T-34再考(1)


 ソ連の有名なT-34が、第2次世界大戦中に最も多く生産された戦車であるという事実はよく知られている通りである。この戦車の存在を知らぬ者はほとんど見つからないであろうし、映画や数え切れないほどの絵画の中ばかりでなく、実車を目にすることも不可能ではない。かつての戦場に築かれた多くのモニュメントの中にT-34の姿が見られるからだ。伝説の「34」について書かれた書籍も枚挙にいとまがないが、多くはこの戦車の肯定的な面のみを取り上げた内容となっている。それ自体は少なからぬ根拠を持つものだと言っていい。T-34の長所は周知の通りで、当時としては強力な火砲と、頑丈な装甲、そして高い機動力を挙げることができるだろう。さらに重要なのはこれらの要素のバランスであり、他を犠牲にしてどれか1つの長所だけを発展させるという手法は採られていないのである。
 T-34は長砲身の76ミリ砲を主砲としており、戦争初期のドイツ戦車をも含め、戦場に現れたあらゆる敵を克服する力を持っていた。またドイツの中戦車の防御力が強化され、重装甲の新型重戦車が現れると、「34」の主砲はより威力の大きな85ミリ砲に換装された。
 T-34の高い防御力は、装甲の厚さばかりでなく、その合理的な角度と、自動化された溶接技術で装甲板を組み合わせるという手法の賜物である。自動化溶接により生産性が向上した他、溶接工の技量や体調、気分などに影響されない、品質の均一化が可能となった。
 高出力のディーゼルエンジンと幅の広い履帯は、T-34の優れた機動性を保証した。このディーゼルは大馬力で、高速を発揮でき、トルクも大きかっただけではない。同時代の多くの戦車が装備していたガソリンエンジンに比べて燃費がよく、火災の危険性が少ないという長所をも有していたのである。そして幅広の履帯は接地圧を低下させ、戦車に素晴らしい不整地走行能力をもたらしたが、とりわけ道路があまり整備されていないロシアでは、この利点が最大限に活かされた。
 しかしながら、「34」のこうした長所はすでに何度となく解説され、広く知られている。ここでは一点だけ、少数だけしか生産されなかった特別かつ高価な兵器ではなく、何万両という大量生産の対象となった戦車がかかる優位点を持っていたのだ、という事実を強調するにとどめたい。戦前と戦中を通じ、T-34は様々なモデルを合計すると5万2000両以上、またこの戦車をベースとした自走砲はおよそ6000両が生産されている。だが、それら全ての車両が勝利の日まで生き延びることができたわけでは決してない。大祖国戦争中に赤軍が失った中型戦車の割合は、実に80%を超えているのである。そして、そのうちの多くがT-34であった…
 誉れ高き「34」は、一体どうして戦争中にかくも大きな損害を被らなければならなかったのであろうか?これには多くの理由があるのだが、限られた紙幅の関係から全てを分析することは到底できない。一方、その中には純粋に技術的な理由が含まれている。今から本稿で取り上げるのも、まさにこうした技術的側面なのである

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 戦車を含めたあらゆる兵器が、それぞれに特有の優位点と欠点とを持っている。ある書物の中で世界の戦車史に名を残す傑作と称えられた戦車が、別のところではクズ鉄のように酷評されてしまう場合さえある。この問題に関しては、一面的なアプローチを避けることが非常に重要なのだが、いかなる研究であっても完全な客観性は期待し難いものだし、そのこと自体には多くの理由がある。ソヴィエト時代、そして検閲総局が健在であった時代には、T-34はそれこそ[ヒンズー教の]「聖なる牛」のような存在で、批判することなど誰にもできなかった。そればかりか、ソヴィエトの公的なプロパガンダは、T-34こそは第2次世界大戦で最優秀の戦車なりとのテーゼをありとあらゆる場所で力説し、広めようとした。興味深いのは、かつての敵であるドイツ人の見解が、その論拠としてしばしば利用されたという事実である。「撃ち破られたドイツの将軍たち」は、戦後の回想の中で敗北の言い訳をしなければならなかった。その材料としてはヒトラーの軍事的無知、ロシアの悪路、そして「冬将軍」などが最も多く持ち出された。T-34がドイツの戦車や対戦車砲に対して圧倒的な優位を誇っていたという言説も、この枠内に収めることができる。自分たちの敗北を説明するには、彼ら自身の誤りや計算ミスを認めるよりも、はるかに都合のよい理由であるからだ。
 どの戦車が最も優れているか、という問題に興味を持つ者のほとんどは、まずは各戦車の性能諸元を比較するところから始めるのが常である。勿論、戦車の重量や砲の口径、装甲の厚さ、エンジンのパワー、最高速度などは非常に重要な指標である。けれども、これらの数字は氷山の一角にしかすぎないものだ。海の表面に現れたほんの一部分を見たところで、氷山に関する正確な認識を持つことなどできない。戦車の実情を理解する上でこれよりはるかに完全かつ正確な情報は、専門の技術者たちが作成した計画に従い、演習場で行われた試験の結果の中に含まれている。装甲兵器の愛好家にとっては大変遺憾なことであろうが、こうした試験結果はほんの一握りの人々にしか明かされないし、彼らもまた職務上の機密事項としてこれを公開する権利は持っていない場合が多い。
 戦車の試験データがいかなる性格を持つものであるかは、次の例を挙げるだけで充分に理解してもらえるだろう。1943年5月、イギリス軍はチュニジアでドイツのティーガー重戦車を完全な形で鹵獲した。この戦利品の試験結果について、主要な部分を載せた本がロンドンで出版されたのは、実に1986年になってからのことなのである。同書は大判で200ページ以上からなり、数十の表や写真、設計図、図面などが掲載されている。
 T-34もまた、アメリカとイギリスにおいて同じような調査と試験を受け、これを基に詳細な報告書がまとめられた。しかし何故、T-34がこれらの国々に送られたのだろうか?全てはかの有名なレンドリースから始まっている。レンドリースとは、第2次世界大戦中にアメリカが実施した対ドイツ同盟諸国への支援プログラムで、これに基づき兵器や武器、弾薬、装備品、戦略資源、食糧、その他様々な物品やサービスが有償無償で提供された。一方で、いわゆる「逆レンドリース」の存在はあまり知られていない。このプログラムの枠内では、レンドリースの恩恵を受けた国々が、逆にアメリカを支援することになっていた。無論、力の及ぶ範囲内での逆支援でしかなかったのは事実であるが。ソ連の場合は、戦時中アメリカに対して材木、毛皮、クロム及びマンガン鉱石、プラチナ、金を送っていた。その他にも、鹵獲品や自国の兵器に関する軍事技術情報や、兵器のサンプルが交換された。例えば、ソ連は1945年に研究用としてアメリカの新型戦車パーシングを受け取っている。そして、ソ連から同盟国へ引き渡された兵器の中に、「34」も含まれていたのである。
 1942年春、ニージニー・タギルのスターリン記念UTZ(ウラル戦車工場)では、5両のT-34が特別に組み立てられた。それらの車体のために、設計図や諸規定の要求を特によく満たしている部品、ユニット、装置が生産ラインの中から念入りに選び出された。UTZがこの作業の舞台となったのも偶然ではない。「34」を生産していた工場の中でも、まさにUTZこそが他より質の高い戦車を生み出していたからだ。T-34の揺籃の地であるハリコフ機関車工場はここニージニー・タギルに疎開しており、この事実がかなりの程度まで戦車の品質に影響を与えたことは否定できない。言うまでもなく、工場は同盟国に対して面子を失わないよう心がけ、できあがった5両の戦車は通常の車体よりも出来のいいものとなった。製品の受け入れもいつもと比べて厳格に、また輸送向けの梱包作業も丹念に行われている。その後の指令により、戦車のうちの1両はアメリカに、1両はイギリスに送られ、2両は前線に向かい、最後の1両は重工業人民委員部の預かりとなった。この車体は現在でも、モスクワの中央軍事博物館の中庭に展示されている。
 アメリカにおけるT-34の試験は1942年11月29日に始まり、ちょうど1年間続いた。アメリカ軍が持つ最良の戦車試験場であるアバディーンがテストの場所に選ばれた。T-34と共に、チェリャビンスク・トラクター工場製のKV重戦車も試験の対象となっている。そして一連の調査が終わった後、それぞれの戦車について600ページ以上の分量を持つ報告書がまとめられた。報告書のコピーはソ連側にも引き渡された。イギリスもまたT-34に関する独自の試験の結果を報告書にまとめ、そのコピーをソ連に送った。しかし残念なことに、これらの資料は今に至るまで出版の対象となっておらず、部分的な内容が明らかになっているのみである。例えば、『タンコマステル』誌2002年第2号において、「T-34及びKVの試験に携わったアバディーン試験場職員、企業代表、士官、軍事委員会代表者らによる両戦車の評価」と題する文書が公開された。文書の内容と署名者の肩書き(赤軍情報総局第2局長であるフロポフ戦車軍少将)から判断する限り、これがアメリカ側の公式報告でも、あるいはその抜粋でさえもないことははっきりしている。というのも「…評価」文書が作成された段階では、アメリカ側の試験はまだ完了していなかったからだ。同文書は、いまだ戦車の試験が続いている段階でアバディーンを訪れたソ連側の代表者が、アメリカの技術者とのやり取りを記録したメモなのである。
 以下、同文書がどれほど客観的な内容を持っているか検証してみよう。そのためには適宜「…評価」文書の断片を引用し(引用部は斜体で表現する)、これにコメントをつけていくこととする。

 戦車の状態:
 中戦車T-34は、343キロの試験走行を行った後で完全に故障し、修理不能となった。
 原因はディーゼルエンジンの空気濾過システムが極めて低性能なためであり、非常に多くの泥がエンジン部分に入り込んだ結果として故障が起き、ピストンとシリンダーが修理不能なレベルまで傷ついた。戦車は試験場から回収され、KV戦車の主砲とM10戦車の3インチ砲による射撃実験の標的とされた後、アバディーンに送って分解し、展示品とする予定とのことである。
 重戦車KVはいまだ稼働状態にあり、試験が継続して行われているが、しかし非常に多くの機械的故障が発生している。

 戦車がこれほど早く行動不能となったのも、特に不思議とするにはあたらない。当時、T-34の規定耐久走行距離は1000キロが保障されていたが、実際にはこの数字は夢のまた夢であった。装甲兵器研究所の試験場が赤軍装甲車両局のYa.N.フェドレンコ局長に報告したデータによれば、戦時中にT-34がオーバーホールを必要とするまでの平均走行距離は、200キロを超えるものではなかった。「アバデーィンのT-34」は、そうあってしかるべきなのだが、祖国での平均値を上回ることができたわけだ。
 1942年当時、ソ連の戦車の品質は、多くのやむを得ない原因により大幅に低下していた。そうした原因の中には、疎開した工場が新たな場所で生産を再開するにあたって直面した組織上の問題、多くの企業が未知の新製品を生産する際に生じた困難、膨大なストックや機器、生産現場間のコミュニケーション、資源などの喪失、さらには多数の熟練労働者と技師を失い、代わりに女性や未成年者を含む新たな労働者を採用したことによる大幅な技能低下などが含まれる。彼ら新たな生産者たちは献身的に働き、前線を支援するために力の限りを尽くしたのだが、しかし知識と経験、技術の不足は覆うべくもなかった。最も重視されたのは、できるだけ多くの戦車を生産することであった。何しろ緒戦期の大損害を埋め合わせる必要があったわけで、数にこだわったのは十分に理解できる。勢い、製品の品質に対する要求は低下する結果となり、戦車のエンジンがかかりさえすれば品質管理部から合格扱いにしてもらえるケースさえあった。このため、同じ1942年の話だが、一部の「34」は30〜35キロ走っただけでオーバーホールが必要になるという事態が生じている。
 ただし、ある程度まではこのような事象も許容すべきなのかもしれない。というのも、戦時における戦車は、短縮化された規定耐久時間にすら達しないうちにその生を終えることが多かったからである。戦場での戦車の寿命は短く、平均すると(鉄道での輸送や修理に要する期間を除いて)4日から10日、あるいは1回から3回の攻撃で最期を迎えることになってしまう。1942年、T-34が戦闘により失われるまでの平均走行距離は66.7キロで、これはオーバーホールが必要になるまでの走行距離[すなわち200キロ]のちょうど3分の1にあたる。つまり、大部分の戦車は故障する余裕さえ与えられなかったのだ。
 T-34とKVが搭載したV-2ディーゼルエンジンは、当時はまだ「小児病」の域を脱していなかった。エンジンの生産現場では、規定耐久時間を100時間まで延ばそうと全力が尽くされていた。しかし現実には、V-2の稼働が60時間を越えるケースは稀でしかなかった。アバディーンでテストされたT-34のエンジンは72.5時間で故障したが、そのうち58.45時間は負荷の大きな状態で、また14.05時間は負荷のない状態で稼働したものであった。V-2エンジンの欠点としては、耐久時間の短さに加え、燃料消費量が過大であること(規定より12%も上回っていた)、さらに潤滑油の消費量も許容範囲を超えるほど大きかったことなどが挙げられる。何しろ、規定の3〜8倍の潤滑油が必要とされたのだ!従って、1942年秋の時点におけるT-34の航続距離は、燃料よりはむしろ潤滑油によって制限されていたと言っていい。重工業人民委員部技術課がまとめた当時のデータによれば、T-34の燃料は平均で200〜220キロの走行を可能とするのに対し、潤滑油の方はわずか145キロ分しか持たなかった。
 一方、同じ時期のドイツとアメリカの戦車は、それほど頻繁に潤滑油を入れる必要はなかった。1000から2000キロを走った後で潤滑油を継ぎ足せば、それで充分であった。

 戦車のシルエット/輪郭:
 我が国の戦車の形状は、例外なく高い評価を受けている。とりわけT-34についてはこれが当てはまる。T-34の車体形状はアメリカ人が知る全ての戦車より優れている、という点で全員の意見が一致した。一方のKVは、アメリカに存在する全ての戦車よりも劣っているという。

 T-34の車体形状に対するアメリカ側の高評価は、得るべくして得られたものと言っていい。これは、当時としては非常に先進的なフォルムである。ドイツの有名な設計者F.ポルシェが回想録の中で述べているところによれば、T-34のあらゆる特質の中でドイツ人が有益と認めたのは、車体の装甲板の形状だけであった。ドイツのパンターの車体形状は、間違いなくT-34から影響を受けている。兵器にとって最高の名誉は、自分をコピーした敵と戦場でまみえることなのだ。
 「34」のプロトタイプとなったのは、実験車両BT-ISの車体で、これは1937年に独学の発明家N.F.ツィガノフを長とする技術陣により設計された。そしてBT-ISは、フランスの軽戦車FCM36からアイディアを借用している。この戦車の車体は最厚40ミリの装甲板からなり、これに急な傾斜をつけて組み合わせ、溶接していた。しかしFCM36がわずか100両の生産にとどまったのに対し、T-34の方は先進的な形状を持った上で大量生産された、世界でも最初の戦車となったのである。

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