「我が軍の主攻軸はヴィルヘルムシュトラーセに沿う形で伸びていたが、この通りはティーアガルテンに突き当たり、帝国官房と議事堂も程近いところにあった。私たちを大いに悩ませたのはファウスト兵だった。彼らはマンホールや地下室などの中に潜み、路上を進んできた戦車を撃つのである。パンツァーファウストが発射されると、戦車はたちまち炎に包まれた」
M.E.カトゥコフ『主力打撃軍の先頭に立って』より
ベルリン強襲時の市街戦における携帯型対戦車兵器の活躍は、第2次世界大戦にまつわるステレオタイプの中でも、最も根強く残っているものの一つである。しかしながら、偉大にして恐るべきファウスト兵たちの物語を詳細に検討してみれば、ベルリン戦では彼らこそが戦車の最も危険な敵であったとの認識は、基本的には回想文学の産物であることが分かる。例えば本稿の冒頭に掲げた一文のように。
戦闘に参加した人々の回想録を読んでも、ベルリン強襲の際、かの有名なパンツァーファウストにより失われた赤軍装甲車両の具体的な数を知ることは全く期待できない。そもそも、回想録により正確な数値の把握を試みるなどは、研究者としては楽観的にすぎる行為と言わざるを得ない。ドイツ軍の使用した携帯型対戦車兵器に関する根拠薄弱な評価は、体験者の回想から学術・一般書へはばかることなく移植されているのであり、この事実には注意が必要であろう。
「東ポンメルン攻略作戦に参加した第2親衛戦車軍第2機械化軍団を例に挙げると、同軍団が喪失した戦車のうち60%はパンツァーファウストにより破壊されている。戦車隊は、歩兵を跨乗兵として戦車に随伴させるだけでなく(この戦術自体は労農赤軍が戦争初期から採用していた)、ファウスト兵と戦うため、歩兵及び短機関銃手による専門の部隊を編成する必要があった。1945年春、ベルリンに到達するまでの戦いで、パンツァーファウストのために失われた戦車の割合は11.3〜30%(各戦車軍により異なる)に達していたし、ベルリンの市街戦ではより大きな損害が出た。ベルリン作戦の過程で失われたT-34のうち、およそ10%はパンツァーファウストによるものである(もっとも、市街戦で戦車の損失率が高まるという事実は、パンツァーファウスト出現以前から知られていた)」
これは、S.V.フェドセーエフが『技術と兵器』誌の2002年第2号に掲載した論文「歩兵対戦車」の一節である。残念ながら、ベルリンでファウスト兵のために被った戦車隊の損害が実際にはどれくらいのものであったか、この論文では全く明らかになっていない。11.3%か、30%か、それとも10%なのか?その上、東ポンメルン作戦に参加した第2親衛戦車軍第2機械化軍団などという兵団は、現実には存在しなかったのである[実際に第2親衛戦車軍の指揮下に入っていたのは第1機械化軍団]。
携帯型対戦車兵器により生じた戦車の損害については、より現実的なデータも存在する。一例として、1945年6月に作成された「ベルリン作戦(1945年4月16日〜5月2日)における第1親衛戦車軍の戦闘報告」をご紹介しよう。報告書の作成者は第1親衛戦車軍参謀長のM.A.シャーリン中将と、作戦部長を務めたM.T.ニキーチン中佐である。
1945年4月16日から5月2日までの間に、M.E.カトゥコフ[第1親衛戦車軍司令官]の兵団は、戦車・自走砲合わせて232両を全損で失っている。車両の種類別に見た損害内訳は以下の通り。
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T-34 | IS-2 | ISU-122 | SU-85 | SU-100 | SU-76 | SU-57※ |
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433 | 64 | 20 | 17 | 41 | 58 | 76 |
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185 | 12 | 3 | 5 | 8 | 16 | 3 |
かくして、M.E.カトゥコフは手持ちの装甲車両709両のうち232両、つまり32%を失ったことになる。損害の規模としては中程度のものと評価できるだろう。比較の対象として1943年のクルスク戦におけるデータを示すと、第1親衛戦車軍[原文ママ。第1戦車軍が親衛称号を帯びるのは、実際には1944年に入ってからのことである]は、1943年7月5日から20日までの間にT-34とT-70、T-60の合計645両をもって戦闘に参加したが、358両(67%)の全損を含む530両が戦列を離れる結果となった。しかも、525両のT-34のうち、316両すなわち60%が全損に帰している(ロシア連邦国防省中央文書館、書群第299号、目録第3070号、d188、99ページ)。一方のベルリン作戦では、433両のT-34のうち185両(42%)が失われた。これに加えて指摘しておきたいのだが、1943年7月の損害として提示した資料は、実際には第1親衛戦車軍の第3機械化軍団、第6及び第31戦車軍団のみを対象としたものである。その一方で、[第1戦車軍への]配属部隊は寧ろこれよりも大きな損害を出している(第180戦車旅団では43両のT-34のうち37両を失い、このうち全損数は33両に達した)。すなわち、クルスク戦の防御フェイズにおいて、第1親衛戦車軍の機材は2週間の戦いの後にほとんどが戦列から離れたことになる。ゼーロウ高地を突破し、ベルリンで市街戦を展開した時と比べても、より速いテンポで戦車の数が減じていったわけだ。1943年と1945年の差異は、一見しただけで明らかなものであろう。
ベルリンの市街戦において、M.E.カトゥコフの兵団では104両の装甲兵器が全損で失われているが、これは損害全体の中で45%、また作戦開始時に兵団が保有していた車両数の15%にあたっている。つまり、第1親衛戦車軍はより小規模な損害でベルリン強襲を乗り切ったということなのだ。
ベルリンとゼーロウ高地の戦いで、ソ連軍の戦車に最も大きな損害を与えた対戦車兵器は何だったのだろうか?当時、破壊された戦車に関しては、その一部を抽出しての調査が行われている。統計の作成は(少なくとも1942年半ば以降は)必須の作業であった。戦闘による損害のデータは、労農赤軍装甲車両総局に送付された。第1親衛戦車軍の全損戦車・自走砲75両を取り上げてみると[註1]、その内訳は以下の通りである:調査の対象となったT-34は65両、うち砲により失われたものが58両、航空攻撃によるものが2両、パンツァーファウストに破壊されたものが5両(ロシア連邦国防省中央文書館、書群第299号、目録第3070号、d771、57ページ)。重戦車IS-2では、調査された7両すべてが砲の犠牲となった。ISU-122では2両が砲に、もう1両がパンツァーファウストにより破壊されている。また、調査を受けた75両の戦車と自走砲には、合計で113発分の命中弾が観察されたが、うち60発(53%)が車体側面、16発(14.6%)が車体前面、6発(5.3%)が後部、27発(23.9%)が砲塔、そして4発(3.5%)が走行装置に当たっていたという(ロシア連邦国防省中央文書館、書群第299号、d771、57ページ)。
この他にも、最終的な喪失にはつながらない程度の損害を受けた装甲車両の数は、作戦の全期間を通じて199両に達した。調査の対象に選ばれた戦車と自走砲は103両で、合計199発の命中弾が認められたが、全損に至らない被弾の多くは前面装甲に見られたことが分かっている。調査された戦車と自走砲のうち、車体側面に命中弾を受けたのはわずか17.4%であった。
すなわち、統計の結果に従うなら、第1親衛戦車軍がパンツァーファウストの攻撃により失った装甲兵器の割合はわずか4%。そして、このパーセンテージを基礎とした場合、同軍がベルリンでファウスト兵のために破壊された車両は8両、最悪でも10両にとどまったことになる。戦車軍の規模からすると、問題にならない程度の損害と言えよう。
「敵ベルリン集団の撃滅及びベルリン市占領に関する第1ベラルーシ戦線第2親衛戦車軍の戦闘報告」の中にも、充分な量の統計資料が含まれている。作戦の全期間を通じ、S.I.ボグダノフ[第2親衛戦車軍司令官]の兵団では204両の全損車両が生じた。その内訳は以下の通りとなっている(ロシア連邦国防省中央文書館、書群第307号、目録第4148号、d336、105ページ)。
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T-34 | M4A2シャーマン | IS-2 | ISU-122 | SU-100 | SU-85 | SU-76 |
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305 | 176 | 32 | 41 | 46 | 11 | 53 |
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123 | 53 | 7 | 7 | 7 | 1 | 6 |
これに従えば、第2親衛戦車軍の全損率は(作戦開始時に保有していた664両の装甲車両のうちの)31%で、M.E.カトゥコフの兵団[第1親衛戦車軍]とほぼ同じ割合であったことが分かる。ベルリンでの市街戦において、第2親衛戦車軍は52両のT-34、31両のM4A2シャーマン、4両のIS-2、4両のISU-122、5両のSU-100、2両のSU-85、6両のSU-76を全損で失ったが、これは作戦中の全損車両の51%にあたり、また作戦開始時の保有車両と比べると16%にあたる数字である。これ以外にも、損傷は受けたものの修復後に復帰を果たした装甲車両が92両。また、何らかの形で戦列を離れた戦車・自走砲は576両が記録され、そのうち砲による損害が259両、地雷によるもの25両、航空機によるもの29両、パンツァーファウストにやられたものが106両、擱座22両、炎上135両(炎上に区分された車両は、損失の原因が特定できなかったのであろう)となっている。言うまでもないことだが、「戦列を離れた」と分類されたグループの中には、2度もしくは3度の修理を経て復帰した車両も含まれているわけだ。このカテゴリーに含まれるT-34のうち、108両は砲に、また65両はパンツァーファウストにより撃破されたことが分かっている。
第2親衛戦車軍が保有していた装甲車両について、ベルリン戦でのパンツァーファウストによる損失(損失全般と全損の双方)の割合を20%と見積もったとしても、S.I.ボグダノフの兵団は市街戦の中でファウスト兵の攻撃により10両のT-34、6両のシャーマン、1両のIS-2を全損で失ったという計算になる。とは言え、パンツァーファウストのせいで第2親衛戦車軍が第1親衛戦車軍よりも大きな損害を被ったこと自体は否定できない。これは何よりもまず、S.I.ボグダノフの兵団は歩兵の直接支援に回されることなく、諸兵科軍の歩兵軍団にも配属されず、ベルリン市内で独立して行動したという事実によって説明できる。装甲から600ミリの位置に設置した防護ネットも、戦車をパンツァーファウストにから救うことはできなかった(報告書によれば、パンツァーファウストが命中した場合の貫通能力は2分の1に減少したが、それでも装甲を抜かれた例があるという)。
註1:原文では期間が限定されていないが、以下の文脈から判断するとベルリン作戦に限ってのデータであろう。