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大川周明

「一種のコメディーだ」

 1964年5月3日、敗戦の翌年に東京・市谷に急ごしらえされた法廷で、極東国際軍事裁判が開始された。旧陸軍省の講堂を改造したのであった。被告は、数百人のなかからいわゆるA級戦犯容疑者として起訴された28人であった。陸海軍、政財界、そして右翼的指導者たちが巣鴨プリズンに拘置されたのだが、右翼的指導者のなかでA級戦犯容疑者として裁かれることになったのは大川周明1人だけであった。それは大東亜戦争のイデオローグとしての大川の影響力のずば抜けた大きさに、占領軍が注目したためであった。

 大川周明は1886(明治19)年12月6日山形県酒田市に生まれた。東大卒業後、翻訳のアルバイトなどをしていたが、神田の古書店で買った1冊の書、イギリスのヘンリー・コットンが書いた“新インド”を読んで、英国の植民地として悲惨な状況にあるインドを知り、インドを含めて白人たちに植民地にされているアジアの国々を独立させることが彼の生涯のテーマになった。

 東京裁判で、まずオーストラリアのウェッブ裁判長が開廷の辞を述べ、次いで起訴状の朗読に移ったところで法廷に異変が起きた。

 被告席の大川周明が、突然自分の前の席に座っていた東條英機元首相のハゲ頭を手でピシャリと叩き、東條のつけていたメモをひったくって、もう一度叩いたのである。この日の大川は、水色のパジャマに下駄ばきという異様な風体で出廷し、起訴状朗読の最中も鼻水をたらしたまま合掌したり、パジャマのボタンをはずして胸をはだけたり、常人とは思えぬ行動をとっていた。満場の目は大川に注がれていた。そうしたなかでの狂態であった。厳粛な法廷を乱すこの行為に、ウェッブ裁判長はたまらず休廷を宣言した。すると大川はこれに抗議するかのように、退廷する裁判官に向かって、「一種のコメディーだ。みんな引き揚げろ」と奇声を上げた。

 そして翌日、開会冒頭に、大川は精神鑑定を要するとして退廷を命じられたのだが、「インド人は来たれ、ほかは去れ」とドイツ語で叫んで憲兵によって外に連れ出された(この部分、松本健一『大川周明』、佐藤優『日米開戦の真実』より)。

 松本健一が同書で、大川と同じく巣鴨プリズンに拘束されていた児玉誉士夫の日記『運命の門』を次のように引用している。

「(昭和21年)4月28日 晴

 1階で気の狂ったものが出たらしい。誰れだろうと思っていたら、今日運動場で、それが大川周明氏だとわかった。A級の某氏が廊下で松井石根氏に会って『あなたと同室の大川さんは気が狂ったそうだが』ときくと、松井さんは、黙って苦笑しただけで、何も言わなかったそうだ。A級のある人が、

 大川氏ほどの人物が、気が狂ったとはほんとうの話だろうか、どうも合点がいかん!

 と、自分にきくから、

 天才と狂人は紙1枚の差というが、あの人は天才だから、その1枚の紙が破れたか、穴があいたかしたのだろう。

 と答えた。しかし、なんとなく淋しい話である。

 5月4日 晴

 2、3日前、誰れかが、大川周明博士は頭がすっかり駄目になって、変なことばかりわめきちらしている、と言っていたが、今日の新聞をみると法廷でとうとう妙なことをやってしまったらしい。厳粛な法廷で東条さんの頭をピシャリと叩いたなどというのはどうみてもナンセンスだ。これには世間も驚いたことだろうし、家族の人が見ていたらどんな気持がしたことだろうと思う。(中略)

 5月5日 夕方小雨

 運動場で、昨夜の市ケ谷法廷に行ってきた人達の話をきくと、大川周明博士が、帰りの自動車の中で皆んなに、

 おい、今日の中食は新橋の新喜楽に席が用意してある。天皇ももう行っているから皆んなで一緒に行こう。金はこれが払うんだ。

 といって畑(俊六)元帥の肩をたたいたそうである。そして、

 今日から俺は米軍の少将になったから、ハーデー所長より偉いんだ。だから、今後刑務所では俺の言うことをきけ。

 と命令を発したという。天皇と一緒に新喜楽で飯を食おうとは、流石に狂っても大川氏だけある、と誰やら妙な感心をしていたが、何となく痛々しい話である」

 さらに、松本健一は、同じく巣鴨プリズンに収容されていた笹川良一の証言を引用している。笹川の場合は児玉と違って自らの体験を述べているのである。

「僕が使役に従事して廊下の掃除をやっていると、居房の中からしきりに大川君が僕を呼ぶのである。手を休めて大川君の方を見ると、彼は頭に帽子をかぶり、小さな手さげ鞄をぶら下げて立っている。何んの真似をしているのかと思って、

『何だい?』

 と聞くと、

『笹川君、戸を開けてくれ』

 と言う。

『戸を開ける? だって僕は鍵がないよ、一体どうする積りなんだ』

 更に聞きかえすと、

『僕は帰るんだ、帰るから戸を開けてくれよ』

 真面目くさって言うのである。

『冗談じゃないよ。ここは君、獄中だぜ。戸を開けて欲しかったら番兵に言えよ』

 僕は大川君にからかわれておると思って腹が立った。そのまま相手にせずにさっさと再び廊下の掃除にとりかかったが、彼が番兵を呼ぶ大きな声がしている。その内、番兵がやって来ると、

『僕は帰るから戸を開けろ』

 と言っている。いたずらも少し程度がすぎるわいと思いつつ、別に気にも止めないで掃除を続けた。

 処が、その晩から大きな声で観音経を読み始めた」

 こうした出来事、証言などから判断すると、大川はこの時期にたしかに心身に異常を来していたといえそうだ。

乱暴で一方的な決め付け

 それにしても、学者であり、昭和の戦争について何の権限ももっていなかった大川周明が、なぜA級戦犯の被告人として極東軍事裁判の法廷に立たされたのであろうか。

 佐藤優は、大川が極東軍事裁判でA級戦犯容疑者として起訴されたのは、「ナチス・ドイツの戦争犯罪を裁いたニュルンベルク裁判で、ナチズムの理論家アルフレッド・ローゼンベルク博士が逮捕、起訴され、絞首刑になったことを踏まえ、日本でもファシズムあるいは人種主義理論の思想家を引っ張り出さなくてはバランスがよくないという必要に迫られた」のではないかと『日米開戦の真実』で強調している。

 なお、ローゼンベルクは、エストニアのレヴァルの生まれで、国家社会主義の熱心な支持者であり、1920年にナチス党に入党してナチスの機関紙の編集を担当した。一時は同党の外交政策を指揮し、ナチスの文化、政治面の教育政策を担当した。またナチスの極右主義を説き東欧で実践した。

 アメリカが大川をどれほど危険視していたかは、1946年3月21日にヘルム検察官が極東軍事裁判被告人選定委員会に提出した報告書に示されている。

「この人物が日本を世界征服の道へ押し進めるために、全生涯を捧げたことは極めて明白である。彼の行動はすべて、白人のアジアからの追放と、日本によるアジアの征服をめざしており、全世界を天皇の支配下に置こうとするものであった。

 そのために、彼は扇動的な書物を出版し、講演で変革を訴え、超国家主義的右翼団体を結成した。侵略的膨張運動を押し進める権力者のやり方に飽き足りず、彼が3回、多分4回も政府転覆の陰謀を企てたことは、証拠に明らかである。陸軍が合法的独立国家の中国から満州を奪取できるように、満州事変の陰謀をめぐらし計画したことについても、明白な証拠がある。こうして、彼は侵略と膨張の長い長い血なまぐさい旅路を歩み始め、それは英米その他の同盟国との大東亜戦争で頂点に達したのである。

 彼は最後の瞬間までこの戦争を望まず、1940年に、日本がもっと準備を整える時まで戦争を引き延ばそうと努力したが、この事実は彼にとって有利に働くものではない。というのは、1941年(注:実際は1942年)に彼は『米英東亜侵略史』と題する本を出版しており、それはイギリスとアメリカに戦争の責任があるとし、日本の侵略を防衛であるとした学問的試みであったからである。次いで、1943年には、彼は『大東亜秩序建設』を刊行した。これは事実上、東条のあらゆる計画を容認し、彼が大東亜で実行し、実行しようと望んだすべてを唱えている。こうした関係から、この人物、つまり大川博士は、1938年から1945年までスパイ学校を直接経営し、そこで日本政府のために、アジア中に配置されるスパイの訓練を行っていたと想像される。

 哲学博士・法学博士の大川周明ほど邪悪な人物を思い起こすことは難しい。東条とその国際的無法者の一団が舞台に現れるはるかに以前から、大川博士は不本意な世界に対して、日本がメシア的使命を果たすべきであるという邪悪な決意を抱き、血なまぐさいクーデターに日夜奔走したのである」(『国際検察局尋問調書』第23巻)

 アメリカだけでなく、ソ連も大川を侵略国日本の主要なイデオローグであると位置付けた。

「大川の犯罪行為の規模は正当に評価されていた。彼は被告席の第2列目、第1号戦犯東条の真後ろの席をあてがわれていた。

 20年代から30年代初頭にかけて、大川周明は、すでに述べたように、南満州鉄道株式会社総裁であった(注:これは大きな誤認であって、大川は満鉄東亜経済調査局理事長であった)。検察団は、日本独占資本の代理人としての彼が、張作霖暗殺と満州占領をもたらした1931年のいわゆる影の仕掛人にほかならないことについての証拠を所有していた。第2次世界大戦に先行する時代のアジア大陸における日本のこの最初の侵略行為に大川の果たした役割はこのようなものであった」(スミルノーフ/ザイツェフ『東京裁判』)

 スミルノーフは、極東軍事裁判のソ連検事団のメンバーで、その後、ソ連最高裁判所長官を務めている。

 この回想録を引用した佐藤優は「法曹界の重鎮が書いた書物の割には乱暴な内容だ」と記している。だが、アメリカのヘルム検察官にしてもスミルノーフにしても、大川を邪悪な侵略のイデオローグと決め付けて罰するには、このような乱暴で一方的な決め付けが必要だったのであろう。

 それにしても、アメリカ、イギリスの逆鱗に触れ、大川を邪悪な侵略のイデオローグと決め付ける切り札となった『米英東亜侵略史』とは、どのような内容の論文なのか。

敵、東より来たれば東条

 じつはこの論文は、大東亜戦争が勃発した41年(昭和16年)12月8日の6日後、12月14日から25日まで、NHKのラジオ(当時はテレビは開発されていない)で放送したものを補訂して42年1月に出版されたのである。

 大川は論文の序を「昭和16年12月8日は、世界史において永遠に記憶せらるべき吉日である」というフレーズで始めている。

 そして「そもそも欧米列強の圧力が、にわかに我が国に加わってきたのは、およそ150年前からのことであります。ちょうどこの頃から、世界は白人の世界であるという自負心が昂まり、欧米以外の世界の事物は、要するに白人の利益のために造られているという思想を抱き、いわゆる文明の利器を提げて、欧米は東洋に殺到しはじめたのであります」と概観を述べ、米英、とくに米国の日本の発展に対する妨害、阻止、つまり侵略の過程を詳細に、わかりやすく説いている。

 江戸幕府を周章狼狽させたのは1853年のペリーの来朝であった。幕府は天皇の許可を得ずに通商条約を結び、このことが幕府崩壊の引き金になるのだが、大川はペリーを非難ではなく評価している。英国が中国にアヘン戦争を仕掛けて香港を事実上奪い取ったのに比べて、ペリーは通商条約を結ぶだけという紳士的姿勢に終始したことをである。このあたりが大川の論調が扇動ではなく説得性を有しているゆえんである。

 だが、米国は太平洋戦争勃発時の大統領、フランクリン・ルーズヴェルトの伯父にあたるセオドア・ルーズヴェルト大統領時代からアジアへの侵略姿勢が顕著になった。1898年の米西戦争を好機として、フィリピン群島とグアム島を獲得した。そして1899年には、中国の門戸開放と領土保全を提唱した。

 これは一見正論に見えるが、大川は「偽の標榜だ」と断定している。米国はヨーロッパ諸国に対して中国への進出が遅れた。だからこれらの国々の勢力範囲、利益範囲を撤去させるために門戸開放を唱えたのであり、領土保全は、これから列強が中国の分割を進めるに当たって、立ち遅れた米国は分け前が少なくなるので、中国に分割を進めさせるなと味方を装うことで、婉曲的に分け前を多くすることを狙っていたのだというのである。これが米国流のひねった狡猾さだというわけだ。

 大川は、1905年6月にセオドア・ルーズヴェルトが友人に宛てた手紙を紹介している。「アメリカの将来は、ヨーロッパと相対する大西洋上のアメリカの地位によってに非ず、支那と相対する太平洋上の地位によって定まる」、つまりヨーロッパではなくアジアを活動の主舞台にするというのである。そして、「日露戦争によって国力を弱めていた日本の勢力圏満蒙が、実にアメリカ進出の目標となった」と指摘している。

 事実、日本がポーツマスでロシアと講和交渉をしている最中に、米国の鉄道王エドワード・ハリマンが、日本政府を籠絡して南満洲鉄道の買収を図った。ポーツマスから帰国した小村寿太郎が、日本政府との覚書を破棄させたので事なきを得たのだが、覚書では、満鉄をはじめ、主要な鉱山や各種事業をハリマンが手中に収めることになっていた。じつは日露戦争の仲介をしたのはルーズヴェルトなのだが、その一方で満洲の日本の権益を奪い取る画策をしていたのである。大川は騙す米国と騙される日本の両国を怒っている。

 1909年、今度は米英が組んで、錦州からハルピンを経て黒龍江省の愛琿に至る長距離鉄道を敷設しようと図った。満鉄と並行する、明らかに満鉄に大打撃を与えるための計画であった。日露両国が強硬に反対し、イギリスが日和ったのでこの計画も失敗に終わった。大川はこのように米国の対日妨害、日本潰しの事例を事細かく記している。

 1914年に第1次世界大戦が始まった。日本は日英同盟の絡みでドイツに宣戦布告したが、米国は絶対に中立を維持すると表明していながら「連合国側の勝算がほぼ明らかになりますと、存分に漁夫の利を収めるために、以前の声明などは忘れたかのように大戦に参加した」と大川は憤っている。

 その憤りの勢いで、大川は日露戦争以後激しくなった在米日本人の排除運動のすさまじさ、あくどさを描写していく。1918年11月には、カリフォルニアの排日協会は、

1、日本人の借地権を奪うこと、

2、写真結婚を禁ずる、

3、米国が自主的に排日法を制定する、

4、日本人に永久に帰化権を与えない、

5、日本人の出生児に市民権を与えない、

などを要求し、カリフォルニアの州議会で成立した。そして1924年についに日本から米国への移民はいっさい禁止された。

 その最中、1921~22年のワシントン会議で主力艦の保有比率が、米5、英5、日本3と決められた。日本は3.5、つまり7割を要求したのだが、米英が組んで日本は孤立させられたのである。

 さらにワシントン9カ国会議(米、英、仏、日本、伊、蘭、ベルギー、ポルトガル、中)で、米国の主導によって次のような条約が固められた。

「『支那の全領土にわたり一切の国民の商業及び工業に対する機会均等主義を有効に樹立維持するために努力する』こと、また『友好国の臣民または人民の権利を滅殺すべき特殊権利、または特権を獲得するために支那の情勢を利用せざる』ことを定め、さらに、締約国にして『本条約の規定の適用問題に関係し、かつ右適用に関し討議をなすことを適当なりと認むる事態発生したる時は、何時にても右目的のため、関係締約国間に十分かつ隔意なき交渉をなすべきこと』を取り決めた」(大川)のである。

 大川は「アメリカはこの条約によって、少なくとも形式的には、我が国の支那とくに満蒙における特殊権益を剥奪し去ったのであります。こうしてワシントン会議は、太平洋における日本の力を劣勢ならしめることにおいて、並びに東亜における日本の行動を掣肘拘束することにおいて、アメリカをしてその対東洋外交史上未曾有の成功を収めさせたのであります」と怒りを込めて力説している。

 もう1つ、米国の主導で日英同盟が消滅した。

 また大川は満洲事変について「アメリカの後援を頼み、南京政府(蒋介石)の排日政策に呼応した満州政権(張学良)は、遂に暴力をもって日本に挑戦してきたのであります。それは取りも直さず、1931年9月18日の柳条溝事件であります。そして時の政府が断じてこれを欲しなかったにもかかわらず、日本全国に澎湃として漲りはじめた国民の燃える精神が、遂に満州事変をしてその行くべきところに行き着かしめ、大日本と異体同心なる満州国の荘厳なる建設を見るに至ったのであります」と得意さがあふれる書き方をしている。

 だが柳条湖事件は張学良側が行なったのではなく関東軍が仕掛けた謀略であり、関東軍は天皇の許可を得ずに軍事行動を拡大したのであった。大川は当然この事実を知っていたはずである。なぜこのような空々しい話し方をしたのであろうか。

 国際連盟は、満洲国を承認せず、中国に返還せよという決議を採択し、日本は国際連盟を脱退した。大川は、国際連盟は「世界の現状すなわちアングロ・サクソンの世界制覇を永久ならしめん」としてつくった機構であり、日本が脱退したのは「歴史の皮肉」だと痛快そうに述べている。

 そのうえ日中戦争では、米国は蒋介石の中国のためにあらゆる援助を与え、「日米通商条約を廃棄し、軍需資材の対日輸出を禁止し、資金凍結令を発布して、一歩一歩日本の対支作戦継続を不可能ならしめんと」したと強調している。

 そして、「いまアメリカが太平洋の彼方より日本を脅威する時、東条内閣は断固膺懲を決意し、緒戦において海戦史上振古未曾有の勝利を得ました。敵、北より来たれば北条(時宗。蒙古襲来のとき)、東より来たれば東条(英機。当時首相)、天意か偶然か、めでたきまわり合わせと存じます。……私はこの偉大なる力を畏れ敬いまするがゆえに、聖戦必勝を信じて疑わぬものであります」と締めくくっている。

 これを読むかぎり、大川は文字どおり太平洋戦争(大東亜戦争)の象徴的イデオローグである。その意味では米国が大川を白人のアジアからの追放と、日本によるアジアの征服をめざした代表的学者としてA級戦犯に加えたのは奇異ではない。

なぜ裁判に戻されなかったのか

 大川は、A級戦犯として極東軍事裁判に臨む決意を次のように記している。

「私は国際軍事裁判は決して正常な訴訟手続ではなく、軍事行動の一種だと考えた。日本の無条件降服によって戦闘は終止したが、講和条約が調印されるまでは、まさしく戦争状態の継続であり、吾々に対する生殺与奪の権は完全に占領軍の手に握られている。わざわざ裁判を開かなくとも、占領軍は思うが儘に吾々を処分することが出来る。例えば私を殺そうと思えば、Ohkawa shall die(注:大川は死刑)というだけで事足りる。そのほかに何の手数も文句も要る筈がない。然るに国際軍事裁判という非常に面倒な手続を取ろうとするのは、そうした方がサーベルや鉄砲を使うよりも、吾々を懲らしめる上に一層効果的であると考えたからに他ならない。従ってこの裁判は一種の軍事行動であり、法廷は取りも直さず戦場である。もし私が老年でなかったとすれば、私は何年か前に既に応召して征途に上り、或は戦場の露と消えていたかも知れない。降服後の日本に生き残って、今度戦犯容疑者に指名されたことは、いわば最後の召集令を受けたようなものであり、巣鴨(注:東京プリズン)に往くのは戦場に赴くようなものである。出征に際しては、生還を期せぬことが日本人の心意気である。この裁判で如何なる判決を受けようとも、それは戦場で或は負傷し、或は戦死すると同じことであるから、それに対して毛頭不平不満の念をもつまい、と覚悟を決めて私は家を出た」(『安楽の門』)

 ところで大川は極東軍事裁判での「心身の異常」について、彼自身が次のように記している。

「私は乱心の結果、昭和21年5月上旬、巣鴨刑務所から本所の米国病院に移され、6月上旬にそこから本郷の東大病院に、そして8月下旬には更に松沢病院に移された。この数ケ月の間、私は実に不思議な夢を見続けた。私はその夢の内容を半ば以上は明瞭に記憶している。然るにこの夢は、松沢病院に移ると殆ど同時に覚めてしまった。夢が覚めたということは、乱心が鎮まったということである。私が東大病院に移されたのは、恐らく私の病気が当分治りそうもないという診断の結果と思われるが、移ると同時に病気が治りはじめたのである」(『安楽の門』)

 佐藤優も、大川の「心身の異常」は治癒していたと判断している。それならば当然連合国としては大川を公判に戻して、彼を断罪するはずなのだが、検察団は大川を公判に戻すことなく釈放した。これはいったいどういうことなのか。佐藤は「松沢病院から大川周明を法廷に呼び戻したならば、大川は『米英東亜侵略史』の論理で、日本が開戦に追い込まれた理由を説明するであろう。東京裁判という『本土決戦』の場で展開されるであろう大川の言葉の力にアメリカ人が怖じ気づいたのだと筆者は見ている」と書いている。

 だが、私には佐藤優のこの説明では納得できなかった。

 大川がこの裁判は一種の軍事行動であり、法廷は取りもなおさず戦場であると書いているように、法論理で勝敗が決まるのではなく、“死刑”という結論が決まっていて、いかに無理をしてでも結論に嵌め込むのが裁判だったはずである。あらためて佐藤優に会ってそのことをいい、彼の結論を待った。

「たとえば東郷茂徳にしても、とくに東條英機の場合など、『ただ潔く死に行く』ということなのですが、理論展開としては明らかに不十分でした。しかし、ギリギリのところまで行って、『私が大御心に反するようなことをするはずがない、あれは天皇まで含めて日本国一体としてやったことだ』と開き直ることはしなかった。

 ところが大川だったら、天皇を含め、全部一体であったという理論展開を堂々とやりますよ。皆、大御心を反映してやっているのだ、と。ただ、日本は1つの有機体であるから責任の有無はわからないと主張したと思います。たとえばいま私があなたを殴ったとして、悪いのは腕ですか? 頭ですか? 心ですか? そんなのはわかるはずがない、と。

 大川の『安楽の門』『日本二千六百年史』や『獄中尋問記録』をきちんと読んでいくと、天皇と一体ということこそ、いわずもがなのわれわれの原理原則で、離れようと思っても離れない君民共治が日本の国体なのだという、その国体感がすごく強いのです。そして大川は、国際軍事裁判は君民共治の日本を破壊するための茶番劇だと捉えている。ここで裁かれているのは日本の国体であり、国体が破壊されようとしているのだというのです」

 佐藤にここまで聞けば納得できた。東條英機たちは、何とかして天皇を戦争責任の埒外に置こうとした。この点では検察側の意図と見事に一致していたのだが、大川に理論展開をさせると、天皇に戦争責任がある、戦争は大御心を反映して皆でやったということになってしまう。こうなると、極東国際軍事裁判の構想は根底から壊れてしまうことになり、佐藤優の解説が正解だとするならば、なぜ検察団が大川を公判に戻すことなく解放したのか納得できる。

 それにしても大川周明とは謎が多く、否応なく興味をそそる人物である。

 繰り返し記すが満洲事変は張学良などの侵攻ではなく、関東軍の謀略による侵攻であった。それに太平洋戦争につながる蒋介石の中国との戦争、日中戦争について大川はまったく意味付けをしていない。大川は、日中戦争にも太平洋戦争にも反対だったはずなのである。

 さらに大川は東條英機の考え方とはまったく相容れないはずなのだが、なぜ「敵、北より来たれば北条、東より来たれば東条」などというゴマすりをしたのだろうか。大川は謎の多い人物であり、本当は何を求めていたのか、回を改めて記すことにする。

「なんとしても浮かばれない」

 松井石根。陸軍大将。上海派遣軍司令官、中支方面軍司令官、軍事参謀官。1948年12月23日、南京事件の責任を取らされて、A級戦犯として絞首刑によって死去した。

 松井は、日中戦争勃発に至る時期に、日本でおそらくもっとも中国を理解し、蒋介石とも信頼し合い、日本と中国が腕を組んでアジア諸国の解放、独立をめざしていた人物であった。日中戦争勃発の前年、1936年には1カ月半かけて中国を回り、反日に傾きつつあった蒋介石と懇談して、当時の首相広田弘毅に「日中の和平望みなきにあらず」と報告しているのである。

 松井は、平凡社の創立者である下中弥三郎、中谷武世、満川亀太郎などと図って、1933(昭和8)年3月に大亜細亜協会を設立した。発起人には近衛文麿、広田弘毅、徳富猪一郎、末次信正、平泉澄、鹿子木貞弘などが名前を連ねていた。

 大亜細亜協会の理事兼事務局長として事実上仕切り役を務めた中谷武世(東京帝国大学卒、法政大学教授を経て、1942年に衆院議員、戦後、日本アラブ協会会長。のちに詳しく記す)が、大亜細亜協会がめざしたのはアジア諸国の解放と独立であった、と生前私に語った。

 大亜細亜協会は『大亜細亜主義』という機関誌を発行していたが、この表題は毛沢東の共産党も蒋介石の国民党も国父と仰ぐ孫文が、1924年11月に最後の来日で神戸で講演した「大亜細亜主義」をそのままもってきたのである。中谷武世が語ったとおり、日中両国民の固い協力を柱にして全アジアの団結と解放を志すというのが大亜細亜協会設立の趣旨であった。

 そして松井石根は会長を務めた(理事長、下中弥三郎)。松井こそは、日中が信頼し合ってアジアの解放を願った代表的な人物だったのである。

 松井はA級戦犯として巣鴨プリズンに収容される前夜、近親者たちを招いて宴を催し、盃を交わしながら「乃公はどうせ殺されるだろうが、願わくば興亜の礎、人柱として逝きたい。かりそめにも親愛なる中国人を虐殺云々ではなんとしても浮かばれないナァ」と語ったということだ(陸軍後輩、有末精三〈日本郷友連盟名誉顧問・当時〉)。

 松井は1878(明治11)年7月27日に愛知県で生まれた。前年には西南戦争で西郷隆盛が自刃し、この年の5月には大久保利通が暗殺された。東京株式取引所が開業し、参謀本部が設置されたのもこの年である。

 いわゆる貧乏士族で、金の掛からない軍の学校である成城学校、幼年学校を経て、1896(明治29)年に陸軍士官学校に入学した。前年、日清戦争が日本の勝利で終わっている。この戦争で台湾を奪取し、日本はアジアで唯一の植民地領有国となった。

 松井は陸軍士官学校は2番、陸軍大学は1番で卒業した。そして陸大在学中、日露戦争に中隊長として激戦地首山堡に派遣され、松井の率いる中隊はほとんど全滅し、松井自身も大腿部に貫通銃創を負って入院した。

 松井は陸大時代から同郷の荒尾精の思想や行動を敬慕して、中国に強い関心を抱いていたようだ。

 前回も参考にした田中正明が『松井石根大将の陣中日誌』の「悲運の将軍」という章で、荒尾精について次のように書いている。

「彼はあえて軍籍を離脱して、真に支那の復興と日支の交易に役立つ青年志士20余名を漢口楽善堂に集め、支那の実情調査にあたらせた。その集約として自ら『清国通商総覧』という大著を刊行し、さらに『東亜同文書院』の前身である『日清貿易研究所』を設立して、東亜の将来に役立つ青年の育成につとめた人物である。(中略)年令わずか38歳で、台湾の旅舎に『ああ、東洋が、東洋が……』と叫んで客死した荒尾の興亜復光の精神こそ、わが生涯のめざす道であると、松井はかたく信ずるようになった」

 田中正明によれば、陸大のトップ卒業者は欧米の駐在武官となるのだが、松井は自ら進んで北京駐在武官を志望し、その後も機会をつかんでは中国に戻り、孫文に接触して陰に陽に孫文の中国革命を支援したということである。

 さらに松井石根は、1927(昭和2)年に蒋介石の訪日を働き掛け、田中義一首相との会談を実現させる。

 松井石根の構想によって日本政府と蒋介石の信頼関係が堅持されていれば、日本と中国の歴史は大きく変わっていたはずである。日本が蒋介石の中国と戦争を起こすこともなく、当然南京事件も起きえなかった。

 日本政府は蒋介石の国民党が中国を統一することを強く望み、全面的に支持するはずであったのが、なぜその蒋介石と、それも出口のない戦争をすることになってしまったのか。(以下次号)

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