皇居の落書き

東宮家を応援するということを基本的なスタンスとしていますが、東宮派ではありません。

平成皇室と安倍幕府

2013-09-21 23:16:02 | 皇室の話(2)
皇室をめぐる状況として,制度上の観点からも,実に大きな問題があるように思われてきた。
この大きな問題というのは,改めて考えていれば,ごく当たり前のようにも思われるのであるが,筆者としては,長いこと十分に意識的ではなかったのである。
いや,意識的ではなかったというよりも,かつて,これでよいと思っていた方向性の行きつく先として,実は大きな問題が潜んでいたということが正確であろう。

どういう問題かというと,それは現在の象徴天皇制の制度設計そのものに遡り得る。
昨年4月に,自民党の憲法改正草案が公表された。
この憲法改正草案をめぐって様々な議論が起こり,筆者なりに,いろいろ考えてみたのである。

憲法については,筆者としては,現行の憲法は非常に意義深いものであると思っているし,戦後何十年もたって,今更GHQへの恨み言のようなことを言い立てる議論にはあまり意味はないと思う。

しかし,占領下で成立しており,確かに,押付け的に作られたものということは,一つの事実なのであろう。
そして,押付け的であるが故に,憲法を構成する様々な原理についての相互の整合性が十分に練られていなかったということもやむを得ないことであると思うし,また,制度の運営の哲学と具体的な条文との関係が,必ずしも直接的でないということも仕方ないとも思うのである。

象徴天皇制ということについては,まずは,天皇という御存在と国民主権との関係ということが大きな問題となる。
このこと自体は,非常にわかりやすい。
そして,もちろん,この問題については,帝国議会でもかなりの議論があったし,戦後も多くの議論がなされてきた。
ただ,その議論を振り返ってみると,筆者の認識している範囲では,天皇という御存在を,国民主権原理の下で如何に根拠づけるかという観点からのものがほとんどであったと思う。
このことについては,かつては,天皇制廃止の議論も,議論としてはかなり主張されていた時期があったので,それも自然なことであったというべきであろう。

ただ,ある原理と別な原理との整合性に関する問題というのは,その運用の場面においてこそ,いよいよ問題が顕在化してくるということなのではないだろうか。

本質的に異なる方向性の原理に基づく規定が併存していても,もちろん,そのこと自体について,観念的な議論を様々に展開することは可能であろうが,例えば,基本的に今までと同じ在り方を今後もひたすら同様に続けていくということであるならば,問題の顕在化は生じないままとすることができるであろう。

しかし,運用を続けていく上で,単に今までどおりということでは通用しなくなり,何かを変えようという場面になると,その途端,異なる原理ということの問題が顕在化し,何をどのように手を付けてよいのか分からなくなるという問題が生じ得る。

このことの分かりやすい典型例としては,数年来の皇室典範改正論議というものがある。
皇室典範は,現行憲法では法律ということになっているので,国民が主体的に考えなければならず,国政に関与することのできない皇室は意見を差し控えることになる。
しかし,皇位継承の在り方は,皇室の構成の在り方にかかわる内容であるから,どのような尺度で考えるべきかについて,国民の側に十分な手掛かりがあるわけではないし,国民の側としても,筆者もその一人であるが,その判断の責任を求められても困るという事情があるのではないか。
そうなると,国民の中でも,現行の仕組みを変えるという意見に立つ側としては,非常に困難な作業となる。
そして,結局,これまでもずっとそうだったのだからということで,男系維持ということが声高に主張され,どういも身動きがとれなくなってしまう。

また,最近のオリンピック招致との関係では,皇室と政府との関係という問題もある。
皇室という御存在の意義について,権威と権力との分離ということがよく言われる。
権威を政治権力とは異なる皇室が担ってきたというのが,日本の歴史的な知恵だという考え方である。
それは確かにその通りであると思うし,多くの人にとっても,説得力のあるものとして受け止められているようだ。

ただ,権威と権力の関係というのは,そもそも非常に微妙な問題であり,その運用は高度な問題であるといい得る。
権威なき権力も,権力を伴わない権威も,それぞれにあまりに不十分であるわけだから,権威と権力の「分離」といっても単純に切り離せばいいというわけではなく,お互いに何らかの関係を保つ必要があり,バランスということが重要になってくるわけであるが,そのバランスについても,どのような状態が適切のであるのかについて,明確な尺度が必ずしもあるわけではない。

また,このことをめぐる厄介な問題として,権威と権力を分離したとして,権力は権力で運営するべきことは自明であるとしても,権威の運営は誰が行うのかという問題がある。
権威ということも,まったくの形式的・儀礼的なものであればともかく,社会的に大きな意義を有するとすれば,その運営について,権力の側が無関心というわけにもいかなくなってくるであろう。
そうすると,いくら権力とは分離された権威であるといってみたところで,その運営は権力によって行われることとなり,権力のコントロール下に置かれることとなる。

さて,ここで,戦後の象徴天皇制の在り方ということを振り返ってみる。
大日本帝国憲法から日本国憲法へと変わったことにより,天皇という御存在は,統治権の総攬者から日本の象徴へと変わった。
主権者として国家の権力作用の源泉という立場から,非主権者として国政に関与できない立場へと変わったわけである。
権威と権力との関係から言えば,権力の根源として,政府の上位にあったとも言い得る立場から,国民主権原理の下,国民主権原理に正当性の根拠を有する政府のコントロール下に置かれる立場へと変わったわけである。

ここで,戦後の皇室が政府のコントロール下に置かれることになったということについては,感覚的に違和感を有する方も多いであろう。
少し前の筆者も,そのような感覚を有してはいたのである。

このことについては,大日本帝国憲法から日本国憲法に変わったとは言え,戦後長いこと,天皇地位については,引き続き昭和天皇という同一人が担ってきたということが,大きいであろう。 

もちろん,憲法の制度上には大きな違いが生じることとなったが,天皇の御存在の本質についての継続性ということは意識されており,政府において,大臣はあくまでも天皇の「臣」ということが意識され続けたわけである。
そして,皇室の側としても,その微妙な関係性については配慮され続けてきたのであろう。
常に控え目というスタンスは,戦争ということへの贖罪の意識ということもあったと思うのであるが,国民主権原理との衝突の場面を意識的に避けてきたというような配慮があったのではないかと,今にして思わされるわけである。

ただ,時間の経過とともに,そのような意識の共有は薄れていったのであろう。

現在の皇室については,今上陛下について,象徴として即位した純粋な象徴天皇であると評する声もあるが,そこでは,かつての統治権の総攬者として残像は,克服するべき対象として捉えられているのかもしれない。
そして,事実,今上陛下におかれては,日本国憲法を尊重するということを度々明言しておられ,日本国憲法に基づく象徴としての在り方をどこまでも真摯に追求されておられる。
このことは,どこまでも正論であり,また,非常に望ましいことであるはずであった。

ただ,このような考え方をするというのは,非常に申し訳ないことであるのかもしれないが,かつての統治権の総攬者としての残像があったが故に保たれていたバランスというものがおそらくはあって,そのような残像がなくなった時に,難しい問題が顕在化してくる。それが,今の状況なのではないだろうか。

すなわち,皇室において御公務について非常に真摯にお務めになられ,あらゆる幅の広い御活動が展開され,そのことが国民の広い支持を受けるということ。
このことは,象徴天皇制の存続という観点から,もちろん,必要なことであり,また,望ましいことではあるのだが,皇室の御公務が社会的に大きな意義を有することが認知されてくることとなれば,その御公務の在り方について,政府との関係,政府のコントロールということが,問題化せざるを得なくなってくるのである。

日本国憲法における象徴天皇制は,あくまでも国民主権原理の下に置かえれるものである。
であれば,社会的に大きな意義のある御公務の在り方について,国民主権原理を正当性の根拠として有する政府がコントロールするべきという考え方に,どうしても傾いていかざるを得なくなる。

かつて,統治権の総攬者としての残像が意識されていた時期においては,政府としてあからさまに皇室をコントロールするという発想ななかったはずであるし,当然に忌避されることとなったであろう。
そして,皇室の側としても,そのような問題の顕在化を避けてきた。

しかし,現在において,そのような意識は薄れてきたということになれば,権威と権力の分離において,権威は誰が運営するのかとなれば,それは権力であるという発想になったとしても,それはむしろ必然であるといい得るであろう。

IOC総会における高円宮妃殿下のスピーチをめぐる経緯についても,政権側において,皇室の御活動の在り方についてはあくまでも政府が最終的な決定を行うという発想が見られ,また,宮内庁長官の発言への違和感を表明し,要するに皇室サイドからの批判は許さない(もちろん,露骨にはそのようには言わないわけであるが)という態度が見られ,ついにここまで来たかという感じであるが,ただ,これも時代の推移に伴う必然であったということなのではないだろうか。

日本国憲法下の象徴天皇制について,改めてよく見てみれば,皇位継承の在り方,皇族の範囲といった本質的事項が皇室典範という法律事項とされ,財産の授受も強度に制約され,その経済はこれまた皇室経済法という法律事項とされ,その不動産も,皇室用財産という国有財産とされている。
そして,日々の御生活についても,宮内庁という国家行政機関によって支えられることとなっており,政府との関係における自律性は,限りなくゼロに近い。
また,皇室の御活動について,国政に関与しないというルールがある。
このルールも,かつては,政府の側が皇室を政治的に利用してはいけないという側面での理解というウェイトが大きかったように思われるのであるが,最近は,皇室の御活動を縛り,政府としてチェックし干渉するという側面で理解されてきているように思われるのである。
まるで,江戸時代における皇室と幕府との関係であるかのようである。
(いや,仕組みとしては,もっと強度のコントロールを受け得る体制であるというべきであろうか。)

そして,現在の安倍政権は,皇室との関係においては,まさに,江戸幕府としての在り方を志向していると評し得るであろう。
これは,筆者にしても,全く油断していたところであった。
安倍総理については,その取り巻きの言動も含めれば,かつての大日本帝国憲法への志向を有しているように感じていたのであるが,どうもそういうレベルの話ではなく,現実的には幕府と化しつつあるかのように感じられるのである。

*自民党憲法改正草案の第6条第5項に「天皇は,国又は地方自治体その他の公共団体が主催する式典への出席その他の公的な行為を行う。」という文言が盛り込まれている。
この規定が実現化した際,ここでいう「公的な行為」について,天皇の自由意思に委ねられるということになるであろうか,それとも,政府の決定に委ねられるということになるであろうか。
筆者としては,後者の解釈に傾くことにならざるを得ないであろうと考えている。
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象徴天皇制 日本国憲法 皇室用財産 皇室経済法 宮内庁長官 オリンピック招致 日本の歴史
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匙加減が判らぬゆえに (コロンボ)
2013-09-24 12:49:10
アッパレ菅官房長官!、と手を打ち膝を叩いて官邸を応援したコロンボは早計に失したのかと考え込んでしまいました。
あの時の官房長官にして現在の総理である安倍幕府の女房ともいえる官房長官に、拍手喝采を送ったのは、長年の宮内庁幹部の苦言が腹に据えかね、これに鈴をつけてくれる存在を待ち望んでいたからに他ならないと自己推理しつつも、この感情は当分収まりそうにないと感じている。

雅子妃殿下に対して、「そんなに海外訪問がしたいのか」と湯浅元長官が言い放って以降、
歴代宮内庁長官は、言わずもがなな内容を、わざわざ公にし、しかも「両陛下の御意向」「両陛下のお気持ちを忖度して」と書かせることで、ことさらに皇室内に不和があることを強調し、
結果的に、国民の皇室への敬愛の念を奪うことにつながっているという本末転倒と言うべきか、真意を測りかねる言動が続くこと数年。
宮内庁幹部の苦言とやらにほとほと嫌気がさしていた故、このところの官房長官の宮内庁への迅速な反論には胸がすく思いでいたのだが、果たして、これは早計だったのだろうか。

6月に新潮は「二月はじめに宮内庁長官は、(雅子妃不適格ゆえに)皇太子様は即位後すぐさま退位して悠仁様へ譲位される案があり、それを内閣官房へも伝えている」とスクープした。

これに対して(むろん、定例会見にて記者からの質問もあったのだろうが)官房長官は、週刊誌発売と同時に、かなり強い調子で「そんな案は聞いていなければ、そんな案も考えられない」と抗議している。これについては、宮内庁もホームページにて抗議しているが、過去の経緯を具に見てきた者としては、官房長官の強い抗議がなければ、宮内庁側が適切な対応を取ったかは疑問だと思っている。

官房長官の抗議あっての、宮内庁の対応、というのがコロンボは推理である。

そういった経緯をふまえての、オリンピック招致についての官房長官vs宮内庁だった故に「アッパレ官房長官」につながったが、 その周辺では「筆頭宮家が海外で丁重に迎えられるために、あるいは雅子皇后病弱のために、秋篠宮様を摂政宮にすべき」などという(摂政の役どころを勘違いすることで、天皇の御立場をも軽んじる)世迷いごとを述べる学者を重用していることを考えれば、ことの推移を慎重に見極めねばならないと反省もしている。


しかし、一連の動きを見ての西田様の論考と、コロンボの推理が乖離している原因を探ると。
この一連の問題を、西田様は「皇族の政治的利用」という観点から論考されているのに対し、コロンボは「皇族の政治的関与」という点から見ている、という拠って立つ視点の違いによるものだと考える。

公務の選定における’宮内庁蚊帳の外(感)’を勘ぐっているコロンボならば当然、「政治利用」の方に視点がいかねばならぬのに、 コロンボが「主体的ご活動としての政治的関与」の問題として捉えた原因は、
やはり前回の皇室典範改正直前の懐妊を究極の政治的関与と捉えたり、「一代限りの女性宮家は両陛下と秋篠宮家の総意」と繰り返し報道されていることについて(前回改正が葬られた経緯とあわせて考え)ご都合主義な政治的関与と受け留めているからだと思っている。

宮内庁ホームページの不公平な記載に始まり、宗教学者に学友、御用マスコミetcあらゆる手段を総動員して東宮ご一家を辱めるその根源が、千代田の苦言というご宣託にあると推理できる昨今を見ていると、 権力を伴わず権威のみを志向される清廉潔白な御存在ゆえ「政治的に利用されてしまいうる」などということ、すっかり失念しておった次第である。

西田様は未来を見据えて二つの課題を提起しておられる。
>1 次代を担う皇太子同妃両殿下の御公務、御活動について、国民としてはどのような在り方を願うのか。
>2 1と密接に関連しますが、国家と皇室との関係、距離感はどうあるべきなのか。

おりしも、宮内庁と内閣官房もその問題に着手している。

いや、宮内庁の頭にあるのは「皇太子同妃両殿下か?」と、どこまでもコロンボの疑惑は尽きぬゆえ、西田様の高邁な視点についていけない状況ではあるけれど、内閣府の一環である宮内庁が、あげて時の政権と同じ方向で突き進んで良いとも思っていない。やはり、そこは、政治的権力とは距離をおき、皇族方の御意向専一の存在であるべきだとも、思っている。
そこのところの匙加減がどうにも混乱した現在を見ていると判らない。

こんなコロンボでありますが、ご迷惑でなければ一緒に考えさせて頂きたいと願っている次第です。


政治利用と政治関与 (Dianthus)
2013-09-25 09:19:14
皇室INDEXさまのところでお世話になっているDianthusと申します。こんにちわ。

そちらのところで、大我楼清風さまの書き込みに続いて書かせて頂いたのですが
私は「政治利用」については、国民が、つまり国民を代表するマスコミや政治家や有識者や、あるいは国民世論そのものが、「時の政府は天皇を間違った形で政治利用しておかしい」と批判するものであって、
水面下の折衝段階はいざ知らず、公式に宮内庁長官等が、政府に対して非難するのはおかしい、と思います。

やはり、新憲法以降は、主権在民であり、天皇は「国民国家統合の象徴」である(よって権威であっても権力はない)、ゆえに大きくは国民の代表である内閣府のコントロール下にあるのが、筋というものだと思います。
安倍幕府という言い方はおかしい。もちろん個人的には、タカ派の安倍首相は好きではありませんが、あくまで安倍首相は国民の投票によって選ばれる存在です。
幕府のように、民衆とは無関係に支配者だったのとは違います。
ゆえに、国民の代表者である内閣のコントロール下に天皇はあるべきで、幕府の勝手な政治利用とは違う。
内閣があぶない政治利用を始めたら、国民が厳しく批判し、政権交代に持ち込むべき。
国民はその自覚をもたねばなりません。

むろん、天皇(皇室)の知恵として、宮内庁が水面下の折衝段階でいろいろ意見を言うのは当然でしょうし
政府の意向に従っても、実際の言動は政治的中立をなるべく守る、ということはあり得るでしょう。
高円宮妃殿下のIOCでのスピーチは、実に抑制の効いた、素晴らしいスピーチでした。

また、コロンボさまのおっしゃるように、むしろ近年は皇室の政治関与と評したくなるような事が多く、これはいかがなものかと思います。
たとえばいつ、誰と結婚するか。婚姻などはまったくプライベートなことで、これは皇室の方々のご意志が尊重されるのは当たり前ですが
皇位継承のルール、皇族の範囲の規定などなどは、国民(国会)が決めるべきことです。その自覚と責任意識を国民側が持たなくてはならない。

とりわけ、宮内庁長官が、陛下の大御心を忖度、と言わんばかりに発言するのはいかがなものかと思います。
「主体」は発言せず、その御心を知りうる「代弁者」が発言する。
これは、たとえば「神」と「神官(祭祀者)」の関係と似ています。

こういう「代弁者」を置くことは、「代弁者」までもが神秘化、権威化されるばかりでなく、
「主体」(この場合は天皇)をいたずらに神秘化、権威化させることになります。
これは、現代社会において、好ましくないと思います。

「主権在民」で、「国民国家統合の象徴としての天皇」
まるでぬえのように、つかみ所のない規定ですし、最後のところで、主権をもつ「国民」の自覚と知恵と責任が問われる規定です。
しかし、21世紀を生きる人間として、この規定の原則を我々は手放してはいけないし、子孫にまで確実に伝えていかねばならないのではないでしょうか。

「主権在民」国家の、「国民国家統合の象徴」としての天皇。思えば本当に難しく、生きにくいお立場だと思いますが
今の皇太子殿下、そして皇太子殿下が信頼し尊敬される同妃殿下、さらにはそのお二人に愛育され薫陶を受けられている敬宮殿下は、その難しいお立場の意味するところをしっかりと見据えて、歩んで居られる。
そう思いますので、皇太子ご一家への深い敬愛の念はやむことがないのです。

つらつらと自分の思うところを書かせて頂き、すみません。
お言葉に関する諸事情 (モーリ)
2013-09-25 21:34:39
西田様、皆様お久し振りです。


一般的には皇室外交でのお言葉は、まず現地の大使館がその国の対日感情などを考慮しながら原案を書き、外務省の担当部局に上げる。そして儀典室や大臣官房などが宮内庁と照会し合いながら政府案を作る。最終的には内閣法制局が象徴天皇の発言として妥当かどうかチェックする。
韓国の蘆泰愚大統領が来日したときは、双方でお言葉の表現をめぐり外交交渉に近いようなことがあった。

高橋紘著「天皇家の仕事」より


高橋氏の著書には天皇とありますが、皇族方も基本同じ。
式典でのお言葉については、外務省ではなく、式典の関係省庁が原案を作ることになっています。
そして、皇室に限らず、総理大臣や大臣など政府要人の公式会見、国会答弁、国際会議での発言も基本的には同じです。

総理大臣秘書官には、外務省や警察庁など主だった省庁から出向した中堅のキャリア官僚が就き、補佐するとともに、公務や発言などについて関係省庁との調整役を務めます。
内閣(政府)が政策を考え行なうというのは、その為の法律を作り予算を確保するということ。
また、公務とは法に定められた権限や役割に基づいて設定される。ですから、総理大臣や大臣が、法的に実現可能な政策か精査せず公式の場でぶちあげ、後になって実現不可能であることが判ったり、権限を逸脱する発言や行動をすれば政治問題に発展します。
また、政府の方針や政策は法によって権限を与えられた公人によって議論がなされ、きちんと法の手続きを踏んで変えない限り、これまでの方針や政策との一貫性や整合性が求められる。
それゆえ、総理大臣や大臣の発言内容は、過去の政府要人の発言との一貫性、整合性を厳密に確認する必要があります。

天皇や皇族も法によって定められた公人で、その公務や発言は法に基づき行なわれるもの。
また、昭和天皇のお言葉を含めこれまでの公務やお言葉との一貫性や整合性を保つことも重要。
だから、採用試験で法に関する高度な知識が問われ、法案の作成や法の運用を主な業務とするキャリア官僚が宮内庁の役職や秘書的な役割を担う侍従、東宮侍従、宮家の宮務官に就くのでしょう。
今回の件も法との照会や高度な政治判断が必要。
つまり久子様ご自身が考えられたお言葉であっても、内容、英語や仏語のニュアンスが適切であるかなどの調整がなされ、政府のゴーサインは受けていると思います。


旧主権者 (大我楼清風)
2013-09-26 02:26:13
「皇室の政治利用」と「皇室の政治関与」の制限については、INDEX様のところにも書かせていただきましたが、今日は2点についてのみ書かせていただきます。

第一点。私はこちらでも以前から、

外交に関する陛下の言動は助言と承認のもとに行われるのだから、陛下のご発言のいちいちに立ち入って批判するのはあたらない(結局は政府の外交方針を批判していることになるのだし、政府を批判すれば済む)というようなことを書かせていただいてきました。
モーリ様の言われていることも同様のことでありましょうか。

ある意味では、天皇は、積極的に政治に関与できないかわりに、直接に責任をとることからもまぬかれているわけです。

しかし、宮内庁長官が陛下の御意向を忖度するような最近の状況は、私が「天皇ご謀反」とまで極論したような、陛下の責任をかえって強調してしまう結果になっているような気がしてしょうがありません。

今回のオリンピック招致騒動だけではなく、女性宮家の議論などにまで視野を広げると、です。

第二点、西田様は今回以下のような論調でご意見を述べられています。
>(皇室の御活動について,国政に関与しないというルールがあるが)このルールも,かつては,政府の側が皇室を政治的に利用してはいけないという側面での理解というウェイトが大きかったように思われるのであるが,最近は,皇室の御活動を縛り,政府としてチェックし干渉するという側面で理解されてきているように思われるのである。

私はこれには反対です。
やはり、主権在民の日本国憲法における天皇の規定には、旧主権者の監視、自由の拘束、権力の剥奪という側面があるのではないでしょうか。
君主は国民の敵なのです。一昔前には天皇があるから民主主義とはいえないのではないか、なんていう議論がまかり通っていましたよね。
封建制の残滓、ともいわれました。
また、昭和天皇は戦犯相当の人物でした。天皇制は許容しても昭和天皇は許せない、なんていう人もいた。マスコミはそんな論調ではなかったでしょうか。

これは占領軍の懲罰だったかもしれませんが、日本人は民主主義を選択したとき、君主に頼りすぎるのはやめて主権者としての自覚を持たなければ、あるいは各自のやり方で戦争の責任を取ろうという気持ちもあったと思います。そういう厳しさがここにはあったのではないでしょうか。

西田様のような経験豊富な人生の先輩がそのことを全く忘れてしまわれたかのようなご意見を述べられるのは意外でした。

それに、憲法は権力を制限するものだ(立憲主義)と言われますが、具体的に何を制限するかと言えば天皇だったのではないか。今回の自民党の改憲案で、天皇の憲法順守義務を外しているのは象徴的です。

皆様のご意見を伺いたいと思います。

皇室の政治利用の終結 (モーリ)
2013-09-26 07:39:04
愛子様の持ち物が話題となり、同じ物を購入したい人は多い。
天皇や皇族の影響力は多大です。表現は悪いですが、天皇や皇族はその存在自体に大きな利用価値がある。そして、国事行為というのは権威や影響力がある天皇がお墨付きを与えることで、内閣の政治、政策の信用度を高めるということ。
天皇や皇室を政治的に利用しているし、関与しているとも言える。でも、それは問題ではない。
いわゆる政治的利用や政治的関与は、天皇や皇族が主権者である国民の権利を侵害する、国民にとって不利益な事に繋がる行為。
日本は民主主義国家ですから、主権者である国民に政治的な権限があり天皇は侵害してはいけない。特定の国、団体、人間を優遇し、国民に不利益が生じることも避ける。天皇が直接政治に関与しない形で、国やすべての国民の為にその権威や影響力を使うことが君主制の大きな目的です。
それに当たる行為や発言は問題ではない。

オリンピック招致には、賛否両論あり、久子様のスピーチはすべての国民の為とはいえません。
しかし、陛下と久子様ではお立場が違う。
憲法で地位や制約を規定されているのは天皇だけ。皇族に全ての国民の権利、利益を侵害しないという天皇と同様の制約を厳格に適用する法的根拠はないし、天皇の地位にない者に同様の制約を課すのはおかしい。
だから、天皇と内廷皇族は、全ての国民に関わる公務に限定され、基本特定団体の名誉職につかない決まりがあるが、宮家には、名誉職への就任が認められているのです。

久子様は、継承者ではないし、昭和天皇の傍系の宮家当主。
また、スポーツの振興に力を尽くしていらっしゃる。
オリンピック招致は、賛成派が過半数を占め、東京都だけでなく、スポーツ界、政財界も賛同し、一体となって招致活動を行なってきた。
それを後押しすることに問題ないというのが政府見解であると思います。
今回の宮内庁と政府のやり取りは、20年以上に渡って行われてきた皇室の政治利用を公にする為ではないでしょうか。








Unknown (和久希世)
2013-09-26 12:24:04
記事の内容に関係ないことを書くことをお許し下さい。

皇居は早急に避難せねばならないほどの放射能汚染に曝されているというのに、
誰も皇統の存続について心配されないのが不思議です。
未だ幼い悠仁様や敬宮様のDNAが、放射能で傷が付く事を防ごうと誰も動かない。
特に男系のDNAをと、声高にわめいている人たちは、
皇居の放射能汚染に対して、危機感を持たないのかと、不思議です。

偶々見かけたブログに、
法律によって天皇陛下は皇居に縛り付けられておられるのに、誰も助けようとしない。
冷て〜な〜
という書き込みを見かけて、
自分も含めて、日本人は冷たくなっているのだな〜と思いました。

今天皇尊崇者の振りをしている人達皆、
振りをしている人たちに過ぎないという事でしょう。

東京オリンピック招致で、皇居の移転は更に7年間される見込みはなく、
政府は両陛下ならびに皇族を、汚染された千代田の森に縛りつけ続けるのでしょうが、
安倍総理は如何してあんな嘘(汚染水は0.3km以内に納まっているetc)を言ってまで、オリンピックを招致したかったのでしょうね。
ずっとバカだった (山歩き)
2013-09-26 19:32:30
国民主権と天皇。
直球ど真ん中な問題ですのに、真正面から考える機会が少ない、と改めて気づきました。

先日、与党幹事長が「選挙民はバカだ。そして国民以上のレベルの議員も出てこない。だからこそ、候補者の選定や育て方が大切(私なりの要約)」と発言したそうですが、この発言にさして怒りの声もあがらず、私自身も苦笑するしかなかったところに、国民主権の何たるかを理解しきれていない我々の根深い問題があると思います。

帝国憲法を「改正」した日本国憲法の有効性を認めるために、8月革命説まで用意したのは、天皇主権から国民主権への移行は、憲法改正の限界を超えるものであったから。
それほどに、天皇主権と国民主権は対極にあるにもかかわらず、そのことに正面から向き合ってこなかった、この20年の歪みも、皇太子ご一家バッシングの原因の一つではないかと考えます。

西田様のご指摘通り、昭和天皇には統治権の総攬者としての残像もあり、それが微妙なバランスを保つことに寄与していたと思いますが、その権威のみならず権力も内包する天皇像に対しては、戦争責任を問う声もあったため、(昭和時代には)国民主権と皇室(廃止)はイデオロギーとしてきちんと議論されていたのだと思います。そこでは、それは、あくまで制度論の議論でした。
しかし、平成は今上陛下の「日本国憲法を遵守して」というお言葉から始まりました。多くの人の胸に気持ちよく収まる立派なお言葉であったために、 日本国憲法を真に遵守すれば「国民の総意に基」き(1条)天皇の御存在そのものが可変的なものとなる、という真意が(逆に)曖昧になる、という奇妙な現象が起こりました。その反動が、制度論で国民主権の対極を問うのではなく、皇族への人格攻撃という形で現れている、と思えるエピソードに出会ったことがあります。

以前も書きましたが、天皇制反対の人が以下のように得々と語っているのを聞いたことがあります。
「自分達(天皇制反対論者)にとって、皇太子ご夫妻の御成婚は一つ目の危機だった。それは天皇・伝統の全てを体現している皇太子様と、現在的価値の最高なものを体現している二人が結婚すれば、皇室は盤石になってしまう。でも、お二人には男子は生まれず、雅子様は病気になったおかげで皇室への疑問が広がった。
第二の危機は、女性天皇が通りそうになった時。これが成立してしまうと、未来永劫天皇制は続いてしまう。だから『男系男子が伝統で、そうでなければ存在価値がない』と言い続けるんだ。そうすれば、いずれ天皇制は滅びる。仮に、秋篠宮家に移っても、一代問題が先送りされるだけだし、スキャンダル的にはここを崩すのは簡単。だから、まず(世継ぎ問題以外では)切り崩しが難しい皇太子ご一家を徹底して叩く必要があるのだ」・・・・・要約すると、このように語っていました

現在の皇太子ご一家バッシングには、もちろん皇位継承の問題も絡んでいるので、上記の意図だけが原因ではありませんが、ありとあらゆる方面からのバッシングを見ていると、制度論としての「国民主権と皇室」が語られなくなった歪みの結果の皇太子ご一家バッシングだという面は、今一度見直すべきだと思いました。



憲法改正が現実味のあるものとして政治日程に上がろうとしている今、西田様が国民主権を正面から問い、「運用」の難しさや問題点をあげておられることはタイムリーだと感じます。
法律は正しくとも、その適用や運用が間違っておれば「違憲」とされるますが、 皇室の権威や公務を運営・運用するのは誰であるべきか?さらには、運用で生じる問題のジャッジは誰が出来るのか、誰がすべきなのか? 先の「国民はバカだから」のセリフを思い出し困惑します。
野党憲法調査会長の「解釈改憲では無理があるから憲法改正で議論しよう」という風呂敷を広げているのか、ひっくり返しているのか分からない提案を見ていると、この現象はいったい、どこまで広がるのか?第一章「天皇」においても、「運用」面での問題を一足飛びにしての大改正もあり得るのか? 政治的場面での鬩ぎ合いは激しくなりそうです。
そして、この混乱の間隙を縫って、皇太子ご一家追い落としバッシングは更に酷くなると思われます。(アエラによると、分家の苦しみゆえ笑顔が減っている妃殿下の為にも、皇太子様を飛ばして秋篠宮様に皇位を、の案は可能性があるそうです)

制度論で語らず問題を矮小化させて本体を弱らせるような怠慢で小狡い姿勢のツケは、倍返しとなり我々国民自身に返ってくるかもしれないので、西田様が提起して下さる「国民主権と天皇」について今一度きちんと考えたいと思います・・・が、国民主権の権力性の発動を誘導したいがためのような悪意・憎悪のバッシング記事が踊っているので、冷静に考えられない私です。

逸脱・脱線しそうになれば、ご注意お願い致します。

制度と生身 (大我楼清風)
2013-10-05 22:35:54
週刊誌報道は都市伝説みたいなものだと言ったのに、また週刊誌を見てしまいました。

週刊文春の10月10日号。いわく「久子さまと安倍首相、天皇が案じる「際どい決断」。

そもそも私は、久子妃殿下のIOC総会出席は、天皇陛下が憂慮されるほどの大事だとはどうしても思えないのです。
・・・このことが起きてからひと月以上、何度も何度も考えましたが、どうしてもそんなに重大な政治利用だとは思えません。

むしろ「重大な政治利用」にして騒ぎ立てることこそ重大な事件(イレギュラーな政治介入)だと思わざるを得ない。

風岡宮内庁長官の発言というのもどうにも解せない。
一官僚が(というより天皇以外の方が)天皇の意思を忖度するということの意味は重大です。

それに対する批判を封じることになるし、それだけでなく尊皇心の有無などのレッテルを貼ることになる。
戦前の言論封殺や、テロがどういう経緯で起きたかを考えてもとんでもないことだと思われます。

「宮内庁で長い間取材してきた記者」というのは、むしろそういう大きな視野からものをみることができなくなっているのではないでしょうか。対する菅官房長官の違和感は十分に理解できます。

今回の記事では真っ向から否定(とりあげてもいない)していますが、宮内庁長官が僭上なので、陛下は関係がない、という見方もできるわけですが、そうだとしたら、まさに宮内庁はぶっ潰すべきでしょう。

また、私が今回この記事で見逃せないことだと思ったのは、皇室ジャーナリストのコメントで、「安倍首相は天皇陛下個人というより、歴代天皇の一人として見る気持ちが強いのではないか」(記憶で書いているので、引用そのままではありません、思い違いならご指摘ください)と述べているところ。

まさにこれは制度としての天皇より、生身の今上陛下をもっと大切にせよ、ということであり、私の「制度と生身」論をひけらかすのではありませんが、そういう状態になっていると改めて思わざるをえませんでした。

天皇制の是非とは別に、今上陛下に対する「個人崇拝」のようなことがおきているとしたらとんでもないことです。

週刊誌報道が、美智子皇后絶対のようなムードに満ちているのは以前から指摘されていますが、それと軌を一にするかのような今上両陛下への個人崇拝。

でもそれは、「戦犯」という禍々しいくびきがはずれ、日本国憲法を守る、戦後自分たちとともに歩んでこられた(民間に伴侶を求められた)天皇が誕生した時から、容易に推察しえたことのような気がします。

私が初めてこちらに書き込みをさせていただいたときに書いたのは、「国民の尊敬を集める天皇陛下が、(東宮バッシング→廃太子問題もあり)歴史に残る暗君になってしまうのを憂える」ということでありましたが、その思いを強くするものです。

天皇はこういう形(事後に宮内庁長官から忖度させる形で)で自分の意思を表明してはいけないのです。
それは日本国憲法下の制度論に留まらず、人の上に立つ「君主」として最低限のことではないでしょうか。(だって、手続きに沿って久子妃殿下への要請・審議が行われたなら、あとになって上から異議をはさむのは、一般の会社などでもいちばんいけない、嫌われることだと思われるからです)
ましてや民主主義の日本国憲法下です。

両陛下への個人崇拝がとりまきの不見識で増幅されている。これが今回の事件への私の意見です。

追伸
安倍政権が天皇をコントロールしようとしているとか、政治のいいように使おうとしている、という考えは間違っていると思います。

確かに、政府側にも不見識な人がいるし、古くからの天皇権威は崩壊した(安倍首相はたぶん、旧来の天皇権威を知らない人でしょう)。そして私は右翼、タカ派、改憲論者、男系男子主義者の安倍晋三氏は好きではないですが、こちらがわれわれ国民の代表であることを忘れてはいけないのです。

天皇陛下が、昭和天皇のように、不世出の明君であれば(そして側近に経験豊かな、真に皇室を思う方々がそろっていれば)、いろいろなことを見通して、大所高所からの御見解をいただけるかもしれませんが、そうでない以上、制度と、民意を第一に考えることが大切なのです。

ならば、意見を述べることはできないのか。

というか、もしほんとうにこのことがそんなに大事なことなら、陛下がわざわざ出馬するまでもないわけですし、このことにだけ突出して陛下(の名が)出馬(持ち出されて)されていること自体に違和感を抱かざるを得ない。

陛下にご意志を表明させてあげたい、というのも、見当はずれです。

《西田様のご意見を真っ向から否定し、失礼の段お許しください。》

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