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【イタリア王位継承権をめぐり現在も争うマフィア一族 そんな王様を国民投票で国外退去にしたイタリア国民】

こんにちは、今回は前回の記事の続きというか、書ききれなかった話です。

イタリアに古くから有る一族が本家と分家でイタリアの王位継承権について争っています。

イタリアの王位継承権?

イタリアには王様はいないじゃないの?と聞こえてきそうですが・・・

イタリアでは、第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票がありました。

この結果により王制廃止が決定して共和制となり、一族は国外退去を余儀なくされました。

帰国さえもイタリア憲法により2002年まで禁じられていました。

よく「国民には何の力も無い」というコメントを頂きますが、実際にイタリアでは国王を国外退去させるという事例が有るのです。

結局は国民の無関心の隙をついて、王政復古を行なわないことと引き換えに帰国したわけですが・・・

このイタリア国王の一族とはサヴォイ家です。

サヴォイ家の歴史は11世紀まで遡り、さらには謎の民族、海の民、紀元前まで行ってしまうのです。

サヴォイ家はこの時代以前から、カルタゴ、ヴェネチアに展開する、とても裕福な一族です。

サヴォイ家の「格」はと申しますと、前回の記事でも書きましたように最上階級です。

ロス茶、ロック爺クラス < シェルバーンクラス < デル・バンコクラス < サヴォイクラス

サヴォイと肩を並べるレベルにエジンバラ公などがいるわけです。

栄華を極めたハプスブルク家の下で仕えながら、うらやんでいた連中です。

彼らがハプスブルク家に土地を担保にカネを貸し、傭兵もレンタル。

ハプスブルクを陥れたのです。

断続的に30年間続いた戦争の末、土地も金も奪われたハプスブルク家の地位は凋落。

30年戦争の後で調印されたのが、ヴェストファーレン条約。

そしてスイスの独立が成立します。

スイスには、ヴェストファーレン条約で特権を持った人間達が移動しています。

下記はヴェストファーレン条約の目次です。

条文番号 ラテン語版の番号 条項
第1条 1 〔平和の樹立〕
第2条 2 〔免責〕
第3条 3 〔敵の援助の禁止〕
第4条 4
5 〔フランス・スペイン間で継続する戦争への諸侯の関わり〕
第5条 6 〔ロレーヌ〕
第6条 7 〔諸侯の領土の回復〕
第7条 8 〔返還に対する例外主張〕
第8条 9 〔特に重要な事例を挙げるにあたって〕
第9条 10 〔トリール選帝侯への返還〕
第10条 11 〔トリールの城〕
第11条 12 〔プファルツ問題〕
第12条 13 〔バイエルン選帝侯位の確認〕
第13条 14 〔バイエルンの権利放棄〕
第14条 15 〔プファルツ選帝侯位の再設〕
第15条 16 〔プファルツの処遇〕
第16条 17 〔マインツ選帝侯の管区の再取得〕
第17条 18 〔トリール選帝侯の下プファルツに関する主張〕
第18条 19 〔バイエルン家断絶の場合の上下プファルツ統合〕
第19条 20 〔プファルツの分家〕
第20条 21 〔ユーリヒにおけるプファルツの権利〕
第21条 22 〔プファルツへの補償〕
第22条 23 〔プファルツ関係者への大赦の確認〕
第23条 24 〔上プファルツの放棄〕
第24条 25 〔プファルツ一族への補償〕
第25条 26 〔下プファルツ内の独立伯領〕
第26条 27 〔各地の帝国自由貴族〕
第27条 28 〔プファルツ領内で皇帝から下賜された領土等〕
第28条 29 〔プロテスタントの容認〕
第29条 30 〔ライン宮中伯への返還など〕
第30条 31 〔ブランデンブルクとヴュルツブルクの係争〕
第31条 32 〔ブランデンブルク〕
第32条 33 〔ヴュルテンベルク〕
第33条 34 〔ヴュルテンベルクの分家〕
第34条 35
36 〔バーデン・ドゥルラハ〕
第35条 37 〔バーデン〕
第36条 36
37
38 〔諸侯への回復〕
第37条 39 〔不法な契約の無効〕
第38条 39 〔債務の確認〕
第39条 40 〔強制的な債務の無効〕
第40条 40 〔強制的な債務の無効〕
第41条 41 〔戦争中の裁判〕
第42条 42 〔封土の回復〕
第43条 43 〔ハプスブルク家領以外の人々の権利〕
第44条 44 〔ハプスブルク家領の人々の良心の自由以外の権利〕
第45条 45
46 〔フランス・スウェーデンに加担する以前の没収物〕
第46条 47 〔ハプスブルク世襲領における正義〕
第47条 48 〔回復され得ないもの〕
第48条 49 〔ユーリヒ〕
第49条 50 〔プロテスタントの処遇〕
第50条 51 〔ヘッセン・カッセル〕
第51条 52 〔ヘッセン・カッセル〕
第52条 53 〔ヘッセン・カッセル〕
第53条 54 〔ヘッセン・カッセル〕
第54条 55 〔ヘッセン・カッセル〕
第55条 56 〔ヘッセン・カッセル〕
第56条 57 〔ヘッセン・カッセル〕
第57条 57 〔ヘッセン・カッセル〕
第58条 58 〔ヘッセン・カッセル〕
第59条 59 〔ヘッセン・カッセル〕
第60条 60 〔ヘッセン・カッセルとヘッセン・ダルムシュタット〕
第61条 61 〔ヘッセン・カッセル〕
第62条 62 〔ヘッセン・カッセル〕
第63条 63 〔スイスの独立〕
第64条 64 〔古来の権利〕
第65条 65 〔帝国諸侯の権利〕
第66条 66 〔帝国議会〕
第67条 67 〔帝国議会で確認される権利〕
第68条 68 〔債務の穏便な決着〕
条文番号 ラテン語版の番号 条項
第69条 69 〔通商の再開〕
第70条 70 71 〔水運に関係した権利〕
第71条 72 〔トゥール,ヴェルダン,メッス〕
第72条 73 〔ロレーヌ公〕
第73条 74 〔ピニュロール〕
第74条 75 〔ブライザハとアルザス十都市に関する権利〕
第75条 76 〔アルザス方伯位など〕
第76条 76 〔アルザスの人民など〕
第77条 76 〔アルザスの宗教〕
第78条 77 〔フィリップスブルク〕
第79条 78 〔フィリップスブルク〕
第80条 79 〔スペインも含めたハプスブルク家による権利放棄〕
第81条 80 〔放棄に関連した法の撤廃〕
第82条 81 〔譲渡される領土の帝国からの除外〕
第83条 82 〔防備の破壊〕
第84条 83 〔ライン川の無砦化〕
第85条 84 〔エンスハイムの負債〕
第86条 85 〔各地の負債〕
第87条 86 〔ハプスブルク家への返還〕
第88条 86 〔ハプスブルク家への返還〕
第89条 86
87 〔ハプスブルク家への返還とライン川の水運〕
第90条 88 〔家臣たちの財産回復〕
第91条 88 〔免責〕
第92条 89 〔ストラスブールとアルザス十都市〕
第93条 90 〔フランスからティロル大公への補償〕
第94条 91 〔エンスハイムの負債〕
第95条 92 〔文書の返還〕
第96条 93 〔文書の返還〕
第97条 94 〔サヴォイ,マントヴァ〕
第98条 95 〔サヴォイ,マントヴァ〕
第99条 95 〔サヴォイ,マントヴァ〕
第100条 96 〔サヴォイ〕
第101条 97 〔サヴォイ〕
第102条 98 〔その他の回復〕
第103条 99 〔マントヴァ〕
第104条 100 〔和平への着手〕
第105条 101 〔返還の時期・方法などの協議〕
第106条 102 〔返還の執行責任〕
第107条 103 〔返還への立ち会い委員〕
第108条 104 〔返還などの実行〕
第109条 105 〔執行の妨害の禁止〕
第110条 106 〔捕虜の解放〕
第111条 107 〔フランス側の撤兵〕
第112条 108 〔諸侯の権利の回復と肩書きについての注記〕
第113条 109 〔返還執行〕
第114条 110 〔文書や物資〕
第115条 111 〔輸送手段の提供〕
第116条 112 〔守備隊駐屯なきこと〕
第117条 113 〔都市や住民の権利〕
第118条 114 〔兵員削減〕
第119条 115 〔批准〕
第120条 116 〔帝国法への組み込み〕
第121条 117 〔条約に反することの禁止〕
第122条 118 〔平和の攪乱者の処罰〕
第123条 119 〔紛争の平和的解決〕
第124条 120 〔紛争の解決〕
第125条 121 〔圏システムによる平和維持〕
第126条 122 〔兵員の他国通過〕
第127条 123 〔他の参加国〕
第128条 124 〔調印〕

内容までは転載しませんが、ヘッセン、ヘッセン、ヘッセンと、かなりの特権が与えられた事が分かります。

このようにして、ヘッセン、サヴォイらが特権を握り、スイスが独立国となりました。

そこにヘッセン、サヴォイといった、皇帝に反発した勢力の金が裏でスイスに結集。

さらに、この時代の武器製造は、動力が水車。

精密機械産業に適した豊かな淡水を持つ地域、スイスに産業が集まってきました。

要するに、神聖ローマ帝国に対抗して出来上がった国がスイスといっていいでしょう。

このサヴォイが、デル・バンコに対し、スイス(ロンバルディア)に銀行を作るよう指示を出したんですね。

第2回十字軍遠征に必要な費用を貸し出す為の銀行をスイス(ロンバルディア)に作った訳です。

この記事の最後にサヴォイア家の家系図を付けておきましたが、どうりでイタリア出身のサヴォイア家がジュネーブに派生しているわけです。

さて、このサヴォイ家なのですが、もともとはサルディーニャ島という、地中海の島を本拠地にしていた王様の家系といわれています。

ず〜と、ず〜と昔から。

サルディーニャ島というと、ピンと来る人もいると思います。

謎の民族「海の民」

新石器時代からローマ帝国の時代にかけて、ヌラーゲ(Nuraghe)人が上陸し、生活しはじめた。現在もこの民族の子孫が7000人以上いる。この謎に満ちた民族は、紀元前20世紀頃、東地中海からやって来たものと推測されている。少しわかっていることは、エジプトの碑文に「海の民」という意味の名前で登場する人々を指しているということである。その碑文の研究によると、彼らは、サルディス(リディア)を出発し、ティレニア海にたどり着いた。そこで、サルデーニャに行く者とエトルリアに行く者に分かれた、ということである。しかし、サルデーニャ人の起源に関する理論のほとんどは、遺伝学的な研究と民族の移動状況を重要視している。遺伝学的な研究によると、サルデーニャ人は周辺地域の人々や若い民族とは異なり、前インド=ヨーロッパ人だとしている。新石器時代以降の遺跡の散らばりぐあい、点在範囲、その大きさを調べれば、島の大体の人口がわかり、また彼らがこの島のどこに上陸し、定着したかがわかる。
以下は英語版の項目en:History of Sardiniaからの翻訳である。
先史時代

1979年、15万年前にさかのぼる人類の痕跡が発見された。ガッルーラからサルデーニャ北部に居住した最初の人間は、おそらくイタリア半島のトスカーナから渡ってきたとみられている。島の中央部にはバレアレス海を渡り、イベリア半島から来た人々が居住したとも考えられている。先史時代の矢じり(約5000年〜6000年前)や、現在カリャリの考古学博物館に納められている地中海地方の母神像から、高いレベルで石の彫刻を作る能力を持っていたと推測される。

石器文化と黒曜石の時代

石器時代には既に、モンテ・アルチ (Monte Arci) は重要な役割を演じていた。この休火山は、黒曜石採掘と刃物・矢じりへの加工の中心地のひとつであった。現在でも山腹では火山ガラスを見つけることが出来る。サッサリの考古学博物館には、紀元前2600年頃の青銅器時代(またはAneolithic Age)の土器が展示されている。

ヌラーゲ文化の時代

先史時代のサルデーニャは、ヌラーゲと呼ばれる独特の石造りの構造物に特徴づけられている。サルデーニャには複雑な構造のものから単純なものまで、大小7000のヌラーゲが現存している。最も有名なのはカリャリ県バルーミニのヌラーゲ遺跡、スー・ヌラージ・ディ・バルーミニである。このヌラーゲは紀元前1800年から250年頃にわたって造られ、紀元前1200年から900年頃に全盛期を迎えた。聖なる水場の隣に建てられ(例:Santa Cristina, Sardara)、墓の構造はドルメンと呼ばれる。この時代サルデーニャ人は既に、西地中海で交易を行っていたミケーネ人と接触していたことがわかっている。

エジプトを侵略した海洋民族シャルダナ (Shardana) とサルデーニャとのつながりは真偽が疑わしく、立証されていない。墓場 (Tombe dei giganti) には沈みかけの船をかたどった墓石があり、長い航海中に惨事があったことを示している。古代ギリシャで初めて地中海を西に航海したエウボイア人は、サルデーニャをHyknousaと呼んだ。のちにラテン化しIchnus(s)a(イクヌーザ)となった。ノーラ遺跡の石碑は、フェニキア人がこの島をShardenと呼んだ証拠となっており、これがSardiniaという名前の由来となっている。

サルデーニャにおけるフェニキア人、カルタゴ人、そしてローマ人

紀元前8世紀から、Tharros(ターロス)、Bithia(ビティア)、Sulcis(スルシス)、Nora(ノーラ)、Karalis(カラリス、現在のカリャリ)と、フェニキア人が都市や砦をいくつもサルデーニャに築いた。フェニキア人はレバノンの出身で、地中海で交易を行っていた。彼らは島のあらゆるエリアに定住した。サルデーニャはカルタゴ(現在のチュニジア)、スペイン、ローヌ川(フランス)、エトルリア(イタリア半島)の間にあったため、西地中海の中心として特別な地位を獲得していた。イグレージアス周辺の鉱物地帯は、鉛や亜鉛の産地として重要であった。都市は防御しやすく天然の港になる、多くは河口に近い半島部や島のような、戦略上の重要な地点に造られた。フェニキア人ののちに、紀元前500年ごろカルタゴ人(Punic、ポエニ)がサルデーニャ周辺の地中海の覇権を確立した。カルタゴの影響はサルデーニャのほぼ全域に及んでいる。
紀元前238年、ローマ人が島を獲得した。ローマはカルタゴと第一次ポエニ戦争を戦ったが、戦後にカルタゴの傭兵が反乱を起こしたため、ローマはこの年サルデーニャに上陸し、占領する機会を得た。ローマ人がサルデーニャを獲得した時点で、既に社会基盤と(少なくとも平野部では)都市化された文化があった。サルデーニャはシチリアとともに、エジプト征服までのあいだローマの穀倉地帯のひとつでありつづけた。フェニキア・カルタゴ文化は、ローマ人の支配下にあっても紀元後数世紀まで根強く残った。Tharros(ターロス)、Nora(ノーラ)、Bithia(ビティア)、Antas(アンタス)、Monte Sirai(モンテ・シライ)らは、建築と都市計画の調査に非常に重要な考古学遺跡となっている。

中世

ローマ帝国の滅亡後、サルデーニャは何度と征服の対象とされている。東ローマ帝国による帝国の一部としての奪還に先立ち、456年北アフリカのヴァンダル人に占領された。711年からは、サラセン人による沿岸部の都市への攻撃が始まった。これが原因となり、9世紀には1800年の歴史を持つターロスが放棄され、内陸のオリスターノが取って代わった。アラブ人に対抗するために、海洋共和国であったピサとジェノヴァによる支援が求められた。
1063年から、この地域のビザンティンの政治行政組織を踏襲する形で、審判による統治を意味するジュディカーティ(Giudicati)という制度が形成された。中世後期において最も特筆すべき、今に至るまで島のヒロインと慕われる人物は、ジュディカーティであったアルボレア国の妃エレオノーラ・ダルボレア(Eleonora d'Arborea)である。彼女は法制の整備に尽力し、1395年に発効した先進的な民法典カルタ・デ・ログ(Carta de Logu)は1827年まで使われた。
同じ時代、アラゴン=カタルーニャ王国の影響が大きくなり、これはアラゴンによるサルデーニャ占領まで続いた。アラゴンの塔と呼ばれた見張り台が沿岸部全域にわたって作られ、アラブ人の侵入を防ぐことに役立った。これらの見張り台のいくつかは、ちょうど戦略上の重要地点にあったフェニキア都市の石を使って作られた。教会建築への再利用としての好例は、古い都市オトカ(Othoca)の跡に建てられたサンタ・ジュスタ(Santa Giusta)教会にみられる。当時のスペインの影響の強さは、今でもアルゲーロ周辺でカタルーニャ語の方言が使われていることからも伺える。

サルデーニャ王国の誕生から現代

スペイン継承戦争でサルデーニャがスペインからオーストリアに渡った後、1720年にシチリア島との交換によりサヴォイア家が領有してからイタリア統一の1861年まで、サルデーニャはピエモンテとサルデーニャ王国を形成していた。社会基盤の開発は遅れていたが、19世紀初期にカルロ・フェリーチェによる統治のもと、南のカリャリから北のサッサリに至る島の大動脈が建設され、いまでも彼の名がこの道につけられている。

1861年にサルデーニャ王国がイタリア統一を果たして国名を「イタリア王国」と改めた。1883年にはカリャリからサッサリまでの鉄道が開通した。

ムッソリーニ政権下では、オリスターノ周辺の沼沢地が干拓され、最も成功した農村コミュニティとなったアルボレアの基盤が作られた。またムッソリーニは鉱業の中心地としてカルボーニアを建設した。第二次世界大戦後、石炭の重要性は低下し、観光業が盛んとなった。雇用を創出するための様々な施策は、安価な労働力をもっても埋め合わせることの出来ない高い運送費のために、これまでのところうまくいってはいない。

今日、サルデーニャは自治州であり、その歴史は言語と文化の中にいまだ息づいている。また注目すべきは沿岸部と内陸部の差異である。沿岸部は常に外部からの影響に対してよりオープンであった。今日サルデーニャは、船や飛行機の便がよい北部の海岸や島々(ラ・マッダレーナ、コスタ・ズメラルダ)と南部カリャリ周辺の海岸によって、最もよく知られている。

(Wikipediaより)

名無し先生はですね、エジンバラ公側勢力の人間と直接話をするようなお方です。

先生によると、エジンバラ公側勢力の人間は上記のような事を信じていて、サルディーニャが重要拠点となっているそうです。

10世紀より前から、サルディーニャはサヴォイの血筋。

カルタゴ、ヴェネチアに展開する裕福な海洋族の元が、ここなので、デル・バンコに命令し銀行を作らせるような高位にいたと言う事。

今でも、マルタ騎士団のような海洋族由来の騎士団が存在しますよね?


ところで、現在イタリアに王様は居ません。

ところが、馬鹿げた話に聞こえますが、実は現在でもイタリア王位継承権を巡り、サヴォイ一族の2派閥が争っているのです。

イタリアのメーソンプロパガンダ2(P2)を仕切っていたのが2派閥の一つ、本家の方です。

サヴォイア家(伊: Casa di Savoia カーサ・ディ・サヴォイアもしくはサヴォイヤ)は、かつてイタリアのピエモンテとフランス及びフランス語圏スイスにまたがるサヴォワ一帯を支配していた辺境伯貴族であった家系。1713年、スペイン継承戦争の結果シチリア王国の王位を獲得、1720年にハプスブルク家とシチリア島、サルデーニャ島の交換を行い、サルデーニャ王国の王位を代わりに得た。イタリア統一運動時に核となり、統一後はイタリア王国の王家となった。フランス語名からサヴォワ家(Maison de Savoie サヴワ)と呼ばれることもある。

サヴォイア伯ウンベルト1世から始まるサヴォイア本家の他、サヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ1世の弟トンマーゾ・フランチェスコを祖とするサヴォイア=カリニャーノ家などが分家として成立した。 1831年にサヴォイア本家の男系子孫が途絶えるとサヴォイア=カリニャーノ家が全ての爵位を継承、勢力を発展させてイタリア王国を成立させた。王家となって以後のサヴォイア=カリニャーノ家の分家には、初代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の弟フェルディナンドを始祖とするサヴォイア=ジェノヴァ家、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世の次男でスペイン王位にも就いたアオスタ公アメデーオに始まるサヴォイア=アオスタ家がある。

第二次世界大戦後の1946年6月、王制の是非を問う国民投票により王制廃止が決定して共和制となると、一族は国外退去を余儀なくされた。帰国さえもイタリア憲法により2002年まで禁じられていた。

2012年時点で、ウンベルト2世の子たち(長男ヴィットーリオ・エマヌエーレ、旧ユーゴスラビア王族と結婚した長女マリーア・ピア、次女マリーア・ガブリエラ、三女マリーア・ベアトリーチェ)などが健在である。

サヴォイア家は欧州でも屈指の名家であり、権威ある貴族の一族だった。家祖ウンベルト1世ビアンカマーノはラテン民族とケルト民族からなる北イタリアの血筋に加え、オック人やサクソン人の大貴族とも縁戚にあった。特に後者に関してはフランク族のカール大帝に敗れた英雄ウィドゥキントの血も引いていると言われ、ザクセン朝からの庇護を受けるきっかけともなった。

13世紀のイングランド王ヘンリー3世は、王妃エリナー・オブ・プロヴァンスの母方の縁戚であるサヴォイア伯トンマーゾ1世の息子たちを重用し、彼らにリッチモンド伯の爵位やカンタベリー大司教の位を与えている。サヴォイ宮殿 (Savoy Palace) はリッチモンド伯ピーター(のちのサヴォイア伯ピエトロ2世)によって建てられた。


ここまではいつものWikipediaの記事なのですが、これ以下はまさにマフィア映画に出てくる、どこかで見聞きした内容ばかりです。

ゴッドファーザーの世界ですよ。

ヴィットーリオ・エマヌエーレ・ディ・サヴォイア(Vittorio Emanuele di Savoia、1937年2月12日 - )は、イタリア王国において最後の国王となったウンベルト2世の長男で、現サヴォイア家当主及び王位請求者。1946年の共和制移行により成立したイタリア共和国において、王位のみならず全ての貴族称号は承認されていないが、国内に残る王党派は「ナポリ公ヴィットーリオ・エマヌエーレ」と呼んでいる。また、一部急進派からは「イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ4世」と呼ばれているとされる。

イタリア王位やナポリ公位以外にも、様々な称号や継承権を父から継いでおり、その中にはエルサレム王位の請求権も含まれている。名誉ある血筋と継承権を持ち、欧州に数多くいる「没落貴族のコミュニティー」でも大物の一人と見なされている。しかしその一方で、亡命先のスイス・フランスなどで様々な非合法事業に加わり、また私生活でも一族の反対を無視して貴賎結婚を行うなど、身辺に問題の多い人物でもある。

管理人コメント:エルサレム王位については、次の記事で触れますので、ここではスルー。

生い立ち[編集]

1937年2月12日、王政時代のイタリアで、当時はまだイタリア王太子であった父ウンベルト2世と、その妻であるベルギー王女マリーア・ジョゼ・デル・ベルジョとの長男として、ナポリの離宮で生まれる。祖父である第3代イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世は男児の孫を授かったことを喜び、赤子のヴィットーリオを膝に乗せている写真が残されている。祖父からはナポリ公の称号を与えられ、父が即位すると王太子の称号を譲られた。だが9歳の時、王政廃止によってサヴォイア家や他のイタリア貴族たちは亡命を強いられ、没落貴族に仲間入りせざるを得なくなった。祖父母はエジプトへ、王位を継いでいた父と母はポルトガルへと亡命した。
しばらくして両親は実質的な別居状態に入り、母マリーア・ジョゼに引き取られて妹たちとスイスへと移住(現在でもヴィットーリオはスイスに邸宅を所有している)、幼少期を送った。

貴賎結婚[編集]

20歳の時、スイス人の女性スキー選手マリナ・リコルフィ・ドーリア(英語版)と結婚する。平民(非貴族)との貴賎結婚はいかに亡命王族とはいえ家格を貶めると考えられ、父ウンベルト2世からは強く反対されたが、ヴィットーリオはこれを無視した。間に生まれた息子エマヌエーレ・フィリベルトにピエモンテ=ヴィネツィア公の称号を分与した。1969年、ヴィットーリオは自身が第5代イタリア王として国家主権を有すると宣言した[1][2]。貴賎結婚を巡る父との対立と家督問題が背景にあったと言われている[3]。王位請求者としての権限で、リコルフィ・ドーリアをナポリ公爵夫人として強引に家格を引き上げさせる行為も行われた[4]。

サヴォイア家の分家であるサヴォイア=アオスタ家の当主アメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタは、ヴィットーリオ・エマヌエーレの継承が先代当主の同意を得ていないとして、自らが対立王位請求者として行動した。一連の騒動でサヴォイア家はカリニャーノ派(ヴィットーリオ・エマヌエーレの系統)とアオスタ派に分かれての内紛が始まり、ややカリニャーノ派が優勢ながらも現在に至るまで一族内の対立は続いている。

非合法活動[編集]

ヴィットーリオ・エマヌエーレはまた、王位請求者としてだけでなく事業家として行動を起こした。初めは銀行業や航空機会社から、そして次第に武器密輸などの非合法事業などに手を広げていった[5]。そのような中で、1970年代にはネオ・ファシストや右翼軍人、マフィアらの秘密結社であり、バチカンを巻き込んだマネーロンダリングや、南アメリカの軍事政権に違法な武器密輸や資金援助を行っていた「ロッジP2」のメンバーとなっていたことが暴露され、イタリア国内のみならず世界的な大スキャンダルになった。

銃撃事件[編集]

1978年8月18日、ヴィットーリオ・エマヌエーレはコルシカ島のカバルロで停泊していたヨットに乗り込み、乗船していた青年を誤ってライフル銃で射殺する事件を起こした。射殺された青年はディーク・ハマーという資産家の息子で、本来ヴィットーリオ・エマヌエーレが撃ったとされるヨットのオーナーの友人であったが、銃弾の流れ弾に当たって死亡した。1978年8月28日、ヴィットーリオ・エマヌエーレは事件への関与を否定していたものの、被害者の資産家からの民事訴訟を受けている[6]。

1989年10月11日にフランス警察から襲撃と武器の不法所持により逮捕されるが、被害者が麻薬を摂取していたためにその証言能力に疑問があったこと(さらに被害者が仲間同士で誤って撃ったとの証言もある)や、13年前の事件ということもあって、武器のM1ガーランド銃の不法所持のみが罪に問われた[6]。内容は6ヶ月間の禁固刑と極めて軽い内容であった[7]。

イタリアへの帰国[編集]

イタリアの王政廃止は僅差により決定されており、共和国政府は王政復活を恐れてサヴォイア家当主の入国を禁止していた。ヴィットーリオは帰国許可を求める運動を起こし、1999年には欧州裁判所に、帰国を身分により制限するのは基本的人権に違反しているとしてイタリア政府を提訴した[8]。共和国政府側も折れることなく対立を続け、最終的にヴィットーリオが「形式的」ながらも共和制の存在を認め、王政復古を行なわないことと引き換えに帰国を決定した。

2002年2月、ヴィットーリオ・エマヌエーレはピエモンテ=ヴィネツィア公エマヌエーレ・フィリベルトと共にイタリア共和国憲法を承認する宣言を行った[9]。これを受けて、2002年10月23日にイタリア共和国議会はサヴォイア家当主の入国禁止法を撤廃する法案を可決した。2002年11月10日に半世紀ぶりに故郷へと戻ったヴィットーリオ・エマヌエーレは、イタリア国内の要人と会見した後、ヴァチカンに招かれて教皇ヨハネ・パウロ2世と会談した[10]。

王政復古を行わないことを条件にしつつも、政府内には民衆の支持次第では再び王党派の反乱が起きるのではないかと不安に思う意見も見られた。しかし、既に王政廃止から50年が経過しており、王政時代を知る国民は少数派になっていた。国民レベルでの反応は乏しく、大衆は既にサヴォイア家の復権に無関心であった[5]。また、出生地であるナポリでは両シチリア独立運動を支持するボルボニスト(ボルボン家派)と、サヴォイアニスト(サヴォイア家派)との衝突が起きた[11]。

王政復古の否定は、たび重なる問題行動に敵意を深めていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタらアオスタ派との対立を決定的にした。両者の対立はイタリアの王党派組織を巻き込んだものにまで発展していった。

アオスタ公殴打事件[編集]

対立が続く中、スペインのフェリペ王太子とレティシア妃の結婚式を翌日に控えた2004年5月21日、スペイン王フアン・カルロス1世がサルスエラ宮殿で開いた晩餐会に招待されたヴィットーリオ・エマヌエーレは、同じく招待されていたアメデーオ・ディ・サヴォイア=アオスタと口論になり、アメデーオの顔面を殴り飛ばした(アオスタ公アメデーオ殴打事件)。殴られたアメデーオは鼻血を出してその場に倒れ、階段を転げ落ちた[12][13]。

ギリシャ王妃アンナ=マリアがアメデーオの出血を布で押さえる間、フアン・カルロス1世は「このようなことは許されない」と晩餐会が王位請求者同士の諍いに利用されたことに激怒したという[13]。

再逮捕[編集]

2006年6月16日、マフィアの犯罪事業に関わっていたとして、ヴィットーリオ・エマヌエーレはイタリア警察に拘束された[14]。事態に呼応して7月7日、アオスタ公アメデーオは「サヴォイア家家長」および「サヴォイア公」を自らが名乗ることを宣言した。ヴィットーリオ・エマヌエーレは、アメデーオがサヴォイア公を称するのを差し止める裁判を起こした。2008年6月6日に最初の審理が開かれ、現在も裁判中である。

(以上、Wikipediaより)

ゴッドファーザーのワンシーンが目に浮かびますね。

これが世の現実です。

事実は小説より奇なり・・・

マフィアがイタリア王位継承を巡って争っている・・・

もっともっと大昔、紀元前からの家系図がかければ良かったのですが、さすがにそれは残っていません。

エジンバラ公側が信じていることは伝説の域ですね。

今回はこの辺で一旦、切りたいと思いますが、次回予告として、ちょっとだけ書かせてください。


(仮面ライダー、次回予告)


【ショッカーのアジトはロンバルディア】


ロンバルディアは、ヨーロッパの歴史を語る上で欠かせない場所です。


ここでフランク王国時代のイタリア貴族エステ家、ヴェルフ家から、ヘッセンまでの血縁を見てみましょう。

すべての家系図を書くと、とてもではありませんが、記事になりませんので、直系のみ掲載します。

エステ (Este) は、人口16,859人のイタリア共和国ヴェネト州パドヴァ県のコムーネの一つである。ゲルマニアのランゴバルド人の血統のイタリア貴族エステ家の家名の由来の地である。(ランゴバルド=ロンバルディア)

このエステ家の始祖、アルベルト・アッツォ2世・デステからヴェルフを含むヘッセンまでの直系の系図です。


アルベルト・アッツォ2世・デステ  フルク4世・ダンジュー
     |                |
   ヴェルフ1世         フルク5世・ダンジュー
     |                |
   ハインリヒ9世          ジョフロワ4世
     |                |
   ハインリヒ10世         ヘンリー2世
     |                |
   ハインリヒ獅子公ーーーーマティルダ・オブ・イングランド
             |
      _______|___
     |           |
   オットー4世      ヴィルヘルム
                 |
               オットー1世
                 |
     アーデルハイト(1244–1274) - ヘッセン方伯ハインリヒ1世と結婚

おまけでサヴォイア家の家系図です。


サヴォイア家系図

【コミュニストの覇権推移とこれからの民主主義先進国の役割 本当の意味でのアセンション】

アセンションとは

1【不可算名詞】 のぼること,上昇 《★ascent のほうが一般的》.
2a[the A〜] キリストの昇天

2の方は、何の裏付けも無い戯言ですから無視してください。

意識とは、一般に、「起きている状態にあること(覚醒)」または「自分の今ある状態や、周囲の状況などを正確に認識できている状態のこと」を指す。

認識とは基本的には哲学の概念で、主体あるいは主観が対象を明確に把握することを言う。

知識とは、認識によって得られた成果、あるいは、人間や物事について抱いている考えや、技能のことである。


こんにちは、あれ?このブログ、急にスピリチュアル系に?と、思われた方、ご安心ください。

若干、悩み事は有りますが、意識はまともです。

さて、このブログではコミュニストと称して、フリーメーソン、イルミナティ、ナチスト、マルクス・レーニン主義、チェコ秘密警察主義者、アーリア民族至上主義者等々を、ヘッセン陣営と括っています。

つまり、コミュニスト=ヘッセン陣営に一般にコミュニストと言われるマルクス・レーニン主義が入っているという事です。

かつてはその急先鋒でもありました、ソ連の崩壊がヘッセン陣営の戦力の現実的な領土の衰退を象徴しています。

下記は絶頂期の共産主義国と被影響国の分布です。

CommunistBlock.png

それが現在では、下記のようになっています。

スクリーンショット 2013-09-09 8.33.27
            社会主義国

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歴史上のある時点で、憲法にマルクス・レーニン主義以外の何らかの社会主義への言及を含めた国


現存する社会主義国は下記。

アジア

中華人民共和国

ベトナム社会主義共和国

ラオス人民民主共和国

インド共和国 - インド憲法

朝鮮民主主義人民共和国

中南米

キューバ共和国

中東
シリア・アラブ共和国


今、注目のシリアが共産圏だったんですね?

憲法に「バアス党一党独裁による国家の指導」、「社会主義」を明記。

正式名称はアラブ社会主義バアス党(BASP)。現在のバアス党政権は、その他の社会主義、共産主義、民族主義政党と連立して、翼賛組織「進歩国民戦線」(PNF)を結成している。
1940年12月にニーチェ、マルクス、ヘーゲル、フィヒテ、ベルグソンの思想に影響[7]を受けたアラウィー派アラブ民族主義者ザキー・アル=アルスーズィーとその弟子たちがダマスカスで秘密結社「アラブ・バアス党」として結成。

2003年4月にアメリカの侵攻によりサッダーム・フセイン政権が崩壊すると、大半の党幹部が隣国シリアに逃亡した。5月にはアメリカ軍によりバアス党の解党宣言、連合国暫定当局により「非バアス化指令」が出され、バアス党の元幹部党員に対する公職追放が行われた。これにより、旧政権下で働いてきた公務員や教師、大学教授、裁判官、警官、医師らが一斉に失職した。

2010年4月28日、サッダームの誕生日に合わせてシリアの首都ダマスカスで、フセイン政権崩壊後初のイラク・バアス党の集会が開かれた。集会で演説したバアス党幹部のガズワーン・アッ=クバイスィー(Ghazwan al-Qubaisi)は、アメリカの「占領」を非難し、イラク国民の団結を呼びかけた。また、イラク現政府に対しても「全てのバアス党員とナショナリストの政治参加を妨害し、国民再融和から離れた」と批判した[12]。バアス党内の分裂についても否定し、サッダームを「英雄であり殉教者」と認定し、イラクの国民的抵抗を支持続けるとした。集会には約500人が参加し、シリア文化省が所管するホールで行われた。[13]

2011年10月、イラク政府は国内でのテロを企てていたとして旧イラク軍将校を含む620人もの元バアス党員を拘束し、加えて350人の元党員に対して逮捕状を公布したと明らかにした。

話が逸れそうですが、我慢して話を戻します。

第二次大戦前は、東欧も、ベルリンも、朝鮮半島も共産圏では有りませんでした。

中国も、共産党は有りましたが、政権政党ではありませんでした。

これらが終戦後、一気(北朝鮮、ベトナムは各戦争後)に共産圏になっていったのです。

しかし、その後の約70年間で、すっかり衰退してしまいました。

ごらんのように、ごく限られた国で社会主義が生き残っている程度で、共産圏は壊滅的状況です。

しかも、経済はほとんど資本主義です。

さてここで、資本主義=民主主義にしても社会主義=共産主義にしても、機能不全になっているという勘違いついてに触れます。

私もかつては資本主義は崩壊しているといった記事を書いたものでした。

私の当時の考え方として、主に間違っていた部分は、

①アメリカは軍産複合体と国際金融資本の二つの勢力による二枚岩だと思っていた事。

②経済は完全に国際金融資本に牛耳られていると思い込んでいた。

これらは、田中宇氏の論を鵜呑みにしていた時代の私です。

①についての誤りは、戦争を起こすのは常に英米という国家であり、英米をはじめとする超国家のある勢力の存在に言及出来なかった。せいぜい、ロックフェラー、ロスチャイルドといった国際金融資本家の名前を挙げるのが精一杯でした。実は、彼らの意思ではなく、その上の存在を知らなかった。

②についての誤りは、もし、本当に経済が国際金融資本に牛耳られていたとしたら、株式市場など、とっくの昔に崩壊していたはずなのに、それらが存続している理由、そして存続させている勢力の存在を知る由もなかった。

現在、私は名無し先生から、様々な証拠書類を拝見し、なんびとも覆す事が出来ない事実を把握した訳です。

民主主義や資本主義が機能不全に陥っているというのは、とんでもない誤解で、一部の良からぬ勢力による悪事にその原因が有る事が分かった。

そして、ロス茶、ロック爺の上に、何層にも重なる支配構造を知ります。

さらに、私たちの生活の中にまでその悪影響が出ている事を知る事になりました。

ヘッセン陣営がアメリカとか外部に居るのではなく、日本の中枢にいることが分かりました。

それどころか、ヘッセンを遥かに上回る、大きな正義の存在を知り、我々はまだ本格的な民主主義=資本主義システムに移行していない状態である事が理解出来ました。

これをやろうとして独立したのがアメリカで、しかしながら、当初は商工会議所のようなフリーメイソンにオカルトを吹き込んで、すっかり悪の組織にしてしまったのがヘッセンであるということや、南北戦争で欧州的奴隷制度を排除しようと戦い勝利した北軍派を知り、その派閥が今も最大の勢力で有るという事が分かりました。

ですから、アメリカという国を賛美しているのではないのです。

そして、人類は本当の民主主義はまだ経験していないという事。

まだまだ、すべてを把握した訳では有りませんが、例えば、下記のような事です。

先生に教わっている事の一部です。

まず、現代の権力者はどこから来たのか?について。

苦労して理解した内容だけに、皆様にシェアしようと思います。

有名なフリーメーソンのピラミッドがあります。

その一番上の小さい三角形のお話です。

そこにいる権力者にも階層が有ります。

一番下にビルダーバーグに出席するような企業家、政治家、ロス茶(ロス茶はちょっと上)たちがいます。

ロス茶達 < シェルバーン達 < デル・バンコ達 < サヴォイ、ヘッセン達

俗に世界を支配していると言われているいうロス茶、ロック爺、等々、その上にシェルバーンの様な層があって、さらにその上にデル・バンコがの層があって、さらにその上にサヴォイ、ヘッセンが居るという支配構図になっています。

要は、昔の王様、貴族達が最上位で、彼らは今でも王様。

その下の金庫番であったり、商社であったりする層も、現在も役割は同じという訳です。

どの階層も現在では名前を変えて存在している事が多いので、注意が必要です。

●シェルバーンは、2代目ウィリアムの時代に、ランズダウン侯爵と名(役職)を変え存続。現在の法定推定相続人は、現職チャールズ・モーリス・ペティ・フィツモーリスの息子サイモン・ヘンリー・ジョージ・ペティ・フィツモーリス(1970〜)です。

このフィツモーリス、以前の記事【食物支配の閨閥 カナダという英国の属国を通し世界支配するヘッセン】 (08/28)にもでも出てきましたね?

いまではシェルバーンは食物がメインですが、鉄道、運輸、自動車産業にも関係しています。

食料=運送ですから。

また、奴隷制時代の奴隷商人でもあります。

●デル・バンコは、ベニス時代の名前。

ベニスからドイツのウォーバーグという町に定住し、自分の姓としてその町の名前「ウォーバーグ」を家名にしました。

現在でもUBS=ユナイテッド・バンク・オブ・スイッツァランド(スイス)他、金融界の怪物として、ご活躍中です。

現在の会長はアレックス・ウェバー氏ですが、本家の有名なイルミナティ銀行家マックス・ウォーバーグ(1867〜1946)の息子エリック、さらにその息子がマックス・ウォーバーグと同じ名前で呼ばれ、ドイツはハンブルグの、M.M.ウォーバーグでご健在です。

昔、デル・バンコにロンバルディアに銀行を作るよう指示をしたのが、サヴォイです。


●サヴォイはそのままサヴォイです。

このサヴォイについては、非常に長い歴史ですので別記事で書かせてください。ここでは、マフィアであることのみ触れておきます。

●ヘッセンはマウントバッテン。

これは何回も登場してますので割愛させていただきます。


これらの人物達が、いつの時代から世界の支配者になっているかというと、30年戦争後ヴェスト・ファリア条約が締結された頃ですね。

それ以前も当然、様々な支配をし、他にも支配者がいましたが、現代まで続いている支配者は、30年戦争後ヴェスト・ファリア条約が締結された時点の特権を得た人物達です。

この条約で特権を得たもの達が、同時に独立国となった(した)スイスを本拠地に世界を支配しているのです。

ちなみに、住んでいるところはいろいろで、スイスとは限りませんからね。

世界情勢に合わせて、転々として来ましたから。


名無し先生には、こういった事をご親切に、ため息もつかずに、教えていただいて来た訳です。

ですから、私の記事の内容が5ヶ月前(2013年4月頃)からそれ以前とは真逆になっている部分が有るのです。

・アメリカが、イギリスが、日本が、といった国単位の考え方を捨てなさい。

・資本主義が、自民党が、官僚が、皇室が、そういった白黒判定もやめなさい。

なぜなら、そういう考え方が、真実を見る目を曇らせ、透察力を削ぎますから。

名無し先生の正体を明かす事は出来ませんが、犯罪と、その原因である貧困を無くすために尽力されている、特殊な職業のお方です。

名無し先生にしとってみれば誰も救う気が無ければ書かなくて良い事ばかりです。

私にとって、ましてや先生にとっても、書いて損になる事はあっても、得になる事はないのです。

中には、ヘッセンがマスターマインドである証拠と根拠はどこにあるんだ?

という質問が有りますが、ヘッセンというキーワードで出てくる、ドイツのヘッセン州で諦めてしまっているようですね?

ヘッセンの存在を知る検索方法の例

ヘッセンで検索 → ヘッセン方伯 → ヘッセン=カッセル方伯領 → 17世紀から18世紀のヘッセン=カッセル方伯は軍隊を傭兵として貸し出すことで悪名を高くした。18世紀を通じ、ヘッセン=カッセルの人口の7%以上が軍務に就いていた。ヘッセン=カッセル方伯の軍隊は他のヨーロッパ諸国の傭兵市場の供給源となっていた。方伯フリードリヒ2世は、義理の甥にあたるイギリス王ジョージ3世にアメリカ独立戦争に投入するためのヘッセン=カッセル傭兵軍を貸し出したことで有名である。このためアメリカ人はイギリス政府に雇われたドイツ人傭兵たちを「ヘシアン」 (Hessian) と呼ぶようになった。フリードリヒ2世はイギリス政府に傭兵を貸与して得た報酬で豪勢な暮らしを送った。

ここまで辿り着き、さらには、文中のヴィルヘルム1世をクリックすると、当時ヨーロッパ最大級といわれた資産を相続した。また、ヴィルヘルム9世はロスチャイルド家の祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルトと1775年に知己を得、1801年から彼に財産の運用を任せるようになった。ロートシルトはこれを奇貨とし、現代まで続くロスチャイルド財閥の基礎を築いた。

と、行き着きます。さらにヘッセン大公国をクリックすれば、第2代大公ルートヴィヒ2世の四男アレクサンダーとその妻ユリア・ハウケの子供たちはヘッセン家から分かれ、両親の隠遁地バッテンベルクにちなみバッテンベルク家となった。バッテンベルク家はヨーロッパ各国の王家と結婚により結ばれている。イギリスへ移ったアレクサンダーの長男ルイスは家名をバッテンバーグ家、そしてマウントバッテン家と改めた。ルイスの娘アリスの長男はエリザベス2世の王配フィリップである。イギリスでは1960年に女王とフィリップの間の子孫はマウントバッテン=ウィンザー家(Mountbatten-Windsor)とする勅令が出ている。

ここまで簡単に繋がります。

話はイギリス王家がヘッセンだというだけではないのです。

ロシアがソ連になった背景を簡単に・・・

ロシアには日露戦争後もロマノフ家が君臨していました。

このロマノフ家を追い落とした側にロス茶がいました。

ロマノフ王朝を潰す(財産、利権等々を奪う)目的で共産主義化。

そのためにロシア革命をコミュニストに起こさた。

日露戦争 1904年

ロシア第一革命   1905年

ロシア2月革命   1917年2月27日(ロマノフ王朝崩壊)

1922年、共産主義国家ソビエト連邦を成立させる。

ここで、この一連の動きの根元に有るものを見なければなりません

その原因は、30年戦争後ヴェスト・ファリア条約が締結され、ヘッセン側に有利な領地配分になったものの、その後のウィーン会議(1814−1815)でヘッセン側に不利な結果が出たからです。

それを行ったのがロマノフ側のニコライです。

ヘッセン=カッセルの千年王国再来に対する執念。

何としてもロシアを共産主義にして、千年王国の礎を作りたい。

その為に、自作自演で敵対する国を作り上げ、それを煽り続ける事で思考を現実化してしまう。

これで一時は広大な地域を真っ赤に染める事に成功しているのです。

CommunistBlock.png


しかし、現在では著しく縮小してしまいました。

スクリーンショット 2013-09-09 8.33.27

この赤色をヘッセン領土と考えた場合、ヘッセンが形成不利になって来た事が分かります。

アメリカ、日本といった資本主義先進国の中枢にも古くからヘッセン側が入り込んでいるのが現状。

特に、日本の皇室、その中枢にヘッセンが紛れ込んでいる、いや、平然と居座っているのが現状です。

そして、食物、エネルギーといった骨幹産業をヘッセンの傀儡が牛耳り、特権階級として君臨しているのが日本という国。

それでも、社会主義国の分布推移でも分かるように、ヘッセン陣営は劣勢である事は確かです。

そこで自分らが優勢であるとネットで流されているのが、人々を絶望に陥れる陰謀論。

世界は既にヘッセン陣営の手中にある!!

確かに様々な分野で彼らは活躍しています。しかし、それなら、何故、彼らの作り出したシステムの一つであるレーニン・マルクス主義が崩壊し、縮小しているのでしょうか?

常に勉強し、自信を深めたり、逆に過ちに気付き、考えを改めたりすることに何の問題が有るのでしょうか?

例えば、女性の表面的な部分ばかり観て、本当の素晴らしさを知らないときの私が、「女は所詮性欲のはけ口」と言っていたが、女性のすばらしさを理解した今の私が「女性は偉大だ」と言うのと同じです。

このように思考が変化することを成長と呼びます。

その上でまず、意識をしっかり持ち、このような事実を認識し、知識として活用して行く。

そうすることにより、私たちの思考のレベルが上昇すると思いますよ、わたしは。

そして、情報を自分の頭で考えるには、誤った情報を選別し、それらに惑わせれず、さらに厄介な凝り固まった常識という洗脳から自身を解き放ち、正しい次元へと、自分で歩んで行く。

これが本当の意味でのアセンション=上昇だと、私は思うのですが、何か?

それでは。


【TPP推進派 = 国際秩序派か?】

こんにちは、今回はある読者様からのご質問にお答えする記事になります。

ご質問:「TPPで潰されるのは日本国民ではなく、ヘッセン陣営だったと考えると、TPP推進しているのは国際秩序派と考えてよろしいのでしょうか?」

まず、日本に限らず、どの国の、どの団体にも様々な勢力が混在している事を基本とします。

TPP賛成派、推進派にも、冷静に計算した結果、日本の国益を考える勢力と、乗ったフリをして既存の既得権益層による独占解体後に食い込み、奪取しようという勢力の両方が居ると考えます。

これはアメリカ軍産複合体でも、FRBでも、IMFでも、我々の町内会でも同じ事です。

以前にも書きましたが、私は20代の頃、商店街相手の仕事をしていましたから、そのときの経験上、世の中には、純粋な善と、必要悪を含む、現実的な偽善があります。

商店街で、ある催し物をするにしても、純粋に身を粉にし、多少の持ち出しも惜しまない人達と、いちいち利権を絡めて来る人間がいるのです。

悔しいですが、そいつらを通さないと、道路も公園も使えない。もしくは、騒音等の苦情が来たり、妨害がありましたから、仕方なく、奴らの言う通りにしたものです。

フィリピンに初めて来る日本人、特に会社の経営に携わる人達は、そういうことを多少経験しているでしょうが、一般的な日本人はそれが分からない。

ですので、フィリピン人の腐敗した社会構造に驚き、「ダメだ、この国は腐ってる!」と言います。

しかし、これはフィリピン人の開けっぴろげの性格が見せてくれる、現実です。

さて、これが日本ではどうでしょう?

皆さんも、言われてみれば、どこかそんな暗黙の了解があることは理解出来ますよね?

空気が読めないといじめられる・・・

言わなくても分かるだろ、空気読めよバカ・・・・みたいなやつです。

社会主義、共産主義の特徴と良く似ていますね?

ロシアのゴルバチョフが、「日本は世界で唯一成功した社会主義国家」と皮肉りましたね?

まあ、これはバブルの事を指しているのですが、その後も、まあまあ悪くない。

内戦が有る訳でもなければ、クーデターが起きる訳でもない。ましてや戦争など・・・というふうに。

日本には、日本国民が気付かないように裏で構築された、”既得権益層による独占”というものが事実、存在します。

この、ニセ民主主義体制(隠れ社会主義)から、真の民主主義体制へ移行するためには、既得権益層の裏独占体制を破壊するという大仕事(大義)があります。

そういう意味では、確かに、TPP推進派=国際秩序派と言えると思います。

が、その過程で、その一部が密かに当該独占権の奪取を狙って、TPP推進派に賛同する者達も紛れ込みます。

もちろん、基本目的は善の大義ですから、それを悪用しようと紛れ込む勢力を防止する事は出来ます。

その為には国民が、当該勢力の扇動に乗らず、本質を見極めるべきです。

その裏には犯罪の原因となる貧困の撲滅などがある訳で、国際的に推し進めている訳です。

しかしそれを悪用し我田引水だけを狙う奴もいますから、注意が必要ですね。

施策の基本目的が善であっても、それを私的に捻じ曲げ利用としようとする勢力は日本にも欧州にも米国にも存在します。

これが、コミュニストという存在。正反合、自作自演を駆使し、非常に高度な世論誘導を繰り広げていますね?

希望は、国際秩序派にあることは間違いは有りません。

本当の民主主義を目指し、アメリカを建国し、欧州型奴隷制に反発し、南北戦争を戦い抜き、勝ち取った北軍派民主主義。

これを程なく嫌悪する南軍派、欧州奴隷主義が、今でも私たちを事実上の奴隷にしている。

そして、それを決定づけるための新世界秩序なのです。

国際秩序派に頼るのではなく、覚醒して行く事が、求められているのだと、私は思うのです。

ロス茶、ロック爺といった表面ではなく、我々の生活の中にある深い裏事実を知らしめ、現状打破の手がかりになるのがこのブログの目的です。

それでは


【TPPによって日本の農業が壊滅することはない 元財務省理財局長が作成した記事の紹介】


こんにちは、今回は元財務省理財局長が作成した記事を紹介します。

原理としての自由貿易を、本来起こりえる事象からノーマルに解析すればこうなります。

自由化対象になっているある農産物の生産・消費が、自由化後にどうなるか考える。

まず、その農産品に対して関税等の貿易制限がかかっているため海外からの輸入がなく、国内供給だけになる単純なケースを想定する。その場合、価格は図のP1、取引数量はQ1となる。このとき、P1より高い価格でも買おうとする消費者もいるが、P1で買えるので、そうした人にはこの状況は「お得」になっている。その「お得」は、三角形A・P1・E1で表される。これを「消費者余剰」という。

スクリーンショット 2013-09-02 10.46.18

 一方、生産者にとってもP1より低い価格で出荷してもいいという者もいるが、P1で出荷できるので、そうした者にとっては「利益」になる。それらは、三角形P1・B・E1で表される。これを「生産者余剰」という。

スクリーンショット 2013-09-02 10.47.34

消費者余剰と生産者余剰の合計は、この農産品取引のメリットであり、 三角形A・B・E1で表される。

スクリーンショット 2013-09-02 10.48.47

そこで、貿易制限を撤廃し貿易自由化を行うと、海外からの輸入が増えて、価格はP2まで下がり、取引数量はQ2まで増える。

こうなると、価格低下のメリットによって、消費者余剰は、三角形A・P2・E2へと増える。

スクリーンショット 2013-09-02 10.52.18

貿易自由化前との差は、台形P1・P2・E2・E1である。

スクリーンショット 2013-09-02 10.57.06

この消費者余剰の増加分は、消費者が価格低下のメリットで財布に余裕ができた部分と考えられる。その余裕分は他の財サービスに購入に回され、その財サービス部分の所得を増加させるので、GDPを押し上げるとみてよい。

生産者余剰はやや複雑だ。国内生産者と海外生産者の合計では、三角形P2・C・E2となる。

スクリーンショット 2013-09-02 10.59.21

このうち国内生産者余剰は、三角形P2・B・D になる。

スクリーンショット 2013-09-02 11.01.14

これは、貿易自由化前と比べて台形P1・P2・D・E1だけ海外製品の輸入に押されて縮小する。

スクリーンショット 2013-09-02 11.02.32

この国内生産者の生産余剰の縮小は、その生産者の所得減少になり、GDPを押し下げる。

なお、海外生産者の生産者余剰は、三角形P2・C・E2から三角形P2・B・Dを除いた、四角形D・B・C・E2となる。

スクリーンショット 2013-09-02 11.04.36

貿易自由化によって、利益を受けるのは国内消費者と海外生産者であり、一方、被害を受けるのは国内生産者である。

消費者のメリットが生産者の被害を上回る.

国内に限って言えば、利益を受けるのは国内消費者であり、その数は非常に多いので1人あたりの利益は小さいが、それらを合算した利益額は台形P1・P2・E2・E1になる。

スクリーンショット 2013-09-02 11.17.09

被害を受 けるのは国内生産者であり、その数は少ないので1人あたりの被害は大きいが、その合算の被害額は台形P1・P2・D・E1である。

このため、国内消費者はメリットをあまり実感できない一方で、国内生産者は被害を大きく実感できるので、政治問題が起こる。

しかし、国内消費者の利益額の台形P1・P2・E2・E1は、国内生産者の損害額の台形P1・P2・D・E1より必ず大きい。

スクリーンショット 2013-09-02 11.17.09

スクリーンショット 2013-09-02 11.02.32

ということは、国内生産者の被害は、国内消費者の利益額の一部で必ず穴埋めができることを意味している。仮に全部を穴埋めしても、国内消費者は貿易自由化の前より状況はよくなる。要するに、TPPでGDPは増加するのだ。

しかも、以上は国内に限った話であるが、貿易自由化は相互主 義なので、海外生産者が国内で受けた利益額の四角形D・B・C・E2に対応する利益額を日本の輸出業者も受けられる可能性がある。

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なお、食の安全や環境面の考慮をしても、供給曲線などに多少の修正は必要になるが、それでも上記の結論は大きく変わらず、貿易自由化のメリットを否定することはできない。

農水省、経産省、内閣府の試算がそれぞれ違うワケ

これらを理解しておけば、TPPに関して農水省、経産省、内閣府がそれぞれ出した効果試算がどうしてまちまちの数字なのかがわかるだろう。

まず、農水省は、TPPで打撃を受ける農業を所管する役所だ。TPP参加は農業の被害というマイナスを主張するのが農水省の役目だ。そう言 わなければ、省の存在すら否定されてしまう。

それにマイナス効果となれば、いずれ補助金が必要になるはずという計算も働き、補助金を多く獲得するためにも、マイナス効果をできるだけ大きく主張する。かつてのコメ開放の際、農水省は5兆円の補助金をせしめたが、結局、コメの競争力は強化されなかった。カネのぶんどりだけでは、展望は開けない。

農水省の試算によれば、関税完全撤廃によって農業生産額は年間4.1兆円減少し、関連産業への影響も含めるとGDPが7.9兆円減少するという。これは、おおざっぱに言えば、上の図での国内生産者の被害額である台形P1・P2・D・E1に対応する数字である。

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次に経産省。経産省はTPPで恩恵を受ける産業界の利益代弁者だ。T PPの効果をできるだけ大きく見積もり、産業界に恩を売っておきたい。あわよくば、恩恵を受ける業界がシンクタンクでも作ってくれれば、自分たちに天下りポストが回ってくるかもしれない。

ということで、TPPに参加すれば輸出額が約8兆円増加し、逆に不参加ならGDPが10.5兆円減少するとの試算を示した。これは、海外生産者が国内で受けた利益額の四角形D・B・C・E2に対応する、海外での利益額だろう。

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最後は内閣府。農水省や経産省に比較すれば、特定の利権をもたないので、霞ヶ関官庁の中では一番包括的な試算をしている。TPP参加により、GDPを2.4兆~3.2兆円(0.48~0.65%)押し上げるとの試算を公表している。

これは、おおざっぱに言えば、国内消費者 の利益額の台形P1・P2・E2・E1から、国内生産者の被害額である台形P1・P2・D・E1を引いた金額に相当するだろう。ということは、農水省のいうように国内生産者の被害額が7.9兆円であれば、国内消費者の利益は10.3~11.1兆円になるだろう。

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政治的には、国内消費者の利益10.3~11.1兆円と海外での利益10.5兆円を合計した20.8~21.6兆円から、最大限7.9兆円(ただし、農水省の試算は補助金分取りのために過大になっている可能性がある!)を税金として徴収して、国内生産者に配分すればいい。その手法としては、戸別農家補償制度でもいい。しかし、いつまでも配分するわけにもいかないので、期限を切って行うことが望ましい。その時、国内生産者の事業転換や規模拡大等による生産性の向上が必要だ。

TPPによって日本の農業が壊滅することはない

そこで、TPPによって日本の農業が壊滅するかという素朴な疑問が生じる。図の分析は、極端に単純化されたもので、移送コストなどを無視しているが、現実的に考えれば、多少の価格差があるとしても、壊滅することはない。

しかし、極端な価格差がある場合にはどうなるのか。それは、自由化の移行期間や為替レートなどを考えた場合の最終的な価格差等に依存する。移行期間が十分に長ければ、大規模農業を行うなどによって、生産性の向上が可能になって、壊滅することはない。

また、これまでの20年間のように、通貨の過小供給になると円高傾向になる。為替レートは、通貨と他の通貨の量で大体決 まり(マネタリーアプローチ)、円が過小供給であると円の希少性が高まって円高になるからだ。すると、輸入価格が下がり、国内生産業者は厳しい競争を強いられる。また、攻めの農業ということで輸出することも難しくなる。

デフレを脱却するには、円を増やすことであるが、それは、TPPによって日本の農業を壊滅させないためにも必要だ。

以上、如何でしょうか?

この説明が理解できないと、TPPについて語れないと思うのです。


【陰謀論でもなんでもない意見 TPPを見据えアイリスオーヤマが農業ビジネスに本格参入。流通改革の手本となるか?】

【TPPを見据えアイリスオーヤマが農業ビジネスに本格参入。流通改革の手本となるか?】

http://news.kyokasho.biz/archives/10622

農業分野においてTPP(環太平洋パートナーシップ協定)締結後を見据えた動きが活発化している。宮城県仙台市に本社を置く、家庭用プラスチック製品大手アイリスオーヤマは東北産のコメの流通事業に本格参入する。仙台市内の農業生産法人「舞台ファーム」と提携し合弁会社を設立、50億円をかけて大規模な精米工場を建設する。

 新会社は4月末に設立の予定。東北の農家や農業生産法人と契約を結び生産者から米を買い取り、全国の大手スーパーやコンビニエンスストアに販売する。初年度の売り上げは16億円、3年後には100億円を目指す。

 アイリスオーヤマは、家庭用の半透明収納ケースの大ヒットで急成長したメーカー。現在では、家庭用プラスチック製品を中心に、インテリア、ガーデニング、大型家具、家電など様々な商品を製造販売している。海外拠点の整備にも早くから取り組んでおり、極めて高収益体質の企業として知られている。

 TPP締結が農業分野にもたらす影響はいろいろと議論されてきた。農業関係者の中にはTPPへの参加に対して強硬に反対する人も多いが、それは必ずしも生産者(農家)とは限らない。農作物の流通や農業に対する金融システムを担ってきた農業団体がTPPへの参加によって寡占状態が崩れてしまうことを強く警戒しているという側面がある。

 だが一方で、寡占状態の硬直化した流通システムが日本の農業の競争力を弱めてきた面も否定できず、農家の生産性だけでなく農業全体での改革が求められているのも事実である。日本の農作物の中間コストは極めて高く、割高といわれる韓国よりもさらに高いことで知られている(本誌記事「韓国で野菜の流通コストが政治問題に。だが日本はもっとひどいぞ!」参照)。

 アイリスオーヤマの経営能力の高さは同社の業績が証明しており、このような企業が農作物の流通市場に参入することの意義は大きい。同社が運営する精米工場が順調に業績を伸ばすようであれば、日本の農業の問題は生産者側ではなく流通側にあることが明確になる可能性もある。

 ちなみに同社の精米工場で生産されるコメは、小分けパックにして少人数世帯でも買いやすいように工夫されているという。また脱酸素剤が入っており長期間保存も可能だという。工場は2014年2月から生産を開始する。

【韓国で野菜の流通コスト高が政治問題に。だが日本はもっとひどいぞ!】

http://news.kyokasho.biz/archives/7976

 韓国の朴槿恵新政権の重要な政策課題の一つが、割高といわれる韓国の流通コストの改革だという。特に農産物の中間コストが高く、生産者は儲からず、消費者は高い買い物を強いられているという。

 韓国の報道によると、大根は生産者販売価格の1.9倍、白菜は1.8倍、ニンジンは1.7倍で消費者は購入させられているという。生産者から小売店に並ぶまでにいくつもの卸業者を経由してマージンが上乗せされていくからだ。

 複雑な流通ルートをどのようにして合理化するのかが、朴槿恵政権の課題のひとつになっている。

 確かに韓国の流通システムは前近代的で、消費者と農家にしわ寄せが来るシステムなのかもしれない。

 だが韓国がひどいというなら、日本はさらにひどい。同じ条件の比較ではないので、単純に優劣をつけることはできないが、日本の流通コストはこんなレベルではないのだ。

 昨年末の日本における小売価格は、生産者価格に対して、玉ねぎが約4倍、白菜が約3.5倍、ニンジンが3.4倍、大根が2.4倍だ。韓国よりも状況ははるかにひどい。

 日本と韓国で卸業者の業態にそれほど違いあるとは考えらないため、日本の農作物の値段が極端に高い(あるいは農家への支払が極端に安い)のは、卸業者との間に入る農業団体が巨額のマージンを確保しているからと考えられる。

 程度の違いはあるが、それにしても韓国と日本が抱える問題はいつも似通っている。


いかがでしたか?

今回は転載記事だけで構成されています。

私の主観は一切入っていません。

さあ、否定してみてください。

それでは

追記:否定しても、それを覆す次の資料が有りますからね。覚悟してコメントください。


【食物支配の閨閥 カナダという英国の属国を通し世界支配するヘッセン】

こんにちは、今回は先日の名無し先生からのコメントメールを詳細に説明します。

名無し先生は一連の流れが頭に入っているので、スラスラと書かれていますが、分からない人も多いと思います。

聞いた事も無い固有名詞が出て来た時、それを理解しようと、Wikipedia等で調べるのですが、日本のWikipediaは内容が薄かったり、その人物さえ見つからない事が多いので、英語のWikipediaに行く事がしばしばです。

まず、どこか ら書くのが適切なのか分からないのですが、オッペンハイマー家から書こうと思います。

オッペンハイマーというと、アインシュタインとともに、マンハッタン計画で原爆を開発し、原爆の父と呼ばれる人物が有名ですね。

今回はそのオッペンハイマーではなく、ヤコブ・ウルフ・オッペンハイマーという人物から紹介します。

この人物がどんな人物かというと、かのロスチャイルドに銀行業務を教えた人物です。

■ザームエル・オッペンハイマー(Samuel Oppenheimer, 1630年頃 ハイデルベルク - 1703年5月3日 ウィーン)は神聖ローマ帝国への軍事力補給者。ハプスブルク家の対オスマン帝国戦争の戦費資金援助をした。パレスチナに帰還して定住しようとするユダヤ教徒への支援を行った。(Wikipedia日本語版より)

ザームエル・オッペンハイマーの息子の一人、サイモン・ウルフ・オッペンハイマーは、ハノーバーの銀行家。サイモン·ウォルフの息子、ヤコブ・ウルフ・オッペンハイマーは、家族の銀行業を続けた。

1757年から1763年まで、ヤコブ・ウルフ・オッペンハイマーにマイヤー・アムシェル・ロスチャイルドが弟子入りし、その姓の代名詞となる銀行業務を学んだことを示しています。オッペンハイマーの子孫には、作曲家フェリックス·メンデルスゾーンが含まれています。(Wikipedia英語版より)

■マイヤー・アムシェル・ロスチャイルド

親族の助けを借り、ロスチャイルドは1757年、ハノーバーのサイモン・ウルフ・オッペンハイマーの銀行で、ジェイコブ・ウルフ・オッペンハイマーの見習いとなった。

サミュエル・オッペンハイマーの孫は、彼に外国貿易、外貨両替の知識を教えました。

1763年にフランクフルトに彼の兄弟のビジネスに戻り、彼はコイン収集家向けのディーラーになり、ヘッセ州皇太子ウィルヘルムに認められます(1769)。ロスチャイルドのコインビジネスは常連客が増え成長し、その後1785年にヴィルヘルムIX、ヘッセン·カッセル方伯となった皇太子ウィルヘルムに銀行サービスの提供を通じて拡大しました。

ロスチャイルドは、ヘッセン傭兵レンタル料の英国か らの支払いを担当し、フランス革命後に急速に拡大しました。

19世紀初頭、ロスチャイルドはウィルヘルムIXに主要国際銀行家としての地位を固めていたので方伯から資金を借りて、自分自身の国際的な融資を発行始めました。

1806年、ナポレオンがヘッセ州に侵攻。方伯はホルスタイン公国に亡命したが、ロスチャイルドはロンドンで資金を投資し、銀行家として存続することができました。彼はまた、ナポレオンの大陸封鎖を迂回し、商品を輸入することで利益を得ました。(Wikipedia英語版より)

■アーネスト・オッペンハイマー

アーネスト・オッペンハイマー(Sir Ernest Oppenheimer, 1880年5月22日 - 1957年11月25日)は、ドイツ出身の鉱山事業家。ダイヤモンドや金の採掘で富を築いた。

ドイツ語では名前の発音は「エルンスト・オッペンハイマー」とするのが近い。

ヘッセン州のフリートベルクに生まれる。父エドゥアルト・オッペンハイマーは煙草販売の商人。

17歳でロンドンのダイヤモンド商Dunkelsbuhler & Companyに入社し、勤勉さで社長に感心された。1902年、会社の代理人として南アフリカのキンバリー鉱山に送られてダイアモンドの買い付けを担当。またアングロ・アメリカン社の南アフリカ支店 (The Anglo American Corporation of South Africa) を設立した。

彼の事業は息子ハリー・オッペンハイマーが継いで発展させた。

■アングロ・アメリカン

• 1917年 : 南アフリカの金塊を採掘、販売するためアーネスト・オッペンハイマーがAnglo American Corporation of South Africaとして創業する。この独特の長い社名は、イギリス、米国、そして南アフリカから資本金が集められたことに由来する。そのため、現在でもアングロ・アメリカン社はAACと呼ばれることも多い。創業後ほどなくして、同社は南アフリカハウテン州のスプリングズ (Springs) やブラックパン (Brakpan) における金鉱山の開発に成功し、資本を増大させていく。
• 1926年 : この年、ダイヤモンドの供給会社として最大手であったデビアスの株式を過半数取得。資本関係を結ぶ。
• 1928年 : 現ザンビアのカッパーベルト (Copperbelt) と呼ばれる地域で銅の採掘を開始する。カッパーベルトは、そのまま銅地帯という意味である。この開発のためにRhodesian Angro Americanを設立。
• 1942年 : カナダのHudson Bay Mining and Smelting Co.を買収。
• 1971年 : 1928年から続いたザンビアのコッパーベルトにおける胴の採掘を終了。このプロジェクトのために設立していたRhodesian Angro Americanをバミューダ諸島へ移転させ、この社名を新たにMinerals & Resources Corporationとする。
• 1974年 : Minerals & Resources Corporationという社名が長いため、これを略してミノルコ (Minorco) とする。
• 1987年 : ミノルコの本社をルクセンブルクへ移転。
• 1995年 : 子会社であるJCI社 (Johannesburg Consolidated Investment Company) をAmplats社(白金とダイヤモンド)、新JCI社(その他の鉱業)、Johnic社(工業部門)の3社に分割し、新JCI社とJohnic社の権益を黒人投資家へ譲渡した。JCI社の事業の核であったはずの白金とダイヤモンドの事業は、後に資本関係を結んでいるデビアスへ移管されている。
• 1998年 : 大規模なグループ改編[3]があり、南アフリカのSamancor社の権益を40%取得。Samancor社の残りの権益はBHPビリトンが持っている。
• 1999年 : 5月24日、ミノルコと合併。ここ最近の様々なグループの改編を機にロンドン証券取引所へ上場、社名をAngro American PLCとする。アングロ・アメリカン社の本社もロンドンへ移転する。

ミノルコ=アングロ・アメリカン

このようにハプスブルク家から続くオッペンハイマー家に初代ロスチャイルドが弟子入りし、その後、ヘッセン=カッセル一族の金庫番になり、現在のロスチャイルド家が出来上がっていくのです。

アーネスト・オッペンハイマーは、南アフリカで金、ダイヤなどの鉱山ビジネスで成功し、めでたしめでたし。

あ、ちなみに今回は全体を書かなければならない為、その他のアーネスト・オッペンハイマーの悪事には触れませんが、調べれば簡単にでてきますので、是非、調べてみてください。

以上を読んで、食物関連には絡んでいないじゃないか?と思いますよね。

彼はアングロ ・アメリカン社の南アフリカ支店 (The Anglo American Corporation of South Africa) 担当一族です。

しかし、後述しますが、ちゃんと食物関連のコネクションが有る訳です。

まず今回書くのはミノルコ・カナダ支店の話。

■ヘンリー・チャールズ・キース・ペティ=フィッツモーリス

1883年〜1888年まで、カナダの総督を勤めた人物です。

この頃からカナダを経由した、英国による米国の食物関連の支配が強まって行きます。

そして、フィッツモーリスの家系にアスター家が婚姻家系で結びついています。

彼の息子のチャールスの代でマーサー・ネアンに改名しています。

チャールス・ジョージ・フランシス・マーサー・ネアンは第一次世界大戦で戦死。

その後、その未亡人、ヴァイオレット・メアリー・エリオットがアスター家と再婚。

ペティー・フィッツモーリス家の家系図

クリックで拡大

Derry Hill - Lansdowne Family Tree 1623-Present

■アスター家

ジョン・ジェイコブ・アスター(英: John Jacob Astor、生まれた時はヨハン・ヤコブ (Johhan Jakob Astor)あるいはヨハン・ヤコブ・アスター (共にドイツ語読み)、1763年7月17日-1848年3月29日)は、アスター一族の初代となる著名な一員であり、アメリカ合衆国では最初の百万長者になった。アメリカでは初めてトラストを創設し、毛皮貿易、不動産およびアヘンからその資産を築いた[1]。

毛皮貿易で大成功し、その金を使ってマンハッタンの広大な不動産を購入・開発した人物です。

■ブンゲ

ブンゲ·リミテッド(旧ブンゲ·インターナショナル、そしてその前ブンゲYボルン)は、ミズーリ州セントルイスに本社を持つ食品加工企業。国際的な大豆の輸出国であると同様に、食品加工、穀物取引、および肥料に関与している。カーギルとアーチャーダニエルミッドランドと競合。同社は40カ国400施設で35,000人を超える従業員を擁している。
■ガーフィールド・ウェストン Willard Garfield Weston(1898-1978)

ウィラードガーフィールドウェストン、OC、(1898年2月26日 - 1978年10月22日)、カナダの実業家で慈善家。半世紀ジョージウェストンリミテッドおよび関連ブリティッシュ·フーズを含めた様々な子会社及び関連会社を率い、世界最大の食品加工·流通会社のオーナー。

■コンチネンタル・グレイン(エドモン・ロスチャイルド支配)

コンティグループ会社(CGC)は、1813年に創設され、穀物を取り引きする会社として、ベルギーのサイモン・フリブールによって設立されました。
以前はコンチネンタル・グレインとして知られて、コンティグループは13,500人以上を世界的に雇用する間に10か国でオフィスと設備で多国籍企業へ膨らみみました。
今日、CGCはアメリカの最大の個人所有の企業のうちの1つです。

世界60か国に子会社で、800のプラントを持っています 。

コンチネンタル・グレイン(サイモン・フリブール)のカーギルに引き継がれ、

2番目に大きな米国および世界穀物トレーダー(市場の20%を備えた)

大豆製品とデリバティブの主要な米国の輸出業者

世界最大の牛飼料およびエビ養殖場(エクアドル)。

カーギルはモンサントと協力し種子を売っています。

■ジュリアン・オギルビー・トンプソン

アングロ·アメリカン・カナダ支店の会長。

南アフリカ、ケープタウンで1934年出生。南アフリカのデビアスとアングロ·アメリカン·マイニングの元会長である。
1957年、彼はハリー·オッペンハイマーの個人秘書となり、1961年にアングロ·アメリカン·ファイナンス部門に配属。
彼はこの部門で出世し、1966年にデビアスボードに参加しました。
オギルビートンプソンは1971年にアングロ·アメリカンのエグゼクティブディレクターに任命され、1985年に1982年とデビアスの会長に就任。また、ハリー·オッペンハイマーがミノルコの会長に就任した。
1999年のアングロ·アメリカンとミノルコの合併を担当した後、オギルビートンプソンはその会長兼CEOに就任。彼は2000年にトニートラハーに引き継いだが、非執行会長として籍を置いている。
彼はまた、2002年にデビアスの副会長を辞任したが、非業務執行取締役であり続けた。

1961年には、AACが初めてアフリカ南部の外 部で拡大し、カナダでハドソン湾採鉱およびスメルティング会社に出資。
1982年には、ハリー・オッペンハイマーがAACの会長として辞任しました。
2年後に、オッペンハイマーはデビアスを辞任し、会長の地位をジュリアン・オギルヴィー・トンプソンへ渡しました。この人はさらに1990年にAACの会長および最高経営責任者になりました。

ここで、前出のアーネスト・オッペンハイマーの息子、ハリー·オッペンハイマーとジュリアン・オギルヴィー・トンプソンが出てきました。

この、ジュリアン・オギルヴィー・トンプソンが、ミノルコ・カナダという会社を通して、アメリカに日本の農協の様な子会社を設立。

ファーマーズ・アグリカルチュラル・クレジットという会社ですが、農家の為の金 融機関=農協ですね。

そしてファームベルト・ケミカルズですが、肥料を販売=農協ですね。

さらにイギリス農業協会=そのまんま農協ですね。

これらが、すべて一族なんです。

これら全部が血縁関係に有り、ちゃんとロスチャイルドの血も大勢入っているんです。

ヘッセン・コンツェルンの財務部長がロスチャイルドですね。

それでは名無し先生のコメントをもう一度読んでみましょう。

まず、現在の農業等に関する保護関税策が誤った基準で設定されている事が、新記事【具体的な話 TPPで日本の農業が潰れ、保険制度はひどくなるのか?】 を読めば分かりますね?これは、ある特定の分野に優先権を与え既得権益を発生させる結果に成っています。本来は特権層ではなく、国民全体にメリットがある産業保護を短、中,長期的視点から設定し、特別保護を受けた産業は逆に特別な税金を払う仕組みを作り、その税収を福祉、衰退産業保護に供するのがノーマルな政策であると思いませんか?しかし農業だけを考えても、本業以外の金融業を主たる生業とする大規模な集団が結成されており、大きな選挙票を操れるようになっているのです。結果、民主党から政権を取り戻した与党内でも、その票を当てにする議員が過半数になっている現状なのです。これを族議員と言う訳ですね?つまり上記の様な、ノーマル政策を、通し辛い政治的仕組みまでを既に構築しているのです。これは国内問題であり、TPPの様な国際協定が解決してくれる問題ではありません。解決策は、誰が、何故選んだ公僕(国会議員)であるかが明確になる位、国民一人一人が地元で結束し、宗教、特定利益団体等の票と明確に分離できる「・・・の会」を結成する事です。そして各会が送り込んだ議員の行動を監視し、いつでもリコール出来る状況を作る事です。実現できれば自ずと族議員は浮いてしまいます。

これが本来の民主主義で、既得権益者が裏操作する社会主義からの脱皮の為、欧州各地で過去に繰り広げられた民主革命の本来的意義です。しかし、その際に民意の高まりの裏で、タイミングを合わせ陰謀を企て、新たな特定権益を作るべく暗躍してきた集団が、絶えず存在したのです。欧州勢は、これらの駆け引きを何世紀にも渡り経験してきたツワモノで、やり口も洗練(おかしな言い方ですが)されています。米国カ―ギルがTPP推進の旗頭で、米国大統領と結託し、日本市場を乗っ取ろうとしているという妄想は、この洗練された?やり口の一つです。エドモン・ロスチャイルドが実質上の支配者であるコンティネンタル・グレイン社を中心に形成された、複雑な食物関連閨 閥の一角 を占めるのがカ―ギル社であり、穀物商社ブンゲ、イギリス農業協会、ミノルコ・カナダ・・・など血の繋がりを持った連中です。ミノルコ・カナダは米国の農業金融会社ファーマーズ・アグリカルチャル・クレジットや米国肥料会社ファームベルト・ケミカルズを子会社とし米国食物業界に君臨してきました。独立戦争以来の米大陸におけるカナダの位置付けは、英国をバックにしている事は言うまでもありませんね?TPP実施後に、これらの勢力がアジア市場略奪に動き出す事は、勿論想定しなければならぬ大きな要因なのです。

どちらの既得権益者からも、毅然と独立をし、国民利益(身勝手ではない範囲の)を堅持する為には、本来あるべき理想的状況を定義できるレベルに国民の意識が成熟していなければ、目標を持てませんね?国民主権の立場から言えば、内外双方からの敵と戦い、民主主義を勝ち取らなければならぬ状況に、日本国初めアジアの国々は立たされていると言う事です。これ位の相互関係を理解しないと、気が付いたら内部の敵と、外部の敵が裏で手を結び、いい様に操られてしまいますよ、という事です。実際TPP枠に入っていない、英国やカナダに大きな力を持つ閨閥がカ―ギルの裏にいる正体なのですから、憎き米国と言っている間に、別の国の仮面をかぶって、日本の既得権益者 と手を結 んで、日本国農業を守る正義の味方を気取る可能性は非常に高いのです。アジア諸国の中にも、この閨閥傀儡が支配者となっている国も多いのですから。また近隣アジア諸国の中には、日本の既得権益者と国際閨閥の共同作業によりTPP以前に食物支配を進められている国も存在します。ここで日本国民である貴殿が出すべき結論は、日本人にとって少しは有利になるかもしれないから、国際閨閥と上手くやってもらって、おこぼれがある事を期待するか、こうした一連と決別し、本来の民主主義を実現する為の一歩を踏み出すかの選択です。繰り返しますが、TPPは既得権益を壊す効果があっても、その後の「富の再分配」は国内問題であり、既存制度改定が出来るかどうかの国民の資質の問題です。その具体的解決策 の第一歩が、利益本位に動く族議員という存在の解体と言う事です。そして国民の為の施策を実行する人間を、送り出せる地域コミュニティーを形成する事です。

如何でしょうか?

日本だけではなく、世界中で同じ仕組みで、農業が牛耳られている事が分かります。

日本の農協のやり方と同じ方法なんです。

考えるのが同じ連中ですから、当たり前です。

財務部長ロスチャイルドの指示の元、カラスが日本の農協制度を構築し、後に皇室に入る家系を冠にしたんですから。

アメリカでさえ、イギリスの農協にコントロールされているということが分かりますね?

それだけではありません。

世界中がこれら一部のグループに支配されているのです。

それで、いま、TPP反対などと、踊らされていますが、日本人の仮面を付けた、世界征服者に協力をする連中=農協、日清製粉、輸送会社、極東子会社財務部長緑カラス、等々に既に支配されていることに気がつかず、反対しても仕方ないということです。

そこから抜け出すのが、高度自給自足に向けた個人レベルでの覚醒と、行動なのです。

エネルギーは本当に自給出来ないのでしょうか?

食料は本当に自分で作れないのでしょうか?

名無し先生のお言葉

TPPは既得権益を壊す効果があっても、その後の「富の再分配」は国内問題であり、既存制度改定が出来るかどうかは国民の資質の問題です。その具体的解決策 の第一歩が、利益本位に動く族議員という存在の解体と言う事です。そして国民の為の施策を実行する人間を、送り出せる地域コミュニティーを形成する事です。

難しそうに聞こえますよね?

①TPPは既得権益を壊す効果が有る。
②その後の「富の再分配」は国内問題である。
③既存制度改定が出来るかどうかは国民の資質の問題です。
④その具体的解決策 の第一歩が、利益本位に動く族議員という存在の解体と言う事です。
⑤国民の為の施策を実行する人間を、送り出せる地域コミュニティーを形成する事です。

③ですよ。

③が日本人が注意しなければならない。この議論に持って行くこと。

でも、もう諦めていますよね。

どうやったら、我々の考えを伝えられますか?

それは目の前に転がっているのです。

追伸:うさぎは糞をポロポロ落とします。これがまた無臭で肥料にうってつけです。
   肉を食わないから全然臭くない。草を食べてそれを還元しているんですね。
   大したものです。見習わなくては。




【具体的な話 TPPで日本の農業が潰れ、保険制度はひどくなるのか?】

こんにちは、今回はコメントで話題になっている日本の農業の将来性について、私の意見ではなく、客観的に、より具体的に書きたいと思います。

私が入手出来るデータを元に記事にします。

今回は特に引用のお断りなく貼らせていただきます。

この記事を読んでも、日本の農業は潰れると思いますか?

TPPに参加、不参加で最近では参加反対デモも起きてるようですが、「参加しないところで農業の衰退が止まる訳ではない」という的を得た意見も聞かれます。

そもそも日本の農作物は関税率がどれくらい掛かってるのか、調べてみました。

日本は関税により自国の農業を守っていると言ってもよい。

緑のカラスさんが守ってくれているという、早とちりはダメですよ。

緑のカラスさん達が、何の見返りもなしに守るわけないですから。

緑ガラスは、自分らがピンハネする為に、大変高率な関税をかけています。

http://debatekk.com/default.files/Page10644.htm

農畜産物 関税率
コンニャクイモ 1706%
えんどう豆 1085%
コメ 778%
落花生 593%
タピオカでんぷん 583%
小豆 403%
バター 360%
粗糖 328%
大麦 256%
小麦 252%
生糸 245%
いもでんぷん 234%
脱脂粉乳 218%

TPP交渉参加国と日本の平均関税率(農作物)

TPP交渉参加国 平均関税率(農作物)
シンガポール 0.2%
ブルネイ 0.1%
ニュージーランド 1.4%
チリ 6.0%
米国 4.7%
豪州 1.3%
ペルー 6.2%
ベトナム 18.9%
マレーシア 13.5%
日本 21.0%

農業生産額の3割を占める野菜の関税は、ほとんどの品目のゼロから3%だが、国産比率は80%。

花の関税は一貫してゼロだが、90%が国産。

果物の関税率は5~15%だが、たとえばリンゴでは輸入品の比率は0.01%。むしろ輸出が増えている。

トウモロコシや大豆は無税なので、飼料や原料の価格が抑えられている。

小麦は91%がすでに外国産。関税は252%だが、大部分は無税の国家貿易で輸入されている。

大麦の関税は256%だが、飼料が大部分なので、これが無税になると畜産業界のコストが下がる。

バター(360%)や砂糖(328%)などの原材料の関税が高いため、乳製品やお菓子の価格が2~3倍になり、国際競争力を失っている。

牛肉の関税は38.5%と高いが、歴史的には牛肉の関税が下がって輸入が増えると国産の消費量も増えた。

関税の撤廃で明らかに影響が出る重要な作物は関税率778%の米だ。

コメは、778%という高関税率で守られており、農業総産出額の22.5%、すなわち1兆9000億円を占めているのです。

コメの重要性は、その従事している農家数からも理解できます。

農林水産省「2010年農林業センサス」によれば、全国の1,180,441の総販売農家数のうち、平成22年農産物販売金額でコメを第1位とする農家数は772,841、すなわち総販売農家数の65%を占めているのです。

では、コメ農家と野菜農家を比較してみましょう。

ちなみに、野菜農家数は農業総産出額では24.9%と22.5%のコメより多く、国産率82%を誇っているのは、前に述べたとおりです。

農産物販売金額で露地野菜と施設野菜を第1位とする農家数合計は、128,063と総販売農家数の11%を占める程度なのです。

ここで大変面白い結果が理解できます。

つまり、コメ農家と野菜農家を比較すると、農業総産出額では24.9%と22.5%とほぼ似ているので、仮に農業総産出額を同じとすれば、農家数が野菜農家はコメ農家の17%しかないということです。

農業総産出額でいえば、野菜農家はコメ農家の6倍程度の売上があるということなのです。

米は778%という高関税率で守られている一方、野菜は関税率が3%程度のなのです。

関税率が3%程度といえば、関税に守られていないに等しい野菜農家です。

その野菜農家が、関税の保護が無ければ農業が壊滅すると言われているのに、返ってコメ農家の6倍程度の売上があり、かつ82%の国産率を維持しているわけです。

TPPで壊滅すると報道される農業の実態と随分とイメージが違いますね。

■TPPと農業問題の本質:全国農家数のうち、農産物販売金額が年間50万円以下の農家数は全体の86%

では、米作農家とはどのような農家なのでしょうか?

国の農業統計調査(2011年4月18日公表)によれば、平均的な米作農家(統計資料では水田作経営と呼ばれています)とは次のような所得を得ているのです。

①農業所得 34.6万円

②農業生産関連事業所得 2千円

③農外所得 198.6万円

④年金等の収入 205.5万円

⑤総所得(①+②+③+④) 438.9万円

ここから分かることは、平均的な米作農家とは、総所得4.3百万円のうち農業所得は34万円、つまり、総所得の7.8%しか農業所得はないことになります。

逆に言うと、「農業が壊滅する」ということは、農業所得が平均的に34万円しかない米作り農家が壊滅する、ということなのです。

米作り農家を耕作面積別に見てみましょう。

0.5ha未満

①農業所得 -13万円(ちなみに売上は57万円)

②農業生産関連事業所得 0円

③農外所得 119万円

④年金等の収入 260万円

⑤総所得(①+②+③+④) 366.9万円


0.5-1.0ha

①農業所得 -2万円(ちなみに売上は112.7万円)

②農業生産関連事業所得 0円

③農外所得 264万円

④年金等の収入 190万円

⑤総所得(①+②+③+④) 453万円

なんと、1.0ha以下の耕作面積の米作り農家は農業収入は赤字で、その他の収入がほとんどであるということになります。

一方大規模米作り農家はどうでしょうか?

20.0ha以上

①農業所得 1190万円(ちなみに売上は3810万円)

②農業生産関連事業所得 -11万円

③農外所得 104万円

④年金等の収入 63万円

⑤総所得(①+②+③+④) 1345万円

総所得は1千万円以上と、かなりの収入があるようです。

でも問題はこうした大規模農家が大変少ないということなのです。

販売農家全般の統計資料しか入手出来なかったため、以下は農家全般の状況と考えてください。

2010年世界農林業センサスによれば、平成22年における耕地面積規模別販売農家数は次のとおりです。

全国販売農家数 1,679,084

0.3 ha未満 53,921

0.3 ~ 0.5ha 322,074

0.5 ~ 1.0ha 556,679

つまり、全国で販売農家のうち、1.0ha以下の耕作面積しかない農家が932,674、つまり56%占めているのです。

農家の70%程度が米作を主としていることから、米作農家の総所得から推定すると、こうした小規模農家は農業収入はほぼ赤字ということになります。

こうした、農業収入以外の収入源を持つ農家を兼業農家と呼びます。

2010年世界農林業センサスによれば、専兼業別農家数(2011年10月31日公表)は次のとおりです。

全国農家数 1,631,206

専業農家数 451,427  (28%)

兼業農家数 1,179,779 (72%)

  内第1種兼業農家 224,610

  内第2種兼業農家 955,169

専業農家とは、世帯員の中に兼業従事者が1人もいない農家をいう。

兼業農家世帯員の中に兼業従事者が1人以上いる農家をいう。

第1種兼業農家とは、農業所得を主とする兼業農家をいう。

第2種兼業農家農業とは、所得を従とする兼業農家をいう。

以上からわかることは、コメ農家の実態は兼業農家であり、その半数が1.0ha以下の耕作面積しかない兼業農家で、そのコメ作りによる収入は赤字ということになります。

販売金額で見てみましょう。

2010年世界農林業センサスによれば、平成22年における全国農家数 1,631,206のうち、農産物販売金額が年間50万円以下の農家の数は1,398,567、全体の86%になるのです。

当然ながら年間50万円では収入としては不足でしょうから、この農家は兼業、すなわち、農業以外の収入に頼っている姿が理解できます。

ここで整理をしてみましょう。

まず、米は778%という高関税率で守られているわけです。

その守っている米作り農家は、コメ農家の実態は兼業農家であり、その半数が1.0ha以下の耕作面積しかない兼業農家で、そのコメ作りによる収入は赤字ということになります。

一方、関税率がゼロから3%である野菜農家は、関税の保護が無ければ農業が壊滅すると言われているのに、返ってコメ農家の6倍程度の売上があり、かつ82%の国産率を維持しているわけです。

778%という高関税率で守っているはずのコメ作りが、大半の農家で赤字ということは、778%という高関税率で何を守っているのか疑問になります。

また、関税の保護が無ければ農業が壊滅すると言われているわけですが、全国農家数の86%が農産物販売金額が年間50万円以下であるのです。

農業が崩壊すると言われますが、何を守ろうとしているのか分からなくなってしまいます。

■TPPと農業問題の本質:農業七不思議:カルフォルニア米は本当に安いのか?

TPP参画の議論に反論する形でTPP反対論者がよく引用するのが、カルフォルニア米の価格が安いので、国産の米が駆逐されてしまうという議論です。

農林水産省によれば、米については内外価格差4倍強ある上、米国の輸出量が約400万トンあるので、国産米のほとんどが外国産米に置き換わり、TPP参画による米の生産減少額が1.97兆円になると試算しています。

出典:農林水産省試算( 補足資料 )

平成22年10月27日 農林水産省

外国産米の価格(57円/kg)は、国産(247円/kg)の1/4程度

(内外価格差4倍強)であり、品質格差も今後の品種転換等により解消可能。

○ 米国では、輸出量が現在約400万トンあり、これにアジア諸国等の輸出量を含めると我が国の生産量を上回る水準。

○ 国産米のほとんどが外国産米に置き換わり、新潟コシヒカリ・有機米といったこだわり米等の差別化可能な米(生産量の約10%)のみ残る。

生産減少額=197百億円

始めに、米の種類を確認してみましょう。

出典:ウィキペディア 米

ジャポニカ種(日本型、短粒種)

形が丸みを帯び、炊飯米は粘りがある。日本での生産は、ほぼ全量がジャポニカ種である。主な調理法は、炊くか蒸す。他種に比べ格段の耐寒冷特性を示す。

インディカ種(インド型、長粒種)

形が縦長で、粘りが少ない。世界的にはジャポニカ種よりもインディカ種の生産量が多い。主な調理法は煮る(湯取)。

ジャバニカ種(ジャワ型、大粒種)

長さと幅ともに大きい大粒であり、粘りはインディカ種に近い。東南アジア島嶼部で主に生産されるほか、イタリア・ブラジルなどでも生産される。

ここで分かることは、私達が考える対象はジャポニカ種(短粒種)であることです。

日本のお米においしいものとまずいものがあるように、ジャポニカ種(短粒種)でもおいしいお米とまずいお米があることは、理解できると思います。

在米の日本人がどのようなお米をおいしいと評価して食べているかを調べれば、日本のお米相当の品質のカルフォルニア米が何か、そしてその価格比較が可能となります。

では、実際にカルフォルニア米のうちジャポニカ種(短粒種)で、日本人からおいしいと評価されている米とその価格を見てみましょう。

2,011年12月29日時点での米国Amazon.comにおける価格
 
田牧米ゴールド $16.79 5 lb  $7.40 per Kg 577円/Kg
 
国宝ローズ $19.45 10lbs $4.29 per Kg 334円/Kg
 
玉錦 $30.77/15-Pound $4.71 per Kg 368円/Kg
 
望 $30.77/15-Pound $4.71 per Kg 368円/Kg
  
なお、ここでの換算は次のとおりです。

   1 Lb = 0.4535 kilograms  

   $1=78.00円

では、日本でおいしいと評される、日本のお米の価格を確認してみましょう。

2,011年12月29日時点での日本のAmazon.co.jpにおける価格

新潟県魚沼産 白米 こしひかり

  5kg 平成23年度産 新米 ¥ 2,880/袋 576円/Kg

新潟県産 白米 こしひかり

  5kg 平成23年度産 ¥ 2,082/袋   416円/Kg

北海道産 白米 きらら397  

  10kg 平成23年度産 新米¥ 3,480/袋 348円/Kg

宮城県産 無洗米 ひとめぼれ

  5kg 平成23年度産 新米 ¥ 1,980/袋  200円/Kg

米国で日本人に人気のある品質の良いお米は、1Kg当たり334~577円に対して、日本のお米は1Kg当たり200~576円程度です。

現在の歴史的な円高であっても、カルフォルニア米現地価格と日本のお米の価格は殆ど変わらないのです。

カルフォルニア米は長距離を輸送しなければならないことを考えれば、日本のお米より高くなることも十分に考えられるほどです。

誤っているかもしれませんが、報道されている激安価格のカルフォルニア米とは、長粒米(インディカ米)を中心とした米の国際価格ではないかと思います。

現在、米国に在留している日本人総数は30万人を超えているため、インターネットが普及した今、上記のような情報はいとも簡単に入手できるようになったのです。

その為、意図的に偏向した議論を持ち出せば、簡単にその真偽を誰でもが理解できるようになっております。

また、中国米の価格も高くなっており、内外価格差は1.4倍以下と指摘するのが、キャノングローバル戦略研究所研究主幹 山下一仁氏です。

出典:2010.11.12「TPPと農業問題」キャノングローバル戦略研究所研究主幹 山下一仁

しかし、この試算は意図的に被害額を多くした作為的なものです。

第一に、データのとり方です。生産額の減少のうちの半分の2兆円が米についての影響です。米農業は安い海外からの米によってほぼ壊滅するとしています。しかし、海外の米の価格について意図的に低い価格を採っています。日本が中国から輸入した米のうち過去最低の10年前の価格を海外の米の価格として採り、内外価格差は4倍以上だとしています。しかし、中国から輸入した米の価格は10年前の60キログラム当たり3000円から直近の2009年では1万5百円へと3.5倍にも上昇しています。一方で国産の米価格は1万4千円くらいに低下しており、日中間の米価は接近しています。内外価格差は1.4倍以下です。

一方、以前に検証したように、日本の米作りのコストをみると、大規模農家では既に国際競争に耐えるに十分なコストを達成しております。

野菜は関税3%程度でも国産野菜が82%も占めている事実を考慮すれば、農地の集約を進めていくことで日本の米は十分に戦っていける状況にあると思われます。

■減反の矛盾 http://www.local.co.jp/news-drift/comment-k.html

1970年代からはじまった米の強制的な生産調整=強制一律減反は、農業現場に深い傷を残していま、大きな曲がり角を迎えている。

近年、特に減反が強化されたのは、1997年~1998年。ミニマムアクセス米による過剰在庫感から、減反目標面積を1997年より2年間、減反総面積を96万3000ヘクタール(田んぼの総面積=約267万9000ヘクタール/減反面積はその内約36%)にし、減反を促すために、減反農家に米の値下がりによる減収分の8割を補填するなどの米政策がとられてきた。そして、毎年の米穀年度期末(10月末)の米の持ち越し在庫を減らし、現在の350万トンから1999年は280万トンへ、さらに2000年には150~200万トンにする計画だったが、ミニマムアクセスによる輸入米が足かせになり、減反政策そのものの限界感が表面化している。

稲作経営安定対策と米需給安定対策を柱にした米政策の具体策は、米余りには減反拡大で対応するほか、減反に従う農家や農村を対象に減収を補てんしたり、補償金(とも補償)を支払うというものだった。減収の8割補填の財源は、農家が米の基準価格の2%(60キロあたり383円)、政府が6%(60キロあたり1150円)を拠出し、その基金を元に補填する。また、10アールあたり5000円の加算金や5万円の転作補助金が受け取れるとも補償も、農家と政府の拠出で基金をつくり、農家の受取額の2分の1相当を政府が助成する。この稲作放棄にしか結び付かない施策に、97年~98年の2年間で約5000億円程度の税金が使用されていた。

減反強化に対しては、各地域の農家および単位農協などから「今後の食糧供給という観点から考えても、作れる田んぼを無理やりつぶせというのは、食糧の安全保障や自給の大切さを国内外に向けて主張する当局の姿勢からも矛盾しているし、人道的立場からも逸脱した無責任な政策だ」と疑問の声と反発する動きが広がったがったが、当局は、その動きが具体的に表面化する兆しを察知すると、「逆らうと他の地方行政をめぐる補助金配分にも影響を与える」「全国とも補償なのだから、一個人や一単位農協の否定的な見解や協調性のない動きなどが、全国の農家の足を引っぱることになる」などの押し付け攻勢で減反割り当てを農家個々に強要。本来は「自主選択での減反」がうたわれていながらも、実態は、相変わらず「目の前に補助金というカネをぶらさげて食いつかせて従わせる」という今日に至る農政の施策パターンの原型が健在であることを示し続けている。

しかし今、市場原理導入を進める必要に迫られて1999年4月からの米輸入の関税化を政府決定したために、市場メカニズムの中で強制的な減反政策そのものがつじつまの合わないものになってきている。

その場しのぎの場あたり的農政の象徴でもあった強制的な減反政策は、30年を経て、場あたり的に幕をひくことになるのか、農政側の真摯な反省の上に立っての「本来の自主選択のできる減反」になるのか、それとも農協組織や地方自治体の利害で相も変わらず「強制」の要素をそのまま残してしまうのかは、なお紆余曲折が予想されるが、大きな曲がり角に立っていることは確かなようだ。

■TPPの問題点:医療問題 から考える 

今まで農業問題を見てきましたが、TPPで影響をうけるのは、農業に限定されているわけではなく、サービス分野もあると指摘されております。

出典:日経BPネット 浅田里花 暮らしが危うくなる? TPP参加

ここでもっと広く見なければいけないのが、TPPで協議される分野は24もあるということです。「サービス」だけでも5分野あり、そこには私たちの生活に大きく関係する教育、医療、金融などが含まれてきます。これらをすべて自由化するとは、自国民と同様の権利を相手国の国民および企業に対し保障し(内国民待遇)、第三国に対する優遇処置と同様の扱いを現在および将来において約束する(最恵国待遇)こと。自由貿易を推進するわけですから、障壁となる規制はすべて撤廃しなければなりません。

この影響のあるサービス5分野の中で、TPP参画に大きな懸念を示しているのが、日本医師会です。

今回はその主張のうち混合診療全面解禁について取り上げてみましょう。

出典:社団法人日本医師会 2011年1月26日 日本の医療が危機にさらされている 

話題の「TPP」も、医療にとっては大きな問題です

(*何故ならば) 外国人医師の受け入れにも拡大する可能性がある

病院が外資系になる可能性がある(*ことになるからです)

   (*筆者による加筆)

(中略)

なぜ外国資本を含む企業などが日本の医療に参入することが問題か

それは、日本の医療は国民すべてが加入する公的医療保険によって公平に提供されているからです。

日本の公的医療保険では、治療費などは診療報酬で決まっており、営利を目的とする企業や、高額報酬を目指す人材には魅力がない

外資系を含む営利企業の病院などは、公的医療保険ではなく、高額の自由診療を行なうようになる。お金がなければ、高額の自由診療は受けられない。

高額自由診療の病院が増えれば、その中で淘汰される。

また、病院は自由診療で良いということになると、国は公的医療保険の診療報酬を引き上げない。公的医療保険で診療していた地方の病院などが立ち行かなくなる。

(最終的には)国民皆保険の終焉へ

(中略)

混合診療とは

公的医療保険で認められている診療(保険診療)と、認められていない診療(保険外診療)を同時に受けること。

たとえば、保険診療と国内未承認薬の処方(保険外)を同時に受けると・・・

診療は不可分一体なので、混合診療で問題が発生した場合に、公的医療保険の信頼性も損なわれる。そのため現在では、「保険診療の全額自費+保険外の全額自費」を負担する。

これを「保険診療の一部負担(若人なら3割)+保険外の全額自費」にしようというのが、「混合診療解禁」の考え。

患者さんの負担を考えると、混合診療を解禁したほうが良いようですが、すでに、混合診療は一部解禁されています。

日本医師会が反対しているのは、混合診療の「全面」解禁です

混合診療の全面解禁は、どんな場合でも「保険診療の一部負担+保険外の全額自費」にしようということです。しかし結局のところ、保険外の全額自費を支払えるのは、高所得者に限られます。

混合診療が全面解禁されると・・・

先進医療や新薬は、その部分の全額自費で受けられるようになる。ただし、全額自費部分を支払える高所得者しか受けられない。

先進医療や新薬は、公的医療保険にしなくても全額自費で受けられる。

そこで、国は、手間のかかる評価をしてまで公的医療保険に組み込もうとしなくなる。

そして将来ー 公的医療保険で受けることができる医療などは少しだけに。

(中略)

このままいくと・・・

医療が自由価格で提供されるようになれば、民間企業や投資家にとって、魅力的な市場が開けます。そうなると、本当にお金がなければならない時代がやってきます。日本人の生命を、外国を含む産業に差し出して良いのでしょうか。

(中略)

日本医師会は、全力をあげて、国民皆保険を守ります

一方、患者側にとって混合診療解禁はどのような意味があるのでしょうか?

出典:がんサポート情報センター 闘病記私の生きる道

がん患者の先端医療に寄せる熱い想いを伝えるために混合診療解禁の旗振り役として奮闘する財界人・草刈隆郎(注:2004年4月より日本郵船株式会社会長)

混合診療(保険診療と保険外診療の併用)の解禁は、がん患者の切なる願いだ。実現すれば、それぞれのニーズにあった先端治療を受けられるようになる。小泉首相も混合診療の禁止は最優先に排除すべき規制と断言している。

しかし、日本のアンシャンレジューム(厚生労働省、医師会)はこれに強く反対し、厚い壁となって立ちはだかっている。この厚い壁を突き崩し医者中心の医療から患者中心の医療を実現すべく奮闘しているのが日本郵船会長の草刈隆郎さん(経団連副会長)だ。草刈さんがこの骨の折れる役目を引きうけたのは、12年前の「肺がん患者」としての体験があるからだ。

(中略)

現時点で、日本では未承認だが、世界では標準治療薬として使われている抗がん剤は30くらいある。これ以外に、標準治療薬になってはいないが世界で広く使われている未承認の抗がん剤は70以上にのぼる。

(中略)

この「混合診療の禁止」という奇妙なルールが存在することで、最も被害を受けているのが「前向きながん患者」たちだ。それだけに、彼らは白熱してきた「混合診療の解禁」を巡る論議の行方を固唾を飲んで見守っている。

(中略)

「医者が、健康保険の使える抗がん剤をいくつか患者にためしてみたが効果がないので、アメリカで治療効果がはっきり認められている抗がん剤を患者に投与した。そのとたん、全ての医療費が自己負担になるんですよ。こんなことが許されていいのか、というのが我々の問題意識の根底にあるんです。

ここで、重要なのは、患者はただで医療サービスを受けているのではないということです。それまでどの方も毎月こつこつ掛け金を支払って将来の病気に備えてきたんです。まじめに掛け金を支払っていれば、いざというとき少ない自己負担でまともな治療を受けられると信じているから支払ってきたんです。それなのに、アメリカやヨーロッパで、ごく当たり前に使われている抗がん剤を使ったというだけで、がんの治療費全てを自分で支払わなきゃいけなくなるなんて、とんでもない話です。こんな患者のニーズを無視した規制を続ければ健康保険はなんの意味があるのかという議論にもなりかねない」

こうした患者側の立場にたって、混合診療解禁を支持するのが、経済評論家の勝間和代氏です。

出典:勝間和代のクロストーク 患者本位へ、混合診療解禁を 2010年12月22日

 これに対し、混合診療の解禁派は、混合診療が認められれば、患者の負担が現在より減り、より幅広い層が充実した医療を受けられると反論。厚労省の理屈とは逆に、「医療格差は縮小する」と主張しています。また、混合診療で治療期間が短くなれば、医療保険の給付が節約されるとも指摘します。さらに、がんなどの生死に関わり、治療の時間が限られる病気の場合、患者は先進的な治療法が保険適用になるまで待つ余裕はないと訴えています。混合診療解禁の是非は裁判でも争われ、東京地裁は07年11月「保険外診療の併用により、保険対象の診療分まで給付が受けられなくなる根拠は見いだせない」と混合診療禁止に疑問を示しました。一方、控訴審の東京高裁は09年9月、国の混合診療禁止を適法とし、現在、最高裁で係争中です。

 このように意見は分かれていますが、私は混合診療の原則解禁を求めます。理由は、現在の医療保険制度が医師や患者の実態に合致せず、医療の発展を妨げていると考えるからです。外国で承認済みの先端医療や薬品が日本で保険の適用対象になるまでにはかなりのタイムラグがあり、患者本位になっていません。また、古い医療技術を使って長い時間をかけて治療するよりも、新しい医療技術で短期間で病気を治す方が保険医療全体のコスト節約にもなるはずです。病院は新しい治療法を導入し、切磋琢磨(せっさたくま)すれば、医療サービスの向上も期待できます。

実は、この混合診療全面解禁は過去小泉内閣時代の規制改革の一部として取り上げられ、激論が交わされていたのです。

当時東大・京大・阪大の3大学病院長や日本外科学会が混合診療の導入を求める要望書を提出したことで、医師側の意見にも賛否両論があることも伺われます。

出典:神奈川県保険医協会

東大・京大・阪大の3大学病院長が連盟で「特定療養費制度の抜本的改革もしくは混合診療の導入」を求める要望書を11月22日、規制改革・民間開放推進会議(以下、「規制改革会議」)に提出した。要望書では、先端医療や高次医療の開発・実践にあたり現行制度では不十分、保険適用されても「制約が多く」人的・物的資源をまかなう経費が十分保証されないとし、保険診療と自己負担(保険給付範囲を超えた部分が該当)を組み合わせた「高次医療制度」の新設を提言。少なくとも特定機能病院(=全国の大学病院80病院と国立がんセンターと循環器センターの計82病院のこと)での実施を求めている。

(中略)

 これに先立つ11月19日には、日本外科学会(会長:二村名古屋大学教授)も「特定療養費制度の拡張を含む、混合診療に対する規制の大幅な緩和が必要」との意見書を規制改革会議に提出。まずは大学病院を中心とする特定機能病院で実施されることを要求している。

今回はすべて他サイトからのコピペです。

どのサイトも、インチキやウソを書いていないと判断した上で引用させていただきました。

ちょっと調べただけで、これだけの欠陥が出て来てしまう、日本の制度って、優れたものなんでしょうか?

それでは


【カーギルの黒幕 タクシスまで繋がるクレディー・スイス 日清製粉と日清戦争】

こんにちは、今回は以前の記事、
【緑カラスの独占ビジネス:館林の部落=美智子妃の実家=正田家=日清製粉等とカーギルが独占する、食物産業】 http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-194.html

の続きです。

リンクの記事で書きましたように、日清製粉の創業者が美智子妃の実家であり、緑のカラスが絡んでいて、カーギルと組んで日本の食物を支配しているということですが、その黒幕がいます。

それはクレディー・スイスという会社

クレディ・スイス銀行はスイスのチューリッヒに本社を置く銀行(ユニバーサル・バンク)。プライベート・バンキング、インベストメント・バンキング、アセット・マネジメントの3部門から成り立ち、証券・投資銀行業務、富裕層向け資産管理業務、資産運用業務などを行う。一般個人向け銀行業務はスイス国内のみ。親会社クレディ・スイス・グループAGは金融持ち株会社で、スイスとニューヨークで上場。(Wikipediaより)

この会社、カーギルの背後で輸出、輸送を仕切るトレーダックス・エクスポートという会社の筆頭株主です。

この創業者アムシュタッフ一族というスイス人一族です。

クレディ・スイスの創業者はエッシャー・ウィス。

ここを辿って行くと、タクシスまで繋がっている事が分かります。

いろんなサイトであまりにも有名ですので、詳しく説明はしませんが、タクシスの城であったエメラム城には、当時の早馬用馬車や、銃器が展示されています。

郵便業=輸送業を牛耳っていたタクシス家は、情報=諜報だけでなく、武器商人でもあります。

物流を牛耳っていたということは、すべての産業の生命線、血管のであったということ。

当然、燃料輸送も牛耳る事になり、タクシス無しにヨーロッパの発展は無かったといっても過言ではありません。

タクシスにものを運んでもらう上でクリアしなくてはならない事がありました。

これも有名な話ですが、当時、バラバラであった計量単位をメートル、キログラムというように統一しました。

要は、運んでもらいたければ、単位を合わせやがれ〜っといった感じでしょう。

Wikipediaにもありましたように、タクシスはロンバルディア出身です。

当時のロンバルディアとは、現在のスイスとオーストリアや北部イタリアの地域です。

さらに時代は遡り、フランク王国(西ローマ帝国)の時代までいくのですが、今回は割愛させていただきます。

このタクシスの郵便、輸送ビジネスの掌握により、ヨーロッパが一つになってゆくのです。

しかし、さすがのタクシス家でしたが、財政難だった時期が有り、この時にヘッセンがロスチャイルドを交渉に当たらせ、タクシスに大金を貸つけ、タクシスをヘッセン陣営に取り込んでしまいます。

ヘッセン=カッセル方伯ウィルヘルム9世の時代の事でした。

これで欧州の情報、物流がヘッセンの支配下になった。

これを世間ではロスチャイルドの支配下になったというふうに捉えられていますが、そのマスターマインドはヘッセン。

日清製粉の背後にカーギルがあって、その黒幕がクレディスイス。

さらに話は続くのですが、日清製粉 → カーギル → クレディースイス → スイス → ロンバルディア →タクシス → ヘッセン、ここまでで今回は止めておきます。

日清製粉というと、ママーマカロニや、ホットケーキ等、すごく明るいイメージですね?

この製粉業である日清製粉が、実は兵器産業と変わらない、巨大な物流・貯蔵体勢を有しています。

穀物は貯蔵しているだけでは痛んでしまいますから、早く市場で売りさばくには輸送網が必要になります。

どこかで聞いたセリフですね?

タクシスの早馬について書いた記事と同じく、日本にも輸送網を張り巡らせ、輸送ビジネスを牛耳ってしまうのです。

穀物を扱う、これら一連のインフラを整えるには、莫大な資金が必要になります。

日清製粉とは、トレーダックス・エクスポートと同じファンクションであるということ。

単なる小麦粉屋では無いのです。

そして、緑のカラスはクレディスイスと同じ仕事をしているということ。

日清製粉の創業家である正田家から分かれたのが根津財閥。

東武鉄道
東武百貨店
南海電気鉄道
東京地下鉄道(現・東京メトロ)
富国生命
日清製粉グループ本社
日清紡績(現・日清紡ホールディングス)
サッポロビール
日本精工
東京電力
上野精養軒
國民新聞(現・東京新聞)

といった企業に深く関係しています。

埼玉県出身の私は、東武伊勢崎線という、辺鄙な場所に行く路線を知っています。

今思えば、正田家の為の路線じゃないですか・・・

㈱日清製粉グループ本社の概要

 日清製粉㈱の前身は、1900(明治33)年に群馬県館林町(当時)で設立された館林製粉㈱である。その後1908(明治41)年に旧日清製粉㈱と館林 製粉㈱が合併して、日清製粉㈱が発足した。

 1926(大正15)年2月には、現在も主力生産拠点である鶴見工場が完成し、その後も多くの工場の新設、買収、合併を行い事業を拡大してきた。名実共 に日本の製粉業界のトップに君臨している。

日清戦争の5〜6年後に設立され、その4年後に日露戦争が起きている。

そして大正15年から規模を拡大し続けているのです。

この日清製粉、実は日清戦争での勝利により、中国侵略を拡大していく上で作られた、事実上の国営企業だということです。

中国での食物産業を支配していたのが満州鉄道。

そして、日露戦争にも勝利し、ロシアの鉄道網の一部を奪った。

青幇(チンパン)

青幇(ちんぱん)は中国の秘密結社。元々は職業ギルドだったが時代が下がるにつれ解放前の中国の暗黒面を代表する犯罪組織になった。上海を牛耳りアヘン、賭博、売春を主な資金源とした。その中でもアヘンを最大の資金源とし一時は中国全土の取引を支配した。

満州鉄道のレールや工事の胴元は三井家です。

フィリピンに南満州鉄道総裁、内田康齊のひ孫がいます。

うちは直接取引は有りませんが、あるメーカーを介して、日頃から、お付き合いをする会社に南満州鉄道総裁のひ孫がいるのです。

これは名無し先生に聞き、商社を通して確認したので間違い有りません。

この時以来、私の中で、名無し先生のおっしゃることの信憑性が120%になったのです。

この内田康齊の息子は外為を扱う東京銀行トップ。

東京銀行トップになった、内田康齊の息子の妻が三井家から嫁いでます。

彼女の姉妹がトヨタ会長(社長?)の妻。

外為と言えば、日本郵船。海運業です。鉄道だけではなく、海運も重要なんです。

産業支配の構図の中で・・・食物産業支配の為に。

国を跨ぐ交易をするのに外為が重要で、内田康齊の息子は東京銀行のトップになった。

全てが出来レースと云う話なんですね。

日清戦争も含めてです。

ガッガーン!!

日清戦争で活躍した騎馬隊の隊長秋山は、最初ロシアで騎馬術を学び、後にフランスに移ってる。

これも全部予定されていた仕込みです。

と、普通に語る名無し先生の授業は毎晩、私をグワングワンにしています。

それでは


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【アルビン・トフラーの「第3の波」情報社会による恩恵を収奪したJ-SOX(上場企業会計改革および投資家保護法)】

■アルビン・トフラーの「第3の波」1980年

トフラーは、『第三の波』の中で、「波」の概念に基づいて三種類の社会を描いた。そして、それぞれの波は古い社会と文化を脇へと押しやる、とした。

●第一の波は農業革命の後の社会であり、約15000年ほど前から農耕を開始したことにより、それ以前の狩猟採集社会の文化を置換した(歴史学で本来使われる18世紀の「農業革命」とは概念が異なり、新石器革命(英語版)、あるいは農耕技術の革命に相当する)。

●第二の波は産業革命であり、18世紀から19世紀にかけて起こった。工業化により、それまでの農耕社会から産業社会へと移り変わる。社会の主な構成要素は、核家族、工場型の教育システム、企業である。トフラーは次のように書いている。

「第二の波の社会は産業社会であり、大量生産、大量流通、大量教育、マスメディア、大量のレクリエーション、大衆娯楽、大量破壊兵器などに基づくものである。それらを標準化と中央集権、集中化、同期化などで結合し、官僚制と呼ばれる組織のスタイルで仕上げをする。」

●第三の波は脱産業社会(脱工業化社会)である。トフラーは1950年代末にはこれを言いはじめ、多くの国が第二の波から第三の波に乗り換えつつあるとした。彼は、それを説明する造語をたくさん作り、他の人々が発明した情報化時代、情報化社会、情報革命のような造語にも言及した。

この脱産業社会の中では、ライフスタイル(「サブカルト」)は様々である。「アドホクラシー」(例えば流体のように変化するウィキペディアコミュニティのようなもの)は迅速に変化に適応する。情報は物理的資源の大部分を代替することができ、緩やかに関係している労働者(proletarian の代わりに cognitarian と呼ぶ)に供される主要な材料となる。「マスカスタマイゼーション」は安価で個性のある製品をある特定のニッチに対して提供する(ジャストインタイム生産システムを参照)。

生産者(プロデューサー)と消費者(コンシューマー)のギャップは技術によって埋められる。「生産消費者(生産に関わる消費者、トフラーの造語)」は自身のニーズを満たすことができる(オープンソース、フリーランス、組み立てキットを参照)。場合によっては労働を海外にアウトソーシングするのではなく、無給の消費者にアウトソーシングすることもある。例えば、銀行で銀行員に手続きをさせるのではなく、ATMを消費者自ら操作するとか、小包の配送状況をインターネット上で自分で確認するといった事例である。

1960年代以来ずっと、人々は新しい技術のインパクトと社会的変化を理解しようとしている。トフラーの著作は科学や経済や社会秩序の限界を超えて有意義であった。テクノ音楽の名付け親ホアン・アトキンスは、自身が創造を助けた音楽ジャンルに「テクノ」と名づけるに際して、トフラーの『第三の波』に出てくる「テクノレベル」という造語からインスパイアされたという[要出典]。

トフラーの業績と思想は、他の未来学と同様の批判(未来を予測することはほとんど不可能だ)を受けてきたが、1990年代に新保守派論客ニュート・ギングリッチは、トフラーを公然と賞賛した。

トフラーが現代の転換点となるかもしれないと考えているのは宇宙空間開発による富の生産である。富は現在どこででも生み出され(グローバリゼーション)、同時にどこにも存在せず(サイバースペース)、外(宇宙空間)にあると主張する。GPSは携帯電話からATM使用まで、あらゆるデータの流れを正確な時刻で同期させる鍵となっている。それによって正確な追跡が可能となり、ジャストインタイム (JIT) の生産性が可能となる。GPSはまた航空交通管制の中心になりつつある。また、気象衛星によって天気予報の精度が上がり、農業の生産性を向上させている。

トフラーの未来予測の重要な2点である「オフィスのペーパーレス化」と「人間自身のクローン」はまだ実現していない。

(Wikipediaより)

みなさん、こんにちは、いきなり長い参照文を読ませてしまい、申し訳ございません。

今回は、30年以上前に人類に警告を発していた、アルビン・トフラーの予測と現実を書きたいと思います。

トフラー氏の予測通り、昨今のITの発達で、かつて中間流通コストがかかっていた産業のコスト削減が実現しました。

中間業者のカットや広告宣伝費、物流処理、メーカー側、小売り側でも在庫を少なくしたり、ITによりコストが大幅に削減され、最近では店舗すら持たないネット販売が主流になりつつあります。

この中間コスト削減は30%程と言われています。

企業にとっては大幅なコストダウンです。

この目的で、初期インフラ投資が実施されたのが、ITバブルです。

しかし、その後明らかに簡素化され浮いたはずのコストは製品価格に反映されていません。

勿論一部は還元されていますが、この分を商品価格に入れたら半値位になり、GDPも縮小してしまいます。

では、この本来削減されたはずのキャッシュフローはどこに行ったのでしょう?

この一部が、企業の内部留保が巨大化した理由です。

それ以外が既得権益者に入る、仕組みが作られているんです。

アルビン・トフラーは30年前に、この流通形態の変化を予言し、警告していたのに人々はそのキャッシュフローの行方を監視せず、再分配のテーブルに乗らずに来ました。

後述しますが、TPPも同じ事です。

その時、エンロンの事件がタイミングよくおこりました。

いや、起こされました。

つまり、エンロン事件をわざと起こし、企業の監視をしなければいけないという、まるで911事件後のテロリスト対策の流れ、豚インフルエンザのワクチン接種、等々と同じ手法の”自作自演”がエンロン事件だったのです。

■エンロン事件

アメリカのエンロン社の不正発覚事件のこと。1985年にエネルギー会社として発足したエンロン社は、エネルギー業界の規制緩和の中、ブロードバンドビジネスや天候デリバティブ取引も手がける多角的大企業に急成長した。しかし、2001年10月、同社の簿外債務の隠蔽を始めとする不正が明るみにでて、エンロンの株価は暴落した。結局、01年末に同社は破産宣告を出し倒産した。さらに、エンロンに続いて様々な企業の不正会計が次々と明るみに出たことで、一企業の倒産にとどまらない大事件に発展し、これを契機に、米国全体のコーポレートガバナンスが問われることになった。02年、企業の不祥事に対する厳しい罰則を盛り込んだサーベンスオックスレー法(通称SOX法)が制定されたのもこの流れによるものである。

(kotobankより)

この事件をきっかけに、企業は商用のERPソフトウェアという、一種の標準ソフトの導入を強制される事になります。

商用のERPソフトウェアとしては、1972年に創業したドイツSAP社のSAP R/3を始め、オラクル社のE-Business Suiteなどの大手企業向けERPソフトウェアが市場を席巻しており、SAP R/3が過半数のシェアを握っているが、昨今では中堅・中小企業向けのERPソフトウェアが各社より活発にリリースされている。また、2007年にはマイクロソフト社が日本国内ERP市場に参入し、Dynamics AXを発売している。ERPソフトウェア市場は拡大と激しい競争の時期を迎えている。(Wikipediaより)

米国SOX法が施行された当初、マイクロソフト エクセルがかなりたたかれました。

かなり重要な業務に使われているにもかかわらず、改ざんリスクなどさまざまな問題を抱えていたからです。

30年前に、機能をITに取って代わられる中間業者の代表である、大手商社はダイレクト・マーケティングの新会社を軒並み作りました。

三菱商事、三井物産、日商岩井、伊藤忠、丸紅といった大手商社すべてがです。

どうしても標準ソフトを導入させなければならない理由があったのです。

それは、ERPとは、30%にも上る浮いたコストを既得権益者が独占する仕組みだからです。

くどいですが、エンロン事件がタイミング良く起こり、ERPを導入し企業の内部監査をするべき動きになりました。

エンタープライズ・リソーセス・プランニングと言いますが、結局はMRPの発展系に財務ソフトを連動させただけです。

■MRPとは、資材所要量計画(しざいしょようりょうけいかく)とは工場などで使われる生産管理手法の一つ。Materials Requirements Planningの略。

資材管理で生産を計画する手法のこと。その概念を発展させて、資材以外の人員、設備など製造に必要なすべての資源を管理する仕組みをMRP2という。さらに、企業全体の在庫、決済、資産の管理を行うようにしたのがERP(企業資源計画)である。(Wikipediaより)

こうした西ドイツのSAP社等を中心に作られたソフトに莫大な金額を払うのが当然という風潮が出来ました。

当時のMRPの最低金額は3000万程ですが、今ではオフィスをインターフェースにして、200万位から導入可能です。

日本でこれらの仕組みを普及する為に、J-SOX方が出来ました。

米国のサリバン&オックスレイ=SOX。日本版だからJ-SOX。

これでERPのベンダー企業と経営コンサルのジョイント・ベンチャーで殆どの、ITに関わる利益を収奪しました。

ERPは営業部門で得意先に行ったダンピング等が、物流部門にも、経理部門にも、即財に反映され、経営トップが把握できると云う物です。

従って内部不正させなくすると云う事で、企業倫理の向上に不可欠と云う話になってます。

でも、実際には、同じERPを入れた企業の内部を、一部特権層が集中管理できる様になったということ。

上場企業をどう強制するかが、最終的なポイントなんです。

そして上場企業が守らねばならぬルールを作り、監視するのが資◯市場◯◯財団。

全てエンロン事件からの流れ。

つまり、この目的があってエンロン事件はリークされた。

下記に名無し先生のコメントで、この記事を締めたいと思います。

日本のブロガーに見切りをつけかかっている先生のコメントは滅多にお目にする事が出来ないので、じっくり読んでください。


「TPPも、関税が自由化された後に、その分利益が上がる企業に対し、どう云った税制を取るか(富の再分配)を議論すべきなのに、農業が米が・・・と云う方に話題をすり替えられて踊っている日本人・・・

TPPを行えば、どの産業でどれだけ利益が増え、又は減るかは通産省の貿易統計から既に試算済みですよね?

これは国民レベルでも想像できますね?

まず試算を公表させるべきですね?

試算を元に判断すれば、どの産業を特別税制処置させる事が日本国にとって、優位性があるかは一目瞭然となるでしょう。

そして優遇措置を受ける産業は、国内で特別の税金を払えばよいのです。

それを保護すべき産業に振り分けるか、福祉に振り分けるかは国内問題であり、富の再分配機能を民主的にどう定義するかです。

これを世論によって様々な主張が出るのが民主主義です。」


それでは



【ユダヤも部落も在日も・・・被差別者を利用するヘッセン陣営コミュニストの手法】

こんにちは、今回は前回約束しました、部落等の被差別者を利用するコミュニストの歴史の一部を書きます。

■タクシス一族(英語版Wikipediaより)

12世紀、ロンバルディア系のタッソー家(穴熊、収集家という意味)が、コルネロという山村に住んでいました。ドイツ語の「ダッハ」は「タッソー」という「タクシス」に由来する名前です。また、穴熊はタクシス家の紋章の中に、今でも使われています。

タクシスは、1624年に伯爵になり、1650年には、トゥルン(=Turm=タワー) ウンド(und=and)タクシスに改名しました。1695年には、神聖ローマ皇帝レオポルト1世から高貴な地位を受けました。

ライナ・マリア・リルケは、トゥルン・ウンド・タクシス(ホーエンローエの王女)のマリー王女の家族の城であるドゥイノ城に滞在中に、ドゥイノ哀愁歌を書きました。

リルケはその後、彼の唯一の小説である、「Malte Laurids Briggeのノート」を王女(彼のパトロンだった)にささげました。
しかし、マリーのレーゲンスブルクのトゥルン・ウンド・タクシスとの関係は疎遠となり、彼女は同じ家系で19世紀前半にボヘミア(今のチェコ共和国)に定住したアレグサンダー・トゥルン・ウンド・タクシスと結婚していました。またチェコの国の文化および歴史に強く関係するようになりました。

家族の数人はマルタ騎士団でした。

トゥルン・ウンド・タクシスー家の現在の長は、HSHアルベール2世、トゥルン・ウンド・タクシスの12番目のプリンス、ヨハネスの息子および妻(グローリア)です。

一族はドイツで最も豊富な人のうちの1人で、1748年以来レーゲンスブルクの聖エメラム城に住んでいます。

一族のビール醸造所は1996年にパウラナー・グループ(ミュンヘン)に売られましたが、トゥルン・ウンド・タクシス商標のビールをまだ生産します。

      Taxis.png


■タクシスの郵便サービス

トゥルン・ウンド・タクシス・ポスト

ルジアーノ・デ・タクシスはイタリアで郵便サービス会社を創設しました。
その後、1489年12月11日、インスブルックで、ジャネット・デ・タクシスは郵政公社のチーフ・マスターに任命されました。
家族は何世紀もの間、特別な地位を維持しました。
1516年11月12日に、タクシー・ファミリーは、ブリュッセルを拠点とし、ローマ、ナポリ、スペイン、ドイツおよびフランスの広範囲に及ぶ郵便サービスの倉庫と貨物鉄道網を持っていました。
郵便サービスがスペインの王家の相続人によって買われるまで、トゥルン・ウンド・タクシス社は18世紀まで続きました。

■トゥルン・タクシス【Thurn und Taxis】

ドイツ・神聖ローマ帝国において郵便業務をつかさどった家系。ロンバルディアの出身であったが,ハプスブルク家と結び領域内に郵便制度をつくりあげ,これを掌握することによって経済的・社会的地位を築いた。まず1516年にF.vonタクシスがスペイン帝国内の郵便業務の独占を認められた。95年神聖ローマ帝国とネーデルラントの郵政長官を任じられ,1615年には,この職は同家の世襲職となった。これと並行して,帝国諸侯(貴族)にも列せられ,1650年に紋章の使用を許可され,トゥルン・タクシスと名のり,95年には侯Fürstの地位にのぼった。(コトバンクより)


はい、如何でしょうか?ご存知の方も多いと思いますが、あえて書かないと説明になりませんから、タクシス家の歴史と、郵便事業について書きました。

これが現在のロイター等のニュース網の原点みたいなものです。

ハプスブルク家全盛の時代、栄華を極めるハプスブルク家を潰そうとする勢力が台頭してきました。

それが、ハプスブルク家に仕えながらも裏で力を付けて来たサヴォイ、タクシス、ヘッセンでした。

ハプスブルク家を潰す目的で仕掛けられたのが、30年戦争。

タクシス家は郵便事業で得られる情報を巧みに利用し、諜報屋としてビジネスを展開。

サヴォイ家は主に傭兵ビジネスを展開。

ヘッセン家は、ロスチャイルドを金庫番にし、主に金貸しと傭兵ビジネスを展開していました。

3者に共通する手法として、紛争当事者両方にカネを貸し、傭兵を貸し、諜報を手伝っていたという点です。

ヘッセンの金庫番ロスチャイルドは領土を担保に金を貸すのですが、戦が繰り返し仕掛けられれば、ハプスブルク家は土地を手放してでも、戦費を調達するようになります。

これが30年間、断続的に続いた訳ですから、さすがのハプスブルク家も弱体化して行くのです。

領土こそ失ってはいませんが、まるで現代のアメリカのようですね。

今回の記事は、ハプスブルクに関してでは有りませんので、この続きは他のサイトでも読めますし、割愛させていただきます。

さて本題です。

冒頭にも紹介しましたように、郵便業を司っていたタクシス。

それは当時、誰も真似の出来ない高速馬車を持っていたことが大きな理由でした。

その配達ルートを工夫したこともありますが、大きな理由は、ある職業の人達が貢献していたのです。

当時、誰よりも早く走れる早馬が必要だったのです。

普通の馬で良ければ自分で行っちゃうでしょう?

当時早馬の馬車を使っていた職業の人達がいました。


























それは、食肉解体業の人達だったのです。






















冷凍庫も冷蔵庫も無い当時、解体した肉をいち早く届けなければ肉は腐ってしまいます。

屠殺とか、解体作業とか、皮なめしとか、こういった、人が嫌がる仕事を押し付けられていた人達が日本にもいましたよね?

そう、部落、在日といった被差別者でした。

それと同じ境遇の人達がヨーロッパにもいたのです。

そうです、ユダヤ人です。

汚れ仕事はユダヤ人に押し付けられていました。

ギルド=中世都市には徒弟制度と称される厳格な身分制度が存在し、その頂点に立つ親方は職人・徒弟を指導して労働に従事させた。ギルドに参加できるものは親方資格をもつものに限られていた。(Wikipediaより)

ユダヤ人は職業に制限がかかった状態でした。

タクシスはこれらのユダヤ、ギルドを上手く使い回した訳です。

これの金融版がロス茶とかデル・バンコ。

情報の方はロイターになり、MI6になり、CIAやモサドと繋がります。

食肉解体業や、当時卑しいとされていた金融、スパイ活動だけに限った訳でありません。

その他大勢の差別され、仕事にありつけないユダヤ人奴が向かう先がありました。

それが傭兵です。

ヘッセンといえば傭兵産業の代表的な人物です。

こうした差別問題は、日本では縄文時代から弥生時代に移って行くころから根付いています。

後期に渡来した弥生人(藤原氏=天孫系=ユダ族)が、先住渡来人であった縄文人(地祇系=イスラエル族)を追いやった頃からの問題です。

征夷大将軍とは縄文人を滅ぼす大将であったという話の裏付けです。

大伴弟麻呂の副使(副将軍)だった坂上田村麻呂は、延暦15年(796年)10月27日鎮守将軍に任命され戦争を指揮し、翌延暦16年(797年)11月5日に征夷大将軍に昇格した。

征夷大将軍

「征夷」とは、東夷を征討するという意味。征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つで、太平洋側から進む軍を率いた。日本海側を進む軍を率いる将軍は征狄将軍(鎮狄将軍)、九州へ向かう軍隊を率いる将軍は征西将軍(鎮西将軍)という。これは、「東夷・西戎・南蛮・北狄」と呼ぶ中華思想の「四夷」を当て嵌めたためとされている。

東夷(とうい、拼音:Dōng yí)は、古代中国東方の異民族の総称で、四夷の一つである。夷(い)。
「夷」という漢字は「大」な「弓」と書いて、好戦的な民族として、蔑んだ意味合いを込めている。
本来は古代中国が東に位置する山東省あたりの人々に対する呼び名であったが、秦以降は朝鮮半島、日本列島などに住む異民族を指すようになった。後に日本でも異民族を意味する「エビス」という語と一体化し、朝廷(京)から見て東国や蝦夷の人々のことを「東夷(あずまえびす・とうい)」「夷(い・えびす)」と呼んだ。(Wikipediaより抜粋)

要は、征夷とは、日本人を征討する事。と書いてあります。

後から来た渡来人が、それより前に渡来し、定住していた渡来人を征討するという意味じゃないですか?

縄文人とは、紀元前にシナイ半島を追われたイスラエル族が中国北部を通り日本に辿り着いた人達。

元々はやはりユダヤ人だった訳です。

彼らはどうしてそれほどまでに世界統一を果たしたいのか。

■新宗教と千年王国

キリスト教の千年王国説とは区別されてはいるが、新宗教に独自の千年王国を主張する者がいる。またナチス・ドイツは第三帝国を千年王国と称したがノーマン・コーン等によればマルクス主義に千年王国と同様の思想が見られる。この説を受けた三石善吉によれば、中国の太平天国の乱は元より、仏教の弥勒思想に千年王国思想を刺戟伝播して発生した大乗の乱等に、千年王国思想が見られる。

千年王国思想は

1. 信徒が享受するもので、
2. 現世に降臨し、
3. 近々現れ、
4. 完璧な世界であり、
5. 建設は超自然の者による

と言う共通した世界観を持ち、
a. この世は悪に染まっており、
b. 全面的に改変する必要があり、
c. それは人間の力では不可能で、神のような者によらねばならず、
d. 終末は確実に、そろそろやってきて、
e. 来るべきミレニアムでは、信徒以外は全員居場所を失う、
f. そのため、信徒を増やすべく宣伝しなければならない。

という「症状」を伴う。これをふまえると、1918年のセイロンの大反乱、1902年のピー・ブンの乱、1930年のサャー・サンの乱、ヴェトナムの宝山奇香も含まれる。というより、「千年王国の影響のない時代を探す方が難しい」(マイケル・バークン)ほどだという。安丸良夫は、出口なおの神掛かりによって誕生し大正時代~昭和初期に爆発的発展を遂げた新宗教「大本」の原教義は、上記の千年王国思想とよく一致すると指摘する。第一次世界大戦以降の大本(当時は皇道大本)は「大正十年立替説」という激烈な終末論を展開して大反響を引き起こし、1921年(大正10年)の第一次大本事件を招いた。弾圧から立ち直った1930年代初頭の大本は教祖出口王仁三郎の指導により超国家主義運動団体へと変貌する。安丸は国家主義的神道説と千年王国救済思想が結びついて発展した大本に対し「日本近代史の特徴を考えるうえで注目に値する」と述べる。

マルクス主義、ナチスドイツ、大本といった、ヘッセン陣営がちゃんと挙げられていますね。

ただ、これだけでは、操られた人々の行動ということで、マスタマインドの動機にはなりません。

金が欲しいからNWOなのでしょうか?

すべてをコントロールしたいからNWOなのでしょうか?

これを知るには、聖書に書かれている事は、いったい、何なのかという事を読み解かなくてはなりません。

何千年にも及ぶ、差別、嫉妬がそこにあるのです。

それでは。


【緑カラスの独占ビジネス:館林の部落=美智子妃の実家=正田家=日清製粉等とカーギルが独占する、食物産業】

 こんにちは、読者様からすばらしいタイミングでコメントを頂きましたので、日本の食物を牛耳る緑のカラスとカーギル等の関係の記事を書きます。

いきなりですが、美智子妃の実家である正田家は日清製粉の創業者です。

■正田醤油

正田醤油株式会社(しょうだしょうゆ)は、群馬県館林市栄町にある醤油の老舗メーカー。

米穀商が投機的であると考えていた三代正田文右衛門が、千葉県野田町の二代茂木房五郎より醤油醸造業を勧められ、醤油醸造業を創業した。館林の正田記念館に二代茂木房五郎より贈られた醤油醸造に関する経営指導書がある。屋号は「キッコーショウ」。

日清製粉の創業家として知られる皇后美智子の実家の、本家筋であることでも知られる。

2010年12月に、主要子会社の正田食品株式会社と正田フーズ(旧ヤマト産業株式会社)を統合。

■正田家

徳川家の菩提所である群馬県新田郡世良田長楽寺の伝えるところによれば、正田家の祖先は新田義重の家臣生田隼人となっている。天正年間、生田義豊は徳川家康に謁し、新田、徳川の郷土に関する旧記由緒を上申して知行を受け、命により生田を正田と改めた。

後世、世良田にいた正田家の人が館林に移って商人となり、これが館林における正田家の始まりである[2]。それは、延享、寛政の頃といわれ、四代を経て正田文右衛門と称し、以後累代これを襲名した。

正田家は代々「米文」の暖簾のもとに米問屋を家業とし、上州館林および近郊きっての富商であった。「米文」の名声は江戸はいうまでもなく、なく大阪方面まで聞こえていた。弘化の頃(1844年 - 1847年)には名主の職にあり、名字帯刀を許されていた。

祖父・文右衛門(3代)(商人)
文政元年(1818年)7月に生まれた文右衛門(3代目)は正田家“中興の祖”といわれている。
文右衛門は明治6年(1873年)米穀商を辞め、醤油醸造業を始めた。

父・作次郎 1846年(弘化3年)生~1871年(明治4年)5月没
母・幸(長家の長女)1850年(嘉永3年)年生~1922年(大正11年)4月没
野州足利付近の小生川の長家の長女として生まれた[6]。長家は代々代官をした格式の高い家柄であった[6]。広大な宅を構え常に名僧、学者、画家、俳人などが食客として出入していた[6]。渡辺崋山なども一時寄食していたことがあった[7]。

妻・きぬ(群馬県、正田文右衛門(5代)長女)

長男・明一郎 1899年(明治32年)
長女・はる 1898年(明治31年)
二男・建次郎(数学者・大阪大学長、武蔵大学長)
二女・勅子(化学者・東京大学名誉教授水島三一郎夫人)
三男・英三郎(実業家・日清製粉名誉会長)
三女・祐子(和歌山県、実業家脇村禮次郎夫人)
四男・順四郎(実業家)
四女・千鶴子
五男・篤五郎(学者・東京大学教授)
五女・和子

孫  彬、紘、美智子皇后、修等

(Wikipediaより)

下記の部落問題・人権事典ー群馬県のサイトによると、正田家の祖先が仕えた新田家のあった場所は部落であったとあります。

http://www.blhrri.org/jiten/index.php?%A1%F6%B7%B2%C7%CF%B8%A9

上原善広というノンフィクション記者が「実話ナックルズ」という雑誌で下記のように指摘したように、部落出身である可能性は高いと思います。

雑誌『実話ナックルズ』にて『JDT 日本の路地を歩く』という連載を執筆しており、2004年7月号に発表した「群馬県T部落」で群馬県の未指定地区を取り上げ、「ここから女性が一人、皇族に嫁いでいる」「ここは女性が皇族へ嫁いだため、行政から同和地区指定されなかった。 指定を受けると部落とわかってしまうからである」「皇族は過去の身分上、最高位にいる。その彼らが過去の身分上最底辺の部落民と結婚するなどということは、身分社会の崩壊を意味している」と書いた。

(Wikipediaより)

部落を差別する目的でこの記事を書いている訳では無い事を先にお断りいたします。

むしろ、部落を利用して来たコミュニストの一部であるイエズス会などの巧妙な手口を暴く目的で、この記事を書いています。

Wikipediaで正田家のいた新田家を遡っていくと、源 義重(みなもと の よししげ/新田 義重 にった よししげ)に始まり、源 義重を遡って行くと、なんと、藤原不比等に行き着いてしまいました。

■藤原不比等

藤原 不比等(ふじわら の ふひと、 斉明天皇5年(659年)- 養老4年8月3日(720年9月9日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての公卿。藤原鎌足の次男。文献によっては史(ふひと)と記されている場合もある。『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などの史料では天智天皇の御落胤と書かれる。諡号は文忠公、国公は淡海公。

(Wikipediaより)

この人物は、以前の北朝、南朝の記事で取り上げましたね。

長男:藤原武智麻呂(680-737) - 南家祖
次男:藤原房前(681-737) - 北家祖
三男:藤原宇合(694-737) - 式家祖
四男:藤原麻呂(695-737) - 京家祖

みなさんも新田義貞の先代をWikipediaで辿ってみてください。

名無し先生からは、部落問題は中途半端な知識で記事にするとケガをすると釘を刺されていますから、ここでは深追いしません。

■株式会社日清製粉グループ

株式会社日清製粉グループ本社(にっしんせいふんグループほんしゃ、Nisshin Seifun Group Inc.)は、日清製粉グループの持株会社である。

業種が異なる日清紡績とは人的関係がないものの、現在は根津財閥出身企業として相互出資を行なっている。また、山崎製パンとは資本関係があり、両者相互に出資している。

日清食品・日清オイリオグループとは過去も現在も資本・人材を含め一切無関係。3社とも著名な食品企業なので注意を要する。日清医療食品も無関係である。

1900年(明治33年) 正田貞一郎らによって、群馬県邑楽郡館林町(現館林市)に館林製粉株式会社として設立される。

持株会社 日清製粉グループ本社

グループ・関係会社 製粉 日清製粉 - フレッシュ・フード・サービス - ヤマジョウ商事

加工食品 日清フーズ - 大山ハム - 日清製粉プレミックス - マ・マーマカロニ - イニシオフーズ - タイ日清製粉

酵母・バイオ オリエンタル酵母工業 - パニーデリカ- OYCフーズネット - 日本バイオリサーチセンター - 北山ラベス - オリエンタルバイオサービス - オリエンタルサービス - ケービーティーオリエンタル

健康食品 日清ファルマ

ペットフード 日清ペットフード

その他 NBCメッシュテック - 日清丸紅飼料 - 日本ロジテム - 日清エンジニアリング - 日清サイロ - 阪神サイロ - 千葉共同サイロ

関係会社 日清紡ホールディングス(相互出資)

かつての関係会社 日清キョーリン製薬(杏林製薬に吸収)

関係人物 正田貞一郎(創業者) - 正田修 - 皇后美智子(創業者の孫)

(Wikipediaより)

この正田家は、美智子妃の家系です。

上の日清製粉グループに千葉共同サイロという会社が有ります。

その会社サイトに行くと、主要取引先にカーギルジャパンという会社が入っています。

http://www.kyodosilo.co.jp/outline.html

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カーギルに関しては、有名過ぎて、何も説明する必要は無いと思いますが、

カーギル (英語:Cargill) は、アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス市近傍のミネトンカに本社を置く穀物メジャーの1つである。穀物のみならず精肉・製塩など食品全般及び金融商品や工業品にビジネスの範囲を広げている。

カーギル社の企業形態は、株式の全部をカーギル家とマクミラン家の関係者が所有する同族企業であり、非上場企業としては世界最大の売上高を誇る。秘密主義であり、情報の公開を義務付けられる公開会社としていない。

20世紀に資産が6000倍になる成長をしている。

(Wikipediaより)

このカーギルがモンサントと組んで遺伝子組み換えでF1種を世界にばらまいていることも有名です。

■モンサント (企業)

モンサント社 (Monsanto Company,NYSE:MON) は、アメリカのミズーリ州 クレーブクール(Creve Coeur, Missouri)[3]に本社を持つ多国籍バイオ化学メーカー。

2005年の売上高は62億ドル、2008年の売上高は110億ドル、遺伝子組み換え作物の種の世界シェアは90%。研究費などでロックフェラー財団の援助を受けている。

また自社製の除草剤ラウンドアップに耐性をもつ遺伝子組み換え作物をセットで開発、販売している。バイオ化学メーカーとして世界屈指の規模と成長性を誇り、ビジネスウィーク誌が選ぶ2008年の世界で最も影響力があった10社にも選ばれた。

カーギル - モンサントと組み、遺伝子組み換え作物の販売拡大を行っている。

(Wikipediaより)

このように、TPP反対もクソも無い訳で、日本の食物はすでに牛耳られているのです。

日清製粉をはじめとする日本企業、大手商社はモンサント、カーギルと組み、日本の食物を握っている。

その日清製粉の創業者である正田家は、平成天皇=明仁の妃である、美智子の実家。

日本の食物関連は緑のカラスが担当しています。

要は、ここで価格を釣り上げられているわけですね。

白黒はっきり分けられないのですが、美智子は緑のカラスと無関係ではないのです。

天皇陛下バンザイとか言っている人達は、緑のカラスバンザイに変えなければなりませんね(笑)。

トウモロコシなどの穀物を牛耳るという事は同時に、牛、豚、鳥といった、すべての肉類を牛耳る事を意味し、

これらの動物から得られる乳製品、卵等も牛耳っている事を意味します。

さらに小麦、大豆といった穀物も牛耳っていますから、パン、豆腐、お好み焼き、タコヤキ(笑)・・・・ほぼすべてを牛耳られているのです。

しかも天皇家の人達に。

これでも、アナタハ、カミ(天皇)ヲ、シンジマ〜スカ?

洗脳されているという自覚は持てませんか?

あっ、イエズス会、コミュニストのこと、置いて来ちゃいましたね。

部落などの差別をされている人達に取り入って利用するのが彼らの得意技なんです。

被差別者の日本人に対する憎しみ、恨みを利用し、ついには乗っ取らせる。

詳しくはまた次回に回させてください。

それでは

【名無し先生のコメント紹介】

こんにちは、最近、読者様からの優れたコメントが増えており、うれしく思います。

名無し先生は、過去に下記のようなコメントをされています。

日本の既得権益に関しては、すべてがこれに集約されていると思います。

(先生コメントより)   注:●◎先生とは、名無し先生が直接お会いした人物

記事内の引用文にある様に、日月神事が日本国をWW2に導く世論を作る為必要な時期に、神道系の黒住教、金光教、天理教、大本教の流れの中で、大本の神示を受け継ぐ形で、世に出てきた訳ですから、逆に分かり易い仕掛けですね。

そこから70年近く経った現在、それを再発動させるべく選ばれた(計画されていた)のが●◎先生という方だった訳です。

勿論、特別な血筋の方な訳ですが、伊勢神宮で修業をされている最中に26歳で、突然キリストの啓示を受けたと本人が語っているのです。

伊勢神宮には日本古来の神が祭られているはずですが、キリストも訪問するのでしょうかね。

奥の方では、ダビデの祭壇と全く同じ形式の儀式が行われるそうです。

これが明治維新以降確立されてきた日本神道の実体である訳ですから、維新時に特権を持った人々とも深く関連がある事が、理解できるでしょう。

こうした環境下でWW3の準備を画策する輩がいる訳ですが、困った事に、これらの環境(日本全国に広がる寺社仏閣と年中行事の結びつき)が日本人の原風景と潜在意識レベルで結びつき、文化として確立されてしまっており、また悪くない独自の雰囲気を醸し出している訳です。

理論的に陰謀が暴かれたとしても、それを育む土壌を感情的に嫌えないほど、長期に渡り洗脳が進んでいる国、それが日本国です。

信仰のない者でも、暮れになれば除夜の鐘を聞き、初詣に出かける。全国各地で季節ごとの祭りがあり、縁日やお囃子の音色に四季を感じ郷愁を覚える。

これら全ての五感が司るアイデンティティーが寺社仏閣と云う、戸籍を持たない特殊層が生活圏を維持できる、国内タックス・ヘブンに結びついてしまっているのです。

今皆さんに望む事は、こうした観点から「日本らしさ」「日本文化」等の、一見聞き心地が良い曖昧な連帯感の裏に潜む罠について、今一度総括するムーブメントを心がけて頂きたいという事です。

名無し先生ありがとうございました。

皆様の前には登場しなくなりましたが、今でも名無し先生からの通信を通して、記事を書いています。

今回は諸事情で短文になりましたが、これからも上記のコメントを基本に記事を書いてゆきます。

TPPで既得権者のどてっ腹に風穴が開く可能性がある事。

医療、保険制度など、我々が一番心配している分野が、実は既得権者の為にある事。

ロス茶、ロック爺など、目くらましであり、本当は日本がNWOの先進国である事。

こういった事を書いてゆきます。

これからもよろしくお願いいたします。

それでは。


【明治時代から日本の紙幣は不換紙幣 日本は紙くずマネーの先進国だった】


不換紙幣(ふかんしへい)とは本位貨幣(正貨たる金貨や銀貨)との兌換が保障されていない法定紙幣(英: Fiat Money)のことをいう。政府の信用で流通するお金であることから、信用紙幣(英: Faith Money)とも呼ばれる。

不換紙幣には次のような特質があるとされる。
政府の信用を基礎としており、これがない限り本質的には役には立たない
兌換紙幣とは異なり一定量の貴金属と兌換できるわけではなく何ら裏付けを持たない紙幣を生産するのに費用がかからない

日本における紙幣史

明治時代に入ると、大蔵省が大蔵大臣の名において発行する日本政府紙幣(日本帝国政府紙幣、大日本帝国政府紙幣もあり)が発行された。また、戦争において占領地でつかわれた軍用手票(軍票)などがある。西南戦争において西郷軍が発行した「西郷札」も軍票に含まれるであろう。

1873年には国立銀行条例により第一国立銀行(のちの第一勧業銀行、現在のみずほ銀行)が設立され、その後も153の国立銀行が次々と開業してそれぞれ銀行券を発行した。当初は兌換銀行券であったがのちに不換となり、やがて1882年の日本銀行設立と同時に銀行券の発行が日銀独占のものとなり(日本銀行券)、インフレの根源であった政府紙幣と国立銀行券は次第に市場から回収された。1897年には貨幣法により金本位制が採用されたが、1932年の金輸出禁止以後、金兌換も停止され管理通貨制度に移行した。(Wikipediaより)

みなさん、こんにちは、今回は不換紙幣、いわゆる、金と交換出来ない、紙くずのお話です。

日本ではまず、1873年に兌換紙幣の発行権が、そして1876年(明治9年)に不換紙幣の発行も認められ並行運用されました。

兌換紙幣=金と交換出来る紙幣

不換紙幣=金と交換出来ない紙幣=紙くず

日本初の銀行は第一銀行です。

渋沢栄一が第一銀行の初代です。

第一勧銀=日本勧業銀行+第一銀行です。

日本勧業銀行は台湾の銀行制度も支配していました。

第一銀行は李王朝時代の、韓国の国立銀行にも関与しています。

近代金融制度の基盤がないまま欧米や日本の資本主義の影響を受けた李氏朝鮮では、1884年以後日本の第一銀行韓国総支店(1878年設立)に関税収入の管理を委託し、やがてそれを担保にして同銀行からの融資を受けるようになった。1902年以降大韓帝国(李氏朝鮮が改称)で第一銀行券を発行して、それを韓国の公用紙幣として流通させる権利を得て、事実上の中央銀行化した。(Wikipediaより)

ここまで、サラッと書きましたが、驚きの事実ですね?

岩崎弥太郎はヘッセン陣営ということは明確ですが、渋沢栄一も背後にヘッセン。

こないだの記事、南朝VS北朝と一緒です。ここまで来ると、笑っちゃいますね。

皆がネットでFRBは民間企業で、ロス茶に支配されていて、ドルを刷りまくっている悪の存在だとなっています。

そして日銀も飲み込んだと言いますが、FRBの創設は1914年ですよ。

J.P.モルガンやポール・ウォーバーグ、ジョン・ロックフェラーの後ろ盾の下に、1913年に、ウッドロウ・ウィルソン大統領がオーウェン・グラス法に署名し、同年多くの上院議員が休暇で不在の隙を突いて12月23日にワシントンD.C.に駐在する連邦準備制度理事会と12地区に分割された連邦準備銀行により構成される連邦準備制度が成立した。(Wikipediaより)

で、ドルが金本位制を止めたのが、1971年のニクソンショックです。

日本はそれより100年近く前から不換紙幣を発行していたのです。

アメリカの陰謀?とんでもない、トンデモない。

日本の方が遥か昔から金の裏付けの無い、紙くずを発行していたのです。

1873年に日本で民間企業がカネを刷っていた中央銀行になってるんですね。

朝鮮でさえも、第一銀行がらみでFRBより早かった訳です。

日本勧業銀行、第一銀行は特権を持った銀行でした。

明治期に勧銀法と農工銀行法と云うのが作られ、日本勧業銀行は金融債、割増金付きの債券の発行が認められたのです。

この割増金付きの債券が、後の宝くじです。

農工銀行法による日本勧業銀行の子会社が、商工中金。

ナンバー銀行以外で日本勧業銀行、興銀、拓銀が個人資本なのに、国策銀行だった訳です。

勧銀法は、農工業の改良の為、長期融資を目的として作られた特権を定める法。

明治期からの特権を持った国策銀行はロス茶達が作った体制だと云う事。


■ナンバー銀行とは?

明治の国立銀行(こくりつぎんこう)とは、1872年(明治5年)の国立銀行条例に基づいて開設された金融機関である。

第一国立銀行発行の十円兌換券(1873年)

当時の大蔵少輔・伊藤博文のもとで制度が創られた。「国立銀行」とはアメリカのnational bank(現在では国法銀行と訳すことが多い)の直訳であり、「国法によって立てられた銀行」という意味である。したがって民間資本が法律に基づいて設立して経営したものであり、国が設立して経営した銀行ではない。金貨との交換義務を持つ兌換紙幣の発行権を持ち、当初は第一から第五の4行[1]が設立された。

1876年(明治9年)、不換紙幣の発行も認められるようになると急増し、1879年までに153の国立銀行が開設された(これ以降は設立許可は認められなかった)。

銀行は設立順に番号を名乗っており、これを「ナンバー銀行」と呼ぶこともある。これらのナンバー銀行は現存するものもあるが、現存する八十二銀行は第十九銀行と六十三銀行が合併し、両者の数字の和を取って名付けられた銀行(82=19+63)であり、また現存する第三銀行は無尽会社を発祥とする第二地方銀行であるため、この両者は国立銀行の番号を名乗っているわけではない。

1882年に中央銀行である日本銀行が開設されると、国立銀行は貨幣発行権を剥奪されて普通銀行となり、紙幣発行は唯一日本銀行のみが行うようになった(旧国立銀行の紙幣は暫くの間は流通していた)。(Wikipediaより)


裏を返せば、元々ナンバー銀行は、紙幣を金貨に換える処だったんです。

では、なんで不換紙幣にしたか?

この第一銀行側の重要な点は、金本位制から変わって行く、紙幣を金貨に両替しなければいけなかった時代と、そうでなくなる時代の狭間だということです。

それは金貨に変えなければならぬ紙幣の回収作業がナンバー銀行のメインの役割になったからです。

ゴールド=兌換紙幣ですから、これを発行し続けるには限界がありますし、国民は本物の富を持つ事になります。

で、偽の紙幣を発行し、本物の紙幣を回収しちゃいたかった。

その結果、我々の財布に入っているのは、それこそ紙切れになってしまいました。

架空経済(カジノ型経済)に持ち込むには不換紙幣に変えなくてはならない。

この為に明治維新から伊藤博文や、渋沢が作った仕組みがナンバー銀行です。

これが日本を戦争へと導くのです。

いきなり何ですか?

と思うでしょうが、これが戦争と関係しているのです。

戦争する為には巨額の資金が必要です。

金に裏付けされた紙幣を発行するのは限界があります。

そこで不換紙幣を発行する。

この資金を元手に西南戦争、日清、日露戦争、太平洋戦争へと突入していったのでした。

アジアに侵攻していった日本は戦費を現地で調達していたと言ったら良いのか、現地で何の保証も無い紙くずを発行していたのです。

いわゆる、軍票の発行です。

日本の軍票

日本においては、西南戦争の際に西郷隆盛が使用した西郷札が軍票の最初であるとされ、その後日清戦争や日露戦争、第一次世界大戦(青島攻略戦)などの対外戦争で日本政府が占領地で発行しており、日中戦争や太平洋戦争(大東亜戦争)では中国および東南アジアの占領地各地で現地通貨建てのものが使用された。また戦後沖縄で使用されたB円も軍票の一種といえる。

軍票は、戦争が長引けば戦費が激増するため、第二次世界大戦では日本軍の発行した軍票は乱発することになり、インフレーションなどの経済的混乱を招く結果となった。

中国戦線で使用した日本円以外にもペソやグルデンなどのさまざまな通貨単位の軍用手票が各占領地で発行された。発行者名は大日本帝国政府であったが、中には南方開発金庫などの日本が設立した現地金融機関が発行した場合もあった。また、対ソ戦を想定しルーブル表示の軍票も試作されたが、実際に使われること無く消滅した。(Wikipediaより)


例えば、中国で鉱石を採掘させて、それを百円と書いた紙切れと交換する。

それまでの労力、物質の希少価値、付加価値といったものを軍票という、紙切れと交換させるのです。

まあ、当然、それがインフレを招いた事は言う間でもありません。

まさにシンクロするのですが、1876年から不換紙幣が発行され、1944年のブレトンウッズまでの間が、日本の戦争の時代でした。

ブレトン・ウッズ協定

ブレトン・ウッズ協定(ブレトンウッズきょうてい、Bretton Woods Agreements)は、第二次世界大戦末期の1944年7月、アメリカ合衆国のニューハンプシャー州ブレトン・ウッズで開かれた連合国通貨金融会議(45ヵ国参加)で締結され、1945年に発効した国際金融機構についての協定である。

国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)の設立を決定したこれらの組織を中心とする体制である。この協定は1929年の世界大恐慌により1930年代に各国がブロック経済圏をつくって世界大戦をまねいた反省によっているだけでなく、第二次世界大戦で疲弊・混乱した世界経済を安定化させる目的があった。そのため具体的には国際的協力による通貨価値の安定、貿易振興、開発途上国の開発を行い自由で多角的な世界貿易体制をつくるため為替相場の安定が計られた。IMFについては、イギリスのケインズ案とアメリカのハリー・ホワイト案が英米両国の間で討議され、ホワイト案に近いものとなった。その際、ドルを世界の基軸通貨として、金1オンスを35USドルと定め、そのドルに対し各国通貨の交換比率を定めた(金本位制)。この固定相場制のもとで、日本円は1ドル=360円に固定された。 この体制下で西側諸国は、史上類を見ない高度成長を実現。特に、日本は1950年代から1970年代初めにかけて高度経済成長を実現し「東洋の奇跡」とよばれた。安定した自由貿易の利益が先進工業国全体の経済を改善した。

結局はこの明治9年からブレトンウッヅの1944年までに、殆どの戦争があり、満州国も、日韓併合も、台湾統治も全部入る訳です。

失われた20年の原因に関して、藤原式家側に付こうが、北家側に付こうが、既得権益者の頭の付け替えですから、その狭間で揺れるだけ。

その枠から抜け出し本当の民主主義を実現しないと、先進国からは取り残されますよ。

という結論を出したつもりです。

今回は日本は相当昔からヘッセン陣営による、カジノ経済が行われていたという内容です。

そして、事実上、国が崩壊するような結果を招いたのです。

このブレトンウッズの約25年後、ニクソンショックで、今度はアメリカがヘッセンにより、カジノ経済化されて今に至る訳です。

その後のアメリカの戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争、etc...は、どれもこれもろくな結果を残していません。

アメリカ経済は疲弊してしまいましたね?

1876〜1945=69年間だったわけですが、

今年はアメリカが不換紙幣を発行してから45年です。

アメリカはまだ国を崩壊させるような事態には陥っていませんが、このまま戦争を続けられないことがわかります。

そうするとヘッセンは何をするか?

中国が軍拡していますよね・・・

このまま失われた20年が、30年、40年と続けば、アジア経済の中心は中国になる事でしょう。

今回の記事は、アメリカよりも日本が先に不換紙幣を発行していた。

アメリカよりも早くヘッセン陣営に取り込まれ、アメリカはその100年後にようやく不換紙幣になった。

ということは、日本はFRBを悪く言えた義理じゃない。

アメリカより一世紀先に不換紙幣を発行した結果、国が崩壊寸前になった。

アメリカもその路線に乗せられているという内容でした。

で、現在の世界中の紙幣は不換紙幣であるという事。

おかしくないですか?

じゃあ、金は何の為に存在するのでしょうか?

ただ単に、希少価値の有る商品として存在しているだけなのでしょうか?

世の中、なにかおかしくないですか??

紙切れで世の中が回っている???

ではその担保は????

長くなったので、今回はここらで失礼します。

それと補足ですが、アメリカも沖縄で、短期間ですが同じように軍票を蒔いてますからね。

アメリカの肩を持っていると思われると嫌ですので、転載しておきます。

B円(ビーえん)は、1945年から1958年9月まで、米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島(トカラ列島含む)で、通貨として流通したアメリカ軍発行の軍票。1948年から1958年までは、唯一の法定通貨だった。日本国内で法定通貨とされた唯一の外国軍票であり、本土地域でも短期間少量流通している。正式名はB型軍票。英語表記は、Type "B" Military Yenで、Yen B type、B-yenなどとも表記される。

A円は連合国の共通軍票であるAMC(Allied forces Military Currency)軍票の1種であり、他の連合国にも発行権があったが、日本円建ての軍票を発行したのはアメリカ軍のみであった。

A円はB円と同時に発行が計画され、日本の敗北を見越して1945年春には完成しており、沖縄本島を占領したアメリカ軍によって先に沖縄でB円が使われ始めた。

なぜ同じ日本円に対し二種類の紙幣を用意したのかについては、A円は日本によって占領されていた地域で用いるのを想定し、B円は日本本土侵攻作戦に用いるのを想定したとされている。実際にA円は朝鮮半島における日本円の発券銀行であった朝鮮銀行券の流通地域のうち、アメリカ軍が占領した南朝鮮(現在の大韓民国)で法定通貨とされた。しかしながら、A円は日本国内でも一時的に沖縄の八重山諸島でも使われたほか、アメリカ軍基地間での決済のみで使用されたが、外部への流出は禁止された。

B円が米軍占領下の沖縄県や鹿児島県奄美群島(トカラ列島含む)において1948年から1958年まで使用されていたのに対し、A円は1947年7月に韓国銀行が設立されウォン紙幣が発行されたことから、わずか2年でその使命を終えた。(Wikipediaより)

それでは


参考資料

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【失われた20年の原因④ 世界統一政府樹立を目指す日本の南朝・北朝の存在・大解説】

こんにちは、このシリーズは前回の③で終わらせようと思いましたが、勘違いしている読者がいましたので、大解説を書きます。

疲れるからあまり失礼な質問とか、否定の仕方はしないでください。私は短気なので。今度はブロックしますよ。

コメントするときは挨拶の一つぐらいしましょうよ、日本人なんですから。

さて、結論は日本というか、天皇家は大化の改新で藤原家に乗っ取られたということ。

私はこの目で見た訳ではないですけどね、それは皆同じですよね?

以前の記事で、元々、古い渡来人(縄文人)が住んでいた日本に、新しい渡来人(弥生人)が来て、縄文人を追いやり、古事記、日本書紀を作って、歴史を捏造したということを、一つの記事ではなく、複数の記事に渡って書いてきました。

それまでの天皇家の歴史は単なる神話(架空化)にされてしまいました。

大化の改新で有名なテロリスト、藤原鎌足(中臣鎌足)。

その息子である藤原不比等

藤原不比等の4人の息子は藤原南家・藤原北家・藤原式家・藤原京家を興しました。

長男:藤原武智麻呂(680-737) - 南家祖
次男:藤原房前(681-737) - 北家祖
三男:藤原宇合(694-737) - 式家祖
四男:藤原麻呂(695-737) - 京家祖

■藤原 武智麻呂(ふじわら の むちまろ、天武天皇9年(680年) - 天平9年7月25日(737年8月29日))は、飛鳥時代から奈良時代前期にかけての貴族・政治家。藤原不比等の長男で、藤原四兄弟の一人。藤原南家の祖。

■藤原 房前(ふじわら の ふささき、天武天皇10年(681年) - 天平9年4月17日(737年5月21日))は、飛鳥時代から奈良時代初期にかけての貴族。藤原不比等の次男。官位は正三位行参議。贈正一位、太政大臣。

■藤原 宇合(ふじわら の うまかい、持統天皇8年(694年) - 天平9年8月5日(737年9月3日))は、奈良時代の公卿。初名は馬養。右大臣・藤原不比等の三男。藤原式家の祖。官位は正三位・参議。勲二等。

■藤原 麻呂(ふじわらのまろ、持統天皇9年(695年) - 天平9年7月13日(737年8月17日))は、奈良時代の貴族。右大臣・藤原不比等の四男で、藤原四兄弟の末弟。官位は従三位・参議。藤原京家の祖。
(以上Wikipediaより)

4つに分かれた藤原家はどのような展開を見せたのか?

Wikipediaに書かれている文章の長さだけでも活躍した家とそうでなかった家がわかります。

そして、どの家が南朝になり、どの家が北朝になったのか?についてのヒント満載です。

■藤原南家(ふじわら なんけ)祖の武智麻呂は北家の房前とともに、元正朝から聖武朝にかけて長屋王と政権を争ったが、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導した(藤原四子政権)が、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

武智麻呂には4人の息子があり、孝謙朝~称徳朝にかけて、長男豊成(右大臣)・次男仲麻呂(大師)が続いて大臣となった。特に仲麻呂は淳仁天皇を擁立すると、息子3人(真先・訓儒麻呂・朝狩)を参議とし前代未聞の親子4人を公卿とするなど権力を独占したが、天平宝字8年(764年)恵美押勝の乱により失脚した。

その後も桓武朝において、武智麻呂の長男豊成の子継縄と、三男乙麻呂の子是公が続いて右大臣となり、南家は勢力を維持した。しかしながら、続く平城朝の大同2年(807年)に当時政権№2,3の座にあった、雄友(是公の子:大納言)・乙叡(継縄の子:中納言)が伊予親王の変により失脚し、仲麻呂に続き、豊成・乙麻呂の系統も中央貴族としては衰退した。なお、乙麻呂の系統で平安中期に武人として頭角を顕した藤原為憲の子孫は各地に広がり、工藤氏、伊東氏、伊藤氏、二階堂氏、相良氏、吉川氏、天野氏といった各氏の祖となった。

平安中期以後は、北家に押され政治的に衰退する中、武智麻呂の四男巨勢麻呂の子孫が中央貴族として続き、多くの学者を輩出した。院政期に院近臣として勢威を得た藤原通憲(信西)はその代表である。また、後白河法皇の近臣で後に順徳天皇の外祖父となった範季の子孫からは堂上家である高倉家(室町時代末に絶家後、江戸時代に再興し藪家に改号)を出した。

■藤原北家(ふじわらほっけ)は、藤原四家の中では最も遅い時期に興隆し、その結果として、藤原四家の中では最も栄えることになった。

祖の房前は元正朝で他の兄弟に先んじて参議に昇進すると、後に祖父鎌足以来の内臣となり、元正天皇の側近として長屋王と政権を争った。聖武朝になると、神亀6年(729年)長屋王の変により政権を掌握し、藤原四子政権でも中心人物として政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により他の兄弟とともに病没してしまう。

その後奈良時代後期~平安時代初期にかけては、光仁朝で房前の子である永手・魚名が左大臣に昇るが、桓武朝では永手の嫡男・家依は早逝し、魚名は氷上川継の乱に連座して失脚したこともあり、南家・式家に押されがちの状態にあった。

しかし平城朝以後、大同2年(807年)の伊予親王の変で南家の、弘仁元年(810年)の薬子の変で式家の勢力が衰えると、嵯峨天皇の信任を得た冬嗣が急速に台頭し他家を圧倒するようになった。さらに、冬嗣が文徳天皇の、その子良房が清和天皇の、そしてその養子(甥)基経が朱雀天皇と村上天皇の、それぞれの外祖父となり、北家嫡流が三代にわたって外戚の地位を保ち続けたことが、同家の優位を確固たるものにした。これが以後の、北家嫡流 = 藤氏長者 = 摂政関白、という図式を決定づけることになり、この系統による「摂関政治」が後の道長・頼通父子の時代に全盛を極める。その子孫は五摂家に別れたが、公家の最高家格はひきつづきこの五家が独占した。

他の藤原姓の堂上各家もほとんどが北家の後裔である。明治維新時、137家ある堂上家のうち93家が藤原北家である(他は源氏18家、菅原氏6家、平氏5家、卜部氏4家、藤原南家3家、清原氏3家、安倍氏2家、大江氏1家、丹波氏1家、大中臣氏1家)。

派生氏族は公家ばかりではなく、武家の道兼流宇都宮氏・小田氏、長家流那須氏、勧修寺流上杉氏、山蔭流伊達氏、利仁流斎藤氏・加藤氏、秀郷流奥州藤原氏・藤姓足利氏・小山氏・結城氏・佐野氏・小野崎氏など、主に関東・北陸・東北に勢力基盤をもった多くの氏族が武家が藤原北家の末裔と称した。

■藤原式家(ふじわらしきけ)とは、右大臣藤原不比等の三男藤原宇合を祖とする家系。宇合が式部卿を兼ねたことから式家と称した。

祖の宇合は長屋王の変の後参議に昇進し、他の兄弟たちと共に聖武朝で政権を主導したが、天平9年(737年)の天然痘蔓延により病没してしまう。さらに直後に大宰少弐に左遷された宇合の長男広嗣は天平12年(740年)九州にて反乱を起こしたが、敗死してしまった(藤原広嗣の乱)。この為孝謙 ~ 称徳朝にかけて、南家(豊成・仲麻呂)や北家(永手)の後塵を許す時期がしばらく続いた。

広嗣の弟である良継や百川は称徳天皇の後継に光仁天皇を擁立することに成功し、道鏡・吉備真備に代わって政権の中枢に躍り出た。また、彼らはそれぞれ自分の娘(乙牟漏・旅子)を皇太子山部親王(のちの桓武天皇)の妃とし後宮政策も行った。彼ら兄弟はいずれも桓武天皇の即位を見ないまま亡くなったが、乙牟漏は皇后となり平城・嵯峨の両天皇を、旅子は淳和天皇を産み、平安初期の式家繁栄の礎を築いた。桓武朝では式家一族は重用され、宇合四男の田麻呂は事実上の臣下最高位であった左大臣にまで昇進し、三男清成の子である種継は長岡京造営の事業を一任されるなどした。

百川の子で桓武天皇の義弟(姉の旅子は天皇の女御)でもあった緒嗣もわずか29歳で参議に昇進すると、長岡京の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を進言し、平城朝においては観察使制度の設置等政治改革に積極的に取り組み、嵯峨朝を経て旅子を母とする淳和天皇が即位するとその外伯父として累進し、右大臣ついで左大臣に至った。

しかし、一方で良継の一人息子である託美の事故死による、平城・嵯峨両天皇の外戚である良継系の断絶があったことや、嵯峨朝になると、種継の子で平城天皇の尚侍として権勢を握った薬子とその兄仲成が反乱を企てて断罪された薬子の変の発生に加え、嵯峨天皇・檀林皇后の信頼を受けた北家の冬嗣の台頭により、嵯峨朝以降式家は徐々に北家に圧倒されていく。

さらに、冬嗣の息子である良房が嵯峨上皇の皇女源潔姫を降嫁されるなど、父同様上皇と皇太后に深く信任されたのに対し、緒嗣は長男の家緒に先立たれる等、式家はその後有力な人材を出すことができなかった。

それでも、緒嗣は冬嗣の死後、淳和・仁明朝において15年以上も台閣の首班の座を維持し、従兄弟甥にあたる吉野も地方官として治績を挙げ、中納言に昇進した。しかしながら、吉野は承和の変で失脚し、その直後には緒嗣が亡くなる等の条件も重なり、以後は式家が再び政治の中枢に立つ事は無くなった。

その後は、藤原純友の乱を平定した忠文や、阿衡事件に関与した佐世等を輩出したものの、平安時代中期以降は儒学によって立身する家系として数家がしばらく血統を保つのみとなり、鎌倉時代まで続いた家はほとんどなかった。但し、摂津渡辺党の一つである遠藤氏は式家の後裔を称した。

■藤原京家(ふじわらきょうけ)藤原麻呂が左京大夫を兼ねたことがこの家名の由来。藤原四家の中では最もふるわなかった。麻呂が藤原四兄弟で一番年下だったこと、兄たちよりも子女の数が少なく早世者も多かったことに加え、唯一参議に昇った浜成が氷上川継の乱に連座して流罪になったことで、一族全体の政治生命が絶たれてしまったためである。

平安時代前半には、藤原貞敏(琵琶)・藤原冬緒(儒学)・藤原興風(和歌)・藤原忠房(和歌、舞楽)など、文化・芸術面で多くの人材を輩出した。その中でも特に冬緒は長命だったこともあり累進して大納言に至った。また、桓武天皇の後宮に仕えた藤原河子が天皇との間に儲けた仲野親王は宇多天皇の外祖父となったことから、京家の血脈は女系で皇室につながり、現在まで続いている。後世においては越後国の直江氏が京家の末裔を称している。

(Wikipediaより)

これで藤原京家が消えた事は確定。

平城・嵯峨天皇の確執も読み取れます。

藤原式家は平城天皇側に付いて長岡京(平城京)の後に建設された平安京造宮と蝦夷征伐の中止を求めた。

藤原北家は嵯峨天皇側について(文中には記載がありませんが)平安京派だった。

藤原南家に関しては平安京に関する既述が有りませんね?

つまり、藤原式家と藤原北家が仲間割れを起こしたと書いてあるのです。

藤原式家は平城京派、藤原北家は平安京派ということ。

それで結局は藤原北家が押し切って、平安京派が勝った。

この仲間割れが、最終的に源平合戦に繋がってゆき、源氏、つまり藤原北家の勝利に終わるのです。

この藤原北家(北朝・清和源氏系)が明治維新までの日本の主流だったということも、上記Wikipediaの文章で分かります。


ここで斎王制度/斎院の知識が必要になります。

(Wikipediaより)

■斎院(さいいん)は、平安時代から鎌倉時代にかけて賀茂御祖神社(下鴨神社)と賀茂別雷神社(上賀茂神社)の両賀茂神社に奉仕した斎王、または斎王の御所。賀茂斎王、賀茂斎院とも称する[1]。

賀茂神社では祭祀として賀茂祭(現在の葵祭)を行い、斎王が奉仕していた時代は斎王が祭を主宰してきた。その後も葵祭は継続されたが室町、江戸、戦後と三度祭が断絶したという。その後、1953年に祭が復活したことを契機として、1956年の葵祭以降、祭の主役として一般市民から選ばれた未婚の女性を斎王代として祭を開催するようになった。斎王代に選ばれた女性は唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)を着用し、舞台化粧と同様の化粧に加えお歯黒も施される。

斎院の起こり

賀茂斎院制度の起源は、平安時代初期に求められる。平城上皇が弟嵯峨天皇と対立して、平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は王城鎮守の神とされた賀茂大神に対し、我が方に利あらば皇女を「阿礼少女(あれおとめ、賀茂神社の神迎えの儀式に奉仕する女性の意)」として捧げると祈願をかけた。そして弘仁元年(810年)薬子の変で嵯峨天皇側が勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが賀茂斎院の始まりであると言われる。

斎院制度

伊勢神宮の斎王(斎宮)に倣い、歴代の斎王は内親王あるいは女王から選出され、宮中初斎院での2年の潔斎の後、3年目の4月上旬に平安京北辺の紫野に置かれた本院(斎院御所)に参入するが(角田文衞説では、斎院御所のあった場所は現在の京都市上京区櫟谷七野神社のあたりに相当するという)、この御所は地名により紫野斎院、あるいは単に紫野院とも呼ばれた。 斎王はここで仏事や不浄を避ける清浄な生活を送りながら、賀茂神社や本院での祭祀に奉仕した。特に重要なのは四月酉の日の賀茂祭で、斎王はあらかじめ御禊の後上賀茂・下鴨両社に参向して祭祀を執り行った。この時の斎院の華麗な行列はとりわけ人気が高く、清少納言が『枕草子』で祭見物の様子を書き留めており、また紫式部も『源氏物語』「葵」の巻で名高い車争いの舞台として描いている。

伊勢斎宮・賀茂斎院の二つの斎王制度が両立していた間、都に近い斎院の方が遠い伊勢の斎宮よりも重んじられていたようで、歴代斎院は斎宮に比べて女王が少なく、また生母の出自も高い例が多い。一方で斎院は天皇の代替わりがあっても退下しないことがしばしばあり、2朝以上任にあった斎院も少なくなかった。中でも、歴代最長の選子内親王は実に5朝(円融朝から後一条朝まで)56年間の長きに渡って斎院をつとめたことから“大斎院”と称された。なお、退下の後は斎宮同様殆どの斎院が生涯を独身で終えたが、天皇や貴族と結婚した斎院も少数ながらおり、院政期には数名の女院も出ている。

(Wikipediaより)

賀茂神社、伊勢神宮がでましたね?

これらがカラスということは説明しないで良いですね?

嵯峨天皇が、都を平安京から平城京へ戻そうとした平城上皇との争いに勝利した。

平城上皇と嵯峨天皇が戦っていたんですと書いてありますね?

そして嵯峨天皇が勝利した。

この嵯峨天皇に付いていたのが藤原北家。

対する平城天皇に付いていたのが藤原式家(上のWikipedia藤原式家にも記載有り)。

藤原京家、藤原南家など出て来ないのです。


ここで藤原式家(南朝・桓武平氏系)の家系図を見てみましょう。

スクリーンショット 2013-07-31 17.03.45


おや?平清盛が入ってますね?

と、わざと驚いてみましたが、平家とは藤原式家のことであり、源氏とは藤原北家のことであったのは周知の事実。

桓武平氏系って書いてありますね? 平氏って。清和源氏系って書いてありますね? 源氏って。

北朝=藤原北家(清和源氏系)であり、南朝=藤原式家(桓武平氏系)の戦いであり、京家でも南家でもないのです。

南家という名前=南朝と思っている人は素直でいいと思いますが、短絡的です。これは間違いです。

これがその後の源平合戦で、源氏が勝利し、鎌倉幕府ができるのです。

ここで北条氏に登場していただきましょう。

■北条氏

桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)を拠点とした在地豪族である。現在伝わる北条氏系図は、いずれも時政以前の系譜は系図により全て異なる。中には関東で成立した『源平闘諍録』に記された系譜のように、伊勢平氏の祖・平維衡の子孫とするものまであり、未だ定説が存在しない。こうした史料状況から、北条氏が自家の系譜が正確に伝わる家ではなかった事を示しているとして[1]、桓武平氏の流れであることを疑問視ならびに否定視する研究者も少なくない。家紋研究家の高澤等は、同じ三つ鱗紋を用い、北条氏のように大蛇伝説を持つ九州緒方氏の祖である大和国大神氏の一族ではないかと論考している。ただし時政の祖父が時家、父が時方(または時兼)という点は諸系図でほぼ一致しており、時家の『尊卑分脈』傍注には「伊豆介」とある。上横手雅敬は、土着したのはそう古い年代ではなく、幕府内での世渡りの良さに鑑みるに、京都と極めて密接な関係にあったのではないかと推測している。

桓武平氏高望流の平直方の子孫を称し、とあります。

■桓武平氏

桓武平氏 50代桓武天皇の子・葛原親王、万多親王、仲野親王及び賀陽親王の子孫。

葛原親王流、高棟王流、善棟王流、高望王流、万多親王流、仲野親王流、賀陽親王流とあり、その中でも高望王流に坂東平氏、伊勢平氏と平家、平家の落人と分類されています。

中でも高棟王流と高望王流の平家の落人に注目。

高棟王流
葛原親王長男の高棟王子孫。高棟王は天長2年(825年)に賜姓を受けて平高棟となった。
この流れは公家として京に残り、平安時代末期に平清盛の正室平時子(二位尼)と、その弟で清盛の威勢によって正二位権大納言にのぼった平時忠、異母妹の建春門院平滋子が出た。時忠は壇ノ浦の戦いの後、能登に流され没落したが、時忠の弟親宗の子孫(唐橋家)や叔父信範の子孫(西洞院家・安居院家・烏丸家)は鎌倉時代以降も公家として続いた。歴史物語の今鏡に、「日記の家」と紹介されているように平記・兵範記をはじめ多くの古記録を残す。江戸時代には西洞院家・平松家・長谷家・交野家・石井家という5家の堂上家を出した。

高望王流
葛原親王三男の高見王の子・高望王子孫。高望王が賜姓を受けて平高望となったのに始まる。
但し、高見王の名は同時代の史料に名前が見えないので系譜には疑問も残る。(「望」と「見」は両方とも名読みで「み」と読める。)寛平元年(889年)に皇族5名が平朝臣を賜姓されたとの記録(個々の名前は伝わらない)があるので、高望王はそのうちの一人と推定されている。
 
 坂東平氏

 高望は、昌泰元年(898年)に上総介に任じられ遥任国司が多いなか、子の国香・良兼・良将を伴い任地に下向した。そして任期 が過ぎても帰京せず、国香は常陸大掾(大掾氏)、良将は鎮守府将軍を勤めるなどし、上総国ばかりでなく常陸国や下総国にも勢 力を拡大、坂東に武士団を形成し武家平氏の基盤を固めた。また、高望の側室の子良文もその後坂東に下り、良文の子孫も坂東に 散らばって三浦氏・土肥氏・秩父氏・千葉氏などの武家となった。特に良文流の坂東平氏を坂東八平氏という。

 伊勢平氏と平家

 国香の孫維衡よりはじまる一族が伊勢平氏である。平氏の中でも伊勢平氏、特に正盛の系統(六波羅流・六波羅家)は「平家」と 呼ばれている。正盛の子忠盛が初めて昇殿を許され、忠盛の子清盛は平氏政権を樹立し栄華を誇ったが、壇ノ浦の戦いで滅亡し  た。
 維衡の子孫には他に室町時代に有力な幕臣となる伊勢氏がおり、第13代将軍足利義輝の時代の政所執事・伊勢貞孝は幕政を壟断す るまでになったが、三好氏と対立して戦死した。貞孝の死後、伊勢氏は力を失ったが江戸時代には旗本として続いた。また伊勢氏 の傍流出身といわれる伊勢盛時は一代で伊豆・相模を平定し、戦国大名・後北条氏(小田原北条氏)の祖となった。
 
 平家の落人
 
 各地に散らばって隠れ住んだ「平家の落人」の子孫を自称する武家は大変多く、代表的なものとして薩摩の種子島氏、対馬の宗  氏、尾張の織田氏などが挙げられる。しかし、これらは子孫だとしても伊勢平氏の子孫ではなく、「平家に仕えた郎党の子孫」と いうべきだろう(織田氏については藤原氏説もあり)。ただし、前述のように伊勢平氏に仕えていた郎党を他氏出身者も含めて 一括して「平家」と呼んだ用例もあるため、その意味においては「平家の落人」という言葉も全くの誤りではない。
 熊本県の五家荘や富山県の五箇山などは平家の落人の隠れ里と伝えられる。これら平家の落武者およびその家族、使用人等の隠れ 里と伝わる地を「平家谷」と通称する。
 室町時代に入ると『平家物語』が完成し、今日まで広く愛される軍記物語となった。

■織田氏

織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。

発祥地(苗字の地名)は越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)。本姓は藤原氏(のちに桓武平氏の系統と仮冒)。実際は忌部氏の流れを汲むとされる。甲斐氏、朝倉氏と同じく、三管領の斯波武衛家の守護代であり、序列は甲斐氏に次いで二位であった。

織田氏は系図の上では平資盛の子と称する平親真を祖とする桓武平氏流と自称している。しかし、福井県越前町の法楽寺で発見された親真を供養した五輪塔の一部には「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月十九日未尅(ひつじのこく)」、つまり親真は正応3年(1290年)2月19日に亡くなったと刻印されており、『信長記』(小瀬甫庵)などの文献と照らし合わせると親真が100歳を超える寿命になり信憑性が問われる[1]。

この他、越前国織田庄(福井県丹生郡越前町)の織田剣神社の神官の出自であるともされている[2]。

また、福井県の郷土史家である松原信之の研究によると、織田剣神社にある『藤原信昌・兵庫助弘置文』の古文書で、明徳4年(1393年)の6月17日に剣神社宝前に奉納し、置文を記した鎮守府将軍・藤原利仁(あるいは利仁の岳父で、敦賀郡の豪族藤原有仁(忌部氏?))の系統と思われる藤原信昌、藤原兵庫助将広(将常)父子が越前織田家の先祖に関連がある人物と伝わる。事実として織田信長は「藤原信長」と称しているが、その根拠はここから来ており、元東京帝国大学史料編纂官の博士・田中義成の研究によると、信長は実際に天文18年(1549年)11月、熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。

また、他の学説としては、親真自身が忌部氏の出目とする説もある。

(Wikipediaより)

織田信長は藤原信長であり、桓武平氏流と自称している。

信憑性が無いと注意書きが有りますが、『熱田八ヶ村の熱田神宮で自ら「藤原信長」と認(したた)めていると述べている(『加藤文書』より)。また、天文23年(1554年)6月11日、織田信長は熱田神宮に菅原道真画像(熱田神宮所蔵)を寄進。その絵巻には「藤原織田勘十郎」と記してある。」とあります。

ここで、破れた平家=藤原式家は、北条氏、織田氏として、逆襲のチャンスを狙っていたと仮定します。

すると、それ以降の日本の歴史が何だったのか?

戦国時代とは何だったのか? 太平洋戦争とは? 原爆とは?

水戸黄門、徳川家、大本、マスコミ、在日特権、パチンコ、K-POP、朝鮮総連、民団、統一教会、創価学会

日本全体の歴史や仕組みが芋づる式にクリアになってくるのです。

つかれたので、今回はここまで、それでは、


【失われた20年の原因③ 世界統一政府樹立を目指す日本の南朝・北朝の存在】

こんにちは、前回は失われた20年の原因シリーズの最後です(また続編で再開します)。

最初にお断りしておきますが、ヒトラーシリーズでずいぶんと大本をはじめとする勢力の悪さを書いてしまいましたが、このシリーズでは、その反対側の勢力について、書いています。

そしてこの記事では、それら両方、どっちも同じ穴の狢で、重大な責任があるということをまとめます。

失われた20年の原因。

それは世界統一政府樹立を目指す日本の南朝・北朝の存在です。

勘の良い人なら、もうこの一言でこの記事は終わってしまうのですが、私も含め、説明が必要な人もいます(笑)。

まず最大の原因は、自由資本主義を守る目的の国際的な簿外資金を供給する側が抱く、日本に対する不信感が挙げられます。

この国際的資金は同時にコミュニストを撃退する資金である事を意味しています。

この資金を入れても、正しく使われないどころか、政治家のポケットに入ったり、知らぬうちにコミュニスト施策に乗ってしまったりという、疑いを持たれているからだ。という説明をしました。

その穴埋めを税金で行わなくてはならないので、消費税が3%、5%と上げられ、8%、10%なんていうレベルに上がっていくのだと、解釈しています。

この簿外資金に限らず、借りた金は、期限が来たら利息をつけて返さなくてはならないのが世の常です。

バブル崩壊後、景気対策として、何度か国際的簿外資金を投入している。

それでも、未だに不祥事が相次いでいるので、すぐに止められているのでしょう。

つまり、日本国はコミュニストの影響下にある勢力が主勢力として君臨していると見做されているのですね。

ロス茶、ロック爺ばかりが標的にされますが、いえいえどうして、日本国内にいるヘッセン傀儡の悪さもかなりの物です。

世界の北軍派は、これを見抜いているということですね。

それが20年も続いているという、失われた20年の原因ですね。


それと前回の記事に書き忘れたのが、長州の大内氏。

『江戸時代牛久藩主であった山口氏は、大内氏分家であり大内義弘の次男・大内持盛の系統である。明治維新まで譜代大名として存続した。』(Wikipediaより)

水戸藩の近くに牛久藩というのがありました。

『牛久藩(うしくはん)は、常陸国河内郡に存在した藩。藩庁は牛久陣屋(茨城県牛久市)。

祖先は応永の乱で室町幕府第3代将軍・足利義満に反乱を起こした大内義弘の次男・大内持盛と言われ、大内氏の本拠地・周防国山口の地名をとって、山口氏と称した。』(Wikipediaより)

水戸黄門は徳川御三家でありながら、その教えは水戸学という客家、李氏にまつわる儒教をベースにした幕末志士のマスターマインドであり、大内氏=長州藩繋がりでイエズス会との関係も深く、近衛家、岩崎弥太郎、といった現在の日本政財界最大家系の流れの中の人物です。

水戸黄門は大きな波に飲み込まれ、マスターマインド化されたと言った方がよいでしょう。

「水戸黄門」が何十年間も放送され続けているのは、日本のマスコミがこの派閥に支配されているからでしょう。

その後、同じ水戸藩の徳川斉昭により、徳川慶喜が最後の将軍に据えられ、江戸幕府を乗っ取り、終わらせるわけです。

徳川 斉昭(とくがわ なりあき)は、江戸時代末期の大名(親藩)。常陸水戸藩の第9代藩主。江戸幕府第15代(最後)の将軍・徳川慶喜の実父である。(Wikipedia)

この家系の事を、藤原式家(南朝・桓武平氏系)といいます。

一方、九鬼家をはじめ、大本、紅卍会といった組織の元になる家系があります。

その家系を、藤原北家(北朝・清和源氏系)といいます。

この南朝と北朝は大化の改新時代から、延々と対立しているのです。

当事者達は知らないと思いますが、どちらもヘッセン陣営です。

NWO=世界統一政府、千年王国を目指しています。

現在の日本は、南朝支配下に有ります。

下記は当時の南朝・北朝をグループ分けしたのですが、下記意外にも多数のフィールドがあります。

スクリーンショット 2013-07-30 16.47.34


こんなかんじで、戦ったというよりも、戦わされた訳ですね(図の上下関係が逆さまですが)。

ちなみにイギリス・フランスというのは、その当時の目くらませで、どちらも同じ勢力。

裏にイエズス会、フリーメイソン、イルミナティ、等々がいて、どっち側にも付いています。

まあ、基本的には南朝が勝利し、明治政府が樹立され、開国されるストーリーです。

南朝も北朝もどちらもヘッセン陣営といことがわかりますね。

明治政府は日英同盟締結。明治天皇、ガーター勲章受章。(明治・大正・昭和・今上天皇が受章)ここに、藤原式家(南朝)とシュメール発祥のウィンザー家が握手を交わし、現在に至る。

悲しいのは、戦っている本人達はヘッセンの存在はしりませんから、現在でもこの対立は続いていることです。

私たちは日本の南北戦争の冷戦時代に生きていると言って良いでしょう。

そして彼らは互いに世界統一政府樹立に向けて、邁進しています。

そう、どちらも知らずのうちにヘッセン陣営として動かされているのですから。

南朝にしても北朝にしてもコミュニスト。

もう一度強調しますが、日本国はコミュニストの影響下にある勢力が主勢力として君臨していると見做されているのでしょう。

誰もそんなところにお金は流さないのではないでしょう?

それでは


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O'BRIEN

Author:O'BRIEN
世界の情報を交えながら、自己組織集団(自給自足集合体)の時代について考えてゆきます。

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