2013.10.11(第234号)
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1.夢に見ながら躊躇してきた旅(論長論短 No.201)
2.上杉隆さん連載・最終回
「3・11以降、私が一番気になっていたのは、福島の人々とそのゴルフであった」
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■1.論長論短 No.201
夢に見ながら躊躇してきた旅
宋 文洲
砂漠、向日葵畑、綿花畑、そして畑に落ちる夕陽。先週、やっと四十年ぶりに夢にみてきた新疆の故地を訪ねました。妻と二人の子供を連れながら過酷な砂漠横断をしなければならないと思うと躊躇してきた旅でした。
文化大革命の恐怖から逃れるため、私は1歳未満の時から北朝鮮との国境地帯に家族と逃げ、鴨緑江の畔に5年間ほど住みました。その後、中ソ関係の悪化に伴い、北朝鮮との関係も緊張したため、我々一家は国境から山東省に強制移住させられました。
山東省では相変わらず地主や資本家への虐めと迫害が酷かったため、私は姉に連れられてカザフスタンの国境に近い新疆の砂漠地帯に逃れました。そこには背景の異なる移民が集まり、政治よりも厳しい自然との対峙が最大の関心事でした。
無限の砂漠地帯に点々と存在する僅かなオアシス。日本の台風のような強い風が吹くとあちらこちらに巨大な竜巻が発生し、木にしがみ付かないと飛ばされてしまう。砂粒が顔に当たった時の痛さは今も覚えています。羊の群れが数キロ先から見えました。羊ではなく、羊たちが歩いて撒きあがった砂埃が数十メートルも空中に上るからです。
自然は厳しいだけではなく、美しく甘い記憶も残してくれました。澄み切った空の下に広がる真っ白な砂漠。砂漠の合間に広がる一面の夏の向日葵畑、牧草、そして秋の綿花。夕日が畑に落ちる風景は子供も黙って見てしまうほど美しかったです。
乾燥と昼夜の激しい温度差でとにかく果物が美味しかったです。友達とスイカを盗んだこともありますが、だいたいスイカ小屋のおじさんの手伝いしてただで食べさせていただきました。良いと思うスイカをわざと落として割って出荷できないので皆で食べました。半分を使って手を洗って残りの半分にかぶりつきました。甘いスイカ汁で手がベタついたところに細かい砂をかけると天然の日射し防止パウダーができます。
そんな鮮やかな記憶を抱えながらウルムチからレンタカーで砂漠の奥地に向かいました。朝に出発して夕方にやっと着きました。ちょうど綿花収穫の時期なので無限に見える綿畑に家内と子供達は興味津々でした。車を降りてよく見るとなんと綿花の花が見つかりました。実は綿花は花ではなく種なのです。
たんぽぽのように綿はあくまでも種を運ぶための翼です。
40年ぶりに姉の家を訪ねましたが、全然違うところに建てられた自宅兼工場の泥臭い平屋でした。63歳の姉は既に前歯も落ちてすっかりお婆さんに見えました。
義理の兄と綿花加工業を営んでもう30年とか。
日本でいう零細のジジババ工場です。
台所に入ってみるとなんと40年前の懐かしい鍋を未だに使っています。
炊飯には皆がガスを使っているのですが、姉だけは未だにまきを使っています。
冷蔵庫、テレビ、ガスコンロはあるものの、姉はそれを使わないのです。
貯めたお金は全部北京に居る子供達に仕送る姉をみて可哀そうだと思いましたが、外の世界と関係なく旦那と平和な昔暮らしをしている様子にほっとした面もあります。
翌朝、はやる気持ちを抑えきれず、妻をつれて車で昔の記憶を探しに出かけました。しかし、どこに行っても砂漠が見えず、綿花畑ばかりです。
綿花収穫中の地元のご夫婦のお手伝いをしながら、「砂漠はどこに行ったか」と聞きました。
「全部綿花畑に変えたのよ。このあたりは私達が投資して工事したが」。
旦那さんは内地の農業大学を卒業してから新疆の砂漠に来ました。整地したうえ、品種改良しながら近代的な灌漑方法で砂漠に綿花を植えてきました。
土の下に埋めてある水や肥料を定期的に与える毛細管のようなゴムチューブを掘り出して見せてくれました。
この瞬間、私は思いました。「ああ、私の夢に見てきたあの風景はもうない」
(続く)
http://www.soubunshu.com/article/377096204.html
写真:綿花畑にて
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■2.上杉隆さん連載・最終回
「3・11以降、私が一番気になっていたのは、福島の人々とそのゴルフであった」
上杉隆
もう一年以上も前のことだが、私はその不安を爆発させるような形で、
<福島のゴルフが「死」を迎えようとしている>というやや感情的な表現でもって記事にもしている。
豊かな自然と穏やかな地形に恵まれた福島県のゴルフ場はとても美しい。
阿武隈山系の深い緑に囲まれたコース、美しい太平洋を臨むコースなど、ゴルファーにとっては楽園のような土地だ。
その福島のゴルフ場を悲劇が襲ったのは、2011年3月11日のことだった。
ご存じ、東日本大震災と東京電力福島第一原発の放射能事故は、ゴルフ界にも大きな影を残した。
とくに後者は決定的だった。原発から出たセシウム汚染は、コースの修復どころか、ゴルフ場に近づくことすら許さなくなってしまったのだ。
昨年の夏、密かに県内のあるゴルフ場を訪れた筆者がいつものようにガイガーカウンターで計測を始めると、支配人が飛んできてこう言うのであった。
「上杉さん、目立たないようにお願いします。測定値は分かっていますから、ツイッターとかに書かないでください。本当にお願いしますよ」
事故直後は違った。ゴルフ場の中には自ら測定器で放射線量を測ったり、筆者が測定器を持っているのを知るや、計測を依頼してくる人さえいたのだ。
しかし、時の経過とともに別の空気が広がっていく。改善されないセシウム汚染の実態を認識し、諦観が広がり、逆に放射能をタブー視する空気が広がってきたのだ。
「みんな、ここで働いているんですよ。ゴルフ場を閉めることは簡単ですけど、キャディも、従業員も路頭に迷うことになる。いったい誰が補償してくれるのか。
東電か?国か?誰も補償なんてしてくれないですよ。もう、放射能汚染は考えないことにしているんです」
福島のゴルフ場には、明らかに事故直後とは違った空気が広がっている。
私は、警報音を発している計測器の音をOFFにした後、2マイクロシーベルトを前後している液晶の画面を見せた。
「わかっています。わかっているんです。でもそれはお願いしますよ」
−ゴルフ場全体の芝の張り替え費用、東電から当初の提示は「13万円」−
事故一年経ってから、私が自ら計測した、福島第一原発から最も近い「リベラルヒルズゴルフクラブ」(アコーディアグループ)の空間線量(地上1メートル)は毎時5マイクロシーベルト以上であった。
次に2012年春、U3Wの取材で現地を訪れ、数台の測定器で測るも、行政やマスコミの反応は鈍く、ゴルフ界にも放射能汚染の危機認識が広がることはなかった。
いや広がっていたのかもしれない。だがそれを知ってどうなるというのだろう。
すでにいわき市のゴルフ場は震災前よりも繁盛している。なんら問題はないように見える。ただ、目に見えない放射能で汚染させれている場所があるということを除いては・・・。
経営していたアコーディアグループの幹部に、実際の空間線量を伝えると「東電からの報告とあまりに数値がかけ離れている」と言って絶句した。
線量を低く報告することで、賠償金額を減らそうと狙っている東電の姿勢がうかがえたが、実際、当該ゴルフ場は東電の管理下となって、売却された。
こうした傾向はリベラルヒルズだけではない。福島県内全域、他のゴルフ場にも同じようにいえる。
高濃度のセシウム汚染をされた「いわきプレステージカントリー倶楽部」はすでにひどい通告を受けている。
2012年春、東京電力の担当者から芝の張り替え費用として提示されたのはたった13万円だった。
ゴルフをする者ならば知っているが、ゴルフ場の芝の貼り替え費用は膨大な額にのぼる。
ましてや全域を放射性セシウムに汚染されたゴルフ場は全面張り替えするしかない。
ゴルフ場の広さにもよるがだいたい10億から20億円といったところが相場だ。
その後、あまりの賠償金額の安さにゴルフ界ではちょっとした騒動となった。
すると、さすがに世論を気にしたのか、東電は姿勢を改め、賠償額を千倍に引き上げたのだ。
だが、それにしてもまだ芝の張り替え費用には到底足りないし、
ましてやゴルフ場の休業補償分の賠償にはまったく及ばない。
こうしたひどい状況が決定的になったのはもう2年もまえのことである。
2011年10月の「サンフィールド二本松ゴルフ倶楽部」の訴訟結果がそれを如実に示している。
放射性セシウムの除染費用などを求めて争ったその裁判において、東京地裁は、ゴルフ場のセシウムは確かに原発由来だが、一度外部に放出された物質は無主物であり、東京電力の所有物でない、という驚くべき理由で、二本松ゴルフ倶楽部の訴えを退けたのだ。
原発事故以来、行政や一部の東電寄りの市民の計測による空間線量の過少報告が横行し、そこに、現地の事情に疎い有名ジャーナリストや在京のマスコミなどがいとも簡単に乗ってしまい、現実を見つめたくない空気と相まって、こうしためちゃくちゃな理論がまかり通ってきた。それが福島の現実だ。
その傾向は、ドイツテレビのハーノ記者が「フクシマの嘘」という秀逸な番組を制作し、欧州で驚きをもって迎えられても変わる気配はない。
原発事故から2年半が経過した今もなお、日本の大手メディアは相変わらず、現実を直視させないかのように、真実を伝える際は極めて遠慮がちに、また逆に自分やスポンサーに都合の良い情報はできるだけ声高に報じ続けている。
それはゴルフ界も同様だった。実際のガイガーカウンターの数値は無視され、東電などが発表した都合の良いデータを根拠に、汚染を隠しながら営業を続けることを余儀なくされているゴルフ場が少なくないのだ。
だが、そうでもしなければ今度はゴルフ場がつぶれてしまう。
そのジレンマの中、たとえば二本松ゴルフ倶楽部で予定されていた福島オープンゴルフの予選会が、放射線量の高さを理由にキャンセルになったことなどを知ると、同業者の口はますます堅くなってしまったのだ。
ただ一筋の光明も見えて来た。日本のゴルフ協会(JGA)が福島の現実に気づき、動きはじめたのだ。
たとえば、NOBODERが後援している「Voice of Fukushima」主催のチャリティコンペが、今年初めて福島県内で開催できたことなどその一例だろう。
実は2011年も、2012年も、同じ団体「Voice of Fukushima」が福島チャリティを開こうとしたのだが、最終的に拒否されるという憂き目にあっている。
公益社団法人になった日本ゴルフ協会は、こうした団体とこそ手を携え、福島のゴルフの復興を後押しすべきではないか。
福島、いや日本全国のゴルファーは、JGAという組織の為ではなく、ゴルフ文化の発展と存続のためにJGAにお金を払っているのだ。
「Voice of Fukushima」の最高顧問は、ゴルフ文化への卓越した理解者である佐藤栄佐久前県知事が就いている。
福島のゴルフ文化は、東京電力が放った放射性セシウムによって「死」に向かったが、いま、ゆっくりとだが、着実に復活の一歩を踏み出したのだ。
(終わり)
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