡るという無駄な作業をしているからです。

コメントの返事もおろそかになり、大変申し訳有りません。

日本語Wikipediaでは、途中で両親の記述が途切れてしまい、英語版Wikipediaに切換えても、せいぜいAC500年ぐらいで途切れてしまい、最終的に英語のサイトを探しまわり、父方、母方の分かれ道を慎重に選びながら調査しました。

結局は王族はすべて聖書に辿り着くという結果に、馬鹿馬鹿しくなってしまいましたが・・・

【ショッカーのアジトはロンバルディア 聖書は王族のルーツ証明書】で書ききれなかった部分を書かせていただき、これ以上の追求は止めることにします。

お暇があれば皆さんもやってみてください。

本当に繋がりますから(いろんな英語サイトを飛び回る事になりますが・・・)。

でも、かなり疲れる作業なので、あまりお勧め出来ません。

突然ですが・・・

エッサイ 【Jesse 英・仏】

『旧約聖書』に出てくるダビデ王の父。一二~一六世紀西欧で行われたイザヤの預言図像に、エッサイの腹から木が生え、枝に二六人のユダヤの王が配され、頂上に七羽の鳩(聖霊の七つの賜を示す)に囲まれた聖母子像を置く図があるが、これはキリストがマリアを通じてダビデのすえに連なるとされた考えを図示したものである。

「主是くの如く言ふ、イエッセイの根より芽は出で、其根より枝は生ぜん。主の神は彼に止まらん。」(パレミヤ:イサイヤの預言書の読。十一章)。

日本語ではエッサイと発音しますが、英語ではJESSE。

Jという文字は、「へ」と発音する言語が多く有ります。

発音は、ヘッセ(HESSE)。

ヘッセンカッセルのヘッセンという家名も最初はヘッセです。

さて、イギリス王家、エジンバラ公マウントバッテンの父方のヘッセンの家系を主に辿ってみました。

ドイツのヘッセン家系はブラバント、ゴドフロア、レジナーというフランス、ベルギーの家系に辿り着き、ピピン、カルロマンと繋がります。

また、別の先祖はやはりフランク王国の歴代王であり、また、その前の時代ではグレートブリテンの歴代王です。

されに紀元前にまで遡ると、古代イスラエル王国まで繋がります。

その後は聖書の世界ですね。

聖書が作られた目的が分かってきました。

ヨーロッパの王家は選ばれた者たちの子孫である。

このシステムを何千年も続けて来たのですから、ある意味、頭が下がります。

で、これはヨーロッパに限ったことではなく、日本の天皇家も同じであるということです。

日本は和風キリスト教国家である事はもうお分かりでしょうが、ヨーロッパ王家と同じく、隠れ封建制度が健在です。

そして、国民は天皇陛下の為に命を無駄にした時代が有り、現在でも天皇家を無心に崇拝しています。

その天皇家は日本人では有りません。

戸籍が無いからという理由ではなく、伊勢神宮の奥では、ダビデの祭壇でやってたのと同じ儀式をやっている家系なのです。


マウントバッテンの父方の系図を下記に示します。


途中で、必要と思われる箇所に注釈を挿入する形式で話を進めて行きますが、ヘッセンカッセルに関してはこのブログの他の記事に書いてますので割愛します。


Philip Mountbatten , Duke of Edinburgh, b.10 JUN 1921
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Prince Andrew of Greece And Denmark, b.2 FEB 1882
      |
George I of Greece, b.24 DEC 1845
      |
Christian IX of Denmark, b.8 APR 1818
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Princess Louise Caroline of Hesse-cassel, b.28 SEP 1789
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Karl of Hesse-Kassel, b.19 DEC 1744
      |
Friedrich II of Hesse-Kassel, b.14 AUG 1720
      |
Wilhelm VIII of Hesse-Kassel, b.10 MAR 1682
      |
Karl of Hesse-Kassel, b.3 AUG 1654
      |
Wilhelm VI of Hesse-Kassel, b.23 MAY 1629--Hedwig Sophia of Prussia, b.1623
      |
William V of Hesse-Kassel February 13, 1602 – September 21, 1637
      |
Maurice of Hesse-Kassel 25 May 1572 – 15 March 1632
      |
William IV of Hesse-Kassel 24 June 1532 – 25 August 1592
      |
Philip I of Hesse, 13 November 1504 - 31 March 1567
      |
William II Landgrave of Lower Hesse 29 April 1469 – 11 July 1509
      |
Louis II of Hesse 7 September 1438 – 8 November 1471
      |
Louis I of Hesse 6 February 1402, Spangenberg - 17 January 1458
      |
Hermann II of Hesse Landgrave of Hesse 1341 – 24 May 1413
      |
Louis the Junker of Hesse 1305 – 2 February 1345
      |
Otto I of Hesse 1272 –17 January 1328
      |
Henry I of Hesse "the Child" 24 June 1244 – 21 December 1308
      |
Henry II of Brabant 1207 – February 1, 1248 フランス ブラバント
      |
Henry I of Brabant 1165 – 5 September 1235 フランス ブラバント

ブラバント公国が公式に成立したのは1183年から1184年である。ブラバント公の世襲称号は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世がブラバント公アンリ1世(下ロタリンギア公ゴドフロワ3世・ド・ルーヴェンの息子)のために創設した。ブラバント公国として相当する国は全く小さく、ドンドル川とゼンヌ川の間の領土に限定されたけれども、ブリュッセルの西に位置し、その国名は13世紀以降公爵の管理下で国全体に適用されることになった。

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Godfrey III (1142 – died 21 August 1190 ゴドフロア フランス ブラバント
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Godfrey II (c. 1110 – 13 June 1142 ゴドフロア フランス レジナー
      |
Godfrey I born 1060, dead 25 January 1139 ゴドフロア フランス レジナー
      |
Henry II Count of Louvain (Leuven) from 1054 through 1071? レジナー
      |
Lambert II Count of Louvain between 1033 and 1054 レジナー
      |
Lambert I of Louvain 950ー September 12, 1015 ベルギー レジナー
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Reginar III 920 – 973 Count of Hainaut  ベルギー レジナー
      |
Reginar II 890–932 Count of Hainaut
      |
Reginar I Longneck  Duke of Lorraine 850 – 915
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Gilbert (Giselbert), Count of Maasgau 


ここから先は不明につき、配偶者の先祖をトレース
      
Princess Ermengarde of Italy b.est 828
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Lothair I Emperor of the Romans 795 – 29 September 855
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Louis the Pious King of Aquitaine. King of the Franks and co-Emperor 778 – 840
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Charlemagne 742 – 28 Charles the Great Charles I, was the King of the Franks

カール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日、アーヘン)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子で、カール1世とも言う。768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)として彼の治世は始まったが、カールマンが771年に早逝したため、以後43年間、単独の国王として長く君臨した。800年には西ローマ皇帝(フランク・ローマ皇帝、在位:800年 - 814年)を称したが、東ローマ帝国はカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。

      |
Pepin the Younger 714 – 768 Pepin the Short, King of the Franks
      |
Charles Martel 688 – 22 October 741
      |
Pepin 635 – 16 December 714 Pepin of Herstal
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★Saint Begga 615 – 17 December 693ーーAnsegisel 602 or 610 – murdered 679 or 662
      |
Pepin of Landen 580 – 27 February 640
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Carloman Mayor of Austrasia, b.abt 0550
      |
Charles de Brabant, b.abt 0525
      |
Carolus IV De Hesbaye b.abt 480
      |
Austrapius De Hesbaye b.abt 440
      |
Lando De Hesbaye b.abt 420

ここから先は不明なので、★Saint Begga 615 – 17 December 693まで戻ります。

★Saint Begga 615 – 17 December 693
      |
Itta of Schelde, b.0597
      |
Arnoldus Bishop of Metz, b.abt 0540
      |
Ansbertus of the Moselle, b.abt 0506
      |
Ferreolus Duke of the Moselle, b.abt 0465
      |
Sigimerus I Bishop of Auvergne, b.abt 0419
      |
Clodion "the Hairy" King of France, b.0395
      |
Pharamond King of France, b.abt 0370
      |
Marcomir King of the East Franks, b.0347
      |
Clodius King of the East Franks, b.0324
      |
Dogobert King of the East Franks, b.abt 0300
      |
Genbald I King of the East Franks, b.0277
      |
Dagobert I King of Franks, b.abt 0257
      |
Walter King of the Franks, b.abt 0237
      |
Clodius III King of the Franks, b.BEF 0217
      |
Bartherus King of the Franks, b.abt 0197
      |
Hilderic (Childeric) King of t Franks, b.BEF 0177
      |
Sunno (Huano) King of the Franks, b.abt 0157
      |
Farabert King of the Franks, b.0135
      |
Clodomir IV King of the Franks, b.abt 0129

ここで男性のMarcomir IV King of the Franks, b.abt 0110ではなく、

女性のAthildis Princess of the Britains, b.abt 0115 を辿ります。

      |
Coel King of Colchest, b.abt 0094
      |
◎Meric Marius King of Britain, b.abt 0050
      |
Venissa Julia of Rome, b.abt 0020
      |
Claudius Caesar Emperor of Rome, b.abt 0010 BC
      |
Antonia Augusta the Younger, b.0036 BC
      |
Octavia "the Elder" of Rome, b.abt 0069 BC
      |
Atia Balbus of Rome, b.BEF 0085 BC
      |
Julia Caesaris, b.abt 0101 BC ジュリアス・シーザーの妹
      |
Gaius Julius Caesar III, b.0135 BC
      |
Gaius Julius Caesar II, b.abt 0154 BC
      |
Gaius Julius Caesar I, b.abt 0175 BC
      |
Lucius Julius Caesar, b.abt 0200 BC
      |
Sextus Julius Caesar I, b.abt 0225 BC
      |
Lucius Julius Caesar I, b.0250 BC
      |
Numerius Julias Caesar, b.abt 0275 BC
      |
Lucius Julius Libo, b.abt 0300 BC

ここで行き詰まるので◎Meric Marius King of Britain, b.abt 0050まで戻ります。

Meric Marius King of Britain, b.abt 0050
      |
Arvigarus Gweinivyth, b.abt 0015
      |
Cymbeline of Britain, b.abt 0020 BC
      |
Tenuantius of Britain, b.abt 0060 BC
      |
Lludd (Lud) King of Britain, b.abt 0107 BC
      |
Anna of Arimathaea
      |
Joseph Arimathaea, b.abt 0047 BC

アリマタヤのヨセフ(アリマフェヤの義人イオシフ)は、新約聖書に登場するユダヤ人。イエスの遺体を引き取ったことで知られる。日本正教会では現代ギリシャ語・教会スラヴ語からアリマフェヤのイオシフと転写される。正教会・カトリック教会・聖公会で聖人。正教会では七十門徒に数えられている。

すべての福音書にはアリマタヤ出身のヨセフなる人物がピラトに願い出て、イエスの遺体をひきとって埋葬したことが記述されている。彼がどんな人であったかは福音書によって異なっており、マタイは「金持ちでイエスの弟子」[1]といい、マルコは「身分の高い議員」[2]、ルカは「神の国を待ち望んでいた」「善良でただしい人」[3]、ヨハネは「イエスの弟子でありながらユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」[4]人物としている。

いずれにせよ、弟子すらも逃げ出した状況で、あえてアリマタヤのヨセフがイエスの遺体の引取りを申し出たということは四福音が一致して記しているところである。イエスは彼によって墓(この時代は洞窟)に亜麻布で巻かれ、香料と共に葬られた。

西ヨーロッパ中世の伝承では、聖杯伝説と結び付けられ、彼が十字架のもとでイエスの血を受けた聖杯を持ってイギリスに渡ったとされていた。

キリスト教の聖人であり、正教会では7月31日、カトリック教会では3月17日に祝われている。

      |
Matthat ben Levi, b.abt 0067 BC
      |
Levi ben Melchi, b.abt 0087 BC
      |
Melki ben Joseph, b.abt 0107 BC
      |
Jannai ben Joseph, b.abt 0127 BC
      |
Joseph ben Mattathias, b.abt 0147 BC
      |
Mattathias ben Amos, b.abt 0246 BC
      |
Amos ben Nahum, b.abt 0260 BC
      |
Nahum ben Esli, b.abt 0290 BC
      |
Esli ben Naggai, b.abt 0320 BC
      |
Naggai ben Maath, b.abt 0350 BC
      |
Maath ben Mattathias, b.abt 0387 BC
      |
Mattathias ben Semel, b.abt 0407 BC
      |
Semein ben Joseph, b.abt 0427 BC
      |
Joseph ben Judah, b.abt 0447 BC
      |
Joda ben Joanna, b.abt 0467 BC
      |
Joanna ben Rhesa, b.abt 0487 BC
      |
Rhesa ben Zerubbabel, b.abt 0507 BC
      |
Zerubbabel ben Shealtiel, b.abt 0544 BC
      |
Shealtiel ben Neri, b.abt 0580 BC
      |
Neri ben Melchi, b.abt 0660 BC
      |
Melki ben Addi, b.abt 0620 BC
      |
Addi ben Cosam, b.abt 0640 BC
      |
Cosam ben Elmadam, b.abt 0660 BC
      |
Elmadam ben Er, b.abt 0680 BC
      |
Er ben Joshua, b.abt 0700 BC
      |
Joshua ben Elizer, b.abt 0720 BC
      |
Eliezer ben Jorim, b.abt 0740 BC
      |
Jorim ben Matthat, b.abt 0760 BC
      |
Matthat ben Levi, b.abt 0780 BC
      |
Levi ben Simeon, b.abt 0800 BC
      |
Simeon ben Judah, b.abt 0840 BC
      |
Joseph ben Jonam, b.abt 0860 BC
      |
Jonam ben Eliakem, b.abt 0880 BC
      |
Eliakim ben Melea, b.abt 0901 BC
      |
Melea ben Menna, b.abt 0922 BC
      |
Menna ben Mattatha, b.abt 0943 BC
      |
Mattatha of Judah, b.abt 0964 BC
      |
Nathan of Judah, b.abt 0989 BC ダビデの息子ソロモンの兄弟

古代イスラエル・ユダの王の系図を挿入しておきます。

イスラエル王国

サウル前1000-前961 / イシュ・ボシェテ前1000 / ダビデ前1000-前962 / ソロモン前962-前922 / レハブアム前922

ユダ王国

レハブアム前922-前915 / アビヤム前915-前913 / アサ前913-前873 / ヨシャファト前873-前849 / ヨラム前849-前842 / アハズヤ前842 / アタルヤ前842-前837 / ヨアシュ前837-前800 /アマツヤ前800-前783 / ウジヤ前783-前742 / ヨタム前742-前735 / アハズ前735-前715 / ヒゼキヤ前715-前687 / マナセ前687-前642 / アモン前642-前640 / ヨシヤ前640-前609 /エホアハズ前609 / エホヤキム前609-前598 / エホヤキン前598 / ゼデキヤ前597-前587

北イスラエル王国

ヤロブアム1世前922-前901 / ナダブ前901-前900 / バシャ前900-前877 / エラ前877-前876 / ジムリ前876 / オムリ前876-前869 / アハブ前869-前850 / アハズヤ前850-前849 /ヨラム前849-前842 / イエフ前842-前815 / ヨアハズ前815-前801 / ヨアシュ前801-前786 / ヤロブアム2世前786-前746 / ゼカリヤ前746 / シャルム前745 / メナヘム前745-前738 /ペカフヤ前738-前737 / ペカ前737-前732 / ホセア前732-前722

ハスモン朝

アリストブロス1世前104-前103 / アレクサンドロス・ヤンナイオス前103-前76 / サロメ・アレクサンドラ前76-前67 / ヨハネ・ヒルカノス2世前67-前66 / アリストブロス2世前66-前63 /ヨハネ・ヒルカノス2世(復位)前63-前40 / アンティゴノス前40-前37

ヘロデ朝

ヘロデ前37-前4 / アグリッパ1世34-44 / アグリッパ2世44-100?

以上は、ソロモンの子、レハブアムがイスラエル王国から分離したユダ王国の系図です。

話をダビデに戻しますが、ダビデの前の王、イシュ・ポシュテは親子関係ではありません。

ダビデの親はJESSE、つまり、エッサイです。

      |
David King of Judah, b.abt 1041 BC
      |
Jesse Nahash, b.bef 1110 BC


エッサイの先祖は下記のように遡る事が出来ます。

      |
Obed of Bethlehem, b.1180 BC
      |
Boaz of Bethlehem, b.bef 1250 BC
      |
Salmon ben Nahshon, b.bef 1400 BC
      |
Nahshon ben Amminadab, b.bef 1450 BC
      |
★Amminadab ben Aram, b.bef 1550 BC
      |
Kiya Tasherit
      |
Moses of Egypt, b.abt 1541 BC

モーゼの両親、父アムラムと母ヨケベドで行き着いてしまうので★まで戻ります。

Amminadab ben Aram, b.bef 1550 BC
      |
Ram of the Old Testament, b.bef 1650
      |
Hezron of the Old Testament, b.abt 1715 BC
      |
Barayah of the Old Testament
      |
Jacob (Israel) of the Old Testament, b.abt 1890 BC
      |
Isaac of the Old Testament, b.abt 1950 BC
      |
Abraham (Abram) of the Old Testament, b.abt 2050 BC
      |
Terah of the Old Testament, b.abt 2120
      |
Nahor of the Old Testament, b.abt 2149 BC
      |
Serug of the Old Testament, b.abt 2179 BC
      |
Reu of the Old Testament, b.abt 2211 BC
      |
Peleg of the Old Testament, b.abt 2241
      |
Eber of the Old Testament, b.abt 2275 BC
      |
Shelah (Salah) of the Old Testament, b.abt 2305 BC
      |
Arphaxad of the Old Testament, b.abt 2343 BC
      |
Shem of the Old Testament, b.abt 2443
      |
Noah of the Old Testament, b.abt 2943 BC

これ以前は書かなくても良いと思います。アダムとイブに行き着くだけですから。

今回はこの系図だけで終わりますが、今後、イスラエル王国に着目して記事を続けます。

このダビデ、ソロモン王の時代に全盛をきわめた処から、千年王国への怨念が始まっていると考える者も、カラスの中には多いのです。

つまり伊勢神宮にダビデ紋=カゴメ紋を祀る理由であり、奥之院でソロモン神殿そのものの儀式を行う根源であると言う事です。

それでは。

【アメリカ政府機関閉鎖② これでも納得しないなら、あなたはベルベット・ファシズムのしもべです】


こんにちは、今回は前回の記事で反響が多く有りましたので、続けてアメリカについて書きます。

その前に、今までこのブログで「コミュニスト」と称して来た、ヘッセン陣営なのですが、時代の変化も有り、正しい表現では無くなっているので、今後は「ベルベット・ファシズム」もしくは「ベルベット・ファシスト」という表現に変更します。

それでは、まずは読者様からのコメントです。

こんにちは。アメリカの共和党については、スカル・アンド・ボーンズ、ネオコン派(対外介入派:ブッシュ前大統領派)と茶会運動派(北軍モンロー主義派:ロン・ポール派)と中道的なビジネス保守(ロックフェラーリパブリカン)の三派閥に割れて、党内抗争中であると見ています。アメリカの民主党はFRBを中心とするイルミナティ・フリーメイソンの影響力が強いと思います。ロン・ポールの主張する世界からの米軍撤退やFRBの廃止はヘッセン勢力に取って脅威なはずです。管理人さんの仰る通りアメリカはデフォルトしても資源も技術力もあり、いくらでも復活できます。FRBを廃止するためにはデフォルトしかないのでしょうか?

ネットでの情報はいろいろあります。

ケリー国務長官という人物を例に、その誤解を解きます。

スクリーンショット 2013-10-14

ケリー氏はスカル・アンド・ボーンズにいました。

そうすると、彼はネオコン派になります。

また、彼はフォーブス家(母方)の人間です。

そうすると、彼は中道的なビジネス保守派にもなってしまいます。

また、フォーブスはアジアの麻薬取引で成功した人物です。

そしてケリー氏は民主党ですね?

父方はチェコからの移民でアシュケナジムです。

そうすると、彼はイルミナティ・フリーメーソンにもなってしまいます。

その家系であるケリー氏は反戦主義者です。

ケリー氏はベトナムには行きましたが、彼は勲章を他の退役軍人と共にワシントンD.C.の国会議事堂ビルで抗議の意味としてメダルとリボンを投げつけた人物です。

そうすると、ケリー氏は茶会派にさえなってしまいます。

何が言いたいのかはもうお分かりだと思いますが、読者様の言われるような区切りは無意味だということです。

実際に現場の人間(名無し先生の世界)から言わせると、現在のケリー氏の評価は、シリア攻撃回避に尽力された、北軍派の代表的な人物です。

彼のフルネームはジョン・フォーブス・ケリーです。

イニシャルはJFKです。

Wikipediaにも載っているように、生前のケネディー氏にも会った事が有ります。

ジョン・レノンにも会っています。

彼を称して周りの人間は第2のJFKになるだろうと言っていたそうです(名無し先生談)。

北軍派と言うのは、米国独立時の精神を正当に受け継いだ者達との理解が必要になります。

読者様のいう、”ロン・ポールの主張する世界からの米軍撤退やFRBの廃止はヘッセン勢力に取って脅威なはずです”

この部分は逆にヘッセンの思うつぼなんです。

ロン・ポールの主張は、軍縮傾向に繋がりますよね?

アメリカが軍縮したらどうなりますか?

FRBを廃止して、緊縮政策に方向転換したら?

世界はあっという間に大大恐慌に突入します。

当然、アメリカもデフォルトです。

国債を所有している人達がアメリカに対して請求するものといえば、現物しか無くなる訳です。

アメリカのインフラとか、政府機関が債権者の所有物になるんです。

大口の債権者は誰ですか?

日本と中国です・・・

米国の国有資産とは、軍事施設も含まれます。

要は、日本や中国といった国が、アメリカを乗っ取る事が出来るのです。

軍事面も含めて。

ロス茶なんて、かわいいもんですね・・・

恐ろしいでしょ?

ヘッセン陣営の筆頭国、日本は・・・カラスは・・・

本物の国士と言うか、北軍派はこれらと戦っているんですよ。

すっかりベルベット・ファシズムに洗脳され、柔らかい全体主義の中で気が付かぬうちに民主主義とは真逆の社会を作り出していることは、自分の性格を客観的に分析すれば見えてくる事でしょう。

空気が読めないから、天然ボケだから、他とは違うから、自殺にまで追い込む排他的な自分がいませんか?

私も正直、そういう社会で育ちましたから、そう言うところが有ります。

いじめも、した事が有ります。

日本人のくせに日本を批判したくはないのですが、私達が思っている日本とは、まるで正反対の日本が有る事を知らなければなりません。

そしてこのサイトは、IMFとFRBを肯定する、前代未聞のサイトという評価をされています。

アメリカをかばっているわけはありませんが、誤解だらけなんですよ。

民主党、共和党という区別ではない括りが存在します。

米国、英国でない括りが存在します。

FRB創立の際に秘密会議が、モーガンの島で開かれたのは事実ですが、あの時代に必要な事でした。

例としてニューディール政策がありますね。

紙幣を刷らなくてどうするんですか?

あれで世界大恐慌から脱出したのではないのですか?

ニューディール政策は新規まき直し政策とも呼ばれる。それまでアメリカの歴代政権が取ってきた、市場への政府の介入も経済政策も限定的にとどめる古典的な自由主義的経済政策から、政府が市場経済に積極的に関与する政策へと転換したものであり、第二次世界大戦後の資本主義国の経済政策に大きな影響を与えた。世界で初めてケインズの理論を取り入れたと言われる。原案は一早く世界大恐慌から脱した日本の高橋是清が考えた政策と多くの部分で同じである。

ルーズベルトは1933年3月4日に大統領に就任すると、翌日には日曜日にもかかわらず「対敵通商法」に基づき国内の全銀行を休業させ、ラジオ演説で1週間以内に全ての銀行の経営実態を調査させ預金の安全を保障することを約束し、銀行の取り付け騒ぎは収束の方向に向かった。

更に議会に働きかけて矢継ぎ早に景気回復や雇用確保の新政策を審議させ、最初の100日間でこれらを制定させた。


ちなみに文中の高橋是清ですが、226事件で暗殺されています。

それと、肝心なのは、この紙幣を大量に発行する行為自体がアメリカを破綻に追い込むのではなく、そういう噂を流して国債を暴落させようとしているのだということです。

基軸通貨であるドルは、アメリカ国内だけで流通している訳ではないのです。

それを逆手に取って、暴落するという噂を流しているのです。

それでは。


【アメリカ政府機関閉鎖 シリア攻撃を阻止された腹いせ ドルは基軸通貨ではなくなるのか?】

こんにちは、今回はアメリカデフォルト危機の話です。

予定を変更して記事を書く事にしました。

現在、アメリカの債務上限を上げないと、これ以上国債が発行出来ず、満期になる国債の利息を払う財源が無いアメリカはデフォルトに陥る事になるというニュースが騒がれています。

このような騒ぎは初めてではなく何度も起き、ギリギリで共和党の同意を得て危機を回避して来ました。

オバマケアに対する反発だとか、茶会派やロン・ポールなどの財政健全化を叫ぶ派閥の反対等が長い間、アメリカ議会にねじれを生じさせているのは周知の事です。

しかし、実はこれがシリアへの攻撃を回避させたオバマ政権の政策、つまり北軍派の考えになびいている事に対する軍産複合体や、南軍派による腹いせだという考察は聞いた事がありません。

南軍派=ヘッセン陣営のことです。

南北戦争当時、南部連合の将軍であった、アルバート・パイク。

秘密結社フリーメイソンに所属していたと言われている。「メイソンの黒い教皇」とも呼ばれている。古代や東洋の神秘主義を研究して、構成員を増やした[要出典]。オハイオ州シンシナティに本拠地にしていた「ゴールデン・サークル騎士団」の名前を変えたと言われる。また1871年、イタリアのフリーメイソンのジュゼッペ・マッツィーニ(イタリア建国の父)に送った手紙には、第一次世界大戦と第二次世界大戦、更に第三次世界大戦についての計画が記されていたという説が陰謀論者の間で広がっている。

第一次世界大戦は、ツァーリズムのロシアを破壊し、広大な地をイルミナティのエージェントの直接の管理下に置くために仕組まれることになる。そして、ロシアはイルミナティの目的を世界に促進させるための“お化け役”として利用されるだろう。」

「第二次世界大戦は、『ドイツの国家主義者』と『政治的シオニスト』(パレスチナ地方にユダヤ人国家を建設しようとする人々)の間の圧倒的な意見の相違の操作の上に実現されることになる。その結果、ロシアの影響領域の拡張と、パレスチナに『イスラエル国家』の建設がなされるべきである。」

「第三次世界大戦は、シオニストとアラブ人とのあいだに、イルミナティ・エージェントが引き起こす、意見の相違によって起こるべきである。世界的な紛争の拡大が計画されている……」

「キリストの教会と無神論の破壊の後、ルシファーの宇宙的顕示により、真の光が迎えられる……」

アルバート・パイクのこの予言が、まさに実行されて来たのですが、現在の状況は最後の第三次世界大戦の実行を阻止された形になっています。

このパイクの思想のルーツは何処から来ているのかというと、イタリアのメディチ家なのです。

メディチといえばルネッサンスの生みの親。

素晴らしい文化を開花させた良いイメージがあるかと思いますが、実はこのメディチ、薬、特に毒薬の研究製造を行っていました。

今の鳥インフルエンザとか、そういう病原菌を作った連中のルーツがメディチです。

ですので、諸説はありますが、薬の事をメディシンといいます。

メディチ・・・メディシン

メディチ家の起源

「メディチ」は後出のように「医師」、「医学」、「医薬」という意味であり、先祖は薬種問屋か医師であったのではないかとされており、13世紀のフィレンツェ政府の評議会議員の記録に既にメディチの名前が残されているが、それ以前の経歴や一族の出自に付いてはあまり明らかにされていない。メディチの紋章(金地に数個の赤い球を配する)の由来については、2つの説がある。ひとつは、「メディチ」(Medici)の家名そのものが示すように、彼らの祖先は医師(単数medico/複数medici)ないし薬種商であり、赤い球は丸薬、あるいは吸い玉(血を吸いだすために用いる丸いガラス玉)を表しているという説である。もうひとつは、メディチ家をフィレンツェ随一の大富豪にした当の職業、すなわち銀行業(両替商)にちなんで、貨幣、あるいは両替商の秤の分銅を表しているという説である。 銀行業を始める前は、薬品の一種であるミョウバンを商って栄えていた。いずれにしろ、一族に多いコジモの名は、医師と薬剤師の守護聖人、聖コスマスに由来している。

ルネッサンスは良い面しか表に出ませんが、サンジェルマンの様な連中を含め、古式薔薇十字団なんかは、まさにルネッサンス復興の裏で息づいて行った訳です。

建築様式や彫刻、絵画だけではなく、オカルト的儀式要素が大きかった訳です。

そして、3つの地球というロッジを作りました。

これが後の古式黄金薔薇十字団で、財政面で支えたのがヘッセン=カッセル方伯、フリードリヒ二世です。

これが現在ではマルタ騎士団に引き継がれています。

要は、ヘッセンのビジネスであった傭兵が、現在のシリアの反政府軍の兵士の正体であり、薔薇十字団は、マルタ騎士団になったということ。

その間に、アルバート・パイクのの3つの世界最高評議会といったものが存在するのです。

元を辿れば、メディチであり、ルネッサンスとは、ヘレニズム文化の復興=薔薇十字思想=ギリシア文化の復興。

つまり、オカルト思想を大きく発展させた、大御所なのです。

「3つの地球」は3つの海を中心に考えたNWOの戦略ステップです。

このブログではメディチに関して、全然触れて来なかったので、大変なミスでした。

今後、メディチについて書いて行こうと思います。

さて、そんな計画で進められて来たシリア等、中東に発生させるはずだった第三次世界大戦が、いまのところ回避されています。

特にシリアに攻撃命令を出さなかったオバマ政権に対するヘッセン陣営の怒りは尋常ではないでしょう。

それでヘッセン陣営、軍産複合体傀儡議員による時限爆弾が仕掛けられていると・・・

10月17日までに債務上限を上げないとアメリカは不当りを出してデフォルトすると・・・

しかし、アメリカのデフォルトは有るのでしょうか?

何回も騒がれて来ましたが、その都度回避されて来た訳です。

そして、新100ドル札の発行は、アメロ通貨発行を企てていた者達の計画をくじき、偽札市場を閉鎖する為の物。

では仮に、アメリカがデフォルトしたとします。

そうしたら、次の基軸通貨は何に基づいて決まりますか?

通貨が暴落するのですから、現物の価値が上がります。

現物とはゴールドのことです。

次の基軸通貨はゴールドを多く所有する国の通貨になります。

ここで、金保有国のランキングを見てみましょう。

順位 国名 2012年 単位トン

1 United States 8,133.46
2 Germany 3,391.34
3 IMF 2,814.04
4 Italy 2,451.84
5 France 2,435.38
6 China 1,054.09
7 Switzerland 1,040.07
8 Russian Federation 957.76
9 Japan 765.22
10 Netherlands 612.45
11 India 557.75
12 BIS 520.3
13 ECB 502.07
14 Taiwan 423.63
15 Portugal 382.48
16 Turkey 359.64
17 Saudi Arabia 322.9
18 United Kingdom 310.25
19 Lebanon 286.83
20 Spain 281.61
21 Austria 279.99
22 Belgium 227.46
23 Philippines 192.72
24 Algeria 173.64
25 Thailand 152.41
26 Singapore 127.4
27 Sweden 125.72
28 South Africa 125.1
29 Mexico 124.53
30 Kazakhstan 115.29
31 Greece 111.88
32 Romania 103.72
33 Poland 102.92
34 Korea Rep. 84.44
35 Australia 79.85
36 Kuwait 78.96
37 Egypt 75.61
38 Indonesia 73.09
39 Brazil 67.2
40 Denmark 66.55
41 Pakistan 64.43
42 Argentina 61.74
43 Belarus 51.43
44 Finland 49.14
45 Bolivia 42.34
46 Bulgaria 39.93
47 WAEMU 36.48
48 Malaysia 36.39
49 Ukraine 35.46
50 Peru 34.68
51 Slovak Republic 31.79
52 Iraq 29.79
53 Ecuador 26.28
54 Syrian Arab Republic 25.82
55 Morocco 22.05
56 Afghanistan 21.87
57 Nigeria 21.37
58 Serbia 15.28
59 Cyprus 13.87
60 Bangladesh 13.51
61 Jordan 13.06
62 Cambodia 12.44
63 Qatar 12.41
64 Czech Republic 11.58
65 Colombia 10.35
66 Lao PDR 8.88
67 Ghana 8.74
68 Paraguay 8.19
69 Latvia 7.74
70 El Salvador 7.25
71 Guatemala 6.89
72 Macedonia FYR 6.79
73 Tajikistan 6.22
74 Ireland 6
75 Lithuania 5.82
76 Bahrain 4.67
77 Mauritius 3.91
78 Mongolia 3.66
79 Sri Lanka 3.63
80 Mozambique 3.58
81 Canada 3.39
82 Slovenia 3.17
83 Aruba 3.11
84 Hungary 3.08
85 Kyrgyzstan 3.06
86 Suriname 2.31
87 Luxembourg 2.24
88 China Hong Kong SAR 2.08
89 Bosnia and Herzegovina 1.99
90 Iceland 1.98
91 Trinidad and Tobago 1.92
92 Yemen 1.56
93 Honduras 0.67
94 Dominican Republic 0.57
95 Mauritania 0.36
96 Malta 0.31
97 Uruguay 0.26
98 Estonia 0.25
99 Chile 0.25
100 Costa Rica 0.06
101 Burundi 0.03
102 Fiji 0.02
103 Comoros 0.02
104 Kenya 0.02
999 世界計 31,671.42

いかがですか?

どの国がゴールドを多く持っていますか?

アメリカですね?

世界合計の何パーセントですか?

25%以上がアメリカなんです。

デフォルトすればドルは暴落。

そして金本位制に戻る。

その時、一番金を保有している国の通貨が基軸通貨になる。

その国はアメリカです。

ということは、ドルは基軸通貨で有り続ける訳です。

仮にデフォルトしたとしても、暴落したドルにより、アメリカの国際競争力が高まり、輸出が増えます。

中国で生産するよりもアメリカで生産した方が安くなる。

まさにアメリカ復活なのです。

それでは


【爆笑!!伏見博明の血を引く者はイエズス会の傀儡ですが、何か?】


こんにちは、今回は前回の徳川家康の続きです。

今回の記事は名無し先生の考察のヒントに回答する形で書かせていただきます。

①外様大名なのに松平姓を持った10家とイエズス会の関係を調べて下さい。

②『四品』以上は、皇室の妃になる為の筆頭の位ですね?皇室と血縁を結んだ家系を調べましょう。

③久爾宮朝彦親王の4人の子の内、2男と4男と結婚した『島津』『鍋島』、各々の子が、日、韓の王様の妃になった事を確認しましょう。

④久爾宮朝彦親王の父、伏見宮邦家。伏見博明氏がモービル石油顧問であり、スメラミコトを継ぐ血筋と称する理由を考察しましょう。

⑤信長の時代の前後には日本にも到達してしていたイエズス会の起源を、スペイン王国の成立から考察しましょう。

⑥文明の時系列に基づく推移から、どの勢力が洗脳をした側であるか、冷静に考察しましょう。



①外様大名なのに松平姓を持った10家とイエズス会の関係を調べて下さい。

松平の称号を与えられた外様大名家

* 「備考」欄の記載のうち、四品は四品(四位)以上に昇進する大名家、国持大名は国主、殿上元服は世嗣の殿上元服、賜諱は偏諱の授与をそれぞれ意味する。

家名  領国等 本来の姓 備考

松平家 加賀藩 前田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 越中富山藩 四品

松平家 加賀大聖寺藩 四品

松平家 仙台藩 伊達氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 薩摩藩 島津氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 長州藩 毛利氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 筑前福岡藩 黒田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 安芸広島藩 浅野氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 広島新田藩

松平家 肥前佐賀藩 鍋島氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 備前岡山藩 池田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 因幡鳥取藩 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 鹿奴藩(鳥取藩支藩)

松平家 若桜藩(鳥取藩支藩)

松平家 播磨山崎藩→福本藩 一時期、交代寄合(旗本)となる。

松平家 赤穂藩 四品。後に改易される。

松平家 平福藩

松平家 阿波徳島藩 蜂須賀氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 土佐高知藩 山内氏 四品・国持大名


まず、島津氏です。

島津氏の家紋です。

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600px-Japanese_Crest_maru_ni_jyuji.png

これでは十分ではないですか?

島津貴久はフランシスコ・ザビエルと交流が有り、イエズス会の傀儡となっています。

島津家は室町時代から明や琉球と交易をしており、貴久も琉球の尚元王と修好を結び、ポルトガル船などから銃や洋馬を輸入し、産業事業を興した。また、貴久は永禄中インド総督に親書を送るなど外交政策にも積極的に取り組んだ。鉄炮が種子島氏より献上されると数年後には実戦で利用している。

天文18年(1549年)に来日したフランシスコ・ザビエルにキリスト教の布教許可を出している。しかし寺社や国人衆の反対が激しかったことや、期待したほどに南蛮船も訪れなかったことから、後に布教を禁止している。

史料上、鉄砲を実戦に初めて使用した戦国大名は貴久であるとされており、入来院氏との戦いが初見とされている。

島津だけでは有りません。

大内氏、義隆の時代、ザビエルは山口県で布教活動を許可され、ロレンソ了斎という琵琶法師を洗礼します。

このロレンソ了斎が日本でのキリスト教布教、及びイエズス会勧誘に大きな働きをします。

ロレンソはザビエルが日本を離れた後もイエズス会の宣教師たちを助け、キリスト教の布教活動に従事した。1559年(永禄2年)、コスメ・デ・トーレスの命を受けガスパル・ヴィレラと共に京に入り、苦労の末に将軍足利義輝に謁見し、キリスト教布教許可の制札を受けた。

また、当時の京都の実質的な支配者だった三好長慶にも会い布教許可を得た。さらにキリスト教に対し好意的でなかった松永久秀が、宗論のためにヴィレラを自らの領地である奈良に招いた時には、ヴィレラ自身が赴くのは危険すぎるということでロレンソが派遣された。

ここでロレンソは理路整然と仏僧を論破し、その疑問にことごとく答えた。論議の審査のため、その場に居合わせた高山友照はこれに感心し、自らの城にロレンソを招き教えを請い、友照は子の高山右近や家臣などと共にヴィレラから洗礼を受けた。

1563年(永禄6年)に正式にイエズス会に入会、修道士(イルマン)となった。

1565年(永禄8年)には九州に赴いて宣教活動を行い、1569年(永禄12年)に再び畿内へ戻った。ここで織田信長から布教の許可を得ることができ、ルイス・フロイスとともに信長の面前で反キリシタンの論客であった日蓮宗の僧朝山日乗と議論を行った。

1587年(天正15年)、豊臣秀吉によるバテレン追放令を受けて九州へと移り、1592年(文禄元年)に長崎で死去した。

琵琶法師として日本の伝統文化や仏教・神道の知識が深かったロレンソは、その知識を生かしてキリスト教を布教し、戦乱の世にあって救いを求め、キリスト教の教えを知ろうとした多くの人々の疑問に答えた。当時の畿内や九州で多くの洗礼者が出たことはロレンソの布教活動に負うところが大きい。

それから時代は変わり、イエズス会は日本全国に広がりました。

松平姓を持った外様大名「前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内」は、江戸期より前から、イエズス会の日本代理店です。

(Wikipediaより)

キリシタン大名(キリシタンだいみょう、吉利支丹大名)は、戦国時代から江戸時代初期にかけてキリスト教に入信、洗礼を受けた大名のこと。

主なキリシタン大名には高山右近、大友義鎮、大村純忠、有馬晴信、小西行長、黒田孝高、蒲生氏郷、筒井定次などがいる。

キリシタン大名・キリシタン武将[編集]

あ行[編集]

* 明石全登(ジョアン、ヨハネ、ジョパンニ・ジュスト) - 宇喜多家臣。関ヶ原の戦い、大坂の役で活躍後行方不明。
* 朝長純安(ドン=ルイス) - 大村家臣。
* 天草種元
* 天草久種(ドン・ジョバン) - 天草種元の子。
* 天野元信 - 熊谷元直娘婿。後に殉教者として列福。
* 有馬義貞(アンドレ) - 肥前日野江(島原)領主。
* 有馬晴信(プロタジオ) - 有馬義直の子。岡本大八事件で刑死。
* 有馬直純(サンセズ) - 有馬晴信の子、棄教後は迫害者に転じる。
* 池田教正 - 丹後守。
* 一条兼定(ドン・パウロ) - 土佐中村一条家当主。大友宗麟の甥であり娘婿。
* 伊東祐勝 - 伊東義賢の弟。
* 伊東義賢(バルトロメオ) - 伊東義祐の嫡孫。母方縁戚・大友宗麟の影響でキリシタンとなる。
* 宇久純尭(ドン=ルイス) - 五島島主。宇久純定の次男。
* 宇久純定
* 大友宗麟(ドン・フランシスコ) - 豊後領主。代表的なキリシタン大名の一人。
* 大友親家(セバスチャン) - 大友宗麟の次男。田原親貫の養子。
* 大友親盛(パンタレアン) - 大友宗麟の三男。田原親賢の養子。
* 大友義統(コンスタンチノ) - 大友宗麟の長男。棄教。
* 大村純忠(バルトロメオ) - 日本最初のキリシタン大名。
* 大村喜前(サンチョ) - 大村純忠の子。棄教。
* 大矢野種基
* 織田有楽斎(ジョアン) - 織田信長の弟。利休七哲の一人。有楽斎は号。[要出典]


* 織田秀信 - 三法師、織田信忠の嫡男、信長の嫡孫。
* 織田秀則(パウロ) - 織田信忠の次男、信長の孫。

か行[編集]

* 加賀山興良(ディエゴ) - 通称隼人、高山右近、蒲生氏郷、細川忠興らに仕える。1619年、禁教令に叛いて殉教、斬首された。
* 蒲生氏郷(レオ) - 日野、会津を領す。
* 木下勝俊(ペテロ) - 若狭小浜城主。北政所(ねね)の甥。
* 岐部信泰 - 大友家臣。石垣原の戦いで戦死。
* 木村清久 - 豊臣家臣。大坂夏の陣で戦死。
* 京極高吉 - 晩年に受洗するも急死。
* 京極高次 - 秀吉、家康に仕えて近江大津、若狭小浜を領す。
* 京極高知 - 秀吉、家康に仕えて信州伊奈、丹後宮津を領す。
* 熊谷元直(メルキオール) - 安芸熊谷氏。後に主君の毛利輝元により処刑される。死後、殉教者として祭られる。
* 黒田直之 - 黒田孝高の弟。黒田二十四騎の一人。
* 黒田長政(ダミアン) - 棄教後、迫害者に転じる。
* 黒田孝高(シメオン) - 官兵衛の通称と如水の号で知られる。豊臣秀吉の家臣。
* 籠手田安一 - 籠手田安経の子。
* 籠手田安経 - 籠手田安昌の子。
* 籠手田安昌
* 五島玄雅 - 宇久純定の四男。棄教。


* 小西如清(ベント) - 小西隆佐の長男。
* 小西主殿介 - 小西隆佐の子、小西行長の異母兄。
* 小西行景 - 小西隆佐の三男。
* 小西行長(アウグスティノ) - 関ヶ原敗戦後、キリシタンであるため切腹を拒み刑死。
* 小西隆佐(ジョウチン) - 小西行長の父。

さ行[編集]

* 税所敦朝(レオ) - 北郷三久家臣。薩摩の殉教者。
* 三箇頼照(サンチョ) - 明智光秀に味方し没落。
* 志賀親次(ドン=パウロ) - 大友義統家臣。島津軍の侵攻を何度も食い止めた。
* 志岐鎮経(麟泉)(ドン=ジョアン) - 後に棄教し、迫害側に回る。
* 志岐諸経 - 有馬晴純の五男。志岐麒泉の養子。親重、親弘?
* 斯波義銀(サンショ) - 尾張守護斯波義統の子。
* 宗義智(ダリオ) - 対馬領主。小西行長の娘マリアを妻に迎えたときに受洗したが、関ヶ原の合戦後すぐに棄教、マリアも離縁した。

た行[編集]

* 高山友照(ダリオ) - 飛騨守。高山右近の父。畿内における最初期のキリシタン大名の一人。
* 高山右近(ドン・ジュスト) - 代表的なキリシタン大名。一時、赤石城主。追放先のマニラで客死。
* 田中吉政(バルトロメオ)
* 田原親虎(シマン) - 公卿柳原氏から田原親賢の養子。
* 筒井定次 - 筒井順慶の長男。
* 津軽信堅 - 津軽為信の次男。
* 津軽信建 - 津軽為信の長男。
* 津軽信枚 - 津軽為信の三男。
* 寺沢広高 - 棄教後は迫害者に転じる。

な行[編集]

* 内藤如安(ジョアン) - 追放され、マニラで客死。
* 長崎純景(ベルナルド)
* 新納久饒 - 新納康久の次男。
* 新納康久 - 鶴丸城主。
* 新納旅庵 - 新納康久の三男。

は行[編集]

* 福田兼次(ジョーチ) - 大村家臣。福田城主。
* 畠山高政 - 河内国畠山氏の当主。晩年に帰依。
* 林田レオ助右衛門 肥前国有馬氏四天王
* 細川興元 - 細川幽斎の次男。

ま行[編集]

* 前田秀以(パウロ) - 前田玄以の長男。
* 前田茂勝(コンスタンチノ) - 前田玄以の次男。
* 牧村利貞 - 利休七哲の一人。稲葉一鉄の孫。
* 松浦隆信 - 松浦氏28代当主。江戸幕府の禁教令のため棄教。
* 毛利重政 - 豊後速水郡の内で1万石。豊後守。
* 毛利高政 - 豊後佐伯領主。伊勢守。
* 毛利秀包(シマオ) - 毛利元就の子、小早川隆景の養子。筑後国久留米城主。

や行[編集]

* 結城忠正(アンリケ) - 山城守。畿内における最初期のキリシタン大名の一人。
* 山科勝成(ジョバンニ・ロルテス) - オルガンティーノと共に来日したイタリア人の騎士、蒲生氏郷に召抱えられる。


もうこれぐらいで十分でしょう。


②『四品』以上は、皇室の妃になる為の筆頭の位ですね?皇室と血縁を結んだ家系を調べましょう。


1で、松平姓になった大名の横に「四品」と書かれています。

これは、以前のエロい天皇家の記事中の斎王制度でも書きましたので、転載します。

齊王制度とは?

結論から言うと、天皇家及び渡来人の為の血族保存システムです。
出来るだけ多くの女性と関係を持ち、子孫を絶やさない為の仕組みです。

大宝律令とは?

(Wikipediaより)

大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。

この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。

(転載終わり)

なんだか難しい事が書いてありますね。

これが何の事かと言いますと、名無し先生の文章にも書かれている通り、夜の相手の数を決めたものなのです。

①天皇は四品という位以上の女性を2名、

②従三位以上の位から3名、

③従五位以上から4名、

④その他、位が下がって、定員12名の御息所(みやすんどころ)、

⑤さらに定員12名の御匣殿(みくしげどの)

合計33名と、

⑥位を下げれば無制限の女性

以上が妻として認められていました。

いや、認められています。

これは今でも続いているのです。

(転載おわり)

要するに、松平姓を持った外様大名「前田、伊達、島津、毛利、黒田、浅野、鍋島、池田、蜂須賀、山内」は、江戸期より前から、イエズス会の傀儡大名に松平姓を与え「四品」以上の位にしたのです。

そうすれば、イエズス会の傀儡大名の娘が天皇の妃になれるということです。

話は逸れますが、それにしても斎王制度バリバリの証拠がここにありましたね。

以前の記事を書いた時にこれも載せていればもっと説得力が有りました。

久邇宮朝彦親王

貞敬親王は子宝に恵まれ、同様に子福者であった邦家親王とともに伏見宮隆盛のきっかけを作った人と目されている。

伏見宮貞敬親王は子だくさんであった・・・って、馬鹿にしてるのか!!

一人の母親でこんなに子供が産める訳無いでしょ。

このハーレム一族が日本の皇族なんです。

* 第1王子:邦家親王(1802~1872)
* 第2王子:尊宝法親王(青蓮院門跡)(1804~1832)
* 第1王女:師子女王(1805~1833)
* 第2王女:韶子女王(忍藩主松平忠堯室)(1806~1841)
* 第3王子:普照院(1806)
* 第4王子:尊誠法親王(一乗院門跡)(1806~1822)
* 第3王女:日尊女王(瑞龍寺門跡)(1807~1868)
* 第5王子:清観院(1808)
* 第4王女:英子女王(清水徳川斉明室)(1808~1857)
* 第5王女:喜之宮(1810~1811)
* 第6王女:種子女王(錦織寺歓慈常厳室)(1810〜1863)
* 第7王女:陳宮(1811~1813)
* 第6王子:千嘉宮(1814~1815)
* 第8王女:増子女王(東本願寺光浄宝如室)(1815~1859)
* 第7王子:苞宮(1816)
* 第9王女:宗諄女王(霊鑑寺門跡)(1816~1891)
* 第10王女:政子女王(錦織寺宅慈の実子となる、高田瑞泉寺室)(1817~)
* 第11王女:隆子女王(1818~1860)
* 第8王子:尊常法親王(一乗院門跡)(1818~1836)
* 第9王子:和宮(1819)
* 第10王子:梨本宮守脩親王(1819~1881)
* 第11王子:懐宮(聖護院門跡附弟)(1820~1831)
* 第12王子:煥宮(1821)
* 第13王子:佐那宮(1822~1823)
* 第14王子:戒珠院(1822)
* 第12王女:正宮(1823)
* 第15王子:証妙楽院(1824)
* 第13王女:泰宮(1824)
* 第14王女:福宮(1825)
* 第15王女:登久宮(1828)
* 第16王女:盧遮那院(1828)
* 第16王子:漸学院(1829)
* 第17王女:直子女王(一橋徳川慶寿室)(1830~1893)
* 第18王女:芳宮(1831)
* 第19王女:成淳女王(中宮寺門跡、有栖川宮韶仁親王養女)(1834~1865)

朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり、若年時には神社の巫女を孕ませるなどの逸話を持つ。還俗してからも子を多く作った。今上天皇以下の皇族は、香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいる。

妻子

* 女房泉亭靜枝子
* 第1王女:智當宮(ちたのみや、諡は眞實行院、1864年 - 1866年)
* 第1王子:諡を淨寶珠院(1865年2月 - 12月)
* 第2王子:賀陽宮邦憲王(1867年 - 1909年)
* 第5王子:多嘉王(1875年 - 1937年)
* 第6王子:暢王(のぶおう、1877年 - 1878年)
* 女房泉萬喜子
* 第2王女:東園栄子(さかこ、子爵・東園基愛夫人、1868年 - 1949年)
* 第3王女:池田安喜子(あきこ、侯爵・池田詮政夫人、1870年 - 1920年)
* 第4王女:飛呂子女王(ひろこじょおう、1871年 - 1889年)
* 第5王女:竹内絢子(あやこ、子爵・竹内惟忠夫人、1872年 - 1946年)
* 第3王子:久邇宮邦彦王 (1873年 - 1929年)
* 第6王女:仙石素子(もとこ、子爵・仙石政敬夫人、1877年 - 1918年)
* 第7王女:懐子女王(やすこじょおう、1879年 - 1880年)
* 第8王女:壬生篶子(すずこ、伯爵・壬生基義夫人、1879年 - 1947年)
* 第7王子:(1882年)
* 女房原田光枝子
* 第4王子:梨本宮守正王(1874年 - 1951年)
* 女房寺尾宇多子
* 第9王女:織田純子(あつこ、子爵・織田秀實夫人、1885年 - 1912年)
* 第9王子:東久邇宮稔彦王(1887年 - 1990年)
* 女房角田須賀子
* 第8王子:朝香宮鳩彦王(1887年 - 1981年)

いや〜笑っちゃいますね、朝彦親王は父の邦家親王と同様に相当な精力家であり、若年時には神社の巫女を孕ませるなどの逸話を持つ。還俗してからも子を多く作った。今上天皇以下の皇族は、香淳皇后を介して朝彦親王の血統を継いでいる。

香淳皇后とは昭和天皇の妻=良子のことです。


③久爾宮朝彦親王の4人の子の内、2男と4男と結婚した『島津』『鍋島』、各々の子が、日、韓の王様の妃になった事を確認しましょう。


ここで、大変ですがマウントバッテンの記事同様、この家系を遡りますと、当然では有りますが、中大兄皇子に辿り着きます。
ここでは即位順に書きます。家系図はWikipediaを見てください。
(38)天智天皇(中大兄皇子)ーー(39)弘文天皇(大友皇子)ーー(40)天武天皇(大海人皇子)ーー(41)持統天皇(天武天皇后)ーー(42)文武天皇ーー(43)元明天皇ーー(44)元正天皇ーー(45)聖武天皇ーー(46)孝謙天皇ーー(47)淳仁天皇ーー(48)称徳天皇ーー(49)光仁天皇ーー(50)桓武天皇ーー(50)桓武天皇ーー(51)平城天皇ーー(52)嵯峨天皇ーー(53)淳和天皇ーー(54)仁明天皇ーー(55)文徳天皇ーー(56)清和天皇ーー(57)陽成天皇ーー(58)光孝天皇ーー(59)宇多天皇ーー(60)醍醐天皇ーー(61)朱雀天皇ーー(62)村上天皇ーー(63)冷泉天皇ーー(64)円融天皇ーー(65)花山天皇ーー(66)一条天皇ーー(67)三条天皇ーー(68)後一条天皇ーー(69)後朱雀天皇ーー(70)後冷泉天皇ーー(71)後三条天皇ーー(72)白河天皇ーー(73)堀河天皇ーー(74)鳥羽天皇ーー(75)崇徳天皇ーー(76)近衛天皇ーー(77)後白河天皇ーー(78) 二条天皇ーー (79) 六条天皇ーー (80) 高倉天皇ーー(81) 安徳天皇ーー (82) 後鳥羽天皇ーー(83) 土御門天皇ーー(84) 順徳天皇ーー(85) 仲恭天皇ーー(86) 後堀河天皇ーー(87) 四条天皇ーー
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④久爾宮朝彦親王の父、伏見宮邦家。伏見博明氏がモービル石油顧問であり、スメラミコトを継ぐ血筋と称する理由を考察しましょう。

上の系図のように、伏見宮から良子(昭和天皇妃)の父である久爾宮も、李朝に方子を嫁がせた梨本宮も出ています。

従って双方を操るマスターマインドが伏見宮であると見えてしまいますが、実態は、”名前が出せない重要人物”が持っていた役割の全部を把握してる訳でもなければ、昭和天皇側を思う様に操った訳でもありません。

この、”名前が出せない重要人物”が、名無し先生も実際に会ってお話をしたことが有る、マックアーサーにより米国高官の父と養子縁組され、米国籍になった人物で、この円組は表の皇室の了解を得て為されたものです。

この、”名前が出せない重要人物”は、コミュニスト側の世界最高評議会議長、ベトナム戦争終結頃の司令官、インターポール長官等の国際的要職に就きました。

3つの世界最高評議会と称する、コミュニスト側の組織の一つの議長だった。

この、”名前が出せない重要人物”は終戦後、ベトナム戦争への協力をしたアジア・メーソン人脈に礼として、金、現金等を米軍基地の配送ルートを密かに利用し送っています。このルートは良からぬ物の交易にも使われた訳です。

よって、伏見博明氏がモービル石油顧問であり、スメラミコトを継ぐ血筋と称するのは、

北朝側の勢力でトップに祭り上げられていただけで、その仲間内では、実は全部スメラミコトである北朝トップが操っているんだと吹き込まれていたに過ぎません。


⑤信長の時代の前後には日本にも到達してしていたイエズス会の起源を、スペイン王国の成立から考察しましょう。


名無し先生のアドバイス通り、過去のコメントを見てみましょう。

スペイン王国とは、1469年、アラゴン王太子フェルナンド(後のフェルナンド2世)が
カスティーリャ王女イサベル(後のイサベル1世)と結婚し、
1479年にはアラゴン王国とカスティーリャ王国の同君連合が形成され成立した王国です。
ローマ教皇アレクサンデル6世はこの2人を「カトリック両王」と呼んだ。

この一時代前のアラゴン王国は・・・
アラゴン王家はバルセロナ伯家と通婚を重ね、1137年にアラゴン王ラミロ2世の一人娘
ペトロニーラ女王とバルセロナ伯ラモン・バランゲー4世の結婚により、両家の連合が成立した。
2人の間の子アルフォンソ2世以降はバルセロナ家の君主の下に統合された。
こうしてアラゴン連合王国と呼ばれる同君連合が成立した。

バルセロナ伯領とは・・・
801年にカロリング王朝のルイ敬虔王が南フランスからピレネー山脈を越え、
イベリア半島北西部のバルセロナをイスラム教徒から奪回したのが始まりである。
フランク王国のスペイン辺境伯領として成立しバルセロナ伯領(カタルーニャ君主国)となった。

フランク王国とは・・・
カール大帝のもとで最盛期を迎えた。
西ヨーロッパの大半の政治的統一を達成、ライン川以東のゲルマン人のキリスト教化、
古典分化の復興などを進め、"カロリング・ルネッサンス"を行なって
中世以降のヨーロッパ文化発展の基礎を作った。
800年には教皇レオ3世により西ローマ帝国の帝位を戴冠され、西ローマ帝国はフランク王国として復活した。
カール大帝の子ルートウィヒ敬虔王の死後、帝国は3人の子によって相続争いの末に分割され、
それぞれ後のドイツ・フランス・イタリアとなる東フランク・西フランク・ロタリンギアとなった。
フランク族は民族大移動による混乱を収拾し、ヨーロッパの政治的・文化的な統一を果たし、
西ヨーロッパ最初のキリスト教統一国家として、のちのヨーロッパの国家や制度の母胎となった。

イエズス会のNo.1のイグナチオ・デ・ロヨラは、ロヨラ城で生まれ、
1506年に親戚の騎士でカスティーリャ王国の財務官を勤めていた
フアン・ベラスケス・デ・クエラルの従者となった。

イエズス会のNo.3のフランシスコ・デ・ザビエルは、スペインのナバラ州、
パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。
父は1515年カスティーリャ=アラゴンに併合された、ナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務めた。

なるほど、フランク王国はのちのヘッセン州。
つまりロスチャイルドの始祖に最初に金庫番をさせた御主人様ヘッセン方伯の地。
そしてスペイン辺境伯領としてバルセロナ伯領を送り込み、その子分の中に、イエズス会の立役者2人がいたという事ですね。

イエズス会がコミュニストの一部で、フリーメーソンもそうだということが分かります。


⑥文明の時系列に基づく推移から、どの勢力が洗脳をした側であるか、冷静に考察しましょう。


これは書く事も無いと思いますが、当時、ヨーロッパがはるかに進んでいたことは言うまでも有りません。

武器や造船技術、貿易手法、経済システム等々、手品か魔法みたいなものを日本に持ち込んだんですよね?

この場合、どっちが洗脳する側ですか?

手品師ですか?観客ですか?

魔術師が普通の人に洗脳されますか?

当然、洗脳したのはイエズス会の側、ヘッセン陣営に決まってます。

何回も書きましたが、イエズス会はヘッセンの手下。

コミュニストの一部です。

日本のカラス達は、若いうちにスペインに留学に行くんです。

イエズス会の教育を受けに・・・

これをイエズス会傀儡ではなく、イエズス会を支配し、バチカンを支配していると教えられてる連中がいるんですが、はっきり言って、大爆笑です!!

信長の時代にイエズス会洗脳を受けた九鬼家や大本を使い、世界を支配してる事になっちゃうんですから笑えるでしょう?

日本は世界の雛型だと洗脳されてる。

大本じゃないですか、この考え方・・・ハッハッハッハ!!!!

私はこのブログで何回も、何回も、大本の理論を否定しています。

大本は世界支配なんてしていません。

新しいスメラミコト=伏見博明殿下の血を引く者???

ブワッハッハッハッハッハ!!!!

この記事は日本が世界のひな形であると言い、世界を支配しているともいう、ロマンチストの思考が間違いである事を真っ正面から証明したものですが、笑いすぎてお腹が痛くなったので、ここらで失礼します。

それでは。

【だいたい、徳川家康とは何者か?】

こんにちは、最近、個人的な問題で記事が書けずにいます。

フィリピン人との結婚をお考えの方は、相手の出自を辿ることをお勧めします。

兄弟は何人いて、職業、収入、両親はスペイン系なのか、中華系なのか、親戚に米国軍人は居るのか?

等々、綿密に調べないと、すべての冠婚葬祭の経済的負担を一人で背負い込むことになります。

一人海外青年協力隊になります(笑)。

もうこうなったら、笑うしか有りません。

家内には悪気は無いですし、周りに押し付けられ、かわいそうな境遇ですよ。

それを救えない私は甲斐性なしなのです。

日本男児として、ここはなんとか切り抜けてみせます。


さて、訳の分からない前置きが長くなりましたが、今回はショート記事で、徳川家康とは何者だったのか?


徳川家康=松平 元康
  |
松平広忠
  |
松平信忠
  |
松平長親
  |
松平親忠
  |
松平信光
  |
松平親氏
  |
松平信重(松平郷)

出自は確定できていない。『松平村誌』の「松平氏由緒書」では賀茂氏や鈴木氏の一族といわれる。『古代氏族系譜集成』は父・信盛を荒尾持頼と同一人物とし、また荒尾氏は在原氏の後裔のため、信重は在原氏であったとする。また「陰陽寮下司系図―加茂系図」(鈴木真年『百家系図稿』所載)では、信盛の父親は賀茂在信だとする。

延文5年(1360年)頃に家督を継いだという。貞治6年(1367年)、信盛の菩提所として足助氏出身の寛立を開山に寂静寺(現在の高月院)を開基した。

信重の家は弓馬や和歌に秀でた三河国中に知られていた有徳・富貴の者であったとされ、松平親氏とその配下・石川孫三郎ら一行が信濃国から碧海郡酒井村あるいは幡豆郡坂井郷を経て松平郷へ到来した。信重は親氏の和歌に通じた教養と武勇を評価して、その次女・水女の婿養子として松平郷を継承させた。

ここで3つの分かれ道に立つ事になります。

①『松平村誌』の「松平氏由緒書」では賀茂氏や鈴木氏の一族といわれる。

②父、松平信盛を荒尾持頼と同一人物とし、また荒尾氏は在原氏の後裔のため、信重は在原氏であったとする。

③また「陰陽寮下司系図―加茂系図」(鈴木真年『百家系図稿』所載)では、信盛の父親は賀茂在信だとする。

まず①ですが、賀茂氏や鈴木氏の一族と仮定して辿ってゆきます。

まあ、驚く事なかれ、いきなり下記の結論に行き着くということは賀茂という名前でわかります。

天神系(賀茂県主)

八咫烏に化身して神武天皇を導いたとされる賀茂建角身命[1]を始祖とする天神系氏族[2]。代々賀茂神社に奉斎し、山城国葛野郡・愛宕郡を支配した。子孫は上賀茂・下鴨の両神社の祠官家となった。また、賀茂県主は同じ山城国を本拠とする秦氏との関係が深い。

秦氏、賀茂氏は天孫系のはずでは?Wikipediaが間違っているの?

まあ、ここでは、その件は置いといて、秦氏の関しては相当量の情報を書きましたのでいいですね?

それともうひとつ

地祇系(三輪氏族)

大物主(三輪明神)の子である[3][4]大田田根子の孫大鴨積を始祖とする[4][5]、三輪氏族に属する地祇系氏族。大和国葛上郡鴨(現在の奈良県御所市)を本拠地とする。姓は君のち朝臣。

大鴨積は鴨の地に事代主を祀った神社を建てたことから、賀茂君の姓を賜与された[6]。なお、現在鴨の地にある高鴨神社の祭神である事代主や味鋤高彦根神(賀茂大御神)は賀茂氏が祀っていた神であると考えられている。

姓は君であったが、壬申の乱の功臣である鴨蝦夷を出し、天武天皇(684年)13年に朝臣姓を賜与された。

平安時代中期には陰陽博士の賀茂忠行を輩出し、その弟子である安倍晴明が興した安倍氏と並んで陰陽道の宗家となり、子孫は暦道を伝えた。賀茂忠行の子には家業を継いだ賀茂保憲や儒学者に転じた慶滋保胤がいる。

室町時代には、嫡流が勘解由小路家を称して堂上家となり代々陰陽頭を務めたが、戦国時代に断絶した。なお、庶流の幸徳井家は江戸時代も地下家として続き、江戸時代初期は陰陽頭を務めるが、幸徳井友傳の死後、安倍氏系の土御門泰福に陰陽道の宗家の地位を奪われ、中期以降は陰陽助を務めた。

安倍晴明は以前の記事にも書きましたが、陰陽寮という昔の役所に勤めていたのが、安倍晴明 で5字切り(ソロモンの五芒星)で表の公務員、陰陽師です。

これを一般大衆に布教する在野の表、陰陽師が蘆屋道満で9字切りでしたね。

役人側で裏舞台にいたのが5+1=六芒星で賀茂神社、『賀茂忠行』 が齊王制度に齊院を加えた。

ダビデ紋=カゴメ紋

9字切りの方を引き継いで、九鬼家が出てくるので、家紋が9つの○なんです。

その裏方が9+1=10の○を家紋とする出口家になり、裏9字切り=10字切りで大本。

主旨は、明治以降、神道が乗っ取られたというだけの話ではないと云う事です。

明治維新以降に乗っ取られたとしか思っていない人が多いのですが、大昔のお話なんです。

天神、天孫、地祇、どちらにせよ、サントリーなんです。

三鳥居ですよ。

徳川家康はカラス家系だということになります。

安倍晋三氏との関係は・・・脱線するのでやめときます。

そして鈴木氏

鈴木氏の家紋

150px-Yatagarasu_A.jpg


鈴木を名字とする家の多くは穂積を本姓としており、熊野三山信仰と関係が深い。

穂積姓鈴木氏は熊野本宮の出身で、蟻の熊野詣でで知られる熊野本宮大社に詣でる信者たちの世話や指導をする熊野御師を筆頭に、神官を受け継ぐ家系である。

熊野本宮大社(くまのほんぐうたいしゃ)は和歌山県田辺市本宮町本宮にある神社。熊野三山の一つ。家都美御子大神(けつみみこのおおかみ、熊野坐大神〈くまぬにますおおかみ〉、熊野加武呂乃命〈くまぬかむろのみこと〉とも)を主祭神とする。

「熊野権現垂迹縁起」によると、熊野坐大神は唐の天台山から飛来したとされている。熊野坐大神(家都美御子大神)は、須佐之男命とされるが、その素性は不明である。太陽の使いとされる八咫烏を神使とすることから太陽神であるという説や、中州に鎮座していたことから水神とする説、または木の神とする説などがある。

熊野本宮大社の旗が笑えます。

Shrine_Kumano_hongu_torii01.jpg

こちらもカラスです。

次に②です。父、松平信盛を荒尾持頼と同一人物とし、また荒尾氏は在原氏の後裔のため、信重は在原氏であったとする。

荒尾氏をWikipediaで調べるといきなり九鬼家と同じ●が9個の紋章です。

120px-kuki.png

これ以上、探らなくて良いですね?家紋が家紋ですから。

そして始祖である在原氏を探ると、平城天皇、桓武天皇、光仁天皇、施基親王(志貴皇子)、天智天皇。

つまり、中大兄皇子となるのです。

この辺(平城天皇、桓武天皇、光仁天皇、施基親王(志貴皇子)、天智天皇)は、ネタの宝庫ですが、この記事の主旨から外れるの、今回は割愛させていただきます。

最後に③。また「陰陽寮下司系図―加茂系図」(鈴木真年『百家系図稿』所載)では、信盛の父親は賀茂在信だとする。

これは①、②に辿り着く結果になりますので、特筆しません。

で、大昔から続くこのカラス系譜が、徳川になり、その後も続きます。

家康以降の男系の松平家

* 越前松平家(美作津山藩および越前福井藩等)
* 会津松平家(陸奥会津藩)
* 越智松平家(石見浜田藩)
* 徳川御三家分家(御連枝。讃岐高松藩等)

近年の研究では以下の家系を松平姓であったとする[要出典]。

* 駿河徳川家
* 甲府徳川家
* 館林徳川家

また、水戸頼房は1636年(寛永13年)7月に徳川賜姓されるまで松平姓であった。

松平を称した大名

江戸幕府開府以降、徳川氏は松平氏と血縁関係のない有力大名にも松平の名字を名乗る許可を与えた。これらの大名は公的な場では松平姓を名乗り、本来の名字は使用しなかった。ただし、松平姓を名乗ったのは当主と将軍家への披露が済み、叙位任官を受けた世子に限られ、披露前の世子や一族は本来の名字もしくは別の名字を名乗った[5]。慶応4年の新政府命令により、これらの一族は本姓に復した。

家康の血縁により一族に准じた松平家

* 久松松平家 (異父弟の松平定勝系 伊予松山藩・伊勢桑名藩)
* 奥平松平家 (外孫の松平忠明系 武蔵忍藩)

松平氏の分家ではないが松平姓を許された譜代大名

* 依田氏(依田康国)
* 大須賀氏(大須賀忠政)
* 戸田松平家(信濃松本藩)
* 松井松平家(武蔵川越藩)
* 大河内松平家(三河吉田藩等、上述の十八松平の長沢松平家の養子)
* 鷹司松平家(上野吉井藩等)
* 本庄松平家(丹後宮津藩,越前高森藩→廃絶)
* 柳沢松平家(大和郡山藩)
* 菅沼松平家(美濃加納藩→改易)

松平の称号を与えられた外様大名家

* 「備考」欄の記載のうち、四品は四品(四位)以上に昇進する大名家、国持大名は国主、殿上元服は世嗣の殿上元服、賜諱は偏諱の授与をそれぞれ意味する。

家名  領国等 本来の姓 備考

松平家 加賀藩 前田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 越中富山藩 四品

松平家 加賀大聖寺藩 四品

松平家 仙台藩 伊達氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 薩摩藩 島津氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 長州藩 毛利氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 筑前福岡藩 黒田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 安芸広島藩 浅野氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 広島新田藩

松平家 肥前佐賀藩 鍋島氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 備前岡山藩 池田氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 因幡鳥取藩 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 鹿奴藩(鳥取藩支藩)

松平家 若桜藩(鳥取藩支藩)

松平家 播磨山崎藩→福本藩 一時期、交代寄合(旗本)となる。

松平家 赤穂藩 四品。後に改易される。

松平家 平福藩 

松平家 阿波徳島藩 蜂須賀氏 四品・国持大名・殿上元服・賜諱

松平家 土佐高知藩 山内氏 四品・国持大名

江戸時代初期に廃絶した以下の大名家も松平の称号を与えられていた。

家名    領国等       本来の姓   備考

松平家  越後高田藩        堀氏    賜諱

松平家  陸奥会津藩→伊予松山藩  蒲生氏  従三位宰相・賜諱

松平家  伯耆米子藩        中村氏  従四位下・賜諱

ショート記事のはずが、私の編集能力の無さから、またまた長文になってしまいました。

今回は徳川のルーツはカラス、イエズス会ということだけで終わらせます。

ここから、もう一方の勢力について書かなければならないのですが、さわりだけ書きます。

松平 信子(まつだいら のぶこ、明治19年(1886年)7月 - 昭和44年(1969年)5月8日)は、松平恒雄の夫人である。侯爵鍋島直大の四女、娘に秩父宮妃勢津子、姉に梨本宮妃伊都子がいる。

梨本 伊都子(なしもと いつこ、1882年(明治15年)2月2日 - 1976年(昭和51年)8月19日)は、日本の元皇族。旧名は鍋島伊都子。梨本宮守正王の妃。皇族女性随一の美人と謳われた。妹に松平信子。お印は桂[1]。

その夫は

梨本宮守正王(なしもとのみや もりまさおう、1874年(明治7年)3月9日 - 1951年(昭和26年)1月1日)は、日本の皇族、陸軍軍人。官位は元帥陸軍大将大勲位。大韓帝国最後の皇太子である李王垠の岳父。

その娘、梨本規子と方子。

李 方子(り まさこ、朝鮮語: 이 방자〈イ・バンジャ〉、1901年(明治34年)11月4日 - 1989年4月30日)は、日本の元皇族。梨本宮家に生まれ、旧大韓帝国の元皇太子で日本の王公族となった李垠の妃。

その配偶者が李氏朝鮮の李根ということです。

その息子が李玖。

李 玖(り く/イ・グ/이 구、1931年12月29日 - 2005年7月16日)は李王垠の第二子。父は大韓帝国の元皇太子で李王、母は日本の皇族である方子女王。王公族としての身位は王世子、敬称は殿下。なお、今上天皇は共に久邇宮朝彦親王を曾祖父とする又従弟に当たる。

1931年(昭和6年)12月29日午前8時22分、李王垠とその妃方子女王の第二子として誕生。兄晋は夭折していたため、玖が王世子(李家当主(=李王)の嗣子に与えられる位)となった。翌年1月4日、命名式が行われ「玖」と名付けられた。

第二世界大戦後、日本国憲法施行に伴い王公族の地位を喪失する。

伏見宮博明王(皇籍離脱後は伏見博明)とは幼少時から親しく、ともに戦後は米国への留学を熱望するようになった[1]。学習院高等科卒業後、アメリカのマサチューセッツ工科大学に留学して建築学を学び、1958年(昭和33年)10月、ヨーロッパ系アメリカ人女性のジュリア・マロックと結婚してアメリカに帰化した。

1963年(昭和38年)、両親の韓国帰国に際して同行。両親・夫人とともに昌徳宮楽善斎に居住し、同国の実業家になったが、経営していた新韓航空が1979年(昭和54年)に倒産。以後は日本(主に東京)で生活を送る。子が無いことから、韓国の李氏宗親会等の勧めで1982年(昭和57年)にはジュリア夫人とも離婚した。なお、1969年(昭和44年)に養女ユジニア(Eugenia Unsuk、1959年 - )を迎えている。

1996年(平成8年)、全州李氏大同宗約院の総裁に就任したことで、韓国へ永住帰国。しかし事業への失敗等から再び日本へ戻り同族会からの援助で生活を送るが、やがて送金が停止される。

2005年(平成17年)に知人の援助を得て、かつての李王家邸であった赤坂プリンスホテルに宿泊するが、滞在約1ヶ月が経過した2005年(平成17年)7月16日、心臓麻痺のため同ホテルで死去。前述の通り、子が無かった為、李王垠とその妃方子女王の直系子孫は断絶した。

葬儀は7月24日、ソウルで行われた。葬儀には李海瓚国務総理、兪弘濬文化財庁長官、国会議員など多くの韓国政府要人や、日本からも玖の従兄弟にあたる人物などが出席した。追号は全州李氏大同宗約院によって「懷隱(ホェウン)」と決まった。

李玖の伯父・義親王李堈の孫にあたる李源が彼の養子に指名され[2]、李家を継ぐことが全州李氏大同宗約院にも承認されていたが、女帝を主張する李海瑗との間で係争となっている。李源はヒュンダイホームショッピングの児童スポーツ部長である。

李晋

李 晋(り しん、1921年8月18日 - 1922年5月11日)は、李垠の第一子。母は日本の皇族・方子女王。敬称は「殿下」。

生涯

1921年(大正10年)8月18日未明、李王世子垠と妃・方子女王の第一子として誕生。誕生に当たり、敬称に「殿下」を用いることが定められた。朝鮮の王族と日本の皇族との間に生まれたため、「日鮮融合」の象徴として注目された。同月24日に「晋」と命名された。誕生して間もなくは乳母が置かれたが、やがて母・方子女王自ら母乳を与えるようになった[1]。

1922年(大正11年)4月、李王世子夫妻は生後8ヶ月の晋を連れて朝鮮を訪問する。晋と李王(純宗)との対面等が目的だった。晋は帰国直前の5月8日早朝から下痢・嘔吐が始まり、一行は帰国を中止。食事を受け付けず衰弱していき、同月11日15時15分、晋は急逝する。晋の死は急性消化不良と診断された。

その一方で、日朝双方による毒殺説が流布している。帰国中止の第一報で、既に陰謀説が報道された[2]。さらに、死去直後にも現地(京城)では「報道する自由を持たない」内容の流言が飛び交っていると報じられた[3]。

同月17日、朝鮮式での葬儀が京城(現ソウル)で執り行われ、京畿道商陽郡清涼里に埋葬された[4]。

ここまでがWikipediaの限界です。

実は、姉の規子が重要なのですが、彼女の情報が少な過ぎます。

梨本宮守正王の娘・規子。息子には守正王の養子となった梨本儀光がいる。

一人息子になってます・・・・本当は6人兄弟なんだけどな・・・

答えを知っているのに書けない。まるで数学の証明問題みたいですね・・・。

今回はここまで、それでは。


【ウィキで調べる暴力団(笑)② 児玉誉士夫とマッカーサー】

こんにちは、今回は【ウィキで調べる暴力団】の第2弾として、児玉誉士夫から書きます。

私はロッキード事件当時、まだ小学生でしたが、児玉誉士夫のことはよく覚えています。

お爺ちゃんだった印象しか有りませんが、とんでもないワルだったというのがWikipediaだけでも分かります。

今回はWikipediaの文章を丸々貼付けると長文になってしまいますので、抜粋で書かせていただきます。

児玉 誉士夫は、日本の右翼運動家。CIAエージェントであったとも言われる。暴力団・錦政会(後の稲川会。会長は稲川裕芳で、後の稲川聖城)顧問[4]。「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれた。

この男、ネタの宝庫です。

下記は、この記事を書く上で最低限必要な事項を挙げた物ですので、これ以外にも無数の事例があります。

最初社会主義に傾倒したが、その後超国家主義に転じ、玄洋社の頭山満に私淑した。

1937年、外務省情報部長河相達夫の知遇を得て、中国各地を視察[7]。1938年、海軍の嘱託となり、1941年から上海で児玉機関を運営し、それをきっかけに黒幕へのし上がっていく。

1961年、この全愛会議内に児玉に忠実な活動グループ青年思想研究会(青思研)が誕生した。日乃丸青年隊の高橋正義を議長とし、下部組織には住吉会系の元組長や東声会の町井久之が代表を務める組織があった。

1967年7月、後に統一教会系の反共団体・国際勝共連合の設立につながる、「第一回アジア反共連盟(世界反共連盟の地域団体)結成準備会」が笹川良一の肝煎りで、山梨県本栖湖畔にある全日本モーターボート競走連合会の施設で開催された。この時、市倉徳三郎、統一教会の劉孝之らが集まったが、児玉も自分の代理として白井為雄を参加させた。

1969年、青思研より独立した右翼団体日本青年社(前身は楠皇道隊)が結成。

これはヤクザと見分けが付かない任侠右翼の始まりであった。

まず、児玉の師匠であった、玄洋社の頭山満ですが、アジア主義者の巨頭。玄洋社の総帥です。

玄洋社は、日本における民間の国家主義運動の草分け的存在であり、後の愛国主義団体や右翼団体に道を開いたとされる。また、教え子の内田良平の奨めで黒龍会顧問となると、大陸浪人にも影響力を及ぼす右翼の巨頭・黒幕的存在と見られた。一方、中江兆民や吉野作造などの民権運動家や、大杉栄などのアナキストとも交友があった。また、鳥尾小弥太・犬養毅・広田弘毅など政界にも広い人脈を持ち、実業家(鉱山経営者)や篤志家としての側面も持っていた。

条約改正交渉に関しては、一貫して強硬姿勢の主張をおこない、また、早い時期から日本の海外進出を訴え、対露同志会に加わって日露戦争開戦論を主張した。同時に、韓国の金玉均、中国の孫文や蒋介石、インドのラス・ビハリ・ボース、ベトナムのファン・ボイ・チャウなど、日本に亡命したアジア各地の民族主義者・独立運動家への援助を積極的に行った。

このような人物です。

さらに出口王仁三郎との関係も深く、王仁三郎はアジアでの活動を重視して中国の軍閥や日本の右翼頭山満や内田良平と関係を結び、北京に「世界宗教連合会」を設立した。

これらアジア主義者とは、東アジアにおける日本の優位を前提にアジアの革命勢力を支援する思想に発展し、やがて日本を盟主としたアジアの新秩序構築(アジア・モンロー主義あるいは大アジア主義)、そして昭和研究会による「東亜協同体論」としての政策化、「大東亜共栄圏」構想へとつながっていく。1945年の日本の敗戦によって、近代アジア主義は終焉したとされる。

その後の国際的な地域統合の流れの中で生まれた「東アジア共同体」構想も、しばしば戦前・戦中アジア主義と関連付けて言及されることがある。

というふうにWikipediaには書かれていますが、実際のところは???

さらに、この記事で重要な登場人物を紹介します。

第三国人です。

この三国人は、今でも日本の問題児です。

弱者を装った、特権階級です。

「第三国人」という言葉が、一般の書籍や新聞等で多く使われたのは主に戦後の混乱期であり、朝鮮人をはじめとする「旧日本人」は、「降伏後における米国の初期対日方針」では解放国民とされた[7]。

1945年11月から1946年11月までは「難民」としてGHQによる帰還事業の対象とされた[8]。1946年11月からは「日本国籍」と看做されながら[8]、1947年5月2日からは外国人登録令により外国人として扱われた。また1946年2月から日本の司法権が適用される[8]など朝鮮系の人々は占領政策の転換のはざまで翻弄されつつ、多くの騒乱・衝突を引き起こし(代表的な例として、直江津駅リンチ殺人事件など)、民族教育を巡る対立も加わり[8]、「闇市」や「騒擾」をする「第三国人」と伝えられることが多くなった。

終戦後の在日朝鮮人について

「在日朝鮮人に対する措置」文書(1949年)にて、当時の総理大臣である吉田茂は戦後の在日朝鮮人に対して以下の見解を出している[13]。

* 彼らは 総数100万にちかく、その半数は不法入国。
* すべての朝鮮人がその母国たる半島に帰還するよう期待する。

その理由は次の通り。

* 現在および将来の食糧事情からみて、余分な人口の維持は不可能。
* 大多数の朝鮮人は、日本経済の復興に全く貢献していない。
* さらに悪いことには、朝鮮人の中で 犯罪分子が大きな割合を占めている。
* 彼らは日本の経済法令の常習的違反者 であります。多くは共産主義者ならびにそのシンパで最も悪辣な政治犯罪を犯す傾向が強く、常時7000名以上が獄中にいるという状態である。


一言で言うと、一応、戦勝国ということで朝鮮、中国、台湾から来て、日本社会に紛れ込んだ不良、犯罪者、鬼畜を第三国人といいます。


本当に残忍で無秩序な存在だったのです。いや、なのです。

これらを排除すべく、治安維持を任されたのが、当時、弱小であった警察ではなく、ヤクザだった。

戦後の混乱で無秩序化した日本で、暴力で好き放題をやっていた三国人たちから、日本の秩序を維持するには、ハムラビ法典では有りませんが、暴力で立ち向かう必要が有った。

三国人の暴力から日本人を守ったのは警察官ではなくヤクザだった。

三国人の悪行の詳細を知りたい方はこのリンクを読んでください。
http://www.geocities.co.jp/WallStreet/2463/sangokuzin.htm

それが、東映の任侠シリーズにみられる、現実の描写だといえます。

ヤクザ映画は意外と事実に基づいています。

笠原 和夫 (かさはら かずお) は、東京都出身の脚本家。

代表作に『日本侠客伝シリーズ』、『博奕打ち 総長賭博』、『日本暗殺秘録』、『仁義なき戦い』シリーズ、『県警対組織暴力』、『二百三高地』、『大日本帝国』、『226』、『浪人街』など。著書に『映画はやくざなり』『破滅の美学』など。

緻密で且つ徹底的な取材に基づき執筆された数々の作品は日本の映画史を語る上でどれも重要な地位を占めている。

新作映画の企画のため、飯干晃一を訪ねた笠原はあるヤクザの手記を見せられ、飯干から映画化を進められた。笠原は早速その筆者である元組長・美能幸三を訪ねたが、美能は「映画化を望んで手記を書いたわけではない」と映画化を拒否。笠原はこの企画を諦めたが、たまたま美能と笠原が海軍の大竹海兵団の一期違いである事が分かり、親しみをもった美能は「絶対に映画化しない」という条件で広島抗争の裏話を次々と披露した。笠原は早速帰京して脚本を執筆、翌年に早々と公開された。これが『仁義なき戦い』である。

深作は完成度の高い笠原作品を敬愛し、『県警対組織暴力』においては「脚本が完璧すぎて映画化できない」と弱音を吐いたという。


敗戦で日本はアメリカに支配されたと思いがちですが、この三国人時代が開花したと考えた方良いと思います。

国を支配するには同じ顔をした少数民族、被差別集団を利用し、乗っ取って行く。

これがヘッセン、ユダヤのやり方でしたね?

GHQも手を焼いていたいう三国人ですが、実のところ、三国人を利用していたのがマッカーサーだったという、信じられない事実があります。

キャノン機関

キャノン機関(キャノンきかん、the Canon Unit)とはGHQによる占領中の日本にあったGHQ参謀第2部(G2)直轄の秘密諜報機関。

本郷の旧岩崎邸に本部を構えたキャノンは26人のメンバーを組織した。その他にも多数の工作員を抱え、柿の木坂機関、矢板機関、日高機関などの日本人工作員組織を傘下においていた。

1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)への関与も疑われるようになった。


日本人工作員の採用は、元軍人などを戦犯免除と引き換えに協力者にした例もあったと言われる。

Wikipediaには書かれていませんが、マッカーサー側が日本国の内部構造を仕切る為に使っていたのがキャノン機関です。

マッカーサーが偉大な人物であったというのはマッカなウソ。

ギャンブル、売春、窃盗、恐喝といった犯罪を取り仕切るチンピラ同様のカス野郎だったというのが名無し先生の活動する世界での評価です。

その下部組織が児玉機関です。

児玉機関

1938年に日中戦争が始まった。翌1939年、外務省情報部の懇意の笹川良一の紹介で採用され、海軍航空本部の嘱託となった。1941年真珠湾攻撃の直前、海軍航空本部独自の物資調達の為に笹川良一が山縣正郷少将に紹介、その後任者が大西瀧治郎少将(当時)で、後に大西中将が自決する日まで、親しい間柄となる。(大西中将が自決に使った刀は児玉が贈った物といわれる。)それにより上海に「児玉機関」と呼ばれる店を出した。これは、タングステンやラジウム、コバルト、ニッケルなどの戦略物資を買い上げ、海軍航空本部に納入する独占契約をもらっていた。当初、現地で商事会社東光公司を経営していた水田光義の水田機関を通じて物資を調達していたが、水田機関のピンハネが余りにひどいことに気づき、これを排除。1943年、水田が暗殺される。これは児玉機関の仕業とされる。

この商社のような仕事はすでに三井、三菱などの大企業が入っていたが即決主義で集めたため現地では重宝された。よく、児玉はこの仕事でダイヤモンドやプラチナなど1億7500万ドル相当の資金を有するにいたったと言われている。アメリカ陸軍情報局の報告では、児玉機関は鉄と塩およびモリブデン鉱山を管轄下におさめ、農場や養魚場、秘密兵器工場も運営。ヘロインの取引の仲介もやっていたという。

この類の「○○機関」は当時大陸において非常に多く、前述の表の仕事と比して裏の仕事として中国側へのスパイ活動、抗日スパイの検挙や殲滅等を請け負っていた。一説には児玉が大陸で獲得したとされる膨大な資金はこれらの非合法な取締り(直接的には強盗殺害)によるものとされている。

児玉の行動について憲兵の監視はあったが、大西瀧治郎のような大物が庇護しているため逮捕してもすぐに釈放されるという結果となった。この間、1942年4月30日に行われた第21回衆議院議員総選挙(いわゆる翼賛選挙)に5人当選区の東京5区から立候補をして8位落選をしている。

「逆コース」


終戦後、児玉は児玉機関が管理してきた旧海軍の在留資産をもって上海から引き上げた。この海軍の秘密資金を米内光政海相の了承を得て掌中にしていた。講和内閣の首班として東久邇宮稔彦王が組閣した時には東久邇宮自身は児玉を知らなかったが内閣参与となっていた。1946年初頭、A級戦犯の疑いで占領軍に逮捕され、巣鴨拘置所に送られた。その間、アメリカは民主化のために右翼を処刑・追放する方針を180度変え、アメリカに協力的な戦犯は反共のために生かして利用する「逆コース」と言われる政治的変換を行った。

「1948年末、釈放された児玉は中央情報局(CIA)に協力するようになった」と後にアメリカでも報道された。2007年3月12日にアメリカの公文書館保管のCIA対日工作機密文書が機密解除されて公開されたが、それによると、児玉のことを「プロのうそつきで悪党、ペテン師、大どろぼうである。情報工作できるような能力は全くなく金儲け以外に関心がない」と評している。

「フィクサー」へ


第二次世界大戦の終結後に上海から持ち帰った資金(現在の時価にして3750億円)を海軍に返還しようとしたというが、この資金は、調べられれば、汚れた金であることがわかってしまう。それで、戦時犯罪の疑いをかけられたくなかった海軍は、児玉に処分を依頼。旧海軍の資産のためアメリカも没収せずに、宙に浮いた。児玉は、巣鴨拘置所に共にいた右翼でヤクザの親分でもある辻嘉六に勧められて、この資金の一部を鳩山ブランドの日本民主党(鳩山民主党)の結党資金として提供した。

1950年、北炭夕張炭鉱の労組弾圧のため明楽組を組織して送り込んだ。G2(アメリカ諜報担当・参謀第2部)と多くの暴力団の中心的仲介者としての地位を築き、十数年後には児玉は来たるべき闘争に備えて右翼の結集を目論んだ。暴力団との仲介には児玉機関にいた村岡健次が大きな役割を果たすことになる。

1954年には、河野を総理大臣にする画策に力を貸した。1955年には自由党(緒方自由党)と合併して自由民主党になった後も緊密な関係を保ち、長らく最も大きな影響力を行使できるフィクサー(黒幕)として君臨した。岸信介が首相になる際にもその力を行使した。

日米安保条約改定のため党内協力が必要となった岸信介は1959年1月16日、次期総理大臣を党人派の大野伴睦に譲り渡す誓約をすることになる。その立会人が児玉であり、河野一郎や佐藤栄作も署名した誓約書が残されている。

1960年、生前葬を行う。河野一郎や大野伴睦といった大物政治家や、力道山といった大スターが児玉のための葬儀に集まり、焼香した。

このようにして、児玉はマッカーサーの手下となり、戦後日本のフィクサーとなったのです。

戦後日本の復興を目的として歳入された資金はマッカーサーのキャノン機関、その下部組織である児玉機関へと渡り、民間には高利貸しとして普及していきました。

その借金のカタに娘を取られ売春婦になる、受け皿としてのトルコ風呂(ソープランド)のライセンスは、児玉が仕切っていたという構図が出来てきます。

当然認可は警視庁から出ますが、戦後すぐはGHQからで、その流れを組む勢力は、現在も警察庁、警視庁に存在すると云う事です。

警察が表に出られぬ部分を暴力団の各組がカバーし、所轄単位でもたれ合いを産む慣習が作られました。

当然これら組み関係を作って来た流れが黒竜会などから来ています。

おかしな話じゃ有りませんか?売春行為同然のソープランドが合法ですからね。

パチンコだって立派なギャンブルです。

パチンコ業界は在日が仕切っていて、その利益から北朝鮮への資金が調達されているのは有名な話です。

昭和は良かったという人がいますが、こうした暗黒の事実まで知った上で、昭和は良かったと言っているのでしょうか?

皆がそこまで分かって言っていない事は明らかで、知らぬが仏とは、正にこの事でしょう。

このように、日本はとんでもない犯罪の合法化が行われ、現在でも、犯罪放置国家なのです。

また、復興資金は民主主義を推し進める目的で歳入されましたが、この資金を一部の派閥だけの為に我田引水してきたのが昭和の歴史でもあります。

例えば、以前、日清製粉の記事でも書きましたが、東武鉄道は根津側=美智子妃殿下の正田家の為に敷かれたといっても過言ではありませんね。

これは日本に構築された”裏社会主義”を象徴しています。

一方、東急と西部の路線計画は主に一般庶民の住宅地(通勤圏)を拡大する施策として進んできた訳で、根津側の社会主義特権階級の為の独占物流線を確保したのとは目的を異にし、民主主義発展に貢献してます。

これは裏社会主義独占システム構築インフラと民主主義発展インフラの対決といえます。

両方の要素を持ち、内部に派閥を持っていたのが国鉄です。

1949年の国鉄三大ミステリー事件(下山事件・三鷹事件・松川事件)に関与したキャノン機関。

戦後日本のインフラが出来る時に、民主主義目的を立て前にしない限り、資金は歳入されなかったのです。

なので、建前だけ民主主義にして、特権階級の為の裏社会主義インフラ作りに悪用した連中がいたと言う事です。

それが天皇を担ぐカラスの方々という、日本国籍を持たない人達なのです。

それと、マッカーサーについて纏めます。

マッカーサー家は、アメリカ本国で大統領候補選に出たがっていたが出れず、フィリピン支配に精を出した一族。

太平洋戦争でフィリピン・マッカーサー帝国を犯した日本を目の敵にしていた。

学校で教わるマッカーサーの美談は真っ赤な嘘。

マッカーサーのキャノン機関の下部組織が児玉機関。

軍部の物資泥棒、トルコ風呂のライセンス等を有し、高利貸し、麻薬、売春等おきまりの小悪党。

米国内モンロー主義(欧州とは一線を画すべき)と反する動き。

基本的に、南部出身のマッカーサーは奴隷維持、麻薬栽培、親東インド会社。

ということです。

おまけです

児玉はインドネシアへの政府開発援助では東日貿易秘書としてスカルノ大統領の夜の相手に選ばれたクラブホステス根元七保子(源氏名はデビ、後の通称デヴィ夫人)を送り込んで荒稼ぎをしている。

まあ、デビーなど、どうでもいいのですが、一般方は何か勘違いしているようなので、とりあえず。

それでは。


【読者様へのお詫び】

こんにちは、いつも弊ブログを読んでいただき、ありがとうございます。

昨夜、皆様からのコメント通知が、半分ぐらい迷惑メールに入っていたことが判明しました。

コメントが入っていることがわからず、無視した形になってしまい、大変申し訳ありませんでした。

今後ともよろしくお願いいたします。

O'BRIEN

【アメリカを破綻させようとしている主犯格、日本 ー  乞食の精神】

こんにちは、今回は外貨準備について書こうと思います。

仮に中国や日本が一斉に国債を売った場合、アメリカはデフォルトに陥り覇権国の地位から転がり落ちるのでしょうか?

日本はアメリカから米国債を押し付けられ、買わされ続けているというのは事実なのでしょうか?

外貨準備はドルでしか持つことは出来ないのでしょうか?

これらの疑問に対する答えが今回の記事です。

まず、日本を例にしてお話をしようと思います。

日本は輸出大国ですので外貨を稼ぐ機会が多い訳です。

中国も同様の理由で、アメリカへの輸出が多いため、巨額の外貨準備を持っています。

中国 3兆3254億ドル
日本 1兆2958億ドル

上記は外貨準備をドル換算したものです。

そして下記は米国債の保有額です。

中国 1兆1701億ドル
日本 1兆1328億ドル

このデータを見て、おやっ?と思いませんか?

(データのソースが違うので、ズレがあるかもしれませんが、無視してください)

中国は外貨準備の1/3を米国債で持っているのに対し、

日本はほぼすべてを米国債で保有しています。

しかも中国よりも多く持っている。

中国は外貨準備の内訳を公表していませんので不明ですが、日本サイドのデータから日本国債保有額は296兆円だとわかります。

もちろんユーロ建てもある事でしょうし、また、金や金融商品もあることでしょう。

それにしても、中国の外貨準備における米国債の割合が、日本のそれとは大幅に少ない。

中国はアジアやアフリカなどの新興国の株主になっているようです。

日本はある意味、大量の米国債を持つ事で、米国の株主になっていますね?

これを世間では、ポチ日本がアメリカの言いなりになって米国債を買わされていると言われています。

果たして本当にそうなのでしょうか?

いいですよ、仮に米国債を買わされていると仮定しましょう。

現在の米国債は金利が安い、つまり、信用が有るということです。

普通、国債の金利が上がるという事は、それだけの金利を付けないと売れない、価値の無いものとみなされます。

そして日本は米国債を買い続けています。

一方、中国は少しずつ米国債の割合、額を減らしています。

ここで、日本という国の中枢は、どのような人達で構成されているのか考えてみましょう。

天皇陛下がいますね。

天皇に仕えるフリをした連中が居ます。

カラスの方々です。

そしてそのおこぼれをもらおうとする宗教団体がいるわけです。

宗教団体=乞食です。

昔、坊主が家々を回って、訳の分からない立場で食べ物をもらっていましたよね。

今でもありますね、お布施とか、賽銭とか、これが乞食の手法です。

(Wikipediaより)

乞食(こつじき、こじき)とは、

1. 本来は仏教用語で「こつじき」と読む。比丘(僧侶)が自己の色身(物質的な身体)を維持するために人に乞うこと。行乞(ぎょうこつ)。また托鉢。十二頭陀行(じゅうにずだぎょう)の一つで、これを清浄の正命と定める。もし自ら種々の生業(なりわい)を作(な)して自活することは邪命であると定める。
2. 上記の事項が転じて、僧侶でない者が路上などで物乞いをすることも乞食(こじき)と呼ぶようになった。ただし、現在は差別用語(放送問題用語)とされたため使用することはできなくなり、ホームレスと言い換えられることが多い。

Wikipediaにも書いてあります。

乞食とは元々は坊主が死なない為に人に物乞いをする事です。

至って健康な人間が、勝手に修行と称して精進すること。

これは彼らの勝手です。

これらの行動を美化したり、情けをかける必要は無いのです。

にもかかわらず、尊い事をしているフリをして世間に物をねだる。

この精神が乞食です。

弱者を装って、お情けを得る。

ここでフィリピンのお話をしますが、まあ、日本にも昔は多かったですよね、当たり屋。

ある車に狙いを定めて、死なない程度、ケガしない程度に飛び込んで、治療費や慰謝料を請求する乞食です。

いま、フィリピンで主流となっているのは、いかにも身体に障害がある人を集めて、タレントとして路上で物乞いをする組織です。

もちろん、親方がいて、彼らがすべて仕切っています。

子供を何十人もタレントとして採用し、路上で一日中物乞いをさせれば、ある程度の収入に繋がります。

これを組織化している元締めが居ます。

芸能プロダクションみたいなものです。

ちょっと話が脱線したように見えますが、脱線してませんよ。

これがきちんとした組織になったのが、宗教団体です。

しかも偉そうに上から目線です。

国の補助金は文科省を通って入ってきますしかし少額。

それ以外の裏資金をくれる処の言う事を聞くしかないんです。

カラスの資金運用部隊は、日本国体の維持と称して、儲けの1割をこれに使ってるんです。

そして、いざという時、皇室系の隠し子を預ける。

戸籍の無い人間達が、修行と称して住まう、隠れ家になる。

裏勢力のアジトになっている訳です。

この裏社会主義構造を維持する為には、5第大社は立派で、各仏教の本殿も立派で、視覚的歴史文化を維持する必要がある。

一般人への洗脳の為のセットです。ソロモン宮殿の様に・・・・

何千年もかけ、伊勢神宮とか神秘的なスタジオセットみたいな物を作り上げる。

日本全国にそれらがいっぱいありますね、なんとか神宮、なんとか寺、なんとか神社。

これらの宗教法人は文化財保護法とかで国からお金をもらっています。

それだけでは足りない(優雅な暮らしが出来ない)ので、入場料を取ります。

これで施設のメンテナンスをし、観光客を受け入れているのですから、ディズニーランドと変わらないアミューズメントパークであり、立派な商売です。

それなのに、無税なのです・・・

(Wikipediaより)

乞食の法令による禁止

* 軽犯罪法1条22号は、「こじきをし、又はこじきをさせる」ことを禁止している。
* 児童福祉法34条1項2号は、児童にこじきをさせ、又は児童を利用してこじきをする行為を禁止している。

(Wikipediaおわり)

特にろくな文化財も持たない宗教法人は課税対象とすべきです。

町のお寺のクソ坊主などもってのほかです。

葬式ぐらい無料でお経を唱える義務が有る。

ところが現実はお布施に応じて戒名もお経も変わるというのですから、神も仏も有ったもんじゃありません。

これら宗教法人の総本山が始祖カラスだということを認識したその日から、如何に馬鹿馬鹿しいことなのか理解出来る訳です。

カラスのおこぼれにたかる乞食集団=宗教団体です。

ヘッセン陣営の得意技=弱者に取り憑き利用する。そしてニセ弱者に金が流れるシステムを作る。

弱いふりをして、補助金を受けられるように持って行く。

いじめられている演出をして、お情けを頂戴する。

日本政府のスタンスと同じ。

アメリカにいじめられているように装って、実はアメリカに負担をかけている。

アメリカという大きな空母に乗っかっているのに反米を唱える。

そして、米国債を買い続け、さらに危険性を吹聴する事でアメリカに重しを付ける。

実は米国に重しをかけようとしたのは、日本側で、しかもそれを、国家が利息を払わなければならない米国債で保有しているのです。

これは超有名な話ですが、ロスチャイルドがワーテルローの戦いでナポレオン敗退の報をいち早く知ると、英国債の空売りによる暴落を誘導後に一転買占めた取引で巨額の利益を得て、英国金融界での地位を確固たるものにした。

これでロスチャイルドは英国を乗っ取る事に成功。

日本は米国に対して同じ事をやっているといえませんか?

ロスチャが英国にやったのと、同じ手法で、日本は米国債を買い占めています。

ネットでは、米国債破綻が盛んに騒がれています。

皆手放したくなりますね?

その裏で、日本だけはポチとか言われながらも、買い続ける。

ナポレオン当時の英国民が、英国が負けると情報流され、安くても英国債を売りまくった・・・

と同じように、日本人は米国債を売りまくる日が来るのでしょうか?

私が思い込みでこんなことを書いていると思いますか?

日本こそ、ヘッセン陣営に呑み込まれている当事国なのです。

こんなことをしている日本をコミュニストと呼ばずして、何と呼べは良いのでしょうか?

それでは。


追伸:今回は書きませんでしたが、外貨準備には、私たちの知らない驚愕の真実があるのです・・・

【吉野家、福島で米、タマネギ、白菜を生産 中間流通コストを省き3割安に】

吉野家、福島でコメ自社生産 被災地支援の狙いも
http://www.watch2chan.com/archives/33533242.html

吉野家ホールディングスが福島県でコメの生産を始める。
10月1日付で同県白河市の地元農家などと共同出資で農業生産法人を設立。
牛丼店の主要食材を安定調達するため自社生産のノウハウを蓄積するほか、 東日本大震災の被災地支援にもつなげる。
政府が推進する農地集約も追い風に外食業の農業参入が広がっているが、 外食大手が自社でコメ生産を本格的に手掛けるのは初めて。

 農業生産法人「吉野家ファーム福島」の資本金は1000万円で吉野家の議決権ベースの出資比率は49%になる。
2014年度からコメのほか店舗で使うタマネギや白菜も生産。
耕作放棄地などを借りて17年度までに約13ヘクタールまで農地を広げる。
コメは同年度には年間35トンの収穫を目指す。

 生産物は全量を吉野家が買い取る。
中間流通コストが省けることなどから、市場価格より3割程度安価に調達できるという。
業務用のコメ価格が高止まりする中、自社生産の技術を獲得する。

 農作物は県による放射性物質の検査のほか自社検査も検討し安全性を確認する。
農業生産法人では地元から雇用する考え。
大手企業の参入で被災地の農業再生に弾みがつく可能性がある。

 吉野家は09年に同法人「吉野家ファーム神奈川」(横浜市)を設立し、 神奈川県内の約4ヘクタールの農地でコメや野菜の試験栽培をしてきた。
来年度には黒字化のメドがたち、福島県でより大規模な農場運営に乗り出す。
 農業を成長分野に位置づける政府は都道府県が放棄地を借り上げ 農業生産法人などに貸し出す新制度を14年度にも導入する考えだ。
こうした流れを受けて農業を手掛ける民間企業が増えている。

(転載ここまで)


こんにちは、今回も予定を変更して企業の農業進出の記事をアップします。

それにしても、最近の日経新聞は有料になったのですね、マスコミの必死さが伝わって来て笑えます。

さて、記事にも有る通り、吉野家はすでに自社農場を持っており、今年度から黒字化の目処が立ったそうです。

この記事で重要なのは「中間流通コストが省けることなどから、市場価格より3割程度安価に調達できるという。」、この一文に尽きると思います。

このブログで主張している、農協などの既得権者をバイパスすることで市場価格より3割も安くなってしまう。

奥さん!3割ですよ!3割!

私は経営者では有りませんが、3割のコストダウンというのは夢のまた夢の話です。

逆に言うと、これだけの利益を誰かが得ていた訳で、アルビン・トフラーの記事でも書きましたが、民間が得られるはずの恩恵が既得権益層に吸い上げられていたということ。

この吉野家の場合、中間流通コストの削減がそのまま吉野家の利益になるか、客に還元されることになりますから、健全です。

自分たちの努力で収益を上げるのは企業の自由です。

価格を下げるのも強力な競争力です。

TPP反対派の主張は、TPPで外国から安価な米が入ってくるのですよね??

入って来るんじゃないんですか??

日本で3割も安く生産出来れば、入ってきませんよね??

TPPがどうのこうの言う前に、こうした産業の隠された”無駄=ブラックボックス”を削ぎ落とす事だけで競争力が大幅に付くということが証明されちゃいましたね。

論より証拠

机上の空論ではなく・・・

今回はこれだけです。

同時に3つの記事を仕上げている最中ですが、取り急ぎ、アップさせていただきました。

それでは。


【世界初の大型水素基地建設 手放しで喜んではならない ー 2013年4月20日名無し先生のコメント】

世界初の大型水素基地

千代田化工、燃料電池車向け 1日に4万台分、コスト3割安

2013/9/30付

 千代田化工建設は2015年度に川崎市で、世界初となる水素燃料の大型供給基地を建設する。エコカーの本命とされる燃料電池車に1日当たり4万台分に充填する量を供給でき、燃料コストを3割下げられる。投資額は300億円程度。燃料電池車はトヨタ自動車とホンダが15年に一般消費者向けの市販車を発売する計画だ。大阪ガスなども水素燃料の低コスト技術を開発している。燃料電池車の普及に向けたインフラが世界に先駆けて整うことになる。

(転載以上)

こんにちは、今回は昨日の日経新聞の一面記事に付いて書きます。

2009年からこのブログをやっていて、名無し先生から初めてコンタクトが有ったのは今年の4月頃でした。

その中に水素ガスに関してのコメントがありました。今回の日経新聞の記事が出る半年前のお話です。

このコメントの最後の部分が非常に重要ですので、記事としてアップさせていただきます。

先生は両手放しでは喜んでいられない未来に注意を促しています。

それはスマートメーターの存在。

是非、ご一読ください。

そして、このコメントには続きが有ります。

先生のコメントの後に転載させていただきますので、是非、読んでください。

13/04/20
タイトル:使用上の注意2

********************
前回と今回の記事をご覧に成り、やはり自給自足への道は険しいと悲観的に
お考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、日本の技術は解決策に最も近い所にいます。
風力、太陽光といった自然エネルギーが、一般の方にも最も利用しやすい道ですが、
その欠点は供給に安定性が低い事。しかし、この点を解決する技術は2015年を目途に解決される予定です。
汎用自然エネルギーが不定期に作り出したエネルギーにより、
水素ガスを作り、これを高圧で蓄えておくのです。
あとは必要な時に、水素ガスを元に電力、熱その他様々な形に変換するのです。
過去においては水素ガスを、安全に高圧で保存する事が出来ませんでしたが、
この部分が日本においては既に解消された事は、自動車メーカーの取り組みで、御存じですね。
特殊な技術開発無しに、ある程度の資金で誰でも取り組める、自立エネルギ・ーシステムです。
つまり、今回記事の様な失敗なしに、送電線もいらず高度自給自足を実現できます。
この方面での最先端技術国は日本ですので、それに付随する各産業も、
水素ガス置換システムに準じて、2015年を境に徐々に変化して行く事に成るでしょう。
金儲けに興味のある方は、これらの周辺産業の事業を立ち上げたり、
この分野での先端企業の株を買っておくのが良いでしょう。
また、こうしたエネルギー構造変革に準じた、新規産業の発展が、アベノミクス3本目の矢を
大きく後押しする事に成って行くでしょう。

そして、これは水素ガス自動車又は、水素ガスを電気に変換する装置としての自動車を
世に普及させることとなり、送電線の代わりが自動車と云う新たな社会形態に繋がる可能性を示します。
これらがトヨタ等を主体として、2015年には可能になりますので、
今回の円安も、すでに織り込み済みの長期に渡る計画の成果と云う事です。
エネルギーが安全性の高いものに変革され、産業もそれに付随して日本を中心に
変革されていくとなると、国民に見えぬ特権層もなかなか捨てたものではないという気がします。
しかし、ここで一つだけ注意すべきはスマート・メーターの存在です。
これら新たなエネルギーの仕組みを、一軒一軒に取りつけられる新たな双方向性メーターで
全てコントロールして行こうという計画が既に始まっております。
建前は、エネルギー需要が高い自治体、工場等に、あまり使っていない処から
融通できる様、中央コントロールシステムが調整してしまうという物です。
今までは、送られるだけの一方通行であった各戸のメーターが、操作次第では反対に送電する側に回されてしまうのです。
このシステムと縁を切るには、送ってもらう事も止めるしかなくなります。
ここが自給自足を選ぶかの分かれ目に成って行く事でしょう。

(コメントここまで)

(先生からのメール)

私が貴殿ブログに書いた、「使用上の注意」は、2015年を境に、日本のエネルギー構成の主体が水素ガスを使う物になる計画が具体的に進んできていると言う事。

◯◯資金の良い面の使い方と、特権者側にとっての、その中長期的目的です。

何年前から投資、研究、開発してくれば2015年に出来ると思いますか?

安全に高圧で水素ガスを貯蔵する技術は、現在既に70気圧です。

気体の状態で貯蔵して、電池型の蓄電の100倍以上に当たる電荷効率です。

2015年には300か所の水素ガスステーションも公費で出来ているでしょう。

この時に、一般家庭では屋根にソーラを積んで、農家や工場等、余っている用地を有する団体は、新たな流体力学に基づく風力発電が取り付けられているが、これらは民側が長期ローンによって取り付けた、東電電気料に代わる新たな鎖。

そして送電線の代わりに、トヨタ車が売れる、発送電分離。

各戸についたスマート・メーターを制御するコ ントロール・センターが電源開発の代わり。

世界に先駆け、日本は脱原発を成し遂げ、インフラ交換需要で中長期的に産業も上向く。

国民は自民党万歳!新装開店日銀万歳!

この成功パターンをインドを手始めに、アジア諸国にプラント輸出。

通産省のプログラムでインドでの開発企業は、既に決定済み。

エネルギーによる大東亜共栄圏構想が始まる。

国民が好景気に浮かれ始めた頃、各戸からの売電価格は最低になり、民にたまった貯蓄が放出され、収入の再分配が完了する。

各地域の総発電量を一定以上に保つ為、一端自家発電装置を設置した場所は継続しなければならぬ法案/政令が採択され、地代無償の小型発電所をスマ ートメーターが管理する社会に代わる。

勿論、新手法の大型発電システムは特権者が管理し、高価で公的電源管理機構が買い取る仕組みが出来上がるのでしょう。

結局「功罪、相半ばする。」結果に落ち着くと言う事です。


*ちなみに◎●◎は以前お伝えした、天神系側の奉公衆が作る協会の主たるメンバーの一つです。◯◯産業、●×電機等もその一つです。

(メールここまで)

以前の記事にも書きましたが・・・(転載開始)

今までは、送られるだけの一方通行であった各戸のメーターが、操作次第では反対に送電する側に回されてしまうのです。

民にたまった貯蓄が放出され、収入の再分配が完了する。

各地域の総発電量を一定以上に保つ為、一端自家発電装置を設置した場所は継続しなければならぬ法案/政令が採択され、地代無償の小型発電所をスマ ートメーターが管理する社会に代わる。

勿論、新手法の大型発電システムは特権者が管理し、高価で公的電源管理機構が買い取る仕組みが出来上がるのでしょう。

結局「功罪、相半ばする。」結果に落ち着くと言う事です。

(転載ここまで)

手放しで喜んではいられませんが、かと言って、がっかりすることはないですよ。

まず、行き詰まった既存の産業を転換する好機になりますから、全体的に景気は良くなります。

そして、もっと重要な情報があります。

それは、水から水素を取り出す技術はすでにあるということ。

これが、高度自給時自足に転換出来るかどうかの分かれ道です。

それでは

★水から水素つくる新技術開発 広島大チーム

 次世代自然エネルギーとして注目される水素を、化学反応で水を分解させることで得る新技術を広島大のチームが27日までに開発した。反応には800~1500度の高温が必要とされてきたが、今回400度程度で実現。太陽熱や工場から出る廃熱を利用した水素生成を目指す。

 水から水素を得る手法としては電気分解がよく知られるが、高温での化学反応の方がエネルギー効率は高いという。

 反応は気化させた金属ナトリウムを触媒のように使って起こすが、ナトリウムを熱して蒸発させるのには高い温度が必要だった。

2012/11/27 20:38 【共同通信】 http://www.47news.jp/CN/201211/CN2012112701001701.html

★【日本の技術】水から生まれた新燃料 酸水素ガス http://www.youtube.com/watch?v=6Ts8CQNnjMw

★太陽エネルギーで水から直接水素を作る新技術、実用化目前

光触媒のナノ物質を利用して、太陽光を当てて水から直接水素を取り出す技術の研究が進んでいる。他のエネルギー源でいったん発電してから水を電気分解する従来の水素生成技術と比べて、費用が格段に下がると期待されている。化石燃料との競争力の目安はエネルギー変換効率10%とされるが、英ハイドロジェン・ソーラー社の『タンデム・セル』技術は、すでに8%を達成している。 http://wired.jp/2004/12/09/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%E3%81%A7%E6%B0%B4%E3%81%8B%E3%82%89%E7%9B%B4%E6%8E%A5%E6%B0%B4%E7%B4%A0%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%82%8B%E6%96%B0%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%80%81/

★海外技術/カナダ大、低コストで水から水素と酸素作り出す新手法

掲載日 2013年04月04日
  カナダ・カルガリー大学のカーティス・バーリングエット准教授らの研究チームは、アモルファス(非晶質)金属材料を触媒に使い、水から水素と酸素を低コストで作り出す手法を開発した。鉄、コバルト、ニッケルからなる金属酸化物の触媒で、これまでの高価な金属触媒と同等以上の性能ながら、触媒コストは1000分の1で済むという。米科学誌サイエンス電子版に掲載された。

  これまで主に規則正しい結晶構造を持つ触媒が使われていたのに対し、アモルファス触媒は構造が複雑で、水素や酸素の発生反応を促進する効果が高いという。用途としては風力発電や太陽電池での余剰電力の活用を見込む。余った電気で水を電気分解し水素や酸素の形で貯蔵する方が、バッテリーに充電しておくより多くのエネルギーを蓄えられるためだという。

http://www.nikkan.co.jp/news/nkx0820130404eaae.html

★英企業、水と空気からクリーン燃料作る新技術を発表


22.10.2012, 18:00

英国で世界初となる「空気製ガソリン」が製造された。リア・ノーボスチがThe Independent紙からの引用とともに伝えた。この将来性ある新技術はAir Fuel Synthesis社が開発したもので、開発者の弁によれば、エコロジーの観点からクリーンな燃料の、将来における大量生産につながるものだ。

現段階では、イングランド北部のティーサイド市にある同社の研究者らは、3ヶ月かけてわずか5リットルの合成ガソリンしか得られていない。

新技術は空気中から有害な炭酸ガス、水中から水素を取り出し、特別な反応を用いてそれらを結合させ、エタノールを生成する。メタノールが将来のガソリンになるのだ。同社では燃料の生産に太陽エネルギーを用いることが検討されている。100%天然の素材で次世代ガソリンが得られるようにするためである。

Air Fuel Synthesis社は、2年間でより効率の良い装置を開発し、一昼夜で1リットルの燃料が得られるようにしたい、としている。



【ウィキで調べる暴力団(笑) 東京タワーが建てられた本当の理由】

こんにちは、今回は読者の方からのご質問にお答えする記事になります。

今回の記事はほとんど加筆することなく、Wikipediaだけで纏めています。

私は、Wikipediaに書かれている事が事実であるという事と、私が先生に教わった補足のみ、付け加えさせていただきます。

まず、小泉氏。

はっきりとヤクザの家系と書かれています。


(Wikipediaより)

■稲川会

稲川会(いながわかい)は、東京都港区六本木に総本部を置く日本の指定暴力団。構成員は約4700人。準構成員を含めると約9100人。

鶴岡政次郎網島一家五代目総長の代貸であった稲川角二が1949年に静岡県熱海市の山崎屋一家を継承するとともに「稲川組」を結成。それから各地に勢力を拡大しつつ、「鶴政会」、1963年に「錦政会」、1965年に「稲川一家」と順次改称。そして1972年をもって「稲川会」へ名を変えた。


* 小泉純一郎元首相の選挙対策本部長である竹内清(前神奈川県議会議長)は稲川会横須賀一家の系列組員であり、石井隆匡と非常に親しく、上下関係の厳しいヤクザの世界にあって葬儀で最初に焼香するなど、肩書きこそ堅気という事になってはいたが非常に密接な関係であった。また息子の小泉進次郎と共に写っている写真が掲載されるなど、小泉父子の選挙区であり、横須賀一家の本拠地でもある神奈川県横須賀市では、両者の結びつきはきわめて強い。


■小泉組(こいずみぐみ)は現在の神奈川県横須賀市で活動していた土木請負業であった。小泉又次郎は、口入れ屋家業から土木請負業の“小泉組”をつくった。港湾都市から勃興した近代的なヤクザ組織の代表格としても知られている。

概要

武蔵国久良岐郡六浦荘村大道(現在の神奈川県横浜市金沢区大道)のとび職、小泉由兵衛が明治初期、横須賀に移住し、海軍の軍艦に石炭、砲弾、食糧、労務者などを送り込む請負師となった。

作家の宮崎学によると、明治17年(1884年)に海軍鎮守府が置かれ、軍港として急速に発展した横須賀では「軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった」という。

当時の横須賀では目兼の大親分と小泉組が、沖仲仕の手配師として縄張りを競い合い、博徒たちのにぎやかな出入りがくり返されていたという。縄張り争いを制したのは、「近世以来の古い型の博徒」である目兼組を抑えた新興の小泉組であり、跡目を継いだ息子の小泉又次郎(小泉純一郎の祖父)がこの帰趨を決定的にした。宮崎は小泉組について、「吉田磯吉と同じ時期、同じ環境から生まれてきた近代ヤクザのひとつにほかならない」と述べている。

『人事興信録. 第9版』(昭和6年)によれば、小泉岩吉は神奈川県下の多額納税者に列し直接国税二千七百十八圓を納めている。

仕事の種別

* 建設業
* 沖仲仕
* 手配師
* 人材派遣

手がけた施設

* 横須賀海軍工廠

特に、第6船渠の建設に従事したことで知られる。同船渠は軍縮条約後の戦艦建造に備えて1935年建設が決定し、7月その掘削に着手した。この構築のため蠣ヶ浦一帯の丘を掘削し、土砂150万立方メートルを運び出して松ヶ原海岸と海兵団沖の埋め立てに使用された。1940年5月には艦艇の建造が一応は可能な程度に進捗し、大和型戦艦3番艦の信濃が起工された。太平洋戦争の戦局進展に伴い、空母への改造が決定、ほぼ完成までの工事を行った。閘門の取り付けは1942年である。戦後は他の施設同様米海軍に接収され現在に至る(詳細は上記項目参照)。

■小泉 由兵衛(生没年不明)は、日本のとび職人、請負師。神奈川県平民。

元逓信大臣小泉又次郎の父。元首相小泉純一郎の曾祖父。衆議院議員小泉進次郎・タレント小泉孝太郎の高祖父。

経歴

武蔵国久良岐郡六浦荘村(現在の神奈川県横浜市金沢区)の代々のとび職だったが、のちに横須賀に進出して、海軍に労働者を送り込む軍港随一の請負師になった。

明治17年(1884年)に海軍鎮守府が置かれた横須賀は、日清戦争(1894~1895年)から日露戦争(1904~1905年)にかけて軍港として急速に発展したが、ここでも、軍艦に砲弾や燃料の石炭、食糧などを積み込む仲仕の組織が発達し、これを仕切る仲仕請負からやくざ組織が生まれていった。

当時、横須賀でこの仲仕の仕切りでしのぎを削ったのが、博徒の目兼組と鳶の小泉組であった。

この縄張り争いは、近世以来の古い型の博徒である目兼組を抑えて、新興の小泉組が制していく。

そして、この小泉組を率いていた鳶の親方・由兵衛が跡目を継がせた息子の又次郎がこの帰趨(きすう)を決定的にし、小泉組は軍港のやくざとして一大組織を築くことになった。

又次郎は家業を嫌って家出をした。由兵衛は連戻された又次郎を怒鳴りつけて、「此(こ)の寧馨児(ねいけいじ)、よくも出奔(しゅっぽん)する。お前は長男だから何としても家を相続せねばならないのだ。今日限り魂を入れ替えて家業を継げ!」と厳命した。

明治20年(1887年)、又次郎は立憲改進党に入党した。由兵衛は「こうなっては仕方がないが、とうとう倅(せがれ)一人を台無しにした」と嘆(なげ)いたという。当時の又次郎は特に立憲改進党へのこだわりはなくシンパというわけでもなかった。たまたま由兵衛と親しかった戸井嘉作の誘いを受けての入党だった。

小泉家

(神奈川県久良岐郡六浦荘村(現横浜市金沢区)、横須賀市)

* 妻・徳(神奈川県平民、岡崎文五郎二女)
* 息子

又次郎(神奈川県平民、とび職人、小学校助教員、新聞記者、政治家)

金三


岩吉(神奈川県多額納税者、土木建築請負業) - 小泉組を継いだ。

兄・又次郎同様、背中にみごとな入れ墨を入れた岩吉は、又次郎の度重なる無心にもいやな顔ひとつ見せず、必要な金を必ず用立てたという。


(Wikipediaここまで)

ね、ちゃんと書かれていますよね?

次は住吉会について、これは名無し先生からの補足(ヒント)無しでは語れません。

名無し先生のヒント

「敗戦国である日本で、好き勝手をしていた、戦勝国側である、中国、韓国、台湾の在日不良達を、弱小であった日本警察の代わりに要請を受けて、治安維持、掃討、逮捕までを行った銀座警察=住吉会住吉一家大日本興業。」

これらのヒントを元に浮かび上がって来たのが、日本青年社です。


徹底的に反共主義です。


(Wikipediaより)


日本青年社(にほんせいねんしゃ)は、指定暴力団住吉会傘下の右翼団体。住吉会住吉一家小林会を母体とする。最高顧問は住吉会総裁・西口茂男。現在でも複数の議員を地方議会に送り続ける力量を持ち、単一団体としては日本最大規模。東京都港区六本木に総本部を置いている。

綱領

* 我々は高貴なる日本の国体と歴史に基づき政治と文教を粛正し国権と領土を回復して平成維新を実現し万世の為に大平を開く道義国家を建設する。


* 我々は祖国を愛する同胞の情熱と団結を以て内外の不正と戦い占領憲法とポツダム体制を打破し必ず国体を明徴にする。


* 我々は自らを厳しく戒め楠公精神を慕う若き日本人として勇敢にして礼儀正しく廉潔にして信義を重んじ己の任務に私心なく挺身する。

来歴

1961年(昭和36年)、右翼団体・楠皇道隊が発足。当初、日本最大の右翼団体であった全日本愛国者団体会議(全愛会議)内の、児玉誉士夫に忠実な実行部隊だった青年思想研究会(青思会)に加盟していた。その後、独立路線に転じ、1969年に日本青年社へ改称。日本最大規模の組織力をもって、各地の地方議会に議員を送った。

1978年には尖閣諸島魚釣島に灯台を建立。以後27年にわたる保守点検と実効支配に取り組み、2005年2月に政府の申し出を受け、国に無償委譲するに至った。

愛知県西尾市三ヶ根山頂上にある殉国七士廟の奉賛活動を行うなどもしている。

■住吉会(すみよしかい)は、東京都港区赤坂に本拠を置く博徒系指定暴力団。米政府より薬物や武器の密輸、人身売買等の犯罪に関与する国際犯罪組織と認定されている。

勢力範囲は1都1道1府16県、構成員は5,900人であり準構成員を含めると約12,800人。(2012年2月時点)

住吉一家を中心とする、歴代の住吉一家総長を重んじる組織である。

会内で住吉一家の傘下でない組織は幸平一家のみとなっている。

明治初期、初代“伊藤松五郎”が東京芝浦一帯で博徒「住吉一家」を結成したのがその前身としている。

組名は“伊藤松五郎”が東京日本橋"住吉町"出身であることからつけられた。

その後、横浜の沖仲仕であった阿部重作が1918年(大正7年)頃に東京都内を本拠地として『住吉一家二代目』を結成。

これを直接の起源とする。

以後、『港会』、『住吉会』、『住吉連合』、『住吉連合会』と順次改称、1991年(平成3年)をもって再び『住吉会』へと名を変え、西口茂男を首領に据えた。

「住吉一家」の唱える系譜では住吉町の爺さんと呼ばれた伊藤松五郎が初代となっている(異説あり)。

二代目を中里一家の出身で「今大前田」と呼ばれた倉持直吉(本名は荏田村秀)が継承。住吉一家の客分で、洲崎の武部申策をオヤジと呼んだ芝浦の高木康太の代貸であった阿部重作が1948年に三代目を継承した。

1962年、上萬一家貸元であった磧上義光が四代目を継承。

1967年、中里一家四代目・堀 政夫が五代目を継承。

堀は1982年、住吉連合代表住吉一家五代目総長から「住吉連合会」に改編して会長に就任。

1988年には同会総裁に昇格するが、1990年10月に病死した。

1991年2月、住吉一家向後二代目・西口茂男が六代目を継承し、住吉連合会を「住吉会」に改称して会長に就任。

1998年6月、西口が住吉会総裁に昇格。2005年4月17日、住吉会会長・福田晴瞭が七代目を継承。

(Wikipediaここまで)

ある意味、日本を守ろうとして活動している印象が強いのですが、裏ではやはり、警察権力との闇取り引き、敵であるはずの中・韓・台の不良どもとのドロドロの関係があり、パチンコ利権も絡み、すっかり飲み込まれ、本来の意味を無くしてしまったのが銀座警察です。

最後に山口組と四日市コンビナート

781px-Yamabishi.png


山口組(やまぐちぐみ[3])は、兵庫県神戸市に本部を置く暴力団で、日本最大規模の指定暴力団。 その構成員数は2010年の時点で約20,300人、準構成員数は約16,100人の合計約36,400人であり、その人数は全暴力団構成員・準構成員数約85,200人のうちの46.3%を占めている。[2]

組員は同年の時点で1名の組長(親分)、7名の舎弟(弟分)、79名の若中(子分)から成る計87人。組長を除き、これら86名の舎弟と若中は直参(直系組長)と呼ばれ、それぞれが数十人から数千人の構成員を抱える組織の首領となっている。

“山口”の二文字を菱形の意匠とした“山菱”(やまびし[4])と呼ばれる代紋を用い、広島県と沖縄県を除く45の都道府県に系列組織を置いている。

(中略)

山口組若中・組織委員 菱田達之 二代目愛桜会 三重県四日市市

Wikipediaには書かれていませんが、この話のポイントは、四日市が福井藩の所有地だったという事。

福井藩第14代藩主 松平春嶽の頃です。

この山菱=山口組が四日市のコンビナートを仕切ったということです。

これはさすがにWikipediaでは出ませんね。

富山藩が加賀藩の支藩であることが書かれたWikipediaの文章を下記に貼付けます。

越中:戦国末期には両国の前田利長と佐々成政が争った。その後羽柴秀吉により、越中は前田利長に与えられ、江戸時代の越中は加賀藩とその支藩である富山藩に統治されていた。

唐突ですが、東京タワーのオーナーは誰だったか?

東京タワーのオーナーは前田家です。

東京タワーの建主であり、管理ならびに運営は日本電波塔株式会社(にっぽんでんぱとう)が行っている。

1957年5月、「大阪の新聞王」と呼ばれ当時は産業経済新聞社、関西テレビ放送、大阪放送(ラジオ大阪)各社の社長を務めていた前田久吉により設立。久吉はタワーの完成とほぼ同時の1958年、産経新聞社を国策パルプ工業(現・日本製紙)社長水野成夫に譲渡してその経営から手を引いたが、東京タワーとラジオ大阪の経営には引き続き携わった。この結果、日本電波塔は当時の産経新聞グループはもちろん、その後のフジサンケイグループからも完全に切り離されて前田家主導の同族企業となった。なおラジオ大阪も2005年にフジサンケイグループ入りするまで、前田家主導で独自の経営をしていた。

前田家は、安土桃山時代のキリシタン武将で有名な前田氏の加賀藩での家柄。

加賀前田家、美濃前田家、 尾張前田家 (与十郎家)、 尾張荒子前田家とあり、系譜として、尾張荒子前田家、加賀藩本家、富山藩、大聖寺藩、大聖寺新田藩、七日市藩とある。

Wikipediaのキリシタン大名・キリシタン武将、ま行にも載っています。

* 前田秀以(パウロ) - 前田玄以の長男。
* 前田茂勝(コンスタンチノ) - 前田玄以の次男。

隠れキリシタン=イエズス会の後押しがあった。というのも当時、ザビエルがイエズス会から派遣されたという史実から、説明する必要は有りません。

後押しとは、軍艦や武器の輸入に関わっていたということ。

以前の記事に書きましたが、ジャーディン・マセソン商会横浜支店に養子に行った子が吉田茂です。彼の養子先は福井藩。

1881年(明治14年)8月に、旧福井藩士で横浜の貿易商(元ジャーディン・マセソン商会・横浜支店長)・吉田健三の養子となる。

ジャーディン・マセソン商会は小火器、ヴィッカ―ズは軍艦担当の武器商社コンビ。

‎ビッカーズ・アームストロング社は英国のロスチャ、ヘッセン系の軍艦製造業の会社です。

日本の軍艦「金剛」は、ビッカーズから三井物産を仲介として、福井藩が日本政府に売り付ける為、仕入れた。

そして、前田家という北陸は加賀藩の田舎大名が東京タワーのオーナーになる程の力を持っている。

加賀藩、福井藩、富山藩、共にイエズス会の後押しで軍艦や武器の輸入を商売にしていた。

福井藩と加賀藩の支藩である富山藩。

本家は加賀藩。

吉田家は大久保利通の親戚筋です。

大久保利通の息子、牧野伸顕の長女・吉田雪子が元総理大臣吉田茂の妻です。

あまり知られていませんが、別々に考えがちな薩摩藩と福井藩ですが、婚姻関係で、繋がっているのです。

しつこいですが、ジャーディン・マセソン商会横浜支店に養子に行った子が吉田茂。

イエズス会が常に背後にいる。

GPSの無い時代、日本には東京タワー(333メートル)より高い電波塔として他に、対馬にオメガタワー(455メートル)、小笠原南鳥島にロランタワー(411メートル)というものがありました。

これら2つの塔は軍事目的の電波塔だということは説明の必要は無いと思います。

その証拠に、GPSの普及に合わせて2塔とも、取り壊されています。

では、東京タワーはどうだったのでしょうか?

当然ですが、記述の2つの塔同様、東京タワーも軍事目的で立てられたのです。

朝鮮戦争の時、ちょうど間に山があって電波が飛ばなかったから。

朝鮮戦争が終わった後も、米軍艦は富山湾に監視の為、駐留しました。
前田が東京タワーのオーナー。

徳川幕府が終わる時の数々の戦争に、武器供給をした商社は前田を挟んだ福井、富山。

朝鮮戦争に米軍が行く時も富山湾から出る。

富山湾の米軍艦と横須賀基地の通信をする為に東京タワーを建てた。

日本で最初の頃の石油コンビナート基地である四日市は福井藩の飛び地(所有地)

これが事実ですから、ちゃんと計画があって物事は進むんです。

燃料補給もちゃんと考えて。

それでは。


【ショッカーのアジトはロンバルディア 聖書は王族のルーツ証明書】

こんにちは、前回の予告からずいぶん遅い更新になってしまいました。

サラリーマンですので、くだらない付き合いや仕事多く、ブログがはかどらないという言い訳で許して下さい。

(仮面ライダー、次回予告)

【ショッカーのアジトはロンバルディア】

ロンバルディアは、ヨーロッパの歴史を語る上で欠かせない場所です。

ここでフランク王国時代のイタリア貴族エステ家、ヴェルフ家から、ヘッセンまでの血縁を見てみましょう。

すべての家系図を書くと、とてもではありませんが、記事になりませんので、直系のみ掲載します。

エステ (Este) は、人口16,859人のイタリア共和国ヴェネト州パドヴァ県のコムーネの一つである。ゲルマニアのランゴバルド人の血統のイタリア貴族エステ家の家名の由来の地である。(ランゴバルド=ロンバルディア)

このエステ家の始祖、アルベルト・アッツォ2世・デステからヴェルフを含むヘッセンまでの直系の系図です。

アルベルト・アッツォ2世・デステ  フルク4世・ダンジュー
     |                |
   ヴェルフ1世         フルク5世・ダンジュー
     |                |
   ハインリヒ9世          ジョフロワ4世
     |                |
   ハインリヒ10世         ヘンリー2世
     |                |
   ハインリヒ獅子公ーーーーマティルダ・オブ・イングランド
             |
      _______|___
     |           |
   オットー4世      ヴィルヘルム
                 |
               オットー1世
                 |     
  アーデルハイト(1244–1274) - ヘッセン方伯ハインリヒ1世と結婚

それよりもっと古い、フランク王国カロリング朝の時代に、ルートヴィヒ1世(ドイツ語:Ludwig I, 778年 - 840年6月20日)は、ヴェルフ家の819年、シャッセンガウ伯ヴェルフ(ヴェルフ家出身)の娘ユーディト(795年 - 843年)と再婚。シャルル1世(823年 - 877年) - 西フランク王、西ローマ皇帝を生んでいます。

ピピン1世(大ピピン)
  |
 ベッガーーアンゼギゼル(メス大司教アルヌルフの息子)
     |
 ピピン2世(中ピピン)
     |
 カール・マルテル
     |
 ピピン3世(小ピピン)
     |
カール大帝ーーランゴバルド王国の王女デジデリア
     |
ルートヴィヒ1世 (フランク王)ーーエルマンガルド・ド・エスバイ
 _____________|________
|          |           |
ロタール1世    ピピン1世     ルートヴィヒ2世
西ローマ皇帝   アクイタニア王    東フランク王
中部フランク王  

その後、ヴェルフ家の女性と再婚

ルートヴィヒ1世 (フランク王)ーーヴェルフ家出身の娘ユーディト
     |
シャルル1世(823年 - 877年) - 西フランク王(現在のフランス)、西ローマ皇帝

(Wikipediaより)

ヴェルフ家が歴史に最初に顔を出すのは9世紀初めのことである。ヴェルフ家のシャッセンガウ伯ヴェルフはバイエルンの有力貴族であり、その娘ユーディトはカロリング朝の皇帝ルートヴィヒ1世に嫁いでいた。ルートヴィヒ1世は817年に帝国整序令を発し、長男ロタール1世にイタリアと帝位を、次男ピピンにアクィタニアを、三男ルートヴィヒ2世にバイエルンを与えると決めていた(以上3人の息子はユーディトの子ではない)。

ところが823年にユーディトが四男カール(シャルル)を生み、ヴェルフ家は彼にも領土を要求する。ルートヴィヒ1世もこれに応えてカールにアレマニア、アルザス、ブルグントなど広大な領域を与えることに決めたため、カロリング朝は親子兄弟の相続を巡る内戦に陥ることとなった。この内戦は843年のヴェルダン条約で決着し、この時既に亡くなっていたピピンを除く3兄弟がフランク帝国を分割することとなった。
       
ヴェルフ家とは、バイエルンを拠点とした女街の出自と言われています。

教皇派と皇帝派に分かれて争っていた頃、当初教皇派であり、後に皇帝派にもなる家系です。

このヴェルフ家の娘ユーディトがフランク王国皇帝ルートヴィッヒ1世と結婚。

823年に後妻のユーディトがカールを生みます。

そこでヴェルフ家も領土を主張し始めます。

これが領土争いの原因になりイタリア、フランス、ドイツ等になっていったのです。

また、後の時代のヘッセン方伯ハインリヒ1世1247~1308の妻はヴェルフ家の人間です。

ヘッセン家と、ヴェルフ家の女性で、婚姻を繰り返してます。

バイエルンのヴェルフ家も1055年のケルンテン公ヴェルフ3世の死と共に断絶した。ヴェルフ3世の姉のクニグンデは9世紀から続くロンバルディアのエステ辺境伯アルベルト・アッツォ2世と結婚していたため、バイエルンのヴェルフ家はエステ家に相続されることになった(このためヴェルフ=エステ家(Haus Welf-Este)、またはヴェルフェン=エステ家(Haus Welfen-Este)ともいう)。

シュヴァーベンのヴェルフ2世の娘クニッツァ・ディ・ズヴェーヴィア(クニグンデ)、ロンバルディアのエステ辺境伯アルベルト・アッツォ2世との間に生まれた子供。

グエルフォ4世・デステ(ヴェルフ4世)(1035年/1040年 - 1101年) - ドイツ南東部に移りバイエルン公となり、子孫は後にハノーファーを拠点にしたヨーロッパ史上最も重要な家系の1つであるハノーヴァー朝(1714年にジョージ1世がイギリスの王位につく)を開いた(ヴェルフェン=エステ家、ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)。

ここ、非常に重要です。

ハノーヴァー家(House of Hanover)は、ドイツのヴェルフ家(ブラウンシュヴァイク=リューネブルク家)の流れを汲む神聖ローマ帝国の諸侯の家系で、1692年に成立したハノーファー公国(選帝侯国、後に王国)の君主の家系であったが、1714年にステュアート朝に代わってイギリスの王家となり、ハノーファーとイギリスの君主を兼ねる同君連合体制をとった。ハノーファーではサリカ法を採り、女子の継承を認めていなかったため、1837年のヴィクトリア女王のイギリス王即位をもって同君連合を解消し、ハノーファー王家はイギリス王家から分枝した。

1901年のヴィクトリアの死後は、夫(王配)であったアルバート公の家名を取って、サクス=コバーグ=ゴータ朝と称される。第一次世界大戦中に、敵国ドイツ帝国の領邦ザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠されている家名を避け、1917年に王宮の所在地ウィンザーにちなみウィンザー家と家名を改称した。これらは別項で扱うが、ヴィクトリアの血統が断絶したわけでないため、ハノーヴァー朝の継続と見なされることもある。

ウィンザー家は、ヴェルフ家を始祖とする家系という事です。

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ウィンザー家(House of Windsor)の元の家名(王朝名)はサクス=コバーグ=ゴータ家(House of Saxe-Coburg-Gotha)といった。これはヴィクトリア女王の夫(王配)アルバートの家名(その英語形)であった。アルバートはドイツのザクセン=コーブルク=ゴータ公エルンスト1世の息子であったが、この家系からはベルギー、ブルガリア、ポルトガルの王家も出ている。

第一次世界大戦中の1917年、ジョージ5世は敵国ドイツの領邦であるザクセン=コーブルク=ゴータ公国の名が冠された家名を避け、王宮のあるウィンザー城にちなんでウィンザー家と改称し、かつ、王家は姓を用いないとの先例を覆してウィンザーを同家の姓としても定めた。そのため、1917年以降は現在の女王エリザベス2世にいたるまでをウィンザー朝と称し、かつ、その構成員は(必要がある場合には)ウィンザーの姓を用いる。ただし、ヴィクトリア女王の血統が断絶したわけではないので、いずれもハノーヴァー朝の継続と見なされることがある。ハノーヴァー朝以来代々の王位継承者の配偶者はドイツ人やドイツ系の王族が迎えられることが多かったが、エドワード8世がアメリカ人女性ウォリス・シンプソンとの結婚問題から退位し、代わって王位に就いたジョージ6世の妃エリザベスはグレートブリテン王国成立以降で初の同国出身の王妃となった。現王太子チャールズの元の妃ダイアナ、現在の妃カミラもまた同国出身である。

なお、1960年にエリザベス2世と夫フィリップ・マウントバッテン(Philip Mountbatten)公の間に生まれる子の姓をマウントバッテン=ウィンザー(Mountbatten-Windsor)とする枢密院令が発せられた。もっとも、家名(王朝名)が変更されたわけではないため、現状を前提とすればチャールズ王太子が即位してもその家名(王朝名)はウィンザーのままであり、姓のマウントバッテン=ウィンザーとはずれが生じることとなる。

マウントバッテン=ヘッセンであることは何度も書いて来ました。

陰謀論ではなく、イギリス王家の正体は女街のヴェルフ家、傭兵産業、オカルト、コミュニストのヘッセン家であるということがWikipediaに普通に書いてあると言えます。

イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、等々、国単位で分けて考えると全く見えないのですが、王族というのは、古くは旧約聖書の時代、紀元前数千年前から現在まで続く、特別な家系である事を、それぞれの家系図が示しています。

ヘッセンとヴェルフの関係は9世紀からということは上記で分かると思いますが、では、それ以前はどうだったのか?

これも家系図を辿る事でおおよそ把握出来ます。

そのルーツ=根っこは、一つの有名なカップルに辿り着くことになるのですが、その辺は神話のレベルになってしまいますので、ここで書くのは適切ではないと思います。

そこで、聖書に出てくるノア以降の登場人物に王族達のルーツを辿ってみます。

書いたらきりがないので、夫婦のうちどちらか、出自がはっきりしている方のルーツを辿りますので、また違う王家に繋がる方は切り捨て(とても切り捨てられないような超大物がいて、書きたくて仕方ない)、聖書に繋がる一部のみを書きます。

Philip Mountbatten , Duke of Edinburgh, b.10 JUN 1921
      |
Princess Alice of Battenberg, b.15 FEB 1885
      |
Princess Victoria of Hesse, b.5 APR 1863
      |
Alice of England, b.25 APR 1843
      |
Victoria of England, b.24 MAY 1819
      |
Princess Victoria of Saxe-coburg-saalfeld, b.17 AUG 1786
      |
Princess Victoria of Saxe-coburg-saalfeld, b.17 AUG 1786
      |
Francis, Duke of Saxe-Coburg-Saalfeld, b.15 JUL 1750
      |
Duchess Sophie Antoinette of Brunswick-
      |
Antoinette Amalie of Brunswick-L�neburg, b.1696
      |
Duke Louis Rudolph of Brunswick-Wolfenb�ttel, b.1671
      |
Duke Anthony Ulrich of Brunswick-Wolfenb�ttel, b.1633
      |
Duke Augustus of Brunswick-L�neburg,
      |
Ursula of Saxe-Lauenburg, b.1545
      |
Sibylle Princess of Saxony, b.2 MAY 1515
      |
Catherine of Mecklenburg, b.1487
      |
Sophie of Pomerania, b.abt 1460
      |
Sofie Princess of Pomerania, b.1435
      |
Maria Princess of Czersk, b.1408
      |
Aleksandra Princess of Lithuania, b.abt 1365
      |
Yuliyana Aleksandrovna of Tver, b.1331
      |
Anastasia Yurevna of Galicia, b.1295
      |
Euphemia of Kujavia, b.abt 1266
      |
Euphrosyne Princess of Oppeln, b.abt 1228
      |
Kazimierz I Prince of Oppeln, b.abt 1176
      |
Mieszko I Princes of Upper Silesia, b.abt 1145
      |
Agnes of Babenburg, b.abt 1111
      |
Agnes of Franconia, b.1074
      |
Bertha of Maurienne, b.9/21/1051
      |
Adelaide von Susa, b.abt 1014
      |  
Bertha of Italy, b.0980
      |
Obert II Marquis of Italy, b.0947
      |
Guilla of Spoleto, b.0914
      |
Waldrada of Burgundy, b.abt 0894
      |
Rudolph I King of Burgundy, b.abt 0865
      |
Conrad II Count of Auxerre, b.0825
      |
Conrad I Count of Auxerre, b.0800
      |
Welf Count in Bavaria, b.abt 0780
      |
Welf Isanbart Altdort Thurgau, b.abt 0755
      |
Warin II Gatinais Thurgau, b.BEF 0730
      |
Eberhard I von Alsace, b.AFT 0708
      |
Adalbertus I von Alsace, b.abt 0675
      |
Aldarich Eticho von Alsace, b.abt 0645
      |
Lendisius Bonifatius of Alsace, b.abt 0625
      |
Erchembaldus Duke of Alsace, b.abt 0590
      |
Ega Duke of Alsace, b.BEF 0570
      |
Erchenaud Duke of Alsace, b.abt 0550
      |
Ansbertus of the Moselle, b.abt 0506
      |
Ferreolus Duke of the Moselle, b.abt 0465
      |
Sigimerus I Bishop of Auvergne, b.abt 0419
      |
Clodion "the Hairy" King of France, b.0395
      |
Pharamond King of France, b.abt 0370
      |
Marcomir King of the East Franks, b.0347
      |
Clodius King of the East Franks, b.0324
      |
Dogobert King of the East Franks, b.abt 0300
      |
Genbald I King of the East Franks, b.0277
      |
Dagobert I King of Franks, b.abt 0257
      |
Walter King of the Franks, b.abt 0237
      |
Clodius III King of the Franks, b.BEF 0217
      |
Bartherus King of the Franks, b.abt 0197
      |
Hilderic (Childeric) King of t Franks, b.BEF 0177
      |
Sunno (Huano) King of the Franks, b.abt 0157
      |
Farabert King of the Franks, b.0135
      |
Clodomir IV King of the Franks, b.abt 0129
      |
Marcomir IV King of the Franks, b.abt 0110
      |
Odomir King of the Franks, b.abt 0090
      |
Richemer King of the Franks, b.abt 0070
      |
Rathaerius King of the Franks, b.abt 0050
      |
Antenor IV King of the Franks, b.abt 0030
      |
Clodimir III King of the Franks, b.0003
      |
Marcomir III King of the Franks, b.abt 0020 BC
      |
Clodius II King of the Franks, b.abt 0040 BC
      |
Francus King of the Franks, b.abt 0070 BC
      |
Antharius King of Sicambri, b.abt 0100 BC
      |
Cassander King of Sicambri, b.abt 0160 BC
      |
Merodach King of Sicambri, b.0160 BC
      |
Clodomir II King of Sicambri, b.0180 BC
      |
Antenor III King of Sicambri, b.0225 BC
      |
Clodius I of Sicambri, b.abt 0240 BC
      |
Marcomir II King of Sicambri, b.bef 0198 BC
      |
Nicanor King of Sicambri, b.bef 0232 BC
      |
Clodomir I King of Sicambri, b.abt 0270 BC
      |
Basanus King of Sicambri, b.0300 BC
      |
Diocles King of Scambrian, b.bef 0339 BC
      |
Helenus I King of Scambrian, b.bef 0358
      |
Priam King of Scambrian, b.abt 0400 BC
      |
Antenor II King of Scambrian, b.abt 0420 BC
      |
Marcomir I King of Cimmerians, b.abt 0440 BC
      |
Antenor II King of Cimmerians, b.abt 0483
      |
Helenus IV of Troy
      |
Priam IV of Troy
      |
Marcomir of Troy
      |
Dilulius I of Troy
      |
Almadius of Troy
      |
Gentilanor of Troy
      |
Priam III of Troy
      |
Alexandre of Troy
      |
Basabelian II of Troy
      |
Plesron II of Troy
      |
Helenus II of Troy
      |
Priam II of Troy
      |
Antenor I of Troy
      |
Plaserius II of Troy
      |
Zaberian of Troy
      |
Eliacor of Troy
      |
Plesron I of Troy
      |
Pleserius I of Troy
      |
Basabelian I of Troy
      |
Zelius of Troy
      |
Esdron of Troy
      |
Francus of Troy
      |
Zenter King of Troy
      |
Helenus of Epirus, b.abt 1185 BC
      |
Priam King of Troy, b.abt 1250 BC
      |
Laomedon King of Troy, b.1285 BC
      |
Ilus King of Troy, b.1350 BC
      |
Tros King of Troy, b.1328 BC
      |
Erichthonius King of Arcadia, b.1368 BC
      |
Dara (Dardanus) King of Arcadia, b.abt 1414 BC
      |
Zerah of the Old Testament, b.1565 BC
      |
Judah of the Old Testament, b.1805 BC
      |
Jacob (Israel) of the Old Testament, b.abt 1890 BC
      |
Isaac of the Old Testament, b.abt 1950 BC
      |
Abraham (Abram) of the Old Testament, b.abt 2050 BC
      |
Terah of the Old Testament, b.abt 2120
      |
Nahor of the Old Testament, b.abt 2149 BC
      |
Serug of the Old Testament, b.abt 2179 BC
      |
Reu of the Old Testament, b.abt 2211 BC
      |
Peleg of the Old Testament, b.abt 2241
      |
Eber of the Old Testament, b.abt 2275 BC
      |
Shelah (Salah) of the Old Testament, b.abt 2305 BC
      |
Arphaxad of the Old Testament, b.abt 2343 BC
      |
Shem of the Old Testament, b.abt 2443
      |
Noah of the Old Testament, b.abt 2943 BC

・・・・・と、ここまで来ると、さすがに「本当かよ〜?」という突っ込みが来ると思います。

上のOLD TESTAMENT  = 旧約聖書 

というわけで、聖書に出てくるノアからセム、アブラハム、イサク、ユダに繫がり、そこからギリシャ神話の時代。

トロイのあとにキンメリア人(キンメリアじん、英語: Cimmerians, Kimmerians, 古典ギリシア語: Κιμμέριοι)は、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族。

この時代にスキタイ人に追い出されたキンメリア人が、フリュギアを滅ぼすが、そこには留まらず、フリュギアを経て現在のドイツ、フランスといった地域に移動したと考えられます。

その理由はキンメリア王の息子がシカンブリ王である事から分かります。

下記は現在のロシア、東欧系の民族の流れです。

原始・古代(紀元前300年以前)

旧石器時代 - 中石器時代 - 新石器時代 - トルィピッリャ文化 - キンメリオイ - スキタイ - サルマタイ - 黒海北岸の都市国家


中世前期(300年 - 1240年)

ゴート族 - アント族 - フン族 - ヴェネド族 - 東スラヴ人 - ハザール - キエフ・ルーシ - クマン人 - テオドロ公国 - ヘルソネソス

中世後期(1240年 - 1569年)

ハールィチ・ヴォルィーニ大公国 - キエフ公国 - リトアニア大公国 - ポーランド王国 - ジョチ・ウルス - クリミア・ハン国

近世(1569年-1775年)

ウクライナ・コサック - ザポロージャのシーチ - ポーランド・リトアニア共和国 - フメリヌィーツィクィイの乱 - ヘーチマン国家 - ハイダマークィの乱

近代(1775年 - 1917年)

ロシア帝国: 小ロシア - スロボダ・ウクライナ - 新ロシア - クバーニ

オスマン帝国: チョルトムルィークのシーチ - オレーシュコのシーチ - ドナウ川のシーチ

オーストリア=ハンガリー帝国: ハルィチナー - ブコヴィーナ

現代(1917年 - 1991年)

ウクライナ革命: ウクライナ人民共和国 - ウクライナ国 - 西ウクライナ人民共和国 - クバーニ人民共和国 - 自由地区(マフノフシチナ)

ソ連:ウクライナ社会主義ソビエト共和国 - ウクライナ・ソビエト社会主義共和国 - ホロドモール - カルパト・ウクライナ


マウントバッテンのルーツはゲルマン系であり、これとは違うという事がとりあえず分かります。

ロシア・東欧系の流れとは違う地域に移った王族がシカンブリという、現在のドイツ、フランス、イタリアのあたりの王族がずっと続き、シカンブリ系サリー・フランク人クロヴィス1世がフランク人を統一して王国を開いたメロヴィング朝と、それを継承したカロリング朝になっとということ。

ということは、現在のマスターマインドがハザール人であるという主張は間違いであると言えます。

マウントバッテンのルーツはハザールの遥か前にフランク王国まで繋がる移行期にいた訳です。

ネット上の混乱した情報、何も裏付けの無い情報を信じることは、逆に正反合の餌食となります。

マスターマインドが何を狙っているのか?その為に何をして来たのか?

この辺をクリアにする為に、聖書から始まる「根っこ」を調べるのが得策です。

今回は長くなりましたのでこのへんで締めさせていただきますが、この記事に出てくる系統は、マウントバッテンのほんの一部です。

この記事でマウントバッテンがゲルマン系だけだと決めつける事はできません。

何故なら、マウントバッテンに辿り着くまでに、また、ロンバルディアに辿り着くまでに、様々な方角から、様々な家系が入って来ています。

今回はシカンブリの血筋を書きましたが、地中海側のルーツも書かなければいけません。

次回とはいいませんが、今後、地中海側に関して書かせていただこうと思っております。

それでは


【Re:いよいよ始動ですね 小泉さんの流れを汲む安倍政権が日本を変えるか?】

こんにちは、今回は予定を変更して、日経新聞の一面記事の流れについて書きます。

今回の記事は時事通信のWEB版に掲載されたものを時系列で並べたものです。

安倍政権で進められて来た、TPP参加後の積極的な成長戦略が読み取れるはずです。

ただし、安倍さんだから手放しで見てられる訳ではないということ。

動向の一つ一つを注視していかなければなりません。

■外国人医師の医療解禁など9項目=国家戦略特区の規制改革案

 政府の国家戦略特区ワーキンググループ(WG)は27日、大都市を中心に新たに導入する特区で重点的に対応する9項目の規制改革案を公表した。外国人医師への一部医療行為の解禁や、羽田空港の国際化促進などを盛り込んだ。

 国家戦略特区は、政府が6月にまとめる成長戦略の柱の一つ。WGは特区で実施する規制改革の具体的な中身を成長戦略に反映させる考えで、29日の会合で詰めの協議を行う。(2013/05/27-19:00)

■容積率緩和、特区で先行実施=実効性に課題も-政府

 安倍晋三首相が創設を表明した「国家戦略特区」は、世界で最先端のビジネス環境を整備するため、特定地域で先行的に大胆な規制改革や税制優遇を行うものだ。首相が指摘した「居住を促進する容積率規制(の緩和)」はその第1弾となる。特区は早ければ今秋にも誕生する見通しだが、首相主導で実効性のある中身にできるかが課題だ。

 国家戦略特区をめぐっては、政府の作業部会が規制改革の具体案を検討中で、5月下旬に重点9項目を策定。この中には、首相が5日の講演で挙げた、(1)都心のオフィス地区でマンション建設を促進するための容積率緩和(2)外国人医師による日本での診療行為解禁(3)インターナショナルスクールの設置要件見直し-も含まれる。こうした規制緩和により、外国人が住みやすい環境を整え、外国企業の呼び込みにつなげたい考えだ。

 ただ、内容を疑問視する声もある。東京都はこれまで、政府に外国人医師の医療解禁などを求めてきたが、「あくまで、大本命は法人税率引き下げだ」(幹部)と主張。生活環境の整備だけでは不十分との立場だ。

 また、特区は大都市圏が中心となる見通しで、「都会向けの政策だ」(全国市長会幹部)との不満もくすぶる。このため、政府は地域振興策を別途検討中で、特区の地域指定は7月の参院選以降に先送りする。(2013/06/05-17:12)

■戦略特区、3~5カ所選定へ=「日本を引っ張るところ」-甘利再生相

 甘利明経済再生担当相は8日、兵庫県姫路市で講演し、安倍政権が成長戦略の柱の一つとして創設する「国家戦略特区」について、全国で3~5カ所を選定することになるとの見通しを示した。また安倍晋三首相をトップとする特区の推進体制を9月までに整える考えも明らかにした。

 甘利氏は特区の選定に関して、「投資減税や規制緩和を徹底して、日本経済を引っ張っていってくれるようなところを選ぶ」と指摘。先端医療の研究開発推進を念頭に「大阪から神戸にかけても有望な地域の一つになる」と述べた。(2013/06/08-19:06)

■特区候補地域、8月決定=「国際都市」など4テーマ-政府

 政府の国家戦略特区ワーキンググループ(WG)は11日の会合で、地域を限定し大胆な規制緩和などを行う国家戦略特区に関する当面の基本方針をまとめた。特区で取り組む政策課題を「世界と戦える国際都市の形成」など4テーマとした上で、8月中旬までに候補地域を選定する。その上で、安倍晋三首相をトップとする諮問会議を立ち上げ最終決定する。

 国家戦略特区をめぐっては、甘利明経済再生担当相が9月までに推進体制を整え、全国で3~5カ所選定する意向を示している。今秋にも第1号が認定される見通しとなった。

 国際都市の形成のための具体的な規制緩和項目としては、都心マンションの容積率緩和や外国人医師の診療解禁などが検討されている。政策課題にはこのほか(1)先端医療の研究開発拠点の整備(2)公立学校運営など官業の民間開放(3)攻めの農業への転換-が盛り込まれた。(2013/06/11-19:54)

■「国家戦略特区」=首相主導で大胆な規制緩和-成長戦略・ポイント解説

 国家戦略特区 世界最先端のビジネス環境の整備などを目的に、地域を指定して大胆な規制緩和や税制優遇を行う。「首相主導で民間の力を活用しながら集中的な取り組みを行う」と明記しており、単なる地域活性化ではなく、日本経済全体の成長の呼び水としたい考え。対象地域は5カ所程度に絞り込む。8月中に地域とプロジェクトの候補を選定し、安倍晋三首相をトップとする「国家戦略特区諮問会議」で今秋にも最終決定する。規制緩和の具体案として、都心マンションの容積率緩和や公立学校の民間開放、先端医療の研究開発拠点の整備などが挙げられており、税制措置も今後検討する。(2013/06/12-19:46)

■戦略特区に格上げ要望=高橋北海道知事

 北海道の高橋はるみ知事は11日、内閣府で甘利明経済再生担当相と会談し、農林水産品の高付加価値化や輸出拡大に取り組む北海道の総合特区「フード特区」を、成長戦略で新設する「国家戦略特区」に格上げするよう要望した。甘利担当相は「世界をリードする食の拠点化を目指す大胆な提案を考えてほしい」と応じた。

 高橋知事はまた、環太平洋連携協定(TPP)の交渉参加を踏まえ「(砂糖原料の)ビートや乳製品など(国内産と)差別化できない輸入品がどんどん入ってくるのは納得できない」と指摘。甘利担当相は「輸入を止めて輸出を伸ばす戦略は一般的に理解されにくい」と反論した。(2013/07/11-17:18)

■12日から提案募集=国家戦略特区、自治体と企業から-政府

 新藤義孝地域活性化担当相は8日の閣議後記者会見で、地域を限定して大胆な規制緩和や税制優遇などの特例措置を講じる国家戦略特区について、全国の自治体と民間企業を対象に、12日から提案募集を始めると発表した。1次締め切りは9月11日。政府は応募内容を検討した上で、今秋にも安倍晋三首相をトップとする国家戦略特区諮問会議を立ち上げ、特例措置の中身と実施地域を最終決定する。

 新藤担当相は会見で、特区について「日本経済の成長の起爆剤としたい」とした上で、「必要な財政措置、規制緩和は(自治体や企業から)自由に提案してもらう」と述べた。 (2013/08/08-12:31)

■「戦略特区」で欧州視察=甘利担当相

 甘利明経済再生担当相は15日の記者会見で、9月に欧州を訪問することを明らかにした。成長戦略に盛り込んだ「国家戦略特区」の具体化に役立てる目的で、オランダの農業・食品産業の集積地「フードバレー」と、デンマークの先端医療・バイオ産業の集積地「メディコンバレー」を視察する。(2013/08/15-16:46)

■TPP、ゴールは目の前=鶴岡首席交渉官に期待-甘利担当相

 【バンダルスリブガワン時事】甘利明TPP担当相は24日、環太平洋連携協定(TPP)交渉の閣僚会合が開かれたブルネイの首都バンダルスリブガワンから帰国の途に就いた。甘利氏は空港で記者団に対し、日本が7月の交渉参加から間もないながら、「いい意味で交渉の背中を押す役割を果たしつつある」と強調。「もうゴールは目の前だ。慎重かつスピーディーに事を運ばなければならない」と気を引き締めた。

 また、同日から首席交渉官会合が始まるが、鶴岡公二首席交渉官について「フロマン米通商代表部(USTR)代表に決して負けない。期待していい」と評した。(2013/08/24-11:02)

■TPPに期待と不安=国民の理解獲得が課題-利害関係者会合

 【バンダルスリブガワン時事】ブルネイで続く環太平洋連携協定(TPP)交渉会合は27日、参加各国の利害関係者と意見交換する会合が開かれ、産業界や農業、消費者などの団体がTPPへの期待や不安をそれぞれの立場から訴えた。10月の大筋合意に向けて交渉が加速する中、日米など交渉参加各国は、国民の理解を得る説明にも注力する必要に迫られている。

 賛成派では、TPPによって海外への事業展開がしやすくなる経済界の代表らが出席。経団連の担当者は米国のワイゼル首席交渉官に「譲歩を重ねると既存の自由貿易協定(FTA)と同じになる」と伝え、アジア太平洋域内の貿易・投資の自由化に向けた米国の交渉力に期待を示した。

 会合には、TPPでコメや乳製品などの関税が撤廃された場合、安価な海外産品の流入で打撃を受けるとみられる日本の農業関係者も駆け付けた。関税の撤廃・削減を扱う「市場アクセス」分野の交渉を通じて乳製品の対日輸出を狙うオーストラリアの農業団体の意見表明に対し、日本の酪農業界関係者は「お互い国益を懸けている。関税を守るには努力が必要だ」と表情を曇らせた。(2013/08/27-20:19)

■法人税減税など197件=自治体・民間が提案-国家戦略特区

 政府は12日、地域限定で大胆な規制緩和や税制優遇などの措置を講じる「国家戦略特区」について、自治体や民間企業から197件の提案があったと発表した。自治体からは共同提案を含め61団体の応募があり、農業分野の規制緩和のほか、企業誘致を目的に法人税減税を求める提案などが多かった。

 今回は1次募集で、11日に締め切った。政府は10月中旬にも特区を選定し、秋の臨時国会に関連法案を提出する方針だ。

 農業特区を提案したのは北海道や新潟市、愛知県など。北海道は、「食」の高付加価値化を目指し、食品関連企業向けの立地補助金の創設や、法人税、固定資産税などの減免を要望。愛知県は、企業の農地所有を認める農地法改正などを求めた。

 法人税減税の提案は、外国企業の誘致推進を目指す東京都や、創業促進を掲げる福岡市などが行った。このほか、大阪府と大阪市は、保険診療と保険外診療の併用を認める「混合診療」の拡大を要望。京都府などは、研究者の有期雇用規制の緩和を提案した。(2013/09/12-18:51)

■農業法人への出資制限緩和へ=古民家活用も検討-国家戦略特区

 政府は17日、成長戦略の柱として地域限定で規制緩和などを行う「国家戦略特区」について、企業の農業生産法人への出資制限を緩和する方向で検討に入った。企業が農地を所有しやすくして、農業への参入を促す。また、古民家を活用した観光促進なども検討する方針だ。産業競争力会議(議長・安倍晋三首相)で詰めの作業を行い、臨時国会への関連法案提出を目指す。(2013/09/17-16:18)


なんだか、ワクワクしてきましたね。

当ブログで主張して来たことや、読者の方々のご指摘、情報の裏付けがついて来た感じがします。

日本は攻めの農業に転換しなくてはならない。

その為に大胆な規制緩和を行わなければならない。

読者の方のコメントに対する返事でも書いたのですが、日本の構造改革、規制緩和の必要性は、かなり前から訴えられてきました。

ネットでは、すっかり売国奴になっている小泉元首相ですが、彼は日本のケネディーを目指していたといいいます。

自身の出自が出自だけに、反面教師であった自身の家系に学んだ面が有ります。

小泉さんの父ですが、九州の田布施から姓を変え、政治家になり、横須賀の稲穂を仕切った人物です。

表に出せない現実を息子である小泉さんは見てきた訳です。

横須賀の稲穂の韓国人構成員 = 稲川会です。

その筋の方々の間では稲穂、山菱、丸住という呼び方を普通します。

稲川会、山口組、住吉連合の事を指します。

彼らが各地域別に裏警察、裏組合を構成してきた歴史が日本の真実です。

鹿島コンビナートの建設など、エネルギーに関する件も含みます。

四日市のコンビナートは山菱=山口組です。

そして重要なのは、関西=山菱=南朝、関東=稲穂=北朝という基本的な流れがあること。

さらに、警察権力の中枢を構成しようとして、銀座警察が出来て、丸住=住吉になったこと。

恐ろしい話ですが、これが事実であるという事です。

そんな裏社会を、嫌でも見て来た小泉元首相にとって、良心の呵責みたいなのが有ったのでしょう。

愛国者とまではいかなくても、「自民党をぶっ壊す」という既得権をぶちこわす政策を執って来たということ。

さらには尖閣諸島の大陸棚に関する日本国権益を国債機関に申請する最初の手続きをした政治家です。

彼以外の誰が上記のようなことができたでしょうか?

マスコミ=既得権者による売国奴のレッテル貼りが強烈過ぎて、結果が取りざたされる事は有りませんが、結果だけを見れば、他の歴代首相が出来なかったことをしています。

(他ブログより転載) http://blogs.yahoo.co.jp/blue_k_i/10561113.html

新たに38万平方キロの大陸棚申請へ、海底資源開発権に期待
(2008年6月10日23時05分 読売新聞)

政府は、日本の大陸棚として新たに38万平方キロ・メートル超を認めるよう国際連合の「大陸棚限界委員会」に申請する方針を決めた。

10日開かれた政府の総合海洋政策本部の境界海域チームの初会合で、事務局が明らかにした。

日本近海の海底には石油の代替エネルギーとして注目されるメタンハイドレートをはじめ、海底熱水鉱床、マンガン団塊など海底資源の存在が確認されている。同委員会が、新たな日本の大陸棚を認めれば、海底資源の開発権を主張できる。
今回の申請は、1994年に発効した国連海洋法条約に基づくもの。同条約は各国の沿岸から200カイリ(約370キロ)の海底を「大陸棚」として、沿岸国に海底資源の開発の権利を認めている。さらに、09年5月までに、国連「大陸棚限界委員会」に海底の調査結果を提出し、自国の領土と海底が地続きであることが、科学的に認められれば、最大350カイリ(約650キロ)まで大陸棚を延長できるとしている。
政府は、2004年から本格調査を行っており、今月中に終了する予定だ。調査の結果、「四国海盆」や小笠原諸島の東方域などについて大陸棚として申請することが可能と判断し、来年1月までに同委員会に調査結果を提出する。38万平方キロ・メートルは日本の国土面積にほぼ等しい。

http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20080610-OYT1T00829.htm

小泉政権時から大陸棚調査が行われ、安倍政権時に海洋基本法が成立された。

安倍前首相が海洋国家としての礎を作ったと言っても良いだろう。

安倍前首相が残してくれた、この功績について語るマスコミは無い。


(転載終わり)


以上、今回は小泉元首相から安倍総理に流れる既得権益破壊による日本活性化へ向けた取り組みの記事でした。


しかし、一点、注意しなければならない事。


それは、小泉さんであれ、安倍さんであれ、一人で政治をやっている訳ではないし、それ以上の権力・勢力が有り、彼らの都合の良い方向へ持って行かれる可能性が非常に高いということです。

ですので、安倍さんだから手放しで見てられる訳ではないということです。

動向の一つ一つを注視していかなければなりません。

それでは。


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世界の情報を交えながら、自己組織集団(自給自足集合体)の時代について考えてゆきます。

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