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野球選手の剛腕奪った手投げ弾 遠投、肩むしばむ(1/2ページ)

2008年8月14日

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 野球人は模範を示せ――。太平洋戦争のさなか、召集された野球選手は硬球より数倍重い手投げ弾の遠投を強制されていた。その影響で肩を壊し、投手生命を絶たれた選手もいる。敗戦から63年。甲子園の熱戦に、「手投げ弾競争」の体験者らは「存分に野球ができる幸せを感じてほしい」と願う。

 「復員後の彼の球は高校球児よりはるかに遅かった」。1941年夏ごろ、阪急軍のプロ野球選手だったさいたま市浦和区の小田野柏(かしわ)さん(91)は、巨人軍の故・沢村栄治投手と再戦の機会を得た。4年前の初対戦はかすりもせずに3球三振。それまで見たことのない豪速球だった。「今度は打つ」と燃えた。

 だが、横手投げから打撃練習の投手のように打ちやすい球が来る。「何だ、これ」。拍子抜けした。後で仲間から「手投げ弾を投げすぎて肩が上がらないらしい」と聞いた。思い当たる節があった。

 小田野さんは31年夏、岩手・福岡中(現福岡高)の外野手として甲子園出場。その後、実業団に進んで投手になった。阪急に入団した38年秋、召集令状が来て弘前騎兵第8連隊に入隊。匍匐(ほふく)前進などのほか、月に3回ほど手投げ弾を投げる訓練があった。

 隊員約300人の中でプロ選手は1人だけ。師団長が検閲に来た際、名指しされて「投てきの模範を示せ」と命令されたという。

 手投げ弾は350ミリリットル缶ほどの大きさで、硬球(約150グラム)の約3倍の重さ。ピンを口で抜いてから6秒後に爆発すると言われ、「1、2、3」と数えた後に投げるよう教えられた。40〜50メートルが一般的な距離だった。

 「こんな重いもん投げたら肩が壊れる」。7割の力で60メートルほど投げた。周囲から物足りない顔をされたが、気にしなかった。それでも投げた後は肩の筋肉が伸びたようになり、痛みが残った。

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