T-34再考(2)
装甲:
化学的な分析の結果明らかになったのは、両戦車とも装甲板の大部分が柔らかい鋼材からできている一方、焼き入れは表面浅くに限られていた、という事実である。
これに関連してアメリカ人たちは、装甲板の焼き入れ技術を改良すれば、耐弾性を損なうことなくして厚さを大幅に減じることも可能だと見なしている。結果として戦車の重量を8〜10%軽減できるであろうし、それに付随したあらゆる利益が期待できる(速度の向上、接地圧の低下その他)。上記のような見解は、論議を呼ぶものと言わざるを得ない。当時、厚い装甲板の品質が問題とならない国はなかったからだ。T-34の試験が行われるしばらく前、同じアバディーンではアメリカのM3中戦車がテストを受けたのだが、その装甲はソヴィエト戦車のそれに劣らぬほど厳しい批判にさらされている。アメリカのもう1つの中戦車であるM4シャーマンも、鋳造の装甲板の評価は散々だった。シャーマンがアバディーンで試験されたのはもう少し後であったため、ソヴィエト戦車と性能を比較することができた。そして、いくつかの指標ではシャーマンの方が劣っていると判定された。試験結果のまとめの部分には、「M4A2の砲塔の鋳造装甲は、硬度においてソヴィエト戦車の装甲を大幅に下回る」と記されている。公平を期すために指摘しておくと、シャーマンの装甲は極めて均質であり、かつ柔軟性において抜きんでていて、「34」の固すぎる装甲板と比べると、貫通された際に破片が飛び散らないという特徴を持っていた。
同時代のアメリカの戦車と比べ、T-34の装甲は決して劣っていなかったかもしれないが、当然のことながら固有の短所も有していた。アメリカ人がまとめた試験結果の報告からは、次のような欠点が浮かび上がってくる:
1.焼き入れが表面の浅い部分のみで、しかも均質性を欠く。
2.装甲の柔軟性が不足している。また装甲の大部分は柔らかい鋼材であり、化学的な組成によってむらがある。
3.装甲の硬度は仕様書に記されたものと異なり、また装甲板ごとに違っている。
4.不均等な溶接。
これら諸問題の結果として生じた不具合の他にも、T-34の鋳造砲塔の装甲が低品質であった理由としては、当時この目的で利用されていたMZ-2鋼が、実は鋳造用の原料ではなかったという事実が挙げられる。T-34-85の砲塔は、鋳造のために開発された71L鋼で作られていたため、装甲の品質を大幅に向上させることができた。しかしながら、これは1944年になってようやく実現したのである。
ここで、アメリカ人がT-34とKVの装甲を分析して作成した、公式な報告書の一節をご紹介しておく必要があるだろう。中戦車T-34の装甲部は、熱処理により極めて高い硬度(429〜495HB)で仕上げられている。おそらくは極限まで耐弾性を高めようとしたのであろうが、その代償として敵弾命中の際に構造的な強靭性の低下を招く結果となっている〔引用者註:すなわち脆性が高まったわけである〕。
圧延装甲と鋳造装甲の一部をサンプルとし、引張による断面積の減少を測定した(これは靭性をテストする方法の一つである)ところ、変形応力に対する強度を比較した範囲内では、アメリカ製の高級鋼材にも劣るものではないことが明らかになった。
圧延装甲板の品質は、劣悪な部分から優れた部分まで広い範囲で変動している。これは、技術的な側面での安定性を著しく欠くためと思われる。いくつかの装甲板は、表面から裏面まで全て焼き入れ加工できるだけの性質を持つにも拘らず、実際には焼き入れが不完全であった。
マンガン、シリコン、ニッケル、クロム、モリブデンを配合した鋼材(T-34の車体前方上部及びKVの5インチ装甲板である)、そしてマンガン、シリコン、モリブデンを配合した鋼材の双方とも、シリコンの割合は1〜1.5%と高い水準にある。全ての鋼材は、表面から裏面に至るまで、容認しうる規模での焼き入れ加工を行うに足る化学組成を有している。アバディーンで行われた試験を受けてアメリカ側がまとめた公式見解は、以上のようなものであった。ソ連側の記録者が誤って書きとめるか、あるいは訳し間違えた可能性のある無名のアメリカ人技術者の言葉とは大きく異なっている。一読して分かるように、アメリカの専門家たちはソヴィエト製の装甲の化学組成と加工のレベルを高く評価しているが、その一方で熱処理の程度が安定を欠くという問題点にも注意を向けたのであった。
それでは再び、ソ連の代表者がまとめた「…評価」文書の検証を続けることにしよう。車体:
一番大きな欠陥は車内に水が浸入することであり、車体下部は水の溜まった場所を渡渉する際、また上部は降雨の際に問題となる。豪雨に遭遇すると、様々な隙間から多量の水が浸入するため、電気系統や、甚だしい場合には弾薬までもが使用不能になってしまう。一方、弾薬の配置は高い評価を受けている。戦車内への水の侵入は、以下のような箇所から生じ得るものと考えられる。
・溶接の不具合。先に触れたように、アメリカ人もその報告書の中でT-34の溶接部分の不均質性を指摘している。
・密閉性が不足した人員用及び部品交換用のハッチ、カバー、キャップ、視察装置等。
・視察孔、機銃の発射孔、格子状のエンジンカバーなど様々な隙間。
・砲塔のターレットリング。
元々T-34の設計では、これらの箇所の多くはゴムによりカバーされることになっていたが、1942年初頭のソ連ではゴムが大幅に不足していた。原料(人工ゴム)を生産していた工場は国内でも西部地域にあったため、疎開の上で新たな場所での操業再開を強いられた。その結果、1941年11月から1942年5月までの間、ソヴィエトのゴム生産は戦前からの備蓄とレンドリースにより届けられた天然ゴムに頼らなければならなかった。従って、ゴムの使用は必要不可欠な部分に限り、他はできるだけ切り詰めることとなった。ゴム節約の一例を挙げると、1942年1月から1943年8月30日までの間、T-34の転輪の一部は外側にゴムを履かせるのではなく、緩衝ゴムを内蔵する形でしのがれたほどである。また生産性を向上させるため、あるいは単に機械が不足しているため、特に重要な部分を除いては機械による仕上げ加工を省略する場合が多く、とりわけ車体部がその対象となった。これは、部品と部品の間の隙間が増大するという結果をもたらした。以上のような措置は、「34」の車体の防水性を犠牲とするものであった。
T-34の砲弾の大部分は、特別な「トランク」に入った状態で、戦闘室の床の部分へ収納されている。安全性の見地からは最良の砲弾保管場所であり、アバディーンの試験場で好評だったのもそのためであろう。一方で、この方法には特有の欠点も存在した。すなわち車高が高くなること、砲弾を取り出すのには不便なこと、そして車内に浸透した水が砲弾入りの「トランク」を浸してしまうこと、である。アメリカ人が指摘している通り、結果として砲弾が錆びてしまう場合もあった。砲塔:
最大の欠点は極度に狭いことである。冬季、半外套を着た我が軍の戦車兵がどうやってこの砲塔の中に潜り込むのか、アメリカ人たちには全く想像できないという。また電気式の砲塔旋回システムは非常に出来が悪い。モーターは力不足で、負荷が大き過ぎてスパークがひどいため、旋回速度調整の抵抗器が焼け、歯車も擦り減ってしまう。アメリカ側は、油圧システムを採用するか、もしくは手動だけにした方がよいと助言している。現実に、T-34の砲塔のスペースは著しく不足していた。元来これは、「34」よりも前に設計されたコンバーチブル・ドライブ型の45ミリ砲搭載戦車A-20から受け継いだ砲塔である。45ミリ砲を積んでいた時でさえ広々としていたとは言えず、ましてや76ミリ砲に換装した後は非常に狭苦しいものとなった。小さな砲塔は乗り心地が悪いばかりでなく、戦車兵の動きを妨げ、例えば視察装置の使用一つを取っても苦労しなければならない。砲塔の狭さが原因で、戦車長は脱出までに11秒を要したが、戦場ではしばしば数秒間の差が生死を分けることを考えると、これは大きな問題であった。また、砲塔が狭く砲弾の収納場所も不便なため、T-34の走行中の発射速度は3発/分以下にとどまっている。砲塔基部の直径はわずか1420ミリと小さく、第3の乗員を増やして戦車長を照準手の任務から解放するだけの余裕はなかった。T-34-85の段階で初めて、直径を1600ミリまで拡大し、3人目の乗員と85ミリ砲を砲塔(当然、これも大型化されていた)内に収めることができたのである。これに比べると、シャーマンの砲塔基部の直径は1753ミリで、T-34よりも1.5倍広い面積を有していた。従って、アメリカ人がT-34の砲塔に乗員が収まりきるものなのかという疑問を抱いたとしても、何の不思議もないであろう。
一方で、砲塔の旋回装置に関する批判は公平さを欠くように思われる。シャーマン戦車もまた、砲塔旋回には油圧式と電気式の両方の機構を採用していた。油圧機構はより滑らかな動きを保証するため、大多数に搭載されたのはこちらの方であった。それでも全てのシャーマンに行き渡るほどではなく、電気式の旋回機構を持つ車両があったことも事実である。幸い、シャーマンの電気式と油圧式の旋回装置は交換可能なシステムになっていた。またT-34の砲塔が手動でも旋回可能であったことは言うまでもない。現に、攻撃目標へ照準を合わせる時には手動方式を使っていたのであって、3段階式の電気旋回の方は砲塔を速く回したい時に利用された。これは、とりわけ接近戦の時には大切な要素である。この目的のために電気駆動を採り入れることは適切と言っていいはずなのだが、アバディーンの「34」の場合、製造過程などに問題があったのか、期待を裏切る結果となったようだ。武装:
主砲F-34は素晴らしい砲である。簡素で、故障を知らず、メンテナンスも容易であるという。欠点としては、初速がアメリカの3インチ砲に比べて著しく低いことが挙げられる(3200フィート/秒に対し5700フィート/秒)。「34」に主砲として据えられたF-34は、アメリカ人の称賛に値する砲であった。当時の戦車砲としては出色の出来で、簡素、安価、コンパクト、信頼性といった要素を併せ持っていた。ただ、初速に関する数字は明らかに誇張されている。F-34の徹甲弾の初速は秒速660メートル、フィートに直すと2165フィートでしかなかったからだ。一方、アメリカが1942年に生産したシャーマン戦車の75ミリ砲M3は、徹甲弾の初速が秒速619メートルあるいは2030フィートであった。つまり、この指標でシャーマンの主砲とF-34を比較すると、劣っているのは寧ろシャーマンの方なのだ。同じシャーマンの主砲の硬芯徹甲弾も初速は秒速869メートル・2850フィートにすぎず、しかも実際には試作だけに終わり、軍が正式の砲弾として採用することはなかった。もっともこの砲弾にしたところで、5700フィート/秒を実現するには初速を倍に高めなければならない。何しろ1737秒/メートルに相当する凄まじい数値なのだ!現実の硬芯徹甲弾がこれほどの高初速を実現するには、第2次世界大戦よりもはるか後、滑腔砲の技術の実用化を待たねばならなかった。従って、ここで示されている数値は、記録上の誤りか翻訳の間違いの結果であると見なしていいだろう。
照準器:
世界で最も優秀、というのが共通の見解。現存の(すなわちその存在を知られている)、あるいはアメリカで開発中のあらゆる照準器とは比べ物にならないほど優れている。T-34の照準器は、この時代としては高い性能を持っていたが、しかし言うまでもなく世界最優秀ではなかった。これ以前にアバディーンの試験官たちが知っていた照準器の中で最優秀のものの一つ、と表現した方が正確であっただろう。ドイツ軍の鹵獲車両がアバディーンに送られてくるのは1943年冬以降になってからのことだが、まさにドイツこそは、構造といい工作レベルといい、当時最良の照準器を保有していたのである。ドイツの照準器は、全ての国にとって模倣すべきお手本となった。
しかしながら、アバディーンに送られた「34」の望遠照準器TMFDが、同時代のアメリカ戦車の照準器を凌駕していたことは明らかである。その構造は当時の水準に沿い、600〜800メートルの砲戦距離で良好な命中精度を保証したし、この時期はまだそれ以上の距離は要求されていなかった。
主な弱点は照準器用のガラスの品質が低かったことで、濁りや気泡などが発生するという問題があった。1941年8月から1943年10月までの間、ソ連の戦車用照準器の性能は大幅に低下した。というのも、照準器用ガラスを製造するための資源を喪失し、熟練工も失われ、光学機器の製造工場は東方へ疎開していたからである。組み立てと照準の調整を担当したのは、必要なだけの技能を持たず、その上食事も睡眠も不足がちな労働者たちであった。一方、こうした状況を改善するための措置もとられた。照準器用ガラス生産の熟練工が前線から呼び戻され、レンドリースを通じてガラスを製造する資源と機器を入手し、またドイツ軍の装備を参考に新たな照準器が開発された。例えば、T-34-85に搭載されたジョイント式照準器TSh-16がそれにあたる。一連の努力の結果、戦争後半になるとソ連戦車の照準器の品質は著しく向上した。
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