冷戦下 米は日本の核保有に否定的10月30日 19時21分
東西冷戦の緊張が高まっていた昭和41年、日米両政府の高官が会談した際、アメリカ側が日本の核兵器の保有について、アメリカの核抑止力と重複することになり不経済だなどとして、否定的な考えを伝えていたことが分かりました。
外務省が30日公開した外交文書によりますと、昭和41年11月に、当時のニューヨーク総領事でのちに外務省の事務次官を務めた東郷文彦氏と、アメリカ国防総省で東アジアを担当していたステッドマン次官補代理がワシントンで非公式に会談しました。
この中でステッドマン氏は、日本の核兵器の保有について「日本が独自の核戦力を持つことはもちろん可能であり、日本自身が決めるべき問題であるが、どんなに努力してみても米ソなどに比べて独立の抑止力と言えるだけの域には到底達せず、米国の核抑止力と重複して不経済なものとなるであろうことは明らかだ」と述べています。
そのうえでステッドマン氏は「日本が核開発に大きな資源を振り向けるくらいなら、同額を対外援助に使用したほうが、安全保障の見地からもはるかに有効だ」と述べ、日本が核兵器を持つことに否定的な考えを伝えました。
ステッドマン氏の発言は東郷氏の質問に答えたもので、東郷氏の発言はこの文書には記されていません。
昭和41年当時は、ベトナム戦争のさなかの東西冷戦の緊張が高まっていた時期で、2年前には中国が核実験を行い、アジアで初めての核保有国になることが日本にとって安全保障上の新たな脅威となっていました。
当時の佐藤総理大臣は翌年の昭和42年に、「非核三原則」を宣言しましたが、これが定着するまでの間、日本政府が核兵器保有の是非について検討を進めていたことを示す資料も見つかっています。
日米外交史が専門の日本大学の信夫隆司教授は「当時の日本にとっていちばん脅威だったのは、中国が核実験に成功したことであり、外務省の人たちも何らかの形で対応しなければならないということを考えていたのではないか。経済力をつけた日本が核を持たないのかという疑問もあり、東郷氏は率直にその疑問をぶつけてみたのではないかと思う」と話しています。
昭和41年は、ベトナム戦争のさなかで、東西冷戦の緊張が高まっていた時期でした。
アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4か国がすでに核兵器を保有していたほか、2年前には、中国が核実験を行い、アジアで初めての核保有国になることが、日本にとって安全保障上の新たな脅威となっていました。
一方、高度経済成長を続けていた日本はエネルギー需要をまかなうため、発電を目的とした原子力技術の開発を進め、ちょうどこの年に、国内で初めてとなる商業用の原子力発電所が運転を始めました。
また、昭和30年代から使用済み核燃料を再処理して、プルトニウムを再利用する「核燃料サイクル」を導入する計画も進めていました。
プルトニウムは核兵器の原料に転用できるため、日本が核兵器を製造することも技術的には可能になると指摘されてきました。
当時の佐藤総理大臣はこの翌年の昭和42年に、核兵器を「持たず、作らず、持ち込ませず」という「非核三原則」を宣言しましたが、これが定着するまでの間、日本政府が核兵器保有の是非について検討を進めていたことを示す資料も見つかっています。
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