井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その18
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〈九江憲兵隊長植木鎮雄について(1941年)〉
このころの九江憲兵隊長は植木鎮雄中佐(福岡県出身。陸士十七期)であった。中佐はすばらしく優秀な頭脳の持ち主で、英語、ドイツ語など数ヵ国語をあやつることができた。明治二十一年生まれということだから当時もう五十代なかばであるにもかかわらず、若々しく真っ黒な髪をしていた。それもそのはず、中佐は白髪頭では死んだとき恥だ、と髪の毛を染めていたのである。いつももの静かな人で、部下の部屋にはいるときには、口グセのように「ご無礼」と言葉をかけた。また、特別の場合をのぞいてつねに軍服を身につけ、柄(つか)がしらに金色の菊の紋章が輝く恩賜(おんし)の軍刀を腰におびていた。
話の合間にしばしば「東条君が」「板垣君が」という言葉が出てくるので、きいてみると東条英機大将や板垣征四郎大将とは陸軍大学の同期生とのことだった。同期生の人たちが中将、大将になっているのに、恩賜の軍刀をおびる逸材がいつまでも一憲兵中佐であまんじているのはすこし不思議に思われたが、うわさによれば軍首脳の派閥争いに巻きこまれて中佐のころ現役を追われ、その後満州国警務庁長をしていたらしい。ところが戦争が大きくなり人材が必要となったので、東条大将の要請でふたたび現役に復帰したのだということだった。また、中佐は戦争不拡大論者で、一日も早く中国戦線を終結せねばと持論のようにいっていた。このころ、軍中央で英米との開戦を準備していることを知り、国の前途を憂い方針を変えるようにと、昭和十六年九月ごろから週に一度は必ず東条大将に忠告の手紙を出していた。
日常もの静かな人ではあったが、性格はじつに磊落(らいらく)で、機密保持に任じる憲兵としてはどうかと思われることを、平然と口にした。のちにボルネオ方面へ派遣された第十野戦軍憲兵を九江埠頭から送り出したさいなどには、見送りに集まった在留邦人たちを前に堂々と転勤先をあかし、近いうちにまた送り出すのでそのときにもよろしく、と挨拶した。中佐の言葉によれば、この程度のことは決して隠し通せるものではないし、機密に属するほどのことではないのだという。バカバカしいほど些細なことにもったいをつけて機密、機密と騒ぐ私たちとは人間のスケールがちがうことを思い知らされずにはいられなかった。
昭和十六年も十一月にはいると日米開戦不可避のうわさが流れ、東条大将に対して発送する中佐の手紙はますますぶ厚くなった。これらの手紙は当時軍事郵便物の検関係をしていた私の手を通じて発送されていたのだが、一度も返事が来なかったところから推して、この血涙をしばった忠告も完全に無視されていたものと思われる。(中略)
そして八日早朝、ついに運命の″新高山のぼれ″の暗号文がはいり、中佐が心配しつづけていた米、英との戦争状態に突入した。いつも多忙な中佐は新聞の全面に目を通す時間をおしみ、私に下見をさせ必要個所に赤線を引かせていた。この朝も例によって隊長室へ新聞を届けにいくと、中佐は沈痛なおももちで私に話しかけてきた。
「とうとうはじまってしまいましたね。これで日本も終わりだろう、残念なことです。結果は知れているが、はじまった以上なんとか勝つための努力はしなくてはならんでしょう」
若いころ大使館付武官として、また軍制研究員として欧米諸国に六年間も駐在したという植木中佐は、彼らの国力がどの程度のものか知りすぎるほど知りつくしていたのだろう。(174-175頁)
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