池鯉鮒の主要産業「馬市」図
池鯉鮒(ちりゅう)の由来はその名の通り、池鯉鮒神社
(知立神社)の池に鯉と鮒がいたことから。
この地の名物は古くからの馬市、特に江戸時代は盛大
であった。また芭蕉も詠んだ三河木綿も特産品であった。
39・池鯉鮒宿(天保14年)
日本橋から84里半(約332km)
現代の宿駅 名鉄知立駅
人口  1602人
家数   292軒
旅籠    35軒
本陣     1軒
脇本陣    1軒
宿の長さ 東西12町37間
      (約1.37km)

永安寺・雲竜の松
やがて右に横に大きく枝を広げた松 永安寺・雲竜の松 当時の大浜茶屋村庄屋・柴田助太夫屋敷跡。助太夫は貧しい村人のため助郷役の免除を願い出て死罪となった村の恩人。助太夫は死すもこの歴史を伝えるため300年を越え行き続けるのか、、、
熊野神社からここなで約1kmを12分で歩いている、速い!
すぐ先に明治用水路 西三河一帯の灌漑用水路。矢作川より引き、明治12年1月着手、翌年4月完成した約50kmの幹線路。開渠を記念する碑と通水100年記念碑が建つ。現在は道路の下に暗渠となっている。
明治川神社 この用水建設に寄与した都築弥厚、伊予田与八郎らの霊を祀る。
17時9分 本日はここまで。
迎えのバスで岡崎城下、乙川沿いに建つ岡崎ニューグランドホテルへ。
夕食後ライトアップされた夜のお城を散策。この季節では涼を求める人もなく、我々以外は猫が一匹だった。
<3日目> 平成15年5月11日(日)
池鯉鮒宿〜鳴海宿  約17.6km

来迎寺一里塚

知立松並木
8時45分 明治川神社を出発。
途切れ途切れながらここも松並木が約1.1km続く。
<東栄町>交差点の右手前に青麻神社 地元出身で江戸力士として活躍した清見潟又市の碑がある。今まで色々な碑や史跡を見てきたが相撲取りの石像は初めて。
今本町を過ぎると猿渡川に出合う、渡ると知立市。左の小さな来迎寺公園を過ぎた右に八橋道標が立ち、道は右に分岐する。「従疋四丁半北 八橋 業平作観音有 元禄9年(1696)丙子六月吉朔日施主敬白」と刻まれている。これを進むと無量寿寺 庭園に3万本の青紫のかきつばたが咲く。伊勢物語で在原業平が詠んだ「八橋の杜若」の名所。謡曲「筒井筒」に因み植えられた<ひともとすすき><業平竹>は縁結びに吉。今が見頃なれど寄道せず進む。出合ったハイキングスタイルのおばさんは「これから無量寿寺に杜若を見に」と「あなた方も見てきたの?」惜しかった!残念! 近くに業平ゆかりの在原寺 尼寺で多くの歌碑がある。 業平塚 業平の分骨を埋めたという八橋伝説などがある。
200m左に来迎寺一里塚 83番目は両側に残り、松が植わる。
次の角を左に入った泉蔵寺 ここに赤穂義士・吉田忠左衛門夫妻の墓。忠左衛門が切腹後、妻りんは娘婿のところに身を寄せていたが刈谷に転封となりこの地に来たが病死した。夫の形見の歯とともにここに埋葬された。
来迎町から牛田町と進み、建設中の第二東名道を潜った日本精工前から知立松並木が残る。近年まで牛田町から山町まで約1kmあったが、住宅が次々建てられ今や450mに縮小。また昭和34年の伊勢湾台風で大きな被害を受けたため、昭和45年幼松158本を補植。
進むと「明治用水」「松並木」説明板と「馬の像」があり、並木の終わり地点に馬市之碑 と広重・馬市の絵 三河は奈良時代より度々馬を献上。古くは鎌倉街道に近い牛田周辺に市が開かれていた。東海道が整備後、池鯉鮒宿近くの慈眼寺あたりに移った。この松並木は馬を繋ぐ柵代わりに利用された。
一茶も「はつ雪やちりうの市の銭叺(ぜにかます)」の句碑もある。
<御林>交差点で国道に出る。地下道で反対側に渡る。道は三叉路、右は国道、中が市内へ、左の狭い道が旧東海道。

狭い宿場

問屋場跡
名鉄三河線の踏切を越える。すぐ右側の道を行くと慈眼寺 馬市が立ったあたり。空模様が怪しくなりポツリポツリとくる。もう宿場内に入っている。狭い街道に、狭い間口の家が密着して建ち並ぶ。古くからの鶏肉店に「名古屋コーチン」が冷凍ケースに並んでいる。100g140円、生肝300円。さすがにスパーマーケットの一般の鶏肉より値段は高い。お婆ちゃんが「かしわは安うてうめ〜えよ、肉にくらべりゃよ」(関西では鶏肉をかしわという)生で食べられる本場名古屋コーチンの肝に心残りも如何せんとも、、、又の機会に。
<中町>の六叉路の真中を進んだ食品館美松前に問屋場跡碑 昭和46年まで残っていた。この食品館は市立コンサートホールもあるビル、ここでトイレ休憩。10時7分
少し雨が強くなってきたので傘をさす。先の郵便局の裏手あたりが本陣跡 当初は峯家であったが没落し寛文2年(1662)から永田家に替わる。敷地2900坪建坪300坪の広大な建物は明治の初期に取壊された。木綿屋脇本陣の標識はないが調べたところ本陣の向側あたりにあった。門は無かったが玄関は間口2間あった。明治3年壊され玄関の唐破風の屋根は小松寺の地蔵堂の屋根に再利用されている。
マンションサンハイツA前を右折。左に行くと宝蔵寺 二つの言い伝えが残る。其の1、秀吉の軍師竹中藩兵衛が青春時代上洛する今川義元を見物に来てここの松の木に登った「物見の松」今この松は残っていない。其の2、「追腹塚」伝説。家康暗殺命令を受けた石田三成家臣・加賀野井弥八郎がこの宿で刈谷城主・水野忠重、駿府城主・堀尾吉晴と酒宴中、忠重を殺したが吉晴に討取られた。駆けつけた忠重の家臣は刀を持つ吉晴が殺したと思い討ちかかるが吉晴の家臣に阻まれ逃してしまう。この失敗の責任を取り二人の家臣が切腹した。この供養に築かれた塚は今も残る。
知立城址 元知立神社神主永見氏の居城。戦国時代隣国の刈谷城水野氏に臣従し婚姻により繋がりを持つ。水野忠正の娘が永見貞英に嫁し、生まれた娘が家康の正室築山御前に仕えた縁で家康の側妾となったお万の方、結城秀康を生む。天正年間(1573〜92)に建設された御殿は将軍家の往来する時の宿泊、休憩所に使われたが、元禄12年(1699)の大地震により倒壊し再建されなかった。今は児童公園となりかろうじて歴史跡を残す。
了雲寺前を左折し、県道155号を地下道で横断。今は無人の古い酒屋を過ぎると右奥に知立神社 池鯉鮒宿の由来の神社。日本武尊東征の帰途、伊知里生命をこの地にとどめ造営したとの社記にある東海道三大社の一つ。国指定重文の『多宝塔』には古い能面や家康の寄進状などの文化財が保存される。嘉祥3年(850)建設されたが、今の塔は室町時代に再建されたもの。雨乞い、安産、蝮除けの霊験あらたか。
境内に「不断堂川(ふだんたつ)池鯉鮒宿農木綿市」の芭蕉句碑もある。
総持寺 知立不動。お万方誕生地の碑が立つ。

本陣跡碑

知立城址

知立神社多宝塔
逢妻川の土手に突当る、左折し橋を渡る。この吾妻橋の橋際の擬宝珠は板張りの常夜灯を模る。
<逢妻町>で国道に合流しこれを進む。知立市から刈谷市に入る。一里山という地名。今まで歩いた各地で「一里山」と付く地名は比較的多く、その名の通り一里塚があった。ここの両側を目を点にして歩くもどこにもそれらしい跡や標識も見付からない。距離的にも来迎寺から一里あたりだが、、、昔はきっとあったんだろう。多分この国道敷設工事で邪魔になり撤去されたのだろう、、、
今岡町に入り、<工業団地入口>交差点手前の右側のGSの後ろを小さく回りように迂回し歩道橋の手前に出たところで国道を横断し左の道へ進む。
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