私の書いた「死刑論」についてコメントを頂きました。
以下がその文章です。(多少の訂正は加えています。申し訳ありません)
「死んで償えには合理性が無いというのは、確かに当人からしたらそうかも知れないけれど、死刑相当の罪とは殺人ですよね。一度その殺された人の家族の身に成って考えてみて下さい。
例えば死刑が我が国から撤廃されたとして、無差別殺人を犯した犯人が
「人を殺しても自分は殺され無いから」
と言って居たら、貴方はどう感じますか。それでも死刑制度を否定しますか。 」
というものでした。
私はこのコメントを受けて再度考え直しました。
殺された人の家族の身になって考える事を何度も繰り返しました。
確かに憎いです。犯人には死んで欲しいでしょう。
というより、生きていてほしくないでしょう。
一時は死刑を肯定するでしょう。
それは何故でしょう。死刑の「意味」と「利点」に沿って考えてみました。
1憎いから
2償うべきだから(罪には罰をという原理から)
3これ以上の犯罪を抑える為(脅し)
1、これは憎いから殺す。目には目を、歯には歯をです。これは完全に無秩序でしょう。
やられたからといってやり返して良いという法律はありませんし、「1」が理由ならば死刑制度を行う場合、盗まれたから盗んでも良いという法律を作るべきでしょう。その原理と全く同じなのです。
2に進む前に罰の定義から。それは
「人間を再矯正する為の手段」でした。
2、これは上でも書いたように、罰という物を死刑は逸脱する為駄目です。罰とは生きていくための再矯正なのです。言うならば、生きていないと駄目なのです。
この辺り少し分かりづらいと思います。
それは罰≒死刑という先入観がある為です。
「罪には罰を」という部分を「罪には死刑を」とは変えられません。
罰≠死刑だからです。ここは数学的に考えて下さい。
ここまでだと、死刑は
「目には目を、歯には歯を」
「罪には死を」
「憎いから殺せ」
というのを基盤にしてしまいます。
これは完全に無秩序です。合理的でもない。
合理的とは何か。言うならばそれは道徳的とほぼ同じだと思ってもらって構いません。
道徳的とは、2つほど聖書から抜粋すると
「自分がされて嫌な事はしない」
「右頬を叩かれたら左頬を出せ」
「隣人を愛すように他人を愛せ」で十分です。
しかし今から30行程前からの下りは
「でも、、」と思う方が大半だと思います。
コメントをして下さった方も、「1」と「3」に引っかかっているのだと思います。下でも説明はしますが、
殺された方の遺族は犯人が死刑になる事を望むでしょうか?
それは違います。
遺族の方は「今まで通り」その犯人の生活が続くのが嫌なのです。
続いて「3」、これはあると思います。ただ、
犯人には大体3パターンほどあります。
(1)まず第一に精神異常者、この方達は死ぬのが怖いと思っていません。その為、脅しても犯罪は減らないから無意味だと思われます。
(2)次に、一般人。この人達は人を殺す事に対しては抵抗が相当ある為、死刑がなくてもしないでしょう。
(3)最後に犯罪組織(やくざ、暴力団等)、これは死刑がないと厄介でしょう。
死ぬのは嫌だが人は殺す。この人達には有効でしょう。
私が言うのは、死ぬよりもキツイ刑罰を与えよと言っているのです。そんな物は幾らでもあります。しかし、精神異常者の場合、刑を与えても無意味な場合があります。彼らにとって殺しは時として、私達がトイレに行ったり、ご飯を食べたりするのと同じなのです。一般人とは「脳」が違うのです。だから彼らを批判するのは合理的じゃない。その方達は、刑罰を終えた後に「精神異常者の世界」へ入れてあげるのがいいでしょう。一般の方とは住む場所を変えます。
彼らがどんな性癖を持っていようと構わないが、少女を殺す権利はない。
だから少女がいない世界へ入れる。
簡単に言うと人は生きていなくては仕方がないのです。
生きているから罪は償えるのです。
犯人が死んでも、遺族の方は楽にならないそうです。
遺族の方が楽になるのは、犯人を理解できた時だそうです。
いうならば「私はひどい事をした。罪を償わせてください。何でもします。死んだってかまわない」
という発言が遺族の心に伝わった時だそうです。
勿論、UNKNOWNさん(名前は欲しかった)の言うのは
「1」の憎いから。だと思います。言いたい事もよくわかります。しかし、その場しのぎの決断は何の解決も生まない。遺族は間接的に、殺人犯といえど、人を殺した事になるのです。いい気はしないでしょう。スッキリもしないでしょう。何度も言うようですが人間は生きていなければ罪も償えないのです。
まとめます。
遺族の方が犯人を死刑にしたい時の心情はあまり肯定出来るものではない。
そして遺族は、死を望んでいる訳ではなく、犯人の「今まで通りの生活」は望んでいないだけ。
いや、
「自分達の憎さと、悲しみと、怒りを解って欲しい」というのが深層の心理です。
そんな事犯人はわかるはずがないじゃないかと思う方がいるかもしれませんが、
殺すよりは可能性があります。
「1」と「2」の意味は何でしょう。それは遺族の方達の気持ちを少しでも安らかにという事でしょう。
なら死刑は廃止すべきでしょう。単純に可能性が低くなります。
「3」は死ぬよりも辛い刑罰という事で。
それはどんな物か、専門じゃないので分かりませんが、不定期的な拷問、一万回とかでどうでしょう。軽く、殺してくれと一万回思うのではないでしょうか。
それでは最後になりますが、一言言わせて下さい。
憎しみは加害者ないし、時間だけが取り去る事の出来る物です。
決して事実ではないのです。
以下がその文章です。(多少の訂正は加えています。申し訳ありません)
「死んで償えには合理性が無いというのは、確かに当人からしたらそうかも知れないけれど、死刑相当の罪とは殺人ですよね。一度その殺された人の家族の身に成って考えてみて下さい。
例えば死刑が我が国から撤廃されたとして、無差別殺人を犯した犯人が
「人を殺しても自分は殺され無いから」
と言って居たら、貴方はどう感じますか。それでも死刑制度を否定しますか。 」
というものでした。
私はこのコメントを受けて再度考え直しました。
殺された人の家族の身になって考える事を何度も繰り返しました。
確かに憎いです。犯人には死んで欲しいでしょう。
というより、生きていてほしくないでしょう。
一時は死刑を肯定するでしょう。
それは何故でしょう。死刑の「意味」と「利点」に沿って考えてみました。
1憎いから
2償うべきだから(罪には罰をという原理から)
3これ以上の犯罪を抑える為(脅し)
1、これは憎いから殺す。目には目を、歯には歯をです。これは完全に無秩序でしょう。
やられたからといってやり返して良いという法律はありませんし、「1」が理由ならば死刑制度を行う場合、盗まれたから盗んでも良いという法律を作るべきでしょう。その原理と全く同じなのです。
2に進む前に罰の定義から。それは
「人間を再矯正する為の手段」でした。
2、これは上でも書いたように、罰という物を死刑は逸脱する為駄目です。罰とは生きていくための再矯正なのです。言うならば、生きていないと駄目なのです。
この辺り少し分かりづらいと思います。
それは罰≒死刑という先入観がある為です。
「罪には罰を」という部分を「罪には死刑を」とは変えられません。
罰≠死刑だからです。ここは数学的に考えて下さい。
ここまでだと、死刑は
「目には目を、歯には歯を」
「罪には死を」
「憎いから殺せ」
というのを基盤にしてしまいます。
これは完全に無秩序です。合理的でもない。
合理的とは何か。言うならばそれは道徳的とほぼ同じだと思ってもらって構いません。
道徳的とは、2つほど聖書から抜粋すると
「自分がされて嫌な事はしない」
「右頬を叩かれたら左頬を出せ」
「隣人を愛すように他人を愛せ」で十分です。
しかし今から30行程前からの下りは
「でも、、」と思う方が大半だと思います。
コメントをして下さった方も、「1」と「3」に引っかかっているのだと思います。下でも説明はしますが、
殺された方の遺族は犯人が死刑になる事を望むでしょうか?
それは違います。
遺族の方は「今まで通り」その犯人の生活が続くのが嫌なのです。
続いて「3」、これはあると思います。ただ、
犯人には大体3パターンほどあります。
(1)まず第一に精神異常者、この方達は死ぬのが怖いと思っていません。その為、脅しても犯罪は減らないから無意味だと思われます。
(2)次に、一般人。この人達は人を殺す事に対しては抵抗が相当ある為、死刑がなくてもしないでしょう。
(3)最後に犯罪組織(やくざ、暴力団等)、これは死刑がないと厄介でしょう。
死ぬのは嫌だが人は殺す。この人達には有効でしょう。
私が言うのは、死ぬよりもキツイ刑罰を与えよと言っているのです。そんな物は幾らでもあります。しかし、精神異常者の場合、刑を与えても無意味な場合があります。彼らにとって殺しは時として、私達がトイレに行ったり、ご飯を食べたりするのと同じなのです。一般人とは「脳」が違うのです。だから彼らを批判するのは合理的じゃない。その方達は、刑罰を終えた後に「精神異常者の世界」へ入れてあげるのがいいでしょう。一般の方とは住む場所を変えます。
彼らがどんな性癖を持っていようと構わないが、少女を殺す権利はない。
だから少女がいない世界へ入れる。
簡単に言うと人は生きていなくては仕方がないのです。
生きているから罪は償えるのです。
犯人が死んでも、遺族の方は楽にならないそうです。
遺族の方が楽になるのは、犯人を理解できた時だそうです。
いうならば「私はひどい事をした。罪を償わせてください。何でもします。死んだってかまわない」
という発言が遺族の心に伝わった時だそうです。
勿論、UNKNOWNさん(名前は欲しかった)の言うのは
「1」の憎いから。だと思います。言いたい事もよくわかります。しかし、その場しのぎの決断は何の解決も生まない。遺族は間接的に、殺人犯といえど、人を殺した事になるのです。いい気はしないでしょう。スッキリもしないでしょう。何度も言うようですが人間は生きていなければ罪も償えないのです。
まとめます。
遺族の方が犯人を死刑にしたい時の心情はあまり肯定出来るものではない。
そして遺族は、死を望んでいる訳ではなく、犯人の「今まで通りの生活」は望んでいないだけ。
いや、
「自分達の憎さと、悲しみと、怒りを解って欲しい」というのが深層の心理です。
そんな事犯人はわかるはずがないじゃないかと思う方がいるかもしれませんが、
殺すよりは可能性があります。
「1」と「2」の意味は何でしょう。それは遺族の方達の気持ちを少しでも安らかにという事でしょう。
なら死刑は廃止すべきでしょう。単純に可能性が低くなります。
「3」は死ぬよりも辛い刑罰という事で。
それはどんな物か、専門じゃないので分かりませんが、不定期的な拷問、一万回とかでどうでしょう。軽く、殺してくれと一万回思うのではないでしょうか。
それでは最後になりますが、一言言わせて下さい。
憎しみは加害者ないし、時間だけが取り去る事の出来る物です。
決して事実ではないのです。