T-34再考(5)
T-34が持っていた様々な弱点、そして信頼性の低さについては、一体何が原因であったかを考察する必要があるだろう。このような原因は数多く存在していたが、大別すれば生産現場の問題、技術的な問題、そして設計上の問題に分けることができる。最初の2つは、戦争初期のソ連が極めて苦しい状況に置かれていたという事実で容易に説明される。数百の企業の慌ただしい疎開、生産現場同士の連絡の切断、膨大な人的・物質的資源と原料の喪失、生産組織を新しい環境で再組織するという作業、しかもその環境たるや戦車工場を受け入れるにはほど遠く、熟練工を初めとして必要な資源が根本的に不足していたという事情を考え合わせると、製品の質を向上させるどころか、戦前のレベルの保存でさえ困難であったことは想像に難くない。
かかる状況の中では、常に最も望ましい技術的解決を選択できるとは限らず、そもそも選択肢自体が存在しない場合も少なくなかった。もともと設計というものは、生産にあたって具体的な物質的基盤を利用できることを前提として成り立っている。しかし、もしもこの基盤が失われるか、あるいは大きく変化した時には、何とかして新たな環境に適合する努力をしなければならず、状況に応じた解決策を模索し、妥協し、ひらめきに頼った決定が必要となる。だが、特に時間と資源が不足しているという条件の中、このような解決策で最良の結果を期待できるものではなかった。
従って、食事も睡眠も充分ではなく、しばしば病に苦しみ、暑さや寒さの中、雨の下、雪の下、時には敵の空襲を受けながら、恐るべき力を持つ「34」を何万両も前線に送り出すために尽力した人々を非難しようとする者はいないだろう。
だが、T-34の欠点の多くは、実は元々の設計に由来するものなのである。本車の開発は30年代末に始まっているから、全てを戦争のせいにすることはできない。しかしそうなると、責任を問われるべきは戦車の開発陣なのであろうか。難しい問題だが、この件についても考えてみる必要があるだろう。
T-34がM.I.コーシキン、N.A.クチェレンコ、A.A.モロゾフを中心とする技術者たちによって誕生したことはよく知られている通りである。彼らはどのような人々で、どの程度の知識と経験を持ち、いかなる条件の中で働き、このプロジェクトに対しどれだけの貢献を行ったのだろうか?
M.I.コーシキンは1898年12月3日に生まれた。1921年から24年にかけてYa.M.スヴェルドロフ記念共産主義大学で学んだ後、ヴャトカ市で党の仕事に就いている。技術者としての道に進んだのは遅く、レニングラード工業大学を卒業したのが1934年のことで、その後はS.M.キーロフ記念レニングラード試験機械工場の設計技師として、党事務局書記として、また設計局副局長として働いた。設計に携わった期間はわずか2年半しかなく、この間にT-29とT-46-5の開発プロジェクトに加わった。両車ともわずかな数が試作されただけで、量産には至っていない。
1936年12月28日、コーシキンはハリコフ第183工場に派遣され、すぐに第190戦車設計局の主任設計師を拝命した。彼がここで直接主導した唯一のプロジェクトはBT-9戦車の開発であるが、これは発注者の要求にそぐわず、また技術的にも大きなミスを犯していた(例えばこの戦車のサスペンションに取りつけられた転輪のバランサーは、位置が前の方にずれていた)。同僚たちの回想から判断する限り、コーシキンはチームの皆から敬意を集めるタイプの人物であったらしい。彼はプロジェクト全体の指揮を執り、これを進めるための作業を組織し、上層部の助けを借りて「突破口を開く」力を持っていたし、人々をいわれのない弾圧から守り、時には逮捕された者を何人か救い出すという、当時としては非常に重要な貢献を行うことができた。その一方で、コーシキン自身が技術的な方面で特に優れているわけではなかった。
N.A.クチェレンコもまた若手の設計師で、1907年1月6日生まれだった。ハリコフ輸送技術大学を卒業したのは1930年。生産分野に関する素晴らしい知識を持つ専門家であり、T-34の誕生にあたって大きな貢献を成し遂げた。本車が持つ、安価で生産に手間がかからないという長所は、多くの点でクチェレンコの働きにより達成されたものである。このためT-34 は戦時の過酷な条件下でも大量生産することができ、第2次世界大戦で最も数多く作られた戦車となった。クチェレンコは主に、設計局と生産現場の間の連絡役を務めていた。
T-34の開発を主導した3人のエンジニアのうち、技術的な問題を解決する上で中心的な役割を果たしたのはA.A.モロゾフであった。彼は類い希な才能を持ち、独学で大成した人物である。1904年10月29日に生まれ、実科中学校を卒業した後でハリコフ機関車工場に就職、最初は事務職に就いていたが、後には複写や作図の係を務めた。それから徴兵され、空軍の発動機整備士として勤務した後、復員して工場に戻ると戦車生産部の設計グループに入り、設計師の道を歩み始めた。1929年から1931年にかけては、ハリコフ機械技術学校の夜間部に学んでいる。ちなみにモロゾフが高等教育を受けたのは、ようやく1950年代になってからのことであった。彼はA.Ya.ジーク率いる独立設計局でBT-20戦車のトランスミッション部長を務め、それから第24設計局に移り、コーシキンの下でA-20及びA-30計画の主任技師となった。コーシキンが病気のため長期にわたり現場を離れると、モロゾフはその代役として欠かせない存在になり、1940年9月26日にコーシキンが早すぎる死を迎えた後には、誰からも認められた後継者として第183工場の設計主任に就任したのである。モロゾフがずば抜けた才能と巨大なエネルギーの持主であったことは疑い得ない。しかしながら、当時のモロゾフにはまだ必要な知識と経験が不足しており、それは彼の能力とタフさをもってしても埋め合わせられるものではなかった。
目前に迫った戦争でソヴィエト陸軍の中核を担うべきT-34の設計が、率直に言えばいまだその域に至っていない技術者たちに委ねられたのは一体何故なのだろう?まず第一に、「34」があれほど栄光に満ちた運命をたどるであろうとは、当時誰一人として予想していなかったという事実を指摘しておかなければならない。ソヴィエト最良の戦車開発陣は、この時期はレニングラードに集中していた。N.V.バルィコフ、S.A.ギンズブルク、N.L.ドゥーホフ、Zh.Ya.コーチン、L.S.トロヤノフ、N.V.ツェイツを初め、才能と経験を豊富に持ち高い教育を受けた設計技師の多くは、レニングラードで働いていたのである。一方、ハリコフに開かれていたのは小規模な地方レベルの設計局で、そこではBTシリーズの戦車を生産するにあたり、設計面からこれを補完する作業を行っていた。BTのライセンスは、1930年4月28日にアメリカの発明家クリスティから購入されたものである。設計局は当初のモデルを少しずつ改良していき、BT-2、BT-5、BT-7、BT-7Mという形で進化させていった。しかしながら、プランの多くは試作段階に達するのが精一杯のところで、なかなか量産車両として採用されることはなかったが、それというのも技術者の数が不足していたからに他ならない。工場の戦車設計グループの組織者であり、初代の指導者でもあったI.N.アレクセーエンコは、ハリコフを離れてレニングラードへ移籍してしまった。1931年にその後任となったのがA.O.フィルソフで、設計グループは設計局へと改組された。
人材不足という問題は、粛清によっていっそう深刻なものとなった。設計局が活動を続けている全期間において、職員たちの誤りや手抜かりを破壊活動と見なし、彼らを逮捕するという出来事が何度となく繰り返された。とりわけ新たな粛清の波が押し寄せた1937年には、工場長I.P.ボンダレンコや、設計局長にして経験、教育、知識の面で傑出した技術者でもあったフィルソフなど、多くの人々が犠牲となった。
1937年8月、新型の装輪・履帯式戦車を開発し、作成せよとの指示が第183工場に下された。この重要な任務のため、ハリコフの技術陣を優れた人材で強化することが決まり、機械化・自動車化軍事アカデミーの卒業生たちからなる大集団が、ジークに率いられてやって来た。ジークはこの集団と、工場の技術者のうちでも最良のメンバーを基に、独立設計局を編成してその局長に収まった。独立設計局は工場の主任技師の直属であり、設計主任コーシキンはバイパスされる形となっていた。設計局ではBT-20と名づけられた戦車の原型が完成したが、これは指示された開発期限を1か月半超過していた。そしてジークは匿名の密告の犠牲となり、政府に与えられた任務を期限通りに遂行しなかったこと、またその条件を遵守できなかったこと等の理由で逮捕されたのである。彼は20年間の収容所送りとなり、独立設計局は解散させられてしまった。
ここで彼の仕事を引き継いだのがコーシキンで、彼はこの目的のため、後に第24設計局の名で知られるようになった特別設計局を新規に立ち上げた。技術陣の補充はなく、その上装輪・履帯式のBT-20と並び、履帯のみを備えた戦車も開発するという課題を与えられることになった。
コーシキンとそのチームは、任務を果たせなかった場合にどのような運命が待ち受けているかを、眼前でまざまざと見せつけられたわけである。従って彼らとしては、すでにBTシリーズで確立された設計技術を最大限利用する以外の手段は残されていなかった。ハリコフの技術者たちに知識と経験が不足していたことを考えると、根本的に新しい設計への挑戦はリスクが大きすぎたし、そのための時間も不足していたからである。
結果としてT-34は、BT-7Mと比べ新しい車体と砲塔の形状を持ち、装甲が厚く、武装も異なり、履帯だけで走行するが、それ以外は根本的に異なるところのない戦車として誕生した。T-34のパーツもユニットも、基本的にはBTのそれを強化したものである。既述の通り、BTのプロトタイプはクリスティ戦車であるが、これは1920年代に作られたもので、BT-7Mと比べると1.5分の1の重量しか持っていない。いかなる技術であっても改良には限度というものがあり、BT-7Mはすでにこの限界まで近づいていたと言ってよい。そしてT-34は、さらに倍近い重量に達しているのだ!
4段変速のギアボックスを採用した結果、「34」がどのような事態に見舞われたかについては、すでに検証してきた通りである。さらにもう一つ、先行モデルを機械的にコピーした例としてサイドギアを挙げることができるだろう。設計担当者にとって、伝達比5.7の高負荷減速機を作成するという課題自体は困難なものではなかった。また、生産現場の能力を考えると、スタンダードな平歯車の採用が望ましかった。こうした条件の中で高い伝達比のギアを作ろうとするなら、少なくとも2段は必要なところである。しかし、T-34のサイドギアはBTの図面を借用したものであり、たったの1段で構成されていた。このサイズに合わせてギアを設計する場合、駆動軸の歯車の歯数を10にまで減らさなければならず、このため歯元に切下げが生じ、危険なまでに大きな衝撃により歯が損なわれる結果を招いた。一般的な歯車の歯数を17以下に減らすと歯元の切下げが起きることは、機械工学の専門教育機関で基礎的な機械とメカニズムの理論を学んだ学生なら、誰でも知っているはずなのであるが。こうして、サイドギアもまた「34」の弱点の1つになった。T-34のサイドギアの故障は、軍の公式文書に記録されたものだけで、1942年1月1日から25日までの間に188件も発生している。しかもこれは全ての工場で生産された車体に関わっているから、特定の生産現場の問題ではなく、構造的な欠陥がもたらしたものだと考えていいだろう。必要な知識と経験の欠如は、T-34を創った人々の罪というよりは寧ろ、彼らの不幸であったと表現すべきであろう。しかしながら、とりわけA.A.モロゾフ自身にこのことが当てはまるのだが、彼らは決して立ち止まることなく、不断の努力を通じて自らの欠点を克服していった。次の作品となったT-44は、T-34に比べると数段進歩した設計となった。しかしこの戦車も、決して信頼性や耐久性において傑出したものと言うことはできず、制式採用こそされたものの、この問題が響いて大量生産には至らなかった。だが、続いて現れたT-54はあらゆる点において優れた兵器であり、強力で、安価で、信頼性も高かった。T-54/55とその数多い発展型が、世界の様々な国において10万両以上生産されたのも、決して不思議なことではない。これは、時代と国を超えた史上最多の戦車生産記録なのである!
この時までに、設計主任モロゾフと彼のチームは、第2次世界大戦においてT-34を初めとする様々な戦車を設計し、生産し、さらに実戦で使用するという経験を積み重ねていた。しかも、戦車の長所のみならず短所にも直面し、そこから貴重な教訓を引き出すことができた。ただし、設計チームのこうした経験をもってしても、T-54が我々に知られているような非の打ち所のない兵器として仕上がるには長い年月が必要とされた。最初の試作車両のテストが行われたのが1945年3月、しかし最終的に量産が開始されるには1949年を待たなければならなかったのである。残念ながら、T-34の設計者たちには、経験も知識も時間も全く不足していた。
その一方で、彼らは別の成果を残している。「34」の車体は重量面でもサイズでも充分な余裕を持つものであり、比較的安易な手段と短い期間で、戦車全体の根本的な再設計を行うことなく、すなわち生産のテンポを落とさぬまま、一定のパーツやユニットの改造が可能であった。例えば、5段変速のギアボックスは4段のギアボックスと簡単に取り替えることができた。T-34-85は最初に生産された「34」よりも20%以上重たかったが、この事実も足回りに影響を与えるものではなく、速度性能の低下はごくわずかですんだ。まさにこうした余裕のおかげで、T-34はいつでも転変極まりない戦場からの要求に合わせて進化し、しかも戦争の全期間を通じて高い生産性を維持できたのである。
すでに指摘してきた通り、T-34の設計は非常にシンプルであり、当時の我が国の工業レベルに適合していた。この特質は、T-34の生産と戦場での修理を容易なものとする上で大きな効果を発揮した。もう一つ、この戦車の重要な長所として評価できるのが、操作技術の習得の容易さである。これにより、短期間に充分な数の「34」の乗員が確保され、膨大に生産される車体の運用が可能となった。また、当時の赤軍を支えていた人的資源の教育水準はそれほど高くはなかったが、T-34の取り扱いに必要な技能はこのレベルに沿うものであったと言っていいだろう。
戦車の品質や信頼性、耐久性に関する要求は、平時と戦時とでは全く異なっている。このこともまた理解しておく必要がある。平時における戦車が長期的な運用を期待されているのに対し、戦時のそれは単なる消費材にすぎない。戦車の品質は、予想される活動期間の枠内で何とか耐久性を保障するだけのレベルに引き下げられるかもしれない。その代わり、生産の労力と欠乏しがちな資源とを節約することによって、より多くの生産数を期待することができるのだ。しかし戦争が終わると、このような戦車に対して改装を施し、平時の運用にも充分なレベルにまで信頼性や耐久性を引き上げなければならない。ソ連においては、戦後の戦車改装プログラムはUKNすなわち構造的欠陥除去計画と呼ばれた。1945年から1968年にかけて、戦時中に生産された戦車及び自走砲数千両が同プログラムの対象となったが、その中にはT-34も含まれていた。UKNの結果、「34」の規定耐用走行距離は2000キロにまで伸びており、しかもこの数字は書類上だけではなく現実に達成されたものであった。プログラムはこれらの戦車の寿命を大幅に延ばし、代わりとなる新しい車体の生産に必要な巨額の費用を節約することができた。本稿を締めくくるにあたり、アバディーンの技術者がまとめたT-34試験結果の公式報告書の一部をご紹介しておきたい。彼らは、戦車とその開発者たちを以下のように評している。
基本的な技術的決定の結果、T-34の設計は、非熟練労働者の手による大量生産が可能な優れたものとなっている…
T-34の極めて優れた点としては、背が低い流線的なシルエット、シンプルな設計、平均接地圧の低さが挙げられる。また急な角度のついた装甲は、防御力を著しく向上させているが、戦闘室の容積を制限する結果にもつながった…
設計は非常に高いレベルにあると言ってよい。このような讃辞は、ほぼ同時期にイギリスの試験担当者たちが行ったT-34の評価と極めてよく似通っている。アバディーンに送られた車体の兄弟とも言うべきT-34を調査したイギリス人たちは、その報告書を以下のような形でまとめたのであった。
最も重要な戦闘能力と戦時の基準とをはっきり理解した人物が、ロシア兵の特質と当該兵器が使用される場所の地形、及び現在のロシアの工業力を計算に入れた上でこの戦車を設計したことは一目瞭然であろう。ロシアは工業大国となってから日が浅く、またその工業地区の多くが敵に占領され、工場と労働力を急いで疎開させた結果として大きな損失を被っているという事実を考慮に入れるなら、これほど効果的な戦車を開発し、かくも多数生産している事実自体が第一級の技術的達成なのである。
反ファシズム同盟諸国からのこうした評価は、反論の余地のないものと言うことができるだろう。
(了)
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