うちの娘、そろそろ1歳になります。初めての子育てというのは流石に新鮮で、色々な感慨に溢れています。
子どもは勝手に育っていく
特に新鮮だったのは、子どもの成長というものは親がコントロールできるものではない、という厳然たる事実。父親という立場というのもあるのでしょうけれど、「育てる」というよりは「勝手に育つ」というのが、実感に近いです。
うちの娘はそろそろことばを理解するようになりつつあるのですが、「ことばを理解する」という能力を、親として教えた記憶はまったくありません。
最近ヨチヨチと歩くようになったのですが、「歩く」というスキルを、手取り足取り教えたことはありません。
すっかり獲得した笑う、怒る、寂しがるといった「感情」もまた、いつの間にか彼女が身につけたものです。感情は日々複雑になっているので、そのうち「慈しみ」「愛着」なんてものが見えてくるのでしょう。
親として、子どもの「育ち方」をコントロールできると思い込むのは、傲慢もよいところです。本当に。ぼくらができることは、せいぜい「勝手に育っていくのを見守る」程度の仕事です。
子の成長における親の仕事というのは、「植木鉢に長い棒を差し込み、朝顔の蔓がなるべくまっすぐ伸びるようにサポートする」という比喩がふさわしいです。
そんなことを思っていたら、書籍「赤ちゃんと脳科学」に興味深い指摘がありました。
お茶の水女子大学学長の本田和子さんは、20世紀の子ども観を次のように述べています。
「かつて、子どもとは「授かる」ものであり、身ごもった女性たちは神仏からの授かりものとして、自身に宿った生命の神秘に畏怖した。しかし、いま、若い女性たちの意識に、子どもは「作られる」ものとして位置づいている」。
(中略)同時に、子どもは「育つ」ものではなく、「育てる」ものとみなされるようになりました。
「妊活」なんてことばが流布するあたり、子どもの誕生すらも「自分でコントロールするもの」になっている気がします。ぼくも含めて、「授かる」という身体感覚で子の誕生を実感している人は、かなり少なくなっていそうです。
「誕生」の時点でコントロールできると思い込んでしまえば、「成長」の過程においても、コントロールできるという思い込みは持続する危険があります。
それは言い換えれば、「子どもを適切に成長させるのは、親の責任である」と信じ込む態度です。核家族化、経済の低迷によって子育て環境が悪化しているなかで、こうした過剰な有責感を抱いてしまうのは、けっこう危険な気がします。そもそも何をもって「適切な成長」であるのかについて、正しい答えを出せる親なんてほとんどいないでしょうし。
確固たる事実として、親は子どもの成長をすべてコントロールできないのです。それは、あなた自身の成長を思い返してみれば、即座に理解できる話でしょう。
子どもの成長をコントロールできると思い込むのではなく、「子どもは勝手に育つものだ」くらいに構えて向き合うのが、結局自分のためにも、子どものためにもなるでしょう。ぼくは、そのくらいゆるくやっていきたいと考えています。