鬱病、強迫神経症、解離性障害...etc
今日、精神病(神経症)というものが増えてきている。
この文章を読んで下さっている方々の中にもこの様な病気を患っている方も
いるかも知れない、また神経症と精神病と呼ばれる人々の隣人の方もいるかも知れない。
その人々に少し聞いて欲しい話がある。
それは、あまりに簡単なのだが、それ故に見逃してしまっている大事な事である。
現在、(現在よりも過去の方がもっとそうだったかも知れないが)所謂精神病の人を参らせているのは「周りの人間の認識」である。
かつて私が「優秀な医者に鬱病と診断された人」と話していた時にこんな事を隣人から言われたと泣いて私に話した。それはこうだ。
「貴方は病気なんかじゃないわ、鬱病というのは名前だけな物であって、
それぞれ皆抱えている物なのよ。それを抱えて苦しいながら人は生きて行くのよ。
そう、貴方は社会に甘えているのよ。いつまでもそうしていないで早く仕事をしなさい」
この文章で専門用語や専門知識を使うつもりは全くない。
そんな代物を使わなくても是だけは言える。
この方は相当頭が悪い。言うならば、バッキャローである。
いや、それは自明であるかも知れないが、この様な事を言う人々は驚く程多いのである。
鬱病の方ならば、この言葉がどれ程までに辛い言葉かは分かって貰えるだろう。
人殺しを「悪」とする社会ならばこの方々は間違いなく「悪」である。
さて、ここで重要なのは「病気の定義」である。
それはまさに、
「辛い、苦しいと身体的に感じる物に対して、
完治、ないし改善の見込みがあるもの」である。
だから先ほどの発言は
「貴方は苦しみから一生逃れる事は出来ない」
と言っているのとなんら変わりのない事なのである。
精神病というのは少し神秘的であると同時に、
「悩み」「落ち込み」と名前を変えて我々の私生活に存在する為に
その人の価値観を基準にして判断されがちである。
自明であるが、医学的に言ってもそれは全くの出鱈目だ。
それらは病気とは大半異なる。
先ほどの定義には少し例外があって、
例えば、生まれつきの物だったり、不治の病だったりもある。
勿論、その中にも少しは改善出来る物や全く処置できないものもあるのも事実である。
ここで言うのはあくまで
「〜科」等となっている物である。
そもそも、治りもしない病気に対してわざわざ看板を掲げる程、医者も馬鹿ではない。
だから、病気と診断された以上改善される事は期待していいと思う。
そして、そう診断された人に対して周りの人間は、先ほどの様な発言で相手を絶望の底に落とす必要はないのである。
貴方の価値基準でその病気が処置するに値しないと思ったとしても、相手の鬱病という名前に隠れた「改善」という希望を奪う権利などあるはずがない。
よく、精神病に対して、「鬱病」などと名前を付ける事自体が差別だとか、何となく良くない事だとか言う人がいる。
それは病名を奪って、改善という希望さえも奪っている事となんら変わらない。差別がどうこうと言っている場合ではないのだ。
鬱病の人はいつまでも鬱病なわけではないから、差別なんて、言っている意味が分からないとしか言いようがない。
私に言わせれば、ただ単純に「頑張れない」というものも病気にしていいと思う。
それは、改善できる物だからである。
病気の定義とは血が出る事でもないし、熱が出る事ではない。
単純に「改善の見込みがあるもの」だからだ。
最後に精神病を患っている方々に言いたい事がある。
それは、病気は「盾」にする物ではないという事である。
盾にすれば、周りの人間から攻撃されいずれは立っていられなくなってしまうだろう。
盾とは攻撃から守る為にあるからである。まるで攻撃をしてくれと言わんばかりに。文章の最初の方に話した鬱病の方の話もこれが引き起こしたと思っている。
だから病気は「剣」にして欲しい。
私が数多く話してきた病気の方達は皆優秀でした。
病気の方々は重い鉄を背負って生きているわけです。
だから、その鉄を下ろした時の力は素晴らしい物なのです。
最後に、周りに「辛い」といっている方が居たら、何処か有名な病院に連れて行ってあげて下さい。個人的に大学病院はお勧めしません。
病院で「病気でない」と診断されても、その方が辛そうでしたらまた何処か違う病院に連れて行ってあげて下さい。
生きていく事はそんなに辛い事ではないですから。
楽しくなくては意味が無いというのが私の持論です。
病院に行って病気と診断されたら、まずやる事は、薬を調べて下さい。
あまり強い薬でしたら、医師と相談の上に止めるか、私に相談ください。
あまり気にしないで下さい。治りますから。
今日、精神病(神経症)というものが増えてきている。
この文章を読んで下さっている方々の中にもこの様な病気を患っている方も
いるかも知れない、また神経症と精神病と呼ばれる人々の隣人の方もいるかも知れない。
その人々に少し聞いて欲しい話がある。
それは、あまりに簡単なのだが、それ故に見逃してしまっている大事な事である。
現在、(現在よりも過去の方がもっとそうだったかも知れないが)所謂精神病の人を参らせているのは「周りの人間の認識」である。
かつて私が「優秀な医者に鬱病と診断された人」と話していた時にこんな事を隣人から言われたと泣いて私に話した。それはこうだ。
「貴方は病気なんかじゃないわ、鬱病というのは名前だけな物であって、
それぞれ皆抱えている物なのよ。それを抱えて苦しいながら人は生きて行くのよ。
そう、貴方は社会に甘えているのよ。いつまでもそうしていないで早く仕事をしなさい」
この文章で専門用語や専門知識を使うつもりは全くない。
そんな代物を使わなくても是だけは言える。
この方は相当頭が悪い。言うならば、バッキャローである。
いや、それは自明であるかも知れないが、この様な事を言う人々は驚く程多いのである。
鬱病の方ならば、この言葉がどれ程までに辛い言葉かは分かって貰えるだろう。
人殺しを「悪」とする社会ならばこの方々は間違いなく「悪」である。
さて、ここで重要なのは「病気の定義」である。
それはまさに、
「辛い、苦しいと身体的に感じる物に対して、
完治、ないし改善の見込みがあるもの」である。
だから先ほどの発言は
「貴方は苦しみから一生逃れる事は出来ない」
と言っているのとなんら変わりのない事なのである。
精神病というのは少し神秘的であると同時に、
「悩み」「落ち込み」と名前を変えて我々の私生活に存在する為に
その人の価値観を基準にして判断されがちである。
自明であるが、医学的に言ってもそれは全くの出鱈目だ。
それらは病気とは大半異なる。
先ほどの定義には少し例外があって、
例えば、生まれつきの物だったり、不治の病だったりもある。
勿論、その中にも少しは改善出来る物や全く処置できないものもあるのも事実である。
ここで言うのはあくまで
「〜科」等となっている物である。
そもそも、治りもしない病気に対してわざわざ看板を掲げる程、医者も馬鹿ではない。
だから、病気と診断された以上改善される事は期待していいと思う。
そして、そう診断された人に対して周りの人間は、先ほどの様な発言で相手を絶望の底に落とす必要はないのである。
貴方の価値基準でその病気が処置するに値しないと思ったとしても、相手の鬱病という名前に隠れた「改善」という希望を奪う権利などあるはずがない。
よく、精神病に対して、「鬱病」などと名前を付ける事自体が差別だとか、何となく良くない事だとか言う人がいる。
それは病名を奪って、改善という希望さえも奪っている事となんら変わらない。差別がどうこうと言っている場合ではないのだ。
鬱病の人はいつまでも鬱病なわけではないから、差別なんて、言っている意味が分からないとしか言いようがない。
私に言わせれば、ただ単純に「頑張れない」というものも病気にしていいと思う。
それは、改善できる物だからである。
病気の定義とは血が出る事でもないし、熱が出る事ではない。
単純に「改善の見込みがあるもの」だからだ。
最後に精神病を患っている方々に言いたい事がある。
それは、病気は「盾」にする物ではないという事である。
盾にすれば、周りの人間から攻撃されいずれは立っていられなくなってしまうだろう。
盾とは攻撃から守る為にあるからである。まるで攻撃をしてくれと言わんばかりに。文章の最初の方に話した鬱病の方の話もこれが引き起こしたと思っている。
だから病気は「剣」にして欲しい。
私が数多く話してきた病気の方達は皆優秀でした。
病気の方々は重い鉄を背負って生きているわけです。
だから、その鉄を下ろした時の力は素晴らしい物なのです。
最後に、周りに「辛い」といっている方が居たら、何処か有名な病院に連れて行ってあげて下さい。個人的に大学病院はお勧めしません。
病院で「病気でない」と診断されても、その方が辛そうでしたらまた何処か違う病院に連れて行ってあげて下さい。
生きていく事はそんなに辛い事ではないですから。
楽しくなくては意味が無いというのが私の持論です。
病院に行って病気と診断されたら、まずやる事は、薬を調べて下さい。
あまり強い薬でしたら、医師と相談の上に止めるか、私に相談ください。
あまり気にしないで下さい。治りますから。
何か救われたわ。ありがとう。
どうもありがとうございます。
PCの調子が悪く、
返事が遅くなってしまい申し訳ありません。
これかも見ていただければ光栄です。
偶然見つけて読みました。
何か、とても救われました。
涙が出ました。
もう見ていないかもしれませんが、
ありがとう。
貴方が書いた言葉のおかげで、今まで我慢していたものが溶けました。
辛くてもいいんだ。
自分の弱さを無視しなくていいんだ。
そう思えました。
頑張って生きます。見ていなくても構わない、ありがとう。