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【失われた20年の原因② 第一勧銀巨額小切手事件と川崎テイトク、そして水戸黄門の正体】

こんにちは、今回は、失われた20年の原因シリーズ②です。

まず始めに、前回のおさらいですが、川崎テイトクは水戸藩にいた頃から通貨の鋳造をしていましたね。

とら銭という硬貨を作っていた訳です。

こんなことをできるほど上の地位にあったということですね。

さて、川崎テイトクの創業者、川崎八右衛門のマスターマインドは誰だったのか?

それは置いといて・・・

今回は失われた20年の原因として、日本の信用を失墜させた大事件について書きます。

第一勧銀巨額小切手事件です。

第一勧銀といえば、第一銀行と日本勧業銀行が合併して出来た銀行です。

その創業者は、渋沢栄一。川崎テイトクとも子孫が繋がっている人物です。

この第一勧銀が起こした正規の大事件

第一勧業銀行 巨額 怪小切手事件です。

(ここに貼ると記事が長くなりますので、詳細はリンクを読んでください) 

http://www.rondan.co.jp/html/news/dkb/dkb.html

この事件、謎の小切手の出所をめぐる事件だったのですが、川崎テイトクが起こした事件。

国家予算外資金の日本国歳入に辺り、裏で企みを実行していたのが川崎テイトクのさ◯◯し◯る氏です。

当時の複数の有力政治家がなんと、100兆円という、国家予算単位のカネを盗もうとしたのです。

政治家の名前はご想像にお任せしますが、まあ、超大物達ですよ。

それを小分けした小切手が出回ったのですが、偽物と判断され、換金出来なかったという奇妙な事件。

小分けしたといっても、一枚7.5兆円とかの小切手です。

¥7,500,000,000,000ってな金額です。

現物のコピーをちらっと見た事が有るのですが、見た事も無い桁の小切手でした。

この小切手のコピーを見るまでは、そんな馬鹿な・・・思っていましたから。

この奇妙な事件をはじめ、その他の不正事件が次々と発覚。

それ以来、日本は国際的に不信感を持たれるようになりました。

誰がこれらの小切手を発行し、誰がそれを突き止め、誰が阻止したのでしょうか?

昭和30年代からの日本の経済成長は、自力だと思いますか?

自力であれば、何故、今は成長できないのでしょうか?

中国はまあいろいろ問題は有りますが、何で急成長したのでしょうか?

誰かが、世界経済を牽引させる目的で巨額の資金と技術、設備を入れているからとしか考えられません。

国際情勢を考察する上で、現時点で大切な事は、日本が参院選の行方に関心を奪われる裏側で、キューバから北朝鮮への武器密輸が、パナマで阻止された事。

かつてはキューバ、パナマ、マイアミ等コミュニスト側が勢力を持って来た地域で、極東の安全保障を担保する為の活動が継続されており、成果を上げている事を、日本人は認識すべきなのです。

この兵器が、第三次世界大戦を引き起こす可能性だってあるわけですから。

このタイミングで安倍さんはフィリピンに来ています。

なにやってんだか?

と、心配でしたが、ちゃんとシンガポールで米高官と協調路線で対話済みだそうです。

世界はコミュニストに支配されていません。

正義は失われておりません。

ですが、80〜90年代に起きた多数の不祥事で、日本は信用を失いました。

それは、今でも続いています。

だから、失われた20年なのです。

世界経済を牽引し、正しい経済成長を促す目的が、個人の懐に流れてしまうような政治家がいる日本など、助ける必要は無いと考え、

また、その国民ですら、成長したいという活力が消え、誤った情報に引き回され、

アメリカは出て行け!だけど尖閣の中国をなんとかしろ!竹島問題を解決してくれ!

と叫んでいる子供のような国民なのですから、始末に負えません。

元々、日本人には、ずば抜けた技術力、忍耐力があるのですから、日本人を支配している渡来人の策略に気付き、本来の国民主権を取り戻さなくてはなりません。

取り戻そう、日本です・・・

さて、話は変わります。

前回の記事で触れました、川崎八右衛門の家系図ですが、気になる人がいっぱいいましたね。

近衛家がそのひとつですが、どう水戸藩を繋がったのか?です。

家系図では現代、近衞 忠煇(このえ ただてる)が繋がっています。

しかし、それを遡る事360年程前、水戸藩と近衛家は繋がっていたのです。

近衛家の系図

基実 - 基通 - 家実 - 兼経 - 基平 - 家基 - 家平 - 経忠 - 経平 - 道嗣 - 兼嗣 - 忠嗣 - 房嗣 - 政家 - 尚通 - 稙家 - 前久 - 信尹 - 信尋 - 尚嗣 - 基熙 - 家熙 - 家久 - 内前 - 経熙 - 基前 - 忠煕 - 忠房 - 篤麿 - 文麿 - 文隆 - 忠煇 -

この中で重要な人物が「信尋」

彼の娘が誰と結婚したのか?

それが水戸藩のマスターマインドです。

Wikipediaは、下手な陰謀系サイトよりも役に立ちます。

間違いは有ると思いますが、淡々と事実だけが書かれています。

近衛信尋

系譜
父:後陽成天皇ーーー母:中和門院 - 近衛前久の娘
        
養子に出される

養父:近衛信尹ーーー同母兄弟 後水尾天皇、一条昭良、高松宮好仁親王

正室:不詳

子女

近衛尚嗣

寛俊 - 大僧正法印、勧修寺門
長君 - 東本願寺光瑛室
泰姫 - 水戸藩主徳川光圀室
娘 - 法華寺高慶尼
娘 - 三時知恩寺尼


日本の歴史は、渡来人の争いの歴史です。

イギリスが、アメリカがというのは間違いではないですが、渡来人が引き込んだ外敵なんですね。

自分らの都合のいいように、イギリスを引き込み、それまで日本を支配して来た渡来人を倒し、もう一方の渡来人が乗っ取る。入れ替わる。そういう節目を明治維新だとか、大化の改新だとか呼ぶ訳です。

まあ、日本に限った話ではござませんが・・・

たいてい、歴史で時代の変わり目に出てくる人物は英雄化されますよね?

時代が変わって、彼らのプロパガンダがまかり通る訳です。

戦中は天皇陛下バンザイだったのに、敗戦後、マッカーサーバンザイになったように。

そして、水戸藩のマスターマインドは誰だったのか?

近衛家の秦姫、近衛尋子と結婚した人物で、かつ徳川家康の孫である

天下の副将軍、水戸黄門だった?

(Wikipediaより)

光圀は、学者肌で非常に好奇心の強いことでも知られており、様々な逸話が残っている。

日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメンをはじめ、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆がある。肉食が忌避されていたこの時代に、光圀は5代将軍徳川綱吉が制定した生類憐れみの令を無視して牛肉、豚肉、羊肉などを食べていた。野犬20匹(一説には50匹)を捕らえてその皮を綱吉に献上したという俗説も生まれた。

オランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋(日本最古)を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けている。

鮭も好物であり、カマとハラスと皮を特に好んだ。

朱舜水が献上した中華麺をもとに、麺の作り方や味のつけ方を教えてもらい、光圀はこれを自分の特技としてしきりにうどんを作った。汁のだしは朱舜水を介して長崎から輸入される中国の乾燥させた豚肉からとった。薬味にはニラ、ラッキョウ、ネギ、ニンニク、ハジカミなどのいわゆる五辛を使う。現在でいうラーメンである。光圀はこの自製うどんに後楽うどんという名をつけた。後に西山荘で客人や家臣らにふるまったとの記録もある。

(Wikipediaおわり)

ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示し、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てている。蝦夷地(後の石狩国)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としている。また、亡命してきた明の儒学者・朱舜水を招聘し、教授を受けている。

どこかで聞いたような・・・

そう、織田信長です。

信長も黒人の家臣を持っていました。

(Wikipediaより)

弥助(やすけ、生没年不詳)は、安土桃山時代の人物。アフリカ出身の織田信長の家臣。彌介とも[1]。黒人男性で、現在のモザンビーク出身とされる。

弥助の出自については、フランソワ・ソリエーが1627年に記した『日本教会史』第一巻に記述がある。イタリア人の宣教師(伴天連)アレッサンドロ・ヴァリニャーノが来日した際、インドから連れてきた召使で、出身地はモザンビークであると記されている。

ヴァリニャーノは日本に来る前にモザンビークに寄港した後インドに長く滞在していた経験があり、弥助が直接ヴァリニャーノによってモザンビークから連れてこられたのか、それとも先行してにインドに渡っていたのかはこの文章からは不明である。

天正9年2月23日(1581年3月27日)に、ヴァリニャーノが信長に謁見した際に奴隷として引き連れてこられた。

『信長公記』には「切支丹国より、黒坊主参り候」と記述されている。年齢は26~27歳、「十人力の剛力」、「牛のように黒き身体」と記述される[4]。

天正9年3月11日(1581年4月14日)付でルイス・フロイスがイエズス会本部に送った年報や、同時期のロレンソ・メシヤの書簡によれば、京都で黒人がいることが評判になり、見物人が殺到して投石が起き、重傷者が出るほどであった。初めて黒人を見た信長は、肌に墨を塗っているのではないかとなかなか信用せず、着物を脱がせて体を洗わせたところ、彼の肌は白くなるどころかより一層黒く光ったという。

(Wikipediaおわり)

出たなショッカー、イエズス会!!

イエズス会が水戸黄門に2名の黒人を売りつけたのでしょうか?



水戸藩には水戸学というものがあります。

水戸学とは?

(Wikipediaより)

水戸学(みとがく)は、日本の常陸国水戸藩(現在の茨城県北部)で形成された学問である。全国の藩校で水戸学(水戸史学、水府学、天保学、正学、天朝正学ともいわれる)は教えられその「愛民」、「敬天愛人」などの思想は吉田松陰や西郷隆盛をはじめとした多くの幕末の志士等に多大な感化をもたらし、明治維新の原動力となった。 戦後は水戸学に基づく尊皇攘夷思想等が一定の批判を受けることがあるが、本来水戸学は非常に幅の広い学問体系を持っている。

前期水戸学

前期水戸学は、徳川光圀の修史事業に始まる。光圀は、水戸藩の世継ぎ時代の明暦3年(1657年)に江戸駒込別邸内に史局を開設した。紀伝体の日本通史(のちの大日本史)の編纂が目的であった。当初の史局員は林羅山学派出身の来仕者が多かった。藩主就任後の寛文3年(1663年)、史局を小石川邸に移し、彰考館とする。寛文5年(1665年)、亡命中の明の遺臣朱舜水を招聘する。舜水は、陽明学を取り入れた実学派であった。光圀の優遇もあって、編集員も次第に増加し、寛文12年(1672年)には24人、貞享元年(1684年)37人、元禄9年(1696年)53人となって、40人~50人ほどで安定した。前期の彰考館の編集員は、水戸藩出身者よりも他藩からの招聘者が多く、特に近畿地方出身が多かった。学派やもとの身分は様々であり、編集員同士の議論を推奨し、第一の目的である大日本史の編纂のほか、和文・和歌などの国文学、天文・暦学・算数・地理・神道・古文書・考古学・兵学・書誌など多くの著書編纂物を残した。実際に編集員を各地に派遣しての考証、引用した出典の明記、史料・遺物の保存に尽くすなどの特徴がある。また、大日本史の三大特筆の中でも、南朝正統論を唱えたことは後世に大きな影響を与える(南北朝正閏論)。この頃の代表的な学者に、中村顧言(篁溪)、佐々宗淳、丸山可澄(活堂)、安積澹泊、栗山潜鋒、打越直正(撲斎)、森尚謙らがいる。 元文2年(1737年)、安積澹泊の死後、修史事業は停滞した。

陽明学、その後の展開
陽明学左派-心学の横流

王陽明の高弟としては、王畿(龍溪)、王艮(おうこん、心斎)、徐愛、欧陽崇一 (南野)、銭徳洪(緒山)、鄒守益 (東廓)、羅洪先 (念奄)、聶豹 (じょうひょう、双江)らが有名である。しかし王陽明の死後、陽明学はいくつかの派に分裂した。陽明の生前より、主に良知説における「無善無悪」の解釈をめぐり 王龍溪ら左派と朱子学に再接近しようとする銭緒山らは対立していたが、師の没後分裂が決定的となった。

陽明学左派の中心人物は王龍溪と王心斎であって、この両者を王学の二王と称す。王陽明は心そのものに善悪の区別はないとしたが、「四句教」にあるように「意」・「良知」・「物」には善悪を認めた。しかし王龍溪らは師の説は徹底を欠くとして、「意」・「良知」・「物」も「無善無悪」としたのである。したがってそれらに基づく行動も善悪無しと主張した。これを「四無説」という。いわば善悪といった倫理を超えたものとして「良知」を解したのである。この主張は銭緒山ら右派のみならず、朱子学からも倫理に背くものとされ、彼らの思想・行動は心学の横流と呼ばれ厳しく批判された。また、彼らは狂人は聖人と紙一重という説も唱えていた。

王龍溪

王龍溪が上で師王陽明の良知説を革新したと述べたが、もう少し具体的にいうと、以下の二つの意味を良知に追加した。まず王陽明にあって良知はあくまで人の心にあるものであったが、弟子王龍溪はそれを「天則」(天のことわり)にまで拡大した点。次に「現成良知」を主張した点。「現成」とは、眼前にすでに出現しできていることであり、良知を発現させるために作為的もしくは意識的な修養は無用であって、良知はすでに既成の善悪を超え自律的に正しく判断するのだと主張した。王龍溪は良知を非常に動的なものとして捉え直したといえる。
また理学がその成立当初から禅宗の影響を強く受けていることは、宋代より言われ続けてきたことであるが、陽明学左派はとりわけ仏教の、そして老荘思想の影響が顕著である。この傾向は王陽明も持っていたが、特に王龍溪はこの傾向を強めたといわれる。その証拠として経書の解釈においても積極的に仏教などの語彙を使用して説明しようとした点がよく指摘される。そして仏教も道教も真理の一面を有していたことを認め、三教一致を目指そうとした。この傾向は王心斎の一派にも見られ、それ故にもはや儒教ではなく 禅宗の学だという批判を招くに至った。

王心斎と泰州学派

王心斎も王龍溪と同じく「現成良知」を奉じていたが、思弁性よりも、社会に向けた実践活動に特徴を有する。具体的には王心斎は、『孝経』と四書を重視したが、経書の注釈に拘らない自得の学問を説き、独特な「淮南格物」を主張したこと、古代を理想とする尚古思想をもっていたことがその思想的特徴といえるが、なによりも重要なのは、知識人層以外の階層に陽明学を広めることを己が責務としたことである。王心斎らの一派は泰州学派といわれ、この派からは何心隠、羅如芳(近渓)、楊復所、李贄(りし、卓吾)、周海門、陶望齢を輩出した。彼らはその身の中で、万民を救うという士大夫的責任感と「知行合一」とを結合させ、以下に述べるような社会批判を繰り広げていくのである。この意識が非常に高揚して、「侠」あるいは「遊侠」という境地に達するものも現れた。

李卓吾

李卓吾
は陽明学左派の掉尾を飾る人物である。彼にいたって、朱子学が唱えた読書による人欲の排除といった理学の基本概念とは全く正反対の主張がなされた。まず李は良知説を改良し、「童心説」を唱えた。童心とは経書など外的権威・道徳を学ぶ以前の純真な心を指し、読書学問によってかえって失われるとした。また「穿・衣・吃飯、即ち是れ人倫物理なり」とも述べ、食欲や衣服を身につけようとすることは人間の本来の自然だとし、人欲を全肯定した。

李卓吾とは?

福建省泉州府晋江出身。現在の中国の歴史学者の研究では、回教徒ではないかと言われている。26歳の時に郷試に合格したが、進士とはならず地方官を歴任した。54歳で官を退き湖北省麻城県龍湖にある芝仏院に落ち着き、そこで読書と著述に励んだ。李卓吾の代表作のほとんどはこの芝仏院時期のものである。その思想は陽明学左派(泰州学派)に属するが、それは官僚として各地に赴任した折、焦竑(しょうこう)や耿定向(こうていこう)・耿定理(こうていり)兄弟と親交を結び陽明学へと傾倒していったためである。その後王竜渓(おうりゅうけい)、羅近渓(らきんけい)といった王陽明の弟子に出会うことで、さらに李卓吾は思索を深めていった。

なお1599年、南京に赴任していた折りにイエズス会のマテオ・リッチと邂逅している。以後何度か会い、相互理解を深めたようだ。李卓吾はリッチの人柄や能力、その著作『交友論』に高い評価を下している。またリッチの方でも李卓吾がキリスト教に一定の理解を示したことや文学にも科学にも精通していると書き残している。

引退後に刊行した『焚書』には朱子学及びそれを信奉する道学先生への厳しい批判が込められていたため、周囲から危険思想と断定され、様々な圧力をかけられた。李卓吾への批判はその思想だけでなく生活習慣(僧形となったこと、極度の潔癖症であったこと、女性にも学問を講義したこと)にまで及び、彼を悩ますことになる。また李卓吾への批判はその思想の特異性のみならず、彼の性格に拠るところも大きい。自ら狷介・偏狭と述べ憚らず、世と相容れないこと甚だしかった。結局、迫害を逃れたさきの北京近郊で捕らえられた。そして獄中で自殺。享年76。

死後も弾圧は止まず、著作やその出版の版木は全て遺棄され、王朝が清朝に移り変わっても禁書目録にその著作は載せられることになる。また『明儒学案』にもその名は記されていない。

日本における陽明学

幕末での陽明学の信奉者[編集]

幕末の維新運動は陽明学に影響を受けている。吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山が歴史上おり、革命運動(大塩平八郎 --大塩平八郎の乱 )に呈する者が多かったのは事実である。一方、陽明学の造詣の深さで、佐久間象山と対比される備中松山藩の山田方谷は、瀕死の藩財政を見事、建て直した。山田方谷自身は陽明学者だったが、彼は陽明学の持つ危険性も承知しており、弟子には先に朱子学を学ばせ、センスの良いものにのみ、陽明学を教えた。山田方谷と佐久間象山は佐藤一斎が塾頭をしていた昌平黌で学んでいる。塾長の方谷に若き日の象山がいどんだ連夜の激論は塾の語り草であり、佐門の二傑と称された。佐藤一斎は昌平黌の儒官として、立場上朱子学を奉じなければならなかったので、公然と陽明学を主張できなかった。しかし、一斎の著である『大学一家私言』は、陽明学の視点で書かれたもので、特に幕末の志士に大きく影響をあたえた『言志四録』には陽明学の思想が散見される。また、彼が中江藤樹を尊崇していたことや、彼の門から多くの陽明学の影響を受けたものが多数輩出していることなどから、一斎が陽明学を奉していたことは明白である。そのため、『陽朱陰王』の謗りを受けたが、その主とする所は陽明学に存すると言える。

財界での信者

岩崎弥太郎 - 三菱財閥の創設者

澁澤栄一 - 第一国立銀行(現 みずほ銀行)等の創設者

(Wikipediaおわり)

また出てきましたねイエズス会。

そして中国福建省出身です。福建省と言えば客家?

日本の財界では、岩崎弥太郎、渋沢栄一が信者。

幕末の志士、吉田松陰、高杉晋作、西郷隆盛、河井継之助、佐久間象山も影響を受けている。

水戸学が、幕末のマスターマインドの教えだと仮定すると・・・

今回は長くなってしまいましたので、ここまでおキーワードをまとめておわります。

福建省、客家、李氏、イエズス会、水戸光圀、近衛家、渋沢栄一、第一勧銀、岩崎弥太郎、幕末の志士達、川崎テイトク、全部繋げてみると、何が見えてきますか?

光圀の修史事業

(Wikipediaより)

修史事業の目的[編集]

光圀が18歳の時、『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、それまでの素行を改めて学問に精を出すようになった。この経験により、紀伝体の日本の史書を編纂したいと考えるようになったと、後年、京都の遣迎院応空宛の書簡(元禄8年10月29日付)に書いている。没後15年後に書かれた『大日本史』の序文には、「善は以て法と為すべく、悪は以て戒と為すべし、而して乱賊の徒をして懼るる所を知らしめ、将に以て世教に裨益し綱常を維持せんとす」とあり、紀伝体の史書を編み歴史を振り返ることにより、物事の善悪や行動の指針としようという考えであった。個人がいかなる役割を果たしたかを明らかにし、それにふさわしい「名」をその人物に与えるという、儒教の正名論に基づいたものである。

また、遣迎院応空宛の書簡には、武家に生まれたが、太平の世のため武名が立てられないので、書物を編纂すれば後世に名が残るかもしれない、とも書かれており、後世に名を残すことも目的だったようである。

延宝8年(1680年)神武天皇から後醍醐天皇までの本紀の清書が終わり、3年後の天和3年(1683年)、「新撰紀伝」と称される104巻(本紀21巻、皇后紀5巻、諸女列伝1巻、皇子伝5巻、諸子列伝1巻、列伝70巻)が完成した。

しかし、仔細を検討したところ、一応完成した「新撰紀伝」についても、重複や脱落があった。またこの頃、既に南朝の正統性に信念を抱いていた光圀としては、少なくとも南北朝合一時の後小松天皇までは編纂したいと考えていたが、それには、史料の少ない南朝史の紀伝を新たに執筆しなくてはならない。このため、「新撰紀伝」の修正・紀伝の追加と、南北朝史の編纂とを並行して進めていくこととなった。編纂の統一を図るとともに効率よく作業を進める目的から、史館員の長である総裁を選任することとなり、人見懋斎が初代彰考館総裁となった。なお、同年安積澹泊が彰考館に入る。

(Wikipediaおわり)

つづく・・・


【失われた20年の原因①                水戸藩のロスチャイルド=川崎テイトク】

こんにちは、今回は失われた20年の原因シリーズ①として、水戸藩のロスチャイルド川崎八右衛門とその家系図について、書きます。

さすが、大財閥だけあって、岩崎弥太郎とも繫がり、近衛文麿とも繫がり、三笠宮崇仁親王、高円宮憲仁親王、寬仁親王、桂宮宜仁親王といった皇室の方々とも繫がり、挙げ句の果てには歌手の”中島みゆき”とも繋がっちゃう家系です(笑)。

家系図には書かれていませんが、川崎八右衛門の甥は、第一銀行の創立者・渋沢栄一の娘と結婚して、渋沢栄一の 孫・敬三が、幣原内閣の大蔵大臣となってます。

私はですね、渋沢栄一は自分の後継者を家族からは選ばなかったということを本で読んで、大した人物だなと関心していましたが、やはり、人の子ですね、正直、ショックです。

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日本最大の財閥と、水戸藩の金庫番と、そこに暴力団が結びつき、大事件を引き起こすのです。

これが失われた20年の始まりだったとは言いませんが、国益を損なう非常に重大な犯罪だったという認識でいます。

ちょっと長いですが、基礎知識ですので、下記を読まれる事をお勧めします。

川崎テイトクWEBサイトより http://www.kawasakiteitoku.co.jp/zai.htm

● 川崎財閥

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初代川崎八右衛門によって礎が築かれ、二代目川崎八右衛門によって、八大財閥の一つとして、完成されていった。

※ 「八大財閥」; 三井、三菱、住友、安田、川崎、浅野、古河、大倉などの日本の八大財閥。
※ 八右衛門の名。川崎家では代々八右衛門を名乗っていたといわれるが、川崎財閥として、初代、二代目となる。


● 創始者 初代川崎八右衛門(かわさきはちえもん)=(守安)

初代川崎八右衛門

天保5年(1834年)12月、現在の茨城県東茨城郡茨城町海老沢(涸沼西海岸)に生まれる。初名を縫殿助(ぬいのすけ)、諱(イミナ=実名)を守安といった。嘉永2年(1849年)、数え年16歳で、家業の回漕問屋を継ぎ、初代八右衛門を襲名。翌年、現在の水戸市成沢町の私塾「日新塾」(加倉井砂山開設)に入門、勉学。八右衛門は、師・加倉井砂山の教えを守り、来るべき新時代のためになる、実用的な学問の修得に励んだ。「貨殖(資産を増やすこと)は、門人中で第一人者」と、その時すでに頭角を顕している。

時あたかも幕末動乱期に入っており、日新塾の門人たちの中にはやがて'桜田門の変'を起こす、斎藤賢物、鯉淵要、天狗党筑波山挙兵の藤田小四郎、飯田軍蔵などもいた。
       
しかし、加倉井砂山は一党一派に偏ることを嫌い、優れた人材を多方面に養成することを旨としていたので、党派を度外視して教育に専心、門人が血気にはやって政治行動に飛び込むことを戒めた。
                    
砂山は、そんな八右衛門を見込み、次女・世舞子(せんこ)を嫁がせた。結婚したのは、八右衛門が日新塾に入門した、その年であった。砂山は、八右衛門の人格、見識、才能をすでに認めていたのである。世舞子は、後年香蘭女史と呼ばれ、文武の嗜み深く、その上、美人であったので結婚の申込みが引きも切らずという女性であった。

香蘭女史の最も感服させられるところは、'記憶力が天が与えたと思われるほど卓越していた'こと、 '能筆である'こと、 '何事も一度見聞したことは、必ずメモに書き留めた'こと、である。

川崎銀行はじめ、事業が全て完全に成功できたのは、夫、川崎八右衛門に依るところであるが、香蘭女史の内助の功績が大であることは、万人が声を大にして認めていることである。

初代川崎八右衛門は、幕末、明治維新直前の頃、水戸藩鋳銭座取扱人に任命されている。「第百生命七十年史」の記述に、八右衛門の鋳銭事業へのかかわりが、より早い時期に始まり、より積極的なものであった、とみる。財政逼迫に苦しむ水戸藩は、領内の富豪から強制的に資金を徴収して急場を切り抜けようとし、川崎家もその対象とされたが、八右衛門はこれに承服せず、鋳銭による藩財政の改革を進言、藩の勘定方に取り立てられたという。当時、幕府は藩による鋳銭を固く禁じていたが、八右衛門は安政六年(1859年)、自ら江戸に赴いて幕府老中に謁見し、その解禁を願い出た。その後も懇請を続けたため、水戸藩の鋳銭事業がようやく実現した。この功により、二代藩主・徳川光圀の時代から三十石の郷士待遇であった川崎家の家禄が七十五石に加増され、その後さらに五十石が加増されたという。

それにしても、血で血を洗う凄惨な訌争(こうそう)が続いたと一般的には受け取られている幕末の水戸藩に、八右衛門のような人材が現れたのは、不思議といえば不思議であるが、そのような時代だからこそ現れた、ともいえるかもしれない。

とら銭 「水戸市史中巻⑤」には以下のように記されている。

八右衛門は江戸向島小梅の水戸藩下屋敷(現在の東京都墨田区・隅田公園)の小梅鋳銭座総長となり、鋳銭の運営を任され、鉄一文銭、鉄四文銭、百文銭の鋳造を行った。慶応二年(1866年)7月、小梅で鋳造する四文銭の江戸市中での通用が認可された。八右衛門は、水戸藩鋳銭場の責任者となり、百文銭、四十八文銭(あるいは五十文銭)の銅銭、鉄銭を盛んに鋳造し、水戸藩財政の改善に大きく寄与した。

表は'富国強兵'の文字、裏は'虎の絵'が刻印されていたことから、「とら銭」と呼ばれている。当初は、銭座職人の賃金支払に使用されていたがしだいに水戸市内でも流通するようになり、藩領内の通用貨幣として一般化していった。また、貨幣として好評であったことから他の藩領との商取引にも使用され、藩領外でもかなり流通したといわれる。

明治四年の廃藩置県により、水戸藩は水戸県、さらに統合により茨城県となるが、先代八右衛門は、水戸藩と新政府の間に立ち、旧水戸藩の常平米(米価の安い時期に購入し、高くなると放出する米価調節のための米)五千三百七十俵の処分方法を折衝、この処分を一手に引き受ける活躍をして、事業家としての頭角を顕していった。
            
さらに、廻船問屋、鉱山経営、北海道開発などを進め、明治7年(1875年)に「川崎組」を興し、警視庁の為替御用達、茨城、千葉、静岡の為替方を勤め、
これを川崎銀行へと発展させた。明治13年(1881年)川崎銀行設立。  以降、事業を次々と成就して、大成功を収め、二代目川崎八右衛門に継承する。

明治40年(1907年)先代川崎八右衛門逝去。 


●二代目川崎八右衛門(金三郎)

初代川崎八右衛門の三男二女の三男金三郎が二代目八右衛門を襲名。
長男省三は海老沢の生家、川崎家本家を継ぐ。次男富造は夭折。
慶応 2年(1866年)4月5日、鹿島郡沼前村(現在の茨城町海老沢)に生まれる。
初代八右衛門、世舞子夫妻の三男。金三郎と命名される。
明治17年(1884年) 東京の中学卒業
明治18年(1885年) アメリカ、レキシントン州立代大学に留学、経済学を専攻。卒業後、アメリカ第四国立銀行に勤務
明治21年(1888年) アメリカより帰国し、川崎銀行に勤務
明治26年(1893年) 若干27歳で、川崎銀行頭取に就任
青年頭取が誕生
明治35年(1902年) 日本酒造火災を買収
明治38年(1905年) 家督相続
明治39年(1906年) 川崎定徳会を創設。会長に就任。直系会社を統率。日本火災を買収。川崎系日本火災となる
明治43年(1910年) 日本火災会長に就任
大正 2年(1913年) 二代目八右衛門を襲名
昭和 2年(1927年) 川崎銀行、第百銀行を合併。
川崎信託(のちの日本信託、現在の三菱信託)を設立
昭和12年(1937年) 川崎金融産業体の体制を整備、"金融財閥"と称される
昭和22年(1947年) 8月24日、病のため湯河原別邸で死去。享年83歳。
墓地は、東京谷中天王寺にある


※妻、幸子(こうこ)は、川崎家の参謀長であった男爵郷誠之助(父純造は大蔵次官)の妹


● 川崎守之助

二代目八右衛門長男。
明治38年(1906年) 2月 26日 生まれ
大正11年(1921年) 3月  学習院中等科卒業
昭和 3年(1928年)  アメリカ、ケニオン大学卒業
 バチェラー・オブ・フィロソフィーの称号を受ける
昭和 4年(1929年) 3月  日本火災保険株式会社取締役に就任
昭和11年(1936年) 12月  株式会社定徳会 代表取締役に就任
昭和18年(1943年) 3月  日本火災保険株式会社取締役社長に就任
昭和20年(1945年) 12月  日本火災保険株式会社取締役会長に就任
昭和22年(1947年) 3月  貴族院議員に勅撰される
昭和22年(1947年) 3月  貴族院制度廃止により貴族院議員を辞す
昭和27年(1952年) 3月  株式会社定徳会取締役会長に就任
昭和30年(1955年) 8月  株式会社定徳会は川崎定徳株式会社と社名変更
 引続き同社取締役会長
昭和47年(1972年) 2月 20日 内閣総理大臣から紺綬褒章を授与される

● 川崎財閥構成図と傘下企業(昭和12年頃)

《主な傘下企業》
    
◎第百銀行
川崎財閥の中核であった川崎銀行が、(旧)第百銀行を合併して、川崎第百銀行となり、昭和11年に、第百銀行と改称したもの。川崎銀行の系列銀行には、常陽銀行、千葉合同銀行、足利銀行の三行があった。

◎日本火災 
明治39年に系列下になった損害保険会社。

◎帝国火災 
明治45年設立。初代社長は東武鉄道の根津嘉一郎。創業以来、業績不振で、川崎家で引き取ることになり、昭和4年7月、日本火災の姉妹会社として更生をはかり、社長に川崎肇が就任した。昭和11年4月、川崎甲子男が社長に就任。昭和19年3月20日に、日本火災と、0.66対1の割合で合併、業務のすべてを日本火災に引き継いだ。

◎川崎信託会社(⇒日本信託⇒三菱信託)
大正12年1月の新信託法が施行され、
15年10月21日、川崎八右衛門、川崎肇、郷誠之助ほか20名の発起人により、川崎信託株式会社設立内伺書を大蔵省に提出。当局からの懇請で、本店が京都市となった。取締役社長、川崎肇。昭和3年4月、東京支店開設。日本橋区檜物町14番地(川崎貯蓄銀行本店後)昭和12年3月11日、本店、東京に移転。(京都本店は支店となった)昭和22年8月15日、同業他社に率先して、財閥の"ファミリーネーム"をはずして、日本信託株式会社と社名変更、さらに、再建整備計画により、銀行として新発足、信託業を兼営することになり、23年7月20日、日本信託銀行株式会社と改称、さらに、三菱信託銀行と合併、今日にいたっている。

(転載おわり)

まるでロスチャイルドのようですね。

ロスチャイルドの裏にはヘッセンというマスターマインドがいる訳ですが、川崎テイトクのマスターマインドは誰だったのでしょうか?

次回は川崎テイトクとそれに絡む政治家の悪事について書いていくつもりです。

それでは


【既得権者=緑のカラス達によるTPP日本政府代表団への妨害活動 TPPマレーシア会合で】

こんにちは、今回は、ある団体のTPP日本政府代表団への妨害活動についてです。

TPPによるアメリカの日本浸食が不安視され、TPP反対の意見が多く聞かれます。

ネットでは三橋貴明、中野剛志、藤井稔、上念司氏らがTPP反対の急先鋒です。

TPP加盟によって、国民皆保険が無くなり、アメリカ並みに医療費が高額になる。

日本の農家に致命的な打撃を与えるといった意見が大半です。

以前の記事にも書きましたが、日本の農業は農協という、農家の為にあるはずの存在が、実は農家を苦しめているという事実が有ります。

そして農協の黒字要因は金融関連であり、農業の収支は赤字なのです。

さらに農協からの自民党農林族への組織票と引き換えに農水省が予算を獲得するという構造があります。

いわゆる族議員ですね。

これらは農協に限った話ではなく、漁業、林業、酪農、食肉解体業といった関係者が既得権益を得る為に張り巡らされたネットワークです。

ここで、TPPに反対している方のサイトを紹介します。

(以下、PARC会員MLより転載)

PARC会員のみなさま
TPP反対にかかわるみなさま
TPP参加反対署名に参加してくださったみなさま
(一斉送信で失礼いたします)

PARCの内田聖子です。
明日までマレーシア・コタキナバルのTPP交渉会合の現場です。本日から日本政府の交渉団100名が、鳴り物入りで参加しました。反対を続けてきた者として、大きな怒りと失望を感じざるを得ません。おとといの参院選の結果はさらにその思いを強くします。

が、マレーシアや各国NGOは、参加国の市民社会として長らくTPP交渉を監視し、阻止に向けて地道な努力を重ねています。日本の私たちもその仲間に入ることになるわけですが、こうした仲間たちの知見や情熱、正義感に大きく励まされたことも事実です。

さて交渉の経緯や日本政府の問題点など、まとまった分析は追ってお送りしますが、まずはいくつかお報せです。

★現地から急きょUST中継をしました!

日本政府が続々と入る様子。マスメディアは箝口令(質問禁止)を敷かれ、誰ひとり質問しません(私だけがしたけれど交渉官はまったくムシ)。

★明日(7月24日・水曜日)、朝8:30~のテレビ朝日「モーニングバード」に現地から少しだけ生出演します。(出演時間は番組放送中のどこかのタイミングです)。可能な方はぜひご覧ください。

(転載終わり)

この人が主張している『箝口令を敷かれ、誰一人質問しません』という部分、あたりまえですよね?

『私だけがしたけれど交渉官はまったくムシ』これもあたりまえですよね?

ポイントは、何故、箝口令が敷かれたのか?です。

これには大きな意味が有ります。

ストレートに表現しますが、これは、ある団体がTPP日本政府代表団に対し妨害活動を行う事が分かっていたからなのです。

ある団体とは、農協、漁業、林業、酪農、食肉解体業といった分野で、長期にわたり既得権益を貪ってきた人達です。

本来、TPP日本政府代表団は、会議の他にやらなくてはいけない仕事が有るのですが、その邪魔をする目的で説明要求を繰り返しているのです。

ある団体の正体とは?

部落解放同盟です。

部落解放同盟(ぶらくかいほうどうめい)は、部落差別の解消を目的に標榜している同和団体である。略称は「解放同盟」。関係者の間では、単に「同盟」と呼ばれることもある。また「解同」という呼称も使われることがあるが、解放同盟に好意的でない勢力が使う俗称という面が強く、解放同盟自身や、解放同盟に好意的な立場の人が用いることは滅多にない。また民主党の主な支持団体の一つであり、同党に組織内候補を輩出している。

是非、Wikipediaを読んでください。

2003年12月から2009年1月に渡って、部落解放同盟福岡県連合会の正式所属員である男性が立花町(現・八女市)へ「部落のあなたが指導すると子どもに部落が伝わる。辞めてください」などと自らを中傷する差別的な文章40通以上を送り付け、正常な業務を妨害し続けた。判決によると、男性は嘱託職員の職を継続させるため、あたかも自らが差別されているかのようにみせかけ、町に対策会議を開かせ、正常な業務を妨害した。この男性は2002年から1年更新で立花町役場の嘱託職員として雇われ、2005年から人権同和教育の啓発に携わっていた。

こういう人達なんですよ。

差別被害者のフリをして、そういう立場を利用して、脱税をしたり、補助金をもらったり、人間のクズなんですね。

こいつらが、なんと緑のカラスの下部組織なんです。

6/26追記:そしてこの部落解放同盟ですが、前にも書いたように、JICAと深い関係があるのです。

JICA=部落解放同盟=民主党です。


ここからは、日本昔話になりますが、

むか〜し、昔、十三湊という処が今の青森県にありました。

黒曜石という矢じり(石器)の材料として、十三湊を交易拠点にして日本全国に送られていました。

この古い氏族は、後から来た天孫系海洋族(ユダ族)に攻められ、勢力を失い、身分を下げられエタ、ヒニンと呼ばれるようになりました。

おしまい

黒曜石の原産地はロシアかモンゴルだったのですが、いわゆる石器時代に、青森の十三湊に送り、更に日本全国に交易して、朝廷を築いていた部族です。

都は仙台にあったそうです。

学校では縄文人と呼ばれる人達です。

紀元前にシナイ半島を追われたイスラエル族が中国北部を通り日本に辿り着いた人達です。

天神系、天孫系、地祇系3つの天皇でいうところの地祇系です。

前の記事でも触れましたが、地祇系とは、大本も含む緑のカラスです。

天孫族のヤマトタケルノミコトが退治したのが、ヤマタノオロチ=オロチョン族。

退治されたオロチョンの一般市民はエタ、ヒニン。

今で言う同和です。

その青森の姫が◯◯子

イスラエル族 → 地祇系 → オロチョン族 → エタ、ヒニン → 同和 → 緑のカラス → 農協、酪農、食肉解体、林業、漁業、エトセトラの既得権者

となるわけです。

断っておきますが、緑のカラスは農業や林業をやってるわけではありません。

資金運用です。

TPPマレーシア会合に反対している紅林進というジャーナリストをみつけました。


(転載開始)

カダフィ政権の崩壊とリビアの現状~カダフィ政権の人権侵害と闘った在日リビア人青年の見たリビアの現状~ (第6回CS東京懇話会)

講師:アーデル・スレイマンさん
日時:2012年4月28日(土)午後6時30分~ (開場6時)
会場:文京区民センター 3-D会議室
   (地下鉄「春日駅」「後楽園駅」下車)
   ※入口案内板の表示は「ロゴスの会」
参加費:500円
主催:政治の変革をめざす市民連帯・東京
   URL: http://www.siminrentai.com/
   Eメール:ctstky@yahoo.co.jp

 2010年12月18日のチュニジアでの抗議行動を契機とする「ジャスミン革命」から始まった、アラブ各国での民主化を要求する民衆の抗議運動「アラブ の春」は、エジプト、リビアなどに波及し、リビアでは、 チュニジアや エジプトとは異なり、政権側によるすさまじい武力弾圧とそれに対する反政権側による武力反撃という、流血の事態に陥りました。
欧米による軍事介入も行われ、結局カダフィは反政府側に捕らえられ、殺害されて、1969年のリビア革命以来続いたカダフィ政権は崩壊しました。

カダフィ政権による弾圧、人権侵害を止めさせるべく、日本国内でも在日リビア人、在日アラブ人 たちが駐日リビア大使館に抗議デモをかけました。

 今回のCS東京懇話会では、その抗議デモを中心的に組織した一人であるアーデル・スレイマンさんを迎えて、反米・反植民地主義、「直接民主制」などを標榜しつつ、 実際は強権的な国内支配を続けたカダフィ体制の実態や、その人権侵害、そしてカダフィ政権崩壊後のリビアの現状について生々しく語っていただきます。彼は、 日本人の母親とリビア人の父親を持ち、少年時代の多くをリビアで過ごし、リビアと日本の間を行き来してきました。カダフィ政権崩壊後は、昨年9月と今年3月にリビアに帰国しました。

 現在、シリアでもリビアと同じように、武力衝突や流血の事態が続いていますが、日本ではなじみの少ない中東、アラブの実情を話していただくとともに、それを通してアラブだけでなく、スペインやギリシャ、そして米国における「ウォールストリートを占拠せよ」などのオキュパイ(占拠)運動など世界的に広がる大衆的な抗議運動についても考えたいと思います。

アーデル・スレイマンさん:
日本人の母親とリビア人の父親を持ち、少年時代の多くをリビアで過ごし、高校卒業後は、ピースボートのリビア人スタッフとして働いた後、2011年2月、東京都渋谷区のリビア大使館前でカダフィ体制に対する抗議デモを仲間とともに組織。現在は、日本に滞在し、「エリコ通信社」という、アラビア語通訳・翻訳の通信社に勤務。ジャーナリストをめざして日本の大学に通っている。23歳。

(参考資料)
以下は、アーデル・スレイマンさんが『マガジン9』に書かれた記事です。
「リビアで、今起こっていること」(前編)
http://www.magazine9.jp/other/libya/
「リビアで、今起こっていること」(後編)
http://www.magazine9.jp/other/libya/index2
(転載ここまで)

だれがこんな講演会にカネを出して参加するのでしょうか?

また、こんな記事も書いています。

(転載開始)

「私たちの暮らしを米国系多国籍企業に売り渡すTPP」 (市民連帯・東京 第9回CS東京懇話会 )

講師:内田聖子さん(アジア太平洋資料センター・PARC事務局長、STOP TPP !! 官邸前アクション実行委員会呼びかけ人)
日時:7月25日(木) 午後6時30分~8時50分(開場は6時10分)
会場:東京ボランティア・市民活動センター/会議室B (定員40名)
(飯田橋・セントラルプラザ庁舎棟10階)
JR/地下鉄「飯田橋駅」下車すぐ
地図 http://www.tvac.or.jp/images/infomap_large.gif
参加費:500円
主催:政治の変革をめざす市民連帯・東京
http://www.siminrentai.com/
Eメール:http://jp.mc1010.mail.yahoo.co.jp/mc/compose?to=ctstky@yahoo.co.jp

※事前予約・申込み等は必要ありません。当日直接会場にお越しください。
なお定員を超える参加者がありますときは、当日受付の先着順とする場合もございますのでご了承ください。

 安倍首相は、先の総選挙における公約を破り、3月15日に、「TPP交渉参加」を表明しました。そして7月には「交渉参加」するとまで言っています。このTPP(環太平洋経済連携協定)は、国会議員にすら、その内実・全容を明らかにされぬまま、それへの加盟に向けて秘密裏に交渉が進められようとしています。
 
TPPは単なる貿易協定ではありません。その影響を受けるのは農業だけではありません。医療や保険、食品安全、労働法制、環境規制、等々、私たちの生活に重大な悪影響を与える恐ろしい協定です。特にISD条項(投資家対国家間の紛争解決条項)は、多国籍企業が自己の利益に沿わない規制に対し、巨額な損害賠償を求めて政府を訴えることが可能となり、政府や自治体は住民の利益に沿った規制ができなくなる恐れがありますし、それは諸外国で現実化しています。しかもその訴えを判断するのは、日本の裁判所ではなく、世界銀行
 
傘下の、米国にある国際投資紛争解決センターです。日本の法律に優先して、このISD条項が適用されるのです。

 このように、TPPは、私たちの生活を、国民主権を米国系をはじめとする多国籍企業に売り渡してしまう恐ろしい協定です。今回のCS東京懇話会では、この間TPPに対して、それに反対する市民運動を精力的に行ってきた、PARC事務局長の内田聖子さんを講師に迎え、私たちの生活を根底から破壊するTPPの内実、その現状、反対運動の進め方などについて語っていただきます。彼女は、「STOP TPP !! 官邸前アクション」を中心的に担っている一人であり、3月4日~13日、シンガポールで開催されたTPP交渉会合に、日本からただ一人、米国のNGO「Public Citizen 」の一員として潜り込み、その内実の一端を垣間見てきました。また5月15日~24日、南米ペルーの首都リマで開かれたTPP会合にも、彼女は同じく国際NGOの一員として現地に飛び、情報収集やTPP反対のロビー 活動をしてきました。CS東京懇話会ではそれらについても話していただこうと思います。また今回の懇話会の時期と重なってしまうのですが、安倍首相が日本として参加すると言っている7月15日~25日にマレーシアで開催されるTPP交渉次回会合にも、彼女は現地入りして、情報収集やロビー活動にあたる可能性が高いです。その場合には、この懇話会に合わせて、懇話会の直前に帰国予定ですので、一番ホットな話が伺えるのではないかと思います。

(転載終わり)

いかがでしょうか?

カダフィについての見解からして、世の中の事を何も分かっていません。

こんな人物がTPPは、私たちの生活を、国民主権を米国系をはじめとする多国籍企業に売り渡してしまう恐ろしい協定です。

と言ったところで、何の説得力も有りません。

それ以前に、現在の日本の国民主権とはどんなものなのでしょうか?

私たち日本人は、本当に自由で公平な社会で生活しているのでしょうか?

既得権を握っているのは誰か?

まさか部落解放同盟がそのひとつだったなんて・・・

彼らを守る為にデモを起こし、彼らの既得権益が維持されるように煽動されているのです。

緑のカラスを守りたいですか?

林業の同和=マタギ

(転載開始)

 雪の残る山肌に、2発の銃声がこだまを残してとどろいた。まもなくトランシーバーに「クマを仕留めた」と連絡が入った。男たちが急傾斜の雪渓を跳ねるように急ぐ。行き着いた先には、見事なツキノワグマが横たわっていた。
 
 ここは新潟県山北町山熊田。山の猟師・マタギの伝統を守る山間の村だ。かつてマタギは職業的な猟師として東北地方に点在していたが、現在は違う。それぞれが農業や林業、公務員といった仕事に就きながら、共同狩猟「巻狩り」の際に村人総出で狩りに出るなど、伝統を守っている。集落の人びとにとって、熊狩りは春の到来を祝う祭りでもある。狩りが終わると、男たちは村外れの御神木に参拝し、自然の恩恵に感謝の祈りを捧げるのだ。
 
 山熊田でマタギの頭領を務める大滝国義さんは、「山と熊と田んぼしかないだろう。だから山熊田っていうんだ」と笑う。だが、山間の村に憧れて、都会から訪れる人は多い。大滝さんたちは「ブナの森を歩く会」を結成し、都会からの参加者を募って山歩きの案内をする。また、シナの木の皮で布を織る伝統のシナ織教室は女性たちに人気がある。「ここには都会にあるようなものはなんにもない。だけど、実はなんでもあるんだよ」と大滝さんは胸を張る。

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何故か(Yahoo知恵袋のコメント転載)

 その昔、日本には元々縄文人が住んでいましたが、紀元前5世紀頃から朝鮮半島を経て農耕文化を持った人々が大陸から日本に渡って来ました。
 
 これ等の人々を弥生人と呼びます。

 この弥生人は西日本を中心に、特に北九州や日本海側の山口県北部、鳥取県、島根県の海岸線に上陸したと思われ、その後、勢力範囲を西日本全体に広め、やがて、東の方面にも勢力を拡大したものと思われます。

 実はこの弥生人と縄文人の関係が部落差別の根源ではないかと言われています。
部落差別には明らかに境界線が存在し、長野県では部落差別が問題になりますが直ぐ隣の山梨県では殆ど問題にされません。

 また、関東より東の東北地方では部落問題そのものが存在しない県の方が多いのです。

 部落差別を受ける人々の職業の多くは、動物の肉や皮を扱う仕事をしているのですが、これ等の仕事は東北地方に見られるマタギの文化で、この地方では何等差別の対象にはなっていません。

 このマタギの文化こそが縄文人の文化(狩猟民族)であり、弥生人の文化(農耕民族)とは相容れないものだったのです。

 今でも日本の神社で行われる祭礼には五穀豊穣を願う農耕儀礼は有りますが、動物を生贄にする狩猟儀礼を見る事は出来ません。

 おそらく、勢力を西日本から拡大する弥生人が日本に先住していた縄文人を支配し、東国へ追いやるなかで部落差別が発生してきたのだと考えられます。

 長い日本の歴史の中で支配階級が生まれ、身分制度が確立し、下層階級の人々の不満の捌け口として、少数民族である狩猟文化を持つ人々が差別の対象とされたのでしょう。
スクリーンショット 2013-07-25 13.49.17


(転載終わり)

totanyane1234さん、ありがとうございました。

そして漁業の同和=サンカ(山窩)

サンカの発生にまつわる諸説

古代難民説

 サンカ(山人)は、原日本人(あるいは縄文人)であり、ヤマト王権により山間部に追いやられた異民族であるとする説。柳田國男の山人論に基くが、柳田はサンカと山人を区別して記述している。また山人の起源に関する考察は、南方熊楠に私信において否定され、柳田もそれに積極的には反論していない。根拠に乏しい仮説であり、現在ではこれを主張する研究者を探すことは難しいが、俗説として広く信じられている。

サンカから大本教が生まれたと言われています。

つまり、地祇系=縄文人=天孫系にやっつけられた同和=大本教=緑のカラスの一部になります。

この緑のカラスの親分が日本貴族の一人である、前出の青森の姫、◯◯子さまです。

TPPに参加しないで、緑のカラスに既得権益を握り続けさせるのか?

TPPに参加して、利権でガチガチな古い日本のシステムを壊し、本当の国民主権を目指すのか?

いま、差し迫っている問題ですので、今回の記事を書きました。

それでは


【記事に間違いが有りました謝罪いたします 大本ロゴと九鬼家家紋の類似】

こんにちは、今回は読者の方に、誤った情報を書いてしまったことに対する謝罪記事です。

大本のロゴですが、よく見ると●が10個ありますよね?

私は思い込みで9個と勘違いしていました。

九鬼家  スクリーンショット 2013-07-22 14.18.25
九鬼家の家紋    大本のロゴ 

要するに、九鬼家の家紋と大本のロゴが同じであると主張してしまったのです。

このことによる、誤解が大きな読み違いに繋がりますので、この記事をもって謝罪したいと思います。

まことに、かたじけない・・・

九鬼家の家紋は●が9個あります。

大本のロゴには●が10個あります。

他の陰謀系サイトで書かれていることは、ほとんど頓珍漢であることを先生から教わりましたから、逆に私の勘違い=名無し先生の間違いということになってしまい、それこそ大問題になってしまうのです。

この自覚を持っていないと、とんでもないミスリード、誤解を生じ、しまいにはヘッセン陣営と変わらない思考に誘導することになってしまいます。

神道の5字きり、9字切りの秘密があります。

そして、最近の読者様である、”お邪魔します様”のコメントに対する名無し先生回答の裏付けになるエントリーがWikipediaにあります。

裏付けるなんて、偉そうなことは言えませんが、それを理解する上で一読いただきたいと思います。

Wikipediaには、たまに間違った情報が有るらしいので、注意も必要ですが、私にとって、真っ当なことしか書いていないWikipediaは、本当に役立っています。

まずは名無し先生のコメントです。

神道

表神道は5字切りと9字切りが、陰陽寮と在野の陰陽師の呪文です。裏神道はそれぞれに1を足した、6字切り(カゴメ紋=ダビデ紋)と10字切り(十字架)です。陰陽道では奇数が吉数で陽を表します。そして偶数が陰です。つまり在野の陰の神道=キリスト教という落ちです。

神道奥儀

”お邪魔します ”様御解説の通り、齊王制度の齊院の起りに纏わる『賀茂忠行』等、日本の史記に登場する人物の時代から神道奥儀は受け継がれて来たというのが、現在も奥の院に関わる者たちの共通認識です。そして、カラス自身、自分が陰陽師であり、その奥儀はカバラである事を私の目の前で断言しておりました。一般にはカバラと言うが、彼らの間ではカッパーラ(迦波羅)という呼称を使います。そして使い手をカバラ(漢波羅)と呼びます。更に、このカッパーラの神髄が「生命の木」という原理であり、これを模した構造物は、「ソロモン神殿」、「ピラミッド王の間」に見る事が出来ます。

カラス自身と接触が有る名無し先生のおっしゃることですから、間違いは無いのですが、じゃあ、先生のおっしゃっていることは、世間一般ではどのように書かれているのか?

ここで話は大昔まで遡ります。

下記のWikipediaの文章は、非常に長いのですが、日本が渡来人により構成されていったのかを、トンデモ論ではなく、冷静に解説しているのです。

今回は謝罪を主旨としておりますので、余計なコメントは控えさせていただきます。

それでは・・・

(Wikipediaより)

■蘆屋道満とは?

道摩法師

道摩法師(どうまほうし)は、平安時代の呪術師、非官人の陰陽師。一般的には、蘆屋道満(あしや どうまん、蘆屋は芦屋とも書く)として知られる。なお、蘆屋道満は別人であるという説も存在する。

江戸時代の地誌『播磨鑑』によると播磨国岸村(現兵庫県加古川市西神吉町岸)の出身とされる。また播磨国の民間陰陽師集団出身ともいわれる。

陰陽道の祖とされる安倍晴明とライバル関係にあった。晴明に勝るとも劣らないほどの呪術力を持つとされ、安倍晴明が藤原道長お抱えの陰陽師であったのに対し、蘆屋道満は藤原顕光お抱えの陰陽師であった。道満は藤原道長の政敵である左大臣藤原顕光に道長への呪祖を命じられたとされる。

式神対決で晴明に敗れ、播磨へ追放された。室町時代の播磨の地誌である『峰相記(ほうしょうき)』には、藤原顕光に呪詛を依頼された蘆谷道満は安倍晴明にこれを見破られたために播磨に流され、道満の子孫が瀬戸内海寄りの英賀・三宅方面に移り住み陰陽師の業を継いだと記されている。

芦屋道満伝説

道満が上京し晴明と内裏で争い負けた方が弟子になるという呪術勝負を持ちかけたことにより、帝は大柑子(みかん)を15個入れた長持を占術当事者である両名には見せずに持ち出させ「中に何が入っているかを占え」とのお題を与えた。早速、道満は長持の中身を予測し「大柑子が15」と答えたが、晴明は加持の上冷静に「鼠が15匹」と答えた。観客であった大臣・公卿らは中央所属の陰陽師である晴明に勝たせたいと考えていたが中身は「大柑子」であることは明白に承知していたので晴明の負けがはっきりしたと落胆した。しかし、長持を開けてみると、晴明が式神を駆使して鼠に変えてしまっており、中からは鼠が15匹出てきて四方八方に走り回った。この後、約束通り道満は晴明の弟子となった、と言われているという。

遣唐使として派遣され唐の伯道上人のもとで修行をしていた晴明の留守中に晴明の妻とねんごろになり不義密通を始めていた道満が、晴明の唐からの帰国後に伯道上人から授かった書を盗み見て身につけた呪術で晴明との命を賭けた対決に勝利して晴明を殺害し、第六感で晴明の死を悟った伯道上人が急遽来日して呪術で晴明を蘇生させ道満を斬首、その後に晴明は書を発展させて「簠簋内伝金烏玉兎集」にまとめ上げたといった話が有名である。この『金烏玉兎集』を盗写したという伝説は、のちに浄瑠璃、歌舞伎に脚色された。

阿倍晴明伝説が全国的に拡散したのと同様、蘆谷道満伝説も大規模に拡がっており、日本各地に「蘆屋塚」「道満塚」「道満井」の類が数多く残っている。

「御堂関白の御犬晴明等奇特の事」

藤原道長が可愛がっていた犬が、あるとき主人の外出を止めようとした。驚いた道長が晴明に占わせると、晴明は式神の呪いがかけられそうになっていたのを犬が察知したのだと告げ、ほかにこんな呪術を知っているのは道満以外いないと考え、道満は囚われの身となる。その後、道満は生国播磨に流罪となる。十訓抄にも同様の記述あり。

歌舞伎・浄瑠璃の作品では竹田出雲の「芦屋道満大内鑑」(葛の葉で知られる)が有名である(全5段)。蘆屋道満は悪役として描かれることが多い。安倍晴明の父である安倍保名と芦屋道満はともに天文博士・賀茂保憲(917-977)を師匠としているが、二人による後継者争いが物語の枠である。しかしこの後継者争いのモデルとなった事実は、『続古事談』に記載のある出来事で、それによれば、賀茂保憲が陰陽道のうちの暦道をその子の賀茂光栄に、また天文道を安倍晴明に継がせたことが、陰陽道宗家を二分する結果になり、安倍晴明と賀茂光栄がどちらが師匠の賀茂保憲に気重されたについての論争をしたということである。

「陰陽師」も参照というWikipedia先生の指示ですので、参照。

陰陽師とは?

陰陽師(おんみょうじ、おんようじ)は、古代日本の律令制下において中務省の陰陽寮に属した官職の1つで、陰陽五行の思想に基づいた陰陽道によって占筮(せんぜい)及び地相などを職掌とする方技(技術系の官人。技官)として配置された者を指すが、それら官人が後には本来の律令規定を超えて占術や呪術、祭祀を司るようになったために陰陽寮に属する者全てを指すようになり、更には中世以降の民間において個人的に占術等を行う非官人の者をも指すようになり、声聞師と重ねられることもあって「声聞師」と呼ばれる場合もあった。

現代においては民間で私的祈祷や占術を行う者と定義付けられており[要出典]、中には神職の一種のように見られる者も存在する。

歴史

陰陽五行思想の伝来と陰陽寮の発足

陰陽師は全ての事象が陰陽と木・火・土・金・水の五行の組み合わせによって成り立っているとする夏、殷(商)王朝時代にはじまり周王朝時代にほぼ完成した中国古代の陰陽五行思想に立脚し、これと密接な関連を持つ天文学、暦学、易学、時計等をも管掌した日本独自の職であるが、前提となる陰陽五行思想自体は飛鳥時代、遅くとも百済から五経博士が来日した継体天皇7年(512年)または易博士が来日した欽明天皇15年(554年)の時点までに、中国大陸(南北朝またはそれ以前)から直接、または朝鮮半島西域(高句麗・百済)経由で伝来したと考えられている。

当初はこれら諸学の政治・文化に対する影響は僅少であったものの、推古天皇10年(602年)に百済から觀勒が来日して聖徳太子をはじめとして選ばれた34名の官僚に陰陽五行説を含む諸学を講じると、その思想が日本の国政に大きな影響を与えるようになり、初めて日本において暦(元嘉暦)が官暦として採用されたり、仏法や陰陽五行思想・暦法などを吸収するために推古天皇15年(607年)に隋に向けて遣隋使の派遣が始められたりしたほか、聖徳太子の十七条憲法や冠位十二階の制定においても陰陽五行思想の影響が色濃く現れることとなった。その後も、朝廷は遣隋使(後には遣唐使)に留学生を随行させたり、中国本土または寄港地の朝鮮半島西岸から多数の僧侶または学者を招聘して、さらなる知識吸収につとめた。諸学の導入が進むと、日本においては「日月星辰の運行・位置を考え相生相克の理による吉凶禍福を判じて未来を占い、人事百般の指針を得る」[要出典]ことが重要であると考えられるようになり、吉凶を判断し行動規範を得るための方策として陰陽五行思想が重視されることとなった。

その後、天武天皇が壬申の乱の際に自ら栻(ちょく、占いの道具)を取って占うほど天文(学)や遁甲の達人であり陰陽五行思想にも造詣の深かった事もあり、同天皇4年(676年)に陰陽寮や日本初の占星台を設け、同13年(685年)には「陰陽師」という用語が使い始められるなどしてから陰陽五行思想は更に盛んとなり、養老2年(718年)の養老律令において、中務省の内局である小寮としての陰陽寮が設置されたが、そこに方技として天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士が常置されることも規定されると、陰陽寮は神祇官に属する卜部の亀卜(きぼく、亀甲占い)と並んで公的に式占を司ることとなった。

陰陽寮は四等官制が敷かれ、陰陽頭(おんみょうのかみ)以下の事務方である行政官と、方技としての各博士及び各修習生、その他庶務職が置かれたが、方技である各博士や陰陽師は大陸伝来の技術を担当するだけに、諸学に通じ漢文の読解に長けた渡来人、おしなべて中国本土の前漢・後漢・代わって大陸覇権を握った隋、朝鮮半島西岸に勢力を有した高句麗・百済、まれに当初朝鮮半島東岸勢力であった新羅から帰来した学僧が任命され、特に天智天皇2年(663年)に日本が親密国であった百済に援軍を出した白村江の戦の敗戦により新羅が朝鮮半島を統一して百済王朝が滅亡した際の前後には、百済から大量の有識者が亡命者として渡来し、その中から多くの者が任官されており[誰?]、また、方技は官人の子弟にとどまらず民間人からの登用も可能であった。

陰陽寮成立当初の方技は、純粋に占筮、地相(現在で言う「風水」的なもの)、天体観測、占星、暦(官暦)の作成、吉日凶日の判断、漏刻(水時計による時刻の管理)のみを職掌としていたため、もっぱら天文観測・暦時の管理・事の吉凶を陰陽五行に基づく理論的な分析によって予言するだけであって、神祇官や僧侶のような宗教的な儀礼(祭儀)や呪術は全く行わなかったが、宮中において営繕を行う際の吉日選定や、土地・方角などの吉凶を占うことで遷都の際などに重要な役割を果たした。

陰陽寮に配置されていた方技のうち、占筮・地相の専門職であった陰陽師を「狭義の陰陽師」、天文博士・陰陽博士・陰陽師・暦博士・漏刻博士を含めた全ての方技を「広義の陰陽師」と定義付けることができる。また、これ以降、この広義の陰陽師集団のことを指して「陰陽道」と呼ぶこともあった。

律令制下における陰陽師の待遇の変遷

律令制においては、陰陽寮の修習生に登用された者以外の一切の部外者(神官・僧侶はもちろん官人から民間人に至るまでの全て)が、天文・陰陽・暦・時間計測を学び災異瑞祥を説くことを厳しく禁止しており、天文観測や時刻測定にかかわる装置または陰陽諸道に関する文献についても、陰陽寮の外部への持ち出しを一切禁じ、私人がこれらを単に所有することさえ禁じていた。このため、律令制が比較的厳しく運営されていた平安時代の初期(9世紀初頭)まで、陰陽道は陰陽寮が独占する国家機密として管理されていたが、その後、時代の趨勢に合わせるために律令の細部を改める施行令である「格」・「式」がしばしば発布されるようになり、各省ともに官職の定員が肥大化する傾向を見せると、陰陽寮においても平安時代中期までに、かなりの定員増がはかられるようになり、その制度も弛緩した。

一般的に各省で方技(技官)がおしなべて位階を低めに設定されていた中で、陰陽寮の方技の官位は低目とはいっても各省管轄下の方技に比較すれば高めに設定されていた。ただ、陰陽寮が中務省の小寮であったため、当然ながら行政官である四等官の官位は本省のそれに比べて低めとなっており、後の平安中期で言う、昇殿して天皇に奏上できる仙籍と呼ばれるいわゆる殿上人は従五位下格の陰陽頭のみであり、その他はすべて、後に昇殿を許されない地下官人であった。

律令制定当初は、四等官と方技である各博士や陰陽師は厳密に区別して任命されており、後者にはもっぱら先進各国から渡来した学僧が任命されていた。これは、僧籍に属する学僧を俗世間の政権である朝廷に出仕させて自由に使役することは僧籍者に対する待遇上不可能であり、各博士または陰陽師に任命された学僧を行政官に就任させる際には勅令によって還俗(僧籍を脱して俗人に戻ること)させる必要があり、そのような勅令を乱発することもはばかられたためで、その代わりとして修習生である天文生・陰陽生・暦生には俗人(出家していない人・在家)の人材を登用して陰陽諸学を習得させ、朝廷において自由な出仕・使役が可能な人材を育成しようとしていた。その後、次第にこの運用はあいまいになり、学僧が還俗しないまま方技に任命され、四等官上位職(特に頭・助)に転任または兼任を命じられて、行政官としても実働することも見られるようになったが、基本的には還俗しない学僧方技の位階を上げる場合には、律令制度の基本である官位相当制によって方技の職制のままでは位階を上げることができないため、「権職(ごんのしょく)」(員外配置)によって四等官上位職を兼務させることで位階を上げる方法がとられた。また、修習生の育成が進むと、俗人官僚の方技が増え更に自由な人事交流がなされるようになった。いずれにしても、陰陽寮における技官の行政官への転任や兼任は非常に多く、長官である陰陽頭も技官出身者や技官による兼務が数多く見られ、奈良時代から平安時代初期を通じて技術系の官庁としての色彩を強めた。

しかし承和5年(838年)を最後に遣唐使が廃れたことにより[1]、大陸本土の唐から優秀な渡来人を招聘する機会が失われた(朝鮮半島の統一新羅とはかつての百済ほどの親密性はなかった)。わずか30名の修習生にしぼって閉鎖的に方技の育成を続けた結果、平安時代初期には、次第に陰陽寮の技官人材が乏しくなったと見られたことや、公家の勢力争いの激化にともなう役職不足もあいまって、陰陽寮で唯一の仙籍(殿上人)相当職制である陰陽頭は、各博士などの技官からの登用ではなく、単に公家の一役職として利用されることが多くなり、それも長官職としては従五位下という仙籍格としては末席の地位であったことから、比較的境遇の悪い傍流の公家に対する処遇と化す傾向を見せた。この時代から特に員外配置が多く見られ常設化するようになったが、これはもはや僧籍者への配慮の一環としてではなく、単なる公家への役職充足を主目的とするものであった。

平安時代中頃(10世紀)に入って、後述の賀茂家と安倍家の2家による独占世襲が見られるようになると、陰陽頭以下、陰陽寮の上位職はこの両家の出身者がほぼ独占するようになった。また、両家の行う陰陽諸道は本来の官制職掌を越えて宗教化し、これが摂政や関白を始めとする朝廷中枢に重用されたため、両家はその実態がもっぱら陰陽諸道を執り行う者であるにもかかわらず、律令においては従五位下が最高位であると定める陰陽寮職掌を越えて、他のより上位の官職に任命され従四位下格にまで昇進するようになった。特に安倍家は平安時代後期(11世紀)には従四位上格にまで取り立てられるようになり、室町時代には、将軍足利義満の庇護を足がかりに常に公卿(三位以上)に任ぜられる堂上家(半家)の家格にまでなり土御門家を名乗るようになったほか、その土御門家は、室町時代後期から戦国時代には一時衰退したものの、近世において江戸幕府から全国の陰陽師の差配権を与えられるなど、明治時代初頭まで隆盛を誇った。

平安時代における陰陽道の宗教化と陰陽師のカリスマ化

延暦4年(785年)の藤原種継暗殺事件以降に身辺の被災や弔事が頻発したために怨霊におびえ続けた桓武天皇による長岡京から平安京への遷都に端を発して、にわかに朝廷を中心に怨霊を鎮める御霊信仰が広まり、悪霊退散のために呪術によるより強力な恩恵を求める風潮が強くなり、これを背景に、古神道に加え、有神論的な星辰信仰や霊符呪術のような道教色の強い呪術が注目されていった。讖緯説(讖緯思想)・道教・仏教特に密教的な要素を併せ持った呪禁道を管掌し医術としての祈祷などを行う機関として設けられていた典薬寮の呪禁博士や呪禁師らが、陰陽家であった中臣(藤原)鎌足の代に廃止され陰陽寮に機構統合されるなどして、陰陽道は道教または仏教(特に奈良・平安時代の交(8世紀末)に伝わった密教)の呪法や、これにともなって伝来した宿曜道とよばれる占星術から古神道に至るまで、さまざまな色彩をも併せもつ性格を見せ始める要素を持っていたが、御霊信仰の時勢を迎えるにあたって更なる多様性を帯びることとなった。例えば、陰陽道の施術において多く見られるようになった方違え・物忌などの呪術や泰山府君祭などの祭祀は道教に由来するものであり、散米・祝詞・禹歩(反閇)などは古神道に由来するものである[要出典]。更に、北家藤原氏が朝廷における権力を拡大・確立してゆく過程では、公家らによる政争が相当に激化し、相手勢力への失脚を狙った讒言や誹謗中傷に陰陽道が利用される機会も散見されるようになった。

仁明天皇・文徳天皇の時代(9世紀中半)に藤原良房が台頭するとこの傾向は著しくなり、宇多天皇は自ら易学(周易)に精通していたほか、藤原師輔も自ら『九条殿遺誡』や『九条年中行事』を著して多くの陰陽思想にもとづく禁忌・作法を組み入れた手引書を示したほどであった。この環境により、滋岳川人、弓削是雄(ゆげのこれお)らのカリスマ的な陰陽師を輩出したほか、漢文学者三善清行の唱える讖緯説による災異改元が取り入れられて延喜元年(901年)以降恒例化するなど、宮廷陰陽道化が更に進んだ。あわせて、師輔や清行など陰陽寮の外にある人物が天文・陰陽・易学・暦学を習得していたということ自体、律令に定めた陰陽諸道の陰陽寮門外不出の国家機密政策はこの頃にはすでに実質的に破綻していたことを示している。

やがて平安時代中期以降に、摂関政治や荘園制が蔓延して律令体制が更に緩むと、堂々と律令の禁を破って正式な陰陽寮所属の官人ではない「ヤミ陰陽師」が私的に貴族らと結びつき、彼らの吉凶を占ったり災害を祓うための祭祓を密かに執り行い、場合によっては敵対者の呪殺まで請け負うような風習が横行すると、陰陽寮の「正式な陰陽師」においてもこの風潮に流される者が続出し、そのふるまいは本来律令の定める職掌からはるかにかけ離れ、方位や星巡りの吉凶を恣意的に吹き込むことによって天皇・皇族や、公卿・公家諸家の私生活における行動管理にまで入り込み、朝廷中核の精神世界を支配し始めて、次第に官制に基づく正規業務を越えて政権の闇で暗躍するようになっていった。同時期には天文道・陰陽道・暦道すべてに精通した陰陽師である賀茂忠行・保憲父子ならびにその弟子である安倍晴明が輩出し、従来は一般的に出世が従五位下止まりであった陰陽師方技出身者の例を破って従四位下にまで昇進するほど朝廷中枢の信頼を得た。そして賀茂保憲が、その嫡子の光栄に暦道を、弟子の安倍晴明に天文道をあまねく伝授禅譲して、それぞれがこれを家内で世襲秘伝秘術化したため、安倍家の天文道は極めて独特の災異瑞祥を説く性格を帯び、賀茂家の暦道は純粋な暦道というよりはむしろ宿曜道的色彩の強いものに独特の変化をとげていった。このため、賀茂・安倍両家からのみ陰陽師が輩出されることとなり、晴明の孫安倍章親が陰陽頭に就任すると、賀茂家出身者に暦博士を、安倍家出身者に天文博士を常時任命する方針を表し、その後は両家が本来世襲される性格ではない陰陽寮の各職位をほぼ独占し、更にはその実態を陰陽師としながらも陰陽寮職掌を越えて他の更に上位の官職に付くようになるに至って、官制としての陰陽寮は完全に形骸化し、陰陽師は朝廷内においてもっぱら宗教的な呪術・祭祀の色合いが濃いカリスマ的な精神的支配者となり、その威勢を振るうようになっていった。特に、平安時代中期以降における朝廷中枢の為政者に対しては、昌泰4年(同年延喜に改暦、901年)の左大臣藤原時平による菅原道真を右大臣職から大宰権帥に左遷した事件(昌泰の変)に深く関与したことをはじめとして、政治運営や人事決定から天皇の譲位に至るまで多大な影響を及ぼした。

また、本来律令で禁止されているはずの陰陽寮以外での陰陽師活動を行う者が都以外の地方にも多く見られるようになったのもこの頃であり、地方では道摩法師(蘆屋道満)などをはじめとする民間陰陽師が多数輩出した。

平安時代中・後期(11世紀から12世紀)を通じて、陰陽諸道のうちで最も難解であるとされていた天文道を得意とする安倍家からは達人が多数輩出され、陰陽頭は常に安倍氏が世襲し、陰陽助を賀茂氏が世襲するという形態が定着した。平安時代末期の治承・寿永の乱(源平合戦)のころには安倍晴明の子吉平の玄孫にあたる泰親が正四位上、その子の季弘が正四位下にまで昇階していたが、その後の鎌倉幕府への政権移行にともなう政治的勢力失墜や、鎌倉時代末期の両統迭立に呼応した家内騒動、その後の南北朝時代の混乱によってその勢力は一時衰退した。

武家社会の台頭と官人陰陽師の凋落

平安時代末期(12世紀後半)には、院政に際して重用された北面武士に由来する平家の興隆や、それを倒した源氏などによる武家社会が台頭し、建久3年(1192年)には武家政権である鎌倉幕府が正式に成立した。源平の戦いの頃から、源平両氏とも行動規範を定めるにおいて陰陽師の存在は欠かせないものであったことから、新幕府においても陰陽道は重用される傾向にあった。幕府開祖である源頼朝が、政権奪取への転戦の過程から幕府開設初期の諸施策における行動にあたって陰陽師の占じた吉日を用い、2代将軍源頼家もこの例にならい京から陰陽師を招くなどしたが、私生活まで影響されるようなことはなく、公的行事の形式補完的な目的に限って陰陽師を活用した。

建保7年(1219年)に3代将軍源実朝が暗殺されると、北条氏による執権政治が展開されるようになり、鎌倉将軍は執権北条氏の傀儡将軍として代々摂関家や皇族から招かれるようになり、招かれた将軍たちは出自柄当然ながら陰陽師を重用した。4代将軍源(藤原)頼経は、武蔵国(現在の東京都および埼玉県)の湿地開発が一段落したのを受けて、公共事業として多摩川水系から灌漑用水を引き飲料水確保や水田開発に利用しようとする政所の方針を上申された際、その開発対象地域が府都鎌倉の真北に位置するために、陰陽師によって大犯土(だいぼんど、おおつち)(大凶の方位)であると判じられたため、将軍の居宅をわざわざ鎌倉から吉方であるとされた秋田城介義景の別屋敷(現在の神奈川県横浜市鶴見区)にまで移転(陰陽道で言う「方違え」)してから工事の開始を命じたほか、その後代々、いちいち京から陰陽師を招聘することなく、身辺に「権門陰陽道」と称されるようになった陰陽師集団を確保するようになり、後の承久の乱の際には朝廷は陰陽寮の陰陽師たちに、将軍は権門陰陽師たちにそれぞれ祈祷を行わせるなど、特に中後期鎌倉将軍にとって陰陽師は欠かせない存在であった。

ただ、皇族・公家出身の将軍近辺のみ陰陽道に熱心なのであって、実権を持っていた執権の北条一族は必ずしも陰陽道にこだわりを持っておらず、配下の東国武士から全国の地域地盤に由来する後に国人と呼ばれるようになった武士層に至るまで、朝廷代々の格式を意識したり陰陽師に行動規範を諮る習慣はなかったため、総じて陰陽師は武家社会全般を蹂躙するような精神的影響力を持つことはなく、もっぱら傀儡である皇族・公家出身将軍と、実権を失った朝廷や公卿・公家世界においてのみ、その存在感を示すにとどまった。鎌倉時代初期においては、国衙領や荘園に守護人奉行(のちの守護)や地頭の影響力はそれほど及んでいなかったが、鎌倉中期以降、国衙領・荘園の税収入効率または領地そのものがこれらに急激に侵食されはじめると、陰陽師の保護基盤である朝廷・公家勢力は経済的にも苦境を迎えるようになっていった。

後醍醐天皇の勅令によって鎌倉幕府が倒され、足利尊氏が後醍醐天皇から離反して室町幕府を開いて南北朝時代が到来すると、京に幕府を開いて北朝を支持する足利将軍家は次第に公家風の志向をもつようになり、3代将軍足利義満のころからは陰陽師が再び重用されるようになった(義満は、天皇家の権威を私せんと画策しており、彼の陰陽師重用は宮廷における祭祀権を奪取するためのものでもあったとする説もある[2])。

陰陽道世襲2家のうち、南北朝期に賀茂家は居宅のあった勘解由小路(かでのこうじ)に因んで勘解由小路家[3]を名乗り、賀茂(勘解由小路)在方が『暦林問答集』を著すなど活躍したものの、室町時代中期に得宗家の後継者が殺害されて家系断絶に至る等して勢力は徐々に凋落した。一方、安倍家は上手く立ち回り、安倍有世(晴明から14代の子孫)は、将軍義満の庇護を足がかりに、ついに公卿である従二位にまで達し、当時の宮中では職掌柄恐れ忌み嫌われる立場にあった陰陽師が公卿になったことが画期的な事件として話題を呼んだ。その後も、安倍有世の子有盛から有季・有宣と代々公卿に昇進し、本来は中級貴族であった安倍家を堂上家(半家)の家格にまで躍進させ、有宣の代(16世紀)には勘解由小路家の断絶の機会を捉えてその後5代にわたって天文・暦の両道にかかわる職掌を独占し、有世以来代々の当主の屋敷が土御門にあったことから土御門を氏名(うじな。家名)とするようになり[4]、朝廷・将軍からの支持を一手に集め、ここまではその陰陽諸道上の勢力を万全なものとしたかのように見えた。

しかし、足利将軍職の政治的実権は長くは続かず、室町時代中盤以降となると、三管四職も細川家を除いてはおしなべて衰退して、幕府統制と言うよりも有力守護らによる連合政権的な色彩を強めて派閥闘争を生み、応仁の乱などの戦乱が頻発するようになった。更に守護大名の戦国大名への移行や守護代・国人などによる下克上の風潮が広まると、武家たちは生き残りに必死で、形式補完的に用いていた陰陽道などはことさら重視せず、相次ぐ戦乱や戦国大名らの専横によって陰陽師の庇護者である朝廷のある京も荒れ果て、将軍も逃避することがしばしば見られるようになった。天文年間(16世紀前半)には、土御門(阿倍)有宣は平時には決して訪れることのなかった所領の若狭国名田庄(なたのしょう)納田終(のたおい)に疎開して、その子有春・孫土御門有脩の3代にわたり陰陽頭に任命されながらも京にほとんど出仕することもなく若狭にとどまって泰山府君祭などの諸祭祀を行ったため、困惑した朝廷はやむなく賀茂(勘解由小路)氏傍流の勘解由小路在富を召し出して諸々の勘申(勘文を奏上する事)を行わせるなど、陰陽寮の運用は極めて不自然なものとなっていった。その後、織田氏を経て豊臣家が勢力を確立するなか、太閤豊臣秀吉が養子の関白秀次を排斥・切腹させた際、土御門久脩(上記有脩の息)が秀次の祈祷を請け負ったかどで連座させられて尾張国に流されることとなり、更に秀吉の陰陽師大量弾圧を見るに至って陰陽寮は陰陽頭以下が実質的に欠職となり陰陽師も政権中央において不稼動状態となると、平安朝以来の宮廷陰陽道は完全にその実態を失うこととなった。

律令制の完全崩壊と秀吉の弾圧にともない、陰陽寮または官人としての陰陽師はその存在感を喪失したものの、逆にそれまで建前上国家機密とされていた陰陽道は一気に広く民間に流出し、全国で数多くの民間陰陽師が活躍した。このため、中近世においては陰陽師という呼称は、もはや陰陽寮の官僚ではなく、もっぱら民間で私的依頼を受けて加持祈祷や占断などを行う非官人の民間陰陽師を指すようになり、各地の民衆信仰や民俗儀礼と融合してそれぞれ独自の変遷を遂げた。また、この頃にかけて、鎌倉時代末期から南北朝時代初期(14世紀初頭から15世紀初頭)のおよそ100年間に安倍晴明に仮託して著されたと考えられる『簠簋内伝』が、牛頭天王信仰と結びついた民間陰陽書として広く知られるようになった。また、このころ以降、一部の定まった住居を持たず漂泊する民間陰陽師は他の漂泊民と同じく賤視の対象とされ、彼らは時に「ハカセ」と呼ばれたが[5]、陰陽師を自称して霊媒や口寄せの施術を口実に各地を行脚し高額な祈祷料や占断料を請求する者も見られるようになって、「陰陽師」という言葉に対して極めてオカルティックで胡散臭いイメージが広く定着することにもなった。
近世における官人陰陽師の再興と民間陰陽師の興隆[編集]

秀吉が薨じ、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで西軍が破れ、豊臣家の勢いに翳りが見ると、土御門久脩は徳川家康によって山城国乙訓(おとくに)郡鶏冠井(かいで)村(現京都府向日市鶏冠井町)・寺戸村(同寺戸町)、葛野郡梅小路村(同府京都市下京区梅小路)・西院村(同右京区西院)、紀伊郡吉祥院村(同南区吉祥院)にわたる計177石6斗の知行を与えられて宮中へ復帰し、同8年(1603年)に江戸幕府が開かれると、土御門家は幕府から正式に陰陽道宗家として認められ、江戸圏開発にあたっての施設の建設・配置の地相を担当したほか、後の日光東照宮建立の際などにしばしば用いられている。また、幕府は風説の流布を防止するために民間信仰を統制する目的で、当時各地で盛んになっていた民間陰陽師活動の制御にも乗り出し、その施策の権威付けのため平安時代の陰陽家2家(賀茂・安倍)を活用すべく、存続していた土御門家に加えて、断絶していた賀茂家の分家幸徳井家を再興させ、2家による諸国の民間陰陽師支配をさせようと画策した。

この動きを得て、土御門家勢力は天和2年(1682年)に幸徳井友傳が夭折した機会を捉え、幸徳井家を事実上排除して陰陽寮の諸職を再度独占するとともに、旧来の朝廷からの庇護に加えて、実権政権である江戸幕府からも唯一全国の陰陽師を統括する特権を認められることに成功し、各地の陰陽師に対する免状(あくまで陰陽師としてではなく「陰陽生」としての免許)の独占発行権を行使して、後に家職陰陽道と称されるような公認の家元的存在となって存在感を示すようになり、更にその陰陽道は外見に神道形式をとることで「土御門神道」として広く知られるように至って、土御門家はその絶頂期を迎えることとなった。戦時の武家社会ではほとんど顧みられることのなかった陰陽道も、太平の江戸幕政下では、将軍家の儀礼に取り入れられるようになったり、幕府官僚によって有職故実の研究対象の一分野とされるようになっている。

各地の陰陽師の活動も活発で、奈良時代以前から続く葛城山神族系の赤星家や玖珂家、武家陰陽師である清和源氏系小笠原家、地域派生の嵯峨家、八幡流、日直家、鬼貫家、引佐名倉家、遠州山住系高橋家、四国中尾家、安曇系各家などを中心に、各地の民俗との融合を繰り返して変化し、江戸時代を通じて民間信仰として民衆の間でかなりの流行を見せた。

貞享元年(1684年)には幕府の天文方が渋川春海によって、日本人の手による初の新暦である貞享暦を完成して、それまで823年間も使用され続けてきた宣明暦を改暦し、土御門家は暦の差配権を幕府に奪われた。しかし、約70年後の宝暦5年(1755年)、土御門泰邦が宝暦暦を組んで改暦に成功し、暦の差配や改暦の権限を奪還したものの、宝暦暦には不備が多く見られ、科学的に作られた貞享暦よりもむしろ劣っていたとされている。

その後、幕府天文方が主導権を取り戻して作成された天保暦は、不定時法の採用を除けば、土御門家の宝暦暦に比して、あるいは宝暦暦よりも正確とされた貞享暦に比しても、相当に高精度の暦であったとされている。

近代における陰陽師排除政策と現代の陰陽師

大政奉還がなされ明治時代になると、明治維新の混乱に乗じて、陰陽頭土御門晴雄は陰陽寮への旧幕府天文方接収を要望してこれを叶え、天文観測や地図測量の権限の全てを収用した。その後、明治政府が西洋式の太陽暦(グレゴリオ暦)の導入を計画していることを知った土御門晴雄は、旧来の太陰太陽暦の維持のため「明治改暦」を強硬に主張したものの、晴雄本人の薨去によりこの案が取り上げられることはなかった。

逆に、陰陽寮からの改暦提案を受けた明治政府首脳の間では、「富国強兵を目して西洋的な先進技術の導入を進めるにあたり、陰陽寮が近代科学導入の反対勢力の中心となる畏れが強く、陰陽道を排除すべきである」[要出典]とする西洋文明導入論者に加え、「天皇親政を行うにあたっては、臣下が天皇を差置いて実権を行使する蛮行や、天皇の行動を指図するような非礼はまかりならず、ましてや日本古来の神道があるにもかかわらず外国(中国)由来の技法である陰陽道がまかり通ることなど許容しがたい」[要出典]とする純神道論者または攘夷論者の主張が共鳴して、陰陽道を排斥する意見が多数を占めた。また晴雄夭折のあとに就任した陰陽頭晴栄はまだごく幼少であり、自発的な反論ができない状況にあった。

その期に乗じて明治政府は明治3年(1870年)に陰陽寮廃止を強行し、その職掌であった天文・暦算を大学・天文台、または海軍の一部に移管した。旧陰陽頭であった土御門晴栄は大学星学局御用掛に任じられたが同年末にはこの職を解かれ、天文道・陰陽道・暦道は完全に土御門家の手から離れることとなった。同5年(1872年)には天社禁止令が発せられ、陰陽道は迷信であるとして民間に対してもその流布が禁止された。古くは後陽成天皇のころから江戸時代最後の天皇である孝明天皇の代まで必ず行われてきた、天皇の代替りのたびに行われる陰陽道の儀礼「天曹地府祭」(これは天皇家に倣って、武家の徳川将軍家においても新将軍が将軍宣下を受ける度に代々欠かさず行われていた)も、明治天皇に対してはついに行われなかった。土御門家は陰陽諸道を司る官職を失い、免状独占発行権をも失うこととなり、やむを得ず土御門神道を更に神道的に転化させたものの、各地の民間陰陽師への影響力を奪われることとなった。

明治政府による禁止令以降、公的行事において陰陽道由来のものは全く見られなくなり、民間においても陰陽道の流行は見られなくなった。ただ、実質的には陰陽道由来の暦は依然として非公式に流布し、暦注が人気を博して独り歩きする状況であり、特に十二直が重用され、儀礼や行動規範に際し参照していた人が多数存在した。

第二次世界大戦後、旧明治法令・通達の廃止にともない陰陽道を禁止する法令が公式に廃止されて以降、かつて陰陽師が用いていた暦注のひとつである六曜(本来は「六輝」と言う、先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口のこと)が、十二直よりも好まれカレンダーや手帳などのスケジュール表示の一部として広く一般に用いられているようになっているが、これはあくまで補助的な暦注としてのみ使用されるにとどまっている。占術や暦については九星占術を基本とする神宮館(東京都上野区)による高島易断・高島暦が比較的よく使用されているが、この術式は陰陽道とは言い難い。

現在では、自分自身の行動指針全般を陰陽道または陰陽師の術式に頼る人はほとんど見られず、かつて興隆を誇った陰陽道または陰陽師の権威の面影はなく、土御門家が旧領若狭国名田庄である福井県西部のおおい町(旧名田庄村)に天社土御門神道本庁の名で、平安時代中・後期の陰陽道とはかけ離れてはいるものの陰陽家として存続しているほか、高知県香美市(旧物部村)に伝わるいざなぎ流などの地域陰陽師の名残が若干存続しているのみであるが、平安時代の宗教化・呪術化した陰陽師が持つオカルティックなイメージをもとに、その超人性や特異性を誇張した様々な創作作品やキャラクターが生まれて、とりわけ平成初頭の10年間(1990年代後期から2000年代前期)にかけては陰陽師がブームとなり、多くの作品が作られた(具体例は「陰陽師に関係する創作一覧」を参照)。

陰陽道の祭祀概略

陰陽道自体が時代毎に多様化したのに伴いその儀礼もまた一様ではない。他教との影響関係等も含め陰陽道の儀礼は未だ研究の途上にあるため具体的に述べることは難しい。伝来当初はいわゆる呪禁道の影響も強かったであろうと考えられる。『延喜式』「陰陽寮式」には宮中における陰陽師の司った祭りの記録が見える。それによれば儺祭(節分・鬼やらい)や庭火・竈神の祭、御本命祭、三元祭などが挙げられている。このうち儺祭では陰陽師が(壇に)進んで祭文を読むとあるが、この祭文は前半が漢文で構成された音読部分であり、後半が祝詞のような宣命体となっている。また、中世の『文肝抄』には幾つかの陰陽道祭の概要が述べられているが、陰陽道の祭儀は大・中・小法からなり、状況により使い分けていたようである。

陰陽道の代表的な祭儀といえば、人の寿命を司る泰山府君を祭る泰山府君祭や天皇の即位毎に行われた天曹地府祭などを挙げることができるが、『文肝抄』にはこの他五帝四海神祭や北極玄宮祭、三万六千神祭、七十二星鎮祭、西嶽真人祭、大将軍祭、河臨祭、霊気道断祭、招魂祭等種々の陰陽道祭があったことが記され、幾つかは祭文が伝存している。

陰陽師が用いた道具・呪法など[編集]

九字(くじ)

陰陽道で用いられたとされる呪文の一種。一般には「臨兵闘者皆陣列在前」の九字を言い、結印したり四縦五横に切る所作を伴う。現在のところ「九字」の初見は葛洪『抱朴子』「登渉篇」とされるが、同書では末尾が「在前」ではなく「前行」となっており、入山時に唱える「六甲秘祝」として呪のみが載る。したがって九字の呪、四縦五横に切る所作、結印の所作は別個に形成されたものと考えられる。なお、四縦五横に切る所作自体は道教経典等にも見え古くから存在しているが、結印の所作は見えない。結印の所作は恐らく日本伝来後、密教或いは修験道を受容する中で付加されたものであろう。
なお、陰陽道における九字では、古いものでは鎌倉時代の陰陽道の反閇儀礼を伝える文献に四縦五横に切りながら「青龍、白虎、朱雀、玄武、空陳、南寿、北斗、三体、玉女」を唱えるものがある。現存する文献では身固や反閇の際に用いられたことがうかがえる。

急急如律令

元来は、中国漢代の公文書の末尾に書かれた決り文句で「急いで律令(法律)の如く行え」の意であるが[6]、転じて「早々に退散せよ」の意で悪鬼を払う呪文とされた。道家が呪文に取りいれたものを陰陽師も用いたものであろう。なお、密教や修験道においても「急々如律令」の呪は用いられる。

六壬式盤(りくじんしきばん・りくじんちょくばん)

六壬によって吉凶を判断するための道具で、栻とも呼ばれる。地を表す「輿(よ)」と呼ばれる方形の台座(地盤)と、天を表す「堪(かん)」と呼ばれる円形の天盤で作られ[7]、輿には、二十八宿、十干、十二支、四隅の八卦が記載され、堪には十二月将等が記載されている。堪の十二月将を輿の十二支に合わせることで、簡易な計算を行ったのと同じ効果が得られる。式盤を正しく作成するためには、輿には雷に撃たれた棗の木、堪には楓(ふう)にできるコブである楓人を使用する。

渾天儀(こんてんぎ)

天文上の変異を知るために天文観測に用いた道具で、指標となる星の運行の組み合わせや配置を観測した。特に本来はあってはならない箒星(ほうきぼし。彗星のこと)が現れると大災や天変地異が起こるとされた。

呪符・霊符

陰陽師が用いたとされる、種々の紋様や呪文を記載した護符。俗に「 セーマン(晴明桔梗・晴明紋・五芒星・ペンタフラマ・ペンタゴン)」や「ドーマン(九字格子)」と呼ばれる図形を記すものも多い。他にも「鎮宅七十二霊符」や「×」・「篭目」・「渦巻」・「六芒星」や、「急急如律令」の呪文を文字で書きつけたものなど数多くの呪符がある。
元来中国で用いられていたものが伝来したものと考えられるが、日本における護符の歴史は未だ解明されていない部分が多く、古くは藤原京跡などから「急々如律令」の呪句を書き付けた呪符木簡等が出土しており、奈良時代にはすでに活用されていたらしい。古い資料はほとんど残っておらず、たとえば平安時代当初にどのような呪符が用いられていたか等は不明な点が多い。

太上神仙鎮宅霊符

「太上秘法鎮宅霊符」「鎮宅七十二道霊符」等とも呼ばれる72種の護符。現在の所、道蔵の『太上秘法鎮宅霊符』が原典とされ、中世初期に伝来したものと考えられている。陰陽道に限らず仏教、神道などの間でも広く受容された。この霊符を司る神を鎮宅霊符神というが、元来は道教の玄天上帝(真武大帝)であると考えられている。玄天上帝は玄武を人格神化したものであり、北斗北辰信仰の客体であった。それ故日本へ伝来すると妙見菩薩や天之御中主神等と習合し、星辰信仰に影響を与えている。星辰信仰の客体であり、また八卦が描かれるため陰陽道では受容しやすかったものと思われる。
近世には72種を一枚に刷った「鎮宅霊符」が各地の妙見宮や霊符社から出され、軸装して祭られていた。なお、土御門神道の祭神は現在泰山府君、鎮宅霊符神、安倍晴明が主神である。楠正成や加藤清正なども鎮宅霊符神の熱心な信者であったとされる。
鎮宅霊符神を祭る主な社寺は関西圏に多い。

群馬県:達磨寺
福井県:天社土御門神道本庁
京都府:曙寺(閑臥庵)、行願寺(革堂)、松山不動寺等
大阪府:星田妙見宮(小松神社)、大阪天満宮、堀越神社、報恩院、鎮宅霊符神社(東大阪)、妙法寺(今里)等
奈良県:鎮宅霊符神社(陰陽町)、信貴山成福院等

人形(ひとかた、ひとがた)

形代(かたしろ、かたじろ)、撫物(なでもの)とも言い、紙や木材・草葉・藁などで人の形に作られ、それにより患部等を撫でることによって自分の穢れをこれに移しつけて祓うのに使われるもので、流し雛の風習はこれを元としている。一方で人形に相手の名前等を記し、その人形を傷つけるなどして、相手に事故死や病死などの重大な災いをひき起こす呪いとして用いたり、男女二体の人形を一つにし祈祷することで恋愛成就を祈るなど、様々な祈祷儀礼に広く見られる。丑の刻参りの藁人形が有名。

式神(しきがみ)

陰陽師が使役したとされる使役神を言う。「識神」「しきのかみ」「式(しき)」とも。「式神」の解釈は密教の護法童子に似たものであるとか、精霊を使役するものであるとか諸説存在するが、最も有力なのは陰陽道で用いられる六壬式盤に由来するとの説であろう。陰陽師にとって占具である式盤は最も身近な存在であり、天盤と地盤は合して宇宙そのものを表す。それ故強大な呪力を持つとの信仰が少なくとも密教側の史資料には散見され、「都表如意輪法」等のように、陰陽道の式盤によく似たものを作成し、一種の呪具と見做し祈祷することで種々の利益を得るとする信仰があった。そうした資料の中には「式神」を呼び出す旨が記されるものもある。

身固(みがた)め

陰陽道の護身作法の一種。

禹歩(うほ)

足で大地を踏みしめて呪文を唱えながら千鳥足様に前進して歩く呪法を指す。基本は北斗七星の柄杓方を象ってジグザグに歩くものであるが、九宮八卦の九星配置を象って歩くやり方や、片足を引きずりながら歩いて地面に図形を描くといったものもある。名前の通り、中国の禹が治水のために中国全土を踏破した結果、遂には足を引きずりながら歩くようになったという伝説にちなんだものである。魔を祓い地を鎮め福を招くことを狙いとしており、ドーマンの九字と同様、葛洪『抱朴子』には薬草を取りに山へ踏み入る際に踏むべき歩みとして記されていることが起源である。奇門遁甲における方術部門(法奇門)では、術を成功させるために行われていた。

反閇(へんぱい)

道中の除災を目的として出立時に門の前で行う呪法。自分自身のために行うこともあるが、多くは天皇や摂関家への奉仕として行われた。反閇では最初に玉女を呼び出して目的を申し述べる。呼び出すときには禹歩を踏む。最後は6歩歩いて振り返らず出発する[8]。
泰山府君祭・刀禁呪・浄心呪・浄身呪・浄天地呪
いずれも元来は道教の祭祀。


【大本教広報部なのか?単にダマされているのか?藤原直哉氏の思想】


こんにちは、今回は、出口王仁三郎を師匠として尊敬している、藤原直哉氏についてです。

この人は長野県飯田市の遠山郷に「遠山藤原学校」を開校し、有料で生徒を集め、農業を教えています。

自給自足して行くにはどうしたらよいのか?それを実体験で習得していくわけです。

私は彼を、自給自足、ロハスな生活の先駆者として尊敬し、彼の放送を2年間も聴いていました。

それが今では

もし、名無し先生と出会わなかったらと思うと、恐ろしくなります。


ご存知でない方の為に彼のプロフィールをご紹介します。

【藤原直哉さんのプロフィール】

■経済アナリスト。シンクタンク藤原事務所会長。

■1960年、東京生まれ。

■東京大学経済学部卒業。住友電気工業、経済企画庁経済研究所、ソロモン・ブラザーズなどを経て独立する。

■独立系シンクタンクとして「経済」「政治」「国際情勢」「組織のリーダーシップ」に関する独自の分析を行っているほか、小田原市内の里山で教育用の田畑を耕作。さらに大学生や社会人を対象に就職・転職のコーチング、カウンセリング、傾聴、英語に関する情報発信、研修、コンサルティング、社内教育、講演、執筆活動を行っている。2007年には、ロハスな暮らしを体感してもらう“最前線”として、長野県飯田市の遠山郷に「遠山藤原学校」を開校した。

■著書に『神の世直し!世界大恐慌3年目!』『生きかた革命』『ロハス夢工房』など多数あり。

■シンクタンク藤原事務所

■藤原直哉のインターネット放送局 http://naoyafujiwara.cocolog-nifty.com/

ちなみに中丸薫と組んで、こんな本を出しています。

                           神の世直し

で、組んだ中丸薫は、こんな本出してます。

                           2014に備えなさい

今回は彼のインタビューを転載します。

◆霊界物語を読むと気持ちが明るくなる◆

──霊界物語は全部で83冊ありますが(巻数だと81巻)、藤原さんは全部お読みになられたそうですね?

【藤原】 大本神諭も霊界物語も全部読みました。これはすごい本だなと思いました。王仁三郎聖師が言っていることは納得できることが多いです。

登場人物がたくさんいますが、こういう人はこういうことになるのか、こういう人生になるのかと、人の生き様というものがつくづく分かってきます。改心する道筋が書いてある。──改心しない人もいますが。

あと、こういうことがあってみろくの世になった(天の岩戸が開いた)というような箇所が何ヶ所か出て来ますが、なるほど、みろくの世になるというのは、こういうことなのかと、とても興味深いです。

大本神諭は警告の書で、こうなると大変だ、ということが書いてありますが、ではどうすればいいのか、どう生きればいいのかということが霊界物語には書いてあります。なかなか人間には書けません。なるほど「御神書」なんだなあと思います。

──霊界物語はともかく長いですから、これを全部読んだ人はそれほど多くはありません。 藤原さんは長編小説を読むはお好きですか?

【藤原】 いいえ、そんなことはありません。長いのはダメです。霊界物語だけです。長いのを読んだのは。

──霊界物語はなぜ最後まで読み切れたんでしょうか?

【藤原】 なぜでしょう? 不思議ですね。 難しいこと考えずに読んでいくと・・・気持ちが明るくなりますね。鞄に入れて持ち歩いて──今日も鞄に入ってます──時間のあるときに声出して読むんですが、自然に読めてしまいます。理屈ぽく読むのではなく、感じるままに読むといいんじゃないかと思います。

◆ともかく行動◆

──藤原さんにとって出口王仁三郎とはどのような存在でしょうか?

【藤原】 やはり「師匠」でしょうね。

斬られると分かっていてもあえて前に進んで行く、あの勇気と行動力というのは、本当の信仰ですよ。みんな、成功するとかしないとか、自分の小さな利害損得で考えてしまいがちですが、そんなこと考えずに、直感に従って、とにかく行動する。あれだけ大胆に行動したというのは、信仰の力だと思いますよ。

行動して失敗しても、反省すればいい。どんな人でも、行動して反省して、また行動して反省して、それを繰り返して行けば、世の中滞りなくどんどん進んで行くと思います。

でも今の時代はなかなか行動しませんね。みんな利害損得で考えてしまう。しかしそれでは神劇が進みません。そこであえて王仁三郎聖師が行動して、神劇を前に進めたというところがあるのではないでしょうか。

──藤原さん自身もそのような人生だったのでは?

【藤原】 いやー、私もやりたいことやって来ましたが、あれほど大胆ではありませんよ(笑)

聖師は情が深いですね。だからあえて泥田に入って行って人を救うようなことをする。あれが本物の武士道というものなのかも知れません。

──霊界物語の登場人物もよく動く人が多いですよね。

【藤原】 そうですね、神出鬼没ですね。ここに行かなきゃいけないな、と思うときには行く。するとやはり何か意味がある。罠にはまるなと思っても、はまらざるを得ないときはわざとはまる。落とし穴に落ちたり。

しかし、これは嫌だからやらないとか、安全第一でやって行ったら、神劇は進みません。

霊界物語に、竜か何かに喰われてしまう人も出て来ますが、そういうことがあっても神劇は進んで行きます。神劇の元は現界よりも上の次元でやっているわけですから。

だから勇気を持って行動にうつすことが大切です。その結果いろいろなことが起きてくる。その起きてくること対処し乗り越えて行くと、どんどん良い世の中になって行くのではないでしょうか。

これがみろくの世の人の生き方だと思います。聖師は「良いことをすればどんどん良くなる、悪いことをすればどんどん悪くなる、そ
れがみろくの世だ」と言っていますが、まさしくそういうことです。

◆数運はズレている◆

──私は王仁三郎聖師の行動にまとわりつく数運を見て、この人はタダモノではない、と思いました。

そういう数運に類似しているものは、たとえば経済や政治の世界にもあるのでしょうか?

【藤原】 ええ、ありますよ。金融市場なんかも、数運のようなもので動いています。しかしこの三十年ほどは、数運は崩れています。はっきり出ないようになっている。

数運が出てしまうと、先回りして行動しますよね。そうするとなかなか改心しないじゃないですか。これとこれを押さえておけばよい、ということになる。当てが外れるということがないと、なかなか気持ちが変わらないと思います。

予想が当たったら、相場で生きていけばよい、ということになってしまいます。政治も経済も先回りして対応するでしょう。

──数運はある種の予言のようなものですね。

【藤原】 予言に依存してしまうと、改心できません。ある意味「神の恵み」で数運がズレているんだと思います。

◆横型のリーダーシップ◆

──王仁三郎という人は、派手な活動をいろいろしていますが、実は本格的な活動をしたのは、第一次大本事件で投獄され出獄した大正10年(1921年)6月から、昭和10年(1935年)12月8日に第二次事件で捕まるまでの、およそ14年間しかありません。そのわずかな期間に、霊界物語を書いたりモンゴルに行ったり、人類愛善会や宗教聯合会をつくったり、昭和神聖会運動をやったりしたのです。

その時代というのは世界恐慌(1929年)があって不景気が続いたり、政治が不安定だったりして、ある意味では今の時代と世相が似ているように思いますが、どうでしょう?

【藤原】 まあ似ていると言えば似ていますね。しかし当時と全然違うのは、今は強力なリーダーシップを必要としていないということです。

当時はヒトラーが出て来たり、日本も軍国主義へと進んで行きました。強力なリーダーシップで統制し、個性を排除して、社会を一つにして行く、そういう力が働いていました。

今はもう誰か一人が世界を支配するという時代ではありません。

──強いリーダーは必要ない、ということですか?

【藤原】 強さの意味なんですが──ドンとかボスとか、オレが生活の面倒見てやるからついて来い、というようなリーダーシップ、これは「縦型」のリーダーシップです。金とか権力で人を引っ張る。人を道具にする。これが今までのリーダーシップで、こういうリーダーシップは必要とされなくなっています。

「横型」のリーダーというのは、たとえば王仁三郎聖師が教団の外の人、軍人とか政財界人とか色々な人と付き合った。あれが「横型」のリーダーシップです。同じ目線で人と付き合って行く。支配-被支配の関係ではなく、同じ仲間として付き合う。来るのも自由、去るのも自由。でも一緒にやって行こうというのが「横型」のリーダーシップです。

ですから横型の方が実は強いリーダーシップが必要なんです。縦型の方はそこにブラ下がっていればいいわけですが、横型の方はその気にならないと来ませんから、相当実力がある人でないと務まらないと思います。

──縦型ですと社会のピラミッドの頂点に立つ人が存在しますが、横型の場合にも全体をまとめる人──横型リーダーをまとめ上げる社会全体のリーダーのような人が必要ではないのかと思いますが。

【藤原】 日本の場合、それは神なんです。神がやるから、日本は分からない国なんです。

たとえば能には指揮者がいません。シテ(主役)がいてワキ(脇役)がいて囃子方が4人いて地謡(じうたい)がいて・・・しかし指揮者はいません。みなそれぞれ専門があり、台本の解釈が一人一人異なる。その人たちが舞台で演じる。だから能の舞台は一回一回違うものになってくる。やってみないとどうなるのか分からないのです。神がリーダーシップを取っているわけです。

 
このように藤原直哉氏は出口王仁三郎を師匠だと言い、霊界物語を常に持ち歩いている程の大本教信者です。


①自給自足が出来る能力を持つことを奨めている。

②カジノ経済を批判し、日本の政治家を批判し、現代の都市システムを刷新する。

③科学については、量子力学について多くを語っています。

④今までの縦型社会を否定し、横型の社会を推奨しています。

⑤既得権益を批判している。


私は、これら一つ一つに反対では有りませんし、悪意は感じられません。

しかし、これらの解決方法を、世界を一度潰して、立て直すという、大本教の思想に求める彼の主張に、大きな危険を感じます。

この人はそのように洗脳されているのかわかりませんが、相当イカレています。

それとも計画的にリスナーを洗脳しているのでしょうか?

以前、どの放送かは忘れましたが、イランとイスラエルの緊張が高まった時期の放送で、

「いや・・・いよいよ始まりそうですね!イランとイスラエル!戦争ですね!!」

と興奮気味に、はしゃいでいたのを記憶しています。

私は、この時、大きな疑問を感じましたね。

イランとイスラエルの戦争が始まるということ=ハルマゲドンでしょ?

ひょっとして、この人は終末論者??と思い始めたのです。

それからしばらくして、放送を聞くのを止めてしまいました。

この人は同じことを繰り返し主張するのです。

壊すこと、スクラップ・アンド・ビルドを・・・

私の過去記事にも、その影響は出ていると思います。


既得権を潰す。これには大いに賛同しますが、イランとイスラエルの戦争による破壊は、意味が違います。


その方向に答えを見い出すのは、大本教の影響としか考えられない。

日本に世界中が攻め込んで来て、日本の人口が3割に減り、そこから次元上昇した人類が出るというが、出口王仁三郎の予言です。

そんなことを期待している藤原直哉氏は、やはり、大本教に洗脳された信者なのでしょう。

しかし、それにしても、宗教とはひどいものです。

不安を煽ることしか言わないじゃないですか、どうつもこいつも、マヤカレンダーがどうのこうのとか、アセンションするとか言ってた奴、いまごろどうやって言い訳してるんですかね?

たちが悪いのが、彼ら自身も騙していると自覚していないことです。

名無し先生曰く、大本の連中は、ヘッセンのことなんて全く知らないんです。

彼らに見えているのはカラス止まりで、その上は全く見えてないんです。

仮に彼らがこのブログを読んだら、「ヘッセンってなんだ?」となるでしょう。

日本を戦争に誘導した自覚は有りますが、ヒトラーを生み出した自覚は無いかもしれません。

出口王仁三郎はヒトラーの台頭は予言してなかったんじゃないかな?

もし大本が計画してたら、どうしてヒトラーという大物の台頭を予言しなかったのか?

藤原直哉のインターネットラジオ放送を通じて、さらにその影響力を強めて行く大本教。

これからも監視していかなければなりません。


それでは。



 

 

【フィリピン・カジノ事業で日本人9人が憲法違反容疑で予備捜査 石原家が絡んでますが、何か?】


こんにちは、今回は現在進行中のフィリピン・カジノ事業で日本人9人を対象に憲法違反容疑で刑事起訴に向けた予備捜査が行われている件について書きます。

日本の大手パチスロメーカー・ユニバーサル・エンターテイメント(旧アルゼ)が、フィリピン娯楽ゲーム公社(PAGCOR)のソリアノ前顧問に不正資金500万ドル(約5億円)を提供したとされる問題で、外国資本を制限する憲法12条に違反したとして、ユニバーサル・エンターテイメント(旧アルゼ)の取締役会長、岡田和生氏と、その他、日本人関係者8人の計9名、また、フィリピン人関係者17名に対し、刑事起訴に向けた予備捜査を進めることを発表した。

以前の記事にも書きましたが、この事業には、黒いカラスが関与しています。

そして、元東京都知事である石原家も絡んでいます。

何かの雑誌だったか、良く覚えてませんが、石原慎太郎の息子、石原宏高とある雑誌記者との会話を覚えています。

私はこのブログタイトルの通り、エコ・エネルギーには興味が有りまして、毎日のようにネットを探しまわっています。

見つけたのは、あまり知られていませんが、日本の廃食油技術が飛躍的に進化し、精製時に出る廃棄物も圧倒的に少なくなったという記事でした。

記者の「廃油再生技術が確立されたので、国政復帰して、是非、推進してくれないか?」という問いかけに対し、

石原は「僕は国政より、比国と日本を繋ぐ仕事をしようと思っています。アキノ大統領が就任後、自宅に遊びに来て、比国の現状を話していましたが、思ったより進んでいて驚きました。」

と無邪気に話していました。

今思えば、これは日本の政治よりも、フィリピンでカジノビジネスがやりたいんです!という意味だったんですね。

また、偶然ですが、私が家族ぐるみでお付き合いしているAさんも、この事業に絡んでいます。

(Aさんからのメール)

このプロジェクトはMBR(マニラベイリゾート)と呼んでいますが、当初は会社ではなく、個人のお金でやる様に考えていた節がある様です。

その後やはりユニバーサル・エンターテイメント (UE)社がやることになり、ロビンソン(ゴコンウェイ)と組んだ訳です。

当地には日本ユニバーサル・エンターテイメントの海外法人であるTIGER(MBR)とアルゼのフィリピン支店がありこのフィリピン支店は米国アルゼの支店です。

このアルゼの支店は、ラグナ・テクノロジー・パークで工場をレンタルし全世界向けのゲーム機(主にカジノ用)を作っていますが、これが手狭になり、ライト・インダストリアル・パーク III に新工場を建設中。

この建設を請け負ったのが■○というローカル会社(これは珍しくまともな会社)です。

ここの○○△□管理等の業務を請け負っているのが私が居る○○と言う会社です。

この新工場の客先側の責任者がMBRと兼務していた為、私の所には情報が入ってきていたと言うのが現実ですが、内容が内容だけに、殆ど他の人には話をしていません。

メールでは差し障りがあるため、またあったときにでも。

(Aさんメール以上)

私の友人は、このカジノ事業に絡んでいるのではなく、パチスロ製造工場と関係があるだけですので、誤解なさらぬよう。

もちろん、彼はカラスの情報までは知らないでしょうが、やばい内容の話を知っていそうです。

(名無し先生のコメントより)

石原元都知事の湾岸埋立地におけるカジノ構想に、いち早く手を上げていたのが、パチスロ・メーカーのアルゼ株式会社。都民銀行からの融資の焦げ付きは、どこに行ってしまったのでしょうね・・・

社名の由来は、ARchaeopteryx(始祖鳥)・Universal(ユニバーサル・旧社名)・A to Z(すべての)・Entertainment(エンターテインメント)の合成。

現在はマニラで、株式会社ユニバーサルエンタ ーテインメントとして、大型カジノ・リゾート開業に向け、御活躍の様です。
http://jp.reuters.com/article/domesticEquities4/idJPTK058477920130104 

そしてブラックメーソン側のかつての本場ネバダ州でも、何かと話題を振りまいた人物でもあります。
http://jp.reuters.com/article/topNews/idJPTYE92703J20130308 

マニラ・カジノ都市はアロヨ大統領時の政策。

コーリー・アキノ大統領。そして息子のノイノイ・アキノが再び大統領になった。アキノの実家は福建省由来のコハンコ財閥。アロヨもアキノも台湾・蒋介石の故郷である福建省派閥なのです。

孫文と蒋介石の関係は誰でも御存じでしょう。

元都知事の父親の時代に孫文を日本で匿ったと言うのが本人の弁です。

(コメント抜粋終わり)

後半の短い文章にいろんな意味が凝縮されているのですが。これが名無し先生の魅力なのです。

一言も触れていませんが、ここから読み解き、導きだす単語は”客家”ですね。

それと始祖鳥=3本足のカラスです。

日本の一部の人たちは、客家(台湾)繫がりで、フィリピンでビジネスを展開している。

ということですね。

ちなみにヘッセンから見れば、客家は大本よりも格上だそうです。

蒋介石と孫文の関係はここhttp://ja.wikipedia.org/wiki/蒋介石を読んでください。

さすがに石原宏高が、今回の外国資本を制限する憲法12条に違反した9名には含まれてはいないと思いますが、大いに関係しているのです。

Wikipediaにも書いてありますから。

石原 宏高(いしはら ひろたか、1964年6月19日 - )は、日本の政治家。自由民主党所属の衆議院議員(2期)。

■人物

尊敬する政治家は父・石原慎太郎、ベニグノ・アキノである。アキノは父・慎太郎の旧友であり、石原家・アキノ家は家族ぐるみの付き合いがある。

選挙区である東京3区(品川区や田園調布等大田区の一部、伊豆諸島、小笠原諸島)は、かつて父・石原慎太郎の衆議院議員時代の選出選挙区である旧東京2区の一部であり、直接的な地盤の継承はないが(慎太郎は1995年に衆院議員を辞職、のち2012年に復帰)、広義の世襲議員に分類される。

これに対し長兄の石原伸晃は選挙区の重複が全くない(旧東京4区→東京8区)ため、世襲議員には分類されない。

幸福の科学信者である事が週刊文春に報じられた。本人は否定しているものの、週刊文春の取材に対して複数の教団関係者が入信を証言した。

父親と同様に、カジノ特区に積極的

■不祥事

遊技機メーカーに選挙支援を要請

2012年12月の第46回衆議院議員総選挙において、遊技機メーカー「ユニバーサルエンターテインメント(UE社)」に選挙支援を要請し、同社社員を選挙運動に従事させていた。UE社は社員3人を派遣して給与を支払っており、法的な問題を弁護士から2013年2月の時点で指摘されていた。また同社は選挙運動で遅くなった際の社員3人の宿泊費や交通費、食事代も負担していた[7]。さらに、選挙運動の有給スタッフ12人中8人が、存在しない地名・人が住めない場所を住所にしていたりと、実在しない人物を雇った・または虚偽の住所を法定文書に記入した疑いが持たれている[8]。 この件について、2013年4月24日までに報告書を訂正したことが明らかになっている[9]。しかし神戸学院大学法科大学院教授の上脇博之は「最初からうその報告を書く前提で領収書を添付しているとみられ、悪質だ。報告書の虚偽記載に当たり、訂正しても責任を免れない」と述べている[10]。

2013年4月末には、妻が役員を務める有名無実のコンサルティング会社が、UE社からコンサルティング料として、落選中の2011年6月から2012年末まで毎月100万円を受け取っていた事がしんぶん赤旗の調査で判明した。赤旗は“事実上の企業献金”と指摘している。石原は赤旗からの質問に回答していない

(Wikipediaより)

Wikipediaだけで、今回の事件との絡みが、こんなにはっきりと分かっちゃうのは、悪党失格ですね(笑)。

日本で大騒ぎになるかどうかわかりませんが、この事件は、要するに、外人が土地を購入することを禁止されているフィリピンで、ダミーのフィリピン人経営現地法人介して土地を購入。

つまり、表面的にはフィリピンの会社を装っていますが、実際はユニバーサルエンターテインメントの会社です。

しかもフィリピンの出資法では、外国人出資比率を40%以下に制限しています。

フィリピン娯楽ゲーム公社(PAGCOR)の幹部に500万ドルの賄賂をわたし、このビジネスに4,000万ドルの不正資金を投入したのです。

このカジノ計画は2014年の開業を目標にしていますが、すでにもう一部開業してまっせ。

今後の展開はわかりませんが、もし、ユニバーサルエンターテインメントとして開業に漕ぎ着けるようなことになれば、裏社会での日本の評判はさらに下がりますよね。

カラスさん、いい加減にしてください。

この事件が明るみに出たのは、当然、それを暴いたグループがいたからなんですけどね。

世界はまだ腐りきっていなかったんですね。

生きてて良かった・・・

名無し先生に日本の失われた20年の理由、TPP推進の理由、日本の方向性を解説していただくとき、この辺のこともわかっていないと、何がなんだか理解が出来ないのです。

働こうぜ、稼ごうぜ日本ですって(笑)     それでは


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【大日本帝国の最高統帥機関であった大本営=大本教だった訳ですが、何か?】


こんにちは、今回は大日本帝国の最高司令部、大本営について書きます。

名無し先生と出会い、知ったことは、「日本の天皇は天神系、天孫系、地祇系と3人いて、そのうちの緑のカラス一派(イエズス会傀儡)は、とんでもないワルだ」ということ。

天皇家と表現すると厄介なことになりましたので、緑のカラスにします。

救いようの無い大悪党です。

始まりはいつだったかは、後回しにして、裏社会から観た、明治維新以降の近代史においての緑のカラスの一派は、悪の枢軸だったという認識で良いと思います。

彼らの戦争目的が大東亜共栄圏という千年王国の礎を築くことでした。

それも、アジアの植民地を欧米列強から取り戻し、解放することを大義名分にして・・・

当然、戦地で戦っていた兵隊さん達はそのような理想をもっていたことでしょう。

何度も書きますが、神風特攻隊で散って行った人達は、洗脳されていたのでしょうね。

お国のため、天皇陛下バンザイ!!と洗脳された日本国民。

しかし、緑のカラスの一派の目的ははそんなことではなく、大東亜共栄圏という、世界新秩序の足場を手に入れたかったのです。

大日本帝国の最高統帥機関の名前は”大本営”であること。

読みは違いますが、大本と語呂がかぶってますよね?

ジョーク好きなカラスの一派ですから、こんなネーミングなのでしょう。

■大本営とは

大本営(だいほんえい)は、日清戦争から大東亜戦争(日中戦争及び太平洋戦争を含む戦争の日本政府の呼称)にかけての戦時中・事変中に設置された大日本帝国陸軍および海軍の最高統帥機関である。天皇の命令(奉勅命令)を大本営命令(大本営陸軍部命令(大陸命)、大本営海軍部命令(大海令))として発令する最高司令部としての機能を持つ。

日清戦争と日露戦争で設置され、戦時の終了後に解散した。支那事変では戦時外でも設置できるよう改められ、そのまま、大東亜戦争終戦まで存続した。連合国からは「インペリアル・ジェネラル・ヘッドクォーターズ(Imperial General Headquarters)」と呼ばれた。

大東亜戦争末期には日本の敗色が濃厚になるにつれて、さも戦況が有利であるかのような虚偽の情報が「大本営発表」として流され続けた。このことから現在では、権力者が自己の都合の良いように情報操作をして虚偽の情報を発信することを揶揄して「大本営」「大本営発表」という表現が用いられることがある。

なお、陸海軍連合大演習及び陸軍特別大演習においては司令部でなく、天皇の行幸行在所(あんざいしょ)を「大本営」と称した[1]。

大本営は、陸軍および海軍を支配下に置く戦時中のみの天皇直属の最高統帥機関として、1893年5月22日に公布された戦時大本営条例(明治26年勅令第52号)によって法制化された。

日清戦争における大本営は1894年6月5日に設置された。1893年制定の海軍軍令部条例により平時においてのみ陸海軍の軍令が対等となったばかりであり、戦時大本営条例により戦時における海軍の軍令をも統括していた陸軍の参謀総長のみが幕僚長とされた。同年9月15日、戦争指導の拠点を広島に置くために天皇が移り、大本営も広島に移った(広島大本営)。1896年4月1日大本営解散の詔勅によって解散した。

日露戦争における大本営は1904年2月11日に設置された。このときは1903年の大本営条例の改訂により軍事参議院が設置され、戦時においても軍令機関が対等となったことから、陸軍の参謀総長、海軍の海軍軍令部長の両名ともに幕僚長とされた。1905年12月20日解散した。

日中戦争(支那事変)は正式には戦争ではなかったため、1937年11月18日、大本営設置を戦時に限定していた大本営条例は勅令第658号によって廃止され、新たに戦時以外に事変でも設置可能にした「大本営令(昭和12年軍令第1号)」が制定された。1937年11月20日、大本営が設置され、そのまま大東亜戦争に移行した。戦争末期には長野市松代町に建設された地下壕への遷都も計画されたが(松代大本営)、未完成のまま終戦を迎え、1945年9月13日に廃止された。

■松代大本営跡とは

太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。

初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。

そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。また皆神山地下壕には備蓄庫が予定された。

関連施設は善光寺平一帯に造られたため「一大遷都」計画であった。上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山には送信施設、埴科郡清野村(現在の長野市)妻女山に受信施設、上水内郡茂菅村(現在の長野市)の善光寺温泉及び善白鉄道トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市松岡にあった長野飛行場が陸軍により拡張工事が行われている。

■皆神山について(おおもとの公式サイトhttp://www.omt.gr.jp/modules/pico/index.php?content_id=232より) 

皆神山(みなかみやま)
 無限絶対無始無終の真神から、霊系の厳霊大神(げんれいおほかみ)と体系の瑞霊大神(ずいれいおほかみ)が鳴り出でられましてより数十億年、厳霊大神の経綸の中心地の一つが天教山(富士山)となり、瑞霊大神の経綸の中心地の一つが地教山、すなわち世界ではヒマラヤ山、日本では信州の皆神山となりました。

 瑞霊大神である出口王仁三郎聖師は、明治31年旧2月の高熊山修行の際、霊身で、一番に富士山と皆神山へ行かれ、その後の亀岡・穴太での幽斎の際には、皆神山で神素盞嗚大神(かむすさのをのおほかみ)と会われています。

 昭和3年3月3日にみろく大神の御神格となられた聖師さまは、翌4年(1929年)の6月3日に現人で皆神山に登られました。その途上、聖師さまは八岐大蛇(やまたをろち)に襲われながらも戦いに勝たれ、山頂に詣でて言霊を発せられました。これが真の生言霊(いくことたま)の発射の最初で、今年(2009年)はそれより80周年の記念の年にあたります。

 昭和4年は四代教主 直美さまの御生誕の年でもあり、聖師さまはみろく大神の御神格で、直美さまが四代教主であることや、厳霊神である開祖さまの生まれかわりであることを示されましたが、教団執行部は昭和57年に四代教主を三諸聖子氏に変更しました。今日に至るまでの出来事の意味するところを踏まえたうえで、80周年を迎えることには大きな意味があります。


いかがでしょうか?

大本教は反天皇制ということで二度も弾圧され、ダイナマイトで施設を破壊される程、危険視されていた訳ですが、何故か、現在にも続く、不思議な宗教団体なのです。

大本は反天皇制を唱え、皇統大本を謳った団体です。

皇統とは、天皇の血筋のことです。

つまり、自分たちは私たちが知る天皇家ではないが、天皇の血筋なんだと言っているのです。

天皇は3系統有ります。

天神系、天孫系、地祇系と呼ばれ、すべてが役割も日本列島に渡来した時期も異なる外来人です。

表の天皇は天孫系です。

これらの内、大陸から朝鮮半島を経由して日本に辿りついた一派が、明治期以降の日本国政治、宗教(国家神道)を作り上げてきました。

それが地祇系です。

この派閥がアーリア民族至上主義にちなむ、きな臭い動きに加担しています。

ヒトラーシリーズで登場した緑龍会、緑のカラスがこの一派です。

その下部組織といいますか、緑のカラスを崇めているのが大本です。

その大本が神聖な場所と定める山に大本営が建設されていたのです。

語呂が重なることも有り、これは確信犯でしょう?と思うのは私だけでしょうか?

今回はこの辺で許してやりますが、私の追求は続きます。

しかも、大本のサイトには東日本大震災の救援募金のお願いがあります。

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ただいま、絶賛信者募集中!!

http://www.omt.gr.jp/

それでは


【ヒトラーを洗脳しナチス結成に繋げた”緑の始祖鳥”④  ネオナチ煽動計画】


こんにちは、今回は、前回の記事の欠けている部分を繋げてみました。

すべてが出揃う前に記事にしてしまったこと、お詫びいたします。

今回の記事はWikipediaの情報中心で書きますので、転載のお断りはありません。

さて、香港ですが、1842年の南京条約(第1次アヘン戦争の講和条約)によって清朝からイギリスに割譲されました。

さらに、1860年の北京条約(第2次アヘン戦争(アロー号戦争)の講和条約)によって、九龍半島の南端が割譲されました。

1970年代、香港政庁は住宅供給のため、租借地であり厳密には中国領である新界にも開発の手を伸ばしたが、1970年代後半になって香港の不動産業者が、1997年の租借期限以後の土地権利について不安を訴えるようになりました。

公有地の放出を重要な収入源としていた香港政庁は、不動産取引の停滞を防ぐ観点から、新界の統治権を確定する必要があると考えるに至りました。

香港はサスーン、ロスチャイルドに支配されていました。

サスーン家とは

■ダーウィード・ベン・サスーン

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=デイヴィッド・サスーン(英: David Sassoon、1792年10月 - 1864年11月7日)は、インドを拠点に活動したユダヤ人の商人。バグダード出身。

スペインに起源を持つセファルディムの出身で、父サレハ(Sason Ben Saleh)はバグダードのパシャの主任会計を勤め、同市のユダヤ人コミュニティーを率いる資産家だった。その後ダウード・パシャによるユダヤ人迫害を逃れてペルシャを経て一家でボンベイに移住し、1832年にサスーン商会を設立、イギリスの東洋貿易に多大な貢献をした。特に阿片戦争のきっかけとなった当時のアヘン貿易において重要な位置を占めていた。その後は香港、上海にも営業所を構える。さらに、南北戦争によりアメリカ産綿花の輸出が途絶えたのを機にインド産綿花の輸出も成功させた。これらの功績が認められて1853年にイギリス国籍を取得。

また、デイヴィッドはボンベイのユダヤ人コミュニティーを率いると共に、同地やプーナ、故郷のバグダッドなどに病院やシナゴーグ、学校を建設するなどの慈善活動も積極的に行った。1864年にプーナにて死去した。

デイヴィッド自身は生涯英語を話せず、バグダード時代からのアラブ風の生活様式で生涯を過ごしたが、息子のアブドゥッラーにはイギリス人としての教育を施した。後にアブドゥッラーはアルバートと改名し、イギリスに渡って準男爵となった。彼の子孫が現在のサスーン家である。

■その息子のアルバート

アルバート・アブドゥッラー・サスーン (Albert Abdullah David Sassoon) (1818年 - 1893年) - ダーウィードの息子。慈善事業家・商人。彼の代でケンジントン・ゴア準男爵の爵位を得た。インドの星勲章 (Order of the Star of India) およびバス勲章を授与されている。

■その息子のエドワード

エドワード・サスーン (Edward Sassoon) (1856年 - 1912年) - アルバートの息子。政治家。庶民院議員。ケンジントン・ゴア準男爵。ロスチャイルド家の女性Aline Caroline de Rothschildと結婚した。


※ここでロスチャイルド家とサスーン家が婚姻関係で結びつくわけです。


彼らの出先機関がジャーディン・マセソンという会社


ジャーディン・マセソンとは?

前身は東インド会社で、元は貿易商社。1832年、スコットランド出身のイギリス東インド会社元船医で貿易商人のウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンにより、中国の広州(沙面島)に設立された。中国語名は「怡和洋行」。当時、広州は広東システム体制下、ヨーロッパ商人に唯一開かれた貿易港であった。ウィリアム・ジャーディンとジェームス・マセソンは陳舜臣の小説『阿片戦争』では重要なキャラクターとして登場している。

設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。同じロスチャイルド系の香港上海銀行(HSBC)は、ジャーディン・マセソンなどが香港で稼いだ資金をイギリス本国に送金するために設立された銀行である。

清とイギリスとの間で1840年から2年間にわたって行われたアヘン戦争に深く関わっている。アヘンの輸入を規制しようとする清朝政府とイギリスの争いが起こった際に、当時のアヘン商人の一つであるジャーディン・マセソン商会のロビー活動により、イギリス本国の国会は9票という僅差で軍の派遣を決定した。


ロスチャイルドがサスーンに香港を支配させていた訳です。

これが香港返還により、包玉剛の手に移ったというのです。

その理由は、ロスチャイルドの麻薬取引が表面化して来たこと。

まるで、マフィアとの繋がりがバレそうになった912の前日の911にWTCごと解体してしまったように。

ロスチャイルドを使ってやってきた悪事がバレそうになったので、次の支配者を据えたのです。

それが包玉剛です。

■包玉剛とは

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包玉剛(ほう・ぎょくこう、パオ・ユーコン、Sir Yue-Kong Pao、1918年 - 1991年9月23日)は中国・浙江省寧波生まれで香港を拠点に活動した実業家。ワールドワイドシッピング創業者。父は包兆龍。「アジアの海運王」と言われた。香港特別行政区基本法起草委員会の副会長(副主任)を務めた。
生涯[編集]

1918年浙江省寧波に中流家庭の三番目の子として生まれる。1931年に漢口に引っ越す。1937年に上海に移動。中国中央信託局に勤務する。1945年には上海市銀行営業部長及び副総経理に就任したが、その後1948年に香港に移住。 1955年に海運業ワールドワイドシッピングを開業。香港銀行からの支援もあり、徐々に所有船舶を増やす。1971年には香港銀行の取締役となり、その後副頭取となる。1975年には香港大学より名誉博士号を授与された。1977年には1377万トンを超える船舶を保有し、「アジアの海運王」と呼ばれるようになった。1978年にはイギリスからナイト称号を受勲、日本の勲三等瑞宝章受勲、函館、大阪、佐世保の名誉市民の称号を受ける。1970年より徐々にもともとジャーディン・マセソンの影響下にあった九龍倉集団(The Hongkong and Kowloon Wharf and Godown Company, Limited、香港九龍碼頭及貨倉有限公司)の株式を買収し始め、1980年には傘下におさめる。

彼には4人の娘がおり、長女包陪慶(アンナ・パオ)の夫は彼の海運業を継いだヘルムート・ゾーメン(蘇海文)、次女包陪麗(シシー・パオ)の夫はコーンズ社長の渡伸一郎、三女包陪容(ベッシー・パオ)の夫はウィーロック、ワーフ会長の呉光正(ピーター・ウー)、四女包陪慧の夫は鄭維健(エドガー・チェン)。

上記に「1978年にはイギリスからナイト称号を受勲」とあるように、彼はイギリス国籍を取得していました。

この包玉剛が、イギリスが香港を中国に返還して以降、実権を握ったということ。

彼は客家人です。

ロスチャイルドから包玉剛への政権交代。

もちろん、裏でそう仕向けた人間がいます。

それがマウントバッテン。

つまり、ヘッセン家の支流でイギリス王家の主流であるマウントバッテン。

ですので、ロスチャイルドから包玉剛に覇権が移っても、裏にはヘッセン陣営がいるのです。

この流れの中で、サスーンは香港利権を奪われ本拠地を米国バミューダに移します。

これもヘッセンの描いた筋書きです。

米国における現在のユダヤ国際金融資本の強力な支配は、香港から本拠地を移したことにより加速し、世界を一気に反ユダヤの方向に仕向けます。

インターネットを一般的に公開し、ロスチャイルド、ロックフェラー叩きに向かわせます。

ネットでは、ロスチャイルド、ロックフェラーはインターネットを公開したことを後悔しているのではないか?

自分たちの悪事がバレバレになっちゃったじゃないか・・・などと言われていますが、

これは大きな陰謀で、意図的に非難の矛先をロスチャイルド、ロックフェラーに向かわせているのです。

国際情勢専門家がロックフェラーを非難したり、ロスチャイルドを悪く言うのは、ある一つの目的があるからです。

アンチ・ユダヤ・・・なんか聞き覚え有りますよね?

そうです。ヒトラーです。

ヒトラーがユダヤ人を迫害した結果できたのがイスラエルです。

ヒトラーの役回りは、ユダヤ人を迫害し、世界がユダヤ人の権利を認めるようにすることだったのです。

それは、約束の地、イスラエルを建国する権利でした。

それと同じ手法で、再びユダヤ人いじめが煽動されています。

そして、どこかの、古くからユダヤ人に支配されている国、極東の島国で、それが発信されています。

しかもその国の中心から。

煽動されてはいけませんよ。

そして、イランとイスラエルの戦争も煽り、イスラエル消滅。

イスラエル消滅、これは田中宇がすっと言っていることです。

その後、かわいそうなユダヤ人は、どこに建国するつもりなのでしょうかね?

それでは


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【ヒトラーを洗脳しナチス結成に繋げた”緑の始祖鳥”③  マ○ントX】

こんにちは、いや〜名無し先生もしびれを切らされたようで、コメントで大物をドサッと渡されてしまいました。

(名無し先生のコメント)

九龍一族と云うと、日本の漫画で徳川家康との関連をほのめかす作品を想起する方も多いのでしょうが、裏国際経済界では武闘派として知られる、実在する集団です。満蒙開拓移民で知られる満蒙国時代には、中野学校と並び称された存在です。

今回の客家人を追う記事内で、[香港] 李嘉誠は重要な人物ですが、より広域に渡る役目を果たした客家人、包玉剛を見落としています。九龍一帯の開発権、HSBC、国際海運業でも活躍した方で、英国籍を有しています。

香港の中国返還の裏側で、かの有名なジャーディン・マセソンをバミューダに本店移転させた、裏の立役者でもあります。

ジャーディンのサイモン・ケズウィック会長は1984年の中英共同声明が発表される直前に、「返還後も英国の法体系下での経営基盤が必須だ。自由社会での経営こそ、我々株主が求めるものだ」と表明し、法人登記を香港から英領バミューダに移管しました。

ちなみにジャーディンは1994年に、香港登記だけではなく、主要グループ企業の香港上場を廃止してロンドン証券取引所に移管。アジアの主要事業であるマンダリン・オリエンタルやデアリーファーム、ホンコンランドの3社はシンガポールに上場を移管しています。

これを機に麻薬資本カルテルは香港の表舞台からは影を潜めた格好です。

特定の宗教団体が、どこに大きな資金源を持つのか疑問に思って来た方も多いでしょうが、客家人の国際経済ネットワークには、英国籍を持った包玉剛の様な方が居る事をお忘れなく。

(名無し先生、ありがとうございました)

それで、この文中に出てくる「九龍一帯の開発権、HSBC、国際海運業でも活躍した方で、英国籍を有しています。」という包氏と連携していた人物、これが以前、私が記事にしました、英国王族に入り込み、近いうちに英国ウイリアム、ヘンリー王子の苗字になるかもしれない、ヘッセン家の支流、マ○ントX卿ということなのです。

マ○ントXはドイツ語のバッテンベルクの英語読み。

■ルイス・マ○ントX

初代バーマのマ○ントX伯爵ルイス・フランシス・アルバート・ヴィクター・ニコラス・マ○ントX(Louis Francis Albert Victor Nicholas M 1st Earl M of Burma, 1900年6月25日 - 1979年8月27日)は、イギリスの貴族。ガーター勲章勲爵士(KG)、バス勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCB)、メリット勲章勲爵士(OM)、インドの星勲章(英語版)ナイト・グランド・コマンダー勲爵士(GCSI)、ロイヤル・ヴィクトリア勲章ナイト・グランド・クロス勲爵士(GCVO)、殊功勲章(英語版)受勲者(DSM)、枢密顧問官(PC)、王立協会フェロー(FRS)[1]。

初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵ルイス・アレグザンダー・マ○ントXの子で、ヴィクトリア女王の曾孫。ドイツのバッテンベルク家出身。海軍元帥。

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往年のマ○ントX卿(やさしそうですが・・・)

■バッテンベルク家とは

バッテンベルク家(Battenberg)は、ドイツのヘッセン州を発祥とするヨーロッパの貴族、君主の家系。ヘッセン家の支流に属し、ヘッセン=ダルムシュタット方伯、後にヘッセン大公の家系となったヘッセン=ダルムシュタット家の分家である。バッテンベルクの名はヘッセン大公の邸宅の一つがあったバッテンベルク (エーダー) に由来する。

ヘッセン大公ルートヴィヒ3世が弟アレクサンダー大公子の妻ユリア・テレーザ・ハウケ伯爵夫人にバッテンベルク侯爵夫人(Prinzessin von Battenberg)の称号を与えたのが始まりである。ユリアの父ヤン・マウリツィ・ハウケ伯爵はロシア領ポーランドの軍人として活躍し、皇帝ニコライ1世によってポーランド立憲王国の国防副大臣に任命され、伯爵に叙されていたが、この結婚は貴賎結婚とされた。アレクサンダーとユリアの子供たちにはバッテンベルク侯爵(夫人)の称号が与えられたが、ヘッセン大公家の継承権は与えられなかった。

アレクサンダーとユリアの長男ルートヴィヒ・アレクサンダーはイギリスに帰化し、ルイス・アレグザンダー・バッテンバーグと名乗っていたが、第一次世界大戦中にイギリスでの反ドイツ感情から、英語風にマウントバッテン(Mountbatten)と改姓した。ルイス・アレグザンダーは初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵に叙されている。

■バッテンベルク家の人物

ルイス・アレグザンダー・マ○ントX(1854年 - 1921年) 初代ミルフォード・ヘイヴン侯爵、イギリス海軍士官

アリス・オブ・バッテンバーグ(1885年 - 1969年) ギリシャ王子アンドレオス妃

フィリップ・マ○ントX(1921年 - ) エディンバラ公、エリザベス2世王配

チャールズ・マ○ントX=ウィンザー(1948年 - ) イギリス王太子、プリンス・オブ・ウェールズ

ウィリアム・マ○ントX=ウィンザー(1982年 - ) イギリス王子

ヘンリー・マ○ントX=ウィンザー(1984年 - ) イギリス王子

アン・ローレンス(1950年 - ) イギリス王女

アンドルー・マ○ントX=ウィンザー(1960年 - ) ヨーク公爵

エドワード・マ○ントX=ウィンザー(1964年 - ) ウェセックス伯爵

ルイーズ・マ○ントX(1889年 - 1965年) スウェーデン王グスタフ6世アドルフ妃

ジョージ・ルイス・マ○ントX(1892年 - 1938年) 第2代ミルフォード・ヘイヴン侯爵

ルイス・フランシス・マ○ントX(1900年 - 1979年) イギリス海軍元帥

アレクサンダル・バッテンベルク(1857年 - 1893年) ブルガリア公

ヘンリー・オブ・バッテンバーグ(1858年 - 1896年)

アレグザンダー・マ○ントX(1886年 - 1960年) 初代キャリスブルック侯爵

ヴィクトリア・ユージェニー・オブ・バッテンバーグ(1887年 - 1969年) スペイン王アルフォンソ13世妃

フランツ・ヨーゼフ・フォン・バッテンベルク(1861年 - 1924年)



今回の話はこれ以上書く必要も無ければ、余計な解説も要らないと思います。

今回はこのへんで許してやります(笑)。

日本もそうですが、国の支配者が外国人だという事は珍しい話ではないのです。

これで一旦、「ヒトラーを洗脳しナチス結成に繋げた”緑の始祖鳥”」シリーズを終わります。

後日、続編を・・・

それでは


【ヒトラーを洗脳しナチス結成に繋げた”緑の始祖鳥”② 客家との繋がり】


こんにちは、今回も”緑の始祖鳥”についてなのですが、”「世界紅卍会は中華民国全土に広がった道院」せっかくここまで云ったのに、台湾、客家までは言及しなかったのですね?”というアドバイスが有りました。

ヒントはくれるのですが、決してすべて教えてくれないのが名無し先生。

いつもここから旅が始まるのです。

自分で書いた記事にもありますように、客家とは、アジアのユダヤ人と呼ばれる、アジア政財界の支配者です。

http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-162.html

(自分自身の記事転載)

客家人の一覧(はっかじんのいちらん)

客家語を母語とする客家人は、漢民族の集団の一つととらえられる民族集団で、中国・台湾の国外で暮らす華僑(在外華人)人口の約3分の1を占める。客家を含む華僑はユダヤ人・アルメニア人・印僑と共に四大移民集団の一つと言われる。また、中国のユダヤ人と呼ばれることもある。

[中国本土]

 孫文:中華民国初代総統
 宋慶齢:孫文夫人
 宋美齢:蒋介石夫人
 朱徳 :中国共産党初代元帥
 鄧小平:元中華人民共和国中央軍事委員会主席
 葉剣英・葉選平:元中国共産党元老・元広東省長の父子
 廖承志;元中日友好協会会長
 李鵬 :元国務院総理
 朱鎗基:元国務院総理
 郭沫若:全人代副委員長、文学者、元中日友好協会会長

[香港]

 李嘉誠・李沢楷:長江実業グループ(香港最大の財閥)の総帥・IT産業牽引(息子)
 胡文虎・胡仙:タイガーバーム創設者/星島日報グループ創設者・現総帥(娘)

〔台湾]
 
  李登輝:第8~9代総統
 陳水扁:第10~11代総統
 呂秀蓮:第10-11代副総統
 馬英九:第12~13代総統(現)
 王永慶:台湾プラスティック・グル〜プ(台湾最大の財閥)総帥

[シンガポール]

 リー・クァンユー(李光耀):初代首相、現顧問相、南洋客属総会の永久名誉顧問
 ゴー・ケンスイ(呉慶瑞) :元第一副首相、鄧小平と親密。
 ゴー・チョクトン(呉作棟):第2代首相、現上級相。
 リー・シェンロン(李顯龍):第3代首相(現職)、南洋客属総会顧問。

[タイ]

 チン・ソポンパニット・チャトリ・ソポンパニット:バンコク銀 行グループ創業者・現総帥(息子)
 タクシン・チナワット、インラック・シナワトラ元首相、現首相(娘)。
  チナワット家 は1860年に広東省から渡来。
 アピシット・ウェーチャチーワ:元首相、

[マレーシア]

 ロバート・クオック(郭鶴年):クオック・グループ(シャングリラホテルなど)総帥
 ロイ・ヒャンヒョン(雷賢雄)、ロイ・ティックガン(雷徳雁):
マーポーグループ(マレーシア最大の金融会社)の創業者と現総帥(息子)

[インドネシア]

 スドノ・サリム(林紹良)とアンソニー・サリム:サリムグループ創業者と現総帥(息 子)
 ジュハル・スタント(林文鏡):スドノ・サリムの片腕
 ワヒド元大統領: 500年前に福健省から渡来

[ミャンマー]

 ネウィン:ビルマ(現ミャンマー)初代大統領。

[フィリピン]

 コラソン・アキノ、ベニグノ・アキノ3世:第11代大統領と第15代大統領(現)。
コラソンの曾祖父が1861年に福健省から渡来。

(自分自身の記事転載終わり)


前回の記事で気がついた方もおられるでしょうが、シャングリラとは?

「時輪タントラ」で説かれる理想の仏教国のこと。語源はサンスクリット語で「(幸福を)維持(もしくは用意、収集、養育)するもの」などの意味。Shambalah:シャンバラーとも。→シャンバラ (チベット)。シャングリラも参照。オウム真理教が日本で樹立しようとしていた祭政一致の専制国家構想については、日本シャンバラ化計画を参照。

上の文中に”シャングリラを参照しろ”という指示がありますので、参照してみました。

(Wikipediaより)

シャングリラ(シャングリ・ラ、英語: Shangri-La)は、イギリスの作家ジェームズ・ヒルトンが1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場する理想郷(ユートピア)の名称。ここから転じて、一般的に理想郷と同義として扱われている。

小説の設定ではチベットの未知の地域にある。ヒマラヤ山脈の西の果てを崑崙山脈のほうへ向かった辺りに、カラカル(Karakal)という名の8,500メートル以上の高峰があり、そのふもとの霧の漂う調和に満ちた谷間に、シャングリラという僧院が建っている。シャングリラに住む人々は普通の人々よりはるかに長生きし、老いる速さは非常に遅い。元は18世紀初頭にペローという名の宣教師が建てた僧院であったが、そこにラマ僧らが集まり、図書館やセントラルヒーティングなど最新式の設備が整えられ世界中の知識も蒐集する研究の地となった。

この小説により「シャングリラ」という言葉は有名になり、1930年代後半以後、ヒマラヤ奥地のミステリアスな永遠の楽園、外界から隔絶された地上の楽園というような語と同義になった。東洋の桃源郷とならんで理想郷の代名詞となり、東洋(オリエント)へのエキゾチシズムを駆り立てる語になった。また神秘主義の総本山と認知され、地球の中心にある理想郷のひとつアガルタの首都に通じるとも言われる。

チベットの古い聖典には、「Nghe-Beyul Khimpalung」という名で、シャングリラのような聖地が7つ登場する。そのうちの一つは、ネパール奥地のマカルーの麓の Makalu-Barun 国立公園の近くのどこかにあるとされる[1]。

(Wikipediaおわり)

前回の記事、チベットにあるといわれる理想郷(ユートピア)のことです。

この理想郷から名前を取ったのがシャングリラホテルです。

ヒトラーもそうですが、客家もチベットと繋がっていそうです。


下記はシャングリラホテルの所在地です。沢山有るので読み飛ばしてください。

(Wikipediaより)

香港:カオルーン・シャングリ・ラ、アイランド・シャングリ・ラ、トレーダースホテル

バンコク:シャングリ・ラ・バンコク

シンガポール:シャングリ・ラ・シンガポール、シャングリ・ラ・ラサセントーサ・リゾート、トレーダースホテル

台北:シャングリ・ラ・ファーイースタン・プラザ

マニラ:マカティ・シャングリ・ラ、エドサ・シャングリ・ラ、トレーダースホテル

セブ:マクタン・シャングリ・ラ・リゾート&スパ

ボラカイ:シャングリ・ラ・リゾート&スパ

クアラルンプール:シャングリ・ラ、トレーダースホテル

コタ・キナバル:シャングリ・ラ・ラサ・リア・リゾート、シャングリ・ラ・タンジュン・アル・リゾート

ペナン:シャングリ・ラ・ゴールデンサンズ・リゾート・ペナン、シャングリ・ラ ラサ・サヤン・リゾート&スパ ペナン、トレーダース・ホテル・ ペナン

ジャカルタ

スラバヤ

北京:中国大飯店(チャイナワールド ホテル 北京)、国貿飯店(トレーダース・ホテル)、北京ケリーセンターホテル、北京シャングリ・ラ

上海・蘇州・大連・広州・杭州・包頭・北海・長春・常州・成都・福州・ハルピン・フフホト・青島・深圳・武漢・西安・広東省中山

ヤンゴン:トレーダースホテル

ドバイ:シャングリ・ラ・ホテル・ドバイ、トレーダースホテル

マスカット:シャングリ・ラ・バールアルジサ・リゾート&スパ

シドニー

ケアンズ

パリ:シャングリ・ラ ホテル パリ(2010年12月17日オープン)

東京:シャングリ・ラ ホテル東京

(Wikipediaおわり)

シャングリラホテルグループを経営するマレーシア在住、ロバート・クオック(郭鶴年)率いるクオック・グループ。

彼は客家人です。

客家とは?

(Wikipedia開始)

主な居住地域は、中国広東省・福建省・江西省など山間部であり、梅州、恵州、汀州、贛州は客家四州と呼ばれる。在外華僑・華人としてタイ、マレーシア、シンガポールなどの東南アジア諸国に暮らす者も多く、華人の3分の1は客家人である。

台湾では北中部の桃園県、新竹県、苗栗県などを中心に居住し、ホーロー人(福佬人と言う場合は、特に福建省に出自を持つことを強調しており、閩北の者に疎外感を与えない様に配慮して言葉を用いている)に次ぐ大きなエスニック・グループを構成している。そのため、公共の交通機関などでは国語(北京語)、台湾語(福佬語)に次いで客家語の放送が行われることが普通である。また、台湾では世界で唯一の客家語専門テレビ局客家電視台があり、ケーブルテレビ網を通してニュースや文化的な番組を始め、ドラマや娯楽番組などの放送を行っている。

(Wikipediaおわり)

台湾では世界で唯一の客家専門テレビ局客家電視台がある?

以前の記事にも書きましたが、私は台湾人が大好きです。

台湾人も日本人が大好きです。

昔、台湾にある会社の社長にものすごくお世話になったのですが、人のもてなしがうまいし、細かいことは気にしません。

多分、彼にも客家の血が流れているのでしょう。

変な特徴を記憶しているのですが、牛を食わないことですかね。

牛は働く動物だから、殺してはダメという、人間の為に尽くしている動物に感謝するということを教えてくれました。

まあ、私はまだ食ってますが・・・

なんだか、出口王仁三郎のセリフを彷彿とさせますね。

獣の肉を食べるから、獣のような人間になんじゃぞ・・・云云かんぬん

この社長のオフィスの壁には般若心経が掛かってました。


世界紅卍字会(せかいこうまんじかい)は、1922年(大正11年)に中華民国の道院という宗教組織の慈善博愛の善行を行う事業執行の付属施設の一つとして組織された、道教系の修養団体及び慈善団体。戦前の中華民国では赤十字社に準ずる組織として活動した[1]。名称を略して「紅卍会」とも呼ばれる。

中華民国=台湾です。

日本が統治する前の台湾は清朝に支配されていました。

建国以来反清勢力の撲滅を目指して来た清朝は、「反清復明」を掲げる台湾の鄭氏政権に対しても攻撃を行い、1683年に台湾を制圧して鄭氏政権を滅ぼすことに成功した。だが、清朝は鄭氏政権を滅ぼす為に台湾島を攻撃・制圧したのであり、当初は台湾島を領有する事に消極的であった。しかしながら、朝廷内での協議によって、最終的には軍事上の観点から領有することを決定し、台湾に1府(台湾)3県(台南、高雄、嘉義)を設置した上で福建省の統治下に編入した。

台湾はこの時代から福建省の統治下になり、客家に支配される国になったということです。

まあ、その前から当然、オランダやスペインが来てますから、客家とうまくやっていたのでしょうが。

ちなみに、台湾という名前の由来は、台湾原住民がオランダ人を「Tayouan」(現地語で「来訪者」の意)と呼んだことから「台湾(Taiwan)」という名称が誕生したという説もあるらしいです。


みなさん、一度、日本に対する想いを消して、頭をからっぽにしてください。

そして、客観的に日本を観てください。

日清戦争以降、1895年から台湾は日本の統治下にありました。

明治天皇、大正天皇、昭和天皇と、3代の天皇が支配していたということ。

Wikipediaで調べるとわかりますが、大日本帝国日本(台湾)と出ます。

半世紀です。こんなに長期にわたり、台湾を支配していました。

台湾人は親日家が多いのですが、それは日本が日本人に対してしたように、日本のすばらしさを前面に押し出す事に成功した結果です。

台湾人に天皇を敬う心が生まれ、心を洗われ、天皇教に染まりました。

大本教は日本の皇室の一派である、始祖鳥の実行部隊の一つです。

紅卍会=大本教です。

つまり、その下部組織に大本教が有ったということなのです。

大本教はヒトラーを生み出す程の強力なパワーを持っています。

その後、日本が敗戦し、蒋介石によって現在の台湾になる訳ですが、日本の影響は強烈に残っています。

台湾は国として認められていませんね。

おかしな話ですよね?

何故、国にならないのでしょうか?

実は、台湾は現在でも、日本統治時代の勢力が力を持っています。

WBCでの台湾人の親日ぶりが目立ちましたよね?

日本統治時代の総督府が今でもあり、台湾総督府として使用されています。

大日本帝国の建造物を総督府として、今でも使っているんですよ。

ということは、大日本帝国の残党とみなされても仕方ないですね。

(名無し先生のコメント抜粋)

旧スペイン統治下由来の閥、米国由来の閥、台湾由来の華僑に見える、日本国旧陸軍の一部由来の閥と3派閥がフィリピンには存在する訳です。

(抜粋終わり)

台湾由来の華僑=客家、つまり、客家に見える日本の一部由来の派閥=大本ということです。

日本皇室=始祖鳥=緑龍会=大本教=紅卍会=客家=アジアの支配者

そして、緑龍会=大本教=チベット=ナチス=アメリカ南軍派=ヘッセン

見事にグルッと繋がります。

北朝鮮=オーム、豊田商事の持ち株会社=「銀河計画」。

北朝鮮のテポドンはミサイルの名ではなく、地名です。ロケットに書いてある名は「銀河」です。

北朝鮮の核兵器は日本製だということです。

ヒトラーも北朝鮮も彼らの創造物なのです。

つまり、ヘッセン派閥はこうして、世界のダークサイドを使い包囲している。

お得意の自作自演を繰り返し、それを預言や奇跡、魔術として人々を洗脳する。

現代社会に存在する、アラブの春、フリーチベット運動、プーチンに対するデモ、リビアのカダフィ殺し、ウォール街デモ、シリアの内戦、中国の反日デモ、尖閣諸島問題、竹島問題、さらにはフジテレビに対するデモ、新大久保の反在日デモまでもが、ヘッセンの自作自演と考えてみて下さい。

意外と簡単にその仕掛けに気付くのです。

しかし、ナチス第三帝国も、大日本帝国も、ソ連も潰されちゃいましたよね?

これは、それ以上のパワーを持つ勢力があるということなのです。

ところで、原田祖岳という曹洞宗の僧侶をご存知ですか?

軍国主義に協力した曹洞宗教団の中にいた坊主です。

お恥ずかしながら、今回は名無し先生の期待に添う事は出来ませんでした。

到達して欲しいところまでいけませんでしたが、これで今回の記事とさせていただきます。

それでは

原田祖岳はやがて、久邇宮良子女王(明治天皇即ち西郷隆盛の子供で、久邇宮家で養育された。その事が後に宮中某重大事件の原因となるが、関東大震災後に裕仁天皇の后となる。)と肉体関係を結び、良子皇后は原田祖岳の子“明仁親王”を生んだ・・・

天皇皇后両陛下は原田祖岳の胤、兄弟だった・・・かな?






【ヒトラーを洗脳しナチス結成に繋げた”緑の始祖鳥” 世界紅卍会=大本】

こんにちは、今回はトンデモない話題です。

断っておきますが、私は決して反日ではありません。

君が代を歌うと目頭が熱くなるような超愛国者です。

それでも、知ってしまった以上、書かなければなりません。

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今回は緑の始祖鳥がチベットを通じ、ヒトラーを洗脳し、ナチス結成に至るまでの経緯を説明します。

尚、この記事は、下記サイトからの抜粋で構成されていますが、この記事に不足している部分を補足し、記事にしました。
 
http://inri.client.jp/hexagon/floorB1F_hss/b1fha200.html

(Wikipediaより)

カール・ハウスホーファー

ミュンヘン大学にて大学教授資格を取得。ハウスホーファーは地政学の創始者の一人である。1919年にハウスホーファーは教え子としてルドルフ・ヘスと知り合い、1921年にはアドルフ・ヒトラーと出会った。1923年のミュンヘン一揆の際には逃亡するヘスを一時匿い、ランツベルク刑務所に収監されていたヒトラーと面会した。ヒトラーはハウスホーファーの生存圏の理論に興味を覚え、「生存圏を有しない民族であるドイツ人は、生存するために軍事的な拡張政策を進めねばならない」として、ナチス党の政策に取り入れた。しかしハウスホーファーは「(ヒトラーが)それら(地政学)の概念を理解していないし、理解するための正しい展望も持ち合わせていないという印象を受けたし、そう確信した」と見てとり、フリードリヒ・ラッツェルなどの地政学基礎の講義をしようとしたが、ヒトラーは拒絶した。ハウスホーファーはこれをヒトラーが「正規の教育を受けた者に対して、半独学者特有の不信感を抱いている」事によるものであるとみていた[1]。

(転載終わり)

ドイツにハウスホーファーという地政学者がいました。

彼は単なる著名な地政学者というだけではなく、オカルト思考がありました。

1908年から数年間、武官として日本に滞在し、その間に日本の文化、風習に強い関心を持ちます。

日本人独特の(今も残っている?)一体感、霊感に憧れたそうです。

彼は下記のように、多くの日本に関する著書を書いた程、日本に惚れ込んでいました。

『大日本(大いなる日出ずる国)』(1913年)
『日本の地理的闡明におけるドイツ人の分け前』(1914年)
『日本帝国』(1920年)
『日本の国情』(1921年)
『日本帝国の地理的発展』(1921年)
『日本及び日本人』(1923年)
『太平洋地政学』(1924年)

彼はベルリンに「ヴリル協会」という秘密結社をつくります。

この結社の目的は、アーリア人種の根源を探り、ヒンズー教のクンダリニー・エネルギーに相当する“ヴリル”の気力を呼び起こすために精神集中訓練を行なうこと。

ハウスホーファーは、“超人”の秘密を所有するチベットの結社と関係があると称し、イギリスの作家で神秘主義者のブルワー・リットンの、未来の超人種に関する著書『来たるべき民族』を字義通り受け入れていました。

ハウスホーファーはランズベルク刑務所において運命的な出会いをします。

1923年、ミュンヘンのビヤホール暴動に失敗して捕らえられていたアドルフ・ヒトラーとの会見です。

この会見は、ヒトラーの片腕であり、ミュンヘン大学で教授の教え子でもあったルドルフ・ヘスの仲介によって実現。

ハウスホーファーは毎日のようにヒトラーを訪れては、ユダヤ人によるドイツ支配を崩し、優秀なゲルマン民族によって全世界が支配されねばならないと説きます。

そして、オカルティズムによる世界征服という思想をヒトラーに植え付けたのです。

彼はヒトラーの共同執筆者となり、『我が闘争』を書き上げます。

こうして、ハウスホーファーは1920年代にはヒトラーの政治顧問を務めました。

そして彼は、ヒトラーの第2の“秘教助言者”となったのです。

ハウスホーファーやその他の「ヴリル協会」後押しにより、ナチスは何度もチベットに調査団を派遣。

1926年から1942年まで毎年派遣された調査団は、チベットの僧侶に接触し、深い関係を築きあげました。

ナチスに協力してくれたのはチベットの一派だけで、彼らはドイツでは「緑の男の会」として知られていました。

これは数百年におよぶ日本の「緑龍会」との強いつながりから来ていたといいます。

えっ緑龍会?

この緑龍会ってなんでしょう?

ベン古歩道さんのいう、黒龍会、白龍会は有名ですよね?

緑龍会?・・・どうやら日本の始祖鳥派閥の一派のようですね。

ここでは、日本皇室に仕える組織、始祖鳥の一派と仮定します。


卍と鍵十字・・・昔からなんでお寺のマークが酷似しているのか気になっていました。

子供の頃、タミヤの模型でドイツ軍の戦車や、歩兵を組み立てるのが趣味だったのですが、

学校で地図の授業中、お寺に鍵十字が使われているのはなんでだろうと思ってました。

まあ、結局は鍵十字じゃなくて、反対向きの卍だとわかり、これはただの偶然だと判断しました。

しかし!それが偶然ではなかったのです。

ガガ〜〜ン!!

出口王仁三郎で有名な大本ですが、大本が提携していたのが”紅卍会

          Red_Swastika_Society_member.jpg
                   世界紅卍会のメンバー

世界紅卍会は中華民国全土に広がった道院。

「先天の大道」を中心に五大教(道、佛、基、儒、回)を奉ずる宗教団体で、日本の大本教は道院と同じ宗旨であるとして提携していた。(Wikipedia)

日本にも日本紅卍会がある。

以前、名無し先生からいただいたコメントを思い出した。

大本は、綾部町に住む出口なおが興し、開祖となる。この大本の特色としては、教主が代々女性であり、女系相続の世襲です。初代教祖・出口なおの娘婿の出口王仁三郎は、出生地が亀岡市。王仁三郎は、玄洋社の頭山満と、黒龍会の内田良平と昭和9年7月22日に東京・九段会館で、「昭和神聖会」結成しました。この発足が、第二次大本弾圧の直接の引き金になったといえるでしょう。五代目教主・出口紅の父・広瀬静水が、「世界連邦日本宗教委員会会長」を務めていたことと、「人類愛善会」という外郭団体を通じて、『世界連邦運動』の促進をしています。

2000年2月9日に、綾部市とエルサレム市(イスラエル)の間で友好都市宣言が締結されています。
『世界中の国家を一つに統合した上で、世界連邦の樹立を目指す』国際的な非政府組織が『世界連邦運動』を推し進めています。鳩山由紀夫元総理は、2012年11月21日に政界を引退することを明言しましたが、その前の11月8日には、日本にある世界連邦系の団体である世界連邦日本国会委員会の次期会長に選ばれました。

なんですと・・・出口紅・・・紅卍

大本と紅卍会は提携どころじゃなく、同じ祖を持つ団体。

ベルリンでは、ヒトラーは「青衣の魔術師」とも「緑の手袋をした男」とも呼ばれるチベット教団の指導者と定期的に会っていた。

透視力と予知力に定評のある僧侶で、新聞紙上でドイツ議会で選出されるナチスの代表議員を三たび正確に予言した。

更にヒトラーがドイツの指導者になる正確な日付ばかりか、第二次世界大戦が始まる日付まで予言した。

この正確な予言がオカルトに興味を抱くナチ党員の間でたちまち広い関心を呼び、ヒトラー同様ヒムラーもまたチベットのラマ教に強い関心を抱くようになった。

そしてベルリンにオカルト訓練カレッジを開設して、SSの幹部に特に魔術課程をとるように命じたのであった。


尚、「緑龍会」とは、ハウスホーファーが日本駐在の武官時代に入会した秘密結社である。

「緑龍会」の会員たちは人間に内在する神秘能力を修行によって開花させようとしていたらしい。

また、この会の起源はチベットにあったという。

そしてハウスホーファーは「緑龍会」に入会を許された、たった3名のヨーロッパ人のひとりだったという。

この「緑龍会」所属の7人の会員がドイツの会にも参加していたそうだ。

この「緑龍会」に関しては不明な点が多く、その存在自体を否定している研究家もいるが、いずれにせよ、日本にひそかに伝えられている何ものかを汲み取ろうと試みていたことはまず間違いない。

実際、ハウスホーファーの日本理解は驚くほど深いのである。彼は流暢な日本語を話し、日本に関する著書をたくさん残している。

チベットと日本そしてドイツをつないだ「緑龍会」とは何か

緑龍会については、秘密結社というだけで、実体は不明であるが、ハウスホッファーは日本駐在武官の時代に、日本でこの結社の会員になった。したがって、緑龍会は日本に存在したことになるのだが、日本ではほとんど知られていない。

ドイツに協力したのはチベットの緑龍会のメンバーであるが、ハウスホッファーは緑龍会は数百年に及ぶ日本とのつながりを持っていたと考えていたようだ。しかし、このような情報は人では得られない。

「大本神示」の最大の特徴は「石屋の陰謀」という当時は誰も知り得なかった国際陰謀集団の存在を予言したことである。

そして、日本に降りたいくつかの神示を総合してみると戦争は利害に基づく軍事的覇権争いではなく、経済システムの破綻を戦争のせいにして再構築することが目的だったようだ。

仕掛け人は「どちらが勝っても、戦争が経済システムのリセットに必要な規模で起これば良い」と考えているということなのである。

「日月神示と日本の地下都市」 神々の地政学 シャンバラ / アガルタ・ネットワーク 山田久延彦   徳間書店


ん? シャンバラ??

ウィキってみました。

シャンバラ・・・日本のボーカルバンド。→シャンバラ (バンド)・・・そっちじゃねーよ、バシッ!!

シャンバラ・・・

「時輪タントラ」で説かれる理想の仏教国のこと。語源はサンスクリット語で「(幸福を)維持(もしくは用意、収集、養育)するもの」などの意味。Shambalah:シャンバラーとも。→シャンバラ (チベット)。シャングリラも参照。オウム真理教が日本で樹立しようとしていた祭政一致の専制国家構想については、日本シャンバラ化計画を参照。

え? 日本シャンバラ化計画??

日本シャンバラ化計画(にほんシャンバラかけいかく)は、オウム真理教が日本で樹立しようとしていた祭政一致の専制国家構想。

公安調査庁はこの計画をもって、オウム真理教を破壊活動防止法や無差別大量殺人行為を行った団体の規制に関する法律に該当するテロ組織と規定している。

はい、これですべて繋がりました。(オームまで釣り上げちゃいました)


①ヒトラーを洗脳しオカルト化したのはハウスホッファー

②ヒトラーはチベットに興味を示し、頻繁に調査団を派遣している。

③ハウスホッファーは日本駐在武官の時代に、日本で緑龍会の会員だった。

④緑龍会とは、日本皇室始祖鳥の一派である。

⑤その下に大本教=紅卍会がある。

⑥ハーゲンクロイツ鍵十字は紅卍会から来ている。

結論:ヒトラーを洗脳し、ナチスを結成させた大元は大本である(ダジャレじゃないですよ)。
 
そして、その大本教は日本の中心、皇室始祖鳥の下部組織である。

ナチスを作る目的で、ハウスホーファーをオカルト化し、ヒトラーを洗脳し、ナチスを結成させ、第二次世界大戦に導いたのは、日本始祖鳥だということになり、つまり、ヘッセン繋がりであるということ。

そう考えると、日独が同盟を組んだのも、あのタイミングで真珠湾攻撃に出たのも、納得がいきます。


これを知っているアメリカを始めとする外国人は、日本(始祖鳥)を今でも恐れているはずですよ。

だから、古歩道氏の言っている事も、少しは真実(始祖鳥が恐れられている事)が入っているんですね。


むかし書いた記事で、ヒトラーの予言・・・という記事を書いたのを思い出しました。

http://jfcoach.blog49.fc2.com/blog-entry-124.html

まだ、名無し先生に出会う遥か前の時代の記事です。長いですが、貼付けます。

(自分で自分の記事の転載開始)

「国民諸君、同志諸君、最後まで戦い続ける諸君に敬意を表する。すでに戦況は……私はベルリンと運命をともに……しかしナチスは不滅である……たとえ米ソがいったんは勝つように見えようとも……。
そうなのだ、それは砂の上の勝利だ。彼らは世界の真の支配者ではないからだ。彼らの背後で操る者……ユダヤ……イスラエル……世界的なユダヤ国際資本……。
米ソは……おそらく1990年代ごろまで、対立と妥協を繰り返しつつ、世界を運営しようとする。しかししょせん……ヨーロッパと日本、東アジア、イスラム諸国、インド……いずれ世界は米ソの手に負えなくなる。そのときユダヤはみずから……に乗り出す。
あわれなアラブ4ヶ国……最終戦争。東西が激突するだろう。ユダヤはそれに勝って全世界……なぜならそれが彼らの『旧約聖書』の約束だからだ。黙っておけば必ずそうなる。しかし、私がそうはさせない。そのための手を、私は死ぬ前に打っておく。それが最後の秘儀である。それによって人類はわれわれを受け継ぐことになる。
しかも見よ、そのあと、わがナチスの栄光、ラストバタリオン……。それが真のハーケンクロイツの日だ。カギ十字の日だ。そのときラストバタリオンが現われる。ユダヤを倒す。世界を支配する。永遠に……そしてナチスは甦る。真のヒトラーの時代が来る。必ずだ。
甦ったナチスの軍団とその強力な同盟がそのとき来る。宇宙からの復讐のカタストロフィとともに来るぞ。それからが真の究極だ。真の終わりで真の始まり、真の淘汰、天国の地獄、21世紀のその年に、人類の驚くべき究極の姿……ではそれを明かそう。諸君、それは人類……」

ここで空襲警報のサイレンがけたたましく入った。そのためヒトラー最後の放送も、ここでプツンと途絶えてしまった。
その日が1945年の4月2日だったなら、彼はこのあとなお、4週間ほど生きる。しかしともかく、彼の国民への最後の呼びかけは、こういう重大で狂おしい、しかし不完全な形で終わってしまったのだ。

(中略)

しかし人類はそれでも滅びない。わがドイツの一部と米ソの中心部、日本や中国は深い傷を負いながらも生き残る。ただ諸君、それでも人類はいなくなるのだ。いまの意味での人類は、そのときもういない。なぜなら、人類は2039年1月、人類以外のものに“進化”するか、そうでなければ“退化”してしまっているからだ。」

「それをもっとはっきり言えば、人類の一部はそのとき、人類から、より高度なものに進化して、神に近い生物になっている。人類から神のほうへ進化するのだから、それは『神人(ゴッドメンシュ)』と呼んでかまわない。
残りの大部分は、これも進化なのか退化というべきかわからないが、一種の機械になっている。ただ操られて働いたり楽しんだりするだけの、完全に受動的な、機械的な反応しか示さない『ロボット人間』になっているのだ。それまでの気候異変と環境異変、政治と娯楽と食物、それから起こる突然変異が、そのようなロボットのような人間を大量に生み出す。
神人のほうも同様で、同じ原因から生まれてくる。ただ突然変異が大脳にプラスに働いて、進化の方向がロボット人間と別方向になるだけだ。その前段階の『超人(ユーベルメンシュ)』たちも、より進化して神人になる場合がある。
いずれにせよ、彼らはいまの人間の数次元上の知能と力を持つ。彼らは団結して地球を支配する。それまでのあらゆる危機や問題は、彼ら神人たちの知能と力で急速に解決されていく。」

「ロボット人間たちのほうは、それに従って生きるだけだ。これはある意味では気楽な身分だ。戦争も気候も経済も、神人たちによって制御されてしまうので、ロボット人間たちは神人たちの認める限度で、多くのものを与えられる。食物と住居も、職業も娯楽も恋愛も教育も、時には思想さえも与えられる。
ただロボット人間たちは、与えられ、操られていることを意識できないようになる。自分たちの意識では、何もかも自分で選択して勝手に生きているのだと思う。しかし、じつは神人たちがすべてを見通して、管理工場の『家畜』のように彼らを育て飼うことになるのだ。
こうして人類は、完全に2つに分かれる。天と地のように、2つに分かれた進化の方向を、それぞれ進みはじめる。一方は限りなく神に近いものへ、他方は限りなく機械的生物に近いものへ。これが2039年の人類だ。その先もずっと人類はこの状態を続ける。
そしておそらく2089年から2999年にかけて、完全な神々と完全な機械的生物だけの世界が出来上がる。地上には機械的生物の群れが住み、神々がそれを宇宙から支配するようになるのだ。」


出口王仁三郎の予言を思い出します。(でぐち おにさぶろう、1871年8月27日(明治4年7月12日) - 1948年(昭和23年)1月19日)は、新宗教「大本」の二代教主輔。事実上の教祖。

彼の予言によると、日本には2度の建て直しが起きる。

一度目は第二次世界大戦に敗れ、二度目はロシアが攻め込んで来る。というものです。

そればかりか、イギリス、アメリカ、ドイツ、イタリアなども一斉に日本を潰しにくるそうです。

そして、広島、長崎の原爆とは比べられないほどの被害を受け、日本人は3500万人になってしまうという内容です。

明治維新から資本主義を取り入れ、経済発展を遂げ、軍国主義に走った結果、天罰を受け、焼け野原になりました。戦後、再び日本は経済発展を遂げ、今度は金を払ってアメリカの基地を引き止めている。国民は堕落し、物理的な幸せを追い求め、もはや神の国の住民ではなくなってしまった。

だから、神はもう一度日本を破壊するのです。

しかも、その規模は第二次大戦とは比較にならないほどのものなのです。
 
(自分で自分の記事の転載終わり)


名無し先生に出会う前に、かなり惜しい記事を書いていたのですね。

その当時は、大本とナチスを結びつけることは不可能でした。

先生に会ってから、信じられないようなお話の連続で、すっかり覚醒してしまいました。

もう私は、普通の体に戻れないのです。

それでは



【アメリカ独立時の大統領に対する誤解を解く】


こんにちは、今回は米国独立初期の大統領がフリーメイソンだったから、アメリカは悪い国なのだと言う誤解を解く目的で記事を書きます。

皆様、目をつぶってアメリカを想像してみてください。

アメリカ国歌と星条旗、広い大地、豊かな生活、自由を楽しむ人々、アメ車、コカコーラ、ホットドッグにヤンキース・・・

古き良き時代のアメリカが大好きなのは私だけではないはずです。

そんなアメリカはユダヤ人によって建国されたとか、ユダヤ人が操っているとか、そんな話題がネット中でみられます。

アメリカは本当にユダヤ人に牛耳られているのでしょうか?

確かにユダヤ人の力は強大で、政財界、メディア、映画産業・・・様々な分野でユダヤ人が幅を利かせています。

これは日本も同じで、在日の方々が様々な分野でご活躍されています。

日本はアメリカに比べればそれほどユダヤの支配は進んでいないと思っていた私は、最近の名無し先生のご指導で、驚愕の事実の数々を知ってしまったのです。

もう戻れません。

あれは、POINT OF NO RETURNだったのです・・・

名無し先生、お願いですから、「全部フィクションだよ〜ん」って言ってください。

答えは逆でした。

アメリカは日本ほど、ユダヤに支配されてはいないのです。

いろいろなサイトでアメリカはロックフェラーが牛耳っているとか、911はここがやったとか書かれていますよね。

これが事実だったら、そんなこと書けますか?

書いたとしても伏せ字にしたり、名前は出せないはずです。

それを思いっきりロックフェラーと書いている訳ですから、この時点でウソと読み解かなければなりません。


さて、話題は変わり、独立戦争について

独立戦争のとき、独立13植民地がありました(赤色部)

Map_of_territorial_growth_1775.jpg


ニューイングランド植民地群

ニューハンプシャー、マサチューセッツ、ロードアイランド、コネティカット

中部植民地群

ニューヨーク、ニュージャージー、ペンシルベニア、デラウェア

南部植民地群

メリーランド、ヴァージニア、ノースカロライナ、サウスカロライナ、ジョージア

アメリカ独立13植民地による、イギリス植民地からの独立が目的でした。

ジョージ・ワシントン

ジョン・アダムズ

トーマス・ジェファーソン

ベンジャミン・フランクリン

といった独立派政治家が、純粋に公平で自由な国アメリカを作りたかったのです。

ところが、彼らにはフリーメイソンが多かったことが誤解の原因になっています。

フリーメイソンが元々は商工会みたいな存在であったことを見落とししているのです。

現在の様なオカルト集団ではなかったのです。

ちょうどこの時代、ヘッセンがフリーメイソン内にコミュニストを入り込ませ乗っ取っていったわけです。

ですので、これらの政治家の中にも毒されて行く者、決して毒されなかった者とに分かれたはずです。

その証拠に、フリーメーソンであった初代米国大統領ジョージ・ワシントンの最後の演説(1797年)は、イルミナティに対する警告がテーマでした。

「イルミナティのような連合体はやがて、狡猾な野望を持つ、無節操な者たちが独力で政府を強奪し、民衆の力を何もかも覆し、憲法の核心部分を破壊する原動力になるだろう」

「彼らが採用する方法の一つは、イルミナティが民衆から土地と財産を盗むための法律を施行できるよう憲法を改正することにある」

「アメリカが自由であり続けるためには、ヨーロッパを避けることが第一原則である。落とし穴だらけの連合を、何としても避けなければならない」

と、出来る限り欧州と政治的関係を持たぬよう、国民に呼びかけました。

やはりフリーメーソンであった二代目大統領のジョン・アダムズは、ワシントンと共にイルミナティに反旗を翻しました。

三代目のトーマス・ジェファーソンはイルミナティに毒された側です。

しかし、五代目のジェームズ・モンローは、ワシントンの遺志を継ぎ「モンロー主義」と呼ばれる欧州との相互不干渉を宣言しました。

その後、27代大統領まで、モンロー主義が米国外交の主軸となっていました。

28代ウッドロー・ウィルソンがコミュニストに騙され、第一次大戦参戦やFRBの設立にサインしてしまったのです。

彼は死の直前に「私は一番不幸な人間だ・・・知らず知らずに自分の国を破壊してしまった」という言葉を残したのは有名です。


話は独立戦争に戻って、独立戦争後、イギリスは植民地を失い、撤退します。

ヘッセン陣営は大勢のヘッセン人を傭兵として送り込む形でイギリスを応援しながら、大儲けしていたのです。

結果として負けたイギリスはロス茶から大金を借りた事でしょう。

それでイギリス皇室に入り込まれてしまう。

80年後、独立戦争で破れたヘッセン陣営は、再び米国で南北戦争を起こす訳です。

南北戦争では、今度は奴隷問題で戦う事になるのですが、南軍が奴隷制維持、自由貿易に対して、北軍は奴隷解放、保護主義でした。

最終的に北軍が勝利するわけですが、この北軍の勝利がアメリカをヘッセンの魔の手から守ったのです。

ここ、重要です。

仮に南軍が勝っていたら、今のアメリカは、まるで違う国になっていたことでしょう。

コミュニストに支配されていたかもしれないのですから。

この後、ヘッセン陣営は、矛先を日本に向けます。

つまり、米国独立戦争、南北戦争、日本の明治維新へと繋がる訳です。

アメリカにはまだ、正義が残っている。

日本に比べれば、まだまだ救いの余地があるのです。

全員が全員、悪者と言う訳ではなく、主流は北軍派の正義が占めているのです。

これで誤解が解けたでしょうか?

アメリカの初期大統領達はフリーメイソンだったが、コミュニストの存在に気付き警告した。

それでは


【とんでもなくエロい、日本在住渡来人 国民は何も知らない】


お詫び:最初の記事が、あまりに過激だったので修正しました。

こんにちは、今回は昨日の名無し先生のコメントで、斎王制度について、濃厚な文章がありましたが、これを噛み砕いて説明します。

私は、まともな日本語で書かれた文章の読解能力が低下しているのでね。

これは私だけである事を祈ります。

齊王制度とは?

結論から言うと、天皇家及び渡来人の為の血族保存システムです。
出来るだけ多くの女性と関係を持ち、子孫を絶やさない為の仕組みです。

大宝律令とは?

(Wikipediaより)

大宝律令は、日本の国情に合致した律令政治の実現を目指して編纂された。刑法にあたる6巻の「律(りつ)」はほぼ唐律をそのまま導入しているが、現代の行政法および民法などにあたる11巻の「令(りょう)」は唐令に倣いつつも日本社会の実情に則して改変されている。

この律令の制定によって、天皇を中心とし、二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官僚機構を骨格に据えた本格的な中央集権統治体制が成立した。

(転載終わり)

なんだか難しい事が書いてありますね。

これが何の事かと言いますと、名無し先生の文章にも書かれている通り、夜の相手の数を決めたものなのです。

①天皇は四品という位以上の女性を2名、

②従三位以上の位から3名、

③従五位以上から4名、

④その他、位が下がって、定員12名の御息所(みやすんどころ)、

⑤さらに定員12名の御匣殿(みくしげどの)

合計33名と、

⑥位を下げれば無制限の女性

以上が妻として認められていました。

いや、認められています。

これは今でも続いているのです。

そして江戸幕府にも引き継がれます。

江戸時代と聞くと、なんか、武士がいて、清いイメージじゃないですか?

ところが、この斎王制度が引き継がれているのです。

それが有名な大奥です。

実際に、徳川幕府をコントロールしていたのは、カラスさん達です。

カラスさん達が、春日の局を置いたのです。

そうして、幕府の多くの権限を握っていたのです。

なんと、渡来人貴族はセックス三昧だったのです!!

ガーン!!

これを知ったからには、お国の為に戦争なんて馬鹿馬鹿しいですよね。

同じ罠に嵌められるのではなく、素直にこの現実を受け入れましょうよ。

カラスさんは渡来人ですからね。

しかも相当頭の良い人達です。

アメリカのせいにして、本当は日本国内に悪がはびこっているのです。

TPP反対!!これはカラスさんの叫びだということですね。

京都大学のTPP反対教授達は絶対にカラスさんの息がかかってるでしょう。

京都が空襲を免れた理由は、文化財保存ではなかったのです。

カラスさん保存ですた。

何故なら、カラスさんはヘッセン派閥とお友達ですからね。

ある意味、ものすごく強いですよね、最強ですよね、日本に住んでるカラスさんって。

ロック爺とか、ロス茶なんて、日本の洗脳に比べれば、軽いです。

ロックとロスはネットで叩かれていますから、おとりですからね。

彼らは本当の犯人による”目くらまし”なのです。

ヘッセン陣営に座布団と言いたいところですが、あまりにも巧妙なので、笑えません。

このままではマジ第三次世界大戦ですよ。

出口王仁三郎の予言通りになります。

日本の人口が3割になってしまいます。

その兆候が東日本大震災です。

それでも、世界の善良なシステムはまだちゃんと機能していて、それがアメリカの北軍派による救出活動に見られました。

天皇制、神道、あらゆる宗教は壮大な洗脳だということを私たちが気付かなければ、善良なシステムが完全に破壊されてしまいます。

日本人を洗脳するもの、それは、心地よい日本の文化、風習、風物詩にまで織り込まれた仕掛けなのです。

神社に行くと、なんだか神聖な場所に来た様な気持ちになるじゃないですか、あれは、そういう磁場をもった場所だったり、演出効果だと考えて間違いないでしょう。

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そして、神社ってなんだか怖いですよね?

そうです、怖いところなのです。

京都、祇園祭でラクダやアラブの宮殿みたいな模様の山車を押していますよね?

あれがカラスの渡来ルートを現していて、伊勢神宮のダビデの紋章がカラスの出自を現している。

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要は「日本は俺たち、カラスが支配している」と公言しているようなものなのです。

日ユ同祖論は確かに同祖ですよ、彼らだけが。

我々の中にユダヤの胤をもった人も大勢いるでしょうが、日ユ同祖論で喜んでは行けません。

日ユ同祖論とは、お互い同じユダヤ人なんだから、一緒にユダヤ人の国を作りましょう。

という騙しです。

彼らは我々の様な普通の生活はしていません。

国を支配し、自分たちに都合の良い秩序をつくっているのです。

最後に、名無し先生のコメントをコピペし、今回はこのへんで失礼します。

齊王制度

齊王の行列、賀茂祭(現在の葵祭)で有名な齊王制度は、まるで花魁道中を彷彿とさせる華やかなイメージですが、ヤンゴトナキ血筋の純血種保存をめぐる大きな仕組みが裏側には存在していました。鎌倉時代までで消え去ったかのように、表向き言われておりますが、その後も形を変え引き継がれております。

齊王制度には斎宮と齊院がありますが、より古くからあるのは斎宮。斎院の起りは嵯峨天皇が、都を平安京から平城京へ戻そうとした平城上皇との争いに勝利した際、賀茂大神に対しての約束から娘の有智子内親王を斎王としたのが始まりです。これと時期を同じくして、右京区太泰、木嶋坐天照御魂神社の摂社「養蚕神社」にある「元糺の森」から、下鴨神社の境内にある「糺の森」に、そこに祀られている御魂、すなわち、祭神が移動したのです。つまり秦氏の社から、賀茂氏の社に祭神が移動したという事です。三井家は「養蚕神社」の氏子ですが、三井神社は下鴨神社の摂社です。三井神社には賀茂建角身命と伊可古夜日女と玉依姫の3人が祀られています。双方の社紋は同じ「二葉葵」です。葵を家紋としていたルーツは賀茂氏、その家紋は「立ち葵」です。江戸時代には徳川四天王のひとりである本多正信が葵を家紋としていましたが、本多氏は賀茂神社の神官の一族です。

ヤンゴトナキ血筋の純血種保存に話は戻りますが、天皇が執務と居住する宮城(禁中)が在る所を都と呼びます。皇居内裏(こうきょだいり)は天皇の居住区であり妻子も同居していたが、皇室居住区に務める内裏女官(だいりにょかん)を宮中女官(きゅうちゅうにょかん)・内侍(ないし)などとも呼び、その妻・妾(側室)に関して天皇は女官も含め多妻制だったのです。

天皇の妻に関しては資格に厳格な決まりが在り、「皇后又は妃(ひ/きさき)」と呼ぶ妻の資格は「四品(しほん)以上の内親王」を妻にした場合で二名以内、平安期以降の別称に「中宮(ちゅうぐう)」があります。従三位以上の公卿の娘が配偶する場合は三名以内の「夫人(ふじん/おおとじ)」があり、従五位以上の貴族の娘であれば「嬪(ひん/みめ)」と呼ばれ、「嬪(ひん/みめ)」は平安期以降は女御(にょうご)とも呼ばれ四名以内と定められていました。その他、順次地位が下がって行くが、定員十二名の「更衣(こうい)」、定員無しの「御息所(みやすんどころ)」、定員十二名の「御匣殿(みくしげどの)」などの女官も天皇の配偶者です。いずれにしても、格(階級)さえ下げれば公式最大は三十三名プラス無限大の配偶者が天皇には認められていました。尚、呼称・「御息所(みやすんどころ)」に関しては後に意味が転じて皇太子・親王の配偶者を称するようになりました。 天皇が公の執務を司る宮城(禁中)の内側、天皇が常住し、「皇居」、「御所」などとも呼ばれる区画を「内裏(だいり)」と呼び、天皇に近侍してそこに務める女官を内侍(ないし)と呼びます。内侍(ないし)は宮城(禁中)の後宮(内裏)に在った律令制に定められた役所で、奏請、伝宣、宮中の礼式等等を掌る内侍司の女官の総称で、役職位としては「尚侍(ないしのかみ/従三位相当)」二人、「典侍(ないしのすけ/従四位相当)」二人、「掌侍(ないしのじょう/従五位相当)」四人、他に「権掌侍(ごんのないしじょう)」二人と定められていました。女官(内侍/ないし)は未婚である事が条件で、天皇の日常生活に供奉(ぐぶ)する役目で在ったが、皇后(中宮)・妃・夫人・嬪(ひん)などと呼ばれる天皇の「妾(側室)」は女官の中から選ぶしきたりが在り、「妾(側室)」に代わる存在でも在りました。つまりお定め上、内裏(だいり)の女官は寵愛の有無に関わらず最初からお召し自由の天皇の妾妻だった訳です。血統至上主義の皇統に在って止む得ない事だったのかも知れませんが、皇居内裏(こうきょだいり)は天皇独占のハーレムだった事になります。

この制度は江戸城の大奥に引き継がれて行きますが、それを確立したのは従三位・春日局を朝廷から授かった斉藤福です。全ては、官吏に於ける個人の地位を表す序列・等級を表す制度、律令制から綿々と繋がる、外来裏統治システム(純血種保存システム)による処であるという結論です。


【ビートルズのひとりぼっちのあいつ Nowhere Man / G7、G8、G20の意味】


こんにちは、今回はあのビートルズが歌った名曲 Nowhere Man の歌詞についてです。

それと、G7、G8、G20の意味を後半に書きます。


当時、ビートルズはイルミナティにコントロールされていましたが、それを皮肉った歌がこれです。

イルミナティを可哀想だといっているんですね。


Nowhere Man 

あいつはほんとのノー・ホェア・マン

誰もいない国に住み

誰の役にもたたないことを考えてる

生きてる意味がわからなく
  
どこへいくのかも知らない

まるで君とぼくみたいだ

ノー・ホェア・マン 聞いてごらん

きみは大事なことを忘れてる

世界は君の思い通りになるんだ

何もみてないようだけれど

自分の見たいものは見てる

ぼくのことも見えているかい

あせらないでもいいよ

自分流儀でやれよ

困ったら誰かに手を貸してもらえよ

ものの見方がわからなく

なにをしていいかも知らない

まるで君とぼくみたいだ

ノー・ホェア・マン 聞いてごらん

きみは大事なことを忘れてる

世界は君の思い通りになるんだ

あいつはほんとのノー・ホェア・マン

誰もいない国に住み

誰の役にもたたないことを考えてる



如何でしょうか?そう聞こえますよね?


さて、G7、G8、そしてG20になった今の世界ですが、これには壮大な仕掛けが有ります。

現在、成長中の中国、インドを始めとするG8以外の新興国があります。

これらの国々は、まあ、BRICSとか、VIPだとか名付けられているんですけど、この流れを作る勢力があります。

これは、コミュニスト=ヘッセン陣営勢力よりさらに上の存在です。

次はどの国を成長させて、世界経済を牽引させるのか決める勢力があるという訳です。

決められた国には、お金が流れ込み、設備や技術も流れ込みます。

その結果、間違いなく成長していきます。

その中で、利己的な活動を展開させ、本来の資本主義ではない、カジノ資本主義を展開する輩が出てくる訳です。

これが、コミュニスト=ヘッセン陣営です。

これが国際道徳監視勢力の目に触れた時、この国に流れ込んでいた資金が止まります。

そして、経済成長が止まります。

日本の失われた20年の理由はこれです。

つまり、日本はコミュニスト=ヘッセン陣営に犯されてしまい、ほとんどの分野において、悪がはびこっています。

以前書きました農協にしろ、マスコミにしろ、腐りきっているので、正しいお金が流れて来ないのです。

ですので、G7からG8になり、G20になったのは、G7があまりにもコミュニスト=ヘッセン陣営に犯されたので、G8になり、それもダメなので、G20になったということなのです。

残念なことですが、カラスが仕切っている日本は、信用が無くなってしまいました。

元を辿れば同じ勢力が仕切るG7もですね。

ただし、日銀総裁に黒田氏が選ばれたのは良い傾向です。

コミュニスト=ヘッセン陣営=長州派閥人事から抜け出しましたから。

ここで名無し先生に登場していただきます。

(名無し先生のコメント)

御指摘のF1品種問題を国の施策として省庁がバックアップし、その上農機具その他の共同購入、果ては農家の金融までを組織化している国があります。

それが沖縄からフィリピンに繋がる日本国です。

その為の団体が農協、そしてその上部に座すのが、食物関連全体の国際資金運用を行うヤ○ゴ○ナキ協会です。

TPPがこれらの既得権益を破壊する効果を発揮する事は皮肉な話です。

郵政民営化然り、古来から日本に根付いたヤ○ゴ○ナキ渡来人ゆかりの者達が独占する数々の既得権益を破壊する施策が進んでいます。

米国の押しつけ、官僚の陰謀とだけ言いきれない、TPPの別の面も見るようにした方が良いのではないでしょうか?

米国南北戦争の原因は、工業系生産業の発展に基づく欧州との離別、奴隷解放を唱えた北部と、奴隷農業、親英国(東インド会社)を唱えた南部の対立であった訳で、軍産複合体と金融マフィアだけが支配する国ではありません。

南軍の大将によって計画された陰謀は、その後のコミュニスト活動を組織だった悪魔的な物にした為、米国全体に悪いイメージがありますが、この活動を裏から操った集団は、欧州におり、フィリピンにも古くから宗教的に部隊を送り込んでいます。

日本には更に昔よりヤ○ゴ○ナキ身分として君臨しており、エネルギー、武器、食物の3分野に分け、奉公衆が国際資金運用を行っているのです。

この奉公衆の間でも表向きには語られぬ、裏の資金運用部隊まで存在します。

F1品種問題はそれらの氷山の一角にすぎません。

(名無し先生、ありがとうございました)

ということで、TPPがヤ○ゴ○ナキ支配を破壊する可能性もあるということです。

失われた20年が終わり、成長路線に復活するには、今までの産業では無理ですね?

実は日本では違うエネルギーを台頭させるということが決まっています。

その記事を紹介させていただき、今回は失礼します。


「第3の矢」の隠し玉 燃料電池車のインフラ進展
http://kabu.nsjournal.jp/rensai/7605.html


期待外れといわれているアベノミクス「第3の矢」だが、その中で既に着々と作業が進んでいるのがFCV(燃料電池車)の実用化だ。既に、規制緩和に向けた作業とインフラ作りが行われている。

安倍政権が出した「日本再興計画」には、地味ながら次のくだりがある。

「2015年の燃料電池自動車の市場投入に向けて、燃料電池自動車や水素インフラに係る規制を見直すとともに、水素ステーションの整備を支援することにより、世界最速の普及を目指す」。

次世代自動車と称されるエコカーにはEV(電気自動車)やクリーンディーゼル、プラグインハイブリッド車などがある。その中でFCVは、長距離走行できないEVとは違い、走行能力はガソリン車と同レベルで、CO2は一切出ない。究極のエコカーといわれる。日本では1990年代に試作車が披露されているが、水素供給インフラ――つまりガソリンスタンドならぬ水素スタンド整備のめどが立たず、開発が遅れ、HV(ハイブリッド車)やEVに実用化で先を越された。

そこで政府は今回、2015年までに水素スタンドを全国に100カ所つくる方針を打ち出した。そのための補助金制度(燃料電池自動車用水素供給設備設置補助事業)も立ち上げ、既にJX日鉱日石サービス(JXHD/5020)や東京ガス(9531)、岩谷産業(8088)、豊田通商(8015)への交付が決まり、海老名市と名古屋市に既に水素ステーションがオープン。浦和や東京都練馬区にもできる。

水素供給ステーション設置の規制緩和作業も進んでいる。路面からの距離を緩和したり、水素製造装置や冷却装置(プレクーラー)の強化推進など、個別の取り組みが行われている。

着々と作業が進んでいるのには訳がある。実は、菅直人首相の決定が実を結んでいるのだ。

水素インフラ整備は、10年6月に閣議決定された「エネルギー基本計画」「規制・制度改革に係る対処方針」で推進が決まった。同年12月に「規制の再点検に係る工程表(15年の燃料電池車・水素ステーション普及開始に向けて、実施すべき事項)」が策定され、規制見直しが必要な16項目が示された。

その後、首相交代や政権交代を経て今年3月、経産省が工程表のフォローアップを実施。それを追いかける形で、規制改革会議のワーキンググループが4月に水素インフラ整備を取り上げ、第3の矢のメニューに盛り込まれたが、意外にも民主党政権の置き土産なのだ。




【トンデモ本を出版する人達はヘッセン陣営の手下】


こんにちは、今回は以前、誤解して主張していた意見の訂正とお詫びです。

昨夜、国際道徳監視派(International Morality Surveillance)の方と3時間近くチャットし、教えていただきました。 

私の主張で間違えているところが有る。

それは、日本の官僚の多くは、一般人が知れば驚愕してしまう様な裏のシステムを知りながらも、 なんとか、この国を回そうとしている国士=愛国者が占める割合の方が大多数である。

ということです。

以前、記事の中で官僚が悪いから日本は今のようになったと主張しました。

これが大きな勘違いだったということ。

ここでお詫びしたいと思います。

さて、田中宇という国際情勢解説者がいます。

私は以前、会員契約していました。

一ヶ月500円でした。

彼の主張は官僚が悪さをして、アメリカがいないと日本は中国に攻め込まれるというデマを流し、アメリカ軍を日本に駐留させている。中国の脅威など無いのだ、というものです。

確かに官僚が意図的にアメリカ軍を日本に駐留させ続けているかもしれません。しかし、悪意を持ってやっているという主張は間違いだということが、名無し先生のお言葉でも「戦争による利益収得は米国軍産複合体の専売特許と考えがちですが、実際には、そこに金を出す世界にいる特権階級による物で、 その中には、日本のカラスの方々が含まれるという事です。」と言っているるのです。

「日本の官僚の多くは、こうした手法も駆使しながら、この国を回そうとしている国士が占める割合の方が大多数です。官僚の肩を持つ訳ではないのですが、誤解なきように。」

個人的に田中宇氏は、意図的にミスリードしていると思っています。

フルフォード氏、副島氏、コシミズ氏、中丸氏、等々、本を出すくらい有名な専門家と称する人達は、真実を歪曲させ、ヘッセン陣営お得意の、人に罪をなすり付ける役者さん達、もしくは、洗脳され、本当にそうだと信じている信者達なのです。

そうでなければ、とっくの昔にヘッセン陣営(カラス)に殺されています。

講演会まで開き、ネットでも無数の動画を流し、それが真実であれば生きているハズが無いのです。

東日本大地震はアメリカ・ロック爺ちゃんが起こしたというウソを流し、本当の犯人から目を逸らさせる。

911もロック爺ちゃんのせいにして、真犯人は絶対に書かない。

今に始まった話ではありません。

広島・長崎の原爆は、戦争中であったことを良い事に、アメリカの仕業にしたのです。

犯人は国じゃないんですよ、国をまたいだショッカーみたいな組織なのです。

それも一つではないのです。

名無し先生はこうもおっしゃられます。

もし次の世界大戦が起きる処まで、彼らが世界を誘導したならば、 日本は「ネオ満州国」を作り、イスラエルの民と協調し「ネオふぐ計画」を推し進める派閥と、 米国モンロー主義派閥(北軍派閥)と組んで、日本国内の国体を守る派閥に分裂するでしょう。

①天皇家と共に新イスラエルを作る派閥
②米国モンロー主義と共に日本を守る派閥

夢も希望も無いネット、書籍で溢れかえったこの世界に、一筋の光が差し込んだようなコメントでした。

②の、米国モンロー主義と共に日本を守る派閥

これが光です。

日本は千年以上①の、天皇家と共に新イスラエルを作る派閥に支配されて来たのです。

取り戻しましょう、と書けば、「何を取り戻すの?」みたいな、悲観的なコメントをいただきます。

そこまで落胆的になっている人が大勢です。

でも、彼らの手口を知ればなんてことありませんよ、ただの自作自演と擦り付けです。

具体的に書くとサイトが閉鎖になりますので、書けませんが、基本、自作自演です。

大本とか、アセンションとか、一切信じないでください。

大本では、最終的には体を持たない存在になるとか、アセンションサイトもそんな事言ってますが、これって、死んで幽霊になれってことじゃないっすか?

マヤカレンダー騒動の結末を見れば分かりますよね、自作自演をしようとしただけなんです。

それが311であり、それ以上は何もできなかったんです。

それで2012年12月21日が過ぎちゃって、今度は次の騒動を持ち出してくるのね。

北朝鮮もそれで、北朝鮮の背後にいて、徹底した反米主義を叩き込んでいます。

黒住教、金光教、天理教、大本教といったヘッセンとはまるで関係ない様な存在も実は密接に繋がっています。

いま心配なのは、安倍政権は北軍派と思い込み、知らずにヘッセン派の策に乗ってしまうのでは?ということ。

安倍さんのFaceBookに「ヘッセン派に気をつけてください」と100回書き込もうかな・・・

それでは


スクリーンショット 2013-06-27 15.15.00










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世界の情報を交えながら、自己組織集団(自給自足集合体)の時代について考えてゆきます。

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