WiLL 11月1日(金)14時51分配信
競争をあまりせず、そして好まず、親に保護された環境のなかでコミュニケーションスキルだけは割と磨く時間を得るので、必然的に友達が多い。インターネットは活用するが、LINEやFacebookといったツール系のSNSが主で、そこから何かを得ようという考え方はない。
「2ちゃんねる」を見たり書き込んだりするという発想もない。生来の余裕からか、人を疑ったり非難することを生理的に嫌う。論争や討論も好まない。いくら北朝鮮や韓国や中国が「極悪」と訴えたところで、それは彼らを悪く言うお前のほうが信用できない、という結論になる。
思想が左だから、リベラルだからというわけではなく、単純に他者を批判したり批評したりという思考の訓練をしなくても生きていける余裕のある環境で生まれ育ったのだ。
だから彼らが本当に惹かれたのは、山本や三宅の脱原発の頓狂な部分ではなく、憲法や若者を肯定する闘争性のない、表面上は実にファッショナブルで温和な部分だったりする。彼らは、何かを無条件に肯定してくれるものが好きだ。人を押しのけたり、人と競争して成り上がる必要のない人間にとって、あらゆる非難や批判は嫌悪の対象にしかならない。
よって、「憲法改正」とか「戦後レジュームからの脱却」といった主張はこの連中にとって何か良くないものに思える。何かを改変したり、壊すというイメージ自体、彼らにとってはヘイトや悪に通じるのである。
原発については、すでに何かを壊している存在としての嫌悪が大きいのであろう。友人や子供を放射能の恐怖から守りたい、という彼らの心理は、実は護憲思想の回路と一脈通じている。
そういったある種の、この国のアッパークラスの子弟がこぞって「政治」という単語を引用するときは、たとえば自民党や日本維新の会ではなく、「山本太郎」や「三宅洋平」と言う。平日の夜からクラブに踊りに行き、スターバックスでコーヒーを飲むのと同じ感覚で男女交際をこなし、特段の貧困や屈辱も感じたこともないような人種が、山本の言葉に傾倒していく。三宅の朗読する憲法九条に、何の抵抗もなく感激する。
最終更新:11月1日(金)14時51分