2007.1.1
(カバー裏より)安岡は「歴代総理の指南番」という表現がある意味で虚像に過ぎないことを自覚していた。にもかかわらず、終生、自ら「歴代総理の指南番」という役を演じ続けた。そうやって、自分のイメージを実際以上に膨らませた。「隠れた大学者」「保守政治の黒幕」といった大物イメージが広がることにある種の快感もあった。同時に、それは安岡一流の処世術であった。(本文より)
(カバー扉より)それは虚像が独り歩きしている部分も多い。だが、いつのまにか、安岡という「守り札」をてにすれば、保守勢力の中でいい顔が出来るという構造が出来上がった。安岡は戦前、戦後を通じてそんな世界を巧みに泳ぎ切ったのである。(本文より)
冒頭のプロローグで驚いた。近頃、胡散臭い細木数子という占い師がやたらにTV等に出演している。この老女が「平成の教祖」の晩年に結婚していたというのだ。成る程、そのコネであの通り喚き放題、ギャラを毟り放題の狼藉三昧というワケである。なんであんなのが猛威を奮っているのかと随分いぶかしく思っていたが、安岡正篤を介して政治家、官僚、財界とのコネを維持していれば幾らでも儲けられるのだろう。出版物は5,000万部以上売れているのだという。実にバカバカしいことだ。
安岡正篤師の名前を初めて知ったのは、佐々淳行氏の著書『
インテリジェンス・アイ』(2005)である。その第V章の中に、”安岡正篤流の干支占いで危機予測が出来る!? 危機を予測するための東洋の知恵を考える”という節だ。1994年大晦日にドイツ大使に干支の説明をし、戌年から亥年に替わる・・まで話した序でに「安岡正篤師の干支の世相占い」なるものを開陳、訝しがられるという話である。その時はちょっとバカにされて恥ずかしかったようだが、1995年が地下鉄サリン事件だの阪神淡路大震災だの警察庁長官狙撃事件だの麻原逮捕だの・・確かに重大事件が集中している。まー自分にはその辺の合理性は余り納得いかんのだが。しかし、危機管理の第一人者と言われてきた佐々氏が注目しているのだから、何か説得力のあるものが存在するのだろう。
この話で行くと、今年は2007年で丁度12年後、亥年である。まー60年毎の周期も有るらしいので1995年とはこれまた違うのだろうけれども、さては何やら大きいことが今年は起こるんであろうか。予言は存在しないと思うが、予測は存在する。自然にもにも完全に繰り返すような周期性は無くともカオスに見られるような規則性は存在するのであるから、人間の社会や歴史にもこれまた規則性はあるのであろう。そこに干支がピタリと嵌る、ということも有ったり無かったりするのかも知れない。
平穏な世の中であって欲しいが、今年何か起こるとすれば最大の懸念はやはり北朝鮮関係であろうか。核とミサイルである。核実験を再開、なら再び制裁強化や6ヶ国協議における交渉、というより一方的に条件を呑ませる交渉といった方向かも知らんが、最悪の場合は日本にミサイルを撃つとか、その弾頭に核もしくは生物・化学兵器が搭載されている場合も有りうるのかも知れない。現在日本は非軍事的解決手段は最大限行使しつつあるので、これ以上、となると軍事的な制裁に移行しなければならなくなるかも知れない。まーそこまで酷い事にならなければ良いが。或いは朝鮮戦争再開とか。韓国に向かって北朝鮮軍が南侵、とか。まー今のところそんな可能性は低そうであるが。何しろ北朝鮮の装備は劣悪過ぎる。それでも米軍はそうなった場合、5万人の死者が出ると見ているようだ。はたまた、中国の膨張主義、侵略によって武力紛争が勃発し、戦争に拡大、なんてのも最悪である。まぁ1995年の話のスケールからするとそれはデカ過ぎるのでもう少し小さい事でも起こるのか。国内的には安定していると思うのだが、もしかしたら改憲という辺りで一悶着、ということは有るのかも知れない。しかしまぁ、かつての安保闘争などからしたら遙かに大人しいものに終わりそうであるが。或いは又、1995年が阪神淡路大震災であるならば、どこかで震災か?いやいや、やはり占いなどアテにせず、孫子の兵法なり忍学書”万川集海”にあるように、人の情報を得て予測し備え、対処する、それ以外無いであろう。占いなどにつけこまれるのは滑稽なだけである。
第1章に出てくるが、「平成」を元号に決めたのは安岡師ではないか、と。しかしこれは不明のようだ。
戦前の右翼関連では北一輝、大川周明やその他と関わりが有ったらしい。
戦後だと三島由紀夫との文通も有ったらしい。
そして歴代総理では池田勇人、大平、佐藤、中曾根その他の指南番的存在で、終戦の詔勅を添削したように、各種草稿を格調高い文章に手直しすることを依頼されていたらしい。まぁ、それだけと思えばそれだけなんだが、そこにちょっとばかり政治への色気を出していたところがなんとなく黒幕、指南番っぽさを醸し出していたらしい。しかしほとんど政治には直接は口を出さなかったようだ。陽明学、儒学、漢詩その他中国の古典に極めて造詣が深いことが、かつては中国文化に対する憧憬の強かった時代には相当な影響力を生み出す淵源となっていたようだ。しかし、田中角栄など、中国文化に対する関心が薄い政治家にはその神通力は効かなかったらしい。
有名なエピソードは田中角栄首相が1972年、日中国交回復交渉後、周恩来首相から「言必信、行必果」と書いた色紙を大平外相に渡した事についての苦言。論語の「子路第十三」の、士とは?という問いに対する答えだという。それによると路傍の石のような詰まらない小人、という意味が込められていることになるという。もう一つはこの時、田中総理が毛沢東主席から楚辞集註という古典を渡された事に対する苦言。これは祖国が滅ぼされそうになっているのを見かねて屈原という政治家が自殺する話が中心であるという。日本に対する敵意、悪意を込めた、実に厭らしい隠しメッセージだったというわけである。もっとも、これは安岡師が反共、親台湾、保守本流の守り札というポジションに在るため、その広範な知識を以て難癖つけているだけ、にも思えるし、やはり中国の真意を看破していた、かのようにも見える。この辺は微妙だな。
プロローグ
第1章 「平成」の発案者
第2章 傍流・中曾根康弘
第3章 終戦の詔勅
第4章 「南朝の後裔」
第5章 右翼の源流
第6章 「白足袋の運動家」
第7章 「老師」と呼ばれた男
第8章 歴代総理の指南番
第9章 本流の守り札
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