この文章は教会の方とのやりとりの中の
「聖書に書かれた事は全て真実である、そして聖書は神によって書かれた」
という発言に対しての反論である。
私はあえて、歴史的な事実を言及したりはしない。
何故なら、それは確かめられない為に、あやふやな討論になるからである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
教会の人に合理的な理論は通用しない、そして特に聖書は一切合理的ではない。
これは聖書に書かれている、比喩的なものを超えた「超能力」の表現からも言えるだろう。
故に、聖書は「教え」という物を超え、「偉業」を語る物となっているとも言える。
この事を踏まえて、
人間は合理的な物で無ければ受け入れにくい生き物であるという事と、
全ての人々がイエスキリストを信じているわけではない
と言う2つの事から考慮すると必然的に戦争が起こる。
この事を考慮すると、
聖書に合理性を持たせなかったイエスキリストは正しいとは思えない。
あるいはイエスキリストは人間をよく知らない。
神の行いが全て正しいとするならば、神はあえて、聖書から合理性を失わせ、神をキリスト教だけの物として他宗教から反感を買い、神はあえて戦争を起こさせた。
この結果は神の予想を超えていたのか、
いや、この程度は凡人でも想像出来るだろう。
ましてや全てを知る者ならなおさら。
仮に予測出来ていたとすると、その先に何かを見越しての事かも知れない。
でもそれは、何かを実現する為には犠牲は仕方が無いという考えの下。
そんなもの私は神と呼ばない。
いや、私だけではないだろう。
この文を読んで矛盾が見つけられないのであれば選択肢は2つ。聖書は完璧でないという事と、神は意図的に人を殺したという事。
それ以外はただの幻想以外何物でもない。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
これ、なんですがね。
お分かりの通り、相当興奮しております。
何が言いたいのかを要約すると、
「聖書は神が書かせたと仮定すると、神は犠牲を省みないお方。
もしくは、人間をあまり知らない。故に全てを知る者ではない。」です。
神が聖書を創り、聖書の内容が全て真実ならば、
↓
=====================================
まず、聖書が不合理だという事を説明し、
その不合理さから生まれる争いがある事は自明です。
その不合理さをあえて神が出したのならば、神は犠牲を省みない。
または、その不合理さと、不合理さから出る犠牲が予想外だったとしたら、
神は全てを知る者ではないという事。
=====================================
結局何が言いたいかと言いますとね、聖書は使徒が書いたもの以外なんでもないんですよ。
確かめられませんがね、「神」が書いたと仮定すると「神」ではなくなるのです。
犠牲を省みない者を神と呼ぶならまた話は別ですし、
一応、神の基準は一般的なキリスト教徒の方々に合わせてます。
だから、聖書が全て真実だと思うのは決して良い事ではないということです。
確実に使徒はイエスキリストは表現出来ていませんから。
簡単に言うと、今コレを読んで下さっている方が私の本当に思っている事(言いたい事を要約するのはおそらく簡単)を
要約するのは無理でしょうし、実際私も言葉に出来てません。
そんな事不可能なのです。自分の価値観を加えずに相手の話を聞くなどという事は。
結論を言いますと、キリスト教の方は
少しは自分の頭を使って考えて下さい。
イエスキリストが言いたい事は
「動物は天国に行けない」
等といった事ではないからです。
「聖書に書かれた事は全て真実である、そして聖書は神によって書かれた」
という発言に対しての反論である。
私はあえて、歴史的な事実を言及したりはしない。
何故なら、それは確かめられない為に、あやふやな討論になるからである。
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教会の人に合理的な理論は通用しない、そして特に聖書は一切合理的ではない。
これは聖書に書かれている、比喩的なものを超えた「超能力」の表現からも言えるだろう。
故に、聖書は「教え」という物を超え、「偉業」を語る物となっているとも言える。
この事を踏まえて、
人間は合理的な物で無ければ受け入れにくい生き物であるという事と、
全ての人々がイエスキリストを信じているわけではない
と言う2つの事から考慮すると必然的に戦争が起こる。
この事を考慮すると、
聖書に合理性を持たせなかったイエスキリストは正しいとは思えない。
あるいはイエスキリストは人間をよく知らない。
神の行いが全て正しいとするならば、神はあえて、聖書から合理性を失わせ、神をキリスト教だけの物として他宗教から反感を買い、神はあえて戦争を起こさせた。
この結果は神の予想を超えていたのか、
いや、この程度は凡人でも想像出来るだろう。
ましてや全てを知る者ならなおさら。
仮に予測出来ていたとすると、その先に何かを見越しての事かも知れない。
でもそれは、何かを実現する為には犠牲は仕方が無いという考えの下。
そんなもの私は神と呼ばない。
いや、私だけではないだろう。
この文を読んで矛盾が見つけられないのであれば選択肢は2つ。聖書は完璧でないという事と、神は意図的に人を殺したという事。
それ以外はただの幻想以外何物でもない。
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これ、なんですがね。
お分かりの通り、相当興奮しております。
何が言いたいのかを要約すると、
「聖書は神が書かせたと仮定すると、神は犠牲を省みないお方。
もしくは、人間をあまり知らない。故に全てを知る者ではない。」です。
神が聖書を創り、聖書の内容が全て真実ならば、
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まず、聖書が不合理だという事を説明し、
その不合理さから生まれる争いがある事は自明です。
その不合理さをあえて神が出したのならば、神は犠牲を省みない。
または、その不合理さと、不合理さから出る犠牲が予想外だったとしたら、
神は全てを知る者ではないという事。
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結局何が言いたいかと言いますとね、聖書は使徒が書いたもの以外なんでもないんですよ。
確かめられませんがね、「神」が書いたと仮定すると「神」ではなくなるのです。
犠牲を省みない者を神と呼ぶならまた話は別ですし、
一応、神の基準は一般的なキリスト教徒の方々に合わせてます。
だから、聖書が全て真実だと思うのは決して良い事ではないということです。
確実に使徒はイエスキリストは表現出来ていませんから。
簡単に言うと、今コレを読んで下さっている方が私の本当に思っている事(言いたい事を要約するのはおそらく簡単)を
要約するのは無理でしょうし、実際私も言葉に出来てません。
そんな事不可能なのです。自分の価値観を加えずに相手の話を聞くなどという事は。
結論を言いますと、キリスト教の方は
少しは自分の頭を使って考えて下さい。
イエスキリストが言いたい事は
「動物は天国に行けない」
等といった事ではないからです。
キリスト教は白人がつくり出した都合の良い思想ですね。聖典には元々イエスは褐色の肌だと書かれていたのに、キリスト教系の出版物の挿絵には全てイエスが白人として描かれている・・・・・。
確かにそうですね。
しかし、キリスト教はもともとは、
「他人を隣人のように愛せ」
「右頬を打たれたら左頬を出せ」
だったり素晴らしい思想は多くあります。
だけれどもその思想も時代の変動と共に、本来そのイエスが言った事について信者が自らが考える事の大切さというのが薄れていってしまったのも事実です。
自分達の事を客観視できないまま神を絶対化するという事は必然的に争いを起こしてしまうのです。