泣き止もうと、必死になって落ち着こうとしているぼくを、ギイも横から手伝ってくれる。ラルゴのテンポで、布団の上から軽くたたく。たったそれだけのことが、ぼくにはどんな子守歌より効果的だった。 「弱点にしかなれないね……」 最後の滴がつうっと枕に染み込み、ようやく落ち着きを取り戻したぼくは、悔しさをそっと言葉にしてみた。 「それ以上に元気の素だろう?」 「なにもできないよ」 「託生、忘れたのか?」 守りたいと思うのは身の程知らずだろうから、せめて負担にはなりたくないんだ。ずっとギイと一緒にいたいから。……でも……なんだろう、この既視感。答えをぼくは知っているような気がする……。 見えない螺旋階段の裏側に隠れている。追い掛けてもくるりと逃げてしまう答えは、確かにぼくの中にある。ずっとずっと深いところで、心が覚えている。 「また忘れちまったのか?」 どうしても思い出せずに、焦れて揺れた視線の先に困ったように微笑むギイを見つけ、ぼくは無意識のうちに手を延ばしていた。 柔らかな茶色の髪に指が触れると、近づけた気がするのに……だめだ、まだ足りない。 「ほらな、考えられないんだろう? 熱のせいだよ。元気なときにわかんなきゃ、ぶん殴っているところだけどな」 物騒なことをさらりと口にして、ギイはくすりと笑った。 「おまえ、具合が悪いとき、きまって忘れっぽくなるんだよな。これって、癖みたいなものか」 ぼくの手のひらにそっとくちづけると、ギイは延ばした腕の内側をたどってぼくへと身を屈めてくれた。 「……ただの癖だよ、な」 近づいてくれる。それだけで心が暖かくなる。祝福の光を降らせながら、天使が舞い降りてきたみたいだ。 「託生、焦らなくていい。ゆっくりわかればいいんだ。オレはずっと側にいるから。……待っているから」 ふれあった唇がそっとささやく。ちいさな優しいキスの数だけ、ぼくは一歩ずつ答えに近づいていく気がする。 「……前にもなかった? こんなこと」 こんなふうに教えてくれたこと。 「さあな」 「ギイ」 「思い出してみるか?」 宥めるようなキスが次第に深くなっていく。舌先を触れ合わせたまま僅かに浮かせて、ぼくがその隙に大きく息を吸うと、次には肺に送り込まれた空気が続く限り長く、ギイがぼくを覆いつくす。 「ん……っ」 何度も繰り返される丹念なキスに、甘い声がこぼれる。 と、ぼくの首筋に移動しかけていたギイの動きがぴたりと止まった。 「やべ」 「え?」 「……託生は熱があるんだ」 訝しむぼくの耳元で、ギイが呻くようにつぶやく。 「ギイ?」 「体力だって落ちている。無理をしていい状態じゃない」 ギイ、それぼくに? それとも自分自身にいってる? 擦り寄るように頬をあわせていたギイは、やがて名残惜しそうに溜め息をついて身体を起こした。 「こうなると思ったんだよな。だから、この話はおまえが治ってからにしようっていったんだ」 ぱさりと前髪をかき上げながらぶつぶつ言うギイに、悪いと思いながらぼくは笑ってしまった。自然に笑っていた。さっきふれあった肌の暖かさが、心の奥深くに染み込んでくるのを感じていた。 「こら、笑ってないでさっさと寝ろ」 憮然と言うギイの瞳が、ぼくの笑顔を映してやさしく細められた。不思議だね、それだけで心が軽くなる。 「いいよ、ギイ。ね?」 「誘うなよ、病人が」 ちょっとしたイタズラ心で、肩を布団でしっかりとくるんでくれるギイの手の甲に唇を押しあてる。つられて頬に添えられかけた手を慌てて離し、ギイは困ったように眉を寄せた。 「託生、駄目だって。治ってからにしよう」 「やだ、今がいい」 「たくみー」 情けなくうろたえるギイなんて初めてで、ぼくはくすくす笑いながらいつもなら絶対に言わない誘い文句を口にする。 「おまえ、これって拷問に近いぞ」 「……いや?」 ふと不安になったのは演技じゃない。まだ安定していない心の揺れは、僅かな不安をふくらませる。 ギイはそれに気がついているのか、いないのか、ふいにぼくをきつく抱きしめた。ぼくが落ち着いて、再びからかう気になるまで。それから慌てて引きはがす。このタイミングのよさがギイなんだよな。 「そうじゃなくて、……なあ、困らせるなよ」 そうでもしないと抑えがきかなくなるのか、ギイはぼくから一定の距離を保って決してそれ以上近くによってこようとはしなかった。 そうだね、安心できたのは肌をあわせていたからだけじゃない。現に、今だってぼくはとてもゆったりとした気分でいられる。そこにギイがいるから、それだけで十分なんだ。 「おまえ、病人だろうが。タチ悪いぞ、いつも抵抗してくるくせに。そういうことはな、どうせなら健康体のときにいうもんなんだぜ。このオレをからかおうなんて十年早いんだ。本当なら手加減してやらないところだが」 くどくどと続けるのは、気を紛らわすためだ。しきりと前髪をかきあげ、ぼくを見ながら視線がうろうろと落ち着かない。 そこまで我慢しなくても……ねえ、ギイ? からかうためだけに言ったんじゃないのに。 もっとギイを感じたかったんだよ。 熱にうかされた勢いのまま、正直にそう言ってみようか。 決心するために一度ゆっくりと目を閉じると、そのまま瞬きに捕まってしまった。 「……とりあえず、早くよくなって、おい、そのときになって拒んだりするなよ、今いったことは全部保留に…ておく……らな……」 ギイの声がだんだん遠くなっていく。 ――ああ、そうだ。ぼくは知っている。 あの呼び出しがきっかけになったぼくの迷いも、焦りも、ちらりと垣間見た別人のように非情なギイの一面も、すべての答えはたったひとつのことに帰りつく。 次に目が覚めたときには、きっと思い出している。だから、ぼくは安心して眠っていいんだ。 「たくみ、……ねむったのか?」 ふと声を落としたギイの台詞が耳にやさしい。懐かしいオルゴールのように、安心だけを与えてくれる。 ふわりと暖かな眠りに入りかけると、額にそっとギイの唇が触れる。 「ゆっくりおやすみ」 かがみこんでくるギイから溢れるほどのぬくもりを感じて、ぼくは夢の中で微笑んだ。 「……愛してるんだからな。忘れてんじゃねーぞ、コラ」 あ……! これ、だ。すべての答えが帰りつく先。 愛されている、から。ギイに。 これが愛されるってことだと、教えてくれた。ギイだけが教えてくれた。交換条件を数えるなと。数えなくていいのだと。 あ、あのね、ギイ、忘れていたわけじゃないんだよ? 愛されている自覚はあるんだ。ただ、どこからどこまで、なんて境界線のない想いにぼくはまだ慣れなくて。だから、ときどき迷うだけで。自信をなくしてしまうだけ、で。 まってまって、わかったって、ひとことだけギイに伝えてから。ちゃんとわかってるよって、ギイに。 そう思うのに、睡魔は容赦なくぼくを引きずり込んでいく。 あああ、きっと薄情な恋人だとかなんとか、熱が下がってしまえばギイは厭味たっぷりに言うんだろうなあ。とりあえず、朝一番に先手を打って謝ることにしよう、うん。 それまで、もう、わすれないように……しな…きゃ……。 まだ幸福に慣れなくて。 どうして今があるのか不思議で、どうして君が側にいてくれるのかが不思議なほど幸せで。 ただ愛しくて愛しくて、自分の想いだけがこの恋だと勘違いしてしまう。ふたりで作る恋だってこと、ときどき忘れてしまうぼくだけど。 眠りに引きずられて滑り落ちる先には、手を広げて迎えるビロードのようなやさしい闇。 扉を開くたったひとつの鍵は、とうにぼくの手のひらにある。それを握り締めて、今は眠ろう。元気になるため。 君と、ぼくのために。ただ眠ろう。
… E N D …
|