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赤い月が輝く夜には綺麗な花束を。

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死刑論〜日記〜

「全てのものは合理的であるべきだ」

というのが私の思想の基盤である。
何故なら私は争いが嫌いだからだ。合理的な思考から争いなど起きない。
そもそも争い自体が合理的でないからだ。







しかし、人間の根源は感情にあるのか、合理的な思考が出来る知性にあるのかは解らないのだ。






この基盤に基づいて私はある一つのものを批判したい。

それは死刑である。これは合理性を持たない。
言うならば意図と結果の不一致が見出される。

勿論、罰というのは人間社会という物において重要な役割を持っている。
それは一種の縄の様な物であり、多くの人間が散らばってしまわない様にと、あらかじめ縛っておく。
縄の外に出ようとする者がいたならば、罵詈雑言を浴びせられ、罰を与えられる。
縄といっても中の住人にとって負の面は少なく、逆にその輩達はそこで温かさを感じ安らぎを得る事が出来る。

では何故外に出てはいけないのだろうか。
それは恐らく「ルールだから」という陳腐な答えになってしまうだろう。

ここで、「なぜルールだと外に出てはいけないのか」という議題にしても、まるで円周率のような疑問が繰り替えされるだけであろうから、なるべく此処では議題にしたくは無いのだ。

そもそも、こんな事に疑問を抱くのは反社会派の外道鬼畜米兵くらいなものである。(鬼畜米兵というのは先程観ていた「火垂るの墓」の影響で大した意味は無い)寧ろ、疑問等抱いてはいけないのである。それこそ反社会派になってしまう。
しかし私はこの反社会派の外道鬼畜米兵は嫌いではない。
何故ならこれは正しい疑問だからである。
だから、この前途有望な反社会派の外道鬼畜米兵の為に簡単な補足を付け加えたいと思う。

==================================
ルールは何故守るのか?

人間はルール無しでは生活出来ない。勿論、ルールとは上にいる人間が定めた自分に有利なものだという意見を数多く聞くが、その通りだとも思う。
そもそもルールとは言葉を変えると規制である。(この説明はルールを守る事に対して疑問を抱いた方への説明であるから規制という言葉が適切だあろう、規則という言葉にしてしまうと我々の先入観からなんら問題ない物になってしまう)
規制というのは冒頭に述べた様にある種の束縛である。
この束縛が無かったとしたら人間は行動を規制されてしまうのである。
少し狐につままれた感覚を覚えるかも知れないが、これは事実である。

例えば、試験をひかえた学生が休日を勉強出来ずに終えたりするのもその一種である。要は時間が多すぎて時間の使い方が分からなくなるわけである。事実、我々が休日を有効に活用し、楽しむ事が出来るのも規制のお陰である。
言うならば「自由という不自由」というのは行動を規制してしまうのである。
よって皮肉な事に我々は規制によって生活をより円滑にすることが出来るわけである。

勿論この例に当てはまらない規則はとても多く存在する、しかしルールの利用法
とはこの程度で、、、

(この場合はルールを規則というニュアンスのみで話を進めているが実際このニュアンス以外のルールも存在する。例えば、生き物を殺す事についてだったり、物を盗む事についてだったり数多く存在する。この事についてはそれぞれの倫理観での判断をお願いしたい。その時基準にすべきものは「自分がやられて嫌な事はしない」というもので十分であろう。その為、今は規則という一番怪しく、あやふやなルールを取り上げている)

      、、、それ以外のものは胸を張って排除して良いと私は思う。



===================================
では話を戻そう、罰とは縄の様なものだと私は形容したので

       罰≒縄=ルール

という等式が成立する。この場合ルールとは支配者に匹敵し、「罰」と「縄」を支配しているともいえるだろう(この事については後述)私はこの文章ですべての物に合理性を持たせるべきだといっているし、皆様もルールは意義あるものでなくてはならないという事に対して意義はないだろう。

ここで、



         ルール(意義あるものでなくてはならない)
          ↓
         縄(≒規制≒「意義あるもの」とは記述済み)
          ↓
         罰(?)



ここで罰が「全てのものは合理的であるべきだ」という観点で見れば、意義あるものにならなければならないのは自明であろう。
ルールが意義あるものならば、そのルールを犯した時に与えられる罰が意義あるものでなければならないし、
逆に矢印を反対に変えて罰に意義がないとするならば、そのルールは意義の無い罰を与える事によって意義の無いものになってしまうのである。


では、罰とは何か、何の為に与えられるのか、言い換えると何故必要だったのかというところに落ち着く。
それはあくまで善意的に言えば、共存していく為だろう。
全てのものは等価交換なのだ。
罰と引き換えに何かを得なくてはならない。何かを与えて何も返って来ないならば、それこそ意義のないものになってしまうであろう。
人を殺した者へ死ぬほどの苦痛を与え、自分がされて嫌な事をしたという矛盾を分からせる。
それでは罰を与える者は何も得ないではないか。という人もいるかも知れないがそうでは無い。其処には何かが発生しているのである。
罰を与えられた人間には最初、憎しみが生まれるであろう。しかし、その人間に憎しみが生まれた瞬間から自分の矛盾に気付いた時、それは生まれる。
強いて言うならばそれは愛と呼ばざるを得ないだろう。
罰とは愛である必要があるのだ。
当然の事ではあるが必要性が無ければ意味は存在しない。
少し言いたいのだが、「叱る」というのも罰である事を忘れている方が非常に多い。自分の叱り方がこの罰の意味と必要性を欠いていないかを今一度確かめてみてはいかがでしょうか。

こう話を進めていくとどうやら「罰」とは「償い」とは違う物のようだ。
我々の価値観においての罰の意義は償いという形では見出せないのだ。
何故なら、償いとは何も得る事が出来ないからである。それは罰の意味と必要性に反する。

明らかに、死刑は「償い」に近いものであろう。要は「死んで詫びろ」という言葉には、何の合理性もないのである。よって死刑は罰の意義を満たしていない為、罰の範疇外かつ、ルールの範疇外なのである。よって死刑に意味はない(これは死刑を罰ないしルールの一つだと認識していた場合のみ)
これは先ほどの罰は等価交換によるものでなくては意味を成さないというものにより、死と引き換えに得る物がない事から導かれる。

感情を否定する様に書いてとても心苦しく思いますが、全ての物に意味は必要なのです。私にとって「死んで償え」というのは何の合理性もない。 この様な非合理的な感情は私は好まない。



それは、、、戦争が起きるからだ。


宗教戦争を含めるあらゆる戦争はこの人間の持つ非合理的な感情に引き起こされたものではないだろうか。
独占欲、支配欲等、列挙すれば限がないだろう。
非合理的な感情の大半は察しの通り「欲」だと言われている。
  

最後にもう一度言いたい。
















人間の根源は感情にあるのか、合理的な思考が出来る知性にあるのかは、まだ解らないのだ。

だが、合理的な感情も存在する事を忘れてはいけない。必ず戦争は終わらす事が出来る。


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キーワード:
火垂るの墓

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コメント

  • Unknown
  • (Unknown)
  • 2005-12-14 17:55:45
  • 死んで償え

    には合理性が無いって、それは当人からしたらそうかも知れないけれども。死刑相当の罪とは殺人ですよね。その殺された人の家族の身に成って下さいよ。

    例えば死刑が我が国から撤廃されたとして、無差別殺人を犯した犯人が

    人を殺しても自分は殺され無いから

    と言って居たら、貴方はどう感じますか。それでも死刑制度を否定しますか。

  • コメントありがとうございます。
  • (SATOLAPIA)
  • 2005-12-15 01:28:26
  • 非常に良いコメントだと思うのでブログとして出してそれに私がコメントして、という事でいいでしょうか、勿論私もまだ若造なもので他の皆様からも意見が欲しいのです。

  • Unknown
  • (Unknown)
  • 2005-12-15 21:03:30
  • 光栄です。有難う。駄文で申\し訳無い。手直しして下さって結構\です。宜しくお願い致します。

  • Unknown
  • (SATOLAPIA)
  • 2005-12-15 23:06:08
  • 書きました。ご期待にそえるかどうかは解りませんが、自分なりに考えて書きました。UNKNOWNさんの文は語尾を少々変えさせて頂きました。

    まだ、「あれ?」と思う箇所がありましたら、お手数ですがコメント欄に書き込みをお願いします。

    コメントありがとうございます。

  • Unknown
  • (satorapia)
  • 2006-02-27 05:30:53
  • ありがとうございます。見てみます。

    死刑はやっぱり悲しい。

    悲しい事を世界から消したい。

    遺族の方には犯人を死刑にすることに対して生きがいを感じて欲しくない。

    最近思うのは、犬を殺す保健所と、ユダヤ人を大量殺戮した収容所の違いは何だろう。