「グローバル人材の教育」に関して、思うことを書いておきます。
グローバル人材を国費で教育する?
大学改革の一つの方向性として「グローバル人材の教育」がトピックスになっているそうで。
グローバル人材育成の具体策や課題を議論する大学改革シンポジウム「成長戦略におけるグローバル人材の育成」(日本経済新聞社主催)が2日、東京・千代田の日経ホールで開かれ、学生や大学・企業関係者ら約600人が参加した。
名古屋外国語大の亀山郁夫学長は基調講演で、国際社会の中で日本の存在感が低下している現状を説明した上で「英語力も問題だが、グローバル人材にはコミュニケーション力、教養力が求められている」と、大学の果たす役割を強調した。
「グローバル人材」は「セレブ」「ノマド」に近い、多義的な解釈が可能な論争キーワードですが、この記事のなかでは「日本以外の国でも十分に仕事ができる人材」とでもしておきましょう。これはそれほど違和感のない、最大公約数的な定義だと思います。
大学にかぎらず、国費が割かれるかたちで「グローバル人材」、すなわち「日本以外の国でも十分に仕事ができる人材」の教育が行われることについては、個人的に違和感があります。だって、そういう「グローバル人材」は、要するに「日本を捨てることができてしまう人たち」ですから。
実際、ぼくの周りでは優秀なグローバル人材ほど、「脱・日本」を志向する流れが観察できます。というかグローバル人材という言葉には、「脱・日本」という文脈がすでに含まれているので、当たり前といえば当たり前です。
彼らはこう語ります。起業するなシンガポールが熱い。オレはニューヨークでチャレンジしたい。ベトナムでのんびり暮らしたい。日本は居心地が悪いので、愛着はあるけど、外の国の方が好きだ。
彼らは間違いなくグローバル人材です。「来月からシンガポールで働いて下さい」と言われても「はい、わかりました(ヤッター)」と素直に頷ける人たちです。
問題は、優秀なグローバル人材たる彼らは「日本を捨てる」ことが容易であることです。彼らのスキルや知識はポータブルなので、世界のどこに行っても通用します。だとしたら、日本が危なくなったとき、ここに留まる意味はありません。
さて、こういう人材を、国費で育てることって、どこか矛盾していやしないでしょうか。日本のために教育しているのに、肝心の彼らは日本を捨てて飛び立ってしまう。日本という土地単位で見れば、優秀な人材が飛び立ち、空洞化していくことになります。
世界で通用する人材を育てるよりも、同じ国費を割くのなら、「地域を盛上げることができる人材」を育成した方が、よっぽど日本のためになると考えます。こういう人材は、日本を捨てることは少ないでしょう。
もっとも、国費を割いてグローバル人材を育成する目的が「日本という土地に依存する人を極力減らしていくこと」だとするのなら、幾分理屈はわかります。若者よ、どんどん日本を捨てて飛び立て、日本という国は、もう君たちが依存できるような場所ではないんだ、と。
しかし、そうした態度は「日本に依存せざるを得ない人たちは、どうやっても存在する」という厳然たる事実に目を背けている、と批判することができます。「日本という土地に依存する人を極力減らしていくこと」を目的とする「グローバル教育」は、結局、誰にも頼ることができない弱者の存在を際立たせていくに留まるでしょう。
さて、みなさんは税金を使ってグローバル人材を教育することについて、どのような見解をお持ちですか?ぜひコメント欄などで教えてください。