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プロボウラー/山本勲(やまもと・いさお)
1982年1月6日生まれ(24歳)
神奈川出身
3歳の時、両親の影響でボウリングを始める。6歳にしてマイボールを作る。並行して野球にも取り組んでいたが、中学生の時、プロに教わりながら本格的にボウリングを極めるようになる。
中学を卒業したらすぐにプロテストを受けるつもりでいたが、ボウリング部設立を計画していた県立釜利谷高校に推薦入学。アマチュアのトップを目指す決意をし、当時最年少の17歳でナショナルチーム入りを果たすとともに、数々の大会を制覇する。
2001年、全日本選手権大会では史上最年少で優勝。2004年のジャパンカップにアマチュアで出場し、総合7位という記録を残す。
2005年、男子プロ史上初となる実技試験免除でプロ入り。
JPBA2005年のポイントランキングでは、わずか半年のプロ参戦ながら、見事1位となり、2005年度の日本プロスポーツ大賞で新人賞を獲得する。 |
第一章・摩擦
高度成長の時代、世はレジャー産業勃興期。数百メートルおきにあったという「ボウリング場」では、猫も杓子も重い球を転がした。一大ブームの『ボウリング』。その火付け役は、誕生したばかりのスタープロボウラーたちの活躍だった。
テレビのチャンネルをひねればゴールデンタイムにボウリング番組。爽やか律子さんと須田開代子プロのライバルの闘いは、世のボウリング熱を煽った。しかし、熱に浮かされていたようなボウリングブームも今は昔。プロボウリングの話題もとんと聞えなくなった。
そんなボウリング界に久々に巻き起こったビッグニュースは、大型ルーキーの登場だった! 山本 勲(やまもと いさお)プロ。狭き門として名高いプロテストで、史上初の"実技試験免除"! 推薦で合格を果たした期待の新星である。アマチュア時代、数々の国際大会で大活躍! その輝かしい戦績が評価された。
大物ぶりはすぐに現われた。シーズン途中からプロ参戦したにもかかわらず、わずか半年間で、2005年度「ポイントランキング」、「アベレージランキング」共に第1位! いきなりの2冠王に輝いた。ボウリングブーム再燃の火付け役となるか熱い期待を一身に背負って登場した逸材なのである。
山本のホームグラウンドは、高校生の頃から馴染みのボウリング場。この中にあるショップで働きながら日々の練習をしている。男子の公式戦トーナメントは年間13試合。その他、予選会など、年に20試合ほどに参戦する。練習時間はもっぱらお客さんの少ない早朝。先輩プロたちと実戦さながらに投げ込む。プロの中でもトップクラスのストライク率を誇る山本のボールは、常に同じ軌跡のカーブを描きながらピンを倒してゆき、面白いようにストライクが決まる。
山本のストライクを1秒間に1000コマ撮影できる超高速度カメラの映像で検証してみよう。
ボウリングは物理学。等間隔に並んだ10本のピンを一投のボールで倒す方法は、計算で求めることができる。サウスポーの山本の場合、1番ピンと2番ピンの間を3度から6度の角度で狙う。しかし、まっすぐに投げてこの角度をつくるためには、隣のレーンから投げなければならない……。そのために山本は、ボールをフックさせてこの進入角度をつくっている。
しかし、およそ18メートル先のピンを目がけて、3度から6度の角度になるようにボールを投げるのは、容易なことではない。板目2枚分でおよそ5センチ。立ち位置の微調整をしてもう一投。1投目も2投目もストライクをとったが、ふたつは全く質が違うと言うのである。
ピンの飛び方が違うという、ふたつのストライク。その差はいったい何処にあるのか? 検証してみる。
パーフェクトではないというストライクの1投目とパーフェクトストライク2投目のピンの倒れ方に注目してみる。パーフェクトストライクの場合、右側のピン一列をドミノの要領で押し倒し、あとは順次ボールがすべてのピンに絡んで確実に倒してゆく。ところが、1投目のストライクは、弾け飛んだ1番ピンが、ピンデッキの壁に跳ね返って偶然に10番ピンを倒していた。1番ピンは、常に10番ピンを倒すとは限らず、残ってしまう可能性もあった。
ボールの進入角度の微妙なズレが、ピンの倒れ方に大きく影響する。双方の10番ピンの倒れ方を見比べるとそれがよくわかる。この一瞬の差を山本は見極めていた。ボールを投げたあともボールがどう入り、ピンがどう倒れたか、つぶさに観察しているのである。
ボールの進入角度を微妙に調整し、予告通りに7番ピンを残した。この自在なコントロールの秘密は、山本独自の投球フォームにあるという。アマチュア時代の山本のコーチをつとめた矢野金太プロは、その投球法をこう見ている。肉体的に特に力が強いというわけではなく、どっちかというと小さい。でも身体の使い方が理にかなっている、と。
理に適っている身体の使い方とはどういうことか? その投球フォームの検証を矢野プロは次のように語る。
「頭の下からちゃんとボールが出ている。正確に狙ったところに通せる。肩幅との実際の目線とのずれを計算し考えながらやっていたのが、今は目線の真下からボールが出てくるので、そういう事を気にしなくていい。ものすごく理にかなっている動きを彼はしているんです……」
比較のため、同じサウスポーのトップアマである福岡秀春さんにも投球フォームを見せてもらった。どの教科書にも紹介されているお手本のような投球フォームである。リリースの時、肩が水平に保たれている。一方、山本は左肩を下げ、リリースされるボールと目の位置を合わせている。それによって、正面から正確にボールの軌跡を見極め進入角度を確認しているのである。続いて、横位置からの比較。バックスイングのトップのタイミングを合わせてみると、福岡さんが腕を降ろしはじめても、山本はまだトップの位置をキープしている。さらに、背を起している体勢の福岡さんと山本では、ボールをリリースするタイミングも位置も違ってくる。
このタイミングについて山本はどのように思っているのだろうか?
バックスウィングが一番高いところで、3秒間くらいとまっている様な意識があるという。投球する際に、出来るだけ身体が前にいって、ボールが来るのを待てる余裕が出来ている方が、いいボールが投げられるのだと語る。"ため"である。ボールが後から出てくれれば、余裕が出来るので、ボールに力を与える時間が増えるし、多少の修正が出来る。スウィングも一番高いところから下げてくるのに、次に、自分の力で下ろそうとすると、身体のバランスが崩れる。だから、出来るだけ重力の重さを使いながら、流れるようにボールを振らなければならない。ボールは意外と上にあるもので、自分からひっぱりたくなってしまうが、それをひっぱってしまうとタイミングがずれてしまうので、腕の力は使わないのだ。
そして、精密なボールコントロールの秘密は手首の使い方にも見て取れる。山本は、ボールに回転をかける時に手首をひねらず、指先で弾いている。手首を回すと腕の振りが安定せず、ボールコントロールの正確性が揺らぐ。まず親指をまっすぐに抜き、残りの指を抜く時に回転を加える。
正確無比なボールコントロールで高いストライク率を誇る山本独自の投球術。しかし、それならば何故いつもパーフェクトゲームにならないのかという疑問が浮かんでくる。それがボウリングの奥深さ。実はそこには、「見えない敵」が立ちはだかっていたのである!
レーン保護のために塗られているオイル。このオイルのために投げたボールは、時に意に反した転がり方をする。プレーヤーは、オイルの状態を読み、ボールコントロールにどんな影響が出るかを頭の中で計算しなければならない。
ボールは、左方向に回転しているにもかかわらず、オイルのために滑って回転とは別の正面方向に転がっていく。試しにオイルを敷いていないレーンで投球してみると、ボールは回転をかけた通りに大きく曲がる。次に通常通りにオイルが敷いてあるレーンでは、ボールはオイルの切れ目から急激に曲がる。ピンデッキの近くまでオイルが敷いてある場合は、ボールはギリギリまで直進してゆく。このように、オイルの状態はボールコントロールに多大な影響を及ぼすのである。
レーンのオイルは敵である。オイルと戦って、オイルに勝って初めていい点数が出る。他の選手に勝つ為には、レーンコンディションを読んでストライクを出さなければいけない。だからレーンのオイルが一番の敵でありライバルだと山本は語る。それに勝ってこそ、初めて頂点になれるのである……。
しかも、レーンのオイルの状態は、刻々と変化してゆく。ゲームが進めばオイルはボールに付着して先へと延ばされてゆくのである。つまり時間と共にボールが曲がり出すポイントが変わってしまう。
また、オイルの厚さもボールが投げられるたびに削られてゆくため、試合の1ゲーム目とラストゲームの時では、摩擦の度合いが全く変わってしまう。目には見えないこのオイルの状態を推理しそれを加味した上で投球をコントロールしてゆかなければならない。自分が投げたボールがどういうふうにオイルを変化させたかという目には見えないところに勝負のポイントが隠れている。それを洞察しきった者が、勝利を手にするのである。
試合中も山本は、相手の投球まですべてを見ている。ボールが狙ったコースを意図した角度で通過しているか? 18メートル先でピンは計算通りに倒れているか? それらのことを手がかりにレーンコンディションを読み合う勝負をしているのである。目には見えないオイルの状態を読み切り、ボールを的確にコントロールすることで、高いストライク率を上げているのである。
そしてもう一つ。読み通りのコースを狙うため、状況に応じてさまざまなボールを使い分けている。ボールによってはるかに曲がるポイントが違いゲーム中に使い分けるのである。
曲がり方にどのくらいの差があるのか比べて見せてもらった。スロープを使ってまっすぐに転がしてみてもピンにして一本半分の開きが出る。ボウリングのボールは、中心に入っているコアの種類や位置、角度を変えることによって、ボールの曲がり具合をコントロールできるようになっている。レーンコンディションに応じてボールを変えることで、微妙な変化に対応している。
山本が一試合で使うボールは通常6個ほど。多い時には8個も使い分けている。プロの中でも多い方だという。
昔はひとつのボールを使い、投げ方を変えて操る時代であった。しかし現在は、ボールを変えれば勝手に変化が加わる。逆にボールに頼って昔より技術が無いと思われているが、ボールの特性を読む力や、レーンコンディションが変化したときに対応できる力を優れて持っていないと勝てない!
山本は全部で50ほどの種類の違うボールを所持しており、それらはすべて自分で持ちやすい穴を開け、曲がり具合なども自ら調整している。そして、勤めているボウリング場では、すすんでレーンにオイルを塗る仕事を担当する。アマチュア時代からもう6年も続けてきた。オイルの質や量、塗る範囲の違いでレーンコンディションがどのように変わるのかを体の感覚で覚えようとしている。
山本は常日頃から見えない敵と闘うための真摯な努力を積み重ねている。そして、ボウリングに必要なすべての感覚を研ぎ澄ます努力を怠らない。それが期待の新星・山本勲を支えていた。
第二章・有頂天
「年間ポイントランキング第1位」の山本が昨年獲得した賞金総額は、およそ350万円。男子プロの賞金王でも490万円ほどである。プロは遠征費も道具代も自分持ちなので、普段は別の仕事を持たなければ生活できないのが現状だ。山本は、ボウリング場内のショップでボールの調整や販売の仕事をしている。その他、アマチュアの試合にゲストとして招かれるという仕事もある。純粋にボウリングを楽しむ人たちとのふれあいは、ボウリングに出逢った頃の初々しい気持を甦らせてくれる…。
はじめてボウリング場に行ったのは3歳の時。6歳になった頃にはマイボールを持っていた。ピンの倒れる音が何より好きな少年だった。実家は居酒屋で、夕方から深夜まで働きづめだった両親は、せめて休日だけは家族揃って出かけようと子供たちを連れてよく近所のボウリング場に行った。それが、山本の人生を決めてしまった。
普段は至ってマイペースな少年だったが、ことボウリングに関しては、徹底した負けず嫌い。最初のライバルは、若い頃プロボウラーを目指したという、父だった。いつも一緒に投げていたという。
その頃のホームビデオが残っている。投球フォームは、今の片鱗をのぞかせている。みるみるうちに上達していった山本少年は、中学生になるとプロに就いて本格的な練習をするようになる。ジュニアの大会に出場すれば常に好成績。この頃から彼の胸にひとつの野望が芽生えた。
『中学を卒業したらプロテストを受けよう。そして、日本一のプロボウラーになる!』
その時、山本の才能に注目した県立高校が現われた。彼のためにボウリング部を新設し、是非来て欲しいという。光栄に感じた山本は、その誘いを受けた。すると翌年には、彼を慕って入学希望者が殺到。山本はここを全国でも有数のボウリング強豪校へと導いた。そして17歳にして全日本代表に選ばれ、ナショナルチームの一員となった。
当時、山本は有頂天だった。ボウリングでは負ける気がしない。ナショナルチームの日の丸をつけた高校生は、優勝することが当たり前に思えた……。ところが、高校生活最後の国体に出場した山本に悪夢が襲った。まさかの予選落ちをしたのだった。
生まれてはじめて味わう挫折。一番自信を持っていたボウリングでつまずいてしまったのだ。
この時はじめて、ボウリングというスポーツの怖さを思い知った。驕っていた心を入れ替え、無心になってボールを投げてみた。もう一度はじめからやり直すつもりで。はじめて重いボールを持った時の感触を思い出す……。はじめてボールを投げた時の感動を思い出す。ボールを正確に投げることの難しさ、ストライクを一つ取ることの奥深さ、山本のボウリング観は大きく変わった。
……すると、霧が晴れるように目の前がひらけた。ボウリングに対して真摯になった山本は、その後、めざましい活躍をはじめる。2002年の釜山アジア大会では、ナショナルチームを団体金メダルへといざなう牽引役となった。はじめて経験した挫折を無駄にしなかった。ひと回り大きく、そして正確なボウリングを手にしたのである。
第三章・経験
2006年度公式トーナメント開幕戦を控えて、プロ2年目のシーズンを迎える準備に余念がない。
挑戦者だった去年に比べて、ランキング1位ではじまる今年は、はるかにプレッシャーが大きいのである。大会の会場は大阪――全国から300名のプロとトップアマが参加して優勝を目指す。ボウリングのプロは息が長い。キャリア20年、30年という現役選手がゾロゾロといる。経験がものを言うところのあるスポーツなのである。
山本が、このボウリング場に来るのは今回が初めて。1年前の今ごろはまだアマチュアだった。前日に行われた予選は突破して、準決勝進出を決めていた。現在13位。
山本が苦心したのは、このレーンである。ここは古くからの木で出来たレーンを使っている。現在、おおかたのボウリング場のレーンは、合成樹脂で出来ており、山本は木製レーンの経験が少ない。木のレーンはオイルの状態が変化しやすく、一列ごとに全く違う癖を持っている。山本にとってはとても厄介だった。どんな状況が訪れるか判らない。ボールを8個用意して、対応するつもりだ。試合前の15分間、レーンコンディションを読むため、試しにボールを投げることが出来る。木製レーンは、長年の変化で表面がデコボコしており、とても読みづらい……。
どう計算すればいいのか迷っているうちに試合の時間になった。木製レーンの経験豊かな地元選手と先輩たちを相手に決勝進出できる12位以内を目指す。ここから、一投一投、手探りである。
出足は順調だった。スペアは不可能に近いといわれるスプリット。正確に狙ってみると、なんと成功した! ワンゲーム終わって順位を一つあげた。試合は、ワンゲームごとにレーンを移動する。今度は練習ナシ。ぶっつけ本番でレーンコンディションを読む。他の選手の投球をしっかりと見て、このレーンの攻略法を考えたが、結果は7番ピンが残った。計算通りにボールが曲がらない。ボールを変えてみてもどうしても7番ピンが残ってしまいレーンの変化が読めない。苦戦がつづき、このゲームで決勝進出圏内から漏れてしまった。結局、最終ゲームまでレーンを攻略することが出来ず、開幕戦は決勝に残ることが出来なかった。プロ2年目、最初の試合は15位に終わった。優勝したのは47歳のプロ22年目のベテランだった。
20年間、必ず、1位でなくとも上位に入っている選手は沢山いる。そういう選手たちから見れば山本はまだ1年目。ただそれは2005年度であって、2006年はまだ分からない……。
山本勲。今、ボウリングの迷宮をゆく、長い旅路を歩みはじめた――。 |
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