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中村敦夫が語る、“木枯し紋次郎の時代”とは

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「ストーリーも音楽もカメラワークも、すべてが新しいチャレンジだった」

Kogarashi_itv_121972年1月1日――32歳の無名の役者が無名の男を演じて、時代のヒーローとなった。男の名は木枯し紋次郎、役者の名は中村敦夫。「監督(市川崑)も俳優もスタッフも、金儲けの為にやってたんじゃないんだ。良い物を作ろうと命がけだったよ」。69歳となった中村敦夫さんが、“木枯し紋次郎の時代”とは何だったのかを、静かに語る。

オープニング・シーンの撮影に3か月
現場はずっと竹やぶの中でした

中村敦夫「喫茶店のいちばん奥で待っていた監督は、入口から真っ直ぐ入ってくる僕を見て、その場で(役に)決めたとおっしゃいました。これが僕と“紋次郎”の出会い。決して演技力が評価されての抜擢ではなかったのですよ。また、このときすでに監督の中には作品のイメージができあがっていて、監督はそれを一つの絵画として捉えていました。そして、照明や装置、衣装といった要素で、形や色をその絵に近づけていく作業を行なっていましたね。今は予算をかけずに、いかに早く作るかという効率ばかりが重視されがちですが、当時はキャストもスタッフも、参加している人たちにとって作品は人生そのものであり、すべてでしたから、そういった手間をかけるのは当然のこと。新品の合羽に泥をかけ、石でこすってボロボロにしたり、主題歌(「だれかが風の中で」)が流れるオープニング・シーンの撮影に3か月かけたりね。撮影開始当初、オープニングの撮影で毎日、竹やぶに連れて行かれたことを、僕は今でも鮮明に覚えていますよ」

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数々の偶然が重なり、最高の連中が集まった
それが“紋次郎”ヒットの最大の要因

夜10時に就寝するのが社会的慣習だった当時、夜10時半に始まる『木枯し紋次郎』は放送開始当初、“捨て番組”だったと語る中村さん。しかし予想に反し、世間では“あっしには関わりのねぇことで”という紋次郎のキメ台詞が流行するなど、大反響を呼びました。

木枯し紋次郎「放送がスタートした1972年は、高度成長が終わり、全共闘運動が敗北。組織を信じてきた人たちは失望し、もはや団体で行動するより自分を大事にしていかなければ…という時代に変化を遂げました。そんな時代だったからこそ、他人との関わりを避け、己の腕一本で生きる紋次郎に、人々は共感し、希望を見出していたのかもしれませんね。

しかし、僕自身はヒットの最大の理由を“偶然”だと考えているのですよ。そもそも笹沢佐保さんがこの小説を書いたことに始まり、市川監督がメガホンをとったこと、そしてたまたま選ばれたのが僕だったこと、さらには、撮影の途中で大映が倒産したことで、当時一流の映画スタッフも集まってきた。主題歌を含め、いろいろなパートで最高の連中が偶然集まって、それまでにない、新しいものを作り上げたのです。僕は、どんな人にも決定的な偶然があると考えていて、自分の場合はそれが『木枯し紋次郎』との出会いだったわけですよ。後の俳優人生はもちろん、小説家、司会者、政治家になるまで、その人気が僕を後押ししてくれましたから、結果的にはこの作品が、僕の運命を決めたのだと思っています」

そんな『木枯し紋次郎』がハイビジョン映像として新しく生まれ変わることに――。 「これまでにもDVD化された昔の作品はありましたが、遠い記憶を甦らせるものにすぎませんでした。しかしこのハイビジョン化された『木枯し紋次郎』は、まるで今作ったばっかりという印象でしたね。私は、自分の出演作を見てもらうことは、お客さんとの対決だと思っているので、今は、甦った『木枯し紋次郎』で、再びお客さんと対決する気分ですね」

中村敦夫さんのいうように、『木枯し紋次郎』は、単に偶然と幸運の重なりが生んだのかもしれません。しかし、いくつもの偶然が重なって生まれた映画や歌に、ある時代の空気や人々の思いが重なったとき、不滅の作品が生まれるのです。『木枯し紋次郎』と”紋次郎の時代”とは、そんな幸福な出会いのひとつだったのではないでしょうか。そしてあなたも、ハイビジョン映像として甦った『木枯し紋次郎』の中で、あの時代のあなた自身に出会うことができるのかもしれません。

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[プロフィール]

中村敦夫

中村敦夫(なかむら・あつお)昭和15年、東京都豊島区生まれ。東京外国語大学在学中に演劇に興味を持ち、劇団俳優座に入団。以後演劇の道へ。32歳の時、フジテレビ系列『木枯し紋次郎』で主演を務め、一躍スターになる。その後は作家・キャスター・政治家としても多方面で活躍。現在は、俳優業のほか、著述、講演活動などを行なう。

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コメント

木枯紋次郎、その底を流れるヒューマニズムが
忘れられません。
役と俳優が正に融合した傑作の極みです。

投稿: 吉野昌孝 | 2009年9月27日 15時24分

木枯紋次郎、その底を流れるヒューマニズムが
忘れられません。
役と俳優が正に融合した傑作の極みです。

投稿: 吉野昌孝 | 2009年9月27日 15時25分

お写真ではありますが、お元気そうなお姿を拝見でき嬉しく思いました。「どんな人にでも決定的な偶然がある」素晴らしい言葉だなと思いました。ある情熱を持っていたからこそ、その偶然を引き寄せることができたのだとも思いました。「情熱」私の中村敦夫さんの印象はまさにそれです。熱く流れる情熱をいつも感じさせていただいていました。先日、久しぶりに作、演出をなさった「RATS」のビデオを見ました。色あせずに痛烈に心が揺さぶられました。5歳の息子を抱えながら青柳蛍として役者を続けています。私にもいつか偶然がくるように熱く情熱を持って生きていこうと思います。お姿拝見できて嬉しかったです。今後のご活躍心から楽しみにしております。

投稿: ほりぐちようこ | 2009年10月 1日 22時49分

偶然が重なると、それは「奇跡」になり得ると思います。

この作品は、すべてが出会うべくして出会った奇跡だと思います。

リアルタイムで観られたことも「奇跡]だと思っていますし、この作品を知っているということはラッキーだと思います。

生き方、映像美、哲学……すべての答えがここにあるように思います。

投稿: お夕 | 2011年1月20日 23時31分

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