論点:ヘイトスピーチ規制
毎日新聞 2013年11月01日 東京朝刊
ヘイトスピーチのような差別的表現に対する法規制の可否は、ヨーロッパやアメリカなど各国で長年、議論されてきた。規制に積極的なのはドイツだ。第二次大戦中に起きたホロコースト(ユダヤ人大虐殺)の反省から人種差別的な発言は禁じられ、「ホロコーストはなかった」と発言するだけで処罰される。
一方、消極的だったのはアメリカだ。マーチン・ルーサー・キング牧師らによる公民権運動は、行進や集会といった表現の自由の獲得と、差別の克服が一体となって進められた。だが、今はそのアメリカでもヘイトスピーチ規制を巡る議論が続いている。国際的には法規制への流れが進んでいると言えるだろう。
日本では作家の筒井康隆さんが1993年に出版社による「差別語」の自主規制に反発して断筆宣言したことなどがあった。だが、他国に比べれば人種差別が社会的問題になっていないためか、表現と差別の問題が十分に議論されてきたとは言えないだろう。憲法学者の間でも意見が分かれているのが現状だ。
そもそも、表現とは誰かを傷つける可能性があるものだ。誰に対し、どこでなされるかによって性質も変わる。オープンな場で意見を表明した場合は、政治的表現となる可能性もある。規制すべきかを論じるうえで、まず重要なのは、民主主義の視点から表現の価値を考えることだ。
人種や民族、性別などを理由とした集団に対する差別表現は、何の責任もない被差別者の尊厳を傷つける。こうしたものに、表現として守るべき価値がどれほどあるだろうか。表現には表現で対抗すべきだという意見もあるが、有効な反論ができるかは疑問だ。相手が怖くて反論できないこともあるだろう。社会に差別構造があれば反論をまともに聞き入れてもらえない。
私は在日韓国・朝鮮人の学生とも接しているが、何気ない表現にも落ち込む姿を目にすることがある。ましてヘイトスピーチは相手を意図的に傷つけるものだ。一方的に標的にされる側はたまらない。そうなると、選択肢として規制もあり得るように思える。