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皇室全般画像掲示板
1930年(昭和5年)1年2ヶ月の新婚旅行をかねた欧米周遊中の高松宮両殿下一行
1年2ヶ月の親善旅行?とても費用が掛かったでしょうね。お洋服は行く先々で追加で調達されてたのかしら。
まぁ、喜久子妃殿下、着道楽の方だったの?もっとも1年2ヶ月という長期間の旅行で、一般人とは違い、皇族としての権威を保つ必要もあったでしょうから、欧州でのドレス調達は必然だったのでしょうね。妃殿下の急な注文に答えねばならなかった外務省職員とお店の人が少しお気の毒。
高松宮宣仁親王殿下と喜久子妃殿下は昭和五年(一九三〇)二月四日に成婚式をあげ、その約二ヵ月後の四月一二日「天皇の名代 高松宮両殿下」として横浜港より日本郵船鹿島丸に乗船し、イギリス、スペインへの公式訪問を含めた、欧米二四力国一四ヶ月間(四一七日)の大旅行に出発した。 昭和四年五月英国皇帝第三皇子グロスター公が英国皇帝陛下から天皇陛下へのガーター勲章贈呈のために来日した。その答礼使として差遣されたのが昭和天皇弟宮の高松宮殿下であった。
あら? ID:k.0LTZFAさんが解説を書いて下さってたのに、削除されてしまったわ。私のほかの書き込みが気に食わなかったのかしらね?
日本を出発の後、四二日間に渡る長い航海を経て、昭和五年(一九三〇)六月二日にマルセイユに到着、ここからパリに向かい、ホテル・ド・クリヨンを宿泊本拠地に各日エリーゼ宮、ルーブル博物館、ノートルダム寺院、ベルサイユ宮殿などを見物した。この間にイギリスから松平信子駐英大使夫人が来仏、英王室のしきたりなどを教授した。 同年六月二五日英国へ到着した高松宮同妃両殿下は、翌二六日に英国皇帝皇后へ天皇陛下の御沙汰を伝え、今回の訪問の最も重要な儀式を終えた。 その後ヨーロッパ諸国訪問、=月三日からのスペイン公式訪問、さらに昭和六年四月アメリカ、カナダへ向い、五月二八日秩父丸に乗船し、ハワイを経由し帰国の途につき、再び日本に戻ったのは昭和六年(一九三一)六月=日であった。
失礼。投稿し直している最中だったのですね。変なこと書いてごめんなさい。
この公式訪問の旅費経費は『高松宮日記』によれば宮内省二〇万円、高松宮家一〇万円の計三〇万円であった。旅程は宮内省、外務省が作成し、現地でのホテル、鉄道、車両手配などは「トマス・クック」社が行ったという。 この支度金以外に喜久子妃殿下が外遊中に衣装を発注する費用として、高松宮家で二二、一七〇円が用意された。 喜久子妃殿下外遊用のドレスなどに関する記述を以下資料、参考文献からみてみる。
渡欧の際に随行した侍女山木たけの日記をもとに書かれた『高松宮同妃両殿下のグランド・ハネムーン』によれば、「(昭和四年)=月六日徳川邸でドレスのフィッティングが始まった。婚礼用のフォーマルドレスと旅行用のドレスが中心で、「日本橋三越」「松屋」から縫製係が参上した。貞明皇后に任命された大使夫人らがアドバイスをし、下着、毛皮、帽子、手袋、靴などは、当時、欧米の最先端ファッションが注文できた横浜の元町と弁天通りの専門店、帝国ホテルで開かれた洋装内覧会などから揃えたようだ。ジュエリi類のオーダー先としては銀座「ミキモト」の名が日記に出てくる。」とある。『高松宮日記』にも高松宮正装その他のものを「三越」へ注文、との記事がある。 日本で各種服装を取り揃え、前述のとおり高松宮同妃両殿下は昭和五年五月二一日、横浜港から出航した。同年六月二日にマルセイユに到着、その翌日にパリに入った。この最初のパリ到着から翌年三月一八日の最後のパリ出立まで、両殿下はパリを拠点にヨーロッパ各地を訪問した。この間、パリなどでいくつかのドレスを誹えたと思われる。
表1は昭和一〇年(一九三五)六月=日に高松宮家より出版された外遊の公式記録『高松宮同妃両殿下御外遊日誌』より抽出した服装、買い物についての記事である。1930 6 5 パリ午前御服装に関する御用にてホテルに在らせらる1930 6 23 パリ英国御訪問の御準備として、御服の御試着御買物等の事あり1930 6 24 パリ妃殿下は御買物の為落合御用取扱を従へて御先に御帰途1930 7 16 パリ午後は両殿下御買物1930 7 23 パリ午後両殿下家具其の他の御買物1930 8 2 ヴリュッセル此の地の名産たるレース其の他の御買物に御成1930 8 8 御買物1931 3 6 パリ午後御買物1931 3 9 パリ午後2時より両殿下御買物1931 3 13 パリ午前も午後も両殿下御別々に御買物
喜久子妃殿下自身もその著書『菊と葵のものがたり』において、ドレスについて言及している。(中略)宮様がパリから母あてにお出しになった御手紙が出て来 た。私のことを面白おかしく、からかい半分お書きになった御手紙なので、ここに引用して置こう。「その後、御元気の御様子で結構に存じます。 こちらも皆丈夫すぎるこの模様なら一年無事に帰れそうですが、 先の事はどうもわかり兼ねます。 (中略) 寝つきは悪うございますが丶 朝はほっとけば何時までもろたり、 それで自動車に乗れば、 景色も凸凹道もありません。 尤もスイスは仏国も道路はよろしずぎて、 あまりドスンバタンしません。 パリはやはりお買物の都らしく、それが唯一 のお楽しみのようですが、 できれば日曜が度々あるとよいと考えます。 どの店も日曜日は閉まってしまいますから。 新しいおべベ が出来てくるのをお待ちかねで、 スイスの景色などちっとも目にとまらなかったのではないかと思います。 (注・私の主な衣装はパリで仮縫いし、 ロンドンで本縫いさせていた) (後略) 六月二二日 パリにて 宣仁」
外交官であり、 外交評論家として著名な加瀬俊一 は外遊の時に外務官補としてベルリンに赴任しており、 喜久子妃殿下よりドレスの買物を頼まれたという。 そのときの回想によれば妃殿下はベルリンでもドレ スの御買物をしている。「妃殿下はウンターデンリンデンの高級ブライツクの前で足を止め、「ちょ っとここに入るわ」 「これが気に入ったわ」 「ちょっと直してくれる、 パリで着たい」 と。 時間はもういくらも残ってない。 店主とけんか腰で 「カネに糸目はつけない」 と交渉して、 汽車が発車するまでに仕立て直させる約束を取り付けたものの、 心配で。 「駄目だったらどうしょう」 って。 翌日、 何はともあれ駆けつけたら、 できてる。 いよいよ発車まであと何時間ていう時に、 それを抱えて、 ステーションに行きますとね、 各国の大使がね、 大勢きているんですよ。」
で、 私は殿下がお買い上げになったイフニングドレ スの箱を小脇に抱えて、「ごめんくだい、 ごめんください」 ってかきわけて。 両殿下の乗ってらっしゃる車両に飛び乗って、「妃殿下、やーっと間に合わせました」 って。そしたら妃殿下、 にこっとお笑いになってね、 殿下のほうはなんで騒いでいるんだって顔をしてらっしゃる。」このように、 長い外遊の間、 日本で跳えた洋服を持っていく以外にも現地で各種洋服を誹えたり、 買い求めていたことが確認できる。
高松宮殿下は男色でいらしたのですよね。喜久子妃殿下は着道楽?なんて思ってしまったけれど、長い旅行の間、買い物で気を紛らわせていらっしゃった可能性もあるのかしら…。私の邪推かな。高松宮家は有栖川宮家の祭祀を引継ぎましたから、周囲から特にお子様を待望されていたのではないかしら。
当時学習院を卒業したばかりの19歳だから、まだ子どもっぽい感じだったのでは?無邪気な顔に見えます。
確かに、少しあどけない表情をされていますね。高松宮殿下もお若いわ。
戦前の宮家はお金持ちだったから自分で衣装代も出せたんですね。
>高松宮殿下は男色でいらしたのですよね。日記に同級生との何かを書き残していらっしゃいますが、バイ寄りでしょう・・・・。あのチンケな皇太子でさえ、学習院時代には同級生のお相手♂がいましたよ。皇太子のタチ、巨根はその世界では有名な話。なあ学習院時代は清らかだったので、それなりに。今は入れさせてくれる男もいないでしょう。
バイ寄りなら喜久子さまにお子様を授けてくだされば良かったのに。一緒に海軍同窓会に行って、「野郎づきあいでお忙しく私はお邪魔」とおっしゃってた喜久子さまが不憫。
>高松宮殿下は男色でいらしたのですよね。喜久子妃殿下は着道楽?なんて思ってしまったけれど、長い旅行の間、買い物で気を紛らわせていらっしゃった可能性もあるのかしら…。私の邪推かな。妃殿下は一度も妊娠されていないのであの噂は本当の事かも・・・秩父宮妃は流産されたとどこかに書いてありましたが?常陸宮さまの所も今のように不妊治療が進んでいたらお子さまが授かっていたかもと思います。
秩父宮妃殿下は一度妊娠されましたが、残念ながら出産には至りませんでした。その後、秩父宮殿下が結核を患われたので、お子様が得られなかったのだと思います。