元品の無明   元品の法性



他・ブログコメント欄で、「元品の無明」と「元品の法性」について質問があり、
一度投稿したのであるば、管理者の操作ミスで、投稿コメントが消失したとのことで
その時の投稿内容は保存はしておかなかったので

新たに、作成し直し、

いろいろ、大白蓮華、書籍・法華経の智慧、その他、折々の聖教新聞にも
随時掲載されているのであるが、
1972年初版・書籍・現代文明と宗教(著者・池田大作)
から、抜粋してみます(218P~221P)

又、その際の他の質問
「これは、〇〇さんが闘うという意味ですか?」に対しては
〇〇さんはじめ、広宣流布の誓願に、{一人立つ}{勇者である}{地湧の菩薩}・全員共通です、ということです。



--------------------抜粋始まり--------------------------------


魔の本質について、日蓮大聖人は生命論の上から

「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」
治病大小権実違目997P

と示されている。


結局、梵天・帝釈といい、第六天の魔王といっても、全て生命に内在する働きで
あるとの仰せです。

生命には、何ものにもかえがたい、美しい輝きと力強いリズムを持った一面(法性)



愚かで、悲惨な方向へ向かう一面(無明)が、あります。

魔とはこの後者のあらわれであり、いわば生命の偏向のことなのです。

この魔の働きは個人の生命に内在するのと同じく、
大宇宙の生命にも厳然と内在し、人間の世界をおおっているのです。

この生命に内在する魔の実体を明らかにし、
さらに、それを乗り越えた仏の生命を発見したところに
仏法の偉大さがあるといえるのです。

魔の生命作用にうちかつものは、仏の生命しかない。

生命に内在するものの克服は、同じく生命に内在する、より本源的な力の湧現しか
ないからです。

広宣流布のたたかいは、人類を魔の支配のままにゆだねるか、
それともそれを克服して、人類の英知が支配する社会を建設するかという
かってなき戦いです。

しかし、魔とは、生命に本然的に内在する傾向であるが故に、
広宣流布の時にも、それが消えてなくなるとか、
その本質が変化するとかいうものではありません。

広宣流布の時とは、魔の支配に替わって、人間の英知がその魔をも支配した世界が
現出する時です。
このことは、御本尊の中に、厳然と第六天の魔王が認められていることなどから
さらに深く思索していただきたい。

仏の生命の顕現なき所には、生命の魔性は横暴の限りを尽くすのみでありましょう。
しかし、ひとたび仏界の顕現があるや、本来、不幸へと働くべき作用も
幸福へと動き働いてしまうのです。

魔はそのまま、反価値から、正価値へと転ずるのです。

魔という生命の内なる悪作用さえも、仏法は生かしていくのです。

ここに仏法の深さがあるといえよう。

キリスト教などでは、魔を人格とみて、魔女裁判などが行われましたが、
仏法では、魔を人間の本性とみるのです。

しかもこれを生かすところに、仏法の寛容さと、力強さがあるのです。

---------------------抜粋終わり-----------------------------------


元品(がんぽん)とは、根源の、ということです。


参考・・・

一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり・・・・・御書725P

此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり・・・・

御書751P


このように、「信」こそが、最重要とのご指導ですね。





# by f2bmag8w | 2013-10-23 11:41 | Comments(1) 

勝つとは、自分自身に勝つこと

一見、静かに見守っているらしき方でも、信心の核心をつく素晴らしい記事を
書いておられる。


http://ameblo.jp/kurenainosisya/entry-11634188108.html
創価三代の誉れ

こちらは既に前回、前々回の記事でも書いておいた。



http://ameblo.jp/kingdog136/
明るい未来へ弟子として生きる

>所詮は御本尊を信じるか信じないかに一切が決定される。
大聖人は「譬喩品の十四誹謗も不信を以て体と為せり」(念仏無間地獄97抄頁)と仰せである。

実は、ものすごく重要なことをサラリと書いて下さっている。
気がつくか、つかないかなのだが、


これらの優良記事で、伝えようとしていることは
自分自身の「元品の無明」を退治し「元品の法性」を顕現すること   だけ・・・

自分の無明に「勝つ」のか「勝てない」のかだけ・・・・・

究極的には、自分対御本尊・・・

他者は関係無い・・・・

他者と縁して自分の内に有る「因」により「結果」「報い」が出てくる。
だから、内道・・

他者はあくまで「縁」でしかない、
「因」は、どこまでいっても自分の「内」に有った・・と、悟れるのか(法性)

いつまでも、自分の不幸は、他者のせいと、思い続けるのか(無明)

相手では、ない、自分に勝てるかどうか




10月22日追記

http://8119.teacup.com/hatakoh/bbs/t6/175
彼に理解させることは不可能

>つまり、彼自身に悟らせようとすることは困難であり・・・

これは、一人の人間の尊厳なる仏界の生命の「否定」であり、
まさしく、この文を書いた人間が、自他共の仏界の生命を確信できない無明を自ら晒したにすぎない、
従ってこのような主張に、一喜一憂することは愚かである。
この時こそ、かねてから、紹介もしていた精神科医 於保 哲外 先生の
海の文化と村の文化である。
長いけど、最初から最後まで一読、いや何度でも精読して欲しい。
とりわけハイライト的な部分を抜粋しておく。

http://hokuto-sgi.seesaa.net/article/132904645.htm
l
>したがって、自分のことを100点と信じない人は、謗法不信の人になるんですね。



周囲の人間が離れるとか、離れないとかは関係無い。
指摘された当事者が、自分自身の仏界の生命を確信しきれれば
あえて、先ほどの主張に、むきになって反論する必要は無い。
他者から認めてもらえないと、自分の仏界の生命を確信できないのか?
むしろ、けなされて、罪障消滅できると喜んでいけるようになれば
宿命転換である。

# by f2bmag8w | 2013-10-21 22:36 | Comments(0) 

あの記事、そんなに悪かったの? ねぇ、教えてよ。

10月22日朝 7:30 追記

あの記事は間違えていなかった・・というご自分の確信があるのであれば
第3者の評価など、問題にする必要の無いこと。
関心を持っている人全ての第3者の「同意」が無いと確信が揺らぐようであれば
なんのために世界最高いや宇宙唯一最高の宗教を実践しているのか意味が無い。

それから、ウソの証明し合い、これは司法の場では必要かもしれないが

http://ameblo.jp/kurenainosisya/entry-11634188108.html

>正しくても怨嫉した方が罰を受ける。させた方ではなく、した方に罰が出る。
>そう御書に書いてある。
>「それが本当でも嘘でも」と書いてある。
>怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。
>相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。
>人が裁くのではない。
>法が裁く。

>相手の成長を祈ってあげること。
>そうすれば自分も相手も良くなる。



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注意・・・質問のご本人には知らせてありますので、
質問に答える形で、ここしか、発言する場所がありませんので。


悪いとか、悪くないとか、よりも、
以前にも、そちらのコメント欄で書いたように

獅子王の生命力のある人間にとっては「屁でもない」

もっとも、獅子王の生命力のある人は、そもそもアンチ久遠某に
突っ込まれるような記事は書かない、
そうなると、この前提は成立しないのであるが、

要するに、八風に左右されない人は、つまり、罵り、哀れみ、蔑み等に
負けない生命力のある人にとっては、どうということはない。

当然、少なくとも創価学会員であり先生を師匠として、広宣流布の誓願に生きる者は
八風にびくともしない、左右されない自分自身になっていかなければならない。

そこで、今回の具体的な件であるが、

本人は、不愉快だったと言っている以上、不愉快なわけで
悪いとか悪くないとか、あるいは、執筆者に落ち度があるとか無いとかの
次元ではない、

更に言えば、最初に「売られた喧嘩」云々記事には、過去の
不満が書いてあったわけで、
いっそのこと、「アンタは、これこれの理由で、気に食わないよ、前から思っていたけど
今度の記事でダメ押しだよ」と、ストレートに書けば、そして、なまじ「慈悲」で
書いているのだなんて(結果的には、絵空事)言わなければ、ここまで
拗れなかったと思う。

が、しかし、私なら、あのような記事は書かない、(例の記事)

もし書くとすれば、
自分は、働かなくては食えないにも関わらず、仕事そのものが無く
どん底を味わった経験がある。
あなたは、今回、誰かの発言でかなり怒っておられるようであるが
怒れるだけ余裕があるよ、
怒ることすら許されない極限状態で僕は、生きるか死ぬかの状況だったよ、
わかってくれというのは、無理かな、でも、理解してくれるとありがたいよ
せいぜいこの程度でしょうか。

長文になるようであれば、記事にしてから、
今回の件で、感想を書いておいたよ、と、相手コメント欄に告知した
方が誠実であると私は思う、

今回のこの記事も先方さんに知らせてある、
もっとも、この記事は、先方さんが、自分ブログで、広く皆さんに問いかけたことで
あるから、応えるのは、親切の部類としてよいのかな?

でも、悪いのか、との問には、白黒ハッキリ応えていないわけだから
何の役にも立たないということかな。


その後の、お互いの「応酬」は、数量化はできない。

ただ、どちらかといえば、「慈悲」から始めたといいながら
その後の展開は、慈悲(大聖人の大難に耐える慈悲)とは桁違いの
ほど遠い本質がいみじくもあらわになったという点が、特筆すべきことかと思う。
ついでにいえば、「内道」を強調しておられるわりには、ご自分は
過去の辛い体験を引きずっているのは、「内道」の本来あるべき姿ではないということを
気づいていないという点も、残念であった。
私は、これらの点を、注視していた・・・・希望(大河)



10月21日 PM9時追記



>またこうした繰り返しか・・・

>心が晴れる日はまだ遠いな。

前の記事でも書いたが
創価三代の誉れ   http://ameblo.jp/kurenainosisya

>信心は良いか悪いかではない。良くなるかどうか。仏法は勝負。良くなるように祈ればいい。そうすれぱ解決する。いくら「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っても、愚痴と文句だから開けない。功徳を受けたい人は愚痴と文句をやめること。  抜粋

↑これしか、「解決法」は無いと、ほぼ断言できます。
できれば、全文読んで欲しいです。


念の為に・・・・
この文はあくまで、一方の当事者の方の「あの記事、そんなに悪かったの? ねぇ、教えてよ。」
対して、書いたものである。
質問の当事者以外の方の意見は、関係無いはずですが、それでも、疑問点が
ある方は、コメント欄にお願いします。

# by f2bmag8w | 2013-10-21 12:09 | Comments(0) 

希望の哲学

希望の哲学を綴っていきます。

随時、追記いたします・・・・希望

10月10日追記・・・

さあ、実証を、自身の人生において
広宣流布の拡大において、
自身の勝利で、総本部完成を荘厳しよう

徹して祈ろう、あの人にもこの人にも
胸中の尊極の生命に届けとばかり

元品の無明に執着している全ての人の胸中の仏の生命を
開く善縁となるべく徹して祈ろう



10月12日追記
本部幹部会  
地域に信頼を
10人の本当の友人を

今、さまざまなことで悩み苦しんでいる同志よ、
広宣流布を全ての基準に
地湧の菩薩の誓願を
創価学会を守り発展させていく
人類のために
自分の小さな自我を大我に


10月14日追記

創価カテから他へ移動したのだけど、

http://ameblo.jp/kurenainosisya

信心は良いか悪いかではない。
良くなるかどうか。
仏法は勝負。
良くなるように祈ればいい。
そうすれぱ解決する。
いくら「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っても、愚痴と文句だから開けない。

功徳を受けたい人は愚痴と文句をやめること。
同志に怨嫉をすると功徳はマイナスになる。
罰になる。
怨嫉は謗法だから困ったことに、相手が間違っていても同志だと怨嫉になる。
「私が正しい!」「相手が間違っている!」と言っていることが結構ある。
これを『正しい怨嫉』と言う。

 正しくても怨嫉した方が罰を受ける。
させた方ではなく、した方に罰が出る。
そう御書に書いてある。
「それが本当でも嘘でも」と書いてある。
怨嫉する理由が何であっても、同志であれば功徳はマイナスになって出てくる。
相手が間違っていれば、相手は因果の理法で裁かれる。
人が裁くのではない。
法が裁く。

相手の成長を祈ってあげること。

そうすれば自分も相手も良くなる。

「幹部のくせに」と言わないこと。
変な幹部もいるが、成長を祈ってあげること。
「幹部のくせに」と言ったら怨嫉になる。

 正しくても怨嫉になってしまう。
成長を祈ってあげれば相手は変わらなくても自分は良くなる。 (略)

具体的に強く祈ること。
そうすれば叶う。
それ以外は叶わない。

唱題のための唱題もつまらない。
先生は「疑いや形式であれば、たとえ100万遍あげても境涯が開けるものではない。
自分自身の発心で、目標を決めて唱題すれば必ず開けるのである。
義務的・形式的な勤行・唱題、それは惰性のあらわれであり、空転を生むだけである。

きちんと一念を定めて祈らなければだめだよ。」と言われている。
こうなりたい、こうしたいと祈ればよい。
信心は心ですること。
頭でするのではない。
心を、素直にぶつけることを祈りという。
できるかどうかではなく、「こうなりたい!」と祈ればいい。
必ずそうなる。信心は簡単です。

温室育ちの「怨嫉居士」はぜひ「松野殿ご返事」の再読を!

ーーーーーーー転載ここまでーーーーーーーーーーーーー

ネットに感謝で、この指導は知ってはいたが、
今回ほど、タイムリーなことは、無い。
御礼のコメントを入れようとしたが、なんか面倒くさそう。
アメーバ会員にならないとコメントできないらしい・・・・希望


10月19日
とにかく、「言い返す」という気質なのか
苦手だな、そういうタイプ、
右の耳から左の耳に、スルーするしかないよな、
まともに、取り合ったら疲れるだけ・・・(ため息)

「許す」ということは、困難だとは承知している。
しかし、大願に生きると、それが、できるのだな……………希望



10月20日追記
婦人部はとかく多いのだと思うけど、

A・・・・こうで、ああで、私は絶対に間違えていない、それにも関わらずBはこうで、ああで、
    あまりにも酷すぎる。

B・・・・こうで、ああで、私は絶対に間違えていない、それにも関わらずAはこうで、ああで、
    あまりにも酷すぎる。

AもBも、成長させてあげたいと思っている立場の人からすれば
ともかく双方の成長をひたすら祈るしかない。
その思い、痛いほど今ならわかる。

それにしても、本日付の聖教新聞の5人の男子部、いずれもここ数年の
入会、折伏の連鎖のご紹介だけど、自分の人生を勝利したいとの
素直な意気込みが爽やかだ。
彼等とて、今後もたくさん難はあるだろう、
乗り越え、乗り越え、そして、どうしようもない大難の時こそ
師匠と同じく「大願」に生きるしか乗り越えることは不可能と更に成長するだろう。

これこそ、希望の哲学だ。
高邁な理論を振りかざすのでなく、一人の勝利の姿・・
これこそが、希望の哲学の真実だ。






# by f2bmag8w | 2013-10-08 09:22 | Comments(1) 

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