校区の由緒ある風景や歴史ある町並みをご紹介します。
場所 | 画像資料 | 説明 |
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小田の橋 |
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外宮と内宮を結ぶ参宮道で、外宮から歩くと勢田川にかかる小田の橋が今一般的にいう古市街道の起点。 江戸時代までは本橋の横に小橋(仮屋橋)がかかっていた。 橋の欄干には、江戸時代の大奥で権力を誇っていた春日局が寛永18年(1641)に神宮参拝のみぎり寄進したという青銅の擬宝珠を載せていた。 |
間の山 |
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小田の橋を渡ると野間万金丹舗があり、さらに行ったところにあった藤屋という旅館に(尾上町のバス停あたり)東海道中膝栗毛の主人公弥次喜多が泊まったと言います。 さらに行くと登り坂となる。この坂を間の山といい、外宮と内宮の両宮の間という意味を含んでいる。 登り始めの左側に、昔三味線や胡弓をかき鳴らし、旅人に投銭を乞うことで有名だった女芸人「お杉、お玉」の碑が建っている。 このあたりは、江戸時代以降、参宮客に対応した茶屋・旅館が多く、芝居小屋も見られ、一大歓楽街として知られていた。 |
野間万金丹 |
万金丹(まんきんたん、萬金丹とも書く)とは丸薬の総称で、胃痛、腹痛、解毒、気つけ、そのほかの諸症状に効く便利な薬のこと。 その万金丹は古くから伊勢でもさかんに製造販売されていた。 伊勢の万金丹は江戸時代に伊勢神宮おかげ参りがさかんなころ、伊勢みやげの代表的なものとして喜ばれた。 明治維新によって西洋医学が登場するまで、伊勢の万金丹は全国の家庭や旅の常備薬としてもてはやされた。 当時の伊勢には、小西万金丹、野間万金丹、山原万金丹、岩城万金丹などがあった。現在でも小西と野間の両万金丹が営業を続けている。 |
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備前屋の跡地 |
間の山を登り切ると「古市」で、ここら辺りから長峰と呼ばれていた。 左に曲がると昔は常明寺門前町といい妓楼が立ち並んでいた。 更に進むと駐車場の中に碑が1本建っている。 ここが、古市の中でもっとも早くから、そして衰えが顕著になりだした大正期まで、妓労楼の代表格として名をはせた備前屋。 伊勢音頭の踊りを寛延年間に始めたのも、迫り上げの舞台を寛政6年に考え出したのもこの備前屋だった。 |
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大琳寺のお紺・斎の比翼塚 | 備前屋の跡地を少し歩くと右側に大琳寺入口の道標が建っている。 大琳寺に入ると伊勢音頭恋寝刃のモデルとなった青年医師孫福斎と油屋お紺の塚がある。 お紺の墓は文政12年(1829)四代目板東彦三郎が貢役で上演し、好評を得たので建てた。 孫福斎の墓は、昭和4年(1929)実川延若が発起人となって建てられた。 | |
油屋跡・油屋騒動 |
油屋は大林寺の左隣、今は近鉄鳥羽線のため切り開かれてしまっているあたりで、当時は古市3大妓楼の1つだった。 部屋持ち遊女24人、部屋を持たない二流処遊女24人、仲居10人で女性の総数は72人だったといわれる。 事件があったのは、寛政8年(1796)5月4日のこと、宇治浦田町の医師 孫福斎(まご ふく いつき)は、 油屋で馴染みのお紺(20歳の時)を相手に酒を飲んでいたが、途中、お紺が伊予の商人らに座敷に呼ばれて中座し、 なかなか戻ってこないので、斎は業を煮やし、遂に荒れ狂って、即死2名、負傷者7名、合わせて9人斬りの殺傷事件をひきおこした。 いったん油屋から逃げたが、逃げ切れないのをさとって、同月14日、宇治浦田町の藤波長官の邸で自刃した。享年27歳だった。 お紺は33歳で亡くなっている。 |
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伊勢音頭恋の寝刃(いせおんどこいのねたば) |
油屋騒動から33年後に上演された。 伊勢の御師(下級の神官)福岡貢は、旧主今田萬次郎の探している青江下坂の刀を手に入れるが、折り紙(鑑定書)が手に入らない。 貢の恋人油屋の遊女お紺は、その折紙を手に入れるために徳島岩次という客に身を任せ貢に愛想尽かしをする。 これは、貢が探し求めていた刀の折り紙を、悪人の徳島岩次から取り上げる方便で、後に誤解はとけるという筋書き。 そうとは知らない貢は、満座のなかで女たちに辱められたことに逆上し仲居万野をはじめ大勢を斬る。 騒動を聞いて駆けつけたお紺と料理人喜助の働きで無事に刀と折り紙が手に入る。 四幕七場の世話物で序幕が相の山、宿屋、追っかけ、二見ヶ浦、二幕目が大々講、三幕目が油屋と奥庭、四幕目がお峯の家。 ★初演〔寛政八(1796)年七月〕 ★作者〔大坂角の芝居。近松(ちかまつ)徳三(とくぞう)作〕 |
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長峰神社 |
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近鉄の陸橋を渡ると左側に天鈿女命(あめのうずめのみこと)を祭神とする長峰神社がある。 ここは江戸時代、古市の中心街であり、土地の人たちの産土神(うぶすなかみ)として深い信仰を集めて、「うずのめさん」と呼ばれている。 この神社の主祭神は天岩戸の前で舞を踊ったとされる天鈿女命で、お神楽の祖、芸能の祖神とされ、伊勢音頭や古市歌舞伎の護り神とされてきた。 現在でも、芸道の守護神として、女優や俳優などがお参りに訪れる。 |
麻吉旅館 |
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麻吉旅館の前の道は、御岩世古と呼ばれ朝熊岳道、二見への近道だった。 麻吉旅館は、古市の中でも唯一昔をしのぶ宿屋だ。 断崖建といって巧みに断崖を利用して五階建になっている。 創業は嘉永4年(1852)になっているが、それ以前の天明年間の(1781〜1788)の地図にも載っている。 幕末頃に創業した花月楼という茶屋であったが、明治・大正期には芸妓30人を抱え、伊勢音頭の舞台を持つ料理屋として賑わった店だ。 |
寂(じゃく)照(しょう)寺と画僧月僊(げっせん)(1741〜1809) |
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寂照寺は延宝5年(1677)に徳川秀忠の長女・千姫(徳川家康の孫)の遺言により位牌遺品を安置するために建立された知恩院の末寺だ。 無檀家であったために経済的に苦しく、寺の維持が難しかった。 安永3年(1774)僧月僊が入山し、絵を描き報酬を貰いながら、収入は自分のものとせずに寺の再建や貧民の救済充当した。 明治14年(1881)火災に遭い、山門と経堂が消失を免れ経堂は県の文化財に指定、聖観音像、江戸期の一切経月僊筆の仏涅槃図、富士図等は市の文化財に指定されている。 月僊は寛保元年(1741)名古屋の出身、7歳で仏門に入ったが、その頃から絵を好み、江戸では桜井雪館に、京都では円山応挙に指導を受けたと伝えられている。 安永 3年 (1774)、34歳の時に伊勢・寂照寺の住職として知恩院から派遣され、自らの画料を資金源として、衰えていた寂照寺再興に着手するとともに、窮民救済に乗り出した。 月僊は伽藍整備を果たしただけではなく、合わせて2千両にのぼる大金を山田奉行に寄託して、社会福祉活動に大きな貢献をした。 |
伊勢古市参宮街道資料館 |
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伊勢自動車道開通にともない、付近の家が立ち退くことになった家にあった貴重な遺産を保存しようと町の声が上がり、平成7年10月に開設された。 木造二階建ての伝統的な造りを再現している。 展示品は古市妓楼の伊勢音頭図(杉本屋・油屋)、扇子(杉本屋・備前屋・油屋)等の妓楼の諸道具、古文書、古市歌舞伎の台本・衣装・道具類、万金丹の製薬諸道具・看板、参宮絵図、浮世絵、ビデオ等古市の歴史的、文化的な遺産が展示されている。 |
桜木地蔵(桜木町) |
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桜の大樹の基に鎮座されていた事から桜木地蔵と名付けられたと言われている。 世の人びとを守る霊験と子育て、病気よけの妙徳も聞こえるこの地蔵尊は古来より多くの人の信仰を集めている。 また、山田奉行を勤めた大岡越前守忠相もこの地蔵を訪れ江戸奉行に出世したという伝えから出世地蔵とも呼ばれている。 近年は武蔵川部屋の力士が毎年訪れることでも知られている。 地蔵さんの縁日である毎月24日には、格子が取られて直に地蔵さんが拝める。桜木地蔵祭りは6月24日で、催しなどもあり賑わう。 |
牛谷坂の常夜燈(桜木町) |
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常夜燈脇の標柱には「奉献両宮常夜燈 大正三年二月二十七日建 油屋旅館」と刻まれている。 牛谷坂の上に位置し、夜間の参宮人を監視するために灯した。 江戸時代、お伊勢参りの旅人で賑わった街道の面影を今に残している。 |
牛谷坂 |
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牛谷という名は、この付近に牛鬼という怪物がいたという牛鬼伝説「枕返し物語」の由来による。 かつての参宮路は、ここより手前の「月夜見への道」の案内にそって左に曲がった。 この牛谷坂は、延宝2年(1674)内宮長官の藤原氏富が、山田奉行桑山丹後の守貞政の許可を受け、数百両の私財を投じて改修した。 参拝者は、内宮への近道となるこの牛谷坂を利用するようになった。 しかし、この当時の道は、今のようなまっすぐな坂道ではなかった。 元禄10年(1805)古市の妓楼「千束(ちづか)屋」の主人りと(当時65歳)は、山田奉行の許可を得て、千両余りを投げ出して本格的な改修工事を行った。 これが現在の牛谷坂である。 |
牛谷伝説「枕返し物語」 |
中村の里にいた内宮禰宜、園田将監は、畑を荒らし回る鹿や猪から野菜や麦を守ろうと、下男を見張番に出した。 夜、下男が寝ていると、突然枕をひっくり返すものがいる。 目を覚ますと、「蛇女」が立っていて、「近くの牛鬼に夫と子どもを食われたので、どうか退治してほしい」と頼む。 それを聞いた将監が、見事に退治したという話。 ―中川ただもと著「伊勢の文学と歴史の散歩」より― |
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千束(ちづか)屋 山田りと |
当時の数ある古市の遊郭の中で、屈指の妓楼が千束屋だった。 この千束屋の女主人「りと」は、晩年になって、外宮長官言彦の話を聞き、突然遊郭を廃業し、貸衣装屋に転じた。 妓女を解放し、今まで築き上げてきた財産を、牛谷坂改修のために、おしげもなく投げ出した。 文化2年(1805)の秋に開始された工事は、よく3年の春、無事に完成した。 この功績によって、りとは苗字帯刀を許され、以後「山田りと」と名乗った。 文政11年(1828)に88歳でこの世を去った。 |
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黒門 |
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昔の牛谷坂には、間の山の「お杉・お玉」と同様な女芸人がいた。 「お鶴・お市」といって、参拝客からの投げ銭を巧みなバチさばきで身をかわし銭を稼いでいた。 坂を下りきると、明治維新頃まで黒門を構え、番所を設けて罪人等の通行を取り締まっていた。 滝倉川に架かる橋を黒門橋といいその名残となっている。 ここで古市参宮街道の終わりとなる。 |
隠(かくれが)丘(おか)遺跡 |
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隠岡と呼ばれるようになったのは、倭姫命がこの地で石隠れされたと言われたからだ。 昭和58年市営住宅建築の為、事前調査として約2300平方メートルを発掘調査した結果、当遺跡から主要な生活の跡の弥生時代後期のむらの跡と、平安時代の建築群が発見された。 弥生時代後期の竪穴住宅22棟、出土品として壺、甕、高杯、斧などが出土し、平安時代の建築群として棟方向を揃えた掘立柱建物6棟、総柱建物3棟などの遺構及び、緑釉陶器、土師器、須恵器、志摩式製塩土器などが出土した。 これらのことから平安時代には建物群であったと言われる。 |
倭姫命(やまとひめ)の御陵 |
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倭姫命は天照大神を今の内宮に祭られた方。この方の御陵(みささぎ:貴い人のお墓)と伝えられる。 場所は御幸道路を伊勢市街から内宮に向かって右手,古市街道からは倭町から通称美人坂を下ったところ。 宮内庁の所管で柵が建っている。柵から覗くと木々に囲まれ小高い塚(倭姫のお墓と伝えられる)が見える。 近くに縄文期から平安時代に至る隠ヶ丘遺跡もあり,このあたり古くから人の住んだところと思われる。 また、倭姫命の陵から道を挟んで隠岡遺跡を見るとほぼ同じ高さであり、昔はつながっていたものが道を作るときに削られたと思われる。 |
神宮徴古館 |
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倉田山公園内に明治42年に建てられた。 伊勢神宮関係資料を中心に、歴史資料および現代美術品を展示・収蔵する美術博物館で片山東熊・高山幸次郎の設計。 創立は、財団法人「神苑会」で、明治44年に神宮に献納された。 倉田山神苑会記念碑(明治44年12月施工)が倉田山神苑の南端に建っている。 |
神宮農業館 |
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外宮が農業の神として信仰が深く、農業の参宮客も盛んであったため、農業の啓発と発展に寄与する目的で建てられた。 農業・林業・水産業等の標本や資料を展示し、天照・豊受両大神の神徳を仰ぐ場としている。 明治24年外宮神苑前に建築され、同38年に移転建築された。 建物は徴古館と同じ片山東熊の設計による数少ない木造建築で、平等院の鳳凰堂をイメージする和洋折衷を取り入れている。 平成8年の復元にあたり、もと巡回形だったのを凹形に縮小した。 建物は徴古館同様に国の登録有形文化財。 |
神宮美術館 |
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平成5年(1993)の第61回神宮式年遷宮を記念して、同年の10月に創設された。 神宮美術館で収蔵,展示している作品は、文化勲章受賞者・文化功労者・日本芸術院会員・重要無形文化財保持者の、当代を代表する美術・工芸家から神宮に献納されたもの。 |
葉山大夫邸門(現、徴古館・農業館門) |
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今の慶友病院辺りに建っていた。 |
倭姫宮 |
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倭姫命(やまとひめのみこと)は天照大神を今の内宮に祭られた方。 大神御鎮座の地を求めて大和,伊賀,近江,美濃と長い旅路の末伊勢に定められた。 その恩徳に感謝すべく、命の神霊を祀った皇太神宮10番目の最新の別宮だ。 明治12年11月5日後鎮座祭が行なわれた。 倭姫命をここ伊勢の地にお祭り申し上げたいとの気運が起こり,太田小三郎氏をはじめ人々の尽力により大正12年11月5日(1922)倭姫宮に鎮座された。 |
日蓮上人の誓の井戸 |
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倭姫命御陵から御幸道路に出てしばらく歩くと、右側に「日蓮聖人の誓の井戸」がある。 約500坪の用地正面には信者の寄進による大宝塔が建てられている。その南東に石積の枠に守られた井戸がある。 日蓮は貞応元年(1222)2月16日、安房の小湊の漁師の家に生まれた。 12歳で天台宗の清澄寺に預けられ出家し、その後鎌倉に出て浄土宗の教義、のちに比叡山に登り天台教義を学んだ。 その後12年間遍歴の旅を続け建長5年(1253)伊勢に来て常明寺で参籠し境内の井戸で潔斎をした。 「我、日本の柱にならん」、「我、日本の眼目とならん」、「我、日本の大船とならん」との三大誓願を皇大神宮に誓願した。 この年、日蓮宗は立教開宗されたと言われている。 |
神宮文庫・歌舞伎衣装博物館 |
御幸道路から、かつての御師、福島御塩焼大夫邸の門をくぐり坂道を上ると、神宮文庫がある。 伊勢神宮の数多くの古典類を保存し、未来に伝えるこの文庫は、古くからの内宮・外宮の文庫・学問所等を継承して明治39年に設立された。 宇治から移転し、倉田山の新文庫が完成したのは大正14年。 |
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福島御塩焼大夫邸門(神宮文庫正門) |
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福島御塩焼大夫は、外宮の御師で、近世山田の自治組織である三方会合の三方家(山田の行政権を握った24家の1つ)となっていた。 肥後・豊後両国を主に大和・和泉・紀伊・伊勢・美濃・豊前・東京の一部に檀家を持つ大御師だった。 邸宅はもと八日市場町の参宮街道沿いに面していた。 この門は建坪8.6平方メートル・高さ7.4mの薬医門型式で、安永9年(1780)の建築。昭和11年に献納移築され、神宮文庫の正門となり、「黒門」と愛唱されている市指定文化財。 黒門の向かい側には、道しるべ「古市へ」が建っている。 |
太田小三郎君紀功碑(神苑会設立者 昭和9年11月)と大巌芳逸(神苑会理事 昭和9年4月)大巌布芳逸(神苑会理事 大正9年4月) |
太田小三郎は古市の備前屋の当主に見込まれ養子に入った。 神苑の整備、徴古館・御木本道路造成を通して、江戸時代から明治時代の伊勢の経済を再興した。 |
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大五輪五輪塔 大五輪遺跡 |
大五輪五輪塔は、総高340cm無銘、室町時代〜江戸時代初期のもの。 本塔の造立については諸説がある。 延徳元年(1489)ごろの宇治山田合戦の際の、山田方の戦死者の合同慰霊塔ではないだろうかといわれている。 古塔では三重県下最大と言われる。 大五輪遺跡は古墳時代初期のもの。 |
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御幸道路(御成街道)と大鳥居 |
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外宮から内宮前に至る参宮道で、県道伊勢松阪線の一部である。 延長5.283km幅14.5m。明治以降、神宮周辺の整備が進められ、その一環として、明治40年9月より同43年3月にわたって完成した。 昭和の大戦以前は、東京日本橋から宇治橋までを国道1号線と呼んでいた。 歩道には、桜・楓・楠が御木本幸吉の寄付によって植えられている。 昭和8年に舗装され、同28年第59回式年遷宮を記念して、全国の敬神家により石灯籠が寄贈された。 黒門の前には、御木本幸吉の寄進を記す石碑が建っている。 |
大鳥居 |
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今まで伊勢市駅前にあった鳥居(故松下幸之助氏が昭和31年に寄贈された鉄筋コンクリート製の大鳥居)は県道鳥羽松阪線の拡幅整備事業により昭和63年に撤去された。 その後、大鳥居建設検討委員会を設置し、再建の話が上がった。 それを新聞報道で知った多度町勢濃工業株式会社伊藤源一社長が寄贈し、現在の場所に平成5年完成した。 高さ22.7m 幅 19.0m 太さ2.00m 笠木30.7m 材質銅製 重量63トン 総工費3億3千万円といわれる。 |