元品の無明 元品の法性
2013年 10月 23日
他・ブログコメント欄で、「元品の無明」と「元品の法性」について質問があり、
一度投稿したのであるば、管理者の操作ミスで、投稿コメントが消失したとのことで
その時の投稿内容は保存はしておかなかったので
新たに、作成し直し、
いろいろ、大白蓮華、書籍・法華経の智慧、その他、折々の聖教新聞にも
随時掲載されているのであるが、
1972年初版・書籍・現代文明と宗教(著者・池田大作)
から、抜粋してみます(218P~221P)
又、その際の他の質問
「これは、〇〇さんが闘うという意味ですか?」に対しては
〇〇さんはじめ、広宣流布の誓願に、{一人立つ}{勇者である}{地湧の菩薩}・全員共通です、ということです。
--------------------抜粋始まり--------------------------------
魔の本質について、日蓮大聖人は生命論の上から
「元品の法性は梵天・帝釈等と顕われ元品の無明は第六天の魔王と顕われたり」
治病大小権実違目997P
と示されている。
結局、梵天・帝釈といい、第六天の魔王といっても、全て生命に内在する働きで
あるとの仰せです。
生命には、何ものにもかえがたい、美しい輝きと力強いリズムを持った一面(法性)
と
愚かで、悲惨な方向へ向かう一面(無明)が、あります。
魔とはこの後者のあらわれであり、いわば生命の偏向のことなのです。
この魔の働きは個人の生命に内在するのと同じく、
大宇宙の生命にも厳然と内在し、人間の世界をおおっているのです。
この生命に内在する魔の実体を明らかにし、
さらに、それを乗り越えた仏の生命を発見したところに
仏法の偉大さがあるといえるのです。
魔の生命作用にうちかつものは、仏の生命しかない。
生命に内在するものの克服は、同じく生命に内在する、より本源的な力の湧現しか
ないからです。
広宣流布のたたかいは、人類を魔の支配のままにゆだねるか、
それともそれを克服して、人類の英知が支配する社会を建設するかという
かってなき戦いです。
しかし、魔とは、生命に本然的に内在する傾向であるが故に、
広宣流布の時にも、それが消えてなくなるとか、
その本質が変化するとかいうものではありません。
広宣流布の時とは、魔の支配に替わって、人間の英知がその魔をも支配した世界が
現出する時です。
このことは、御本尊の中に、厳然と第六天の魔王が認められていることなどから
さらに深く思索していただきたい。
仏の生命の顕現なき所には、生命の魔性は横暴の限りを尽くすのみでありましょう。
しかし、ひとたび仏界の顕現があるや、本来、不幸へと働くべき作用も
幸福へと動き働いてしまうのです。
魔はそのまま、反価値から、正価値へと転ずるのです。
魔という生命の内なる悪作用さえも、仏法は生かしていくのです。
ここに仏法の深さがあるといえよう。
キリスト教などでは、魔を人格とみて、魔女裁判などが行われましたが、
仏法では、魔を人間の本性とみるのです。
しかもこれを生かすところに、仏法の寛容さと、力強さがあるのです。
---------------------抜粋終わり-----------------------------------
元品(がんぽん)とは、根源の、ということです。
参考・・・
一念三千も信の一字より起り三世の諸仏の成道も信の一字より起るなり、此の信の字元品の無明を切る利剣なり・・・・・御書725P
此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり・・・・
御書751P
このように、「信」こそが、最重要とのご指導ですね。
# by f2bmag8w | 2013-10-23 11:41 | Comments(1)