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【社会】

国立競技場の碑どこへ 国威発揚の舞台再び

碑を残したいと願う元学徒兵の寺尾哲男さん=東京都新宿区霞ケ丘町の国立競技場で

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 第二次世界大戦中の一九四三年十月二十一日、秋雨の明治神宮外苑競技場(現国立競技場、東京都新宿区)で、戦場に向かう大学生らの壮行会が華々しく開かれた。兵力不足を補うために、学業の中断を余儀なくされた若者らの行進はラジオで中継され、国民の戦意高揚に利用された。「学徒出陣」から七十年。卒寿をすぎた今だから、伝えたい思いがある。

 学生服にゲートルを巻き歩兵銃を抱えた。父とよくラグビー観戦に訪れた競技場を、早稲田大三年だった寺尾哲男さん(90)=横浜市港北区=は感慨深く行進した。けり上げた泥は首まではねた。

 「生等(せいら)(われらの意)もとより生還を期せず」。大観衆を前に、学生代表による東条英機首相への答辞は、振り絞るような絶叫になった。当たり前のこととして聞き、会の後は新宿で仲間と飲んだ。「戦争への疑念も、自分の命への執着もなかった」

 待っていたのは地獄だった。四四年十月、海軍航空隊の任務で赴いたフィリピンのルソン島の基地は到着直後から米軍の猛爆撃にさらされた。一カ月半で五十機以上あった戦闘機の大半を失い、隊員約四百人が戦死。海軍省に送る戦闘記録に、同期の戦死報告を書くのが一番つらかった。糧食が底を尽き、ヤシの根や雑草を食べ、飢えをしのいだ。辛うじて脱出した台湾で終戦を迎えた。

 出征から五十年後の九三年、同期らと奔走し、「出陣学徒壮行の地」の記念碑を国立競技場内に建てた。時代が昭和から平成に移り、「学徒出陣の写真や映像を見て、『勇ましい』と美化する声が聞こえてきた」。人々から負の記憶が薄れていることを危ぶんだ。

 二〇二〇年、国立競技場はオリンピック会場として再び国威発揚の舞台となる。寺尾さんは、建て替えが決まった競技場の運営団体に碑の保存を求め、一人でかけ合ったが、返事は保留のままだ。「学徒出陣の表面的な勇ましさでなく、惨めさこそ伝えなければ」

    ◇

 苦い思いを社会にどう刻むのか、元学徒らの悩みは深まる。戦没学生の悲劇を繰り返さないよう設立された日本戦没学生記念会(わだつみ会)は今年五月の憲法記念日、元学徒兵らとともに九条改憲を懸念する声明を出した。

 「十年前は記者会見ができたが、もう声明が精いっぱい。それも今回が最後だろう」と石井力(ちから)理事長(73)は話す。高齢化が進む中、会員の数は半分以下に減った。

 細い糸をつなぐのは、次の世代だ。東京大大学院二年の志田康宏さん(27)=東京都文京区=は、わだつみのこえ記念館で、約一年前からアルバイトをしている。

 もともとは博物館の運営に興味があった。戦死した学生らの遺稿をパソコンに打ち込む作業をするうち、兵士らが失恋の悩みを相談し、軍や上官を批判する文章に親近感を覚えた。「自分と同じ、普通の学生だったんだ」

 志田さんの目には、わだつみ会の活動は「種をまく作業」と映る。石井さんは「すぐに芽は出ないかもしれないが、何とか思いをつなげたい」と祈るような気持ちでいる。

<学徒出陣> 1943年、深刻化する兵力不足を補い、挙国一致体制を確立するため、理科系、教員養成系を除く20歳以上の大学生・高専生を、学籍を持ったまま軍隊に入れた措置。当時の大学進学率は3%程度で、学生は国の将来を担う人材として徴兵が猶予されていた。6万〜12万人が出陣したとされるが、資料が失われ、正確な数は今も不明。

 

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