T-34再考(4)


 全体を通してのコメント:
 アメリカ人の目には鈍足な戦車と映っている。一方で、我が戦車は両車種とも、アメリカのいかなる戦車よりも優秀な登坂力を持つ。装甲板の溶接は極めて粗く、雑である。無線機は、実験室内で行った試験では良好な結果を残したが、実際に戦車へ搭載してみると、遮蔽性の問題と防護システムのレベルの低さから[混信を防ぐための機構のことか?]、10キロ以上の距離では満足な交信ができなかった。無線機のコンパクトさと戦車内での装備位置の巧みさは高い評価を得た。機器類や部品の細部の機械的な仕上げは、ごくわずかな例外を除いては非常に悪い。とりわけアメリカ人を苛立たせたのはT-34のギアレバーの部分で、彼らは長いこと苦労した挙句に自分たちでこれを新調し、元々の部品と取り換えてしまった。また、戦車のあらゆるメカニズムについて、考えられないほど多くの調整が必要とされている。

 一見したところ、このテキストは何か逆説的なものであるかのように感じられるかもしれない。ソヴィエトの戦車はアメリカのそれよりも鈍足で、にも拘らず良好な登坂能力を持つとは一体どういうことだろう?1942年の時点で、T-34の重量当たりのパワーは17.8馬力/トンであるのに対し、シャーマンの方は13.2馬力/トンにすぎないはずなのだ。しかし現実には、トランスミッションの欠陥が原因で、「34」は持てる力を完全に発揮することができないでいた。
 T-34のギアボックスは極めて使い辛いものであった。戦車は4段変速であるが、4段に入れることができるのは道路上を走る場合だけで、不整地では3段が限度となるため、平均速度は時速25キロ程度でしかない。だが、走行中のギアチェンジには大きな力が必要であり、とりわけ2段から3段へ切り替えようとするなら、初期生産型のT-34の操縦員は46キロから112キロの力を込めてレバーを動かさなければならないのだ!この原因としては、ギアボックスの構造上の問題と段数の少なさ以外に、伝達機構の設計ミスが挙げられる。1941年9月半ばにギアの3段目の歯車を交換したことで、ギアチェンジに必要な力は31キロにまで低下した。だが、不整地を走行中に、しかも頻繁なギア操作が必要である中で、これだけの力を使うのが大きな負担であることには変わりなく、T-34は多くの場合2段の速度で戦っていた。すなわち、最高速度は時速15キロ程度しか発揮できないのである。状況を根本的に改善したのは新型の5段ギアボックスで、これは1943年から「34」に装備され始めた。5段ギアの戦車は、不整地でもギアを4段に入れて行動できるようになり、そうした地形での最高速度も大きく向上するに至った。
 一方、急傾斜の斜面を1段で登坂する際には、T-34がシャーマンより重量当たりの馬力で上回っているという利点が遺憾なく発揮され、たとえ旧式のギアボックスでも優れた性能を発揮できたのである。
 1943年以前、T-34には71-TK-3型無線機が搭載されていた。カタログデータで見る限りは素晴らしい通話半径を持つ無線機で、戦車の行動中でも18キロ、停車してエンジンを止めている時であれば25キロが保証されることになっていた。だが現実には、このような遠距離では受信か、さもなければ電鍵を用いての交信だけが可能であり、双方向から安定して通話できる距離は半径たった4キロの中でしかない。これに加えて、無線機は製造も使用も難しいものであった。選択性が悪いため、とりわけ遠距離かつ移動中の戦車の中では調整が難しいという問題もあった。アメリカ人がこの無線機を肯定的に評価したのは、当時はアメリカ自体が低性能かつ図体の大きな無線機しか持っていなかった結果でしかない。同時代の無線機の中で優れていたのはイギリスの製品だった。1942年、ソ連はイギリスからライセンスを買い取り、1943年10月には9-R型無線機の生産を開始した。この型の無線機は、18キロ以内での安定した通話を保証したばかりでなく、T-34-85の全ての車体に取りつけられたのである。それ以前の無線機は、せいぜい小隊長車か中隊長車以上にしか装備されていなかった。一般の兵士の戦車は、受信機も送信機も持たずに戦っていた。T-34の戦車長が照準手の役割を兼ねていたこと、またこれまでにも指摘したように照準手席からの視界が著しく制限されていたことを考え合わせると、戦場での戦車同士の連携がどれほど困難であったかが理解できるだろう。
 ソヴィエト戦車の部品やユニットの品質が低かった理由については、本稿の中ですでに述べてきた通りである。これに加えて、1942年という年は、容易に想像できるであろうが、上記の品質が戦争の全期間を通じて最も低下した時期にあたることを指摘しておきたい。しかしその後、ソ連の設計者や技術者、生産現場が払った巨大な努力の結果、品質は一貫して向上し続けた。また、レンドリースを通じた機器や技術、工作機械、工具、原材料の獲得も、状況を改善する上で直接的な役割を果たしている。

 結論/提案
 両戦車とも早急に現行の空気濾過器を廃止した上で、大量の空気を吸い込む力を持ち、現実に空気を濾過できるタイプのものと交換すべきこと。
 装甲板の焼き入れの方法も変更する必要がある。これにより、同じ装甲厚でも耐弾性を向上させるか、もしくは装甲厚を減じて軽量化し、金属の使用量を節約することが可能である。
 履帯の重量をアップする。
 現在の旧式化したトランスミッションを、アメリカ製の「ファイナルドライブ」に交換する。これにより、戦車の機動力は大幅に向上するであろう。
 同時に、サイドクラッチ機構も廃止する。
 細部の構造を簡素化し、また信頼性を向上させ、膨大な量の調整作業をできる限り少なくすること。
 アメリカの戦車とロシアの戦車を比較した場合、明らかに後者の操縦の方が際立って難しい。ロシアの操縦手には、走行中にギアチェンジを行う名人芸レベルの技量、サイドクラッチを使用する特別な熟練度、またメカマンとしての豊富な経験と戦車を走行可能な状態に保つ能力(すなわち頻繁に故障する部品の調整と修理の能力)が求められる。このことは、戦車の操縦手の養成を極めて困難にしている。
 送られてきたサンプルから判断する限り、ロシア人は戦車を製造する際、加工の丹念さや細部の仕上げと技術にあまり注意を払っていないように見える。この結果、全体としては優秀かつ考え抜かれた設計の戦車が、折角の優位点を失ってしまっている。
 ディーゼルエンジンの採用、優れたフォルム、厚い装甲、優秀で信頼性の高い武装、履帯の設計の成功といった利点があるにもかかわらず、ロシアの戦車はアメリカのそれと比べると操縦の容易さ、機動性、火力、速力、機械的な信頼性及び調整の容易さといった諸点において非常に劣っている。

 これら全ての項目については、今までに述べてきた通りである。しかしながら、ソ連の技術者たちにとって、このような指摘が何ら目新しいものでなかったこともまた事実である。すでに1940年11月6日の段階で、国防人民委員S.K.チモシェンコは人民委員会議[内閣に相当]の国防人民委員部代表を務めるK.E.ヴォロシーロフに宛てた書簡の中で、T-34の設計に改良を加えるべき項目を9点にわたって示している。これらの要改善点とは、戦車の乗員数を増やすこと、視察装置の改良、通信機器の改良、信頼性の向上、サスペンションをトーションバー方式に変更すること、またトランスミッションに遊星機構を採用すること、等に関わるものであった。このような要求がなされた背景には、実戦部隊が行った試作車両及び量産車両の試験の結果がある。ソヴィエトの軍人たちは一連の問題点を列挙したが、その多くはアメリカ人たちが指摘したものと合致していた。これを受け、T-34の生産は欠点の克服まで一時的に差し止められることとなり、T-34M(工場側のプロジェクト番号はA-43)の設計が開始された。T-34Mでは、多くの問題の根本的な改善が見込まれていた。すなわちギアの段数は倍増し、トランスミッションは独立型のトーションバー方式に変えられ、砲塔基部の直径を1700ミリに広げると共に照準手を追加、戦車長はこの職務から解放される。加えて、戦車長用の司令塔も追加されるはずであった。この戦車はT-34に代わるものとして、1942年1月1日から生産が始まることになっていた。しかし全ての計画は、戦争の勃発により中止せざるを得なくなったのである。

 数え切れないほどの兵器が投入され、かつ膨大な損失が出続けるいまだかつてない大戦争の中では、しばしば平時とは全く異なる決定が求められる。優れてはいるが数が少なく、登場までに時間がかかる戦車を生産するのか、それとも様々な欠点を抱えながらも、まさに必要としている瞬間に戦場へ送り出すことのできる戦車の方を選ぶのか。このような選択に際して、出し得る答は一つである。どれほど輝かしい未来を約束され、希望を持たされたとしても、前線はそれだけでは支えられない。敵の兵器に対抗できる充分な武装がなければ、前線で戦う多くの兵士たちは、未来そのものを見ることなく終わってしまうかもしれないのだ。
 当時続いていたのは厳しい消耗戦であり、連合軍側に比べると人的・物質的な資源に恵まれていなかったドイツには、このような戦争に勝ち抜くチャンスは少なかった。敵と同じ量の兵器を生産できないと理解しているからこそ、ドイツは質で敵を凌駕することを望み、戦局を挽回できる超兵器の開発を志向したのである。戦車の中では、ティーガーやパンターがこうした超兵器の役割を期待されたが、しかしどれほど優れた性能を有していようと、数的な劣勢を覆すことはできなかった。さらに、これらの兵器もまた固有の欠点を数多く有していた。ドイツ人には、ティーガーやパンターの完成度を高めるだけの時間的な余裕がなく、結果としてこれらの戦車は「未成熟」な状態のまま実戦に放り込まれ、そこから生じる様々な悪影響を免れなかった。
 当時のアメリカでは、兵器生産のアプローチはソヴィエトのそれとほとんど変わらず、主眼は数をそろえることに置かれた。しかし言うまでもなく、アメリカ人は量的な側面を重視すると同時に、武器の品質をより高める力も持っていた。アメリカで最多生産数を誇る中戦車シャーマンは、1942年から1945年までの間にT-34と肩を並べるほどの数が作られたのだが、稼働時間にかけては後者を優に6倍は上回っていた。だが1943年になって、シャーマンの火力がドイツの新型戦車よりも大幅に劣っていることが明らかになった時、アメリカ人たちがこの差を縮めるために採った手法は甚だ中途半端なものでしかなかった。
 1944年2月から、シャーマンには従来の75ミリ砲よりも強力で砲身の長い76ミリ砲が搭載され、また高初速の硬芯徹甲弾も実用化された。この措置により、アメリカの戦車兵たちがこれまでより遠距離から敵を撃破できるようになったことは言うまでもない。しかしティーガーもパンターも、自らはシャーマンの砲弾に耐え得る距離にとどまりながら、シャーマンの装甲を簡単に破壊する力を持つという事態は依然として続いていた。新型の90ミリ砲であれば、硬芯徹甲弾を使うことでケーニヒスティーガーの88ミリ砲にも劣らぬ破壊力を発揮でき、これをシャーマンに搭載していればはるかに効果的であったはずだ。技術的には、シャーマンの砲塔を改良してこの砲を載せることは十分に可能であった。だが、生産のテンポが落ちることを嫌うあまり、同案は結局実現を見なかったのである。最終的にアメリカが90ミリ砲搭載の戦車を手にするのは戦争末期、パーシングの生産開始まで待たなければならなかった。

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