「語られている本について分かる」ことよりも(それが目的なら本体を読んでもらった方がいい)「対象の本を読むとどういう思考が出てくるかが分かる」ことの方が重要だと最近は考えています。とりあえず不思議なジャンルです、書評。
書評も批評の一部である以上、読み手を楽しませるためのドライヴ感は必要。なので精読よりも飛躍である。なので、書評の一番の使命は、あるテクストを元にどのような思考が可能になるかを問いただす二次創作的な操作にあるんじゃないかと思う。
ここで一定の雑味が必要になる。詳細な解説(それは研究に任せたい)ではなく、【エッセンスの抜き出し】→【別のコンテクストへの接続】という流れは重要だ。別コンテクストというのは他作品、他ジャンル、社会、歴史などなんでもいいが、とりあえずテクストの外へジャンプすることは必要だと思う。
読者、編集者、作者。宛先としてあり得るのはこの3つだが、編集者にだけ届けるようなものは論外として、そもそも読者に書評を面白く読ませるのは難しい。書評の読者の大半は対象の書籍を読んでいない。なので、解説や分析がメインになっては駄目である。
最近、書評の難しさについて考えることが多い。というのも、自分は世の中に出回っている書評の9割は「ハズレ」だと思っているからである。実際、多くの読者もそんな感触なのではないか。単なる販促ならばとりあえず誉めればいい、だけど「評」である以上価値判断は重要。ならば宛先はどこなのか。
そういえば明日発売の読書人だった。よろしくですー。とりあえず「美女と野獣」とかウンコな見出しをつけたメディアへのアンチ書評。RT @Dokushojin_Club 芥川賞受賞の二作を読む=朝吹真理子『きことわ』、西村賢太『苦役列車』、執筆は坂上秋成氏
@hazuma なので「えいえんのせかい」を射程に入れた話ではなく、あくまで浩平と長森・七瀬のユカイな日常に限定したものと思ってもらえれば。
@hazuma そうじゃないですよ!前提としてONEはセカイ系だけど、日常パートが「キミとボク」的にナイーヴに書かれておらず、むしろ普通の学園生活を奇形化する想像力が郊外に都市の記憶を流し込む宇野さんの話に通じるなという意見です。
@JAGAxIMO ONEは「何故長森がこんなに可愛く見えるのか?」という永遠の謎を知るためだけにでもやる価値あるよw 7かー……XPまでは動いたんだけど、ちょっとわからん。
@kannkitu 咲き誇る季節とランピンはやばいですね……プレイ直後とか12000円のヴァイオリン買ったりしたもん(むろん二週間で飽きた)。カルテットは「私たちは私たちの音楽を――」ってキャッチフレーズがみんなで演奏会ってとこに落ち着いたのがもったいなかったかなと。
@JAGAxIMO そこで言うデータベースって単にテンプレ化ってことだよね? それで言うと、多分ONEにしたって大枠では少年漫画の焼き直しに過ぎないはず。それが選択肢といたる絵によって意図せざるところで脱構築されたから怪作認定されたのかと思います。
FFD大好きですよ!Quartett!は大病で入院してた母親に「これ聴けば治るから」と限定サントラを聴かせたくらいに愛してます!!RT @kannkitu 坂上さん的にはリトルウィッチのFFDはどうだったんだろう。個人的には非常によかった。カルテットはマジでやるべき
@yh_akajam417 むかしツイートした記憶があるけど、ようはロミオさんは家族への不信ベースがあるのに対して麻枝さんは信頼ベース。麻枝さんもmoon.やONEの頃は不信ベースだったけど、CLANNADで完全に信頼ベースに移行したなと。だから過渡期にあるAIRは極めていびつ。
ONEの主人公の折原浩平は日常を常にカーニバル化していた。そしてそれが可能になっていたのは「これありえないだろ」っていう選択肢が機能していたから。なので、選択肢のない作品の増加は間違いなく、ビジュアルノベルにおける「日常の回路」を機能不全に追いやる。オルタとかもそうです。
「ONE」の作り方は、実は極めて宇野常寛的=郊外文学論的。ONEにはゲームオーバーの象徴として「えいえんのせかい」が登場するものの、あとはSF設定も超常現象もないただの平凡な日常。しかしそこに退屈さは感じられない。
@yh_akajam417 それはきっとタカユキじゃなくタカヒロだよねという前提で話すと、タカヒロとロミオは共に疑似家族への執着が強いので感覚的に近くなるんだと思う。その点、ガチ家族を求める麻枝さんとはトーンが違ってくる。
ビジュアルノベルはコミュニケーションの層ベースでやってきた。主人公がプレイヤーに感情移入することでヒロインを疑似生命体に見せる回路があった。それを断ち切って別の方法論に持っていくのは結構大変。コミュニケーションベースから劇場ベースへ。この移行はまだあまり上手くいってないかなと。
ここには明確な断絶がある。しそちず#4でちょっと書いたけど、近年の作品はプレイヤーの感情移入を阻害して別のメタゲームを展開する(詳しくはコラムで)方向に向かっているけど、それはかつてのkeyのゲームが作った「この女の子生きてるんじゃね!?」って感覚からは遠ざかる。
日常と会話に特化したのが王雀孫、異常な状況での人間関係を描くのが瀬戸口廉也、ミステリとケータイ小説の流れの中でキャラ関係を構築したのがるーすぼーい。一方、近年の作品はテーマ先行にしたために日常シーンがつまらなくなってるとは思う。キャラが消費財=無機物化してる。
しかし、ビジュアルノベルの中でパフォーマンスに成功してきた作家を考えると、田中ロミオ、麻枝准、奈須きのこといったBIG3はみんな日常パートが楽しい。物語やキャラ設定とは別に、単なる朝のやりとりをかけがえのない時間に変える技術。つまりはコミュニケーションの層における技術ですね。